P・P・アーノルド

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P.P.アーノルド
P. P. Arnold
P.P.アーノルド(2007年)
基本情報
出生名 Patricia Ann Cole
別名 Pat Arnold
生誕 (1946-10-03) 1946年10月3日(77歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
ジャンル ロックブルースソウルブルースロックゴスペル
職業 歌手
担当楽器 ボーカル
活動期間 1965年 -
レーベル Phi-Dan、イミディエイト
公式サイト ritareys.eu
P.P.アーノルド(1967年)
オランダのテレビ番組でパフォーマンスするP.P.アーノルド(1968年)

P・P・アーノルド[1]P・P・Arnold1946年10月3日 - )[2]は、パット・アーノルドとしても知られるアメリカソウル・シンガー。アーノルドは、1965年にアイク&ティナ・ターナー・レビューのバック・コーラス・グループ、アイケッツのメンバーとしてキャリアをスタートした。翌年、彼女はソロ・キャリアを追求するためにロンドンへと移住。シングル「The First Cut Is the Deepest」(1967年)と「Angel of the Morning」(1968年)によりイギリスで大きな成功を収めた。

生い立ち[編集]

アーノルドはゴスペル歌手の家庭に生まれ、4歳で初めてボーカル・ソリストとしてパフォーマンスした。彼女の家族はロサンゼルス近郊のアフリカ系アメリカ人街であるワッツ地区に住んでいた[3]。彼女は早くに結婚し、ケヴィンとデビーという2人の子供を持った。アーノルドは2つの仕事を掛け持ち、1つはオフィスで、もう1つは食品製造で働いていた。

キャリア[編集]

1960年代[編集]

アーノルドは、1964年からのティナ・ターナーとの友情が、彼女の歌手としてのキャリアを最終的に成功させるきっかけとなり、また彼女の指導者としての役割を果たしてくれたと確信している。2023年12月のBBC Twoにおけるジュールズ・ホランドとの会話のなかで、彼女はターナーが亡くなったことについて想いを語った[4]。1965年、兄の元ガールフレンドであるマキシン・スミスからオファーの連絡があった。スミスと彼女の友人グロリア・スコットは、アイク&ティナ・ターナー・レビューでバック・ボーカルとダンスを担当していたダンサー兼歌手の集団であるオリジナルのアイケッツの後任となる3人を決めるオーディションに誘った[5]。スミスはアーノルドが歌手になりたがっていることを知っていたため、オーディションに参加するよう勧めたのだった。3人の若い女性たちはその場でその仕事を打診され、スミスが最終決定をする前に、その夜のフレズノでのコンサートに参加するようアーノルドを説得した。翌朝6時に彼女が帰宅すると、激怒したアーノルドの夫が彼女を殴った。彼女はすぐに彼と別れ、子供たちを両親に預けた後、アイク&ティナ・ターナー・レビューに参加することにした[3][6]

アーノルドはアイケッツとして、フィル・スペクターのファイ=ダン・レコードにおいて、ブレンダ・ホロウェイとパトリス・ホロウェイをバックに、1966年のシングル「What'cha Gonna Do (When I Leave You)」でリード・ボーカルを歌った。また、アーノルドはアルバム『リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ』収録のアイク・ターナーがプロデュースした楽曲でバック・ボーカルを歌った[7]。彼女は、1966年のコンサート映画『The Big T.N.T. Show』にも出演した。アーノルドはローリング・ストーンズとのイギリス・ツアーの後、1966年秋にアイク&ティナ・ターナー・レビューを脱退した。彼女はミック・ジャガーの励ましを受けて、ソロのキャリアを確立するためロンドンにそのまま残ることにした。アーノルドは、アメリカとイギリスでの自分の扱いの違いを指摘し、「白人の環境でアメリカに一人でいる若い黒人女性は、イギリスにいたときのようには扱われなかっただろう」と語った[3]。ジャガーとの友情は、ローリング・ストーンズのマネージャー、アンドリュー・ルーグ・オールダムが設立したレーベルであるイミディエイト・レコードとソロ契約を結ぶのに役立った[8]

アーノルドは、ポール・コルダが彼女のために書いた「The Time Has Come」などの楽曲で、イミディエイト・レコードにおけるイギリスでの大ヒット曲の数々を楽しみ、ソロ・アルバム『ファースト・レディ・オブ・イミディエイト』をリリースした[9]。また、レーベルメイトのスモール・フェイセスからスティーヴ・マリオットロニー・レーンが書いた曲も録音しており、スモール・フェイセスはいくつかのレコーディングで彼女をサポートした。アーノルドは1967年にマリオットと短期間、ロマンチックな関係を築いた[10]。彼女は1967年から1968年にかけてスモール・フェイセスとツアーを行い、何度か彼らとテレビ出演し、彼らの最大のヒット曲「イチクー・パーク」と「ティン・ソルジャー」の2曲でバック・ボーカリストとしてフィーチャーされた。1968年に彼女は野心的なソロ・アルバム『カフンタ』をリリースした。このアルバムにはジョン・ポール・ジョーンズによるオーケストラ・アレンジが施され、自作曲と、「朝の天使」や「エリナー・リグビー」などのカバーが収録されている[11]。この時期、他にクレジットされた作品としては、シングル「Come Home Baby」(イミディエイト・レコードのミック・ジャガーがプロデュース、ギターにロン・ウッド、ベースにキース・リチャーズ、エレクトリック・ピアノにニッキー・ホプキンス、ハモンドオルガンにキース・エマーソン、そしてジョージィ・フェイムのブラス・セクションが参加)におけるロッド・スチュワートとのデュエットがあり、同様にモータウンのスタンダード「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」のクリス・ファーロウによるバージョン(ギターはアルバート・リー、ドラムはカール・パーマー)がある。

彼女の最初のバック・バンドであるザ・ブルー・ジェイズは、アメリカのソウル・シンガー、ロニー・ジョーンズから引き継がれており、元ブルースブレイカーズのギタリスト、ロジャー・ディーンも在籍していた。これに続くザ・ナイスは、VIPs(後のスプーキー・トゥースとして知られる)を辞めたばかりだったオルガンのキース・エマーソン、ギターのデヴィッド・オリスト、ベースのリー・ジャクソン、そしてドラムのイアン・ヘイグというラインナップであった。この期間中に彼女は、キャット・スティーヴンスの曲「ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト」のオリジナル・バージョン[6]や「朝の天使」に加え、マリオット&レーンによる楽曲「(If You Think You're) Groovy」などを含むいくつかのヒット曲を生み出した[12]

1960年代後半のイミディエイト・レコードの崩壊後、アーノルドはロバート・スティグウッド・オーガニゼーションとプロダクション契約を結び、バリー・ギブのプロデュースでポリドール・レーベルから2枚のシングルをリリースしたが、ギブと計画していたアルバムが完成することはなかった[2]。1969年から1970年にかけて、彼女はギブ自身がプロデュースした11曲をレコーディングしたが、そのうちリリースされたのは「Bury Me Down By the River」と「Give a Hand, Take a Hand」の2曲だけだった。1970年2月、彼女はギブのデビュー・ソロ・アルバム『The Kid's No Good』(未リリース)に収録される予定だった曲「Born」でハーモニー・ボーカルを歌った[13]

1970年代[編集]

1970年、アーノルドはミュージカルの舞台へと転向し、ロック・ミュージカル『Catch My Soul』でP.J.プロビーと共演した。その後、彼女はアシュトン・ガードナー・アンド・ダイクの将来のメンバーに加え、間もなくしてイエスに加わるスティーヴ・ハウを含む新しいバック・バンドを結成した。この期間中、彼女はスティーヴ・マリオットとの関係を新たにし、彼の新しいバンド、ハンブル・パイ(アルバム『ロック・オン』)のレコーディングとツアーに参加したほか、1970年のロック・ミュージカルのオリジナル・アルバム『ジーザス・クライスト・スーパースター』、ニック・ドレイクの「Poor Boy」、そしてドクター・ジョングラハム・ナッシュゲイリー・ライトマナサスネクタージミー・ウィザースプーンニルス・ロフグレンエリック・バードンによるレコーディングを含む、イギリスとアメリカの数多くの著名な作品にセッション・ミュージシャンとしてバック・ボーカルで貢献した[14]。彼女はエリック・クラプトンと一緒にツアーを行い、クラプトンは彼女と一緒に多くの未発表セッションをプロデュースした。これらのセッションの中で、彼女はクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのアメリカ人ベーシスト、ファジー・サミュエルと出会い、その後、ロマンチックな関係となって、息子のコッゾが生まれた[3]。1974年、彼女はフレディ・キングのアルバム『バーグラー』で歌った[15]。1970年代半ばの急速に変化するイギリス音楽シーンに場違いを感じたアーノルドとサミュエルは、故郷のロサンゼルスへと戻った。そこで暮らす間、アーノルドとサミュエルの関係は終わりを告げた。破局からわずか2週間後、娘のデビーが交通事故で亡くなった。娘の死後、アーノルドはしばらく公の場から身を引き、1978年まで再びシーンに登場することはなかった。この時、彼女のために未完成のソロ・アルバムを完成させたいと考えていたバリー・ギブと再会。この出会いにより、アーノルドはこれらの録音を2017年になってアルバム『The Turning Tide』としてリリースすることができた[16]

1980年代-1990年代[編集]

1981年にアーノルドはアメリカに戻り、ハリウッドへと移ったが、翌年には幼い息子をイングランドで育てるためイギリスに戻った。彼女はイギリスを代表するレゲエ・バンド、スティール・パルスと活動を始め、1983年にイギリスのエレクトロ・ポップ・グループ、ケイン・ギャングと録音してヒットしたザ・ステイプル・シンガーズによる「Respect Yourself」のカバー・バージョンで、イギリスとオーストラリアの両国でチャートに返り咲き、全英21位、オーストラリアでは19位に達した。

1984年、彼女はミュージカル『スターライトエクスプレス』のベル・ザ・スリーピング・カー(寝台車)役で舞台に戻り、その後、ボーイ・ジョージを含む数多くのイギリスの著名なアーティストと共演したほか、数作の映画のサウンドトラックにも携わった。ビリー・オーシャンとのツアーを始める数週間前、彼女は交通事故で足に重傷を負った。最初は松葉杖をつきながらオーシャンのツアーに引き続き同行したが、最終的にはこの怪我のため10週間後にツアーから離脱せざるを得なくなった。レコード契約がなく、ライブで演奏することもできず、アーノルドは広告ジングルのセッションを行うことで生き延びた。1986年に彼女はロック・シーンに戻り、ピーター・ガブリエルの世界的ヒット曲「スレッジハンマー」のバック・ボーカリストとして注目を集めた。続いて、ビートマスターズとのレトロ・スタイルなアシッド・ハウスのヒット曲「Burn It Up」(アルバム『Anyyawanna』収録)でのコラボレーションが成功し、1988年10月にイギリスで14位に達し、全英シングルチャートに10週間以上ランクインした彼女の3番目のヒット曲となった[12]。1980年代後半から1990年代にかけて、アーノルドはセッション・ボーカリストとして活発なキャリアを再開し、この時期の彼女のクレジットには、The KLF (「What Time Is Love?」「3 A.M Eternal」)、ニーナ・ハーゲンロジャー・ウォーターズ (アルバム『死滅遊戯』)、グレアム・パーカーなどがある。1989年、彼女は旧友のスティーヴ・マリオットと再会し、彼のソロ・アルバム『30セカンズ・トゥ・ミッドナイト』を共にレコーディングしたが、これが2人の最後のコラボレーションとなった。マリオットは1991年に住宅火災で亡くなっている。その後、彼女は1992年にイギリスのハードコア・グループ、ALTERN 8のシングル「E-Vapor-8」で共演し、そのビデオにも登場した。

1994年、彼女は受賞歴のあるミュージカル『アイランド』で美しき愛の女神エルズリー役として参加した。この作品がバーミンガムで上演されている間に、イギリスを代表するバンド、オーシャン・カラー・シーンと出会った。オーシャン・カラー・シーンは、(彼らの師であるポール・ウェラーと同様に)スモール・フェイセスを崇拝している後期モッズ・グループにおけるニュー・ウェイヴの一つだった[2]。1995年、アーノルドはプライマル・スクリームと共演して、さまざまなアーティストによるスモール・フェイセスのトリビュート・アルバム『ロング・アゴウズ・アンド・ワールズ・アパート』のオープニング曲であるスモール・フェイセスの歌「Understanding」の激しいカバー・バージョンをレコーディングした。アーノルドは後に緊密な友情を築くことになるオーシャン・カラー・シーンとの出会いを受けて、全英アルバムチャートで1位を獲得した1997年のアルバム『マーチング・オールレディ』に参加。シングル「Travellers Tune」にバック・ボーカルを提供し、1998年のシングル「It's a Beautiful Thing」ではサイモン・ファウラーとデュエット・リード・ボーカルを担当した。

2000年代[編集]

アーノルドは、イアン・デューリー・アンド・ザ・ブロックヘッズの元ピアニストであるチャズ・ジャンケルと共演した。これに続いて、ロジャー・ウォーターズとの広範囲にわたるツアーへの招聘が続いた。彼女は1999年から2002年のツアー「イン・ザ・フレッシュ」(同名のCDとDVDにも収録)と、2006年から2008年のツアー「ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・ライブ」でバック・ボーカリストを務めた。彼女のバージョンの「The First Cut Is the Deepest」は、2012年の映画『セブン・サイコパス』のサウンドトラックに収録された[17]

2001年、アーノルドはイミディエイト・レコード時代の完全なディスコグラフィが収録されたアルバム『The First Cut (The Immediate Anthology)』をリリースした。これには、シングル数曲に加えて、彼女の有名なアルバム『ファースト・レディ・オブ・イミディエイト』と『カフンタ』が含まれている。パーティーでの偶然の出会いが、ブロウ・モンキーズのフロントマンであるドクター・ロバートとの2007年のアルバム『Five in the Afternoon』への参加につながった。2009年、彼女はジーノ・ワシントンとジミー・ジェームスとともにフライング・ミュージックの「ディス・イズ・ソウル・ツアー」でイギリスをツアーし、それ以来、一人でイギリス中をツアーしている。2012年、彼女はマディ・プライヤージェリー・ドナヒューデイヴ・スウォーブリックティア・ギルモアとともにイギリス・ツアーを行った。2013年、アーノルドはイギリスのソングライターで、ジングル・ライター、映画やテレビの音楽作曲家であるデヴィッド・ミンデルとのプロジェクト「ザ・バンド・オブ・シスターズ」に参加した。アーノルド、ミム・グレイ、テッサ・ナイルズ、リンダ・ヘイズ、スティーヴィー・ランジ、マンディ・ベルを結集させた『イシューズ』というアルバム。2015年、アーノルドは南アフリカのケープタウンで初のソロ・ツアーに乗り出した。アーノルドはその後、ウォータールーのヴォールト劇場で上演されたスモール・フェイセスのミュージカル『All or Nothing』でフィーチャーされており、これは彼女とスティーヴ・マリオットとの恋愛がドキュメントされた作品となっている[18]

2017年以降[編集]

2017年、P.P.アーノルドはついに遺産となっていた録音をアルバムでリリースした。アルバム『The Turning Tide』は、1968年から1970年の間に録音された曲のコレクションである。バリー・ギブとエリック・クラプトンがプロデュースしたものの、アルバムは中止され、2017年まで未完成のまま残されていた[19]。2017年、『The Turning Tide』のリリース時期を、彼女の音楽業界50周年を祝う秋のツアーと一致させた。また、2017年5月にリリースされたポール・ウェラーのアルバム『ア・カインド・レボリューション』の1曲目「Woo Sé Mama」でマデリーン・ベルと並んでバック・ボーカルを歌った。

2018年、アーノルドはオーストラリアで2度のツアーを行った。5月には、ロック・バンド、ユー・アム・アイのフロントマンであるティム・ロジャースと、同バンドのメンバーであるデイヴィー・レインとラスティ・ホプキンソンのバックアップを受けて、オーストラリアとニュージーランドを巡る初のソロ・ツアーを行い[20]、11月には、2回目のツアー「The Return of PP Arnold」のためにオーストラリアへ戻り、そこで再びジェームス・ブラック・アンド・ザ・ウルフグラム・シスターズとともにユー・アム・アイと共演した。彼女は「Rockwiz Tour 2019」(『ロックウィズ (Rockwiz)』はオーストラリアのテレビ番組)の特別ゲストも務め、ロックウィズ・オーケストラと共演した[21]

2019年8月、アーノルドは4枚目のソロ・アルバム『The New Adventures Of... P.P. Arnold』をリリースした。このアルバムは、生まれてこの方ずっとP.P.の愛好家であり、オーシャン・カラー・シーンのスターであり、ポール・ウェラー・バンドのギタリストも務めるスティーヴ・クラドックによってデヴォンのクンダリーニ・スタジオでレコーディングおよびプロデュースされており、1960年代後半から1970年代の未発表曲を集めた最新コンピレーション・アルバム『The Turning Tide』もあるが、51年の空白を経て、イミディエイト・レコードからリリースされた最初の2枚のソロ・アルバム『ファースト・レディ・オブ・イミディエイト』と『カフンタ』に続く作品となっている。このアルバムはクラシックなオーケストラ・ソウルからハウス・ミュージックまで多岐にわたり、最後はボブ・ディランの詩「ウディ・ガスリーへの最後の思い」の10分間の朗読で終わる。アーノルドはこう説明した。「私はこれまで歌ってきたレコードの膨大なカタログを持っていますが、私自身はまだアルバムを2枚しかリリースしていませんでした。そして、それらは風化することなく時の試練に耐えてきました」。

2019年10月、アーノルドはアルバムをサポートするためにイギリス・ツアーを行った[22]

2020年5月8日、ザ・フラテリスが、アーノルドがリード・ボーカルを務めたシングル「Strangers In The Street」[23]をリリースした。

私生活[編集]

アーノルドは15歳で妊娠し、それが最初の結婚となった[24]。彼女には虐待的な夫との間にケヴィンとデビーという2人の子供がいたが、母親が子供の世話をしている間、彼女は夫を捨ててアイケッツになるために働いた[24]。彼女の娘デビーは、1970年代半ばに交通事故で亡くなった[25]

1968年、アーノルドは2番目の夫ジム・モリスとサリー州のギルドフォード市庁舎で結婚した[25][26]。彼らの結婚式ではバリー・ギブが付添人を務めた。モリスはロバート・スティグウッドのドライバー兼アシスタントとして働いていた。アーノルドはキム・ガードナーを通じて彼と知り合った。彼らは2年後に離婚したが、友人関係は続いた[25]

アーノルドにはミュージシャンのカルヴィン・"ファジー"・サミュエルとの関係で息子コッゾがいる。コッゾはジェシー・Jジェス・グリンの音楽監督を務めている[27]。彼はアーノルドの2019年のアルバム『The New Adventures Of... P.P. Arnold』にソングライターとしてクレジットされている[28]

ディスコグラフィ[編集]

スタジオ・アルバム[編集]

  • 『ファースト・レディ・オブ・イミディエイト』 - The First Lady of Immediate (1967年)
  • 『カフンタ』 - Kafunta (1968年)
  • Five in the Afternoon (2007年) ※Dr. Robert & P.P. Arnold名義
  • The Turning Tide (2017年) ※1960年代後半-1970年代の録音[29]
  • The New Adventures of... P.P. Arnold (2019年)[30]

コンピレーション・アルバム[編集]

  • P.P. Arnold / Chris Farlowe (1976年)
  • P.P. Arnold Greatest Hits (1977年)
  • Chris Farlowe / P.P. Arnold : Legendary (1979年)
  • Angel... (1986年)
  • The P.P Arnold Collection (1988年)
  • Kafunta - The First Lady Of Immediate: Plus (1988年)
  • 『ベスト・コレクション』 - The P.P. Arnold Collection (1995年)
  • The First Cut (1998年)
  • The Best Of (1999年)
  • Rod Stewart 1964-1969 (2000年) - Rod Stewart - "Come Home Baby"
  • The First Cut (The Immediate Anthology) (2001年)
  • A Little Misunderstood: The Sixties Sessions (2001年) - Rod Stewart - "Come Home Baby"
  • Can I Get a Witness (2001年) - Rod Stewart & The Steampacket - "Come Home Baby"
  • Immediate Pleasure (2002年) - Various Artists - compilation album of Immediate Records with the song "Come Home Baby"
  • Angel of the Morning (2006年)
  • The Best of P.P Arnold - The First Cut Is the Deepest (2006年)
  • The Best of P.P Arnold (2007年)
  • P.P Arnold (2008年)

シングル[編集]

チャート・シングル[編集]

タイトル チャート最高位
全英
[31]
"The First Cut Is the Deepest" 1967 18
"The Time Has Come" 47
"(If You Think You're) Groovy" 1968 41
"Angel of the Morning" 29
"A Little Pain" 1985 93
"Burn It Up" (with Beatmasters) 1988 14
"Evapor-8" (with Altern-8) 1992 6[32]
"It's a Beautiful Thing" (Ocean Colour Scene with P.P. Arnold) 1998 12
"Different Drum" 1998 80
"Don't Burst My Bubble"/"Come Home Baby" (with Small Faces, Rod Stewart & P.P.) 2005 93

参加アルバム&シングル[編集]

脚注[編集]

  1. ^ PPアーノルド」「P・P・アーノルド」の表記もある。
  2. ^ a b c P.P. Arnold”. NNDB.com. Soylent Communications. 2007年7月31日閲覧。
  3. ^ a b c d An Interview With PP Arnold”. RogerWaters.org. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月24日閲覧。
  4. ^ Everything we know about Jools Holland’s Annual Hootenanny 2023” (英語). The Independent (2023年12月31日). 2024年1月1日閲覧。
  5. ^ Turner, Tina. (1980). I, Tina : my life story. Loder, Kurt. (1st ed.). New York: Avon Books. ISBN 0-380-70097-2. OCLC 16513221. https://archive.org/details/itinamylifestory00turn 
  6. ^ a b P. P. Arnold”. MakingTime.co.uk. 2007年7月31日閲覧。
  7. ^ Clark, Alice (2015年12月1日). “Call And Response: PP Arnold”. Louder. 2024年1月4日閲覧。
  8. ^ Christian, John Wikane (2019年8月8日). “Survival and Serendipity: An Interview with Northern Soul Legend P.P. Arnold” (英語). PopMatters. 2024年1月4日閲覧。
  9. ^ P.P. Arnold - The First Lady Of Immediate”. Discogs.com. 2021年8月13日閲覧。
  10. ^ Patress, Mark (March 2012). Phil, Alexander. ed. “Heart and Soul — Steve Marriott”. Mojo (222): 71. 
  11. ^ P.P. Arnold - Kafunta”. Discogs.com. 2021年8月13日閲覧。
  12. ^ a b Roberts, David (2006). British Hit Singles & Albums (19th ed.). London, UK: Guinness World Records Limited. p. 30. ISBN 1-904994-10-5 
  13. ^ Brennan, Joseph. “Gibb Songs: 1970”. 2013年6月11日閲覧。
  14. ^ P.P. Arnold official website - Music - 1970-1980”. Pparnold.com. 2019年10月19日閲覧。
  15. ^ Burglar at AllMusic
  16. ^ PP Arnold - London's First Lady of Soul - Biography”. Pparnold.com. 2019年3月20日閲覧。
  17. ^ Seven Psychopaths (2012)”. IMDb.com. 2019年10月19日閲覧。
  18. ^ All Or Nothing 'The Mod Musical'”. Allornothingmusical.com. 2019年3月20日閲覧。
  19. ^ “Soul Singer P.P. Arnold's Lost Album With Barry Gibb, Eric Clapton Cleared for Release”. Billboard. https://www.billboard.com/articles/columns/pop/7882318/pp-arnold-lost-album-barry-gibb-eric-clapton 2019年3月20日閲覧。. 
  20. ^ Francis, Hannah (2018年5月20日). “P. P. Arnold review: Melbourne gets a visit from a soul treasure”. The Sydney Morning Herald. 2019年3月20日閲覧。
  21. ^ Grady, Ken (2018年12月14日). “LIVE REVIEW: P.P. ARNOLD AT THE GOV” (英語). The Upside News. 2019年3月20日閲覧。
  22. ^ Kelly, Jo (2019年10月1日). “Soul legend PP Arnold kicks off her UK tour on Teesside” (英語). The Northern Echo. 2024年1月4日閲覧。
  23. ^ The Fratellis - Strangers In The Street (feat. PP Arnold) (Official Audio)”. YouTube. 2021年12月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月13日閲覧。
  24. ^ a b Mark, Bannerman (2017年10月6日). “PP Arnold: Soul survivor debuts an album 50 years in the making after betrayal by famous friends” (英語). www.abc.net.au. 2020年6月28日閲覧。
  25. ^ a b c Button, Simon (2018年7月1日). “My favourite photograph by soul star PP Arnold” (英語). Daily Express. 2024年1月4日閲覧。
  26. ^ Mulligan, Michael (2017年10月3日). “Soul Legend P. P. Arnold Tells Tootal Blog About Her New Album, 50 Years In The Making” (英語). Tootal Blog. 2024年1月4日閲覧。
  27. ^ Lester, Paul (2016年7月23日). “Where are they now...? Singer PP Arnold” (英語). Express.co.uk. 2024年1月4日閲覧。
  28. ^ Sexton, Paul (2019年5月16日). “PP Arnold's Soulful Showcase Of Upcoming 'New Adventures' Album” (英語). uDiscover Music. 2024年1月4日閲覧。
  29. ^ The Turning Tide - 2017”. Pparnold.com. 2019年6月24日閲覧。
  30. ^ The New Adventures of... PP Arnold”. Pparnold.com. 2019年10月19日閲覧。
  31. ^ P. P. Arnold - Full Official Chart History”. Official Charts.com. 2019年1月26日閲覧。
  32. ^ Altern 8 - Full Official Chart History”. Official Charts.com. 2019年1月16日閲覧。

外部リンク[編集]