ジョン・ポール・ジョーンズ (ミュージシャン)

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ジョン・ポール・ジョーンズ
(John Paul Jones)
John Paul Jones - 2010.jpg
基本情報
出生名 ジョン・ボールドウィン
John Baldwin
別名 ジョンジー
出生 1946年1月3日(68歳)
イングランドの旗 イングランド ケント州
シドカップ
ジャンル ロック
ハードロック
ヘヴィメタル
フォークロック
ブルースロック
カントリー
職業 ミュージシャン
ソングライター
アレンジャー
プロデューサー
担当楽器 エレクトリックベース
ラップスティールベース
ペダルスティールギター
タンバリン
リュート
ダブルネック・ギター
6弦ベース
8弦ベース
エレクトリックピアノ
チェロ
オートハープ
ラップスティールギター
ハープ
ツィター
ドブロギター
タンブラ
スチール・ギター
コンティニウム
ヴォーカル
リコーダー
マンドリン
ヴァイオリン
クラヴィネット
コントラバス
メロトロン
ワー・ギター
ハーモニカ
ギター
ウクレレ
バンジョー
オルガン
キーボード
ハープシコード
シタール
ブズーキ
ハーディ・ガーディ
活動期間 1960年 - 現在
レーベル Discipline Global Mobile
アトランティック・レコード
スワンソング・レコード
共同作業者 レッド・ツェッペリン
公式サイト www.johnpauljones.com

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ジョン・ポール・ジョーンズJohn Paul Jones, 1946年1月3日 - )は、イギリスミュージシャン作曲家マルチプレイヤー。同国のロック・バンドレッド・ツェッペリンベーシストキーボーディストとして知られる。愛称は「ジョンジー」。身長173cm。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

ケント州シドカップで生まれる。名前は、父の友人であったアンドリュー・ルーグ・オールダムが、フランスで見た映画ポスターからとられた。父親のジョー・ボールドウィンは、1940年代から1950年代にかけてアンブローズ・オーケストラなどのビッグバンドで、ピアニスト及びアレンジャーとして活躍した。彼の母親も音楽ビジネスに関わり、家族は共に英国中を演奏旅行出来る環境にあった。ジョンは、父親からピアノを習い、やがてビッグ・ビル・ブルーンジーブルースチャールズ・ミンガスジャズからラフマニノフのクラシック・ピアノまで興味を抱く。その後、ケント州のクライスト・カレッジ寄宿学校に入り、そこで正式に音楽を学ぶ。14歳で、地元の教会で聖歌隊指揮者兼オルガン奏者となった。同時期には、シカゴミュージシャン、フィル・アプチャーチを聴いた影響でフェンダー・ジャズベースを購入、以降1975年まで使い続けた。

音楽活動の開始[編集]

15歳の時に最初のバンド、ザ・デルタズに加わった。その後、ロンドンのジャズ/ロックバンド、ジェッツ・ブラックスでベーシストを務めた。彼の大きな転機は、1962年にジェット・ハリスとトニー・ミーハンに出会ったことだった。ジョンは、彼らのバンドで2年間演奏した。彼ら最大のヒット作「ダイヤモンズ」にはジミー・ペイジも参加していた。1964年になると、ジョンはミーハンの推薦でデッカ・レコードのセッション・ミュージシャンとなる。1964年~68年まで、彼は多数の編曲やキーボード、ベースの演奏をこなしていた。彼がレコーディングに参加したアーティストは、ローリング・ストーンズハーマンズ・ハーミッツミッシェル・ポルナレフドノヴァンジェフ・ベックキャット・スティーヴンスロッド・スチュワートシャーリー・バッシールルなど多数。ダスティ・スプリングフィールドとのセッションでは、彼女の「トーク・オブ・ザ・タウン」シリーズでベースで参加している。ドノヴァンの「サンシャイン・スーパーマン」での彼の演奏と編曲で、プロデューサーのミッキー・モストは自身の多くのプロジェクト、トム・ジョーンズニコウェイン・フォンタナザ・ウォーカー・ブラザースのレコーディングにジョーンズを参加させることを決心した。

ジョンはさらに、トニー・ミーハン及びジェット・ハリスの友人や、クリフ・リチャード・アンド・ザ・シャドウズとのレコーディングも行った。これらの録音の前に、クリフ・リチャード・アンド・ザ・シャドウズは歴史を変える間際にあった。彼らはジョンにベーシスト、ブライアン・ロッキングに代わって加入を呼びかけたが、ジョンは参加せず彼らは代わりにジョン・ロスティルを加入させた。

レッド・ツェッペリン時代[編集]

ドノヴァンの「ハーディ・ガーディ・マン」のレコーディングでジミーと再会、ヤードバーズのアルバム『リトル・ゲームズ』でセッションした。タイトル曲でジョンはチェロを演奏し、弦編曲も行った。アルバムは商業的に失敗したが、これを機にジョンとジミーは親交を深める。1年後、クリス・ドレヤが写真家に転身することを決心し、ジョンはジミーの新しいバンド、ニューヤードバーズのベーシストの第一候補となった。これが後のレッド・ツェッペリンとなる。既にキャリアを確立していたセッション・ワークをやめ、未知のバンドに参加することはジョンにとって相当な賭けであったが、自身の芸術的創造の欲求には逆らえず、夫人の後押しも相まって、最終的にバンドへと参加した。バンドへのスポットライトはジミーとロバート・プラントに集中しがちではあるが、彼の性格や音楽的才能、経験はツェッペリンの成功に多大な貢献をした。近年、「コード中心或いはコード分解系のリフはペイジ、ベースライン中心或いは単音系のリフはジョンジー」と言うことがジョンによって明かされており、アレンジの面でも多大な貢献をしている。また作曲の面でもジョンはツェッペリンに欠かせない存在である。

セッションと解散後のソロ活動[編集]

しかしながら、ツェッペリンへの参加は彼のセッションの妨げにはならなかった。1969年にはファミリー・ドッグのアルバム『ウェイ・オブ・ライフ』でベースを、1970年にはピーター・グリーンのソロ・アルバム『ジ・エンド・オブ・ジ・ゲーム』でキーボードを演奏するため、スタジオに戻った。ジョンは、マドレーン・ベルの1974年のアルバム『カミン・アッチャ』のプロデュース及び編曲を担当した。さらにロイ・ハーパーの多くのアルバムでキーボードを演奏し、ウイングスの『バック・トゥ・ジ・エッグ』でのロック版オーケストラ『ロケストラ』に参加した。

1980年以来、R.E.M.ハートベン・E・キングザ・ミッションラ・フラ・デルス・バウスブライアン・イーノザ・バットホール・サーファーズなどと共演した。彼は多くのセッションと、ポール・マッカートニーのためのビデオに出演し、彼の映画『ヤァ!ブロード・ストリート Give My Regards to Broad Street』のサウンドトラックに参加した。1986年にはマイケル・ウィナーの映画『スクリーム・フォー・ヘルプ』のサウンドトラックを依頼された。同作には二曲にジミー・ペイジも参加した。1994年にはディアマンダ・ガラスの『ザ・スポーティング・ライフ』の録音とツアーに参加した。彼は自らのスタジオを「サンデー・スクール」と名付け、娘のジャシンダ・ジョーンズは同スタジオでレコーディングを行った。

彼のデビュー・ソロアルバム『Zooma』は1999年の9月にリリースされた。この際、ソロで日本公演を行い、レッド・ツェッペリンの曲もボーカルなしで演奏された。また2001年には、『Thunderthief』でヴォーカリストとしての一面を発表した。

ジミーとの軋轢からか再結成には消極的である。また、ペイジ・プラント発足の際に声も掛けられなかったらしく、新聞で読んで初めて知ったとのこと。これを受けてジョーンズは後の再結成の際「今回は僕の電話番号を忘れないでいてくれてありがとう」とかつての仲間達に皮肉を言っている。ただし、現在までに伝わっている彼のエピソードから、前述の件で彼が本当にご立腹であったかどうかは、実際のところ不明である。

2005年には、Foo FightersのアルバムIn Your Honourへ参加。
その頃からデイブ・グロールとの交流が始まり、2009年には、デイブ・グロールクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ (Queens of the Stone Age) の ジョシュ・オムらと共にロックバンド ゼム・クルックド・ヴァルチャーズ (Them Crooked Vultures) を結成し、2009年12月2日にはアルバム『Them Crooked Vultures』をリリースした。

プレイスタイル[編集]

ベーシストとしては類まれなるセンスで、「幻惑されて」での沈み込んでいくようなベース、「レモン・ソング」「強き二人の愛」でのファンクの影響を受けたリフ、「ブラック・ドッグ」でのパワー・クランチなど、多彩な演奏を行った。このようにプレイスタイルの多彩さもジョンの真価である。1975年にフェンダー・ジャズベースをリタイアさせた後、彼はカスタムデザインのベースを使うこととなる。ベーシストとしての彼のプレイはどちらかと言えば堅実なものと捉えられがちであるが、その堅実とも思われるプレイの裏にはジミーやボンゾことジョン・ボーナムの奔放なリズム感をバンドの音として纏め上げる優れたリズム調整感があり、60年代のロックベーシストジョン・エントウィッスルポール・マッカートニージャック・ブルースなどを驚かすものであった。また、セッションマン時代に培われた多彩なプレイスタイルも彼の魅力の一つであり、指弾きピック弾きを曲調に合わせて自由に使い分けることが出来る彼の能力は、ツェッペリンにおいて欠かせないものであった。

ジョンはベースの他に、キーボードバンジョーオルガンピアノメロトロンギターマンドリンハープシコードローズ・ピアノなど25種類以上の楽器を操るマルチプレイヤーであり、特に彼のキーボード演奏はレッド・ツェッペリンに単なるハード・ロック・バンドではない多様性を与えた(「レイン・ソング」におけるメロトロンや「ノー・クォーター」におけるローズ・ピアノなどが知られている)。ステージ・パフォーマンスでは、「ノー・クォーター」での30分にもわたる「アメイジング・グレイス」や「くるみ割り人形」、「さくらさくら」などを織り交ぜたキーボードソロを演奏した。さらに「カシミール」での東洋調音階にジョーンズの幅広い嗜好が顕著に表れている。グループでの彼の多様性は、トリプルネック・ギターを含むさらに多くの楽器演奏に及ぶ。

ロックはもちろん、ジャズファンクなどあらゆるジャンルの音楽を好み、多種多彩なプレイをこなすが、レゲエだけは「演奏していて楽しくないから」とのこと。

ジョンは、ボンゾとのリズム体としてセッションしていた時の事を、次のように回想している。

ジョン・ボーナムと僕は、乗せたいところへ自在にビートを乗せるのがかなり上手かったんだ。拍子に対してビートを自由に移動させられるという事を知らない若いミュージシャンが最近は多いけど、僕たちはそれをしょっちゅうやっていた。それが曲の緩急を変えていくのさ。でもそれは頭で考えていた訳ではなく、自然にやっていた事だ。ただ、時にはそれをやっているのがハッキリと頭で解る事もあってね。そういう時は逆に、普段の自分達がどこまでレイドバックしてやれているかが解って面白かったよ。例えば、曲の中でもうちょっと切迫した感じが必要だけどそれ以上速くなってはいけないセクションがあるとする。そういう時は少しだけビートを前へズラして、せき立てる感じにはするけど、速さはそのままにしておくんだ。逆に、徐々にスピードアップさせる場合もあるね。ずっと同じテンポでいるべし、などとはルールブックに書かれてないからさ。『天国への階段』は自然と加速していくけど、それは曲の緩急の一端を担っているんだ。そうしてはいけない事は何もないんだよ
ジョン・ボーナムと一緒にやっていた時、僕は自分のサウンドとラインがドラムを補って『完全なリズム』となるよう心掛けた。彼も僕に対してそうあろうとしていたのは解っていたし、2人ともリズム体を一つのモノとして捉えていたよ。バンドがいかに良い音を出すかというのが肝心な点であり、僕たちは出来る限りジミー・ペイジとロバート・プラントを引き立てようとした。ジミーがソロを弾いていたら、僕たちはシッカリとしたバッキングで彼のソロを支える。でもそれは、紙に書き出しておいた計画ではない。バンドに対して完璧に一生懸命だっただけなんだ

ディスコグラフィー[編集]

  • A Foggy Day in Vietnam / Baja』(1964)
  • Scream for Help』 (1985) (soundtrack)
  • Zooma』 (1999)
  • Thunderthief』 (2001)

使用楽器[編集]

エレクトリック・ベース
  • Alembic - Series II
  • Alembic - Triple Omega
  • Fender - Jazz Bass 1961年モデル
  • Fender - Precision Bass 1951年モデル
  • Fender - Precision Bass (Fretless)
  • Fender - Bass V
  • Gibson - EB-1
  • Ibanez - RD300 Bass
  • Pedulla - Rapture Bass (Custom made)
ベース・アンプ
アコースティック系
  • Andy Manson - custom Triple Neck Mandolin
  • Andy Manson - 12 Strings & 6 Strings Acoustic Guitar
  • Gibson - Flat Mandolin
ピアノ・打弦楽器系)
キーボード系
  • Mellotron
  • Symbolic Sound - Kyma System
  • KORG - Trinity (Synthesizer)
  • Yamaha - GX1 (Synthesizer)
  • Moog - 15 Modular Synthesizer
  • EMS - VCS3 (Synthesizer)

外部リンク[編集]