キャット・スティーヴンス
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ユスフ・イスラム (Yusuf Islam) 旧名: キャット・スティーヴンス(Cat Stevens) | |
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基本情報 | |
出生名 | スティーヴン・デメトレ・ジョルジオ (Steven Demetre Georgiou) |
生誕 | 1948年7月21日(75歳) |
出身地 |
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ジャンル |
フォーク・ロック ポップス |
職業 | シンガー・ソングライター |
担当楽器 | ヴォーカル、 ギター、 クラシック・ギター、 オヴェーション・ギター、 ベース・ギター、 エレクトリック・マンドリン、 ブズーキ、 キーボード、 ハープシコード、 ポリモーグ、 ペニー・ホイッスル、 ドラムス、 パーカッション |
活動期間 |
1966年 – 1978年 2006年 – 現在 |
レーベル | アイランド・レコード, A&Mレコード, ポリドール, Mountain of Light, Jamal |
公式サイト |
www.catstevens.com www.yusufislam.org.uk |
キャット・スティーヴンス(英語: Cat Stevens)とは、イギリスのミュージシャン、ユスフ・イスラム(Yusuf Islam、1948年7月21日 – )のかつての芸名[1]。彼はロンドン出身のシンガー・ソングライター、教育家、慈善活動家であり、イスラム教への改宗者としても知られている。
キャット・スティーヴンスとして1960年代後半以来世界中で6000万枚以上のアルバムを売り上げた。スティーヴンスのアルバム『父と子』と『ティーザー・アンド・ファイヤーキャット』はアメリカ合衆国だけでそれぞれ300万枚以上のセールスを記録し、全米レコード協会によってトリプル・プラチナムに認定されている。つづく『キャッチ・ブル・アット・フォー』はアメリカ国内では発売後2週間で50万枚を売り上げ、ビルボード誌のアルバムチャートの首位の座を3週連続キープした。楽曲「ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト」が4人の異なるアーティストによってそれぞれヒットしたことにより、彼の作品はふたつのASCAPソングライティング・アワードの表彰を受けている。
栄光の頂点にあった1977年に、スティーヴンスはイスラム教に改宗する。その翌年に自らの名前をユスフ・イスラムに改めた彼は、ムスリム共同体の教育問題や慈善活動に身を捧げるために音楽業界を離れた。それから28年後の2006年にポピュラー・ミュージック界に復帰し、『アン・アザー・カップ』と題されたアルバムをリリースしている。
2004年のマン・フォー・ピース・アワードや2007年のメディタレニアン・プライズ・フォー・ピースなど、世界平和を訴える活動によってこれまでにいくつかの賞を受賞している。現在彼は妻と5人の子供たちとともにロンドンのブロンズベリー・パークに住んでおり、毎年一時期をドバイで過ごしている[2]。
生い立ち (1948年 - 1965年)[編集]
イスラムは本名スティーヴン・ジョルジオ、ギリシャ系キプロス人の父ステイヴロス・ジョルジオと、スウェーデン人の母イングリッド・ウィックマンの3番目の子供として生まれた。ロンドンのソーホーにあるピカデリー・サーカスから数ステップほど離れた場所に位置するシャフツベリー・アヴェニューで、彼の両親はムーラン・ルージュという名のレストランを営んでいた。当時一家は全員そこで働いており、店の上に住居を構えていた。父親はギリシャ正教徒、母親はバプテストであったが、スティーヴンスはマックリン・ストリートにあるセント・ジョセフ・ロマン・カトリック小学校というカトリック系の学校に通っていた。スティーヴンスがおよそ8歳のころに両親は離婚するが、その後もレストランを共同で経営し同居を続けた。12歳のとき、すでにピアノを弾けるようになっていたスティーヴンスは、加えてギターを演奏したり作曲を始めるようになった。それから数年後、母親はスティーヴンスを連れて母国のイェヴレに帰り、そこで彼は画家をしていた叔父の影響で絵画の技術を上達させることになる。
16歳のとき、学校を離れた彼はハマースミス・アート・スクールに入学するが、そこでものちに放校されてしまう。スティーヴンスは自らの音楽家としてのキャリアを切り拓くことを決断したが、それでもデビュー後に彼はアルバムのアートワークを自ら手がけ、美術にいそしんでいる。なお、彼が最初にフォーク・ミュージックに影響をうけたのもちょうどこのころであった[3]。
音楽家としての経歴 (1966年 - 1978年)[編集]
初期の音楽活動[編集]
彼はコーヒーハウスやパブで演奏するようになった。自分のギリシャ系の名前は覚えづらく芸名には相応しくないと考えた彼は、新たな名を探した。当時のことを彼はこう述懐している。「誰かがレコードショップで"スティーヴン・デメトレ・ジョルジオのアルバムはどこにあるか"と尋ねる光景が、私には想像できなかった。それにイギリスや、とくにアメリカでは、人々は動物を愛するからね」[4]かくして彼が使うことにした芸名はキャット・スティーヴンス (Cat Stevens)であった。伝えられたところによれば、スティーヴンスの女友達が彼の瞳を「まるで猫のようだ」と言ったことがこの芸名の由来になったという。
1966年、18歳のスティーヴンスはマネージャーでプロデューサーのマイク・ハーストに見出される。かつてスプリングフィールズというヴォーカル・グループの一員であったハーストはスティーヴンスのデモテープの編曲を手がけ、彼がレコード会社との契約をとりつけることができるように計らった。スティーヴンスの黎明期のシングル「アイ・ラヴ・マイ・ドッグ」と「マシュー・アンド・サン」(後者は1967年初頭に発表された彼のファースト・アルバムのタイトルにもなった)はイギリスのヒットチャートでトップ10にランクインし、続いてデビュー・アルバムもチャートに姿を現すようになった。1967年、ザ・トレメローズはスティーヴンスが書いた「君と踊ろう」を発表。全英4位を記録した。
それから2年ほど、彼はジミ・ヘンドリックスからエンゲルベルト・フンパーディンクまで、実に幅広いミュージシャンとともにツアーやレコーディングを行った。イギリスの公式チャートにおけるいくつかのヒットにより、スティーヴンスはティーン・ポップのセンセーションの一派と考えられていた。このような成功の原因のひとつは海賊ラジオ局「ワンダフル・レイディオ・ロンドン」が彼のレコードを流したことにあった。このラジオ局が終焉を迎えた1967年8月には、彼は同様にして利益を得たほかのアーティストとともに放送に参加して閉鎖を惜しんだ。
彼が1967年の12月に発売した2枚目のアルバム『ニュー・マスターズ』は、イギリスではチャートに入ることができなかった。このアルバムは現在「ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト」を収録した作品としてよく知られている。この楽曲はこれまでP.P.アーノルド、キース・ハンプシャー、ロッド・スチュワートやシェリル・クロウといった多くのアーティストによってカヴァーされてその都度世界各国でヒットし、いくつかの作曲賞も受賞している。
移ろいやすいポップ・スターとしての生活に身をおいた19歳のスティーヴンスは、1968年の初頭から重い結核に患わされるようになった。数か月の入院と1年の休業を余儀なくされた彼は自らの人生について疑問を抱きはじめ、瞑想にうちこんだり、さまざまな宗教についての書物を読んだりするようになった。菜食主義者に転向したのも当時のことである。[4]精神世界への開眼や疑問から、スティーヴンスは初期の作品よりももっと内向的な40作もの楽曲を書き上げた。これらの作品の多くがその後数年間に発表された彼のアルバムの中に収録されることとなる。[5]
結核からの復活[編集]
健康を取り戻し、国際的成功への足がかりとなる世界に自らの音楽を届けたいという新たなる熱意と一連の内向的な楽曲を携えた彼は、1970年にアメリカ国内でのレコードの配給先となるアイランド・レコードと新たに契約を交わす(当時北米でこのレーベルはA&Mとライバル関係にあった)。そこから最初に発売したアルバムが、初期のポップな作品とは趣を異にしたフォーキーで内向的な世界が描かれた『白いバラ』である。彼の当時のガールフレンドであった女優のパティ・ダーバンヴィルのことを歌った「白いバラ」、デビューまもない10代のころの経験を題材にした「ポップ・スター」、ジェネシスの当時のフロントマンだったピーター・ガブリエルがフルートで参加した「カトマンズ」などをフィーチャーしたこのアルバムは、1970年代に人気を博したソロのシンガーソングライターによる黎明期の代表作のひとつとして知られている。
『白いバラ』に続いて発売されたのは、彼の世界的なブレイクを誘発した『父と子』であった。日常の風景や問題を題材にしつつ、なんらかの霊的イメージをまじえたキャッチーな歌詞を特徴とした彼の独特かつ新鮮な作風が確立されたこの作品は、全米ビルボード誌のアルバム・チャートでトップ10にランクインし、発売から半年後には合衆国内だけで50万枚以上を出荷してゴールド・ディスクに認定された。この作品には全米トップ20ヒット「ワイルド・ワールド」や「ハード・ヘッデド・ウーマン」、さらには曖昧な自伝のような歌詞が印象的な「父と子」が収められている。2001年にはアメリカ合衆国におけるこのアルバムの売上は300万枚に達し、全米レコード協会によってマルチ・プラチナムに認定された[6]。2003年に『ローリング・ストーン』誌が発表した「史上最も素晴らしいアルバム500枚」のリストでは、この作品は206位にランクインしている[7]。
アルバム『父と子』の成功によって、彼はもはやほかのミュージシャンのコンサートで前座を務めるような存在ではなくなっていた。また、同時期には、スティーヴンスを題材にした「悲しい伝説」「アンティシペイション」などの楽曲を全米チャートにランクインさせたカーリー・サイモンとの交際も噂された[8]。スターになった彼は、ギターやバック・コーラス、ハーモニー・ヴォーカルを務めるアラン・デイヴィーズをしたがえて、自身のコンサート・ツアーを開始する。セッションを通じて知り合った2人は、30年以上に渡る強固な友情を築いた。2008年2月28日にこの世を去るまで、デイヴィーズはほぼすべてのスティーヴンスのライヴ・パフォーマンスにおいて不可欠な存在であり続けた。
音楽的成功[編集]
1970年代初頭の作品において独自のサウンドを構築した彼は、その後数年に渡って順風満帆なキャリアを歩んだ。1971年のアルバム『ティーザー・アンド・ファイアーキャット』はビルボードのチャートで2位まで上昇して発売後3週間でゴールド・ディスクに認定された。エリナー・ファージョンが作詞した賛美歌のカヴァー「雨にぬれた朝」(ピアノはリック・ウェイクマンが演奏)や「ピース・トレイン」、「ムーンシャドウ」などのヒット曲がアルバムには収録されている。『父と子』と同様に米国で300万枚以上のセールスを記録したこの作品は、2001年に2作揃ってRIAAによるマルチ・プラチナムの認定を受けた。
ボストン・ラジオ・ステーションによるインタビューの中で、スティーヴンスはアルバム『ティーザー・アンド・ファイアーキャット』についてこう述べている。
"I get the tune and then I just keep on singing the tune until the words come out from the tune. It's kind of a hypnotic state that you reach after a while when you keep on playing it where words just evolve from it. So you take those words and just let them go whichever way they want... 'Moonshadow'? Funny, that was in Spain, I went there alone, completely alone, to get away from a few things. And I was dancin' on the rocks there... right on the rocks where the waves were like blowin' and splashin'. Really, it was so fantastic. And the moon was bright, ya know, and I started dancin' and singin' and I sang that song and it stayed. It's just the kind of moment that you want to find when you're writin' songs."[9]
曲調がわかってから、その曲から言葉が出てくるまで歌い続けるんだ。 しばらく続けていると、催眠状態みたいになって、そこから言葉が出てくるようになるんだ。だから、あなたはその言葉を受け入れて、彼らが望む方向に行かせるだけ...'Moonshadow'? 面白いことに、それはスペインでのことだった。一人で行ったんだよ、完全に一人で。岩の上で踊っていたんだ...波が吹いている岩の上で。本当に幻想的だった。月が明るくて、僕は踊りながら歌い始めた。曲を書くときに見つけたいような瞬間だね。
『ティーザー・アンド・ファイアーキャット』が発売された年に、彼はいくつかの楽曲を映画『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』のサウンドトラックに提供した。それらの作品は後年にベスト盤がリリースされるまで、彼の他のどのレコードでも聴けなかったものである。映画は長年に渡ってカルト的な人気を誇っており、スティーヴンスが音楽活動を休止していた期間にも彼の音楽の魅力を広く大衆に知らしめるきっかけの作品となった。
1972年に発売されたスティーヴンスの次のアルバム『キャッチ・ブル・アット・フォー』は、彼にとって最も短期間のうちにアメリカ合衆国で成功を収めた作品である。アルバムはわずか15日でゴールド・ディスクに達し、「ビルボード」の首位を3週間にわたって保持した。内省的でスピリチュアルな歌詞は前二作を踏襲しつつも、歌唱やサウンドの面では以前よりエッジの効いた作風がこのアルバムの特徴となっている。「スウィート・スカーレット」はカーリー・サイモンが彼について書いた2曲の作品に対するアンサー・ソングである。この作品からは「人生はさすらい」がシングル・カットされ、HOT100で16位まで上昇した。発売から29年後の2001年に、アルバム『キャッチ・ブル・アット・フォー』は全米でプラチナ・ディスクに認定された。
1970年代に発売された一連の彼のレコードは、いずれもチャート上での安定した成績を収めた。彼がキャット・スティーヴンス名義で発表した最後のアルバムとなったのは、1978年暮れの『バック・トゥ・アース』である。彼が現役として活動していた時期から現在までに、数枚のベスト盤が発売されている。最も商業的に成功したのは1975年に発売された『グレイテスト・ヒッツ』で、このアルバムはアメリカ合衆国だけで400万枚以上のセールスを記録した。2003年5月には『Remember Cat Stevens』と題されたベスト盤の欧州各国での総売上が100万枚を突破したことにより、 彼は国際レコード産業連盟によって表彰されるプラチナム・ヨーロッパ・アウォードの一人目の受賞者となった[10]。
1977年に発売されたイギリスの歌手エルキー・ブルックスとのデュエット「想い出のスクールヤード」は、スティーヴンスが最後にチャートに送りこんだヒット曲である。ちなみに、この曲が発売された際、ブルックスの名はふせられていた[11]。
彼のキャット・スティーヴンス名義での実質的な最後のライヴとなったのは、1979年11月22日にウェンブリー・スタジアムで開かれたユニセフによる慈善目的のザ・イヤー・オブ・ザ・チャイルド・コンサートであった。
イスラム教への改宗[編集]
1975 年にスティーヴンスがカリフォルニア州のマリブで、おぼれかけそうになる事故を起こした時[12]、彼は自分を救ってくれるよう神に懇願したと報告している。スティーヴンスは数年後のVH1のインタビューでその出来事をこう語っている: 「突然、自分を抱きしめてこう言ったんだ!もし私を救ってくれるなら、あなたのために働きます』って」。この臨死体験は、彼の長年の精神的真理への探求心を強めた。彼は仏教「禅と易経、数秘術、タロットカード、占星術」を調べていた[13] しかし、兄のデイヴィッドからクルアーンを贈られたスティーブンスは、自分自身に平穏を見出し、イスラム教への移行を始めた。
彼は 1977年に正式にイスラム教に改宗し、1978年にユスフ・イスラムと名乗った[14]「ずっとヨセフという名前が好きだった」と語り、特にコーランのヨセフの物語に惹かれたという[15][16] (イスラム教のヨセフ観|ユスフ]]はヨセフのアラビア語)。
ユスフ・イスラムとして (1978年-現在)[編集]
イスラム教新興と音楽のキャリア[編集]
改心後、ユスフ・イスラムはポップススターとしてのキャリアを捨てた。歌と楽器の使用はイスラム法学における議論の領域であり、一部からはharām'とみなされているため、このことが彼がポピュラー音楽の舞台から退いた主な理由であった。
彼は、蓄積した富と音楽活動からの継続的な収入を使うことに決めた[17]。1981年、キルバーンのソールズベリー・ロードにイスラミア小学校を設立。1981年、彼は北ロンドンのキルバーン地区のサルスベリー・ロードにイスラミア・プライマリー・スクールを設立した。その後、彼はみずから設立したスモール・カインドネスというチャリティ団体の代表に就任した。この団体は当初飢饉の犠牲となった難民たちを支援するために立ちあげられ、現在ではバルカン諸国やインドネシア、イラクなどで貧困にあえぐ家庭や孤児を援助する活動を続けている。彼はまた1985年から1993年にかけて、慈善団体のムスリム・エイドの代表も務めていた。[18]
1985年、ユスフ・イスラムは改宗後初めて公の場に姿を見せることを決意する。その舞台となるはずだったのが、エチオピアを襲った飢饉を救うために催された、かの歴史的なチャリティ・コンサート「ライヴエイド」であった。ところが、このイヴェントのために特別に新曲まで用意してあったにもかかわらず、エルトン・ジョンのセットが長引いたために、結局彼は最後まで出演することができなかった。[19]
サルマン・ラシュディにまつわる論争[編集]
1989年、ロンドンのキングストン大学で学生を前にした講演で、作家サルマン・ラシュディの死を求めるファトワについて質問され、物議を醸した。新聞はすぐに彼の返答をファトワ支持と解釈したが、彼は翌日に声明を発表し、ヴィジランティズムを支持していたわけではなく、冒涜に対するイスラム教の合法的な刑罰を説明していただけだと明らかにした。[20]1989年のその後の彼の発言も、ファトワを支持するものと見なされた。
彼がラシュディ暗殺の呼びかけをどの程度支持したのかについては議論が続いているが、この事件は「平和の人(Man of Peace」としての彼の評判に消えない傷を残した。[21] 彼は誤解されたと主張している[5][22]。
911・アメリカ同時多発テロ事件[編集]
ユースフ・イスラムは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロに対して、即座に、そして激しくこう訴えた-
- "I wish to express my heartfelt horror at the indiscriminate terrorist attacks committed against innocent people of the United States yesterday. While it is still not clear who carried out the attack, it must be stated that no right-thinking follower of Islam could possibly condone such an action. The Qur'an equates the murder of one innocent person with the murder of the whole of humanity. We pray for the families of all those who lost their lives in this unthinkable act of violence as well as all those injured; I hope to reflect the feelings of all Muslims and people around the world whose sympathies go out to the victims of this sorrowful moment."[23]
- 昨日起きた米国の罪のない人々に対して行われた無差別テロに対して、心からの恐怖を表明したい。誰がこのテロを実行したのかはまだ明らかになっていないが、イスラム教の良識ある信者がこのような行為を容認するはずがないことを明言しなければならない。クルアーンは、罪のない一人の人間の殺害を、全人類の殺害と同一視している。私たちは、この想像を絶する暴力行為で命を落としたすべての人々の遺族と負傷したすべての人々のために祈ります。私は、この悲しい瞬間の犠牲者に同情するすべてのイスラム教徒と世界中の人々の気持ちを反映させたいと願っています。
彼は2001年10月に開催されたConcert for New York CityのVH-1プレショーにビデオテープで出演し、同時多発テロを非難し、20年以上ぶりに公の場で自身の曲「Peace Train」をアカペラバージョンで歌った。また、彼はボックスセットの印税の半分を犠牲者の家族のための「9.11基金」に、残りの半分を低開発国の孤児に寄付した[24]。
アメリカ合衆国への入国拒否[編集]
2004年9月21日、ユスフ・イスラムはロンドンからワシントンへ向かうユナイテッド航空の便で、数年前に「ピース・トレイン」をレコーディングし、キャット・スティーブンスの別の曲を次のアルバムに収録する予定だった歌手ドリー・パートンとの面会に向かっていた。飛行機が飛行中、コンピューターによる乗客事前審査システムが彼の名前を飛行禁止リストに載せた。税関職員は運輸保安局に通報し、保安局は彼のフライトをメイン州バンゴーに迂回させ、そこで彼はFBIに拘留された。[25]
翌日、ユスフ・イスラムはイギリスに強制送還された。米国運輸保安局は、"彼が潜在的なテロ関連の活動に持っているかもしれない関係の懸念"があったと主張した[26]。またアメリカ国土安全保障省]]は、ユスフ・イスラムがパレスチナのイスラム過激派組織ハマスに資金を提供していたと主張した[要出典]。
この強制送還は小さな国際論争を引き起こし、イギリスのジャック・ストロー外務大臣が国連でコリン・パウエル国務長官に直々に苦言を呈した[27]。パウエルはこれに対し、監視リストは現在検討中であると述べ、さらに、「われわれには、自分たちが正しいかどうかを確認するために、これらの事柄を見直す義務があると思う」と付け加えた[28]。
ユスフ・イスラムは、自分が監視リストに掲載されたのは単なる間違いで、同姓同名でスペルが異なる人物と間違えられていたのではないかと考えている。2004年10月1日、ユスフ・イスラムは「私は米国当局が私の米国への入国を拒否するという決定に依然当惑している」と自分の名前を削除するよう要請した[29]。ユスフ・イスラムの声明によると、リストに載っていたのは ユセフ・イスラムという名前で、ユスフ・イスラム自身がテロ支援者の容疑者ではないことを示している[15]。
それから2年後の2006年12月、ユセフ・イスラムは新譜のプロモーションとして、数回のラジオ・コンサートとインタビューのために無事アメリカに入国できた[30][31]。
名誉毀損に対する勝訴[編集]
2004年10月、イギリスの新聞「The Sun」と「The Sunday Times」は、ユスフ・イスラムがテロを支援しているとして、アメリカ政府による国外追放を支持する声を上げた。ユスフ・イスラムは名誉毀損で提訴し、両紙から裁判外の多額の「合意和解」と謝罪を受けた[32]。 両紙は、ユスフ・イスラムがテロを支援したことはなく、それどころか最近、民間のノーベル平和賞から平和賞を授与されたことを認めた。
ユセフ・イスラムはこれに対し、「和解は私の人格と汚名を晴らすものであり、大変喜ばしいことです。最近、イスラム教徒に対する中傷的な非難をするのは世界で最も簡単なことのようで、私の場合、それは私の救援活動に直接影響し、アーティストとしての評判を傷つけている。受けた被害は修復が困難な場合が多い」と発言し、そして、裁判所から贈られた賞金をインド洋大津波の孤児救済のために寄付するつもりだと付け加えた[32]。
ユスフ・イスラムはこの体験を『A Cat in a Wild World』と題した新聞記事に書いている[33]。
音楽業界への復帰[編集]
1990年代の数年間、ユスフ・イスラムはイスラム教をテーマにした歌詞を、基本的な打楽器だけを伴奏にしたレコーディングを行った。1990年代後半には、NasheedグループであるRaihanのアルバムにゲストシンガーとして「God Is the Light」を収録。
イスラム教について子供たちを教育するための教材がほとんどないことに気づき、2000年にA Is for Allahという子供向けのアルバムを制作した[34]。また、 Mountain of Lightというレコードレーベルを設立、収益の一部をSmall Kindnessに寄付している。
2000年にキャット・スティーブンスのアルバムが再発売された際、ユスフはイスラム教への誤解から英語でのパフォーマンスを止めたと説明した。「このイスラム教における音楽の問題は、私が信じていたほど単純明快なものではありません。私は異端(heresy)(中略)[35]それはおそらく私の間違いでした。」[34]
2003年、デヴィッド・ボウイやポール・マッカートニーの演奏も収録されたコンピレーションCDのために、イスラム圏内からの度重なる働きかけを受けて、ユスフ・イスラムは再び「Peace Train」を録音した。セッション・プレイヤーのピーター・ガブリエルと46664コンサートで「Wild World」を披露。2004年12月、彼はローナン・キーティングと共に「Father and Son」の新バージョンをリリースし、Band Aid 20の「Do They Know It's Christmas?」に次ぐ2位でデビューした。Father and Son」の収益はBand Aidチャリティに寄付された。キーティングの元グループBoyzoneは10年前にこの曲をヒットさせている。
2005年のプレスリリースの中で、彼は復活したレコーディング・キャリアについて説明している。
After I embraced Islam many people told me to carry on composing and recording but at the time I was hesitant for fear that it might be for the wrong reasons. I felt unsure what the right course of action was. I guess it is only now after all these years that I've come to fully understand and appreciate what everyone has been asking of me. It's as if I've come full circle - however, I have gathered a lot of knowledge on the subject in the meantime.[36]
- イスラム教を受け入れた後、多くの人が作曲やレコーディングを続けるように言ってくれたが、当時はそれが間違った理由かもしれないと恐れて躊躇していた。何が正しい行動なのかわからないと感じていた。何年も経った今になって、みんなが私に求めていたことを完全に理解し、感謝するようになったんだと思う。しかし、私はその間に多くの知識を得ることができた。
2005年初頭、ユスフ・イスラムは2004年の津波災害をテーマにした新曲「Indian Ocean」を発表した。この曲には、インドの作曲家/プロデューサーのA.R.ラフマーン、A-haのキーボード奏者マグネ・フルホルメン、トラヴィスのドラマー、ニール・プリムローズが参加している。このシングルの収益は、イスラムの小さな親切チャリティを通じて、津波の被害が最も大きかった地域のひとつであるバンダ・アチェの孤児たちを支援するために使われた。当初、このシングルはいくつかのオンライン・ミュージック・ストアを通じてのみリリースされたが、後にコンピレーション・アルバムCat Stevens: Gold'をフィーチャーした。
2005年5月28日、ユセフ・イスラムはデュッセルドルフで開催されたAdopt-A-Minefieldで基調講演とパフォーマンスを行った。Adopt-A-Minefieldチャリティーは、ポール・マッカートニーの後援のもと、地雷除去や地雷生存者の社会復帰のための意識向上と資金調達のために国際的に活動している。ユセフ・イスラムは、ジョージ・マーティン、リチャード・ブランソン、ブートロス・ブートロス=ガリ博士、クラウス・フォアマン、クリストファー・リーなどを含む名誉委員会の一員として出席した[37]。
2005年半ば、ユセフ・イスラムはドリー・パートンのアルバム「Those Were the Days」でギターを弾き、彼の「Where Do the Children Play」のヴァージョンに参加した(パートンはその数年前にも「Peace Train」をカヴァーしている)。
2006年5月、BBC1の番組『Imagine』で、彼の新しいポップ・アルバムを前に、Alan Yentobとの49分間のドキュメンタリー『Yusuf: The Artist formerly Known as Cat Stevens』が放送された。このドキュメンタリー映画では、1960年代後半から1970年代にかけての貴重なオーディオクリップやビデオクリップのほか、ユスフ・イスラム、彼の兄、複数のレコード会社の重役、ボブ・ゲルドフ、ドリー・パートンなどが、キャット・スティーヴンスとしてのキャリア、改宗してユスフ・イスラムとして登場したこと、そして2006年に音楽活動に復帰したことについての広範なインタビューを行っている。彼がAn Other Cupをレコーディングしていた時にスタジオで歌っていたクリップや、2006年に彼がギターで "The Wind "や "On the Road to Find Out "などのキャット・スティーヴンスの曲を数節歌っている抜粋がある[38]
ユスフが世俗音楽に復帰したのは、同じくミュージシャンでありアーティストでもある21歳の息子ムハンマド・イスラムがギターを家に持ち帰ったことがきっかけだった[5]。ムハンマドの職業名は「ヨリヨス」であると考えられており、彼のデビューアルバムは2007年2月にリリースされた[39]Yoriyosはユセフのアルバム「An Other Cup」のアートも手がけている。
2006年から、キャット・スティーヴンスの曲「ティー・フォー・ザ・ティラーマン」がBBC-HBOシットコム「エクストラ」のリッキー・ジャーヴェ のテーマ曲として使用された。2006年のクリスマスシーズンには、キャット・パワーの「How Can I Tell You」のカヴァーとともに、ダイヤモンド業界によるギフト贈呈のテレビCMが放映された。
2006年12月、ユセフはノルウェーのオスロで開催されたノーベル平和賞コンサートで、受賞者であるムハマド・ユヌスとグラミン銀行に敬意を表してパフォーマンスを行ったアーティストのひとりである。彼は "Midday(Avoid City After Dark)"、"Peace Train"、"Heaven/Where True Love Goes "を演奏した。また、同月にニューヨークで「ジャズ・アット・リンカーン・センター」のイベントとしてコンサートを開き、KCRW-FMのラジオで録音・放送され、ニック・ハーコートのインタビューも放送された。ギターのユセフの伴奏は、キャット・スティーヴンスのレコードの多くでギターを弾いていたアルン・デイヴィスだった。
2007年4月、BBC1はBBC Sessionsの一環としてユセフがポーチェスター・ホールで行ったコンサートを放送した(前回は1979年のユニセフ児童コンサート)。 彼は「Father & Son」、「The Wind」、「Where Do the Children Play?」、「Don't Be Shy」、「Wild World」、「Peace Train」といった名曲とともに、多くの新曲を演奏した。
2007年7月、ユセフはデズモンド・ツツ大主教の南アフリカの平和センターとデボラとカルロス・サンタナのミラグロ財団のためにドイツのボーフムでコンサートを行った。聴衆にはノーベル賞受賞者のミハイル・ゴルバチョフ、デズモンド・ツツやその他の著名な世界的人物が含まれていた。その後、ハンブルクで開催されたLive Earthのドイツ公演のフィナーレアクトとして出演し、キャット・スティーヴンスの名曲の数々と、平和と児童福祉への関心を反映した最近の楽曲を披露した。
ユセフは2007年9月21日にロイヤル・アルバート・ホールで開催されたPeace One Dayコンサートに出演した[40]。
『アン・アザー・カップ』[編集]
2006年3月、ユセフ・イスラムは1978年以来となる全く新しいポップ・アルバムのレコーディングを終えた[41]。アルバム『An Other Cup'』は2006年11月に自身のレーベルYa Records(イギリスではPolydor Recordsが、海外ではAtlantic Recordsが配給)からリリースされた。- ファースト・アルバムMatthew and Son'の40周年にあたる。このアルバムからは同時に「Heaven/Where True Love Goes」というシングルもリリースされた。アルバムのプロデュースは、ディドやロッド・スチュワートを手がけたリック・ノヴェルズ。 演奏者は "Yusuf "と記されており、ジャケットのラベルには "the artist formerly known as Cat Stevens "と、アルバムのアートはYoriyosとクレジットされている。ユセフ・イスラムは「Don't Let Me Be Misunderstood」以外の全曲を作曲し[42]アメリカとイギリスで録音された。[41]
ユセフはこのアルバムを積極的に宣伝し、ラジオやテレビ、紙媒体のインタビューに登場した。 彼は2006年11月にBBCのインタビューを受けた。「僕だから、もちろんそれらしく聞こえるだろう、これは本物だ...息子がギターを家に持ち帰ったときが転機だった。多くの人が共感するような新しいアイデアや音楽が溢れ出したんだ」[43]。
2006年11月のビルボード誌のインタビュー[44]で、アーティストのクレジットが「ユスフ・イスラム」ではなく「ユスフ」である理由について尋ねられた彼は、「『イスラム』はスローガンにする必要がないからだ。セカンドネームは公式タグのようなもので、友人をファーストネームで呼ぶのと同じ。その方が親密だし、僕にとってはそれがこのアルバムのメッセージなんだ」と話した。
スリーブに "the artist formerly known as Cat Stevens(かつてキャット・スティーブンスとして知られたアーティスト)"と書かれている理由について、彼はこう答えた。「多くの人々にとって、それは彼らが持ち続けたい何かを思い出させる。その名前は私の歴史の一部であり、キャット・スティーヴンスとして夢見たことの多くは、ユセフ・イスラムとして実現した[44]」。
2006年12月の『CBSサンデーモーニング』で、ユセフ・イスラムはこう発言した。「キャット・スティーヴンスを探している人は、このレコードの中に彼を見つけるだろう。もしユセフを見つけたいのなら、もう少し奥に進めば見つかるだろう」[5]。
受賞歴[編集]
スティーヴンスは2005年にロックの殿堂入りにノミネートされたが、選出はされなかった[45][46]。
2004年11月10日、ユスフ・イスラムは「平和と人々の和解を促進し、テロリズムを非難する献身的な活動」に対して、ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領の私的財団から「平和のための人」賞を授与された。授賞式はイタリアのローマで行われ、5人のノーベル平和賞受賞者が出席した。1年後の2005年11月4日には、教育と人道支援への貢献が認められ、グロスターシャー大学から名誉博士号を授与された[47]2003年10月、「子どもたちや戦争の犠牲者を支援する人道的救済活動」が評価され、世界社会賞を受賞した[48]。
2005年10月20日、ユセフ・イスラムはASCAPのソングライター・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、ロンドンで行われた特別プレゼンテーションで「The First Cut Is the Deepest」がソング・オブ・ザ・イヤーの栄誉に輝いた。授賞式では、アメリカ作曲家・著作者・出版者協会(ASCAP)がイギリスのトップ作家と出版者であるイギリスのパフォーミング・ライツ・ソサエティ・メンバーを表彰した[49]。
2006年10月11日、ユセフ・イスラムは2年連続でソングライター・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、同曲「The First Cut Is the Deepest」でもう1つの賞を受賞した[50]。
2007年1月4日、ユスフ・イスラムはイタリアのナポリで平和のための地中海賞を受賞した。彼の受賞理由は「世界の平和を増進するために行った活動の成果」とのこと[51]。
2007年3月25日、ドイツのECHOを受諾した。2007年3月25日、ドイツのECHOで 2007年3月25日、ベルリンにてドイツECHOの「音楽家として、また文化交流大使としての生涯の功績に対する特別賞」を受賞[52]。
2007年5月24日、ユセフ・イスラムはロンドンで開催された授賞式で、アイヴォア・ノヴェロ賞の優秀楽曲集部門を受賞した[53]。
2007年7月10日、ユスフ・イスラムは"彼の人道的活動とイスラム文化と西洋文化の間の理解の向上"が評価され、エクセター大学から名誉博士号(LLD)を授与された[54]。 式典には、エクメレディン・イサノグル教授やギタリストのブライアン・メイら著名人が出席した。
ディスコグラフィ[編集]
キャット・スティーヴンス名義[編集]
- 1967: Matthew and Son
- 1967: New Masters
- 1970: Mona Bone Jakon
- 1970: Tea for the Tillerman
- 1971: ティーザー・アンド・ザ・ファイアキャット、Teaser and the Firecat
- 1972: Catch Bull at Four
- 1973: Foreigner
- 1974: Buddha and the Chocolate Box
- 1974: Saturnight (Live in Tokyo)
- 1975: Numbers
- 1977: Izitso
- 1978: Back to Earth
- 2004: Majikat
映画音楽/サウンドトラック[編集]
- 1970年 ディープ・エンド/早春 - 音楽担当:キャット・スティーブンス(イギリス)、カン(ドイツ)/主演:ジェーン・アッシャー、ジョン・モルダー・ブラウン、監督:イエジー・スコリモフスキ(Soundtrack)[55]
ユスフ・イスラム名義[編集]
- 1995: The Life of the Last Prophet
- 1999: Prayers of the Last Prophet
- 2000: A Is for Allah
- 2001: Bismillah
- 2003: I Look I See
- 2005: Indian Ocean
- 2006: Footsteps in the Light
- 2006: An Other Cup
- 2007: Yusuf's Cafe Session
ベスト盤[編集]
- 1975: Greatest Hits
- 1984: Footsteps in the Dark: Greatest Hits, Vol. 2
- 1987: Classics, Volume 24
- 1999: Remember Cat Stevens - The Ultimate Collection
- 2000: The Very Best of Cat Stevens
- 2001: Cat Stevens Box Set
- 2005: Gold
- 2007: 20th Century Masters: The Millennium Collection: The Best of Cat Stevens
- 2007: Harold and Maude
- 2007: Collected
備考:「ワイルド・ワールド」は、イギリスのティーン向けドラマ『スキンズ』のシリーズ1の最終回で使用された。ラストシーンでは、登場人物のほとんどが歌詞の一部を歌い、シドがその大部分を歌った。
日本公演[編集]
- 6月21日,22日 中野サンプラザ
出典[編集]
- ^ “Interview With Yusuf Islam, Formerly Cat Stevens, Larry King Live”. CNN. (2004年10月7日) 2007年1月7日閲覧。
- ^ Yusuf Islam:The Artist Formerly Known as Cat Stevens. BBC. Interview with Alan Yentob, May 2006.
- ^ Cat Stevens Majikat - Earth Tour 1976. Eagle Vision, 2004-05-18
- ^ a b Amy Reiter."Salon People: Cat Stevens", Salon.com, August 14, 1999.
- ^ a b c d , CBS Sunday Morning, 3 December 2006.
- ^ RIAA
- ^ Rolling Stone Top 500
- ^ NPR interview 28 July 2005 on Morning Edition
- ^ Quoted in Timothy Crouse."Cat Stevens on Teaser and the Firecat". Rolling Stone 9 December 1971.
- ^ IFPI. Announcement of Platinum Europe Award. Retrieved from http://www.ifpi.org/content/section_news/plat_month_20030605a.html
- ^ Songfacts
- ^ BBC Danny Baker feature.
- ^ 。Salon.com "People: Cat Stevens", Amy Reiter, August 14, 1999
- ^ from his website
- ^ a b Larry King Live (2004年10月7日). “Interview With Yusuf Islam”. CNN. 2006年9月30日閲覧。
- ^ Forbes, Jim (host) (2000). Cat Stevens: Behind the Music (TV-Series). United States: VH1.
- ^ 彼は2007年1月、キャット・スティーブンスの音楽から年間約150万ドルの収入を得続けていると推定している。「ユセフ・イスラムへの質問 Singing a New Song" Interview with Deborah Solomon, The New York Times Magazine, 2007年1月7日
- ^ From Mountain of Light website
- ^ Kelly, Jane (1998年3月24日). “Worlds Apart: People thought I was mad when I stopped being Cat Stevens the rock star — but I've never been happier”. Daily Mail 2006年5月6日閲覧。
- ^ 2006年5月のBBCでのインタビュー では、アラン・イェントブの発言から引用されたとされる当時の新聞の切り抜きが掲載されている。
- ^ Bio Shows Cat Stevens As a Man of Peace
- ^ "Cat Stevens Breaks His Silence", interview by Andrew Dansby, June 14, 2000
- ^ Quoted by Andrew Dansby in Rolling Stone, September 17, 2001, "Cat Stevens Condemns Attack"
- ^ Music Legend Gives Huge Donation to Flood Relief Fund
- ^ Sara Kehaulani Goo (2004年9月22日). “Cat Stevens held after D.C. flight diverted”. The Washington Post 2007年12月6日閲覧。
- ^ Sara Kehaulani Goo (2004年9月23日). “Cat Stevens leaves U.S. after entry denied”. The Washington Post 2007年12月6日閲覧。
- ^ “Cat Stevens "shock" at US refusal”. BBC. (2004年9月23日) 2007年12月6日閲覧。
- ^ “Powell orders review”. Sky News. (2004年9月30日) 2007年12月6日閲覧。
- ^ “Yusuf Islam wants name off 'no-fly' list”. Associated Press. (2004年10月2日) 2007年12月6日閲覧。
- ^ Jon Pareles (2006年12月20日). “Yusuf Islam Steps Back Into Cat Stevens's Old Sound” 2007年12月6日閲覧。
- ^ Dean Goodman (2007年10月20日). “Folk artist Yusuf Islam to sing about deportation”. Reuters 2007年12月6日閲覧。
- ^ a b “Singer Islam gets libel damages”. BBC. (2005年2月15日) 2006年5月6日閲覧。
- ^ Islam, Yusuf (2004年10月1日). “A cat in a wild world”. The Guardian 2006年5月6日閲覧。
- ^ a b Nolen, Stephanie (2000年5月22日). “The Cat's Comeback”. The Globe and Mail. p. R1 2007年1月12日閲覧。
- ^ この単語を "hearsay"と表記するオンラインソースもあるが、The Globe and Mailオンラインアーカイブの公式コピーには "heresy "と書かれているのでそれに準拠
- ^ "Yusuf Islam sings for tsunami victims and told to make more music and spread peace" (Press release). Mountain of Light. 24 January 2005. 2006年5月6日閲覧。
- ^ Yusuf Islam website
- ^ 。Video on Google Video
- ^ his official website.
- ^ All-star line up for Peace One Day
- ^ a b Newman, Melinda (2006年3月17日). “A cat in a wild world”. Billboard.com 2006年6月9日閲覧。
- ^ written by Bennie Benjamin, Gloria Caldwell and Sol Marcus; discussed by Yusuf in a November 2006 interview
- ^ Quoted in Agence France-Presse article
- ^ a b Williamson, Nigel (2006年11月17日). “The Billboard Q&A: Yusuf Islam”. Billboard.com. 2007年8月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年1月8日閲覧。
- ^ “Cat Stevens Nominated for Rock & Roll Hall of Fame”. CatStevens.com (2005年9月15日). 2006年5月6日閲覧。
- ^ Friedman, Roger (2005年9月14日). “Cat Stevens Nominated for Rock Hall”. Fox News. 2006年5月6日閲覧。
- ^ “World should do more”. New Sunday Times. (2005年11月6日). p. 26
- ^ Yusuf Islam awards
- ^ 2005 ASCAP Press release
- ^ 2006 ASCAP Press release
- ^ Press release
- ^ “Yusuf Islam's Manager Refutes 'Veil' Allegations”. PR Newswire (2007年4月2日). 2007年5月27日閲覧。
- ^ The Ivors
- ^ Honorary degrees for Cat Stevens
- ^ https://www.imdb.com/title/tt0066122/
- Cat Stevens Breaks His Silence Rolling Stone article, June 14, 2000
- Billboard Q&A with Yusuf Islam November 2006
- New York Times Magazine Q&A with Yusuf Islam January 2007
- Yusuf Islam: Short Bio
- Exclusive video interview with Cat Stevens The Hour, January 3, 2007.
外部リンク[編集]
- Cat Stevens - IMDb(英語)
- Cat Stevens - Myspace
- Yusuf Islam - Myspace
- Yusuf Islam's official website
- Small Kindness, Yusuf Islam's charity
- Mountain of Light, Yusuf Islam's spiritual website