松平康昌
松平 康昌(まつだいら やすまさ、1893年(明治26年)11月12日 - 1957年(昭和32年)1月4日)は、昭和期の日本の華族、官僚。旧福井藩主家(越前松平家)第19代当主。従二位勲一等侯爵。明治大学政治経済学部教授や相模女子大学学長を務めた。妻は徳川家達二女の綾子。
来歴
1893年、松平康荘の子として生まれる。
1905年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1912年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1919年、京都帝国大学法学部卒業後、明治大学や日本大学などの講師を務める。1924年、イギリスやフランスに留学する。1930年12月15日、父の死により家督を相続。侯爵として貴族院議員を務め、火曜会に所属する。近衛文麿、木戸幸一、原田熊雄らの運営する新進華族の会合「十一会」にも参加した。
1936年6月13日、内大臣秘書官長に就任する。1945年11月24日退任、1946年1月17日、宗秩寮総裁に就任。
昭和天皇の側近・宮中グループの中心人物の一人であり、終戦直後から連合国軍最高司令官総司令部と接触をはかって東京裁判の対策にあたった。1946年3月から4月にかけて、松平慶民・寺崎英成・稲田周一・木下道雄と「五人の会」を結成して天皇から聞き取りを行い、「昭和天皇独白録」の作成にあたった。
1947年3月27日、式部頭(のち式部官長)となる。1957年1月4日、式部官長在任のまま死去。
備考
- 1945年6月、軍人であった息子康愛が戦死したため、康昌没後の越前松平家は徳川達成の四男宗紀を養子に迎えている。康愛の妻・久美子(1922年 - 2018年)は徳川慶久の娘、1944年に長女智子(宗紀と婚姻)を出生。夫没後は娘とも離別し、戦後、亡夫の旧友だった井手次郎(医師)と再婚し井手久美子として生きた[1]。最後の将軍徳川慶喜の5番目の孫であり、著書に自伝『徳川おてんば姫』がある[1]。
- 1934年、旧福井藩士であった岡田啓介の組閣に際しては、資金的な援助を行っている。
- 晩年の1956年に矢次一夫と対談している。のち『天皇・嵐の中の五十年 矢次一夫対談集』(原書房、1981年)に収録
- 勝田龍夫『「昭和」の履歴書』(文藝春秋、1991年)巻末に、評伝と松平康昌「天皇陛下と終戦」が収録。
- 青木冨貴子『昭和天皇とワシントンを結んだ男 「パケナム日記」が語る日本占領』(新潮社、2011年)占領期の活動が描かれている。
脚注
- ^ a b 「花のような人」95歳で作家デビューした徳川慶喜の孫娘の人生 AERA 2018年8月6日号
関連項目
日本の爵位 | ||
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先代 松平康荘 |
侯爵 (福井)松平家第3代 1930年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |
その他の役職 | ||
先代 松平康荘 |
福井松平家第19代当主 1930年 - 1957年 |
次代 松平宗紀 |