劉裕

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武帝 劉裕
初代皇帝
王朝
在位期間 420年7月10日 - 422年6月26日
姓・諱 劉裕
徳輿
諡号 武皇帝
廟号 高祖
生年 興寧元年3月17日
363年4月16日
没年 永初3年5月21日
422年6月26日
劉翹
趙安宗
后妃 臧愛親(追贈)
陵墓 初寧陵
年号 永初420年 - 422年
※幼名は寄奴

劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝の初代皇帝。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。東晋簒奪した桓玄打倒を契機に地位を築き躍進、外には南燕後秦を滅ぼし、内では五斗米道譙縦の反乱を鎮圧し、また政敵の劉毅司馬休之を打倒、東晋内の第一人者としての立場を確立し、恭帝より禅譲を受けた。土断などの経済政策で財政の再建も成し遂げている。一方で政敵の粛清の苛烈さや東晋二帝(安帝・恭帝)の暗殺、いちど奪還した長安洛陽の即時失陥についての批判も受けている。

生涯

出自と幼少・青年期

徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実際に住んでいたのは南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)である。宋書ではの高祖劉邦の異母弟である元王劉交の子孫と記されているが、実態は東晋の中級官吏の出身である[1]。曾祖父の劉混の時代に華北の戦乱を避けて綏輿里から京口に移った。

生母は産後の肥立ちが悪化し、劉裕が産まれてから産熱で亡くなった。困窮した幼少時代であり、父は幼い劉裕のために乳母を雇う金にも事欠き、養育を放棄されかけたこともあった。見かねた生母の姉・趙氏が代わりに劉裕へ乳を与え、そこから寄奴という幼名がつけられた[2]。なお趙氏の息子である劉懐粛劉懐慎兄弟は後に劉裕の配下将として働いている[3]

父は後妻に蕭文寿を迎え、劉道憐劉道規を産むも、劉裕が10歳の時に死去。残された劉裕はわずかに有していた田での耕作や草履を商い生計を立てていた。成長したのちには大志を抱き、こまごまとした礼節にはこだわらなかった。ただし継母にはよく仕えていると称賛を受けていた[4]

成りあがる

399年五斗米道の信者を中心に起こった孫恩の乱において、劉裕は北府軍の劉牢之の配下将となり、多くの勝利を挙げた。対孫恩戦で挙げた武功より、建武将軍への昇進を果たす。401年に再び孫恩らが襲来、建康に攻撃を仕掛けるも叶わず撤退。これを徹底的に追撃して海辺に駆逐した。

402年、西府軍団を率いる桓玄が首都の救援の名目で建康を制圧した。この際、劉牢之は桓玄に寝返りを考える。劉裕と劉牢之の甥である何無忌はそれを懸命に諌めるも聞き入れられず、結果桓玄が司馬道子らを殺害して実権を握った。後悔した劉牢之は江北に逃れてともに再起を図ろうと劉裕を誘ったが、劉裕は「将軍は強卒十万を率いながらも投降し、全軍の支持を失ったではありませんか!」と述べて拒絶した[5]。劉牢之は孤立して最期には自殺し、劉牢之を失った北府軍団は解体され、劉裕も桓玄の支配に属する。

403年10月、桓玄が安帝を廃して、国名を楚として自ら皇帝を称した(桓楚)。この際、桓玄は劉裕を高く評価し、酒宴を何度も開いて慇懃丁寧に応対し、贈与品も手厚くした。

404年2月、劉裕は何無忌・劉毅・諸葛長民らを同志として、桓玄打倒のため決起した。劉裕は京口にて桓玄のいとこである桓修を切り捨てると檄を飛ばし、建康に向かった。劉裕軍はわずかに1700名という寡兵であったが、桓玄の繰り出す兵はことごとく破られた。桓玄は舟で長江から江陵に逃走し、幽閉していた安帝を連れて再度東下したが、攻め上ってくる劉毅・何無忌・劉道規の軍に蹴散らされて江陵も失い、5月には蜀で馮遷に殺された。劉裕は桓玄に追放されていた安帝を復位させた。

桓玄打倒、安帝復位の功績により、劉裕は鎮軍将軍・都督十六州諸軍事とされた。

南燕征伐、五斗米道撃退

劉裕が東晋国内で発言力を高めた一方、桓玄の残党らは北西の後秦に逃げ込んだ。西では成都で譙縦が謀反を起こし後蜀を打ち立て、北部では南燕や北魏が勢力を伸ばしていた。南では孫恩より五斗米道軍を引き継いだ盧循が地盤を築きつつあった。これら周辺勢力の討伐が劉裕に求められた。

404年3月、盧循が海伝いで番禺を破り、広州刺史の呉隠之をとらえ、実効支配をなした。ただし盧循が広州の地産品などを献上してきたため、政府は盧循の支配を追認、広州刺史としている。

408年1月、車騎将軍につけられたが、同年9月、劉敬宣(劉牢之の子)が後蜀討伐に失敗。任命責任を負い、中軍将軍へ降格となる。

409年2月、南燕軍が東晋との国境付近で大規模な略奪をなし、およそ千世帯が被害に遭った。劉裕は3月に南燕征伐を宣言。多くの者が反対したが、孟昶臧熹謝裕らの後押しを受け、敢行した。7月には南燕首都の広固城を包囲したが、410年2月の陥落までには半年以上の期間を要した。

同月、劉裕の不在を好機と見た盧循は広州より北上。建康との中間地点にあたる豫章にて何無忌を敗死させた。この事態を受け劉裕は南燕の鮮卑人三千余りを穴埋めにして殺害[6]、急遽南下し、4月に建康入りを果たした。5月、劉裕の制止を振り切り迎撃に出た劉毅が五斗米道軍に敗退。孟昶は「臣が五斗米道どもに付け入る隙を与えてしまった。この危機は臣の罪である」と、薬を仰ぎ自殺した。

劉裕が建康の守りをまともに整えられないうちに、盧循軍は建康に接近。そのまま上陸し攻め立てられれば敗北は必至であったが、盧循が敢えて上陸をせず様子見をする作戦をとったことから、最悪の事態は回避される。その間に劉裕は戦闘可能な兵力を石頭城に集結させ、休息及び装備の再分配をなし、周辺地域より集結してきた救援勢力と合わせて各地に兵力を配した。このとき命令違反をなす将兵は殺すなど、命令の徹底を尽くした。結果、建康防衛に成功。逃亡を開始する盧循軍に対し、追撃。411年には盧循を討ち果たす。

南燕征伐、盧循討伐の功から、太尉に昇進した。

蜀討伐、政敵排除

411年4月、荊州を任せていた劉道規が病を得、帰還を願い出た。その代任として劉毅が派遣される。ここで劉毅は、自らの派閥に属する謝混郗僧施などの招聘を願い出る。劉裕はいったん承諾するそぶりを見せたが、間もなく謝混らを捕縛、殺害。412年9月に劉毅討伐を表明、出陣した。この出兵は劉毅の虚を突いていた。先遣隊の王鎮悪が到着した時点で劉毅は病に臥せっており、迎撃の備えをしていなかった。10月に劉毅は討ち取られた。

劉裕は荊州に到着すると、さらに後蜀討伐の軍を起こす。ただし親征はせず、新進の将軍朱齢石に一任し、本人は建康に帰還した。朱齢石の任用は物議を醸したが、413年7月、朱齢石は後蜀を攻め滅ぼした。

建康に帰還した劉裕はクーデター決起以来の同志である諸葛長民を誅殺した後、国内の体制を整えるため奔走。謝晦らの手筈により[7]土断を施行する。ただし徐・兗・青三州に住む晋陵郡に本籍のある者は例外とされた。

東晋の皇族司馬休之が劉毅滅亡後の荊州に赴任、任地にて声望を集めていた。劉裕は415年10月、司馬休之らの子らの失態にかこつけて攻撃。4月に司馬休之は後秦に亡命、ここに国内の対立勢力を一掃した。

長安奪還、そして失陥

後秦では名君であった姚興が死に、子の姚泓が立った。しかしその即位によって兄弟同士の争いが起こるなど紛糾していた。この機を逃すまいと劉裕は北伐に打って出た。416年8月に進軍を開始。前鋒の檀道済・王鎮悪が進む先の後秦勢力は次々と投降。10月には洛陽を陥落させる。洛陽は西晋時代の都であり、歴代皇帝の陵墓が存在している。この地の獲得により陵墓の修復がかなったことは、東晋にとり未曽有の功績である。そのため劉裕は宋公に任ぜられた。劉裕は更に進軍し、417年8月には長安を陥落させ、後秦を滅ぼした。この功績から10月に宋王への進爵が諮問された。

11月、腹心である劉穆之が急死。この事態を受け劉裕は急遽帰途についた。次男の劉義真に長安の運営を任せ、その配下兵力を王鎮悪に取りまとめさせ、12月に長安を発つ。418年1月に彭城入り。ここで改めて王への進爵辞退を表明した。6月には官位が相国に引き上げられ、九錫が与えられた。

一方長安では、王鎮悪が同僚の沈田子に殺害された。長安の情勢が一挙に悪化したため、10月、劉裕は劉義真の代任として朱齢石を派遣する。しかし赫連勃勃が長安を強襲。劉義真は身一つで逃げねばならない有様となり、朱齢石をはじめとした多くの将軍が戦死。かつ、長安を失陥した。

その後劉裕は安帝を暗殺、東晋最後の皇帝となる恭帝を擁立する。そして宋王への進爵を受諾、更には420年6月に禅譲を受け、皇帝に即位した。

南朝宋の初代皇帝

恭帝は零陵王に降格されたのち、421年9月に殺害された[8]。禅譲後に旧皇帝を殺すようになったのは、劉裕からである。即位後わずか3年で死去。長男である劉義符が即位した。徐羨之傅亮・檀道済・謝晦らが後事を託された。

後漢書』の作者の范曄、『三国志』の注釈を行った裴松之五胡十六国時代南北朝時代を代表する詩人陶淵明も劉裕に仕えていた[9]。また、『世説新語』の撰者の臨川康王劉義慶は劉裕の甥にあたる。

言動、行動

  • 若いころ、劉裕は京口の大地主である刁逵刁協の孫)より3万銭もの借金を負っていた。宋書では返済の当てがなく追い詰められていたとし、魏書では踏み倒しをもくろむ[10]とされていたが、ともあれこの借金を劉裕と親交のあった琅邪王氏の名士王謐に肩代わりしてもらっている。のちに王謐は桓玄の配下として働いたが、過去の恩義より劉裕は王謐の罪を問わず、むしろ新政権においても大いに重んじた。
  • 沈田子の父は孫恩に参与しており、その為祖父や沈田子自身は反逆者の家族として追われる身となっていた。逃亡生活中の沈田子と出会った劉裕はその素質に感じ入り、匿うことを決意。「あなたは罪人として扱われている。今はただ付いてきなさい、そうすれば大丈夫だ」と告げ、沈田子のための家を与えた[11]
  • 劉牢之が桓玄に殺されたあと、何無忌が劉裕に今後の身の振り方を問うた。劉裕は単身でいれば危ういことを述べたうえ、共に京口に戻るべきことを勧めた。
  • 劉裕が桓玄を打倒した直後、劉穆之の声望を聞き、「いま未曾有の大仕事に取り掛かっており、事務官が急ぎ必要だ。誰かいい人物を知らないか?」と劉穆之に問うた。劉穆之は「あなたの仕事をサポートするには才覚が求められられます。あなたの目の前にいる人間の才能を超えるものは、ほぼ見当たらないでしょう」と回答した。劉裕はこの返答に「あなたが自ら従ってくれたのならば、ことは済んだようなものだ」と笑った[12]。なお後の皇帝と補佐役が合流するにあたり、補佐役が当意即妙の返答をなして皇帝を笑わせるという説話類型は、後漢光武帝鄧禹とのやり取りにも見えるものである[13]
  • 劉裕が実権を握った後、朝廷に音楽が流れていないことを殷仲文が指摘した。興味がないのだと劉裕が返答すると、殷仲文は「聴いていけばわかるようになる」と更に言う。そこで劉裕も「だから聞きたくないのだ」と答えている[14]
  • 劉裕が南燕征伐に出ようかと言うときに、南燕軍が行軍ルートの糧秣を焼き払い、途中の補給ができなければ危険であると説くものがあった。劉裕は南燕軍はそこまで頭が回らないと一笑に付したが、内心では一抹の不安を抱えていた。いざ進発し、南燕領内に差し掛かると、進軍ルートには穀物が実るがままとなっていた。それを見て劉裕は天を指さして言った。「吾が志は、ここに果たされた!」
  • 劉裕は普段、劉穆之に絶大な信任を置いていた。「字が下手なら一枚の紙に六、七文字くらいの大きさで堂々と書けば良い」とのアドバイスを受けても、素直に従うほどである[15]。しかし南燕戦において、南燕の同盟国であった後秦が「軍を引かねば我々が貴様らに襲いかかろう」と脅しをかけてきたとき、劉裕は劉穆之に相談もせず「やれるものならやってみろ」と一喝、使者を追い払う。この対応を劉穆之は責めたが、「襲うと言うならば、宣言する前にやっているさ。戦の機微というやつで、お前の管轄外だから相談しなかったのだ」と返答した。
  • 盧循軍を追討する際、劉裕の陣の旗が折れ、河中に沈んだ。人々は凶兆だと恐れたが、劉裕は笑って「往年の桓玄戦でも同じようなことがあった。今また同じことがあったのだ、これは賊どもが敗れる、と言う事さ」と告げた。
  • 妻の兄の臧燾は晋国内の学問や教育に深く携わる立場である。故に劉裕は義兄に宛て、学問の勃興を願う手紙をしたためている。その書面の内容は「劉裕与臧燾書」と呼ばれ、書道におけるテーマの一つとして知られている[16]
  • 司馬休之の部下である韓延之の声望は、劉裕も聞き及ぶところだった。そこで劉裕は密書をしたため、「そなたらにも軍を差し向けるような形になってしまってはいるが、そもそもそなたらには何の落ち度もない。我は分け隔てなく、多くの者を迎え入れたいと思っている」と勧誘した。これに対し、韓延之は「今まさにわが主を討たんとしているにもかかわらず、この私に向けては甘言を囁かれる。なるほど、確かにその手段はなりふり構わぬもので御座いますね!」と痛烈に批判。それを読んで劉裕は嘆息し、「これぞまさに人に仕えるものの気概だな」と周囲の人間に示した。
  • 司馬休之を攻めるにあたり、初戦にて娘婿の徐逵之らを失う痛手を受けた。この事態に劉裕は激怒し、自ら先陣を切ろうとする。引き留めようとした謝晦に「斬るぞ!」と恫喝したが、「臣なくとも天下は回りましょうが、あなた様なしでは回りますまい!」と返され、ようやく思いとどまった[17]
  • 王鎮悪は劉裕が司馬休之と戦っている間、参戦しようとせず周辺での収奪行為をなしていた。劉裕はその振る舞いに激怒、王鎮悪を呼び出し咎めようとしたが、むしろ王鎮悪に説き伏せられ、不問とした[18]
  • 後秦滅亡を果たした功績の第一等は王鎮悪であったが、彼はその貪婪さでも有名であった。長安陥落後多くの宝物を私蔵、その上であとから到着した劉裕を出迎えた。劉裕が王鎮悪に「この覇業を成し遂げたのは、まさにそなたの力あってのものだ」と労うと、王鎮悪は「劉裕様のご威光や諸将の力あってのものであり、私にどれほどの功績がありましょう!」と答えた。劉裕はそれを聞いて「そなたには馮異に学んでほしいものだが」と笑った。光武帝配下将の馮異は功績のみならず財産に対しても恬淡であったため、そうからかったのである[19]
  • 長安入りした後、姚興の娘を妾として寵愛したが、謝晦に諫められたため、すぐに暇を出した。
  • 劉裕が長安から建康に戻ろうかというとき、劉義真の副官に王鎮悪をつけた。王鎮悪は長安の生まれであり、誰もがその裏切りを懸念していた。沈田子がそのことを劉裕に告げると、劉裕は「やつの周りにはそなたらがいる。もしやつが良からぬことを企んだところでそれは自滅するに過ぎない。もうこれ以上は言ってくれるな」と回答した[20]
  • 劉裕はもともと武を優先し、学問には心得がなかった。貴顕となってからは教養もなければならないと一念発起、清談に挑戦もしている。しかし皆劉裕に忖度をなし、本気で論破をすることはなかった。その中にあって鄭鮮之は容赦なく論破。このことに対し劉裕は「この無学者を本気でねじ伏せてくれるのは、彼だけなのだ」と感じ入っている。ただし鄭鮮之は普段から劉裕にその直剛ぶりをからかわれるような、比較的気安い間柄であったことを付記しておく[21]。 
  • 宋王に任ぜられた後、劉裕は主だった臣下らとともに宴会を開いた。その折に「我が地位が低かった頃、このような立場になりたいとは願ってもいなかったのだが」と述懐している[22]。あわせて「これだけの栄達をしてしまっては心安らぐ暇もない。かくなる上は爵位を返還の上、建康にて余生を送りたいものだが」と語った。劉裕の出身は京口であり、建康ではない。この言葉の違和感に気付いた傅亮は、真夜中、すでに戸締まりのなされた劉裕の屋敷に訪問し、禅譲の手続きを勧めたい、と劉裕に発案した[23]
  • 劉穆之の死後、劉裕は自らの補佐がいなくなった、と嘆いていた。それに対し范泰が「英才は他にもおりましょう。確かに劉穆之の功は絶大ですが、結局は志半ばで倒れてしまったではないですか」と応じると、劉裕は笑いながら「そなたは真の名馬の素晴らしさを知らんのだ」と語った[24]
  • 劉裕、劉道憐兄弟と親交の厚かった貴族の謝裕が死亡。その絶望を劉道憐に宛てた手紙の中で、以下のように記している。「このショックからは、なかなか立ち直れそうにない。お前とて似たようなものだろう。あの方には多くのことを受け入れていただいた。これから先にもともに仕事させていただきたい、と思っていたのに。どうすればいい、どうすればいいのだ!」[25]
  • 即位後の劉裕は、主要な領地の統括を血族で固めていた。中でもお膝元である揚州刺史の座を、弟の劉道憐でなく次男の劉義真に与える。この人事を義母の蕭文寿が咎めたところ、「息子であればその決裁に関する諮問は自分のもとに来ます。しかし道憐に任せたらそうは行かない。加えて揚州刺史の仕事は非常に多く、とても道憐ではさばききれんのです」と言い切った[26]
  • 病に倒れた時、臣下らは祈祷師を呼んで平癒を祈ろうとしたが、劉裕はそれを却下した。神仏のたぐいを信じていなかったがゆえである。
  • 劉裕が危篤の床に伏したとき、皇太子の劉義符に向け、以下のように告げている。「檀道済に幹略はあるが、大きな戦略を描けるような人間ではない。徐羨之や傅亮にはまず叛意などないだろう。謝晦は何度か従軍させたが、非常に機略に通じている。叛意が芽生えるとしたら、おそらくこの男からだ。会稽郡か江州辺りに左遷しておいた方がいいだろう」
  • 劉裕は己を厳しく律し、法度をもまた厳正に整えた。彼の馬には余計な飾り物などなく、けばけばしい楽奏などにうつつを抜かすこともなかった。財貨はすべて外府に預けており、私藏することはなかった。何事にも簡素を好み、履物は常に木の下駄、神虎門から散歩に出ることを好んだが、從者は多くとも十数人ほどであった。自室では子らと共に過ごし、ひとたび公務を離れれば公服を擲ち、家族らと親しんだ。のちに孝武帝劉駿が劉裕の居宅を取り壊して、その跡地に玉燭殿を建築しようと考えた。そこで群臣らとともにそこに入ってみれば、土がむき出しの壁に、葛の粗末な燈籠や、麻の繩拂が掛かるのみであったという。
  • 長女の劉興弟には貧しかったころの着物を与えたうえで、「我々の出自が飽くまで貧しかったことを忘れ、贅沢におぼれるものがあったら、これを示して戒めるように」と語っている。後日劉興弟は劉義隆を諫める際にその着物を用いている[27]
  • 自他ともに厳しい劉裕であったが、初孫(劉興弟と徐逵之の子)の徐湛之と五男の劉義恭には非常に甘く、常に側に侍らせるほどの寵愛を見せていた[28]
  • 劉裕は熱病を持病として抱えていたが、加えて晩年には現役時代の戦傷がひどく痛むようになり、座るにも寝るにも常に冷やしておかねばならなかった。ある人が石でできたベッドを献上、劉裕の熱にひどく具合が良かったが、劉裕は「木製のベッドでも経費が掛かるのに、ましてや石製では」と、すぐさまそのベッドを取り壊させた[29]

武勲

武勇

  • 孫恩の乱が起きたとき、数十人の兵卒を率いて偵察に出た。そこで数千の敵兵に見つかり包囲された。多くの配下が殺されたところに劉敬宣の援護を受け、撃退を果たす。このエピソードが後に「一人で数千人を殺す武勇を見せた」と伝わる[30]
  • 桓玄打倒のため建康に攻め上る中、桓玄軍の剛将の呉甫之・皇甫敷と遭遇。この戦いで決起の同胞である檀憑之が戦死、あわや総崩れとなりかけたが、劉裕自ら陣頭に立ってこの両将を討ち取り、逆転勝利をおさめた。

虚計

劉裕はその戦いにおいて「兵の虚実を操る」場面が多い。

  • 五斗米道軍との戦いでは城壁の上に怪我人や病人を配し、いかにも疲弊しているように見せかけ、油断した敵が城内に入り込んだところで一網打尽にする策略を取っている。
  • 敵が多く、自軍が少ない戦いにおいては、あえて自軍を割いて伏兵を多くの箇所に、ただし一箇所あたり数名という少なさで配した。敵軍が襲いかかってきたところで一斉に伏兵に旗を振らせ、鐘を鳴らさせ、自軍勢力の誤認を引き出し後退させている。このあと追撃に失敗し反攻を受けるのだが、先に伏兵を配した箇所で死体の装備を外して腰掛けさせ、悠然と構えているよう見せかけた。罠の気配を疑う敵軍に対し、劉裕は反転、攻勢に転じる。果たして五斗米道軍はさらなる罠を恐れ引き上げた。それを確認し、劉裕は態勢を整え直すことができた。
  • 劉裕らが京口城を占拠すると、桓玄の臣下らが遅れて到着。劉裕は城壁の上から「天子はすでに助けられ、その命を受けて我々は立ち上がった。逆臣桓玄の首もまもなく到着しよう。貴様らは今さら何をしに来たのか?」と恫喝。無論このタイミングではどちらも空言であったが、桓玄臣下らはその言葉を鵜呑みとし退散した。
  • 劉毅討伐の後、建康に戻ってこようとする劉裕を、諸葛長民は亡きものにしようと企んでいた。劉裕はその企みを事前に察しており、帰還の日程を偽って諸葛長民の計画をコントロールし、自らはその裏をかいて早めに建康に帰還。諸葛長民の背後より召喚命令を下した。自らの企みが露見していたことを悟った諸葛長民は、劉裕に胸のうちを打ち明けたあと、そばに潜んでいた丁旿によって撲殺された。

戦術

  • 建康決戦においては建康北東の山の覆舟山に伏兵を配した後、山の南部を放火。折しも建康には北東、つまり覆舟山方面からの風が吹いており、建康を守る桓玄軍は煙の向こうの劉裕軍の全容を把握できず、煙の向こうから聞こえる鬨の声、ドラ、太鼓の音に苛まれ恐慌、瓦解した。
  • 南燕戦後の五斗米道建康襲撃においては、「賊軍は多、わが軍は寡。この状態で兵力を分散させでもすれば、我々の防備の手薄さを即見抜かれてしまう。いったん全軍を石頭城に集め、状況に応じて各拠点に派遣する。奴らがこちらの守りを配していないところを攻めてきたら、その時になって考えるしかあるまい」と、やや弱気な発言が残されている。
  • 建康防衛戦では南燕戦で入手したばかりの鮮卑兵をすぐさま実戦投入、戦果を挙げている。
  • 五斗米道軍の追討をなす際、劉裕はあらかじめ川の西岸に、歩兵騎兵を火計の準備を整えたうえで配備し、決戦に臨んだ。待機を命じられた将兵らは理由がわからず戸惑っていたが、戦局が進むと強い東風が吹き、五斗米道の船が西岸、つまり待機を命じられた者たちの前に流されてきた。目の前に無防備な獲物を与えられた将兵らは我先にと火を射掛け、五斗米道軍に甚大な被害を与えた。
  • 後蜀攻略の作戦を練るにあたり、劉裕は朱齢石と攻略作戦を話し合っていた。しかし作戦内容は飽くまで箱の中にしまって秘中の秘とし、蜀の入り口、白帝城に至ったところで初めて開陳。内容は「敵は、こちらが前回の失敗を踏まえて攻めてくるだろうと想定しよう。さらにその裏をかけ。かつ、陽動を敵の想定ルートに派遣しろ」というものだった。この読みは的中、朱齢石は成都陥落を達成した[31]
  • 五斗米道との戦いでは「神弓」と呼ばれる兵器で大打撃を与え、後秦討伐を北魏に妨害された際には大弩100張にて包囲する北魏軍を恐慌に陥らせたという描写がある[32]

戦略

  • 桓玄による専横が激しくなった頃、劉裕と何無忌は盧循征伐のため会稽に出ていた。そこで何無忌が劉裕に決起を提案するも、桓玄がいまだ簒奪をなしていない、会稽が建康から遠く、桓玄に準備の猶予を与えてしまう、といった理由を挙げ反対した。即位後、喉元の京口で決起するほうが成算が高い、と見越しての発言である。なおこの戦略は、もとは劉裕の支援者たる会稽の貴族、孔靖の提案である[33]
  • 反桓玄クーデターにあたっては、広陵・京口・建康・歴陽といった要地で同時に決起できるよう準備を進めていた。ただしこの計画は建康で露見、参与者が殺害される、という形で幕を開けた。同じく歴陽も失敗。広陵~京口の一点突破という形となった。
  • 五斗米道軍追撃にあたり、劉裕は後を追って川を遡るルートの他、当時進軍ルートとしては一般的ではなかった海路にて直接敵の本拠地・番禺を叩く作戦を提唱した。この作戦は危険極まりなく、反対するものも多かったが、統率する孫処および沈田子は劉裕の期待に応え、五斗米道軍の帰還に先んじて番禺を陥落。五斗米道軍は帰投先を奪回するための戦いを強いられ、その逃亡速度を大いに削られた。なお、この作戦を展開するに当たり、孫処らがすぐ出撃できていること、かつ途中の臨海では劉裕の妻の弟である臧熹が物資補給を万全になしていることから、南燕戦を起こすよりも前に、すでに劉裕が海路を想定していたことが伺われる。臧熹の臨海郡赴任は南燕戦の前である[34]
  • 即位後の将軍叙任には対北魏シフトの様子がうかがわれる。長安から武関を通じ、雍州に至るルートには生母の弟である趙倫之を、広く国境を接する黄河~淮水エリアにはいとこの劉懐慎を守備責任者に任じた。関中と蜀の境界エリアである仇池で半独立状態であった楊盛に車騎大将軍、西涼李歆征西将軍西秦乞伏熾磐に安西大将軍、高句麗高璉に征東大将軍、百済夫余腆に鎮東大将軍の官位をそれぞれ授け、北魏への牽制としている。

施策

  • 桓玄打倒後、桓玄の部下となっていた刁逵を処刑、刁氏の広大な土地と財産を貧民に分配した。
  • 学問を奨励するにあたり、形骸化して久しかった秀才孝廉の制度を再度整備した。
  • 鄭鮮之伝[35]何叔度[36]において、劉裕台頭時期の記述に「新制」という言葉が見え、これが苛烈なものであったと記される。例えば「県長クラス以上の官吏で、父母の看病を理由に職務を離れようと考えるものには禁錮三年の罰を課す」「強盗をしたものは斬刑、その家族も公開処刑」といった内容が宋書に残されている。
  • 東晋時代に分裂の元となった北府と西府をそれぞれ皇族が治めるよう定めた。

瑞祥

  • 安帝を殺して恭帝を推戴したのは、劉裕が「昌明(孝武帝の字)の後、なお二帝あり」という予言を気にしたためである、という[37]
  • 404年から419年にかけ、金星が昼間に見えることが7回あった。それは占いによれば「皇帝の姓が変わる兆しである」と解釈された。
  • 411年、東の空に五つの虹がかかった。これは天子が廃され、新たな聖人が迎えられる兆しである、とされた。
  • 413年、土星木星、金星、火星が一か所に集合した。惑星集合は大いなる乱の起こりと、新たなる覇者の誕生を兆すとされていた。
  • 417年、土星が太微垣に入る。占いでは「新たな王が立つ兆しである」とされた。
  • 419年の冬、黒龍が四体、天に登った。「冬に龍が見えるのは、新たな王者が天命を授かる兆しである」とされた[38]

評価、受容

同時代人の評価

  • 孫恩討伐に従事した北府軍団は軍規の乱れが見られたが、劉裕の部隊は最も軍規が厳正であったとして信望を集めた。
  • 桓玄の専横が甚だしかった頃、劉毅の家に赴いた何無忌が「桓氏の天下をひっくり返すとしたら誰だろうな?」と聞いた。劉毅はやや言葉を濁した後、「劉裕殿くらいではないかな」と回答している[39]
  • 桓玄は劉裕を初めて目の当たりとしたときに「いかにも只者でない風貌であった。きっと人傑とはあのような者の事を言うのだろうな」と述べている。
  • 桓玄の妻は劉裕を恐れて殺害する事を夫に薦めていた[40]。桓玄は「わしは中原も平定したいのだ。劉裕なしでこの大事業はなしえまい。関中の平定がなってからそのことは考えるしかない」と答えている。
  • 劉裕が決起したとき、桓玄は、敵を侮る配下に対し「劉裕は一世の雄と呼ぶに足る男なのだぞ」と説いている。
  • 盧循の部下の徐道覆は「劉裕が自ら指揮を執ってここまで攻め込んできてしまえば、もはや盧循様の神武をもっても敵うものではありません」と、劉裕が南燕に出向いているうちに建康を落とすべく説得している。
  • 北魏の拓跋嗣崔浩に、劉裕の才覚が慕容垂と比較していかなるものであるかを質問している。崔浩は慕容垂が父祖以来の資源に基づき活躍したのに対し、劉裕は寒微の生まれから出たにも関わらず赫赫たる武功を挙げていることを理由に挙げ、劉裕が上であると語った。また「劉裕が逆乱を平らげたること、司馬徳宗(東晋の安帝)にとっての曹操に値する」と評した[41]
  • 赫連勃勃は謀臣の王買徳に劉裕の後秦討伐について問うている。王買徳は「乱をもって乱を制するたぐいのふるまいであり、そこに平和をもたらそうという意図は見えません。長安は要衝と呼べる地ではありますが、そこに幼児を置いて早々に帰還してしまったのが何よりの証拠です。陛下が攻撃を仕掛ければ、たやすく攻め落とせるでしょう」と劉裕の措置の脆弱さを論じた[42]

後世人よりの評価

  • 宋書を編纂した沈約は、宋書武帝紀のまとめとして、「魏や晋はその成り立ちより危うい権威であったが、劉裕は寒微の出であるにも関わらず大いに武威を示して地位を築いた。前二者が名目によって成り立ったのに対し、宋は実あるものとして成り立ったと言える」と記した。『南史』を編んだ李延寿は、沈約の論に従いつつも、後継体制が脆弱であったことを嘆いている[43]
  • 南朝梁裴子野は、劉裕について「良吏としての才は曹操・司馬懿に並ぶが、その枠に収まる人物ではない」とした。この論を受け、虞世南は『帝王略論』において沈約と同様の論を展開した後、「前代の資産を持たず皇帝となった劉裕は、その闊達さにおいては劉邦の、その開かれた胸襟の広さについては劉秀の気風を備えていた」と結論づけた[44]
  • 南朝梁の蕭方等および裴子野は、桓玄配下の王謐を救ったことと刁逵を殺害したこととを引き合いに出し「恩に報い、怨みに報復するとはいえ、やや狭量なのではないか」と評している[45]
  • 唐の朱敬則は『宋武帝論』にて、当時劉裕が倒したのが強敵とは呼べないこと、宋の功臣の子孫が貴顕として残っていないこと、関中で徳にもとる振る舞い(滅ぼした後秦の公主を妾として寵愛した)をしたこと、長安を早期に失陥したことなどから、その君子としての徳が疑問視されていたと紹介する。朱敬則はこれらの論に概ね同意しつつ、江南出身の劉裕にとり関中は片田舎であり、積極的に保持すべき対象ではなかったと語り、「時流に巧みに乗ることのできる智者ではあった」と評した[46]
  • 北宋蘇轍は『歴代論』にてその武および智が卓絶していたことは認めつつも、関中を重要視しないままで禅譲を求めたことを仁ならざる振舞いである、としている。その上で知恵がいくらあっても仁に欠けていれば人々には敬われない、と孔子の句を引用し、批判している[47]
  • 北宋の何去非は『何博士備論』にて「志」、すなわち関中の維持を重んじなかった劉裕の振る舞いを批判こそするものの、その振る舞いは過日に南燕征伐ののち盧循によって亡国の危機にさらされたトラウマが尾を引いていた、と分析する。ただし、それによって天下統一の機は失われてしまったのだ、とする[48]
  • 北宋で編まれた司馬光資治通鑑』は各歴史書よりの情報をより合わせて編纂されたものであるが、劉裕の個人的武勇を記す内容についてはよりドラマティックになるよう編集されている(例えば『宋書』で「會遇賊至,眾數千人,高祖便進與戰。所將人多死,而戰意方厲,手奮長刀,所殺傷甚眾。」とされている部分が『資治通鑑』では「遇賊數千人,即迎撃之,從者皆死,裕墜岸下。賊臨岸欲下,裕奮長刀仰斫殺數人,乃得登岸,仍大呼逐之,賊皆走,裕所殺傷甚眾。」とされている)。この改変に至った典拠は不明である。
  • 南宋で編まれた曾先之十八史略』では、劉裕が長安の父老たちが泣きながら引き留めたのを振り払って建康に帰還したこと、安帝を縊り殺したこと、恭帝より位を譲り受けたのちに即殺害したことを記している。また「宋高祖」の章では、出生伝説のうち「ヘビの神を傷つけたが、劉裕が王者であるため復讐ができない」という攻撃的な側面を持つ伝説のみ特記している。
  • 王夫之は『読通鑑論』にて劉裕の行いは徹底的に悪であると糾弾している。ただしその武功の大きさは認めており、「漢以後、唐に至るまで、それでも中華の主と呼べたのはこの劉宋くらいであろう」と語っている[49]
  • 方苞は『宋武帝論』にて劉裕が曹丕や司馬炎に比べて資産薄く、すでに年老いておりながらも子どもたちが未だ幼かったため満足な後継体制も確保できない状態であった事を指摘する。これらの要素を宋の寿命が短くなった原因とした。「智詐はやがて毒となる」と、その論の結びにて述べる[50]

日本における評価

  • 日本において中国史は十八史略によって学ばれるものであった。その影響もあってか、1837年に勃発した大塩平八郎の乱においては、その檄文中にて「此度の決起は平将門明智光秀、漢土の劉裕・朱全忠の謀反の類と見られよう」と述べられ、謀反者たちと同列の扱いとなっている[51]
  • 田口鼎軒支那開化小史』では「功を挙げた武閥は帝位を狙う」として王敦蘇峻桓温の系譜の末、ついに晋室を覆したものとして劉裕を挙げる。また魏以降天下を取れないにもかかわらず禅譲を繰り返してきた歴代の王朝建立者らはその威徳が代を追うごとに減じた、と評する[52]
  • 那珂通世支那通史』では「千人の敵を劉裕がほぼ一人で撃破した」と認識されうる形でその武勇が記されている。その後の論調はほぼ十八史略と同一であるが、ヘビ神の伝説を載せていない分その攻撃性は緩和されている[53]

生まれや育ちにまつわる風説

「項」姓出身説

北斉魏収が編纂した『魏書』島夷劉裕伝では、もとの姓が項で可能性があると記されている。ここから端を発し、項燕やその孫の項羽と紐づけようとする風説が存在している。しかしながらその説の根拠である魏書の記述は「或云本姓項,改為劉氏,然亦莫可尋也。[54]。意訳すれば「どこから項姓説が出てきたかは不明である」であり、仮説としてすら結びつけられるだけの根拠ではない。

少年青年時代について

劉裕の親や姻戚の官位よりすれば、劉裕は最低でも郡太守を輩出する家柄の出身である。しかしながら風説では、さも劉裕が底辺出身であるかのように謳われている。これは資治通鑑が劉裕の青年時代の様子を宋書[55]でなく、敵対者が劉裕を批判するために持ち出した、魏書島夷劉裕伝の記述[56]を採用したことによる[57]

諸葛長民とのやり取り

作家の田中芳樹は劉裕の型破りな英雄像を紹介するにあたり、劉裕と諸葛長民との会話を引いている。諸葛長民が「劉備諸葛亮のように活躍しよう」と持ちかけたところ、劉裕は「自分はただの貧乏人の子だ」、と突き放した、というものである[58]。ただし、このエピソードの出典は不明である。

宗室

后妃

劉裕は皇后を立てていない。即位前の408年に豫章公夫人として死去した臧愛親を、即位後に敬皇后としている。

  • 会稽長公主 劉興弟(徐逵之(徐羨之の兄の徐欽之の子)の妻)
  • 呉興長公主 劉栄男(王偃の妻)
  • 広徳公主
  • 宣城公主(周嶠の妻)
  • 新安公主(王僧朗の子の王粋の妻)
  • 呉郡公主(始安公主の死後、褚湛之の後妻となった)
  • 富陽公主(徐羨之の子の徐喬之の妻)
  • 始安公主(褚湛之の妻)
  • 義興長公主 劉恵媛
  • 豫章長公主 劉欣男(徐喬にとつぎ、後に何瑀にとついだ)

脚注

  1. ^ 宋書』本紀第一「漢高帝弟楚元王交之後也。交生紅懿侯富……混,始過江,居晋陵郡丹徒県之京口里,官至武原令。混生東安太守靖,靖生郡功曹翹,是為皇考。」また、以下特に断りなき場合は『宋書』武帝本紀による。
  2. ^ 『宋書』巻四十七「孝皇帝貧薄,無由得乳人,議欲不挙高祖。高祖従母生懐敬,未朞,乃断懐敬乳,而自養高祖。」
  3. ^ 『宋書』巻四十七「劉懐粛,彭城人,高祖従母兄也。」
  4. ^ 『宋書』本紀第一「有大志,不治廉隅。事継母以孝謹称。」
  5. ^ 『宋書』本紀第一。ただし『晋書』劉牢之伝では参軍の劉襲の言葉となっている。
  6. ^ 『宋書』巻二十五「六年二月,抜廣固,禽慕容超,阬斬其衆三千餘人。」
  7. ^ 『宋書』巻44 謝晦伝「義熙八年,土断僑流郡縣,使晦分判揚、豫民戶,以平允見稱。」
  8. ^ 『宋書』巻52 褚淡之伝「恭帝遜位,居秣陵宮,常懼見禍,与褚后共止一室,慮有酖毒,自煮食於牀前。高祖将殺之,不欲遣人入内,令淡之兄弟視褚后,褚后出別室相見,兵人乃踰垣而入,進薬於恭帝。帝不肯飲,曰:「佛教自殺者不得復人身。」乃以被掩殺之。」
  9. ^ 陶淵明の作品に「始作鎮軍参軍経曲阿」という作品がある。ただしこの作品における鎮軍将軍は劉牢之説と劉裕説で二分されている。作品 https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A7%8B%E4%BD%9C%E9%8E%AE%E8%BB%8D%E5%8F%83%E8%BB%8D%E7%B6%93%E6%9B%B2%E9%98%BF
  10. ^ 『魏書』巻97 島夷劉裕伝「嘗負驃騎諮議刁逵社銭三萬,経時不還。逵以其無行,録而徴責,驃騎長史王謐以銭代還,事方得了。」
  11. ^ 『宋書』巻100 自序沈林子伝「高祖甚奇之,謂曰:「君既是國家罪人,彊讎又在郷里,唯當見隨還京,可得無恙。」
  12. ^ 宋書 巻42 劉穆之伝「高祖謂之曰:「我始舉大義,方造艱難,須一軍吏甚急,卿謂誰堪其選?」穆之曰:「貴府始建,軍吏實須其才,倉卒之際,當略無見踰者。」高祖笑曰:「卿能自屈,吾事濟矣。」」
  13. ^ 後漢書 巻16 鄧禹伝「光武曰:『即如是,何欲為?』禹曰:『但願明公威德加於四海,禹得效其尺寸,垂功名於竹帛耳。』光武笑,因留宿閑語。」
  14. ^ 『南史』 巻1 武帝本紀「朝廷未備音樂,長史殷仲文以為言,帝曰:「日不暇給,且所不解。」仲文曰:「屢聽自然解之。」帝曰:「政以解則好之,故不習耳。」」
  15. ^ 『宋書』巻42 劉穆之伝「高祖書素拙,穆之曰:「此雖小事,然宣彼四遠,願公小復留意。」高祖既不能厝意,又稟分有在。穆之乃曰:「但縱筆為大字,一字徑尺,無嫌。大既足有所包,且其勢亦美。」高祖從之,一紙不過六七字便滿。」
  16. ^ 『宋書』巻55 臧燾伝「義旗建,為太學博士,参右將軍何無忌軍事,隨府轉鎮南参軍。高祖鎮京口,與燾書曰:「頃學尚廢弛,……」
  17. ^ 『宋書』巻44 謝晦伝「晦前抱持高祖,高祖曰:「我斬卿!」晦曰:「天下可無晦,不可無公,晦死何有!」會胡藩已得登岸,賊退走,乃止。」
  18. ^ 『宋書』巻45 王鎮悪伝「鎮惡性貪,既破襄,因停軍抄掠諸蠻,不時反。及至江陵,休之已平,高祖怒,不時見之。鎮惡笑曰:「但令我一見公,無憂矣。」高祖尋登城喚鎮惡,鎮惡為人強辯,有口機,隨宜酬應,高祖乃釋。」
  19. ^ 『宋書』巻45 王鎮悪伝「高祖將至,鎮惡於灞上奉迎,高祖勞之曰:「成吾霸業者,真卿也。」鎮惡再拜謝曰:「此明公之威,諸將之力,鎮惡何功之有焉!」高祖笑曰:「卿欲學馮異也。」」
  20. ^ 『宋書』巻100 自序沈田子伝「田子及傅宏之等竝以鎭惡家在關中,不可保信,屢言之高祖。高祖曰:「今留卿文武將士精兵萬人。彼若欲爲不善,正足自滅耳。勿復多言。」」
  21. ^ 『宋書』巻64 鄭鮮之伝「高祖少事戎旅,不經涉學,及爲宰相,頗慕風流,時或言論,人皆依違之,不敢難也。鮮之難必切至,未嘗寬假,要須高祖辭窮理屈,然後置之。高祖或有時慚恧,變色動容,既而謂人曰:「我本無術學,言義尤淺。比時言論,諸賢多見寬容,唯鄭不爾,獨能盡人之意,甚以此感之。」」
  22. ^ 『宋書』巻42 王弘伝「高祖因宴集,謂羣公曰:「我布衣,始望不至此。」傅亮之徒並撰辭欲盛稱功德。」
  23. ^ 『宋書』巻43 傅亮伝「高祖有受禪意,而難於發言,乃集朝臣宴飲,從容言曰:「桓玄暴簒,鼎命已移,我首唱大義,復興皇室,南征北伐,平定四海,功成業著,遂荷九錫。今年將衰暮,崇極如此,物戒盛滿,非可久安。今欲奉還爵位,歸老京師。」羣臣唯盛稱功德,莫曉此意。日晚坐散,亮還外,乃悟旨,而宮門已閉,亮於是叩扉請見,高祖即開門見之。亮入便曰:「臣暫宜還都。」高祖達解此意,無復他言,直云:「須幾人自送?」亮曰:「須數十人便足。」於是即便奉辭。」
  24. ^ 『南史』巻15 劉穆之伝「帝受禪,毎歎憶之,曰:「穆之不死,當助我理天下。可謂'人之云亡,邦國殄瘁。'」光祿大夫范泰對曰:「聖主在上,英彦滿朝,穆之雖功著艱難,未容便關興毀。」帝笑曰:「卿不聞驥騄乎,貴日致千里耳。」帝后復曰:「穆之死,人輕易我。」」
  25. ^ 『宋書』巻52 謝景仁伝「葬日,高祖親臨,哭之甚慟。與驃騎將軍道憐書曰:「謝景仁殞逝……」
  26. ^ 『宋書』巻51 劉道憐伝「廬陵王義真爲揚州刺史,太后謂上曰:「道憐汝布衣兄弟,故宜爲揚州。」上曰:「寄奴於道憐豈有所惜。揚州根本所寄,事務至多,非道憐所了。」太后曰:「道憐年出五十,豈當不如汝十歳兒邪?」上曰:「車士雖爲刺史,事無大小,悉由寄奴。道憐年長,不親其事,於聽望不足。」太后乃無言。」
  27. ^ 『宋書』巻71 徐湛之伝「劉湛得罪,事連湛之,太祖大怒,將致大辟。湛之憂懼無計,以告公主。公主即日入宮,既見太祖,因號哭下牀,不復施臣妾之禮。以錦嚢盛高祖納衣,擲地以示上曰:「汝家本貧賤,此是我母為汝父作此納衣。今日有一頓飽食,便欲殘害我兒子!」上亦號哭,湛之由此得全也。」
  28. ^ 『宋書』巻71 徐湛之伝「湛之幼孤,為高祖所愛,常與江夏王義恭寢食不離於側。」
  29. ^ 『南史』巻1 武帝本紀「帝素有熱病,並患金創,末年尤劇,坐臥常須冷物,後有人獻石床,寢之,極以為佳,乃歎曰:「木床且費,而況石邪。」即令毀之。」
  30. ^ 駒田信二『新十八史略4』、P142など
  31. ^ 『宋書』巻48 朱齢石伝「高祖與齢石密謀進取,曰:「劉敬宣往年出黄虎,無功而退。賊謂我今應從外水往,而料我當出其不意,猶從内水來也。如此,必以重兵守涪城,以備内道。若向黄虎,正陊其計。今以大眾自外水取成都,疑兵出内水,此制敵之奇也。」」
  32. ^ 『宋書』巻48 朱超石伝「高祖先命超石戒嚴二千人。白毦既舉,超石馳往赴之,并齎大弩百張,一車益二十人,設彭排於轅上。虜見營陣既立,乃進圍營,超石先以軟弓小箭射虜,虜以眾少兵弱,四面俱至。嗣又遣南平公抜抜嵩三萬騎至,遂肉薄攻營。於是百弩俱發,又選善射者叢箭射之,虜眾既多,弩不能制。」
  33. ^ 『宋書』巻54 孔季恭伝「高祖後討孫恩,時桓玄簒形已著,欲於山陰建義討之。季恭以為山陰去京邑路遠,且玄未居極位,不如待其簒逆事彰,釁成惡稔,徐於京口圖之,不憂不剋。高祖亦謂為然。」
  34. ^ 『宋書』巻74 臧質伝父臧熹「高祖將征廣固……及行,熹求從,不許,以為建威將軍、臨海太守。郡經兵寇,百不存一,熹綏緝綱紀,招聚流散,歸之者千餘家。孫季高海道襲廣州,路由臨海,熹資給發遣,得以無乏。」
  35. ^ 『宋書』巻64 鄭鮮之伝「時新制長吏以父母疾去官,禁錮三年。」
  36. ^ 『宋書』巻66 何尚之伝父何叔度「新制,凡劫身斬刑,家人棄市。」
  37. ^ 『晋書』巻十「初讖云「昌明之後有二帝」,劉裕将為禅代,故密使王韶之縊帝而立恭帝,以應二帝云。」
  38. ^ 上記五瑞祥は『南史』巻1 武帝本紀「太史令駱達陳天文符應曰:「案晋義熙元年至元熙元年,太白晝見經天凡七,占曰:'太白經天,人更主,異姓興。'義熙七年,五虹見於東方,占曰:'五虹見,天子黜,聖人出。'九年,鎮星、歳星、太白、熒惑聚于東井。十三年,鎮星入太微。占曰:'鎮星守太微,有立王,有徙王。'元熙元年冬,黑龍四登于天,易傳曰:'冬,龍見,天子亡社稷,大人受命。」
  39. ^ 『晋書』巻85 何無忌伝「劉毅家在京口,與無忌素善,言及興復之事,無忌曰:「桓氏強盛,其可圖乎?」毅曰:「天下自有強弱,雖強易弱,正患事主難得耳!」無忌曰:「天下草澤之中非無英雄也。」毅曰:「所見唯有劉下邳。」」
  40. ^ 資治通鑑』巻113「玄後劉氏,有智鑒,謂玄曰:「劉裕龍行虎歩,視瞻不凡,恐終不為人下,不如早除之。」」
  41. ^ 『魏書』巻35 崔浩伝「太宗曰:「劉裕武能何如慕容垂?」浩曰:「裕勝……慕容垂乘父祖世君之資,生便尊貴,同類歸之,若夜蛾之赴火,少加倚仗,便足立功。劉裕挺出寒微,不階尺土之資,不因一卒之用,奮臂大呼而夷滅桓玄,北擒慕容超,南摧盧循等,僭晋陵遲,遂執國命……劉裕之平逆亂,司馬德宗之曹操也。」」
  42. ^ 『晋書』巻130 赫連勃勃載記「勃勃聞之,大悅,謂王買德曰:「朕將進圖長安,卿試言取之方略。」買德曰:「劉裕滅秦,所謂以亂平亂,未有德政以濟蒼生。關中形勝之地,而以弱才小兒守之,非經遠之規也。狼狽而返者,欲速成簒事耳,無暇有意于中原。陛下以順伐逆……自定也。」」
  43. ^ 『南史』巻1 武帝本紀「然武皇將渉知命,弱嗣方育,顧有慈顔,前無嚴訓。少帝體易染之質,稟可下之姿,外物莫犯其心,所欲必從其志,嶮縱非學而能,危亡不期而集,其至顛沛,非不幸也。悲哉!」
  44. ^ https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=640961 の21。
  45. ^ 『三十國春秋輯本』「蕭方等曰:「夫蛟龍潛伏,魚蝦褻之,是以漢高赦雍歯,魏武免梁鵠。安可以布衣之嫌,而成萬乘之隙哉!今王謐為公,刁逵亡族,酬恩報怨,何其狹哉!」(《通鑑考異·晉紀三十五》)https://zh.wikisource.org/zh-hant/%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%9C%8B%E6%98%A5%E7%A7%8B%E8%BC%AF%E6%9C%AC」
  46. ^ https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%AD%A6%E5%B8%9D%E8%AB%96_(%E6%9C%B1%E6%95%AC%E5%89%87)
  47. ^ https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%AD%A6%E5%B8%9D%E8%AB%96_(%E8%98%87%E8%BD%8D)
  48. ^ https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%AD%A6%E5%B8%9D%E8%AB%96_(%E4%BD%95%E5%8E%BB%E9%9D%9E)
  49. ^ https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%AE%80%E9%80%9A%E9%91%92%E8%AB%96/%E5%8D%B714
  50. ^ https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%AD%A6%E5%B8%9D%E8%AB%96_(%E6%96%B9%E8%8B%9E)
  51. ^ 思海 2008年09月09日 (火)「今日のお題:大塩平八郎檄文(『日本経済大典』1837〈天保8〉年)」 https://www.kinjo-u.ac.jp/kirihara/log/eid668.html
  52. ^ 国会図書館デジタルコレクション 『支那開化史』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993953/1 136ページ目
  53. ^ google book『支那通史』巻 https://books.google.co.jp/books/about/%E6%94%AF%E9%82%A3%E9%80%9A%E5%8F%B2.html?id=o0thQH_3AK4C&printsec=frontcover&source=kp_read_button&redir_esc=y
  54. ^ 魏書』巻97
  55. ^ 『宋書』巻1「家貧,有大志,不治廉隅。事繼母以孝謹稱。」
  56. ^ 『魏書』巻97「恒以賣履為業。意氣楚剌,僅識文字,樗蒲傾產,為時賤薄。」
  57. ^ 『資治通鑑』巻111「及長,勇健有大志。僅識文字,以賣履為業,好樗蒲,為鄉閭所賤。」
  58. ^ 田中芳樹『中国武将列伝』上

史書

参考文献

劉裕を題材とした作品

関連項目

先代
宋(劉宋)皇帝
初代:420年 - 422年
次代
少帝