蕭文寿

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蕭 文寿(蕭文壽、しょう ぶんじゅ、建元元年(343年)- 景平元年2月10日[1]423年3月7日))は、南朝宋の武帝劉裕の継母。孝懿皇后と追尊された。本貫蘭陵郡蘭陵県

経歴[編集]

洮陽県令の蕭卓と趙氏(呉郡寿昌県君)のあいだの娘として生まれた。趙安宗の死後、劉翹の後妻として迎えられた。長沙景王劉道憐と臨川烈武王劉道規を産んだ。義熙7年(411年)、豫章公太夫人に封じられた。義熙12年(416年)、劉裕が北伐すると、文寿は彭城・寿陽にとどまった。元熙元年(419年)、劉裕が宋王となると、文寿は太妃の号を加えられた。

元熙2年(420年)に入朝し、東府に移り住んだ。同年(永初元年)6月、劉裕が皇帝に即位すると、文寿は皇太后に立てられた。

永初3年(422年)、少帝が即位すると、文寿は太皇太后となった。

景平元年2月丁丑(423年3月7日)、建康の顕陽殿で崩じた。享年81。興寧陵に合葬された。

脚注[編集]

  1. ^ 『宋書』巻4, 少帝紀 景平元年二月丁丑条による。

伝記資料[編集]