范曄
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范 曄(はん よう、398年 - 445年)は、南朝宋の政治家・文学者・歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は南陽郡順陽県(現在の河南省南陽市淅川県)の出身であり、会稽郡山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)にて出生。
経歴[編集]
范曄は東晋の隆安2年(398年)、名門である順陽范氏の一族に生まれた。曾祖父の范汪は東晋の安北将軍・徐兗二州刺史・武興県侯。祖父の范寧は臨淮郡太守・豫章郡太守で『春秋穀梁伝集解』の著者。父の范泰は南朝宋の侍中・光禄大夫となり、死後は車騎将軍を追贈されている。范曄は范泰の四男で、兄に范昂・范暠・范晏、弟に范広淵がいる。子は范藹・范遙・范叔蔞。孫は范魯連(范藹の子)。
范曄の幼名は「磚」というが、これは范曄の母が彼を便所の中で生んだ時に彼の額が磚(レンガ)に当たって傷ついてしまったことから名づけられた[1]。若くして学問を好み、経書と史書に広く通じ、文章を作るのが巧みであり、音律にも詳しかった[1]。
永初元年(420年)、劉裕が南朝宋を建国すると、范曄は劉裕の子の彭城王劉義康の冠軍参軍となり、尚書外兵郎・荊州別駕従事史・秘書丞・征南司馬・領新蔡郡太守・司徒従事中郎・尚書吏部郎などを歴任した。
范曄は、たびたび奇行を起こしたと伝えられている。元嘉8年(431年)、江州刺史の檀道済の属官であったとき、北魏軍を討つために北征の命令が下ったが、范曄は足の病と称して断った。しかし、文帝は許さず、范曄を物資輸送の監督に就かしめた[2]。また、翌年、范曄は劉義康の母の葬儀に通夜の客として参列していたが、夜に弟の范広淵らとともに宴席を開いたことで劉義康の怒りを買い、宣城郡太守に左遷された[2]。元嘉16年(439年)、范曄が長沙王劉義欣の長史であったときには、兄の范暠の任地で嫡母が危篤になったが、范曄はすぐに出発せず、後から妓妾を連れ立って現れて非難された[3]。
左遷されて宣城に在任していたとき、范曄は発憤し『後漢書』の編纂を開始した。范曄は、先行して存在した『東観漢記』や『後漢紀』、他の数種の『後漢書』を整理しながら、新たな後漢の歴史書を作り上げた。
謀反事件[編集]
文帝の弟である劉義康は、宰相として内外の政務を取り仕切り、その権勢は皇帝を凌ぐものがあった。元嘉17年(440年)、文帝は劉義康の腹心であった劉湛以下十数名を誅殺・流刑に処し、劉義康を江州刺史に左遷した。代わりに皇子の始興王劉濬が揚州刺史として迎えられたが、劉濬は12歳と幼く、州事を代行していたのが范曄である[4]。同年に宿営の衛兵を統括する左衛将軍、元嘉19年(442年)に東京の衆務を司る太子詹事を務め、順調に出世していた[4]。
左遷された劉義康の配下にいたのが孔熙先で、彼は劉義康のために謀反を計画した。朝臣を抱き込むために范曄が必要であり、范曄の外甥の謝綜を通じて親交を持った[5]。この謀反には、他に仲承祖・徐湛之・謝綜などが参加し、兵は臧質・蕭思話が準備する手筈になっていた[6]。
しかし、元嘉23年(445年)、徐湛之の密告により孔熙先らの計画は露見した[7]。范曄は、自身を含む一族全員が処刑され、ここに名門である范氏一族は途絶えた[8]。
無神論[編集]
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范曄は無神論者だった。『後漢書』の中で、彼は人に諂う仏を猛烈に非難した。仏教をおかしいと思い、特に神が不滅であるという説と因果応報の説法を潔しとしなかった。そして仏教を信じる後漢の桓帝にきつく風刺を行った。范曄は天命論にも反対し「天道の性命、聖人の難言之、況して乃ち憶測を僅かに隠す、猖狂無妄之福、宗親の汚滅を、觖一切の功を以て哉!」彼はまた『後漢書』張衡伝の中で大量に、古代の予言書を引用して史実や論証を述べることに張衡が反対した話を収録した。同時にまた、范曄は陰陽の禁忌についての誤った論を論破した。
著作[編集]
范曄の文章は、筆勢は奔放であり、言葉が美しく固まり精錬して、駢文の句法をよく備えており、「博して経史にかかわり、よい文章で、隷書、音律を分かっている」の贊がある。
- 『後漢書』- 范曄が左遷された時期に著述。既にあった7種の『後漢書』を集め、袁宏による『後漢紀』[9]を参考に、後世に伝承され前四史の一つとされた『後漢書』を編さん。
- 『双鶴詩序』
- 『楽游應詔詩』
- 『和香方』(現存しない)
- 『雑香膏方』(現存しない)
- 『百官階次』(現存しない)
後世の評価[編集]
清代の考証学者の王鳴盛は、『十七史商榷』で、『宋書』范曄の列伝は、著者である沈約によって故意に歪められたものであり、范曄は奇矯な人物ではなく、謀反においても無実であることを力説する。注解を行った吉川忠夫は、沈約の執筆態度に問題が多いことは確かであるが、范曄の奇行は同時代の資料からも認識されることであり、虚構とは言えないと指摘している[10]。
参考文献[編集]
伝記資料[編集]
- 『宋書』巻69 列伝第29
日本語文献[編集]
- 吉川忠夫「范曄と『後漢書』」 『読書雑志 : 中国の史書と宗教をめぐる十二章』岩波書店、2010年。ISBN 9784000241496。
- 吉川忠夫「史家范曄の謀反」 『侯景の乱始末記 南朝貴族社会の命運』志学社選書、2019年。ISBN 4909868003。
脚注[編集]
- ^ a b 吉川 2010, p. 40.
- ^ a b 吉川 2019, p. 198-199.
- ^ 吉川 2019, p. 199.
- ^ a b 吉川 2019, p. 205.
- ^ 吉川 2019, p. 208-9.
- ^ 吉川 2019, p. 214-16.
- ^ 吉川 2019, p. 223.
- ^ 吉川 2019, p. 233-234.
- ^ 日本語版は抄訳版だが、中林史朗・渡邉義浩 訳著『後漢紀』明徳出版社「中国古典新書続編」、1999年。
- ^ 吉川 2019, p. 234-236.