谷三三五

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谷三三五 Portal:陸上競技
選手情報
ラテン文字 Sasago Tani
国籍 日本の旗 日本
競技 トラック競技 (短距離走)
種目 100m, 200m
大学 明治大学
生年月日 1894年5月9日
出身地 岡山県和気郡伊里村(現・備前市
没年月日 1956年7月24日(1956-07-24)(62歳)
オリンピック 100m 1次予選14組3着 (1924年)
200m準決勝3着(1924年)
地域大会決勝 極東選手権競技大会
国内大会決勝 日本陸上競技選手権大会
自己ベスト
100m 10秒8 (1925年)
200m 22秒0 (1923年)
獲得メダル
陸上競技
日本の旗 日本
極東選手権競技大会
1917 東京 220ヤード
1919 マニラ 220ヤード
1919 マニラ 100ヤード
1917 東京 100ヤード
1925 マニラ 100m
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谷 三三五(たに ささご[注釈 1]1894年5月9日 - 1956年7月24日、旧姓:真殿)は、日本の陸上競技選手(短距離)・指導者。日本人では初めて100m走で10秒台の記録を出した人物である[1][2]1924年のパリオリンピックに出場。

来歴・人物[編集]

岡山県和気郡伊里村(現在の備前市伊里)出身。

伊里尋常高等小学校(現在の備前市立伊里小学校)を卒業、後に明治大学に進学[1]し、大学卒業後は鉄道省に入省した[3]

1917年の第5回日本陸上競技選手権大会男子100mで真殿三三五名義で出場し、12秒0で初優勝[4]。その後、日本選手権では第10回大会から第12回大会まで男子100m三連覇を果たしている[4]

1924年にはパリオリンピックの日本代表に選ばれ、岡山県出身者で初の五輪代表となる[5]。4月の代表選考会は雨の中でおこなわれ、谷は100mで3位(200mは優勝)の結果だったが、最終的に両種目の代表に選出された[6]オリンピック本番も男子100mと200mに出場した[1](100mは予選1回戦[7]、200メートルは2回戦で敗退[8])。100mは予選1回戦3着で、このとき同じ組の1着となったのが最終的に金メダルを獲得したハロルド・エイブラハムスイギリス、映画『炎のランナー』の主人公の一人)である[6][7][9]。彼をはじめとする欧米選手より自己ベストで劣っていたとはいえ、谷はスタートには自信を持っていた[9]。もくろみ通り30mまではトップになるが、50mを過ぎるとエイブラハムスらに追い抜かれ、まったく歯が立たなかった[9]。谷は1930年に著書『百米十五年』を刊行して練習方法などの選手経験を紹介し[10]、その中でパリオリンピックでのスタートの失敗原因を16の理由に分けて考察した[9]

1925年には日本オリンピック大会(大阪毎日新聞社主催)にて、日本人として初めて100mで11秒の壁を超える10秒8の日本記録を樹立した[1]

極東選手権競技大会では第3回(1917年、東京)、第4回(1919年、マニラ)、第6回(1923年、大阪)、第7回1925年マニラ)で日本代表となった[11][12][13]。このうち、第3回は100ヤードで3位、220ヤードで2位、第4回は100ヤードと220ヤードでともに2位となった[11]。第7回では100mで3位となったものの、スタートに不正がありながら黙認され、他の競技でも審判の不公正なジャッジが横行した[13]。このため、主将でもあった谷ともう一人の主将である織田幹雄は監督の岡部平太とも相談した結果、岡部が他の日本選手も集めて日本選手団引き揚げ・棄権という挙に出た[14]

現役を引退した後は指導者となり、人見絹枝アムステルダムオリンピック陸上女子800m2位)を指導した。また、1925年に島根県に陸上競技講習会の指導員として赴いた際に、当時師範学校生だった吉岡隆徳の才能を見抜いた[15]。谷は吉野鉄道奈良県上市町に設置した美吉野運動競技場の管理人となり、その縁で人見や吉岡は谷の元に訪れて美吉野運動競技場で練習を実施した[16]

戦後は三重県陸上競技協会理事長を1945年から1952年まで務めたほか、1947年から1951年までは三重交通の取締役にも就任した[17]

記念[編集]

備前市陸上競技協会は、2018年より「谷三三五記念陸上大会」を開催している[1][2]

著書[編集]

  • 『競走と練習 百米十五年』三省堂、1930年

備考[編集]

  • 江崎グリコの菓子「グリコ」のパッケージには、発売以来ロゴマークとしてランナーが描かれているが、最初のランナーの絵には「顔が怖い」という感想が寄せられたため、1928年に表情などのデザインが更新された。この際、フォルチュナト・カタロン(フィリピン、短距離走)や金栗四三(マラソン)らとともに谷の「にこやかなゴールイン姿」が参考にされ、2代目のロゴマークが描かれた[18]。グリコのロゴマークのランナーは大阪の道頓堀グリコサイン(初設置は1935年)に描かれていることでも知られるが、デザインの変更はその後も行われており、2023年時点で用いられているロゴは7代目のデザインである(グリコ (菓子)#マーク参照)。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1990年以前に刊行された書籍では「みさご」という読み仮名が振られていたものがある(保阪正康『100メートルに命を賭けた男たち』(1984年)や小原敏彦『女子陸上の暁の星 人見絹枝物語』(1990年))。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e “短距離の先駆者 谷三三五知って 4月8日、地元備前で記念大会”. 山陽新聞デジタル. 山陽新聞社. (2018年3月4日). オリジナルの2018年3月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180317102228/http://www.sanyonews.jp/article/677832 2018年3月16日閲覧。 
  2. ^ a b “岡山)日本人初100メートル10秒台、谷選手を顕彰”. 朝日新聞. (2018年3月19日). https://www.asahi.com/articles/ASL3K5GK9L3KPPZB00N.html 2021年3月3日閲覧。 
  3. ^ 上谷浩一「01史-24-口-15 谷三三五と極東選手権競技大会(体育史,口頭発表,一般研究発表抄録)」『日本体育学会大会予稿集』第63回(2012)セッションID: 01-24--15、日本体育学会、2012年、85頁、doi:10.20693/jspehss.63.85_3 
  4. ^ a b 過去の優勝者・記録(男子100m)” (HTML). 第101回日本陸上競技選手権大会公式サイト. 2018年3月16日閲覧。
  5. ^ 備前市出身の五輪選手にスポット 加子浦歴史文化館で企画展”. 山陽新聞デジタル (2019年8月26日). 2020年6月20日閲覧。
  6. ^ a b 藤瀬武彦「スポーツ文化財としてのオリンピック関連資料の収集について 第三報─1924年第8回パリオリンピックに関する収集品─」『新潟国際情報大学 国際学部 紀要』第6巻、新潟国際情報大学国際学部、2021年4月、97-105頁、CRID 1050851717573576448ISSN 2189-5864“該当記述はp.98。この紀要論文にはパリオリンピック100mのスタート写真が掲載されている。” 
  7. ^ a b 100 meters, Men 1924 Summer Olympics - Olympedia (英語)
  8. ^ 200 metres, Men 1924 Summer Olympics - Olympedia(英語)
  9. ^ a b c d 保阪正康 1984, pp. 115–116.
  10. ^ 保阪正康 1984, p. 113.
  11. ^ a b FAR EAST CHAMPIONSHIPS - GBR Athletics(英語)2023年5月6日閲覧。
  12. ^ 保阪正康 1984, p. 114.
  13. ^ a b 杢代哲雄 2018, p. 269.
  14. ^ 杢代哲雄 2018, p. 271.
  15. ^ 保阪正康 1984, pp. 13–14.
  16. ^ 「【コラム】上市がオリンピックゆかりの街だったってご存じでした?」『吉野歴史資料館だより たぎつみやどころ』第7号(通算10号)、吉野歴史資料館、2022年1月30日、p.4(こちらのウェブサイトにPDFファイルあり)2023年5月6日閲覧。
  17. ^ 昭和20年から27年にかけて三重県陸上競技協会の理事長を務めた谷三三五氏の、理事長時代のことを知りたい - レファレンス共同データベース(国立国会図書館、2019年10月27日)2023年5月6日閲覧。
  18. ^ 大阪・道頓堀のグリコ「走る人」マークの誕生秘話 -広報さんに聞いてみた”. マイナビニュース tech+ (2013年9月1日). 2023年3月24日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • Sasago Tani - Sports-reference(英語、2020年4月17日時点のアーカイブ)
  • Sasago Tani - Olympedia(英語)