藤堂平助

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藤堂 平助
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 1844年天保15年、弘化元年)
死没 慶応3年11月18日1867年12月13日
(慶応3年11月19日(1867年12月14日)未明)
(満23歳没[注 1]
別名 魁先生(渾名)、南部与七郎(変名)
墓所 戒光寺京都府京都市東山区
主君 松平容保戸田忠至孝明天皇
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高猷伊勢津藩主)もしくは藤堂八座(伊勢久居藩家老)?、母:町人女性

藤堂 平助(とうどう へいすけ)は、日本幕末武士剣客砲術家で、新選組八番隊組長、のち御陵衛士(高台寺党)。

平助は通称で、宜虎[注 2](よしとら、のぶとら)。正式な姓名は藤堂平助藤原宜虎となる。

生涯[編集]

出自[編集]

1844年天保15年、弘化元年)、武蔵国にて誕生した後、江戸で育ったとみられる[注 3]

永倉新八の『同志連名記』や京都在留当時の風聞書によれば、伊勢津藩藤堂高猷落胤とも、伊勢久居藩家老藤堂八座の子との説もある。

通称の「平助」は藤堂家功臣の名乗りを嗣いだものとも伝えられ、平助の佩刀「上総介兼重」が藤堂家お抱え刀工の作であったためである[1]。 上総介兼重は新選組内でも一、二を争うほどの非常に高価な名刀であり一介の素浪人が持てるような刀ではなく、さらに隊が最も困窮をきわめていた時期にも関わらずこのような高級な刀剣を所持していたことなどを考えると、落胤であった可能性は十分に考えられる。

流派[編集]

北辰一刀流開祖・千葉周作の道場玄武館神田於玉ヶ池)の門弟[2][注 4]となり、北辰一刀流目録(中目録免許とみられる)を十代半ばで取得した。

その後、深川佐賀町にあった北辰一刀流・伊東大蔵(伊東甲子太郎)の伊東道場にも出入りし[3]、後に天然理心流近藤勇の道場試衛館に入門し、ほどなくして代稽古などを任されるようになった。

新選組時代[編集]

新選組最初の屯所(八木邸

新撰組顛末記』によると、平助は新選組結成以前からの生え抜きの同志であり、斎藤一とともに最年少幹部の一人である。

在隊中は、年少者ながら「副長助勤」「八番隊組長」等の重要な役職を歴任した。

会津候上覧試合[編集]

文久3年4月16日(1863年6月2日)、会津藩邸にて京都守護職松平容保御前試合が行われ、壬生浪士組全員で武術を披露した。 この上覧試合の剣術の部において平助は土方歳三と第一試合で剣を交えた。 第二試合は永倉と斎藤、第三試合は平山五郎佐伯又三郎、最終の第四試合は山南敬助沖田総司という組み合わせの対戦が行われた。 なお、各試合の勝敗は記されていない[4]

池田屋事件[編集]

池田屋事件(池田屋跡・2015年)

元治元年6月5日(1864年7月8日)の池田屋事件では、最初に斬り込んだ4名のうちの一人で、一階の庭を持ち場とし、逃亡しようと降りて来る浪士達相手に奮戦した結果、佩刀の上総介兼重はぼろぼろになり、鍔元には修復不可能な程のひび割れを負った。

また、戦闘中に室内があまりに暑かったため、汗を拭おうと鉢金を取ろうとしたところを潜んでいた浪士に斬りつけられ、額(眉間から顔側面とも)を割られ昏倒。一時は生死をさまよう危篤状態に陥った。

事件後、近藤、土方に次ぐ額の計二十両(金十両および新刀購入料として別段金十両)もの褒賞金を江戸幕府から下賜されている[注 5]

隊士周旋任務[編集]

元治元年11月(1864年12月)、新選組は江戸にて大規模な隊士募集を行ったが、平助はこれに先立って志願者を募るため江戸に下っている[5][注 6]

御陵衛士時代[編集]

御陵衛士屯所跡
月真院(高台寺の塔頭)

慶応3年3月(1867年4月)、伊東一派と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新選組を離脱。これより当初の上洛の動機であった尊王攘夷の志士への道をようやく歩み出すことになる。

御陵衛士時代の主だった平助の活動としては、

  • 美濃に出張し[6]、美濃屈指の侠客水野弥太郎[注 7]を懐柔し、水野配下の農兵数百を組織し奇兵隊のような大軍隊にする計画を立案し、さらに金銭面の援助も得る約束を取り交わした。

等が挙げられる。

なお、御陵衛士側に間者として潜入していた斎藤からこれらの報告を受けた近藤は激怒し、御陵衛士の殲滅を決意したという[7]

また、衛士たちは英語の習得やロケット製造方法のような火薬研究などの研鑽に努めていた。

篠原泰之進(秦林親)の覚書には、『ぐうとないと「こんばんハ』『ぎふみい「私に被下(くだされ)』『せんきゅう「難有(ありがとう)』『あいらぶきゆう「私あなたをすきです』といった内容があり、平助も同様に勉学に励んでいたものとみられる。

砲術免許取得[編集]

慶応3年8月23日(1867年9月20日)、江川塾・韮山塾(江川家の砲術指南の私塾)にて砲術免許を取得した。

韮山の江川文庫にある『江川家砲術指南の記録 御塾簿について』(かつての門人名簿『御塾簿』を編集したもの)に

慶応三丁卯八月二十三日免許 松平肥後守附番新撰組 藤堂平輔

との記載がみられる。

坂本龍馬訪問[編集]

近江屋跡(2014年)

慶応3年11月15日[注 8](1867年12月10日)、伊東は平助を伴い、当時坂本龍馬が身を寄せていた近江屋を訪問し、時勢について議論した。

さらに見廻組等が坂本の暗殺を企てているので速やかに土佐藩邸に移るように忠告したが、坂本はただ忠告を謝すばかりで全く相手にはしなかったという[注 9]

伊東は「自分が新選組に身を置いていたから信用してもらえず遺憾な次第」と嘆いたという[8]

伊東らの忠告もむなしく、程なくして坂本は中岡慎太郎と共に暗殺されてしまう(近江屋事件)。

油小路事件[編集]

最期の地となった油小路(本光寺前)

慶応3年11月18日(1867年12月13日)夜、新選組による伊東殺害および御陵衛士殲滅を目的とした大規模な粛清が断行される(油小路事件)。

油小路で新選組に暗殺された伊東の遺体を奪還するため、罠であると知りつつも平助は同志7名と共に現場へ向かう。 待ち伏せていた40名以上の新選組隊士らと死闘の末、翌11月19日(12月14日)未明戦死した。

検死結果によると、額から鼻にかけての傷は長さ約21cm、深さ6cmに達しておりほぼ即死であったとされる。 平助ら4名の遺体は、御陵衛士残党をおびき出すための囮として、数日(3、4日ほど)の間、道端に放置された。

永倉によると、近藤から「(藤堂は)まだ若い有為の材であるからできるだけ助けておきたい」との指示があり、平助が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士三浦常三郎[注 10]に斬られたとされている[9]

また、平助は永倉の深意はくみ取ったものの、魁(さきがけ)先生と呼ばれたプライドと同志を見捨てられないので、新選組に立ち向かって三浦に斬られたともいわれている[10]

他に、永倉の深意を汲み取り退こうとしたところを三浦に後ろから斬りつけられたため、平助は背後から斬られるのは武士の恥として応戦し、数々の傷を負い戦死したとする説もある[要出典]

死後[編集]

墓所は泉涌寺の塔頭戒光寺にあり、共に討死した同志の伊東、毛内有之助服部武雄ら共に、同寺院内の後月輪東山陵に眠る孝明天皇の御霊を守護し続けている。

戒光寺の墓碑

東武之人 武明没之日於同所戦死 藤堂平助宜寅 年二十四
(武蔵国東部出身 伊東甲子太郎と同日同所で戦死 藤堂平助宜寅 享年24歳[注 11]

辞世の句[11]

益荒雄の七世をかけて誓ひてし ことばたがはじ大君のため
(大意)七度生まれ変わろうとも男として誓いを立てた勤皇の志を決して違えたりはすまい

生存説[編集]

藤堂平助は油小路の包囲網の脱出に成功し、九死に一生を得た。肩から背中にかけて長い刀傷が残っていたという。
その後名前を変え、元新選組隊士の川村三郎(近藤芳助)と共に水道事業絡みの利権で大儲けした。
明治期には横浜に住み、大正11年から大正12年1922年から1923年)頃、満78~79歳で没した。
また、平助の息子は遺産を道楽で使い果たした挙句に音信不通になったとされる。

多摩・日野郷土史家谷春雄の発表した平助の生存説[12]は上記のような内容である。 しかしながら、この説は殺害後の状況からして相当無理があり、自称子孫の談話のみで他史料による傍証もなく、執筆者の谷自身でさえも懐疑的だったという点から信憑性に欠けるものだと判断せざるを得ない。

人物[編集]

藤堂平助が幕末史上に登場した期間は5年程とごくわずかである。にも関わらず、新選組隊士として即座に名前が挙がるほどに知られた存在だが、やはりその生涯があまりに短すぎたためか平助には謎が多く、人物や挙動に関する史料や口碑はごくわずかしか残されていない。

その数少ない史料や証言を引用しながら、平助の人物像を以下に要約する。

容姿[編集]

九州まで伝えられた美貌
薩摩藩家臣の証言[13]

・・藤堂和泉守の浪人にて壬生組に入候由。実は和泉守妾腹の末子とやらの噂之者に御座候由。至而美男士之由御座候。・・当年十七歳・・
(・・壬生浪士組の藤堂藩の浪人(=平助)は、実は藤堂和泉守の妾腹の末子と噂されている。非常に美男子である。・・今年十七歳・・)

『京師騒動見聞雑記録』は西国を代表する雄藩薩摩島津家の家士が当時の京の情勢を藩に伝えるために記録した報告書である。その中に奇しくも平助に関する記述が残されている。言うまでもないが、幕末の動乱期において本国への公的な通信で一介の浪士にすぎない平助の出自や容貌・性格等をわざわざ報告しているのはきわめて異例といえる。

京でよほど評判になっていたのか、この薩摩藩士某が個人的に思うところがあったのか経緯は不明だが、とにかく写真はおろか肖像画も残っておらず、係累や子孫さえも判然としない平助の姿形を今日に伝える非常に貴重な史料であることは確かである。

また、実際の平助の年齢は数え年で21歳であったが「17歳」と記述されている。実年齢よりひどく若くみえる幼い顔立ちの美男であったようである。

身長[編集]

当時でも小柄な体格
阿部十郎(阿部隆明)の証言[14]

藤堂平助は小兵でございますけれども・・

江戸幕末期の成人男性の平均身長は155~157cmほど[15]といわれているので、「小兵」と評された平助の身長はおよそ153cm前後であったと推測される。

愛刀の上総介兼重は二尺四寸五分(およそ73cm)もある長寸の打刀で、本来であれば身長180cm前後の男性に最適な長さの刀である。驚くべきことに平助は自分の身長の半分ほどもある長さの刀を手足のように自在に振るい、死線をくぐり抜けていたことになる。

性格[編集]

文武両道に秀でる
永倉新八の証言[16]

関東浪士 藤堂和泉守落胤 文武研究所剣術千葉周作門人 目録 新選組副長助勤

阿部十郎(阿部隆明)の証言[17]

・・なかなか剣術はよく使いまして、また文字(=学問)もございます

小山正武の証言[18]

藤堂平助もまた有名の智勇ともに衆に秀でたる人にして・・

優れた経済感覚
城兼文(西村兼文)の証言[19]

・・経済に達し、撃剣を能くす。伊東氏の門子なり

品行に関する問題点
結城無二三の証言[20]

・・近藤ともっとも古き関係を有しているにかかわらず、品行のことから始終近藤に叱られる、ことに近頃はまったく疎外されてしまったような藤堂平助・・

自称新選組隊士・結城無二三の子である結城禮一郎の著作『旧幕新撰組の結城無二三』が出典だが、本書は事実誤認や史実と異なる情報がしばしば指摘されており、結城の先入観あるいは想像である可能性も否定できない。

また、子母澤寛著の『新選組始末記』にも「江戸っ子品行は不良だったが人物がしっかりしていた」との記載があるが、証言者や出典元は不明である。

堂々とした振る舞い
石坂周造の証言[21]

・・なるほど隊中にも土方歳三あるいは藤堂平助などという悪者のおることも存じておりますから・・

石坂周造は、浪士隊上洛の際の組頭を務めた主要幹部である。300名を超える浪士隊の中であえて土方と平助を名指しするからには、よほど彼らが反抗的で目立っていたということなのか、いずれにせよ石坂は二人を「一筋縄ではいかない浪士」であったと述懐している[注 12]

勇猛で活発な性格
薩摩藩家臣の証言[22]

・・別而(べっして)盛なる壮士之由・・
(・・隊内きっての血気盛んな隊士である・・)

魁先生[編集]

薩摩藩家臣の証言[23]

・・此以前より度々の鎮静之砌(みぎり)もいつも先駆けいたし候者之由。即右池田屋に真一番に斬込候処、深手を負ひ、半死半生にて、しかしいまだ存命の由御座候。兼て魁先生と被呼(よばれし)候程之者の由
(・・出陣の際にはいつも真っ先に駆けて飛び込み、池田屋事件の際も一番に斬りこんだ結果、重傷を負って半死半生の状態になったものの今も生きている。かねてより魁先生と呼ばれるほどである。)

平助は市中巡察の際に隊の先頭に立つ当番(後の「死番」制度)を自ら進んで引き受け、また戦闘の際には常に先陣を切ったことから、魁先生という異名をとった。

女性関係[編集]

新選組隊士とりわけ幹部メンバーには、多かれ少なかれ必ず女性のエピソードが伝えられているが、美男として知られていたにも関わらず平助にはそれが全くといっていいほどに残されていない。

あえて挙げるとするならば、祇園一の美貌を誇った勤皇芸者中西君尾の以下の証言だろう。

元治元年11月頃(1864年12月頃)、京都四條南座でのこと。芝居の上演中に酒に酔った新選組隊士らが乱入し、美しい芸者(君尾)を客の男性から奪い取ろうとした。
その際、二階から美貌の若侍がひらりと舞い降りてきて仲裁に入った。
若侍は「伊勢の浪人藤堂平助」と名乗り、混雑した劇場で他人の女性に手を出すなど新選組らしからぬ振る舞いであると指摘し、町人を苦しめたりせず穏便に済ませるように諌めたので、隊士らも平助の名前を聞くとおとなしく引き下がり事なきを得たという。
現場に居合わせた人々は、その美しい容姿と軽やかな身のこなしから平助を今牛若としきりに褒め称えた。

君尾は自身の著書『勤皇芸者』で、このように語っているが、元治元年8月(1864年9月)頃から翌年5月(1865年6月)頃?まで平助は隊士募集のため江戸に東下しているため、本来であれば京都にはいないはずである。 しかしながら、平助がその間ずっと江戸に滞在していたという記録も無いため、この逸話を君尾の創作や記憶違いだと断定するのはやや早計である。

その他[編集]

  • 沖田、永倉、斎藤とともに「新選組四天王」「近藤四天王」、また御陵衛士時代には「伊東の左右の手」と称された[24]

作品[編集]

小説[編集]

  • 南原幹雄『新選組情婦伝』所収「血染め友禅 藤堂平助の女」 - 短編。離隊した平助を案じる幼馴染の女性に土方はとある依頼を持ちかける。
  • 早乙女貢『新選組銘々伝』所収「御落胤罷り通る」 - 短編。平助は貧しい座頭の夫婦に育てられた落胤という設定になっている。
  • 風巻絃一『ぐでん流剣士 新選組藤堂平助』 - 長編。新選組よりも御陵衛士側に心を寄せる平助が描かれた数少ない作品。
  • 火坂雅志『新選組魔道剣』所収「祇園の女」 - 短編。平助は安井金比羅宮で縁切り祈願をしていた芸妓と親密になるが、徐々に女の過剰な愛が負担になっていく。
  • 秋山香乃新選組藤堂平助[注 13] - 長編。平助と土方の鮮烈な出会いから油小路事件までの半生が綿密に描かれる。
  • 秋山香乃『歳三 往きてまた』 - 長編。『新選組藤堂平助』の続編。主人公は土方にシフトしているものの依然平助の存在感が強い。
  • 鋼雅暁『浅葱色の日常 』所収「守れない約束」 - 短編。新選組の気質に合わない隊士を何とか助けたいと願う平助だったが…。
  • 松本匡代『独白新選組』所収「第十一章 慶応三年十一月」 - 短編。Twitter小説の書籍化。七条油小路で戦死した直後、魂となった平助が自身の亡骸を見ながらつぶやく。
  • 歴史時代作家クラブ『新選組出陣』所収秋山香乃「誠の旗の下で」 - 短編。初志を貫くために新選組を去る平助の心境や友への思いを描く。
  • 天野純希『戊辰繚乱』 - 長編。主人公の山浦鉄四郎の親友として平助が数多く登場する。

漫画[編集]

アニメ[編集]

舞台[編集]

関連文献[編集]

書籍[編集]

  • 流泉小史『新選組剣豪秘話』(新人物往来社、1973年)
  • 市居浩一『高台寺党の人びと』(小島資料館、1977年、のちに新人物往来社編『新選組・高台寺党』、新人物往来社、2004年に再録)
  • 山村竜也『新選組剣客伝』所収「先駆の剣 藤堂平助」(PHP研究所、1998年 PHP文庫、2002年)
  • 新人物往来社編『新選組銘々伝』所収「第1巻 藤堂平助」(新人物往来社、2003年)
  • 松浦玲『新選組』(岩波新書、2003年)
  • 菊地明伊東成郎結喜しはや『土方歳三と新選組10人の組長』所収「八番組長 藤堂平助」(新人物文庫、2012年)
  • 永倉新八浪士文久報国記事』(新人物文庫、2013年)
  • 緋鳳『藤堂平助とは何者か―落胤と呼ばれた男』(中央公論事業出版、2014年)

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 生誕日によっては満22歳没
  2. ^ 「宜寅」「良全」の表記もある
  3. ^ 江戸生まれとの説もある
  4. ^ 但し『玄武館出席大概』清河八郎著(千葉道場に在籍したとみられる門弟の名簿)に平助の名は記されていない
  5. ^ この金子をなかなか受け取らなかったという説がある[要出典]
  6. ^ 池田屋での大怪我の治癒もかねた東帰であったとの説もある
  7. ^ 永倉新八『同志連名記』によると水野はかつて新選組に出入りしていたとされる
  8. ^ 11月13日ともいわれる(『新選組始末記』子母澤寛著)
  9. ^ 中岡慎太郎は忠告を喜んだが、坂本は不遜な態度で礼も述べなかったともいわれる(『新選組始末記』子母澤寛著)
  10. ^ 江戸府内浪人で平助から多大な恩を受けた隊士(『新選組始末記』子母澤寛著)。事件後、平助に斬られた膝の傷が原因で死亡した(『浪士文久報国記事』永倉新八著)。
  11. ^ 数え年
  12. ^ なお、ここでの「悪者」についての解釈は日本の歴史においての「既存支配体系に対抗する者」や「命令や規則に従わない者」の力強さを表すものとする
  13. ^ 2000年に藤原青武名義で出版された『SAMURAI 裏切者』の加筆修正版。

出典[編集]

  1. ^ 『会津藩庁新撰組御一行刀改控』
  2. ^ 『同志連名記』永倉新八著、『新選組遺聞』(谷三十郎の証言)子母澤寛著
  3. ^ 「藤堂は伊東甲子太郎の伊東道場の寄り弟子」という加納鷲雄の証言より
  4. ^ 土方の日記より
  5. ^ 「9月初旬、藤堂が伊東大蔵(甲子太郎)の道場へ入隊の勧誘に来た」との加納鷲雄の証言より
  6. ^ 「藤堂平助、先日頃より美濃国へ罷越しおり候得共」『鳥取藩記録』より
  7. ^ 『新撰組始末記』西村兼文著
  8. ^ 『新撰組始末記』西村兼文著、『維新風雲回顧録』田中光顕著 他
  9. ^ 『新撰組顛末記』永倉新八著
  10. ^ 『新選組始末記』子母澤寛著
  11. ^ 『近世殉国一人一首伝』城兼文編
  12. ^ 谷春雄『歴史と旅』所収「油小路の藤堂平助」(秋田書店、1980年11月号)
  13. ^ 『京師騒動見聞雑記録』
  14. ^ 『史談会速記録』
  15. ^ 「江戸時代の男女の平均身長はどれくらいか」国会図書館レファレンス事例
  16. ^ 『同志連名記』
  17. ^ 『史談会速記録』
  18. ^ 『史談会速記録』
  19. ^ 『近世殉国一人一首伝』
  20. ^ 『旧幕新撰組の結城無二三』
  21. ^ 『史談会速記録』
  22. ^ 『京師騒動見聞雑記録』
  23. ^ 『京師騒動見聞雑記録』
  24. ^ 『史談会速記録』の小山正武の談話より