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2018年5月7日 (月) 11:49時点における版
平沼亮三 ひらぬま りょうぞう | |
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生年月日 | 1879年2月25日 |
出生地 | 日本 神奈川県横浜市 |
没年月日 | 1959年2月13日(79歳没) |
死没地 | 日本 神奈川県横浜市 |
出身校 | 慶應義塾大学 |
前職 |
日本体育協会会長 日本陸上競技連盟会長 東京六大学野球連盟会長 日本体操協会会長 横浜商工会議所会頭 神奈川県議会議員 横浜市会議員 |
所属政党 |
(大隈伯後援会→) (憲政会→) 立憲民政党 |
称号 |
文化勲章 従三位 勲一等瑞宝章 1979年度野球体育博物館特別表彰受賞 |
第15-16代 横浜市長 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1951年4月23日 - 1959年2月13日 |
選挙区 | 多額納税者議員神奈川県 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1932年9月29日 - 1946年5月14日[1] |
選挙区 |
旧神奈川県横浜第1区 旧神奈川県第1区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1915年3月25日 - 1917年1月25日 1924年5月11日 - 1928年1月21日 |
平沼 亮三(ひらぬま りょうぞう、1879年(明治12年)2月25日 - 1959年(昭和34年)2月13日)は、日本の実業家、政治家、アマチュアスポーツ選手。衆議院議員(憲政会・民政党)、貴族院議員(同成会)、横浜市長。日本における市民スポーツの父と呼ばれる。
人物
神奈川県横浜市出身。慶應義塾の出身で、福沢諭吉の門下生である。慶應義塾大学野球部では4番打者として活躍し、のち東京六大学野球連盟会長となった。野球に対する貢献及び功績により1979年度の野球殿堂特別表彰を受けた。
平沼は神奈川県議会、横浜市会、衆議院議員、貴族院議員と地方議会、帝国議会の議員を務めた後[2]、公職追放を経て[3]、追放解除後に横浜市長となる。
野球以外のスポーツにも積極的に関わり、全日本体操連盟の初代会長であり、同連盟が戦時および戦後の改組を経て日本体操協会となってのちもその職を引き継ぎ、死去するまで約30年間在任し、日本陸上競技連盟(日本陸連)の初代理事長・会長や日本バレーボール協会初代会長を歴任した他、1932年(昭和7年)のロサンゼルスオリンピック及び1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックと2回の夏季オリンピックでは日本選手団団長を務めた。
1955年(昭和30年)に行われた第10回国民体育大会秋季大会開会式では76歳にして炬火の最終ランナーを務めたが、その勇姿を見た昭和天皇が「松の火をかざして走る老人(おひびと)のををしき姿見まもりにけり」と詠んだ。その神奈川国体開会式会場となった三ツ沢公園内には昭和天皇の御製碑と銅像「平沼さんの像」が建立された。また国体と同年の5月29日には慶應義塾大学日吉陸上競技場に平沼亮三が喜寿の祝いに全国競技団体から贈られた像(吉田三郎作)を慶應義塾体育会に寄贈したものが建てられた。その胸像は当初メインスタンド(現在の協生館付近)の中央に設置されていたが、2008年(平成20年)の日吉陸上競技場改修に伴い、バックスタンド(慶応義塾高等学校側)の中央に移設された。
1955年(昭和30年)にはスポーツ関係者としては初となる文化勲章を受章。
実業界ではキリンビール、東京會舘、帝国劇場、玉川電気鉄道、東京ガスなどの重役を兼任し、横浜商工会議所の9代目会頭を務めた。
横浜市長として1958年(昭和33年)に行われた横浜開港100年祭の実行委員長を務めている。
1959年(昭和34年)2月13日、2期目の横浜市長在職中、慶應義塾大学病院にて死去。79歳没。
年譜
- 1925年:日本陸上競技連盟の初代理事長に就任。
- 1929年:日本陸上競技連盟の改組により、初代会長に就任。また同年、大日本排球協会(現在の日本バレーボール協会)設立により初代会長に就任。
- 1930年:日本体操協会の初代会長に就任。
- 1932年:ロサンゼルス五輪の選手団長を務める。
- 1946年:日本体育協会の会長に就任。同年、公職追放される。
- 1950年11月22日:横浜商工会議所会頭に就任。
- 1951年4月23日:横浜市長に当選。
- 1955年4月22日:横浜市長に再選される。
- 1958年:横浜開港100年祭実行委員会会長を務める。
- 1959年2月13日:死去、勲一等瑞宝章を追贈される。
- 1970年11月:横浜市立平沼記念体育館が開館。
- 1979年:野球殿堂入り
秘話
家族・親族
- 三男の平沼五郎は岩倉具清らと共に日本におけるフェンシングの普及に貢献し、また慶應フェンシングクラブ(慶應義塾體育會フェンシング部)を設立した人物。
- 横浜市西区平沼近辺(通称:平沼町)は祖先である5代目平沼九兵衛が1839年、埋め立てを始め、7代目平沼九兵衛の代で完成した。平沼家は埋立地で製塩を始め[5]、生糸で成功した商人[6]。
- 横浜市の有識者の間では平沼専蔵家を本家、亮三家を分家とする認識があるが、専蔵家は埼玉県飯能出身、亮三家は江戸時代中期より横浜に存在しており、両家に血縁関係はない。ちなみに亮三は7代目九兵衛の長男なのでまぎれもなく本家である。
- 妻・婦美、長男・九郎、長女・千鶴、三女・苫舎、次男・七郎(麒麟麦酒常務取締役[7])、三男・五郎。
- 俳優の石坂浩二は庶孫にあたる。
- 俳優の草光純太は曾孫にあたる。
- 俳優の平沼成基は曾孫にあたる(五郎の孫)。
著書
- 『スポーツ生活六十年』
参考文献
- Stefan Huebner, Pan-Asian Sports and the Emergence of Modern Asia, 1913-1974. Singapore: NUS Press, 2016: 55-101ページ所収
脚注
- ^ 『官報』第5799号、昭和21年5月17日。
- ^ 慶應義塾史跡めぐり スポーツの父 平沼亮三 - 慶應義塾月刊三田評論ホームページ 2010年6月5日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』1946年10月6日一面。
- ^ 『塾』第32巻2号(1994年(平成6年)4月1日発行)参照
- ^ 『スポーツ生活六十年』 平沼亮三 著 (慶応出版社, 1943)
- ^ 第2章 京浜工業地帯の発展と相次ぐ試練の半世紀横浜開港150年の歴史、横浜税関
- ^ 麒麟麦酒(株)『麒麟麦酒の歴史. 続戦後編』(1985.03)渋沢社史データベース
外部リンク
公職 | ||
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先代 石河京市 |
横浜市長 第15-16代:1951 - 1959 |
次代 半井清 |
ビジネス | ||
先代 中川末吉 野村洋三 |
横浜商工会議所会頭 第9代:1946 第11代:1950 - 1951 |
次代 野村洋三 原良三郎 |
その他の役職 | ||
先代 下村宏 |
日本体育協会会長 第5代:1946 |
次代 東龍太郎 |
先代 (創設) |
日本体操協会会長 初代:1929 - 1961 |
次代 三橋喜久雄 |
先代 (創設) |
日本陸上競技連盟会長 初代:1929 - 1958 |
次代 春日弘 |