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*明治神宮宝物殿 13棟 |
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:大正10年(1921年)竣工。鉄筋コンクリート造。中倉(附:陳列箱8基、鬼瓦1箇)、東西倉、東西廊、東西橋廊、東西渡廊、北廊、車寄、事務所、正門の計13棟が近代和風建築として国の重要文化財に指定され、土塁2箇所が附(つけたり)指定となっている。 |
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*太刀 銘助茂(1972年盗難、所在不明) |
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2011年7月3日 (日) 09:33時点における版
明治神宮 | |
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所在地 | 東京都渋谷区代々木神園町1番1号 |
位置 | 北緯35度40分34秒 東経139度41分57秒 / 北緯35.67611度 東経139.69917度 |
主祭神 |
明治天皇 昭憲皇太后 |
創建 | 大正9年(1920年) |
例祭 | 11月3日(明治天皇御誕生日) |
明治神宮(めいじじんぐう)とは、東京都渋谷区にある神社。初詣では例年日本一の参拝者数を集め、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神宫[1]』。
概要
1912年(明治45年)に明治天皇が崩御し、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、何らかの記念(紀念とも)するための行事が計画される。その事業は程なく予定されていた明治天皇即位50周年のものを引き継ぎ(明治天皇の銅像、帝国議会、博物館などさまざまな案があった[2])、続いて、1914年(大正3年)に皇后であった昭憲皇太后が崩御すると、政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けて、1915年(大正4年)5月1日、官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。
明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われた。1920年(大正9年)11月1日に鎮座祭が行われた。ちなみに、この御料地はかつて近江彦根藩井伊家の下屋敷のあった場所で、明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものである。
面積約70万平方メートルの境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木を青年団が植樹したものである。また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」至誠館などがある。
明治神宮外苑(一般には「神宮外苑」として知られる)は、「明治天皇・昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝えるため、民間有志により結成された明治神宮奉賛会が、広く国民より募った寄付と全国青年団の勤労奉仕によって」造営された。聖徳記念絵画館を中心に、明治神宮外苑競技場(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場)・明治神宮野球場・明治神宮水泳場などがある。
沿革
1943年(昭和18年)10月21日に明治神宮外苑競技場にて出陣学徒壮行会が開催され、雨のなか、約7万の入隊学徒が行進した。
1945年(昭和20年)の空襲の際に社殿のほとんどが消失したが、1958年(昭和33年)10月31日に再建された。
第二次世界大戦後は宗教法人神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、2004年(平成16年)に神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となった[3]。しかし、2010年(平成22年)8月23日、再び神社本庁は明治神宮の被包括関係を設定した。
2008年(平成20年)10月26日-11月1日:明治神宮御社殿復興50年記念の特別ライトアップ「アカリウム」奉納行事開催[4]。
2010年(平成22年)現在の初詣では大晦日から正月三が日の間で300万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めている。
歴代宮司
- 一条実輝:1920年(大正9年)10月8日
- 一戸兵衛:1924年(大正13年)8月19日(在職中死去)
- 有馬良橘:1931年(昭和6年)9月14日(更迭)
- 藤田尚徳:1943年(昭和18年)8月27日(更迭)
- 鷹司信輔:1944年(昭和19年)8月29日
- 甘露寺受長:1959年(昭和34年)5月21日(初代名誉宮司)
- 伊達巽:1972年(昭和47年)3月31日(二代目名誉宮司)
- 高沢信一郎:1979年(昭和54年)4月1日(三代目名誉宮司)
- 福島信義:1989年(平成元年)4月1日(四代目名誉宮司)
- 外山勝志:1994年(平成6年)3月1日(五代目名誉宮司)
- 中島精太郎
境内
内苑と外苑に分かれており、内苑には日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられた。1970年(昭和45年)の調査時には247種17万本となっており、都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が意図的に自然林化されたものとしても注目されている。
明治神宮を設営する場所として選ばれた代々木御料地付近は、元々は森がない荒地であった。そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。設計には、林学の本多静六、本郷高徳、上原敬二、川瀬善太郎、中村斧吉(林苑課長)、大溝勇、山崎林志、中島卯三郎、農学/造園の原煕、大屋霊城、狩野力、太田謙吉、森一雄、水谷駿一、田阪美徳、寺崎良策、高木一三、森一雄、井本政信、北村弘、横山信二、石神甲子郎、また、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の折下吉延らが参加した。折下らは神宮外苑のイチョウ並木などもデザインする。
こうして集められた明治神宮造営局の技師らは1921年(大正10年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこのとき構想され、林苑計画に応用された。当初、多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に予測され実行された。いわば、これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって日本における近代造園学の創始とされている。なお、植林事業そのものは1915年(大正4年)には開始されている。
神宮御苑
明治神宮御苑(通称、神宮御苑)は江戸時代から大名下屋敷の庭園として使われ、明治時代に宮内省の所轄となり、代々木御苑と呼ばれて、明治天皇、昭憲皇太后が行かれたゆかりの深い名苑である。苑内には隔雲亭、お釣台、あずまや、菖蒲田、清正井などがある。菖蒲田のハナショウブ(花菖蒲)は明治天皇が昭憲皇太后のために植えさせられたといわれ、6月が最盛期である。拝観は有料であり、料金は大人500円・16時30分閉門である。
神宮外苑
明治神宮外苑(通称、神宮外苑)は、1886年(明治19年)に、近衛師団、第一師団に所属する部隊の教練場として整備が行われた青山練兵場の跡地に明治天皇崩御の後に造営されたもの。
東京都新宿区、港区にわたり、国民の献金によって絵画館・憲法記念館(戦後は明治記念館)・陸上競技場・野球場などを備えた公園施設として整備された。
祭事
建立資金
神社を奉祀するとはいっても、現実にその領地確保や建立にはいくばくかの資金が必要である。いくつかの候補から、領地は東京公園を建設予定だった新宿村代々木御料地と定められた。当初の理念において、内苑は国が、外苑は国民が造るものとされ、資金は国による税金と国民による寄附金があてられた。
その総額は国税の納付額などで明治神宮奉賛会によっておおよそ標準額として予め計算されたものがあり、東京では200万円、東京以外の内地では250万円、外地(当時は領土であった樺太・台湾・朝鮮・関東州)からは20万円、また、帝国国内だけではなく国外からは25万円とされた。内地においてはその目標額が公平な負担となるよう各都府県に割り当てられた。各市町村群へは各都府県が割り当てられた額面を調整し、その寄附金を募った[5]。基本的には寄附であるので個人の自由であるが、官吏などはそうではなかったところもある(地位により額面が決められていたが、一部を除いては自らに割当られた額面の寄附は望んでのことであった。総理大臣は100円とされた)。
標準額総額は495万円であったが、結果的には想定を大きく上回る約676万円となった。必要とされた額は670万円とされていたので、目標額は達成できたことになる。
逸話
おみくじ
明治神宮には、多くの神社にみられる「おみくじ」が存在しない。代わりに、明治天皇が詠まれた「御製」をくじで引いて、一般参拝者が拝読する「大御心」を受けることとなっている。この「大御心」を受けた参拝者は、これを持ち帰り、折により大御心を読み返すものとされており、おみくじのように境内に結んで残すことはしない。
清正井
それまで、神宮御苑の一つの井戸であった清正井(きよまさのいど)であったが、2009年(平成21年)12月25日から突如、清正井目当てに行列が延々と続く事態が続いている。これは、前日の12月24日に放送されたテレビ番組にて、手相芸人の島田秀平が清正井の御利益について力説していたことが原因である。これ以降、清正井はパワースポットとして注目を浴びることとなった。
参拝者は清正井を携帯電話のカメラ機能で撮ったりして、待ち受け画像にしているという。
神宮御苑は閉門時間が16時30分であるが、14時に並んでも閉門前に清正井にたどりつけないほどの行列で、「清正井は今から入苑しても日没となりご覧いただけません。改めてお越し下さい」という立て看板まで立てられるという事態が続いている。これに対して、明治神宮側はあくまでも「神宮全体が神域ですので……」と述べるに留まっている[6]。
文化財
重要文化財
- 明治神宮宝物殿 13棟
- 大正10年(1921年)竣工。鉄筋コンクリート造。中倉(附:陳列箱8基、鬼瓦1箇)、東西倉、東西廊、東西橋廊、東西渡廊、北廊、車寄、事務所、正門の計13棟が近代和風建築として国の重要文化財に指定され、土塁2箇所が附(つけたり)指定となっている。
- 太刀 銘助茂(1972年盗難、所在不明)
ギャラリー
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南門 鳥居
アカリウム
(2008年10月31日撮影) -
南参道 光の道
アカリウム
(2008年10月31日撮影) -
手水舎
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宝物殿
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明治神宮御苑
交通アクセス
- 鉄道
- 南参道
- 北参道
- 西参道
- 車
脚注
- ^ 江守賢治『解説字体辞典』は、「宮」の字は、甲骨文以来、「ノ」を入れずに書くのが通常であり、『説文』や『康煕字典』が「ノ」を入れる字体を採用したのが異例であるとする。一方、明治神宮の公式サイトは、「ノ」は、建物(「ロ」)と建物(「ロ」)を繋ぐ「廊下」を表し、古くは建物と建物の間に廊下はなかったので「ノ」を入れなかったが、廊下が作られるようになってから「必然的」に「ノ」を入れるようになったとする。
- ^ 古川隆久『皇紀・万博・オリンピック…皇室ブランドと経済発展』中央公論社〈中公新書〉(原著1998年)、pp. 21-59頁。ISBN 4121014065。
- ^ “明治神宮 神社本庁離脱 外山宮司 神社私物化か”. 國民新聞. (2004年7月5日) 2010年2月28日閲覧。
- ^ 明治神宮御社殿復興50年記念奉祝事業実行委員会【御協賛のお願い】 - ウェイバックマシン(2008年8月2日アーカイブ分)
- ^ 千葉県ではキッコーマンからの1万円の寄附金を受け、市町村群への割当を1万円差っ引いて寄附金を集めた。
- ^ 産経新聞 (2010年2月8日). “話題のパワースポット、明治神宮「清正井」の謎に迫ってみた”. Business Media 誠. ITmedia. 2010年2月28日閲覧。
参考文献
- 山口輝臣『明治神宮の出現』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2005年) ISBN 4-642-05585-1
- 明治神宮社務所 編『「明治神宮の森」の秘密』(小学館文庫、1999年) ISBN 4-09-411251-0
- 内山正雄、蓑茂寿太郎『代々木の森』(郷学舎、1981年)
関連項目
外部リンク