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'''チェリー''' (''CHERRY'') は、かつて[[日産自動車]]が販売していた[[乗用車]]である。
'''チェリー'''(''Cherry'' ) は、かつて[[日産自動車]]が販売していた[[乗用車]]である。


== 概要 ==
== 概要 ==
元々、[[1966年]][[8月]]に日産自動車に吸収合併された[[プリンス自動車工業]]が、日産に吸収合併される以前から次世代の[[前輪駆動|前輪駆動(FF)車]]として開発されていた車種である。日産に吸収合併された後も旧プリンス出身の社員を中心に、当時の旧プリンスの開発拠点であった[[東京都]][[杉並区]][[荻窪 (杉並区)|荻窪]]の荻窪事業所にて開発が続行され<ref group="注釈">荻窪事業所ではチェリーのほか[[日産・スカイライン|スカイライン]](R30型迄)、[[日産・ローレル|ローレル]](C31型迄)、[[日産・レパード|レパード]](初代F30型)、[[日産・プレーリー|プレーリー]](初代M10型)、[[日産・マーチ|マーチ]](初代K10型)の開発も手がけていた。荻窪事業所は[[中島飛行機]]東京工場時代から続く旧プリンスの製造開発拠点で、戦後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の命により中島飛行機が解体され、その中の一つが富士産業→富士精密工業となり荻窪に残った。自動車の開発拠点として、主にスカイラインをはじめ旧プリンス時代から続くブランドの車やFF車の開発を担当していたが、[[1981年]]11月に[[神奈川県]][[厚木市]]に完成した大型研究開発施設の'''テクニカルセンター'''へ日産旧来の開発拠点であった鶴見の横浜事業所らと共に集約され、自動車の開発拠点としての使命は終わった。ただし日産は旧プリンスが中島飛行機時代から荻窪事業所で行っていたロケット開発を引き継いで宇宙航空事業に参入しており、[[1998年]]に宇宙航空事業部が[[群馬県]]へ移転するまで荻窪事業所は存在していた(その後、宇宙航空事業部は[[2000年]]に石川島播磨重工業へ部門ごと売却され、現在の[[IHIエアロスペース]]となる)。</ref>、[[1970年]]に日産初の量産前輪駆動(FF)車として発売された。
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パワートレインには、[[横置きエンジン]]の[[シリンダーブロック]]の真下に[[トランスミッション]]を置きコンパクトに二階建て風にまとめる、[[ミニ (BMC)|ミニ]]で有名ないわゆる[[アレック・イシゴニス|イシゴニス]]式を採用した。
パワートレインには、[[横置きエンジン]]の[[シリンダーブロック]]の真下に[[トランスミッション]]を置きコンパクトに二階建て風にまとめる、[[ミニ (BMC)|ミニ]]で有名ないわゆる[[アレック・イシゴニス|イシゴニス]]式を採用した。


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*[[1977年]]2月 - マイナーチェンジ。
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*[[1978年]] - スウェディッシュラリーにプライベーターの手により参戦。
*[[1978年]] - スウェディッシュラリーにプライベーターの手により参戦。
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「[[サクラ|桜]]」を示す英語「Cherry」から。
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== 外部リンク ==
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*[http://gazoo.com/meishakan/meisha/shousai.asp?R_ID=1288 GAZOO.com 日産・チェリー(初代)]
*[http://gazoo.com/meishakan/meisha/shousai.asp?R_ID=1289 GAZOO.com 日産・チェリー(2代目)]


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2021年4月1日 (木) 01:52時点における版

チェリーCherry ) は、かつて日産自動車が販売していた乗用車である。

概要

元々、1966年8月に日産自動車に吸収合併されたプリンス自動車工業(以下プリンス)が、日産に吸収合併される以前から次世代のFF車として開発されていた車種である。日産に吸収合併された後も旧プリンス出身の社員を中心に、当時の旧プリンスの開発拠点であった東京都杉並区荻窪の荻窪事業所にて開発が続行され[注釈 1]1970年に日産初の量産FF車として発売された。

パワートレインには、横置きエンジンシリンダーブロックの真下にトランスミッションを置きコンパクトに二階建て風にまとめる、ミニで有名ないわゆるイシゴニス式を採用した。

初代 E10型(1970年-1974年)

日産・チェリー(初代)
E10型
4ドアセダン X-1
英国向けダットサン・100A(MC後)
概要
販売期間 1970年10月-1974年9月
設計統括 増田忠
ボディ
乗車定員 5名
ボディタイプ 2/4ドアセダン
3ドアファストバッククーペ
3ドアライトバン
(日本仕様のみ)
3ドアステーションワゴン
(日本仕様除く)
駆動方式 前輪駆動
パワートレイン
エンジン A12型(ツインキャブ)直列4気筒 OHV 1,171cc(80ps/6,400rpm 9.8kgm/4,400rpm)
変速機 3速 / 4速MT
前:ストラット式独立/コイルばね
後:トレーリングアーム式独立/コイルばね
前:ストラット式独立/コイルばね
後:トレーリングアーム式独立/コイルばね
車両寸法
ホイールベース 2,335mm
全長 3,610mm
全幅 1,470mm
全高 1,380mm
車両重量 670kg
その他
最高速度 160km/h
データモデル 4ドア1200X-1(1970年)
テンプレートを表示
クラス的にはカローラサニーに代表されるいわゆる「大衆車」クラスよりもやや下(パブリカと同クラス)に属し、日本国内では、初めて自動車を持つ若者や、軽自動車からの乗り換え需要を主なターゲットとした。
搭載エンジンは直列4気筒OHV1,000ccA10型、および直列4気筒OHV1,200ccA12型ツインキャブ仕様(X-1)の2機種。サスペンションは前ストラット、後トレーリングアームの4輪独立で、前後ともコイルスプリングを用いた。
当初は4ドアセダンおよび2ドアセダンのみの設定だった。
ボディスタイルは丸みを帯びた凝縮感の強いもので、シンプルながら強い個性を持つ「セミファストバック」と呼ばれる個性的なボディスタイルが採用された(『絶版日本車カタログ』三推社・講談社 60頁参照)。サイドウインドウの形が特徴的で、前後をあわせると目の形に似ていたため「アイライン」と称された。またCピラーの造形は日本らしさを特徴とした車とするため富士山をモチーフとしたとも言われ、車名を「フジ」とすることも検討されたという。なおアメリカ車ではすでに1960年代からこのようなクォーターウインドウとピラー形状のスタイリングが取り入れられている。
コマーシャルソングとして、 赤い鳥の「ラブリーチェリー」(作詞:山上路夫、作曲:村井邦彦、編曲:渋谷毅)が起用された。この曲は当時ソノシートが制作されたほか、2003年発売の12枚組CD-BOX『赤い鳥 コンプリート・コレクション 1969-1974』に収録された(こちらでのタイトルは「ラブリー・チェリー」)。
  • 1971年9月 - 3ドアクーペ追加。冷却ファンがベルト駆動から電動に改められた。
  • 1972年3月 - A12型シングルキャブ仕様 及び3ドアバン追加。バンのリアサスペンションはセダンと異なりリーフ式リジットだった。バンは当時業務提携していたいすゞ自動車藤沢工場で生産されていた。
    • 4月 - レース・ド・ニッポンに「クーペ」が参戦。その他の国内レースにも日産ワークスとして参戦した。
    • 6月 - マイナーチェンジ。前後バンパーの大型化、およびセダン系のテールランプの大型化など。
  • 1973年3月 - オーバーフェンダー付の「クーペ1200X-1・R」追加。
  • 1974年9月 - 上級クラスに移行した「チェリーF-II」が発売された後も、初代モデルは日産のラインナップの下端を受け持つ車種としてしばらくの間F-IIと併売された。生産中止後、その市場を直接受け継ぐモデルは長らく現れず、1982年マーチが発売されるまで日産では1000ccクラスは空白となった。
  • 1976年 - アクロポリスラリーにプライベーターの手により参戦。

販売終了前月までの新車登録台数の累計は21万9663台[1]

2代目 F10/11型(1974年-1978年)

日産・チェリーF-II(2代目)
F10/F11型
F-IIクーペ1200
F-IIセダン1400GL
概要
販売期間 1974年9月-1978年11月
ボディ
乗車定員 5名
ボディタイプ 2/4ドアセダン
3ドアファストバッククーペ
3ドアライトバン
(日本仕様のみ)
3ドアステーションワゴン
(日本仕様除く)
駆動方式 前輪駆動
パワートレイン
エンジン A14型(シングルキャブ)直列4気筒 OHV 1,397cc(80ps/6,000rpm 11.5kgm/3,600rpm)
変速機 4速手動
前:ストラット式独立/コイルばね
後:フル・トレーリングアーム式独立/コイルばね
前:ストラット式独立/コイルばね
後:フル・トレーリングアーム式独立/コイルばね
車両寸法
ホイールベース 2,395mm
全長 3,825mm
全幅 1,500mm
全高 1,375mm
車両重量 755kg
その他
最高速度 160km/h
データモデル 4ドア1400GL(1974年)
系譜
後継 日産・パルサー
テンプレートを表示
  • [2]1974年9月 フルモデルチェンジ。サブネームが付き正式には「チェリーF-II」となった。
初代よりも上級クラスに移行し、同じ日産ではサニーとほぼ同じクラスとなる。
機構的には初代を踏襲しており、A型エンジン、2階建てレイアウトの駆動系、前ストラット、後フル・トレーリングアームの4輪独立懸架などを受け継いでいる。
搭載エンジンは旧来のA12型に加え1,400ccのA14型が追加された。一方1,000ccのA10型は姿を消した。
ボディバリエーションは4ドアセダン、2ドアセダン、3ドアクーペ及び3ドアバンの4種類。寸法的には、全長、全幅、ホイールベースがそれぞれ215mm、30mm、60mm拡大された(4ドア)。
初代チェリーはシンプルでありながら強い個性を持ったボディスタイルもその大きな特徴だったが、F-IIではそのどちらも影を潜め、当時の他の日産車によく似た没個性的なボディスタイルとなった。一方で、初代、特にクーペで劣悪だった後方視界は幾分改善された。
  • 1975年10月 - 1400が昭和50年排出ガス規制に適合。
    • 12月 - 1200が昭和51年排出ガス規制に適合。
  • 1976年2月 - 1400が昭和51年排出ガス規制に適合。
    • 3月 - ツインキャブレター装着の「1400 GX TWIN」発売。
    • 11月 - 「スポーツマチック」と称する3速セミAT搭載車が設定される。
  • 1977年2月 - マイナーチェンジ。
  • 1978年 - スウェディッシュラリーにプライベーターの手により参戦。
    • 5月 - チェリーF-II4ドアセダンの後継モデルとしてパルサー(セダン)(N10型)が登場し、4ドアセダンが先行終売。
    • 9月 - パルサーに3ドアハッチバック(チェリーF-II2ドアセダンの後継モデル)及び3ドアクーペ(チェリーF-IIクーペの後継モデル)、3/5ドアライトバン(チェリーF-IIバンの後継モデル)が追加され、2ドアセダンとクーペがそれぞれ終売。
    • 11月 - パルサーに5ドアバン(チェリーF-IIバンの後継モデル)が追加され、最後まで残っていた3ドアバンが終売。2代目の累計販売台数は約30万台[2]。チェリーは8年の歴史に幕を下ろした。

車名の由来

」を示す英語「Cherry」から。

脚注

注釈

  1. ^ 荻窪事業所ではチェリーのほかスカイライン(R30型迄)、ローレル(C31型迄)、レパード(初代F30型)、プレーリー(初代M10型)、マーチ(初代K10型)の開発も手がけていた。荻窪事業所は中島飛行機東京工場時代から続く旧プリンスの製造開発拠点で、戦後GHQの命により中島飛行機が解体され、その中の一つが富士産業→富士精密工業となり荻窪に残った。自動車の開発拠点として、主にスカイラインをはじめ旧プリンス時代から続くブランドの車やFF車の開発を担当していたが、1981年11月に神奈川県厚木市に完成した大型研究開発施設のテクニカルセンターへ日産旧来の開発拠点であった鶴見の横浜事業所らと共に集約され、自動車の開発拠点としての使命は終わった。ただし日産は旧プリンスが中島飛行機時代から荻窪事業所で行っていたロケット開発を引き継いで宇宙航空事業に参入しており、1998年に宇宙航空事業部が群馬県へ移転するまで荻窪事業所は存在していた(その後、宇宙航空事業部は2000年に石川島播磨重工業へ部門ごと売却され、現在のIHIエアロスペースとなる)。

出典

  1. ^ デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第63号3ページより。
  2. ^ a b デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第94号9ページより。

関連項目

外部リンク