「エジプト先王朝時代」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 無駄に漢数字になっている部分を、算用数字に変換。など
(3人の利用者による、間の14版が非表示)
1行目: 1行目:
{{古代エジプトの王朝}}'''エジプト先王朝時代'''とは、エジプトを統一する王朝([[エジプト初期王朝時代|初期王朝時代]])が登場する以前の[[古代エジプト]]を指す時代区分である。その始まりをいつとするかは明確ではないが概ね[[紀元前5千年紀]]末、その終了は[[放射性炭素年代測定]]によって概ね[[紀元前3100年]]頃とされている。
{{古代エジプトの王朝}}'''エジプト先王朝時代'''とは、エジプトを統一する王朝([[エジプト初期王朝時代|初期王朝時代]])が登場する以前の[[古代エジプト]]を指す時代区分である。


現在のエジプト地域では50万年前には人類の痕跡が残されている<ref>[[#古谷野 1998|古谷野 1998]], p.2</ref>が、[[歴史学]]の見地からは先王朝時代の始まりがいつであるとするのか明確ではなく、考古学においては農耕の開始をもってその開始とするのが代表的な見解となる<ref name="吉成1994pp202_204">[[#吉成 1994|吉成 1994]], pp.202-204</ref>。本記事ではエジプトにおける農耕・牧畜の始まりから[[エジプト初期王朝時代]]の始まりとされる[[エジプト第1王朝|第1王朝]]の登場までを概観する。ただし先王朝時代の定義について、特にその開始について統一的な見解が存在するわけではない事に注意されたい。
== 研究史 ==
=== 古代 ===
古代[[エジプト人]]は歴代王([[ファラオ]])の名前のリスト化した[[王名表]]を作成する伝統を持っていた。[[エジプト新王国]]時代に作成された『[[トリノ王名表]]』には、エジプトの最初の王として[[メネス|メニ]]の名が記されている<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], p.64</ref>。また、[[紀元前5世紀]]の[[ギリシア人]]の歴史家[[ヘロドトス]]の『[[歴史(ヘロドトス)|歴史]]』はエジプトの神官達の証言として初代王ミン、[[マネト]]<ref group="注釈">[[紀元前3世紀]]のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝[[プトレマイオス朝]]に仕えたため[[ギリシア語]]で著作を行った。</ref>が[[プトレマイオス朝]]時代に著述した『[[エジプト史]]』では初代王としてメネス(メニのギリシア語形)が登場する。これらからわかるように、王朝時代の古代エジプトではメニ(メネス)から始まるエジプトの歴史が共有されていた。


== 自然環境と終末期旧石器文化 ==
メニ以前のエジプトについての記録は神、半神達の時代とされていた。[[エウセビオス]]によれば、マネトの記録は3巻に分類されていた。1巻は[[ヘファイストス]]([[エジプト神話]]における[[プタハ]])を筆頭とする神について述べ、2巻は神人、即ち死者の精霊について述べる<ref name="フィネガン1983p212">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p.212</ref>。続いて3巻はメネスに始まる人王について述べている。人王の時代は[[エジプト第1王朝|第1]]から、[[エジプト第30王朝|第30]]までの王朝として分類されている<ref>後世、[[エジプト第31王朝|第31王朝]]が追加されたと推定される。</ref>{{Refnest|group="注釈"|後世、[[エジプト第31王朝|第31王朝]]が追加されたと推定される。<ref name="フィネガン1983p212"/>。}}。『トリノ王名表』は王朝以前の位置に「ホルスの信奉者たち」(ホルスの信奉者であった精霊)と呼ばれる半神達の王朝があったことが記されている<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.5</ref><ref>[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p.212</ref>。
現在では広大な砂漠地帯となっているナイル川西方の地域は、12,000年前頃から7,000年前頃まで、[[第4湿潤期]]と呼ばれる湿潤な時代に入った。湿潤と言っても年間降水量は200mm前後であったとみられるが、[[スーダン]]北部からエジプト南部の地域においては植物が繁茂し、[[ウサギ|ノウサギ]]、[[ガゼル]]、[[オリックス]]等が生息していた。この時期は考古学的には「'''終末期旧石器時代(Terminal Palaeolithic)'''」または「'''続旧石器時代(Epipalaolithic)'''」に分類<ref name="高宮2003p25">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.25</ref>され、現在砂漠となっている地域にも[[人類]]の居住が確認されている。特に夏季の降雨の後に水たまりができる低地や、比較的浅い位置に地下水が存在する場所にその居住は集中している。現在の西部砂漠地方にある[[ナブタ・プラヤ]]遺跡周辺で終末期旧石器時代の遺跡から発見される人類が捕獲した動植物の遺存体にはノウサギやガゼルの他、[[ダチョウ]]の[[卵]]や[[鳥類]]の骨片、[[アカシア]]、[[ギョリュウ]]、[[ナツメヤシ]]等が含まれており、現在より遥かに生物密度の大きい当時の環境を証明している<ref>[[#近藤 1997|近藤 1997]], p.34</ref>。


ナイル川中流域(現在のスーダン中部)でも多数の集落が形成されている<ref name="高宮2003p25"/>。このナイル川中流域の遺跡から発見された文化は[[カルトゥーム中石器文化|カルトゥーム(ハルツーム)中石器文化]](Khartoum)と呼ばれている。このカルトゥーム中石器文化の遺跡からエジプトで最も古い段階の土器が発見されており、また豊富な動植物資源、水産資源に支えられて定住も開始したと考えられている<ref name="高宮2003p26">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.26</ref>。
より古い記録として、[[紀元前2400年]]頃に作成されたエジプト最古の年代記である『[[パレルモ石]]』には、統一王朝以前にも王らしき人物(それは王冠を被った表現でわかる)がいたことが記されている。しかし具体的な歴史記録を読み取ることはできない。


7,000年前頃から、[[アフリカ大陸]]北東部では乾燥化が徐々に進行し始めた。これに合わせて人類の生活環境も、年間を通して[[水]]が手に入る[[ナイル川]]流域が中心となっていった<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.39</ref>。そして、ナイル川流域での農耕の開始をもって[[新石器時代]]の開始とされている。考古学的見地からはこの時点を先王朝時代の開始とする見解がある<ref name="吉成1994pp202_204"/>。
以上のように古代エジプトにおける先王朝時代の記録は概して神話的であるが、図像表現等にそれらしき物が見られる。


=== 近代発見 ===
== 農耕・牧畜始まり ==
かつての発掘調査ではナイル川流域の農耕、牧畜は[[紀元前6千年紀]]後半に突如として始まるような印象が持たれていた<ref name="高宮2003p21">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.21</ref>。その後、20世紀後半の調査によりナイル川西方の砂漠地帯にこれを説明する遺跡が多数発見され、ナイル川流域の農耕・牧畜文化は、現在では砂漠化している西部砂漠地方に起源を持つ可能性が議論されている。しかし、西部砂漠地方とナイル川流域の関係は今だ明瞭には理解されていない<ref name="高宮2003p21"/>。
この節と次節の記載は特記がない限り参考文献 『エジプト文明の誕生』([[高宮いづみ]])の記述に全面的に依拠する。


アフリカ大陸北東部における牧畜の発生については、ウェンドルフらが[[紀元前7000年]]頃に[[ウシ]]の家畜化が独自に始まるとする説を唱えている。[[ヒツジ]]と[[ヤギ]]については[[西アジア]]で家畜化がなされたことがはっきりしている<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.36</ref>。ヒツジとヤギは紀元前6000年期後半に導入された。
[[ローマ帝国|ローマ]]時代後半以降、古代エジプトの文献記録の継承は途絶えてしまった。そのため、王朝以前のエジプトについての研究も何ら進展は見られない。[[1822年]]、[[フランス人]]研究者[[ジャン=フランソワ・シャンポリオン|J.F.シャンポリオン]]が[[ヒエログリフ]]の解読に成功した事によって近代[[エジプト学]]が確立されると、エジプト王朝時代の王達の歴史が再び明らかにされるようになった。そして[[19世紀]]終わりまで、エジプトの歴史の曙は、王朝時代の記録や、[[ギリシア語]]の文献記録に基づき、初代王メニをはじめとする初期王朝時代の王達の業績に求められることになった。


一方、農耕(植物栽培)については現在確認できる最古の例は紀元前5000年頃の[[ファイユーム]]で発見された[[麦]]であるが、[[紀元前6000年]]頃には[[ソルガム]]や[[ミレット]]が現在の西部砂漠地方で栽培されていたとする説がある{{refnest|group="注釈"|西部砂漠地方にあるナブタ・プラヤ遺跡では、より早く農耕が始まっていた可能性があるが、否定的な見解もあり確実ではない<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]] pp.33, 37 </ref>。}}。
相次ぐ[[考古学]]的発見に伴い、19世紀終わり頃になると文献記録のみに頼ることのない文明誕生の本格的な研究が始まった。W.M.F.ペトリーによる[[ナカダ]]遺跡周辺の発掘調査([[1894年]]-[[1895年]])と、J.ド・モルガンによるエジプト南部およびナカダ遺跡の調査([[1896年]]-[[1897年]])が王朝時代以前から初期王朝時代にかけての遺跡における最初の本格的な調査であった。これらの調査で発見された文化は、最初に発見された遺跡の名前から[[ナカダ文化]]と呼ばれる。


== 各地域の初期農耕文化 ==
その後、[[20世紀]]前半までの調査によって数多くの王朝時代以前の遺跡が調査され、文明誕生期の歴史と文化についての知見が蓄積された結果、エジプト第1王朝開闢に先立つ[[紀元前5千年紀末]]以降の時代は「''先王朝時代''([[英語|英]]:Predynastic Period)の呼称を与えられ、エジプト学の中でも独立した研究分野としての地位を確立していった。
[[File:Ancient Egypt map-en.svg|thumb|200px|上下エジプトの地図:上エジプト(Upper Egypt)は南のナイル川上流域、下エジプト(Lower Egypt)は北のナイル川河口デルタ地域を指す。緑色の部分が居住可能地である。]]
古代エジプト人は今日のエジプトの土地を[[上エジプト]](タ・シェマ)と[[下エジプト]](タ・メフ)と言う二つの国、或いは二つの土地に分けて理解していた。上下という表現は、ナイル川の上流・下流に対応し、上エジプトが南、下エジプトが北である。ナイル川の広大な[[デルタ]]地帯が広がり、扇状に広がるナイルデルタによって一面の緑が広がり海に面した下エジプトと、ナイル川が一筋に流れ、乾燥化の後にはナイル川の狭隘な[[沖積平野]]と[[河岸段丘]]を生活の舞台とし、そこから僅かにでも離れると不毛の[[砂漠]]地帯が広がっていた上エジプトでは、その自然環境に根差した生活習慣や文化にも当然相違があり、先王朝時代にはこの上下エジプトでそれぞれ独自の文化が発達した<ref>[[#高宮 2006|高宮 2006]], p.9</ref>。その後エジプトが統一された後も、この二つの土地の差異はエジプト史に大きな影響を与えた。


また、上エジプトと下エジプトの結節点近くには、[[ファイユーム]]低地地方が存在した。ナイル川の分流が流れ込んで形成された[[モエリス湖|カルーン湖]]を中心とするこの地方は、[[エジプト中王国|中王国]]時代に[[干拓]]が行われるまで、広い湿地帯が広がる独特の景観が形成されており、継続的に人類の生活の舞台であった<ref>[[#高宮 2006|高宮 2006]], p.14</ref>。
初期の研究をリードしたペトリーは、ナカダ文化期から初期王朝時代にかけての文化変化を「アムラー」「ゲルゼー」「セマイネー」の3つの文明の交代として捕らえ、その背景には[[西アジア]]からの異民族侵入があったとした。この考え方は当時の学会では広く受け入れられていた。


=== ファイユーム ===
その後の調査で、[[エジプト]]北部ではナカダ文化と様相を異にする複数の文化が発見された。これらの文化も発見された遺跡や地方の名前から[[マーディ・ブト文化]]、[[メリムデ文化]]、[[ファイユーム文化]]、[[オマリ文化]]と命名された。更に[[アビュドス]]遺跡で初期王朝時代の王達の墓が発見され、メニ王を同時代の王と同定する試みが盛んになった。
==== ファイユーム文化 ====
エジプトにおける最古の確実な農耕の痕跡はこの地方で発見されており、[[ファイユーム文化]]と呼ばれている。[[放射性炭素年代測定]]によれば[[紀元前53世紀|紀元前5230年]]頃から1,000年あまり継続した。[[剥片石器]]を中心とする石器を用い、[[穀物]]を栽培、[[ヒツジ]]と[[ヤギ]]を飼育していた。漁労・狩猟も未だ重要であり、ガゼルや[[ハーテビースト]]、[[カバ]]、[[ワニ]]、[[カメ]]などの動物骨、[[魚類]]の骨が発見されている。[[ウシ]]も発見されているが、家畜化されたものであるかどうか不明である<ref>[[#高宮 2006|高宮 2006]], pp.41-45</ref>。ファイユーム文化はエジプトで初めて農耕・牧畜を導入した文化ではあったが、これによって生業は多様化したものの、未だ本格的な生産経済に基盤を置く文化であったとは言い切れない<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.45</ref><ref>[[#吉成 1994|吉成 1994]], p.205</ref>。このファイユーム文化と、終末期旧石器時代の文化の間には1,000年以上の時間的隔たりがあることが判明しており、学者の中には農耕・牧畜の技術を持った人々が外部からファイユームに移動してきた結果、古代エジプト王朝の基礎を築いたとする主張する者もある<ref>[[#近藤 1997|近藤 1997]], pp.43-44</ref>。


=== 20世紀後半 ===
=== 下エジプト ===
==== メリムデ文化 ====
1944、H.J.カンターらの研究で、ペトリー以来の民族侵入によってこの先王朝時代の変遷を説明しようとする見解が否定された。また、W.カイザーの研究の結果、上エジプトで発祥したナカダ文化が時代と共に南北に分布を拡大していくことが明らかにされた。これらの研究により先王朝時代の文化・社会の変遷を外的要因に求めるではなく、エジプト内部にその主要因を求める流れが形成された。更にナカダ文化の拡張が明らかになったことで、統一王朝形成の過程でそれが大きな役割を果たした事が強く認識されるようになった。
現在の[[カイロ]]の南西45キロメートルの地点、現在の[[ワルダーン]]村近くにある[[メリムデ・ベニ・サラーム]]遺跡では、ファイユーム地方と並ぶ時代の新石器文化が発見されており、遺跡の名前から[[メリムデ文化]]と名付けられている。この遺跡から検出された石器等の史料はこの地方が[[シリア地方]]と交流を持っていた事を示し<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.48</ref>、集落の形態にもシリア地方、[[メソポタミア]]、[[キプロス]]と共通する要素があると見られる<ref>[[#吉成 1994|吉成 1994]], pp.206</ref>。[[エンマー小麦]]、[[六条大麦]]、[[豆類]]、[[亜麻]]等を栽培し、ウシ、ヒツジ、ヤギ、[[ブタ]]を飼育していたことが知られる。またファイユームと同じく狩猟は重要であり、[[アンテロープ]]、ガゼル、カバ、ワニ、鳥類が捕獲されていたほか、多数の魚の骨が発見されている<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.50</ref>。また死者の頭を東側に向けて埋葬する習慣があったことから、この当時既に死者の埋葬について宗教的な習慣が確立していた可能性もある<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], p.19</ref>。メリムデ文化の絶対年代は不明であり、放射性炭素年代測定では[[紀元前4750年]]頃から[[紀元前4250年]]頃であるが、研究者の中にはこの年代は新しすぎると批判するものもいる<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.51</ref>。


==== オマリ文化 ====
20世紀後半になると欧米で隆盛した[[プロセス考古学]]と、実用化されつつあった放射性炭素年代測定法が大きく寄与し、諸文化の編年関係や埋葬形態、集落形態の研究が大きく進展した。これによって古くから続いていた文献史料の影響から本格的な脱却が図られた。
カイロの南約20キロメートルのナイル川東岸にある[[オマリ]]遺跡では、ファイユーム文化やメリムデ文化の最終段階と同時期に位置付けられる文化が発見され、遺跡の名前を取って[[オマリ文化]]と呼ばれている。放射性炭素年代測定による年代測定では[[紀元前4600年]]頃~[[紀元前4400年]]頃という年代が得られている<ref name="高宮2003p52">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.52</ref>。やはりエンマー小麦、[[クラブ小麦]]や大麦などを栽培し、ウシ、ヒツジ、ブタ、ヤギを飼育、野生の植物や動物を捕食していた。水産物も[[ナマズ]]や[[ナイル・パーチ]]等が豊富に捕獲されていた。石器は[[フリント]]を用いた剥片石器が中心であるが、少数ながら石刃技法によるものも認められる。石皿等[[穀物]]を食するのに必要な道具類の数が少ないことから、ここでも穀物栽培は未だ補助的な役割を果たしていたに過ぎないと推測されている<ref name="高宮2003p52"/>。オマリ文化はメリムデ文化と並行する時代であり、共通点も相違点もあることから、相互の関係については明確ではない<ref name="高宮2003p55">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.55</ref>。


==== マーディ・ブト文化(ブト・マーディ文化/マーディ文化) ====
1970代年以降、中東情勢の安定の伴いエジプトにおける発掘調査が活発となった。この時期以降の調査は、プロセス考古学の影響を受けて旧来の[[墓地]]を中心とする調査よりも、集落跡に焦点を当てる傾向が顕著であった。更に従来ほとんど手付かずであった[[下エジプト]]の[[デルタ]]地帯での発掘調査が進展した。これらの調査で既存の下エジプトの文化([[マーディ・ブト文化]]の中に次第にナカダ文化が浸透していく様が明らかになった。更にアビュドス遺跡での再調査で初期王朝時代黎明期の詳細な情報が提供された。
デルタ地帯付け根部分の東岸にある[[マーディ]]遺跡から、メリムデ、オマリ文化に続く時代の文化遺構が発見され、[[マーディ・ブト文化|マーディ文化]]と名付けられた。その後同種の文化が[[ブト]]遺跡でも発見されたことから、マーディ・ブト文化とも呼ばれる{{refnest|group="注釈"|ブト・マーディ文化とも。遺跡形成と文化認定の順序から、マーディ・ブト文化と呼ぶ案が提唱されている<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]] pp.71-72 </ref>。}}。この文化は、先行するメリムデ文化やオマリ文化を引き継いで発展したものと考えられ<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.72</ref><ref name="大城2009p24">[[#大城 2009|大城 2009]], p.24</ref>、牧畜においては[[ロバ]]、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、[[イヌ]]が飼育されていたことが明らかとなっているが、特に重要なのは発見された動物骨の大半が飼育動物のものであることで、未だ狩猟は行われていたもののその重要性は大きく下がっている<ref name="高宮2003p75">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.75</ref>。ただし漁労は非常に盛んであり多数の魚の骨が発見されている<ref name="高宮2003p75"/>。遺跡において特徴的なのは楕円形をした半地下式の住居で、類似する形態の物がパレスチナ地方からも発見されており、その密接な関係を示唆している<ref name="大城2009p24"/>。また、農耕・牧畜のみならず[[銅]]製品の加工も行われていたことが明らかになっている。下エジプトで銅は得られない事から、周辺地域から原材料を輸入していた事を示すものであり、このこともマーディ・ブト文化の人々の周辺地域との関係の大きさを知る事ができる<ref name="大城2009p24"/>。


マーディ・ブト文化の遺跡は下エジプトの全域から発見されているが、ナカダ2期の終わり頃(紀元前3500年~紀元前3300年)から次第に独自性を喪失し、上エジプトから広がった[[ナカダ文化]]が下エジプトに定着していく<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.76</ref>。
また[[イスラエル]]・[[パレスチナ]]で行われた発掘調査は、[[紀元前4千年紀]]のエジプトがパレスチナ南部と密接な関わりを持っていることを明らかにした。また、F.ウェンドルフらによる[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ポーランド]]合同調査隊は、周囲の[[砂漠]]地帯における調査を進展させ、[[ナイル川]]近辺で未発見であった終末期[[旧石器時代]]の遺跡を各地で発見し、歴史の空白を埋めた。


=== 上エジプト ===
[[File:Ancient Egypt map-en.svg|thumb|200px|上下エジプトの地図:上エジプト(Upper Egypt)は南のナイル川上流域、下エジプト(Lower Egypt)は北のナイル川河口デルタ地域を指す。]]
==== ターリフ文化 ====
ターリフ文化は上エジプトで初めて[[土器]]を導入した文化である<ref name="高宮2003p54">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.54</ref>。放射性炭素年代測定では[[紀元前5200年]]頃という年代が得られている。この文化の居住跡は[[炉]]と石器、土器しか発見されず、恐らく人々は移動型の生活を送っていたのだろうと推定されている<ref name="高宮2003p55"/>。この文化では農耕の痕跡は発見されていないが、[[アル=サラムニ]]遺跡からこの文化の最末期と同じ時代かやや新しい時代の家畜化されたウシの骨が出土しており、これが上エジプトにおける最も古い牧畜の痕跡である<ref name="高宮2003p54"/>。


==== バダリ文化 ====
== 農耕・牧畜の始まり ==
ターリフ文化に続く文化が、[[マトマール]]から[[ハマミーヤ]]までのナイル川東岸でまとまって検出され、[[バダリ文化]]と名付けられた。先行するターリフ文化との関係性はわかっていない<ref name="高宮2003p57">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.57</ref>。バダリ文化は放射性炭素年代測定等から[[紀元前4500年]]頃から[[紀元前4000年]]頃とされる<ref name="高宮2003p57"/>。バダリ文化に属する人々は砂漠の縁辺部に集団墓地を形成し、多量の[[副葬品]]を添えて死者を手厚く埋葬する習慣を初めてエジプトに導入した人々であった。遺体は基本的に南に頭を置いて埋葬され、土器や装身具、[[化粧板|パレット]]などと共に埋葬された。既にこの頃から階層分化が見られるという<ref name="高宮2003p58">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.58</ref>。また、生活の情報は非常に不完全であるが、エンマー小麦や六条大麦、亜麻の栽培が確認されており、家畜としてウシ、ヒツジ、ヤギを飼育し、ガゼル、ワニ、カバ、カメ等野生動物の狩猟も行っていた。この文化は農耕・牧畜を主体としながらも、野生動物の狩猟と漁労に補完されて成り立っていた<ref name="高宮2003p59">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.59</ref>。
現在では広大な砂漠地帯となっているナイル川西方の地域は、12000年前頃から[[第4湿潤期]]と呼ばれる湿潤な時代に入った。湿潤と言っても年間降水量は200mm前後であったとみられるが、[[スーダン]]北部からエジプト南部の地域においては植物が繁茂し、[[ウサギ]]、[[ガゼル]]、[[オリックス]]等が生息していた。この時代には現在砂漠となっている地域にも[[人類]]の居住が確認されている。特に夏季の降雨の後に水たまりができる低地や、比較的浅い位置に地下水が存在する場所にその居住は集中している。ナイル川中流域(現在のスーダン中部)でも多数の集落が形成されている。


== ナカダ文化 ==
これらの遺跡は[[ハルツーム中石器]](Khartoum)と呼ばれる文化に属する。またナイル川下流域のエジプトでは第2急流付近に[[アルキン文化]](Arkinian)と[[シャマルク文化]](Shamarkian)の遺跡がまとまって存在する。このようなナイル川近辺の遺跡では、ナイル川の水産資源に依存した生活が営まれていた<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.26</ref>。ナイル川水系の豊かさは[[狩猟採集]]生活を送る人々にも相当な豊かさを提供したものとみられる。
[[File:Female Figure, ca. 3500-3400 B.C.E..jpg|thumbnail|left|女性像、前3500–前3400頃。 [[テラコッタ製]], 塗装品, (29.2 × 14 × 5.7 cm). [[ブルックリン美術館]]]]
{{see also|ナカダ文化}}
[[紀元前4000年]]頃登場した[[ナカダ文化]]の遺跡は[[19世紀]]末に発見されて以来の調査でエジプト全域で発見されており、その数は主要な物だけでも50を数えるが、その発祥地は上エジプト南部の[[アビュドス]]から[[ナカダ]]付近を中心とするナイル河谷であった<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], pp.77-78</ref>。ナカダ文化は上エジプトのバダリ文化から発達したと考えられ、より一層農耕と牧畜に重きが置かれるようになっている。農業生産物としてエンマー小麦と六条大麦が最も頻繁に検出され、[[亜麻]]も発見されている。豆類や[[シカモア]]、[[イチジク]]、[[根菜]]等野生種も見つかっている。家畜としてヤギ、ヒツジ、ウシ、ブタの畜産が確認され、食肉や乳製品を供給した。ガゼルやカバ等狩猟による野生動物の捕食も確認されているが重要度は低かったようである<ref name="高宮2003p80">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.80</ref>。また非常にバリエーションに富んだ[[土器]]を生産しており、中盤に入ると[[轆轤]]製の物が登場しはじめる<ref name="高宮2003p80"/>。


現在までに発見されているナカダ文化の遺物の多くは墓地の副葬品であり、その中でも最大の特徴が[[パレット]](化粧板)と呼ばれる遺物が登場することである。このパレットは古代エジプト独特の遺物であり、その発展過程から古代エジプト史の流れを概観することができると考えられている<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], p.29</ref>。パレットは[[シルト]]岩と呼ばれる石で作成されており、[[目]]を保護するためにエジプト人が使用していた[[マラカイト]]などの顔料を磨り潰すために使われた。初期のパレットは四角や円形などの単純なものであったが、次第に様々な装飾が加えられた儀礼用のものが作られるようになった。またナカダ文化の土器は後代の土器に比べ、極めて高品質であることが特徴である。これは副葬品として作成された土器が、高貴な人々のためのものであったので品質管理が行き届いていた結果であると考えられる。後の時代には一部の例外を除き土器は単なる日用品に過ぎなくなっていき、ナカダ期に比べて粗雑化していく。
[[アフリカ大陸]]北東部では、12000年前頃から終末期旧石器時代に入り、[[紀元前6000年]]以降に[[新石器時代]]に入る<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.21</ref>。奇妙なことにナイル川流域の農耕、牧畜はこの[[紀元前6千年紀]]後半に突如として始まるように見える。20世紀後半の調査により、ナイル川西方の砂漠地帯にこれを説明する遺跡が多数発見され、ナイル川流域の農耕、牧畜文化は、現在では砂漠化している西部砂漠地方に起源を持つ可能性が議論されている。しかし、西部砂漠地方とナイル川流域の関係は今だ明瞭には理解されていない。


ナカダ文化はやがて南北へ分布を拡大し、エジプト全域に広がっていった<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], pp.36-37</ref>。
アフリカ大陸北東部における牧畜の発生については、ウェンドルフらが[[紀元前7000年]]頃に[[ウシ]]の家畜化が独自に始まるとする説を唱えている。[[ヒツジ]]と[[ヤギ]]については[[西アジア]]で家畜化がなされたことがはっきりしている<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.36</ref>。ヒツジとヤギは紀元前6000年期後半に導入された。


=== ナカダ文化の編年 ===
一方、農耕(植物栽培)については現在確認できる最古の例は紀元前5000年頃の[[ファイユーム]]で発見された[[麦]]であるが、[[紀元前6000年]]頃には[[ソルガム]]や[[ミレット]]が現在の西部砂漠地方で栽培されていたとする説がある<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.37</ref>。
[[File:Egypte louvre 317.jpg|thumb|225px|ナカダ2期の土器]]
[[ナカダ遺跡]]においてナカダ文化を最初に発見した[[フリンダーズ・ピートリー]]は、墓の[[副葬品]]を中心とする出土品の詳細な分類によってナカダ文化の編年関係を表すSD法と呼ばれる編年法を開発した。更にナカダ文化を大きく三つの時期、「アムラー期」「ゲルゼ期」「セマイナー期」に分類した<ref name="大城2009p25">[[#大城 2009|大城 2009]], p.25</ref>。このピートリーによって先鞭をつけられたナカダ文化の編年法はその後[[ウェルナー・カイザー]]等によって改良と議論が重ねられた。現在ではアムラー期はナカダ1期([[紀元前4000年]]頃-[[紀元前3500年]]頃)、ゲルゼ期はナカダ2期([[紀元前3500年]]頃-[[紀元前3300年]]頃)とされ、セマイナー期は存在が否定されている<ref name="大城2009p25"/><ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.65</ref>。更に[[エジプト第1王朝|第1王朝]]成立直前の時期はナカダ3期([[紀元前3300年]]頃-[[紀元前3150年]]頃)として再分類され、[[エジプト第0王朝]]とも呼ばれる<ref name="大城2009p26">[[#大城 2009|大城 2009]], p.26</ref>{{refnest|group="注釈"|ナカダ期の絶対年代は未だ未確定である。ここでは古谷野 1998に依った。<ref>[[#古谷野 1998|古谷野 1998]], p.5 </ref>。}}。


=== 社会階層の分化の進展 ===
[[紀元前6000年]]から[[紀元前5000年]]頃にかけて、アフリカ大陸北東部は徐々に乾燥化していった。このため、1年中水が絶える事のないナイル川流域に向けて人々が移っていった。紀元前5千年紀半ば頃、ナイル川流域では農耕・牧畜を中心とする文化が定着した。この時期の文化として実際に検出されているのは、上エジプト北部西方に発見されているファイユーム文化と下エジプトのデルタ地帯付け根部分から検出されたメリムデ文化、オマリ文化。そして上エジプト初の農耕文化である[[バダリ文化]]。である<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.39, p.57</ref>。
ナカダ文化ではナカダ2期前半まで、次第に墓の平均的規模が大型化していくとともに大小のばらつきが大きくなっている。ナカダ1期では集落の大小に関わらず二つの社会階層(大型墓に埋葬される富裕層と小型の墓を持つ人々)が確認される。小型の集落よりも大型の集落で墓の大きさの各差はより顕著であり、大規模な集落ではエリート層が発達したために社会階層格差が増大していく様子がわかる<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], pp.131-133</ref>。このような格差拡大は、ナカダ3期に入ると多くの集落で逆に縮小する傾向が起った。ナカダ3期には多くの集落で墓地の廃絶や縮小が確認され大半の墓地で社会階層分化が低下する<ref name="高宮2003p136">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.136</ref>。一方で中心的な集落遺跡では、他と隔絶する大型の墓が建造されるようになり、これが当時拡大した「王国」の支配者達の物であると考えられる<ref name="高宮2003p136"/>。


=== 大型集落(都市) ===
''ファイユーム文化''は現在のファイユーム地方で発見された文化であり、[[紀元前5230年]]頃から1000年余りにわたって続いた。[[剥片石器]]を中心とする石器を用い、[[穀物]]を栽培、ヒツジとヤギを飼育していた。漁労・狩猟も未だ重要であり、ガゼルや[[カバ]]、[[ワニ]]、[[カメ]]などの動物骨が発見されている。[[ウシ]]も発見されているが、家畜化されたものであるかどうか不明である。
このような中心集落としては最大の物が[[ヒエラコンポリス]]であり、続いて[[ナカダ]]、[[アビュドス]]が代表的<ref name="大城2009p41">[[#大城 2009|大城 2009]], p.41</ref>な物である。古代エジプトでは隣接する[[メソポタミア]]地方のような政治的に独立した[[都市]]、或いは[[都市国家]]は形成されなかった。しかし、政治的中枢、或いは経済的中心としての大型集落はナカダ期に発達した。ナカダ期最大の集落遺跡ヒエラコンポリスは3600平方メートルの規模を持ち、メソポタミアの都市と比較しても充分な規模を持つ人口集住地であった<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.98</ref>。文化の名前として採用されているナカダでは2000基以上の墓が発見されている。アビュドスは後の第1王朝時代に集中的に王墓が造営される集落である。


=== 周辺地域との関係 ===
''メリムデ文化''は[[カイロ]]北西45㎞地点にある[[メリムデ・ベニ・サラーム]]遺跡で検出された文化である。この遺跡から検出された石器等の史料はこの地方が[[シリア地方]]と交流を持っていた事を示す。小麦、大麦、豆類、[[亜麻]]等を栽培し、ウシ、ヒツジ、ヤギ、[[ブタ]]を飼育していたことが知られる。またファイユームと同じく狩猟は重要であり、[[アンテロープ]]、ガゼル、カバ、ワニ、鳥類が捕獲されていたほか、多数の魚の骨が発見されている。また死者の頭を東側に向けて埋葬する習慣があったことから、この当時既に死者の埋葬について宗教的な習慣が確立していた可能性もある<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], p.19</ref>。メリムデ文化の絶対年代は不明であり、放射性炭素年代測定では[[紀元前4750年]]頃から[[紀元前4250年]]頃であるが、研究者の中にはこの年代は新しすぎると批判するものもいる<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.51</ref>。
==== ヌビア ====
エジプトの南方に位置する[[ヌビア]]地方では、ナカダ文化と同時期に[[ヌビアAグループ文化]]と呼ばれる高度な文化が栄えていた。このヌビアで、ナカダ1期の終わり頃に下ヌビア地方を中心にナカダ文化からの搬出品が多量に認められる。主なものとして[[スレート]]製のパレットや装身具、土器があるが、大量の農産物も輸出されたらしい。一方でナカダ期のエジプトがヌビアから輸入したものは現在あまり確認できていない<ref group="注釈">後の王朝時代にはエジプト人達は[[金]]、[[紫水晶]]、[[象牙]]、[[閃緑岩]]、[[ダチョウ]]の卵、[[ヒョウ]]の毛皮、[[黒檀]]等をヌビアから輸入していた。</ref>。ヌビアで確認されているエジプトからの輸出品の量を考えれば、それが当時の経済に影響を及ぼすレベルであったと推測されるが、この物質的な交流の規模に比べエジプト内部に文化的影響を大きく与えていない<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.154</ref>。一方ヌビア側では当時の中心地であった[[クストゥール]]等から発見されたモチーフにヒエラコンポリス等で見られる王の意匠の採用や、ホルスと見られるハヤブサの図像等があり注目される<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], pp.50-51</ref><ref>[[#近藤 2003|近藤 2003]], pp.220-221</ref>。これらのエジプト風のモチーフが実際にはヌビア起源であるという説が提唱されたこもともあったが、広く支持されることはなかった<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], pp.51-52</ref><ref>[[#近藤 2003|近藤 2003]], pp.221-222</ref>。


==== パレスチナ ====
この2つの文化に続いて、''オマリ文化''がカイロ南方20kmにある[[オマリ]]遺跡で検出されている。これは[[紀元前4600年]]から[[紀元前4400年]]頃とされる。やはり小麦や大麦などを栽培し、ウシ、ヒツジ、ブタ、ヤギを飼育、野生の植物や動物を捕食していた。石器は[[フリント]]を用いた剥片石器が中心であるが、少数ながら石刃技法によるものも認められる。
エジプト東方のパレスチナでは紀元前4500年頃からエジプトからの搬入品が出土する。しかし規模は小さくエジプトとの緊密な接触を示す証拠は少ない。パレスチナ南部でエジプトからの影響が大きくなるのは初期王朝時代に入ってからである<ref name="高宮2003p155">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.155</ref>。一方でエジプト側にはナカダ2期頃からパレスチナからの搬入品とその模倣品が多数出土するようになる。ナカダ文化に最も多大な影響を与えたのは、パレスチナで製作されていた波状把手付土器である。輸入品の数をは限られるが、その模倣品である波状把手土器がナイル川下流域で作成されるようになり、初期王朝時代まで続く重要な容器の形となった<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], pp.155-156</ref>。アビュドスやヒエラコンポリスからは、中に[[ワイン]]が入れられていたと推定される[[パレスチナ土器]]が、多量に発見されている。これらが当時の王国の首都と考えられる大型の集落跡から見つかっている点は重要である<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.157</ref>。


==== メソポタミア ====
上エジプトで検出された''バダリ文化''は、[[紀元前4500年]]頃から[[紀元前4000年]]頃とされる。バダリ文化に属する人々は砂漠の縁辺部に集団墓地を形成し、多量の[[副葬品]]を添えて死者を手厚く埋葬する習慣を初めてエジプトに導入した人々であった。遺体は基本的に南に頭を置いて埋葬され、土器や装身具、パレットなどと共に埋葬された。既にこの頃から階層分化が見られるという。また、小麦や大麦、亜麻の栽培が確認されており、野生動物の狩猟も行っていた。
メソポタミアはエジプトに先行して農耕と牧畜が始まった土地であり、ナカダ期には発達した都市国家が栄えていた。古くよりエジプトにおける初期の国家形成に影響を強く与えたと考えられてきたのがこのメソポタミア地方である。ナカダ期のメソポタミアとエジプトの関係を示す史料はメソポタミア側からは希薄な一方、エジプト側では多数発見されている。特にナカダ2期以降、その量は飛躍的に増大する。主に土器、[[印章]]、[[ラピスラズリ]]、図像のモチーフなどである。ただし、このうち確実にメソポタミアからもたらされたと確認できるものはラピスラズリのみである<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.161</ref>。印章はメソポタミアで使用された[[円筒印章]]等があるが、影響を受けている事は確実であるもののその多くはエジプトで作成された模造品とみられている。この点は土器についても同様である。ヒエラコンポリスの王墓で発見された壁画やレリーフの中には[[メソポタミア]]の英雄(または神)[[ギルガメシュ]]の図像と思われる物がある。初期の王権と関わりの深い場所で発見された象徴的な表現にメソポタミアの影響が見られる事は重要であると考えられている<ref name="近藤2018p218"/>。


=== 王権の成立 ===
== マーディ・ブト文化 ==
[[File:P1060230 Louvre palette aux quadrupedes E11052 rwk.JPG|thumb|right|150px|ナカダ3期のパレット]]
下エジプトの[[マーディ]]遺跡と[[ブト]]遺跡において、同一の文化の遺跡が発見され、''[[マーディ・ブト文化]]''と命名されている。この文化は恐らくメリムデ文化やファイユーム文化等、エジプト北部の文化をそのまま受け継いだものである<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], p.24</ref>。詳細な発掘の結果、農耕・牧畜のみならず[[銅]]製品の加工も行われていたことが明らかになっている。牧畜においては[[ロバ]]、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、[[イヌ]]が飼育されていたことが明らかとなっているが、特に重要なのは発見された動物骨の大半が飼育動物のものであることで、未だ狩猟は行われていたもののその重要性は大きく下がっている。ただし漁労は非常に盛んであり多数の魚の骨が発見されている。遺跡において特徴的なのは楕円形をした半地下式の住居で、類似する形態の物がパレスチナ地方からも発見されており、その密接な関係を示している。この文化に属する遺物は下エジプト全域から発見されているが、次第に独自性を喪失しナカダ文化と共通する特徴を備えた文化が普及することが明らかとなっている<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.72</ref>。
各地に成立した「王国」の支配者達の実像は不明瞭である。しかし彼等が作り上げた「王国」や「王権」はその後のエジプト王朝の土台となった。それを伺い知る事ができるのは彼等の墓から発見された[[威信材]]からであり、代表的な物として[[象牙]]製品<ref group="注釈">実際にはカバの牙で造られたものが多い。[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.143</ref>([[護符]]や[[櫛]]など)、波状把手土器、'''[[棍棒]]'''、'''[[化粧板|パレット]]'''(化粧板)等がある<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.143</ref>。このうち、棍棒とパレットは後世のエジプト歴代王朝を通じて王の権力のシンボルとして取り扱われたもので、先王朝時代末の、或いは初期王朝時代初頭の王である[[スコルピオン2世|サソリ王]]や[[ナルメル]]の[[ナルメルのメイスヘッド|メイスヘッド]]、[[ナルメルのパレット|パレット]]に繋がっていく。棍棒で敵を打ち据えるモチーフの図像がこの時期のヒエラコンポリスで初めて登場するが、このモチーフの表現形式は[[プトレマイオス朝]]時代まで3000年以上に渡って連綿とエジプトで受け継がれることになる<ref name="近藤2018p218">[[#近藤 2003|近藤 2003]], p.218</ref>。ヒエラコンポリスでは100号墓と呼ばれる大型の墓から、上述の図像の他に王権に関係すると思われる図像表現が多数発見されている。ナカダ2期中頃までにはヒエラコンポリスは人口も増大し、上エジプト地域を統合した政治連合(国)の中心として機能するようになっていたとする説もある<ref name="近藤2018p219">[[#近藤 2003|近藤 2003]], p.219</ref>。


[[Image:GlazedFiaenceVesselFragmentNameOfAha-BritishMuseum-August21-08.jpg|thumb|left|150px|セレクの例。上記画像は初期王朝時代の[[アハ]]王の物。ハヤブサの下に王宮を表す枠がある。]]
== ナカダ文化 ==
[[File:Female Figure, ca. 3500-3400 B.C.E..jpg|thumbnail|left|女性像、前3500–前3400頃。 [[テラコッタ製]], 塗装品, (29.2 × 14 × 5.7 cm). [[ブルックリン美術館]]]][[File:Egypte louvre 317.jpg|thumb|225px|ナカダ2期の土器]]
ナカダ文化は19世紀末のペトリーによるナカダ遺跡の発掘調査で検出された文化であり紀元前4千年紀初頭から登場した。この文化からを先王朝時代として扱う場合も多い。エジプト全域からその痕跡が発見されているが、その発祥地はアビュドスからナカダ近辺にいたる上エジプト地方であった<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.78</ref>。ナカダ文化は、上エジプトのバダリ文化から発達したと考えられている。この文化が育まれた上エジプトは、ナイル川両岸の極狭い範囲以外は砂漠地帯に囲まれている。ナイル川の増水によって水没する沖積低地は広いところでも幅20km足らずの範囲であった。そして砂漠と沖積低地の間には低地砂漠と言われる[[河岸段丘]]が何か所も存在し、この狭い沖積低地と低地砂漠を中心とする範囲がこの文化の人々の基本的な生活圏であった。


=== 文字に表れる王 ===
ナカダ文化は土器の形態変化等を元に更に細かく時代区分が行われており、ナカダ1期([[紀元前4000年]]頃-[[紀元前3500年]]頃)、ナカダ2期([[紀元前3500年]]頃-[[紀元前3300年]]頃)、ナカダ3期([[紀元前3300年]]頃-[[紀元前3150年]]頃)に大きく分類されている{{refnest|group="注釈"|ナカダ期の絶対年代は未だ未確定である。ここでは古谷野 1998に依った。<ref>[[#古谷野 1998|古谷野 1998]] p.5 </ref>。}}。ペトリーの分類によるアムラー期がナカダ1期、ゲルゼー期がナカダ2期、そしてエジプト第1王朝成立直前の時期(第0王朝期)がナカダ3期と対応するとされ、セマイネー期については現在では実在が否定されている<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], p.25</ref>。
先王朝時代の末期、或いは第1王朝成立の直前の時代にあたるナカダ3期には初めて[[文字]](あるいはその前身となる絵文字)が登場する。各地の発掘調査で、この時期に年代づけられる複数の王名の存在が明らかとなっている<ref name="高宮2003p216">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.216</ref>。こうした王名は[[セレク]]と呼ばれる王宮正面をかたどった枠の中に書かれた。最初期の物はセレクのみで王名を記さない物があったが、ナカダ3期後半には王名を判別できるものが現れる<ref name="高宮2003p216"/>。これらのセレクは[[ハヤブサ]]の図像を伴う物が早い段階から見られ、王とハヤブサの神[[ホルス]]を同一視する後世の思想に繋がるとみられる<ref name="高宮2003p236">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.236</ref>。


=== 統一までの過程 ===
現在までに発見されているナカダ文化の遺物の多くは墓地の副葬品であり、その中でも最大の特徴が[[パレット]](化粧板)と呼ばれる遺物が登場することである。このパレットは古代エジプト独特の遺物であり、その発展過程から古代エジプト史の流れを概観することができると考えられている<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], p.29</ref>。パレットは[[シルト]]岩と呼ばれる石で作成されており、[[目]]を保護するためにエジプト人が使用していた[[マラカイト]]などの顔料を磨り潰すために使われた。初期のパレットは四角や円形などの単純なものであったが、次第に様々な装飾が加えられた儀礼用のものが作られるようになった。またナカダ文化の土器は後代の土器に比べ、極めて高品質であることが特徴である。これは副葬品として作成された土器が、高貴な人々のためのものであったので品質管理が行き届いていた結果であると考えられる。後の時代には一部の例外を除き土器は単なる日用品に過ぎなくなっていき、ナカダ期に比べて粗雑化していく。
[[Image:Double crown.svg|thumb|left|150px|上下エジプト王冠([[プスケント]])。赤い王冠(デシュレト)が下エジプト、白い王冠(ヘジェト)が上エジプトの王冠]であり、合わせて上下エジプト両国の王権を表す。]]
ナカダ文化はナカダ2期頃までには上下エジプト全域に広がり、「文化的にはエジプトが統一」されたと言われるような状況が現れていた<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.199</ref>。しかし、このナカダ文化の拡大過程と、エジプトの政治的統合を単純に同一視できるかどうかはわからない。


基本的な流れとして、上エジプトの政権によるエジプト統一というところまでは多くの学者の意見として共通している。前提となるナカダ文化が上エジプト発祥のものである事に加え、先術の通り、ヒエラコンポリス等、上エジプトで発見された王権に関わる図像には、その後古代エジプト時代を通じて使用されるモチーフとなるものがあるためである<ref name="近藤2018p218"/>。更に図像的な証拠として、ナカダ遺跡から発見された紀元前3500年頃の土器片に彫られた赤色王冠のレリーフがある。この赤色王冠は王朝時代には下エジプトの王冠と見なされたものであり、上エジプトの王冠である白色王冠と対を為すものである。上エジプトにあるナカダ遺跡からこの赤色王冠の図像が発見され、しかもそれが先王朝時代のものであることは、「下エジプト王冠である赤色王冠」の形態が下エジプト固有のものではなく上エジプトで考案されたものである可能性を示すものであり、統一王朝成立過程を考慮する際に重要な情報を提供している<ref name="近藤2003p216">[[#近藤 2003|近藤 2003]], p.216</ref>。
このナカダ文化は次第に南北へと広がっていき、ナカダ3期になると独自のマーディ・ブト文化を保有していた下エジプト地方もナカダ文化が浸透するようになった。これによってエジプトは文化面での統一を迎え、後の統一王朝の形成へと繋がっていく。


しかし統一の具体的な経過については百家争鳴の状態にある。
=== 大型集落 ===
古代エジプトでは隣接する[[メソポタミア]]地方のような政治的に独立した[[都市]]、或いは[[都市国家]]は形成されなかった。しかし、政治的中枢、或いは経済的中心としての大型集落はナカダ期に発達した。ナカダ期最大の集落遺跡は[[ヒエラコンポリス]]遺跡である。この都市は3600㎡の規模を持ち、メソポタミアの都市と比較しても充分な規模を持つ人口集住地であった<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.98</ref>。続いてナカダが2000基以上の墓が発見されている大型の集落である。他[[アムラー]]、[[アバディーヤ]]、[[バッラース]]などの大型集落が確認されている。


W.カイザーの研究(1956年)ではナカダ文化が南北に拡張していく過程の編年を精緻に調べ、それを政治的な統合過程に限りなく近いものと見なした<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.202</ref>。しかし、このナカダ文化の拡張過程は、主に墓地の分析で確認されており、それをそのまま政治的集団の拡張過程と見なせるかどうかは明らかでない。
=== 周辺地域との関係 ===
==== ヌビア ====
エジプトの南方に位置する[[ヌビア]]地方では、ナカダ文化と同時期に[[ヌビアAグループ文化]]と呼ばれる高度な文化が栄えていた。このヌビアで、ナカダ1期の終わり頃に下ヌビア地方を中心にナカダ文化からの搬出品が多量に認められる。主なものとして[[スレート]]製のパレットや装身具、土器があるが、大量の農産物も輸出されたらしい。一方でナカダ期のエジプトがヌビアから輸入したものは現在あまり確認できていない<ref group="注釈">後の王朝時代にはエジプト人達は[[金]]、[[紫水晶]]、[[象牙]]、[[閃緑岩]]、[[ダチョウ]]の卵、[[ヒョウ]]の毛皮、[[黒檀]]等をヌビアから輸入していた。</ref>。ヌビアで確認されているエジプトからの輸出品の量を考えれば、それが当時の経済に影響を及ぼすレベルであったと推測されるが、この物質的な交流の規模に比べエジプト内部に文化的影響を大きく与えていない<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.154</ref>。


B.J.ケンプ(1989年)は、統一王朝の成立過程を3段階に分ける仮説を立てた。彼の見解では第1段階としてナイル川下流域に多数の群小政体が誕生する。第2段階として上エジプトにアビュドス(ティス)、ナカダ、ヒエラコンポリスを中心とする3つの王国が成立する。第3段階としてヒエラコンポリスがこの3つの王国を統合した上エジプトの王国を作り、この国が下エジプトを征服して統一王朝が成立するというものである。この説は、[[ナルメルのパレット]]などから推測されてきた統一王朝の成立過程や、王朝時代の伝説も念頭に置いている<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.208</ref>。
==== パレスチナ ====
エジプト東方のパレスチナでは紀元前4500年頃からエジプトからの搬入品が出土する。しかし規模は小さくエジプトとの緊密な接触を示す証拠は少ない。パレスチナ南部でエジプトからの影響が大きくなるのは初期王朝時代に入ってからである。一方でエジプト側にはナカダ2期頃からパレスチナからの搬入品とその模倣品が多数出土するようになる。ナカダ文化に最も多大な影響を与えたのは、パレスチナで製作されていた波状把手付土器である<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.155</ref>。輸入品の数をは限られるが、その模倣品である波状把手土器がナイル川下流域で作成されるようになり、初期王朝時代まで続く重要な容器の形となった。アビュドスやヒエラコンポリスからは、中に[[ワイン]]が入れられていたと推定される[[パレスチナ土器]]が、多量に発見されている。これらが当時の王国の首都と考えられる大型の集落跡から見つかっている点は重要である。


T.A.H.ウィルキンソン(2000年)はナカダ1期後期にアビュドス(ティス)、アバディーヤ、ナカダ、[[ゲべレイン]]、ヒエラコンポリスの5か所を中心とする政体が存在したとし、ナカダ2期前期にアバディーヤが脱落。ナカダ3期にはナカダとゲベレインの政体も力を失ってアビュドスとヒエラコンポリスが二大勢力となり、ナカダ3期後期にはアビュドスの王ナルメルが2つの政体を統合し、初の統一王朝を築くという仮説を立てた<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.210</ref>。
==== メソポタミア ====
メソポタミアはエジプトに先行して農耕と牧畜が始まった土地であり、ナカダ期には発達した都市国家が栄えていた。古くよりエジプトにおける初期の国家形成に影響を強く与えたと考えられてきたのがこのメソポタミア地方である。ナカダ期のメソポタミアとエジプトの関係を示す史料はメソポタミア側からは希薄な一方、エジプト側では多数発見されている。特にナカダ2期以降、その量は飛躍的に増大する。主に土器、[[印象]]、[[ラピスラズリ]]、図像のモチーフなどである。ただし、このうち確実にメソポタミアからもたらされたと確認できるものはラピスラズリのみである。印象はメソポタミアで使用された[[円筒印章]]等があるが、影響を受けている事は確実であるもののその多くはエジプトで作成された模造品とみられている。この点は土器についても同様である。しかし、図像モチーフ等は王権観にも影響を与えるなどしたことが確認されており、メソポタミアがエジプトに与えたインパクトは大きなものであったことは間違いない。


また、[[エジプト古王国|古王国]]時代([[紀元前27世紀]]頃~)に作成された『[[カイロ年代記]]』には第1王朝以前の王達が上下エジプト王冠を戴く姿で描かれており、これを論拠に実際のエジプト統一を第1王朝以前と見る学者も少数ながらいる<ref name="高宮2003p244">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.244</ref>。
== 統一王朝の成立過程 ==
先述した通り、古代エジプトの歴史記録において最初の王はメニであった。しかし考古学的に最初に確認されている王は2017年現在では[[ナルメル]]である。一般に彼の存在が確認される紀元前3100年頃からをエジプト初期王朝時代とする。しかし、そこに至る過程、つまりエジプトにどのような原始国家が形成され、統合されていったのかという問題は現在も不明な所が多い。


いずれの説にせよ、文字資料が基本的に存在しない時代であり完全な証明は困難であるのが実情である。
W.カイザーの研究(1956年)ではナカダ文化が南北に拡張していく過程の編年を精緻に調べ、それを政治的な統合過程に近いものと見なした<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.202</ref>。しかし、このナカダ文化の拡張過程は、主に墓地の分析で確認されており、それをそのまま政治的集団の拡張過程と見なせるかどうかは明らかでない。下エジプトではマーディ・ブト文化がナカダ文化の強い影響を受け、最終的には同化していく過程が明らかになっている。これは同じくナカダ文化の中心地と隣接し、緊密な交易関係を持っていた下ヌビア(Aグループ)地方が、文化的には独自性を維持していたのとは好対照をなす。


=== 統一・初期王朝時代 ===
B.J.ケンプ(1989年)は、統一王朝の成立過程を3段階に分ける仮説を立てた。第1段階としてナイル川下流域に多数の群小政体が誕生する。第2段階として上エジプトにアビュドス(ティス)、ナカダ、ヒエラコンポリスを中心とする3つの王国が成立する。第3段階としてヒエラコンポリスがこの3つの王国を統合した上エジプトの王国を作り、この国が下エジプトを征服して統一王朝が成立するというものである。この説は、[[ナルメルのパレット]]などから推測されてきた統一王朝の成立過程や、王朝時代の伝説も念頭に置いている<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.208</ref>。
{{see also|エジプト初期王朝時代}}
古代エジプトの歴史記録において最初の王は伝説的な王[[メネス|メニ]](メネス)であった。しかし考古学的に最初の統一王朝の王である可能性が高いのは[[ナルメル]]である<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], pp.67-77</ref><ref name="高宮2003p244"/><ref>[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], pp.21-24</ref>。一般に彼の存在が確認される紀元前3150年頃-紀元前3050年頃からをエジプト初期王朝時代とし、ナルメルに始まる王朝を[[エジプト第1王朝]]と呼ぶ。以後、[[ローマ帝国]]による征服まで続く古代エジプト王朝の時代が始まる。


== 研究史 ==
T.A.H.ウィルキンソン(2000年)はナカダ1期後期にアビュドス(ティス)、アバディーヤ、ナカダ、[[ゲべレイン]]、ヒエラコンポリスの5か所を中心とする政体が存在し、ナカダ2期前期にアバディーヤが脱落し、ナカダ3期にはナカダとゲベレインの政体も力を失ってアビュドスとヒエラコンポリスが二大勢力となる。ナカダ3期後期にはアビュドスの王ナルメルが2つの政体を統合し、初の統一王朝を築くという仮説を立てた<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.210</ref>。
=== 古代 ===
古代エジプト人も、自分達の国家の起源について深い関心を持っていた。古くから王朝の起源が、主に[[王名表]]等の形で残されている。[[紀元前2400年]]頃に作成されたエジプト最古の年代記である『[[パレルモ石]]』とその別版である『[[カイロ年代記]]』には、統一王朝以前にも王らしき人物(それは王冠を被った表現でわかる)がいたことが記されている。しかし具体的な歴史記録を読み取ることはできない<ref name="高宮2003p5">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.5></ref>。


[[エジプト新王国]]時代に作成された『[[トリノ王名表]]』には、エジプトの最初の王として[[メネス|メニ]]の名が記されている<ref>[[#大城 2009|大城 2009]], p.64</ref>。また、[[紀元前5世紀]]の[[ギリシア人]]の歴史家[[ヘロドトス]]の『[[歴史(ヘロドトス)|歴史]]』はエジプトの神官達の証言として初代王ミン、[[マネト]]<ref group="注釈">[[紀元前3世紀]]のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝[[プトレマイオス朝]]に仕えたため[[ギリシア語]]で著作を行った。</ref>が[[プトレマイオス朝]]時代に著述した『[[エジプト史]]』では初代王としてメネス(メニのギリシア語形)が登場する。これらからわかるように、王朝時代の古代エジプトではメニ(メネス)から始まるエジプトの歴史が共有されていた。更に『トリノ王名表』には王朝以前の時代に「ホルスの信奉者たち」(ホルスの信奉者であった精霊)と呼ばれる半神達の王朝があったことが記されている<ref name="高宮2003p5"/><ref>[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p.212</ref>。
しかし、いずれの仮説にせよ、先王朝時代には基本的に文献史料が存在しないため、実際にそれを証明することは極めて困難である。一般的には上エジプト地域を中心として政治連合が生まれ、その拡大によって全エジプトが統合されていくという所までがある程度広い支持を得ている<ref>[[#近藤 2003|近藤 2003]], p.220</ref>。


古代の歴史家マネトによる記録でも、初代王メニ以前の時代は神、半神達の時代とされていた。[[エウセビオス]]によれば、マネトの記録は3巻に分類されており、1巻は[[ヘファイストス]]([[エジプト神話]]における[[プタハ]])を筆頭とする神、2巻は神人、即ち死者の精霊について<ref name="フィネガン1983p212">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p.212</ref>、続いて3巻でメネスに始まる人王について述べていたとされる。人王の時代は[[エジプト第1王朝|第1]]から、[[エジプト第30王朝|第30]]までの王朝として分類されている{{Refnest|group="注釈"|後世、[[エジプト第31王朝|第31王朝]]が追加されたと推定される。<ref name="フィネガン1983p212"/>。}}。
[[Image:Double crown.svg|thumb|left|150px|上下エジプト王冠。赤い王冠が下エジプト、白い王冠が上エジプトの王冠であり、合わせて上下エジプト両国の王権を表す。]]
=== 王権の成立 ===
ナカダ期までの王権、あるいは政体がどのようなものであったかを明らかにすることは困難である。確認されている限り、王権と関連する最古の図像はナカダ遺跡から発見された紀元前3500年頃の土器片に彫られた赤色王冠のレリーフである。この赤色王冠は王朝時代には下エジプトの王冠と見なされたものであり、上エジプトの王冠である白色王冠と対を為すものである。上エジプトにあるナカダ遺跡からこの赤色王冠の図像が発見され、しかもそれが先王朝時代のものであることは、「下エジプト王冠である赤色王冠」の形態が下エジプト固有のものではなく上エジプトで考案されたものである可能性を示すものであり、統一王朝成立過程を考慮する際に重要な情報を提供している<ref name="近藤2003p216">[[#近藤 2003|近藤 2003]], p.216</ref>


以上のように古代エジプトにおける先王朝時代の記録は概して神話的であるが、図像表現等にそれらしき物が見られる。
ナカダ2期に入ると王権と関連すると考えられる図像資料は飛躍的に増加する。ヒエラコンポリス100号墓で発見された[[壁画]]では、縛られた男達とそれを打ち据える男と思われる原始的な絵が見つかっている。王が捕縛された捕虜を打ち据えるモチーフは、初期王朝時代から[[プトレマイオス朝]]時代まで継続的に使用されたものである<ref>[[#近藤 2003|近藤 2003]], p.218</ref>。


=== 近代の発見 ===
また、[[ゲベル・アル=アラク]]で発見された象牙製のナイフ柄には[[メソポタミア]]風の衣装を纏い両手で[[ライオン]]を押さえる人物が明瞭に描かれている。これはその顎鬚をはやし、独特の防止を被る図像からメソポタミアの神話的英雄[[ギルガメシュ]]の姿を描いたものと言われる<ref name="近藤2003p216">[[#近藤 2003|近藤 2003]], p.216</ref>。こうした表現の図像はヒエラコンポリス100号墓からも発見されており、エジプトの王権概念の成立にメソポタミアからの影響がある証拠とみられている。
[[ローマ帝国|ローマ]]時代後半以降、古代エジプトの文献記録の継承は途絶えてしまった。そのため、王朝以前のエジプトについての研究も何ら進展は見られない。[[1822年]]、[[フランス人]]研究者[[ジャン=フランソワ・シャンポリオン|J.F.シャンポリオン]]が[[ヒエログリフ]]の解読に成功した事によって近代[[エジプト学]]が確立されると、エジプト王朝時代の王達の歴史が再び明らかにされるようになった。そして[[19世紀]]終わりまで、エジプトの歴史の曙は、王朝時代の記録や、[[ギリシア語]]の文献記録に基づき、初代王メニをはじめとする初期王朝時代の王達の業績に求められることになった<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], pp.5-6</ref>。


相次ぐ[[考古学]]的発見に伴い、19世紀終わり頃になると文献記録のみに頼ることのない文明誕生の本格的な研究が始まった。[[フリンダーズ・ピートリー]]による[[ナカダ]]遺跡周辺の発掘調査([[1894年]]-[[1895年]])と、J.ド・モルガンによるエジプト南部およびナカダ遺跡の調査([[1896年]]-[[1897年]])が王朝時代以前から初期王朝時代にかけての遺跡における最初の本格的な調査であった。これらの調査で発見された文化は、最初に発見された遺跡の名前から[[ナカダ文化]]と呼ばれるようになった<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.6</ref>。
=== 先王朝時代の王 ===
先王朝時代の調査は今まで記述した通り、文献史料の不存在により専ら考古学の成果に依って分析されている。しかしナカダ3期に入ると[[文字]]、またはその前身となる[[絵文字]]が登場し、これを用いて王名がわかる人物が登場するようになる。


その後、[[20世紀]]前半までの調査によって数多くの王朝時代以前の遺跡が調査され、文明誕生期の歴史と文化についての知見が蓄積された結果、エジプト第1王朝開闢に先立つ時代は「'''先王朝時代'''([[英語|英]]:Predynastic Period)の呼称を与えられ、エジプト学の中でも独立した研究分野としての地位を確立していった<ref name="高宮2003p7">[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.7</ref>。
先王朝時代の王名は、王宮の正面の図像を現したと考えられる[[セレク]]と呼ばれる枠の中に記載された。こうした王名は土器に刻まれていたり、土器表面に[[インク]]で書かれたりした他、岸壁に刻まれる例もあった。これらの王名を分析することで支配地の変遷を明らかにしようとする試みもある。これらセレクに記載された王名は上エジプト北部から多く発見されている。第1王朝の初代王と考えられるナルメルのエジプト全土及び南部パレスチナからその王名を記した土器が発見されており、統一王朝の王であったことはほぼ確実である。それ以前の王については、直接支配領域の推測は困難であるが、ナカダ3期までは複数の王がいたことが確認されている。第1王朝の成立までエジプトの政治的統合は完成していなかった可能性が高い<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.218</ref>。


初期の研究をリードしたピートリーは、ナカダ文化期から初期王朝時代にかけての文化変化を「アムラー」「ゲルゼー」「セマイネー」の3つの文明の交代として捕らえ、その背景には東方([[西アジア]])からの異民族侵入があったとした<ref name="高宮2003p7"/>。この考え方は王朝民族侵入説と呼ばれ、ハヤブサを[[トーテム]]とする王朝民族(ホルス族)が東方からエジプトにやってきてエジプトに王朝を打ち立てたとするもので、W.B.エメリー等当時のエジプト学の権威などからも支持されたため広く学会で受け入れられた<ref name="高宮2003p7"/><ref name="大城2009p61">[[#大城 2009|大城 2009]], p.61</ref>。大城道則はこの説について、[[日本史]]における[[騎馬民族征服王朝説]]を思い起こさせるという所感を述べている<ref name="大城2009p61"/>。
== 統一王朝 ==
[[File:Narmer Palette smiting side.jpg|thumb|ナルメルのパレット]]
統一王朝(第1王朝)の出現をどの時点に置くかについて、現在でも定説は存在しない。多くの場合は統一王朝を支配した確実性が高いナルメルの即位を採用する場合が多い。しかし第1王朝登場前後の史料は乏しく、また[[エジプト古王国]]時代に作成された『[[カイロ年代記]]』には、第1王朝以前の王達が上下エジプト王冠<ref group="注釈">古代エジプト人は、三角州が広がる下エジプト地方と、ナイル川両岸の狭い沖積低地を中心とする上エジプトを異なる国土と考えていた。白色王冠と赤色王冠を合わせた上下エジプト王冠は、統一王朝の王を象徴する王冠であった。</ref>を戴く姿で描かれており、これを根拠に王朝統一を第1王朝以前と考える学者も存在する<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.244</ref>。アビュドスの発掘調査では第1王朝よりも古い時期の王墓が発見されており、第1王朝以前の王朝という事で[[エジプト原王朝|原王朝]]または[[エジプト第0王朝|第0王朝]]と呼ぶ場合がある<ref>[[#近藤 2003|近藤 2003]], p.222</ref>。


その後の調査で、[[エジプト]]北部ではナカダ文化と様相を異にする複数の文化が発見された。これらの文化も発見された遺跡や地方の名前から[[マーディ・ブト文化|マーディ文化]]、[[メリムデ文化]]、[[ファイユーム文化]]、[[オマリ文化]]等と命名された。更に[[アビュドス]]遺跡で初期王朝時代の王達の墓が発見され、メニ王を同時代の王と同定しようとする試みが盛んになった<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], pp.7-8</ref>。
また、ヒエラコンポリスからは[[スコルピオンのメイスヘッド]]と呼ばれる遺物が発見されており、そこには白色王冠のみを被った王の姿が描かれている。このことからメイスヘッドに描かれた王([[スコルピオン2世|サソリ王]])は上エジプトの王であったとみられるが、メイスヘッドは一部欠損しており、欠けた部分に赤色王冠を被った王の姿が描かれていたとするならば、統一王朝の王という事になる<ref>[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p.23</ref>。


=== 20世紀後半 ===
しかし、第1王朝の遺物からは、第1王朝の王達がナルメルを初代と認識していたことを示す印影が見つかっており、一般的にはナルメルをして第1王朝、ひいてはエジプトの統一王朝国家の始まりと置く場合が多い。
1944、H.J.カンターらの研究で、ピートリー以来の民族侵入によってこの先王朝時代の変遷を説明しようとする見解が否定された。彼女は土器の発展過程の調査によって、エジプトにおける土器の進化に特別な変革期はないという結論を下した<ref name="高宮2003p7"/><ref name="大城2009p62">[[#大城 2009|大城 2009]], p.62</ref>。また、ウェルナー・カイザーの研究の結果、上エジプトで発祥したナカダ文化が時代と共に南北に分布を拡大していくことが明らかにされた。これらの研究により先王朝時代の文化・社会の変遷を外的要因に求めるではなく、エジプト内部にその主要因を求める流れが形成された。更にナカダ文化の拡張が明らかになったことで、統一王朝形成の過程でそれが大きな役割を果たした事が強く認識されるようになった<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], pp.10-11</ref>。

20世紀後半になると欧米で隆盛した[[プロセス考古学]]と、実用化されつつあった放射性炭素年代測定法が大きく寄与し、諸文化の編年関係や埋葬形態、集落形態の研究が大きく進展した。これによって古くから続いていた文献史料の影響から本格的な脱却が図られた<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], pp.11-12</ref>。

1970代年以降、中東情勢の安定の伴いエジプトにおける発掘調査が活発となった。この時期以降の調査は、プロセス考古学の影響を受けて旧来の[[墓地]]を中心とする調査よりも、集落跡に焦点を当てる傾向が顕著であった。更に従来ほとんど手付かずであった[[下エジプト]]の[[デルタ]]地帯での発掘調査が進展した。これらの調査で既存の下エジプトの文化([[マーディ・ブト文化]]の中に次第にナカダ文化が浸透していく様が明らかになった。更にアビュドス遺跡での再調査で初期王朝時代黎明期の詳細な情報が提供された<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], pp.14-15</ref>。

また[[イスラエル]]・[[パレスチナ]]で行われた発掘調査は、[[紀元前4千年紀]]のエジプトがパレスチナ南部と密接な関わりを持っていることを明らかにした。また、F.ウェンドルフらによる[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ポーランド]]合同調査隊は、周囲の[[砂漠]]地帯における調査を進展させ、[[ナイル川]]近辺で未発見であった終末期[[旧石器時代]]の遺跡を各地で発見し、歴史の空白を埋めた<ref>[[#高宮 2003|高宮 2003]], p.15</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
124行目: 146行目:
=== 原典資料 ===
=== 原典資料 ===
* {{Cite book |和書 |author=[[ヘロドトス]] |others=[[松平千秋]]訳 |title=[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]] 上 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1971-12 |isbn=978-4-00-334051-6 |ref=ヘロドトス 1971 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[ヘロドトス]] |others=[[松平千秋]]訳 |title=[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]] 上 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1971-12 |isbn=978-4-00-334051-6 |ref=ヘロドトス 1971 }}
* マネト 『エジプト史』 [http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/|Barbaroi!]内 マネトーン断片集


=== 二次資料 ===
=== 二次資料(書籍) ===
* {{Cite book |和書 |author=ピーター・クレイトン |authorlink=:en:Peter A. Clayton |others=[[吉村作治]]監修、藤沢邦子訳 |title=古代エジプトファラオ歴代誌 |publisher=[[創元社]] |date=1999-04 |isbn=978-4-422-21512-9 |ref=クレイトン 1999 }}
* {{Cite book |和書 |author=ピーター・クレイトン |authorlink=:en:Peter A. Clayton |others=[[吉村作治]]監修、藤沢邦子訳 |title=古代エジプトファラオ歴代誌 |publisher=[[創元社]] |date=1999-04 |isbn=978-4-422-21512-9 |ref=クレイトン 1999 }}
* {{Cite book |和書 |author=ジャック・フィネガン |authorlink=:en:Jack Finegan |others=三笠宮崇仁訳 |title=考古学から見た古代オリエント史 |publisher=岩波書店 |date=1983-12 |isbn=978-4-00-000787-0 |ref=フィネガン 1983 }}
* {{Cite book |和書 |author=ジャック・フィネガン |authorlink=:en:Jack Finegan |others=三笠宮崇仁訳 |title=考古学から見た古代オリエント史 |publisher=岩波書店 |date=1983-12 |isbn=978-4-00-000787-0 |ref=フィネガン 1983 }}
* {{Cite book |和書 |author=古谷野晃 |title=古代エジプト 都市文明の誕生 |publisher=[[古今書院]] |date=1998-11 |isbn=978-4-7722-1682-0 |ref=古谷野 1998}}
* {{Cite book |和書 |author=古谷野晃 |title=古代エジプト 都市文明の誕生 |publisher=[[古今書院]] |date=1998-11 |isbn=978-4-7722-1682-0 |ref=古谷野 1998}}
* {{Cite book |和書 |author=[[近藤二郎]] |chapter=第一章 図像資料に見るエジプト王権の起源と展開 |title=古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ篇 |publisher=[[角川書店]] |date=2003-6 |isbn=978-4-04-523003-3 |ref=近藤 2003 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[近藤二郎]] |title=世界の考古学④ エジプトの考古学 |publisher=[[同成社]] |date=1997-12 |isbn=978-4-88621-156-9 |ref=近藤 1997 }}
* {{Cite book |和書 |author=近藤二郎 |chapter=第一章 図像資料に見るエジプト王権の起源と展開 |title=古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ篇 |publisher=[[角川書店]] |date=2003-6 |isbn=978-4-04-523003-3 |ref=近藤 2003 }}
* {{Cite book |和書 |author=高宮いづみ |title=世界の考古学⑭ エジプト文明の誕生 |publisher=[[同成社]] |date=2003-2 |isbn=978-4-88621-259-7 |ref=高宮 2003 }}
* {{Cite book |和書 |author=高宮いづみ |title=諸文明の起源2 古代エジプト文明社会の形成 |publisher=[[京都大学|京都大学学術出版会]] |date=2006-6 |isbn=978-4-87698-812-9 |ref=高宮 2006 }}
* {{Cite book |和書 |author=大城道則 |title=ピラミッド以前の古代エジプト文明 - 王権と文化の揺籃期 - |publisher=[[創元社]] |date=2009-5 |isbn=978-4-422-23024-5 |ref=大城 2009 }}
* {{Cite book |和書 |author=大城道則 |title=ピラミッド以前の古代エジプト文明 - 王権と文化の揺籃期 - |publisher=[[創元社]] |date=2009-5 |isbn=978-4-422-23024-5 |ref=大城 2009 }}


=== 二次資料(その他)===
* {{Cite book |和書 |author=吉成薫 |title=オリエント 37-2|chapter=研究ノート 古代エジプト先王朝時代 -王朝史からの展望- |publisher=日本オリエント学会 |date=1994 |isbn= |ref=吉成 1994 }}

{{DEFAULTSORT:えしふとせんおうちようしたい}}
[[Category:エジプトの歴史|せんおうちようしたい]]

{{Good article}}
{{DEFAULTSORT:えしふとせんおうちようしたい}}
{{DEFAULTSORT:えしふとせんおうちようしたい}}
[[Category:エジプトの歴史|せんおうちようしたい]]
[[Category:エジプトの歴史|せんおうちようしたい]]

2017年5月29日 (月) 12:01時点における版

エジプト先王朝時代とは、エジプトを統一する王朝(初期王朝時代)が登場する以前の古代エジプトを指す時代区分である。

現在のエジプト地域では50万年前には人類の痕跡が残されている[1]が、歴史学の見地からは先王朝時代の始まりがいつであるとするのか明確ではなく、考古学においては農耕の開始をもってその開始とするのが代表的な見解となる[2]。本記事ではエジプトにおける農耕・牧畜の始まりからエジプト初期王朝時代の始まりとされる第1王朝の登場までを概観する。ただし先王朝時代の定義について、特にその開始について統一的な見解が存在するわけではない事に注意されたい。

自然環境と終末期旧石器文化

現在では広大な砂漠地帯となっているナイル川西方の地域は、12,000年前頃から7,000年前頃まで、第4湿潤期と呼ばれる湿潤な時代に入った。湿潤と言っても年間降水量は200mm前後であったとみられるが、スーダン北部からエジプト南部の地域においては植物が繁茂し、ノウサギガゼルオリックス等が生息していた。この時期は考古学的には「終末期旧石器時代(Terminal Palaeolithic)」または「続旧石器時代(Epipalaolithic)」に分類[3]され、現在砂漠となっている地域にも人類の居住が確認されている。特に夏季の降雨の後に水たまりができる低地や、比較的浅い位置に地下水が存在する場所にその居住は集中している。現在の西部砂漠地方にあるナブタ・プラヤ遺跡周辺で終末期旧石器時代の遺跡から発見される人類が捕獲した動植物の遺存体にはノウサギやガゼルの他、ダチョウ鳥類の骨片、アカシアギョリュウナツメヤシ等が含まれており、現在より遥かに生物密度の大きい当時の環境を証明している[4]

ナイル川中流域(現在のスーダン中部)でも多数の集落が形成されている[3]。このナイル川中流域の遺跡から発見された文化はカルトゥーム(ハルツーム)中石器文化(Khartoum)と呼ばれている。このカルトゥーム中石器文化の遺跡からエジプトで最も古い段階の土器が発見されており、また豊富な動植物資源、水産資源に支えられて定住も開始したと考えられている[5]

7,000年前頃から、アフリカ大陸北東部では乾燥化が徐々に進行し始めた。これに合わせて人類の生活環境も、年間を通してが手に入るナイル川流域が中心となっていった[6]。そして、ナイル川流域での農耕の開始をもって新石器時代の開始とされている。考古学的見地からはこの時点を先王朝時代の開始とする見解がある[2]

農耕・牧畜の始まり

かつての発掘調査ではナイル川流域の農耕、牧畜は紀元前6千年紀後半に突如として始まるような印象が持たれていた[7]。その後、20世紀後半の調査によりナイル川西方の砂漠地帯にこれを説明する遺跡が多数発見され、ナイル川流域の農耕・牧畜文化は、現在では砂漠化している西部砂漠地方に起源を持つ可能性が議論されている。しかし、西部砂漠地方とナイル川流域の関係は今だ明瞭には理解されていない[7]

アフリカ大陸北東部における牧畜の発生については、ウェンドルフらが紀元前7000年頃にウシの家畜化が独自に始まるとする説を唱えている。ヒツジヤギについては西アジアで家畜化がなされたことがはっきりしている[8]。ヒツジとヤギは紀元前6000年期後半に導入された。

一方、農耕(植物栽培)については現在確認できる最古の例は紀元前5000年頃のファイユームで発見されたであるが、紀元前6000年頃にはソルガムミレットが現在の西部砂漠地方で栽培されていたとする説がある[注釈 1]

各地域の初期農耕文化

上下エジプトの地図:上エジプト(Upper Egypt)は南のナイル川上流域、下エジプト(Lower Egypt)は北のナイル川河口デルタ地域を指す。緑色の部分が居住可能地である。

古代エジプト人は今日のエジプトの土地を上エジプト(タ・シェマ)と下エジプト(タ・メフ)と言う二つの国、或いは二つの土地に分けて理解していた。上下という表現は、ナイル川の上流・下流に対応し、上エジプトが南、下エジプトが北である。ナイル川の広大なデルタ地帯が広がり、扇状に広がるナイルデルタによって一面の緑が広がり海に面した下エジプトと、ナイル川が一筋に流れ、乾燥化の後にはナイル川の狭隘な沖積平野河岸段丘を生活の舞台とし、そこから僅かにでも離れると不毛の砂漠地帯が広がっていた上エジプトでは、その自然環境に根差した生活習慣や文化にも当然相違があり、先王朝時代にはこの上下エジプトでそれぞれ独自の文化が発達した[10]。その後エジプトが統一された後も、この二つの土地の差異はエジプト史に大きな影響を与えた。

また、上エジプトと下エジプトの結節点近くには、ファイユーム低地地方が存在した。ナイル川の分流が流れ込んで形成されたカルーン湖を中心とするこの地方は、中王国時代に干拓が行われるまで、広い湿地帯が広がる独特の景観が形成されており、継続的に人類の生活の舞台であった[11]

ファイユーム

ファイユーム文化

エジプトにおける最古の確実な農耕の痕跡はこの地方で発見されており、ファイユーム文化と呼ばれている。放射性炭素年代測定によれば紀元前5230年頃から1,000年あまり継続した。剥片石器を中心とする石器を用い、穀物を栽培、ヒツジヤギを飼育していた。漁労・狩猟も未だ重要であり、ガゼルやハーテビーストカバワニカメなどの動物骨、魚類の骨が発見されている。ウシも発見されているが、家畜化されたものであるかどうか不明である[12]。ファイユーム文化はエジプトで初めて農耕・牧畜を導入した文化ではあったが、これによって生業は多様化したものの、未だ本格的な生産経済に基盤を置く文化であったとは言い切れない[13][14]。このファイユーム文化と、終末期旧石器時代の文化の間には1,000年以上の時間的隔たりがあることが判明しており、学者の中には農耕・牧畜の技術を持った人々が外部からファイユームに移動してきた結果、古代エジプト王朝の基礎を築いたとする主張する者もある[15]

下エジプト

メリムデ文化

現在のカイロの南西45キロメートルの地点、現在のワルダーン村近くにあるメリムデ・ベニ・サラーム遺跡では、ファイユーム地方と並ぶ時代の新石器文化が発見されており、遺跡の名前からメリムデ文化と名付けられている。この遺跡から検出された石器等の史料はこの地方がシリア地方と交流を持っていた事を示し[16]、集落の形態にもシリア地方、メソポタミアキプロスと共通する要素があると見られる[17]エンマー小麦六条大麦豆類亜麻等を栽培し、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタを飼育していたことが知られる。またファイユームと同じく狩猟は重要であり、アンテロープ、ガゼル、カバ、ワニ、鳥類が捕獲されていたほか、多数の魚の骨が発見されている[18]。また死者の頭を東側に向けて埋葬する習慣があったことから、この当時既に死者の埋葬について宗教的な習慣が確立していた可能性もある[19]。メリムデ文化の絶対年代は不明であり、放射性炭素年代測定では紀元前4750年頃から紀元前4250年頃であるが、研究者の中にはこの年代は新しすぎると批判するものもいる[20]

オマリ文化

カイロの南約20キロメートルのナイル川東岸にあるオマリ遺跡では、ファイユーム文化やメリムデ文化の最終段階と同時期に位置付けられる文化が発見され、遺跡の名前を取ってオマリ文化と呼ばれている。放射性炭素年代測定による年代測定では紀元前4600年頃~紀元前4400年頃という年代が得られている[21]。やはりエンマー小麦、クラブ小麦や大麦などを栽培し、ウシ、ヒツジ、ブタ、ヤギを飼育、野生の植物や動物を捕食していた。水産物もナマズナイル・パーチ等が豊富に捕獲されていた。石器はフリントを用いた剥片石器が中心であるが、少数ながら石刃技法によるものも認められる。石皿等穀物を食するのに必要な道具類の数が少ないことから、ここでも穀物栽培は未だ補助的な役割を果たしていたに過ぎないと推測されている[21]。オマリ文化はメリムデ文化と並行する時代であり、共通点も相違点もあることから、相互の関係については明確ではない[22]

マーディ・ブト文化(ブト・マーディ文化/マーディ文化)

デルタ地帯付け根部分の東岸にあるマーディ遺跡から、メリムデ、オマリ文化に続く時代の文化遺構が発見され、マーディ文化と名付けられた。その後同種の文化がブト遺跡でも発見されたことから、マーディ・ブト文化とも呼ばれる[注釈 2]。この文化は、先行するメリムデ文化やオマリ文化を引き継いで発展したものと考えられ[24][25]、牧畜においてはロバ、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、イヌが飼育されていたことが明らかとなっているが、特に重要なのは発見された動物骨の大半が飼育動物のものであることで、未だ狩猟は行われていたもののその重要性は大きく下がっている[26]。ただし漁労は非常に盛んであり多数の魚の骨が発見されている[26]。遺跡において特徴的なのは楕円形をした半地下式の住居で、類似する形態の物がパレスチナ地方からも発見されており、その密接な関係を示唆している[25]。また、農耕・牧畜のみならず製品の加工も行われていたことが明らかになっている。下エジプトで銅は得られない事から、周辺地域から原材料を輸入していた事を示すものであり、このこともマーディ・ブト文化の人々の周辺地域との関係の大きさを知る事ができる[25]

マーディ・ブト文化の遺跡は下エジプトの全域から発見されているが、ナカダ2期の終わり頃(紀元前3500年~紀元前3300年)から次第に独自性を喪失し、上エジプトから広がったナカダ文化が下エジプトに定着していく[27]

上エジプト

ターリフ文化

ターリフ文化は上エジプトで初めて土器を導入した文化である[28]。放射性炭素年代測定では紀元前5200年頃という年代が得られている。この文化の居住跡はと石器、土器しか発見されず、恐らく人々は移動型の生活を送っていたのだろうと推定されている[22]。この文化では農耕の痕跡は発見されていないが、アル=サラムニ遺跡からこの文化の最末期と同じ時代かやや新しい時代の家畜化されたウシの骨が出土しており、これが上エジプトにおける最も古い牧畜の痕跡である[28]

バダリ文化

ターリフ文化に続く文化が、マトマールからハマミーヤまでのナイル川東岸でまとまって検出され、バダリ文化と名付けられた。先行するターリフ文化との関係性はわかっていない[29]。バダリ文化は放射性炭素年代測定等から紀元前4500年頃から紀元前4000年頃とされる[29]。バダリ文化に属する人々は砂漠の縁辺部に集団墓地を形成し、多量の副葬品を添えて死者を手厚く埋葬する習慣を初めてエジプトに導入した人々であった。遺体は基本的に南に頭を置いて埋葬され、土器や装身具、パレットなどと共に埋葬された。既にこの頃から階層分化が見られるという[30]。また、生活の情報は非常に不完全であるが、エンマー小麦や六条大麦、亜麻の栽培が確認されており、家畜としてウシ、ヒツジ、ヤギを飼育し、ガゼル、ワニ、カバ、カメ等野生動物の狩猟も行っていた。この文化は農耕・牧畜を主体としながらも、野生動物の狩猟と漁労に補完されて成り立っていた[31]

ナカダ文化

女性像、前3500–前3400頃。 テラコッタ製, 塗装品, (29.2 × 14 × 5.7 cm). ブルックリン美術館

紀元前4000年頃登場したナカダ文化の遺跡は19世紀末に発見されて以来の調査でエジプト全域で発見されており、その数は主要な物だけでも50を数えるが、その発祥地は上エジプト南部のアビュドスからナカダ付近を中心とするナイル河谷であった[32]。ナカダ文化は上エジプトのバダリ文化から発達したと考えられ、より一層農耕と牧畜に重きが置かれるようになっている。農業生産物としてエンマー小麦と六条大麦が最も頻繁に検出され、亜麻も発見されている。豆類やシカモアイチジク根菜等野生種も見つかっている。家畜としてヤギ、ヒツジ、ウシ、ブタの畜産が確認され、食肉や乳製品を供給した。ガゼルやカバ等狩猟による野生動物の捕食も確認されているが重要度は低かったようである[33]。また非常にバリエーションに富んだ土器を生産しており、中盤に入ると轆轤製の物が登場しはじめる[33]

現在までに発見されているナカダ文化の遺物の多くは墓地の副葬品であり、その中でも最大の特徴がパレット(化粧板)と呼ばれる遺物が登場することである。このパレットは古代エジプト独特の遺物であり、その発展過程から古代エジプト史の流れを概観することができると考えられている[34]。パレットはシルト岩と呼ばれる石で作成されており、を保護するためにエジプト人が使用していたマラカイトなどの顔料を磨り潰すために使われた。初期のパレットは四角や円形などの単純なものであったが、次第に様々な装飾が加えられた儀礼用のものが作られるようになった。またナカダ文化の土器は後代の土器に比べ、極めて高品質であることが特徴である。これは副葬品として作成された土器が、高貴な人々のためのものであったので品質管理が行き届いていた結果であると考えられる。後の時代には一部の例外を除き土器は単なる日用品に過ぎなくなっていき、ナカダ期に比べて粗雑化していく。

ナカダ文化はやがて南北へ分布を拡大し、エジプト全域に広がっていった[35]

ナカダ文化の編年

ナカダ2期の土器

ナカダ遺跡においてナカダ文化を最初に発見したフリンダーズ・ピートリーは、墓の副葬品を中心とする出土品の詳細な分類によってナカダ文化の編年関係を表すSD法と呼ばれる編年法を開発した。更にナカダ文化を大きく三つの時期、「アムラー期」「ゲルゼ期」「セマイナー期」に分類した[36]。このピートリーによって先鞭をつけられたナカダ文化の編年法はその後ウェルナー・カイザー等によって改良と議論が重ねられた。現在ではアムラー期はナカダ1期(紀元前4000年頃-紀元前3500年頃)、ゲルゼ期はナカダ2期(紀元前3500年頃-紀元前3300年頃)とされ、セマイナー期は存在が否定されている[36][37]。更に第1王朝成立直前の時期はナカダ3期(紀元前3300年頃-紀元前3150年頃)として再分類され、エジプト第0王朝とも呼ばれる[38][注釈 3]

社会階層の分化の進展

ナカダ文化ではナカダ2期前半まで、次第に墓の平均的規模が大型化していくとともに大小のばらつきが大きくなっている。ナカダ1期では集落の大小に関わらず二つの社会階層(大型墓に埋葬される富裕層と小型の墓を持つ人々)が確認される。小型の集落よりも大型の集落で墓の大きさの各差はより顕著であり、大規模な集落ではエリート層が発達したために社会階層格差が増大していく様子がわかる[40]。このような格差拡大は、ナカダ3期に入ると多くの集落で逆に縮小する傾向が起った。ナカダ3期には多くの集落で墓地の廃絶や縮小が確認され大半の墓地で社会階層分化が低下する[41]。一方で中心的な集落遺跡では、他と隔絶する大型の墓が建造されるようになり、これが当時拡大した「王国」の支配者達の物であると考えられる[41]

大型集落(都市)

このような中心集落としては最大の物がヒエラコンポリスであり、続いてナカダアビュドスが代表的[42]な物である。古代エジプトでは隣接するメソポタミア地方のような政治的に独立した都市、或いは都市国家は形成されなかった。しかし、政治的中枢、或いは経済的中心としての大型集落はナカダ期に発達した。ナカダ期最大の集落遺跡ヒエラコンポリスは3600平方メートルの規模を持ち、メソポタミアの都市と比較しても充分な規模を持つ人口集住地であった[43]。文化の名前として採用されているナカダでは2000基以上の墓が発見されている。アビュドスは後の第1王朝時代に集中的に王墓が造営される集落である。

周辺地域との関係

ヌビア

エジプトの南方に位置するヌビア地方では、ナカダ文化と同時期にヌビアAグループ文化と呼ばれる高度な文化が栄えていた。このヌビアで、ナカダ1期の終わり頃に下ヌビア地方を中心にナカダ文化からの搬出品が多量に認められる。主なものとしてスレート製のパレットや装身具、土器があるが、大量の農産物も輸出されたらしい。一方でナカダ期のエジプトがヌビアから輸入したものは現在あまり確認できていない[注釈 4]。ヌビアで確認されているエジプトからの輸出品の量を考えれば、それが当時の経済に影響を及ぼすレベルであったと推測されるが、この物質的な交流の規模に比べエジプト内部に文化的影響を大きく与えていない[44]。一方ヌビア側では当時の中心地であったクストゥール等から発見されたモチーフにヒエラコンポリス等で見られる王の意匠の採用や、ホルスと見られるハヤブサの図像等があり注目される[45][46]。これらのエジプト風のモチーフが実際にはヌビア起源であるという説が提唱されたこもともあったが、広く支持されることはなかった[47][48]

パレスチナ

エジプト東方のパレスチナでは紀元前4500年頃からエジプトからの搬入品が出土する。しかし規模は小さくエジプトとの緊密な接触を示す証拠は少ない。パレスチナ南部でエジプトからの影響が大きくなるのは初期王朝時代に入ってからである[49]。一方でエジプト側にはナカダ2期頃からパレスチナからの搬入品とその模倣品が多数出土するようになる。ナカダ文化に最も多大な影響を与えたのは、パレスチナで製作されていた波状把手付土器である。輸入品の数をは限られるが、その模倣品である波状把手土器がナイル川下流域で作成されるようになり、初期王朝時代まで続く重要な容器の形となった[50]。アビュドスやヒエラコンポリスからは、中にワインが入れられていたと推定されるパレスチナ土器が、多量に発見されている。これらが当時の王国の首都と考えられる大型の集落跡から見つかっている点は重要である[51]

メソポタミア

メソポタミアはエジプトに先行して農耕と牧畜が始まった土地であり、ナカダ期には発達した都市国家が栄えていた。古くよりエジプトにおける初期の国家形成に影響を強く与えたと考えられてきたのがこのメソポタミア地方である。ナカダ期のメソポタミアとエジプトの関係を示す史料はメソポタミア側からは希薄な一方、エジプト側では多数発見されている。特にナカダ2期以降、その量は飛躍的に増大する。主に土器、印章ラピスラズリ、図像のモチーフなどである。ただし、このうち確実にメソポタミアからもたらされたと確認できるものはラピスラズリのみである[52]。印章はメソポタミアで使用された円筒印章等があるが、影響を受けている事は確実であるもののその多くはエジプトで作成された模造品とみられている。この点は土器についても同様である。ヒエラコンポリスの王墓で発見された壁画やレリーフの中にはメソポタミアの英雄(または神)ギルガメシュの図像と思われる物がある。初期の王権と関わりの深い場所で発見された象徴的な表現にメソポタミアの影響が見られる事は重要であると考えられている[53]

王権の成立

ナカダ3期のパレット

各地に成立した「王国」の支配者達の実像は不明瞭である。しかし彼等が作り上げた「王国」や「王権」はその後のエジプト王朝の土台となった。それを伺い知る事ができるのは彼等の墓から発見された威信材からであり、代表的な物として象牙製品[注釈 5]護符など)、波状把手土器、棍棒パレット(化粧板)等がある[54]。このうち、棍棒とパレットは後世のエジプト歴代王朝を通じて王の権力のシンボルとして取り扱われたもので、先王朝時代末の、或いは初期王朝時代初頭の王であるサソリ王ナルメルメイスヘッドパレットに繋がっていく。棍棒で敵を打ち据えるモチーフの図像がこの時期のヒエラコンポリスで初めて登場するが、このモチーフの表現形式はプトレマイオス朝時代まで3000年以上に渡って連綿とエジプトで受け継がれることになる[53]。ヒエラコンポリスでは100号墓と呼ばれる大型の墓から、上述の図像の他に王権に関係すると思われる図像表現が多数発見されている。ナカダ2期中頃までにはヒエラコンポリスは人口も増大し、上エジプト地域を統合した政治連合(国)の中心として機能するようになっていたとする説もある[55]

セレクの例。上記画像は初期王朝時代のアハ王の物。ハヤブサの下に王宮を表す枠がある。

文字に表れる王

先王朝時代の末期、或いは第1王朝成立の直前の時代にあたるナカダ3期には初めて文字(あるいはその前身となる絵文字)が登場する。各地の発掘調査で、この時期に年代づけられる複数の王名の存在が明らかとなっている[56]。こうした王名はセレクと呼ばれる王宮正面をかたどった枠の中に書かれた。最初期の物はセレクのみで王名を記さない物があったが、ナカダ3期後半には王名を判別できるものが現れる[56]。これらのセレクはハヤブサの図像を伴う物が早い段階から見られ、王とハヤブサの神ホルスを同一視する後世の思想に繋がるとみられる[57]

統一までの過程

上下エジプト王冠(プスケント)。赤い王冠(デシュレト)が下エジプト、白い王冠(ヘジェト)が上エジプトの王冠]であり、合わせて上下エジプト両国の王権を表す。

ナカダ文化はナカダ2期頃までには上下エジプト全域に広がり、「文化的にはエジプトが統一」されたと言われるような状況が現れていた[58]。しかし、このナカダ文化の拡大過程と、エジプトの政治的統合を単純に同一視できるかどうかはわからない。

基本的な流れとして、上エジプトの政権によるエジプト統一というところまでは多くの学者の意見として共通している。前提となるナカダ文化が上エジプト発祥のものである事に加え、先術の通り、ヒエラコンポリス等、上エジプトで発見された王権に関わる図像には、その後古代エジプト時代を通じて使用されるモチーフとなるものがあるためである[53]。更に図像的な証拠として、ナカダ遺跡から発見された紀元前3500年頃の土器片に彫られた赤色王冠のレリーフがある。この赤色王冠は王朝時代には下エジプトの王冠と見なされたものであり、上エジプトの王冠である白色王冠と対を為すものである。上エジプトにあるナカダ遺跡からこの赤色王冠の図像が発見され、しかもそれが先王朝時代のものであることは、「下エジプト王冠である赤色王冠」の形態が下エジプト固有のものではなく上エジプトで考案されたものである可能性を示すものであり、統一王朝成立過程を考慮する際に重要な情報を提供している[59]

しかし統一の具体的な経過については百家争鳴の状態にある。

W.カイザーの研究(1956年)ではナカダ文化が南北に拡張していく過程の編年を精緻に調べ、それを政治的な統合過程に限りなく近いものと見なした[60]。しかし、このナカダ文化の拡張過程は、主に墓地の分析で確認されており、それをそのまま政治的集団の拡張過程と見なせるかどうかは明らかでない。

B.J.ケンプ(1989年)は、統一王朝の成立過程を3段階に分ける仮説を立てた。彼の見解では第1段階としてナイル川下流域に多数の群小政体が誕生する。第2段階として上エジプトにアビュドス(ティス)、ナカダ、ヒエラコンポリスを中心とする3つの王国が成立する。第3段階としてヒエラコンポリスがこの3つの王国を統合した上エジプトの王国を作り、この国が下エジプトを征服して統一王朝が成立するというものである。この説は、ナルメルのパレットなどから推測されてきた統一王朝の成立過程や、王朝時代の伝説も念頭に置いている[61]

T.A.H.ウィルキンソン(2000年)はナカダ1期後期にアビュドス(ティス)、アバディーヤ、ナカダ、ゲべレイン、ヒエラコンポリスの5か所を中心とする政体が存在したとし、ナカダ2期前期にアバディーヤが脱落。ナカダ3期にはナカダとゲベレインの政体も力を失ってアビュドスとヒエラコンポリスが二大勢力となり、ナカダ3期後期にはアビュドスの王ナルメルが2つの政体を統合し、初の統一王朝を築くという仮説を立てた[62]

また、古王国時代(紀元前27世紀頃~)に作成された『カイロ年代記』には第1王朝以前の王達が上下エジプト王冠を戴く姿で描かれており、これを論拠に実際のエジプト統一を第1王朝以前と見る学者も少数ながらいる[63]

いずれの説にせよ、文字資料が基本的に存在しない時代であり完全な証明は困難であるのが実情である。

統一・初期王朝時代

古代エジプトの歴史記録において最初の王は伝説的な王メニ(メネス)であった。しかし考古学的に最初の統一王朝の王である可能性が高いのはナルメルである[64][63][65]。一般に彼の存在が確認される紀元前3150年頃-紀元前3050年頃からをエジプト初期王朝時代とし、ナルメルに始まる王朝をエジプト第1王朝と呼ぶ。以後、ローマ帝国による征服まで続く古代エジプト王朝の時代が始まる。

研究史

古代

古代エジプト人も、自分達の国家の起源について深い関心を持っていた。古くから王朝の起源が、主に王名表等の形で残されている。紀元前2400年頃に作成されたエジプト最古の年代記である『パレルモ石』とその別版である『カイロ年代記』には、統一王朝以前にも王らしき人物(それは王冠を被った表現でわかる)がいたことが記されている。しかし具体的な歴史記録を読み取ることはできない[66]

エジプト新王国時代に作成された『トリノ王名表』には、エジプトの最初の王としてメニの名が記されている[67]。また、紀元前5世紀ギリシア人の歴史家ヘロドトスの『歴史』はエジプトの神官達の証言として初代王ミン、マネト[注釈 6]プトレマイオス朝時代に著述した『エジプト史』では初代王としてメネス(メニのギリシア語形)が登場する。これらからわかるように、王朝時代の古代エジプトではメニ(メネス)から始まるエジプトの歴史が共有されていた。更に『トリノ王名表』には王朝以前の時代に「ホルスの信奉者たち」(ホルスの信奉者であった精霊)と呼ばれる半神達の王朝があったことが記されている[66][68]

古代の歴史家マネトによる記録でも、初代王メニ以前の時代は神、半神達の時代とされていた。エウセビオスによれば、マネトの記録は3巻に分類されており、1巻はヘファイストスエジプト神話におけるプタハ)を筆頭とする神、2巻は神人、即ち死者の精霊について[69]、続いて3巻でメネスに始まる人王について述べていたとされる。人王の時代は第1から、第30までの王朝として分類されている[注釈 7]

以上のように古代エジプトにおける先王朝時代の記録は概して神話的であるが、図像表現等にそれらしき物が見られる。

近代の発見

ローマ時代後半以降、古代エジプトの文献記録の継承は途絶えてしまった。そのため、王朝以前のエジプトについての研究も何ら進展は見られない。1822年フランス人研究者J.F.シャンポリオンヒエログリフの解読に成功した事によって近代エジプト学が確立されると、エジプト王朝時代の王達の歴史が再び明らかにされるようになった。そして19世紀終わりまで、エジプトの歴史の曙は、王朝時代の記録や、ギリシア語の文献記録に基づき、初代王メニをはじめとする初期王朝時代の王達の業績に求められることになった[70]

相次ぐ考古学的発見に伴い、19世紀終わり頃になると文献記録のみに頼ることのない文明誕生の本格的な研究が始まった。フリンダーズ・ピートリーによるナカダ遺跡周辺の発掘調査(1894年-1895年)と、J.ド・モルガンによるエジプト南部およびナカダ遺跡の調査(1896年-1897年)が王朝時代以前から初期王朝時代にかけての遺跡における最初の本格的な調査であった。これらの調査で発見された文化は、最初に発見された遺跡の名前からナカダ文化と呼ばれるようになった[71]

その後、20世紀前半までの調査によって数多くの王朝時代以前の遺跡が調査され、文明誕生期の歴史と文化についての知見が蓄積された結果、エジプト第1王朝開闢に先立つ時代は「先王朝時代:Predynastic Period)の呼称を与えられ、エジプト学の中でも独立した研究分野としての地位を確立していった[72]

初期の研究をリードしたピートリーは、ナカダ文化期から初期王朝時代にかけての文化変化を「アムラー」「ゲルゼー」「セマイネー」の3つの文明の交代として捕らえ、その背景には東方(西アジア)からの異民族侵入があったとした[72]。この考え方は王朝民族侵入説と呼ばれ、ハヤブサをトーテムとする王朝民族(ホルス族)が東方からエジプトにやってきてエジプトに王朝を打ち立てたとするもので、W.B.エメリー等当時のエジプト学の権威などからも支持されたため広く学会で受け入れられた[72][73]。大城道則はこの説について、日本史における騎馬民族征服王朝説を思い起こさせるという所感を述べている[73]

その後の調査で、エジプト北部ではナカダ文化と様相を異にする複数の文化が発見された。これらの文化も発見された遺跡や地方の名前からマーディ文化メリムデ文化ファイユーム文化オマリ文化等と命名された。更にアビュドス遺跡で初期王朝時代の王達の墓が発見され、メニ王を同時代の王と同定しようとする試みが盛んになった[74]

20世紀後半

1944、H.J.カンターらの研究で、ピートリー以来の民族侵入によってこの先王朝時代の変遷を説明しようとする見解が否定された。彼女は土器の発展過程の調査によって、エジプトにおける土器の進化に特別な変革期はないという結論を下した[72][75]。また、ウェルナー・カイザーの研究の結果、上エジプトで発祥したナカダ文化が時代と共に南北に分布を拡大していくことが明らかにされた。これらの研究により先王朝時代の文化・社会の変遷を外的要因に求めるではなく、エジプト内部にその主要因を求める流れが形成された。更にナカダ文化の拡張が明らかになったことで、統一王朝形成の過程でそれが大きな役割を果たした事が強く認識されるようになった[76]

20世紀後半になると欧米で隆盛したプロセス考古学と、実用化されつつあった放射性炭素年代測定法が大きく寄与し、諸文化の編年関係や埋葬形態、集落形態の研究が大きく進展した。これによって古くから続いていた文献史料の影響から本格的な脱却が図られた[77]

1970代年以降、中東情勢の安定の伴いエジプトにおける発掘調査が活発となった。この時期以降の調査は、プロセス考古学の影響を受けて旧来の墓地を中心とする調査よりも、集落跡に焦点を当てる傾向が顕著であった。更に従来ほとんど手付かずであった下エジプトデルタ地帯での発掘調査が進展した。これらの調査で既存の下エジプトの文化(マーディ・ブト文化の中に次第にナカダ文化が浸透していく様が明らかになった。更にアビュドス遺跡での再調査で初期王朝時代黎明期の詳細な情報が提供された[78]

またイスラエルパレスチナで行われた発掘調査は、紀元前4千年紀のエジプトがパレスチナ南部と密接な関わりを持っていることを明らかにした。また、F.ウェンドルフらによるアメリカポーランド合同調査隊は、周囲の砂漠地帯における調査を進展させ、ナイル川近辺で未発見であった終末期旧石器時代の遺跡を各地で発見し、歴史の空白を埋めた[79]

脚注

注釈

  1. ^ 西部砂漠地方にあるナブタ・プラヤ遺跡では、より早く農耕が始まっていた可能性があるが、否定的な見解もあり確実ではない[9]
  2. ^ ブト・マーディ文化とも。遺跡形成と文化認定の順序から、マーディ・ブト文化と呼ぶ案が提唱されている[23]
  3. ^ ナカダ期の絶対年代は未だ未確定である。ここでは古谷野 1998に依った。[39]
  4. ^ 後の王朝時代にはエジプト人達は紫水晶象牙閃緑岩ダチョウの卵、ヒョウの毛皮、黒檀等をヌビアから輸入していた。
  5. ^ 実際にはカバの牙で造られたものが多い。高宮 2003, p.143
  6. ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
  7. ^ 後世、第31王朝が追加されたと推定される。[69]

出典

  1. ^ 古谷野 1998, p.2
  2. ^ a b 吉成 1994, pp.202-204
  3. ^ a b 高宮 2003, p.25
  4. ^ 近藤 1997, p.34
  5. ^ 高宮 2003, p.26
  6. ^ 高宮 2003, p.39
  7. ^ a b 高宮 2003, p.21
  8. ^ 高宮 2003, p.36
  9. ^ 高宮 2003 pp.33, 37
  10. ^ 高宮 2006, p.9
  11. ^ 高宮 2006, p.14
  12. ^ 高宮 2006, pp.41-45
  13. ^ 高宮 2003, p.45
  14. ^ 吉成 1994, p.205
  15. ^ 近藤 1997, pp.43-44
  16. ^ 高宮 2003, p.48
  17. ^ 吉成 1994, pp.206
  18. ^ 高宮 2003, p.50
  19. ^ 大城 2009, p.19
  20. ^ 高宮 2003, p.51
  21. ^ a b 高宮 2003, p.52
  22. ^ a b 高宮 2003, p.55
  23. ^ 高宮 2003 pp.71-72
  24. ^ 高宮 2003, p.72
  25. ^ a b c 大城 2009, p.24
  26. ^ a b 高宮 2003, p.75
  27. ^ 高宮 2003, p.76
  28. ^ a b 高宮 2003, p.54
  29. ^ a b 高宮 2003, p.57
  30. ^ 高宮 2003, p.58
  31. ^ 高宮 2003, p.59
  32. ^ 高宮 2003, pp.77-78
  33. ^ a b 高宮 2003, p.80
  34. ^ 大城 2009, p.29
  35. ^ 大城 2009, pp.36-37
  36. ^ a b 大城 2009, p.25
  37. ^ 高宮 2003, p.65
  38. ^ 大城 2009, p.26
  39. ^ 古谷野 1998, p.5
  40. ^ 高宮 2003, pp.131-133
  41. ^ a b 高宮 2003, p.136
  42. ^ 大城 2009, p.41
  43. ^ 高宮 2003, p.98
  44. ^ 高宮 2003, p.154
  45. ^ 大城 2009, pp.50-51
  46. ^ 近藤 2003, pp.220-221
  47. ^ 大城 2009, pp.51-52
  48. ^ 近藤 2003, pp.221-222
  49. ^ 高宮 2003, p.155
  50. ^ 高宮 2003, pp.155-156
  51. ^ 高宮 2003, p.157
  52. ^ 高宮 2003, p.161
  53. ^ a b c 近藤 2003, p.218
  54. ^ 高宮 2003, p.143
  55. ^ 近藤 2003, p.219
  56. ^ a b 高宮 2003, p.216
  57. ^ 高宮 2003, p.236
  58. ^ 高宮 2003, p.199
  59. ^ 近藤 2003, p.216
  60. ^ 高宮 2003, p.202
  61. ^ 高宮 2003, p.208
  62. ^ 高宮 2003, p.210
  63. ^ a b 高宮 2003, p.244
  64. ^ 大城 2009, pp.67-77
  65. ^ クレイトン 1999, pp.21-24
  66. ^ a b 高宮 2003, p.5>
  67. ^ 大城 2009, p.64
  68. ^ フィネガン 1983, p.212
  69. ^ a b フィネガン 1983, p.212
  70. ^ 高宮 2003, pp.5-6
  71. ^ 高宮 2003, p.6
  72. ^ a b c d 高宮 2003, p.7
  73. ^ a b 大城 2009, p.61
  74. ^ 高宮 2003, pp.7-8
  75. ^ 大城 2009, p.62
  76. ^ 高宮 2003, pp.10-11
  77. ^ 高宮 2003, pp.11-12
  78. ^ 高宮 2003, pp.14-15
  79. ^ 高宮 2003, p.15

参考文献

原典資料

  • ヘロドトス歴史 上』松平千秋訳、岩波書店岩波文庫〉、1971年12月。ISBN 978-4-00-334051-6 
  • マネト 『エジプト史』 [1]内 マネトーン断片集

二次資料(書籍)

二次資料(その他)

  • 吉成薫「研究ノート 古代エジプト先王朝時代 -王朝史からの展望-」『オリエント 37-2』日本オリエント学会、1994年。