「壬午軍乱」の版間の差分

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{{朝鮮の事物
{{朝鮮の事物
|title=壬午事変
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|picture=[[File:Yōshū Chikanobu Chōsen Jihen.jpg|350px]]
|caption=朝鮮反乱軍に襲撃される花房義質公使一行([[楊洲周延]]の[[錦絵]])
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'''壬午事変'''(じんごじへん)は、[[1882年]][[7月23日]]、[[興宣大院君]]らの煽動を受けて、[[李氏朝鮮|朝鮮]]の[[漢城府|漢城]](後の[[ソウル特別市|ソウル]])で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた[[閔]]一族の政府高官や、日本[[軍事顧問]]、日本[[外交官|公使館員]]らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件である
'''壬午軍乱'''(じんごぐんらん) または '''壬午事変'''(じんごじへん) は、[[1882年]]([[明治]]15年)[[7月23日]](旧暦では[[光緒]]8年=[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]19年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]])、[[興宣大院君]]らの煽動を受けて、[[李氏朝鮮|朝鮮]]の首府[[漢城府|漢城]](現、[[ソウル特別市|ソウル]])で起こた[[閔氏政権]]および[[大日本帝国|日本]]に対する大規模な[[朝鮮人]][[兵士]]の反乱


朝鮮国王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の王妃[[閔妃]]を中心とする閔氏政権は、[[開国]]後、日本の支援のもと[[開化政策]]を進めたが、財政出費がかさんで旧軍[[兵士]]への俸給が滞ったことが反乱のきっかけとなった。すなわち、閔氏政権は近代的軍隊として「[[別技軍]]」を新設し、[[日本人]]教官を招致して教練を開始したが、これに反発をつのらせた旧式軍隊が俸給の遅配・不正支給もあって暴動を起こし、それに民衆も加わって閔氏一族の屋敷や[[官庁]]、日本公使館を襲撃し、朝鮮政府高官、日本人[[軍事顧問]]、日本[[外交官|公使館員]]らを殺害したものである<ref name=o227>[[#呉|呉(2000)p.227]]</ref>。朝鮮王宮にも乱入したが、閔妃は王宮を脱出した<ref name=o227/>。反乱軍は閔氏政権を倒し、興宣大院君を担ぎ出して[[大院君政権]]が復活した。
'''壬午軍乱'''(じんごぐんらん)、'''壬午の変'''(じんごのへん)、'''朝鮮国事変'''(ちょうせんこくじへん)、あるいは単に'''朝鮮事変'''(ちょうせんじへん)とも呼ぶ。以下に示す理由から''大院君の乱''と言うものもある。<ref>『近世朝鮮史』(著 林泰輔著)</ref>


日本は[[軍艦]]4隻と千数百の兵士を派遣し、[[清国]]もまた朝鮮の[[宗主国]]として属領保護を名目に軍艦3隻と兵3,000人を派遣した<ref name=o227/>。反乱軍鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、大院君を[[拉致]]して中国の[[天津]]に連行、その外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させた<ref name=o227/>。日本は乱後、清の[[馬建忠]]の斡旋の下、閔氏政権と交渉して[[済物浦条約]]を締結し、[[賠償金]]の支払い、公使館護衛のための[[日本陸軍]]駐留などを認めさせた。清国は朝鮮政府に外交顧問を送り、[[李鴻章]]を中心とする閣僚は朝鮮に[[袁世凱]]を派遣、袁が事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握した<ref name=o227/>。こののち袁世凱は、3,000名の清国軍をひきつづき漢城に駐留させた<ref name=o227/>。この乱により、朝鮮は清国に対していっそう従属の度を強める一方、朝鮮における親日勢力は大きく後退した。
== 事件の発端 ==
[[江華島事件]]以来、当時の朝鮮は、朝鮮は[[清|清朝]]の[[冊封国]]または[[冊封国|属邦]]<ref name="sino-1">冊封-朝貢体制における「属国」と近代国際法における「属国」とは性格を異にする。しかし相次ぐ朝貢国の喪失にあわてた清朝は、最後の朝貢国朝鮮を近代国際法下における「属国」へと位置づけ直そうとしはじめる。欧米や日本が清朝の属国とは認めない旨、通達してきたためである。壬午事変は朝鮮を近代的な属国としていくためのきっかけの一つとなった。</ref>([[小島毅]]は「朝鮮にとって[[親分]]である清国も出兵をいたします」と表記している<ref>[[小島毅]]『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』[[亜紀書房]]、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p44</ref>
)としての朝鮮のままであるべきであるという「守旧派」([[事大党]]ともいう)と、現状を憂い朝鮮の近代化を目指す「[[開化派]]」(独立党ともいう)とに分かれていた。加えて、宮中では政治の実権を巡って、[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の実父である[[興宣大院君]]らと、高宗の妃である[[閔妃]]らとが、激しく対立していた。


この乱の名称は[[干支]]の「[[壬午]](みずのえうま)」に由来し、'''壬午の変'''(じんごのへん)、'''壬午事件'''(じんごじけん)などとも表記される。当時の日本では'''朝鮮国事変'''(ちょうせんこくじへん)、'''朝鮮事変'''(ちょうせんじへん)などとも称された。また、かつてはその首謀者の名を付し、'''大院君の乱'''(だいいんくんのらん)という表現もあった<ref>[[#林|林『近世朝鮮史』(1900)]]</ref>。
開国して5年目の[[1881年]]5月、朝鮮国王高宗の后閔妃の一族が実権を握っていた朝鮮政府は、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の筆頭となり日本と同じく近代的な軍隊を目指した。近代化に対しては一日の長がある日本から、[[軍事顧問]](堀本禮造陸軍工兵少尉)を招きその指導の下に旧軍とは別に、新式の編成で新式の装備を有する「[[別技軍]]」を組織し、日本の指導の元に西洋式の訓練を行ったり日本に留学させたりと、努力を続けていた。


== 背景 ==
開化派は軍の[[近代化]]を目指していたため、当然武器や用具等も新式が支給され、隊員も[[両班]]の子弟が中心だったことから、守旧派と待遇が違うのは当然だったが、守旧派の軍隊は開化派の軍隊との待遇が違うことに不満があった。
[[ファイル:Danwon-Byeo.tajak.jpg|250px|right|thumb|特権階級である両班が寝転んでいるそばで農民たちが働いている([[18世紀]]末葉の絵画)]]
李王朝下の朝鮮では、国王みずからが[[売官]]をおこない、支配階級たる[[両班]]による農民への苛斂誅求、[[不平等条約]]の特権に守られた日清両国[[商人]]による収奪などにより民衆生活が疲弊していた<ref name=oohama135>[[#大濱|大濱(1989)p.135]]</ref>。王宮の内部では、清国派、ロシア派、日本派などにわかれ、外国勢力と結びついた権力抗争が繰り広げられていた<ref name=oohama135/>。とくに、宮中では政治の実権をめぐって、国王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の実父である[[興宣大院君]]と高宗の妃である[[閔妃]]が激しく対立していた。


[[ファイル:Queen Min-oval portrait.jpg|150px|left|thumb|閔妃とされてきた写真]]
以下の説明は、『新版韓国の歴史 - 国定韓国高等学校歴史教科書』(世界の教科書シリーズ 1)明石書店2000年による説明と合致したものである。
当時、朝鮮の国論は、清の[[冊封国]]([[冊封国|属邦]])としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派([[事大党]])と朝鮮の近代化を目指す[[開化派]]に分かれていた<ref group="注釈">[[小島毅]]は、清・朝鮮の関係について、清を「朝鮮にとって[[親分]]」と形容している。[[#小島|小島(2011)p.44]]</ref>。このうち後者はさらに、国際政治の変化を直視し、外国からの侵略から身を守るには、すでに崩壊の危機に瀕している清朝間の宗属関係に依拠するよりは、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき親清開化派に分かれていた<ref name=unno56>[[#海野|海野(1995)pp.56-61]]</ref>。親清開化派は、清朝宗属関係と列国の国際関係を対立的にとらえるのではなく、二者併存のもとで自身の近代化を進めようというもので、閔氏政権の立場はこれに近かった<ref name=unno56/><ref name=o56>[[#呉|呉(2000)pp.56-66]]</ref>。急進開化派は、朝鮮近代化のモデルとして日本に学び、日本の協力を得ながら自主独立の国を目指そうという立場であり、[[金玉均]]や[[朴泳孝]]ら青年官僚がこれに属した<ref name=o56/>。


開化政策への転換に対しては、守旧派のなかでも特に[[攘夷]]思想に傾斜した儒者たちのグループ([[衛正斥邪|衛正斥邪派]])が強く反発した<ref name=kasuya231>[[#糟谷|糟谷(2000)pp.231-232]]</ref>。[[辛巳]]の年[[1881年]]には年初から中南部各道の衛正斥邪派の在地両班は漢城府に集まって[[金弘集 (政治家)|金宏集]](のちの金弘集)ら開化政策を進める閣僚の処罰と衛正斥邪策の実行を求める上疏運動を展開した([[辛巳斥邪上疏運動]])<ref name=kasuya231/>。閔氏政権は、上疏の代表であった[[洪在鶴]]を[[死刑]]に処したほか、上疏運動の中心人物を[[流罪]]に処するなど、これを厳しく弾圧した<ref name=kasuya231/>。衛正斥邪派は大院君をリーダーと仰ぎ、この年の夏には、[[安驥泳]]らが閔氏政権を倒したうえで大院君の庶長子([[李載先]])を国王に擁立しようという[[クーデター]]計画が発覚している<ref name=kasuya231/><ref group="注釈">安驥泳と李載先はこの年のうちに刑死しており、大院君派の勢力は大きく後退した。[[#糟谷|糟谷(2000)p.231]]</ref>。
それに加え、当時朝鮮では財政難で軍隊への、当時は米で支払われていた給料(俸給米)の支給が13ヶ月も遅れていた。そして7月23日にやっと支払われた俸給米の中には、支給に当たった倉庫係が砂で水増しして、残りを着服しようとした為砂などが入っていた。これに激怒した守旧派の兵士達は倉庫係を暴行した後、倉庫に監禁した。一旦この暴動は収まったが、その後、暴行の首魁が捕縛され処刑されることとなった。そのため、再度兵士らが暴動を起こした。これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭である大院君の陰謀であった。


清朝間の宗属関係についてであるが、厳密には古代以来の冊封-朝貢体制における「属邦」と近代国際法における「属国」とは性格を異にしている。しかし、朝貢国として[[琉球王国|琉球]]を失うなど国際的地位の低下に危機感をつのらせた清朝は、日本や欧米諸国が朝鮮を清の属国とは認めないことを通達した事実を受け、最後の朝貢国となりつつあった朝鮮を近代国際法下での「属国」として扱うべく行動した<ref name=unno56/>。もともと宗属関係は藩属国の内治外交に干渉しない原則であったが、清国はこの原則を放棄して干渉強化に乗り出したのである<ref name=unno56/>。これは、近代的な支配隷属関係にもとづく権力の再構成であり、宗属関係の変質を意味していた<ref name=unno56/>。
== 事件の詳細 ==
=== 事件発生時の漢城の状況 ===
反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、貧民や浮浪者も加わった暴徒は別技軍の軍事教官であった堀本少尉や[[漢城府|漢城]]在住の日本人語学生等にも危害を加えた。また王宮たる[[昌徳宮]]に難を逃れていた閔妃の実の甥で別技軍教練所長だった[[閔泳翊]]は重傷を負い、閔妃一族を中心とした[[開化派]]高官達の屋敷も暴徒の襲撃を受け、[[閔謙鎬]]や[[閔台鎬]]、[[閔昌植]]など多数が虐殺された。


一方、[[富国強兵]]・[[殖産興業]]を[[スローガン]]に近代化を進める日本は、工業製品の販路として、また増え続ける国内人口を養う食糧供給基地として[[朝鮮半島]]を重視し、そのためには朝鮮が清国から政治的・経済的に独立していることが国益にかなっていた。
=== 日本公使館員の脱出行 ===
[[File:Flight of Japanese Legation 1882.jpg|thumb|400px|小舟で脱出した公使館員]]
以下の記述は公使館駐留武官だった水野大尉の報告<ref>国立公文書館アジア歴史資料センター「水野大尉筆記朝鮮事変ノ概況」レファレンスコード(A03023634400)</ref>を基にしている。


== 軍乱の発生 ==
朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は乱から逃れてくる在留日本人に保護を与えながら、自衛を呼びかける朝鮮政府に対して公使館護衛を強く要請した。しかし混乱する朝鮮政府に公使館を護衛する余裕は無く、暴徒の襲撃を受けた日本公使館は已む無く自ら応戦することになった。
=== 俸給米不正支給から暴動へ ===
[[ファイル:Heungseon Daewongun Portrait.jpg|180px|right|thumb|国王の父、興宣大院君]]
[[日清修好条規]]の締結により開国に踏み切った朝鮮政府は、開国5年目の[[1881年]]5月、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の中心となって日本と同様の近代的な軍隊の創設を目指した。近代化に対しては一日の長がある日本から軍事顧問として[[堀本禮造]]陸軍工兵少尉を招き、その指導の下、旧軍とは別に新式装備をそなえる新編成の「[[別技軍]]」を組織して西洋式の訓練をおこなったり、青年を日本へ留学させたりと開化政策を推進した<ref name=o56/>。別技軍には、日本が献納した新式小銃はじめ[[武器]]・[[弾薬]]は最新式のものが支給され、その隊員も[[両班]]の子弟が中心でさまざまな点で優遇されていた<ref name=unno50>[[#海野|海野(1995)pp.50-56]]</ref>。別技軍は、各軍営から80名の志願兵を選抜し、王直属の[[親衛隊]]である[[武衙営]]に所属させた<ref name=o56/>。


これに対し、旧軍と呼ばれた従来からの軍卒二千数百名は、旧式の[[火縄銃]]があたえられているのみで、大半は小部隊に分けられ各州に配備されていた<ref name=o56/>。彼らはなんら新しい装備も訓練も与えられことなく、別技軍とは待遇が異なり、また、しばしば差別的に扱われることに不満をつのらせていた<ref name=unno50/>。さらに、5営あった軍営が統廃合により2営(武衛営・壮禦営)となり、その多くがいずれは退役を余儀なくされていた<ref name=o56/>。それに加えて、当時朝鮮では財政難のため、当時は米で支払われていた軍隊への給料(俸給米)の支給が1年も遅れていた<ref name=o56/><ref name=unno50/><ref name=kokutei>[[#国定|『韓国の歴史-国定韓国高等学校歴史教科書(新版)』(2000)]]</ref>。[[1882年]]の夏は、朝鮮半島が大[[旱魃]]に見舞われ、[[穀物]]は不足し、政府の財源は枯渇していた<ref name=mc15>[[#マッケンジー|F・A・マッケンジー(1972)pp.15-26]]</ref>。
当日はなんとか自衛で凌いだ公使館員一行だったが、暴徒による放火によって公使館は窮地に陥っていた。朝鮮政府が護衛の兵を差し向けて来る気配は無く、また公使館を囲む暴徒も数を増しつつあったので、弁理公使の[[花房義質]]は公使館の放棄を決断。避難先を京畿観察使(首都治安担当者)の陣営と定めて花房公使以下28名は夜間に公使館を脱出した。


1882年[[7月19日]]、ようやく13か月ぶりに武衛・壮禦の両営兵士に支払われることになった俸給米はひと月分にすぎなかった<ref name=o56/>。しかし、支給に当たった[[宣恵庁]]の庫直([[倉庫]]係)が嵩増しした残りを着服しようとしたため、[[砂]]や[[糠]]、腐敗米などが混ざっていた<ref name=o56/><ref name=kasuya231/><ref name=kokutei/>。これに激怒した旧軍兵士は倉庫係を襲ってこれに暴行を加え、倉庫に監禁し、庁舎に投石した<ref name=o56/><ref name=kasuya231/><ref name=kokutei/>。ところが、この知らせを受けた担当官僚(宣恵庁堂上)であった[[閔謙鎬]]は首謀の兵士たちを捕縛して投獄し、いずれ死刑に処することを決定した<ref name=o56/><ref name=kasuya231/><ref name=kokutei/>。これに憤慨した各駐屯地の軍兵たちが救命運動に立ち上がったが、運動はしだいに過激化し、政権に不満をいだく貧民や浮浪者をも巻き込んでの大暴動へと発展していった<ref name=o56/>。民衆もまた、開港後の穀物価格の急騰に不満をつのらせていたのである<ref name=sasaki221>[[#佐々木|佐々木(1992)pp.221-224]]</ref>。かくして、[[7月23日]](朝鮮暦6月9日)、壬午軍乱が勃発した<ref name=o56/>。これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃し、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭の興宣大院君の教唆煽動によるものであった<ref name=unno50/><ref name=kokutei/><ref name=sasaki221/>。反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、途中からは別技軍も暴動に加わった<ref name=o56/>。
負傷者を出しながらも無事京畿観察使の陣営に至ることに成功したが、陣営内は既に暴徒によって占領されており、京畿観察使[[金輔鉉]]は既に殺害された後だった。公使館一行は次いで王宮へ向かおうとするが[[南大門]]は固く閉じられていて開かない。ついには[[漢城府|漢城]]脱出を決意し、[[漢江]]を渡って[[仁川府]]に保護を求めた。仁川府使は快く彼らを保護したが、夜半過ぎに公使一行の休憩所が襲撃される。襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっており、公使一行は仁川府を脱出、暴徒の追撃を受け多数の死傷者を出しながら[[済物浦]]から小舟で脱出した。その後、海上を漂流しているところを英国の測量船フライングフィッシュに保護された一行は長崎へと帰還することになる。


7月23日、兵士らは閔謙鎬邸を襲撃したのち、投獄中の兵士と衛正斥邪派の人びとを解放し、首都の治安維持に責任を負う[[京畿観察使]]の陣営と日本公使館を襲撃した<ref name=kasuya231/>。このとき、別技軍の軍事教官であった堀本少尉が殺害されている<ref name=kasuya231/>。翌[[7月24日]]、軍兵は下層民を加えて勢力を増し、官庁、閔妃一族の邸宅などを襲撃し、前[[領議政]](総理大臣)の[[李最応]]も邸宅で殺害された<ref name=kasuya231/>。さらに暴徒は王宮([[昌徳宮]])にも乱入し、軍乱のきっかけをつくった閔謙鎬、前宣恵庁堂上の[[金輔鉉 (政治家)|金輔鉉]]、[[閔台鎬]]、[[閔昌植]]ら閔氏系の高級官僚数名を惨殺した<ref name=kasuya231/>。このとき、閔妃は夫の高宗を置き去りにして王宮から脱出し、その日のうちに[[忠州]]方面へ逃亡した。王宮に難を逃れていた閔妃の[[甥]]で別技軍の教練所長だった[[閔泳翊]]は重傷を負った。
== 清国側の対応 ==
事変を察知した[[閔妃]]はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清国の[[袁世凱]]の力を借り窮地を脱した。事変を煽動した[[興宣大院君|大院君]]側は、閔妃を捕り逃がしたものの、[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]から政権を譲り受け、企みは成功したかに見えた。しかし、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された清国軍が漢城に駐留し、鎮圧活動を行った上で乱の首謀者と目される大院君を軟禁。これによって政権は閔妃一族に戻り、事変は終息した。以後、朝鮮の内政・外交は清国の代理人たる袁世凱の手に握られることになった。


軍兵たちは23日夕刻までに王宮を占拠し、国王からの要請という形式を踏んで大院君を王宮に迎え、かれを再び政権の座につけた<ref name=o56/>。
大院君は清に連行され査問会にかけられ、天津に幽閉された。それに対して高宗は「朝鮮国王李熙陳情表」<ref>「皇帝陛下の臣下であります私の心は震えています。実父は悪くありません。罪はみな臣であります私にあります。天下に善政をされる人倫の聖なる極みの皇帝陛下に伏して願います。実父を許してくださるなら、小国の私たちは感激して皇恩を永遠に称えます」</ref>を清国皇帝に提出し、大院君の赦免を陳情したが効無く、大院君の幽閉は3年間続き、帰国は駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共とだった。


当時の様子を、朝鮮滞在の[[ロシア帝国]]の官僚ダデシュカリアニは、以下のように書き記している<ref group="注釈">著者のダデシュカリアニはロシア帝国[[アムール州]]総督官房付で[[公爵]]。「朝鮮の現況」の初出は『アジア地理・地勢・統計資料集』(第22分冊、[[サンクトペテルブルク]]、[[1886年]]刊)</ref>。
== 日本側の対応 ==
事変によって多数の日本人が殺傷された日本政府は花房公使を全権委員として、[[高島鞆之助]][[陸軍少将]]及び[[仁礼景範]][[海軍少将]]の指揮する、[[軍艦]]5隻、[[歩兵第11連隊]]の1個[[歩兵]][[大隊]]及び[[海軍陸戦隊]]を伴わせ、朝鮮に派遣する。


{{quotation|
日本と朝鮮は[[済物浦条約]]を結び、日本軍による日本公使館の警備を約束し、日本は朝鮮に軍隊を置くことになった。
朝鮮は一瞬のうちに、凄まじい殺戮の舞台と化した。父親たちが子供たちに武器を向けたのである。ソウルでは8日間、無差別の流血が止まらなかった。当初は叛徒らが勝利を収めた。進歩派、ならびに当時ソウルに在住した外国人の双方を同時に敵としなくて済むように、彼らは先ず後者に襲いかかった。…(後略)<ref>[[#チャガイ|ダデシュカリアニ「朝鮮の現況」ゲ・デ・チャガイ編『朝鮮旅行記』p.110]]</ref>

}}
このことは、朝鮮は清の冊封国であるという姿勢の清を牽制する意味もあった。こうして、朝鮮半島で対峙した日清両軍の軍事衝突を避けることができたが、朝鮮への影響力を確保したい日本と、[[冊封体制]]を維持したい清との対立が高まることになり、やがてこの対立が[[日清戦争]]へと結びつくことになる。


暴徒は漢城在住の日本人語学生、[[巡査]]らも殺害した<ref name=o56/>。
== 殺害された日本人 ==
[[File:ImoIncident ToyoharaChikanobu (2).jpg|thumb|right|350px|公使館脱出を描いた[[豊原周延]]の木版画]]
殺害された日本人のうち公使館員等で朝鮮人兇徒によって殺害された以下の日本人男性は、[[軍人]]であると否とにかかわらず、戦没者に準じて[[靖国神社]]<ref name="horimoto"> 陸軍省 公文録・明治十五年・第百八巻・明治十五年九月~十一月 "故工兵中尉堀本礼造外二名并朝鮮国ニテ戦死巡査及公使館雇ノ者等靖国神社ヘ合祀ノ件"、 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A01100233700. 「同省朝鮮国日本公使館護衛隊ハ鎮守ニ等シキ勤労アルヲ以テ鎮戍ノ軍隊ニ准シ従軍年ニ加算セント請フ之ヲ允ス」</ref>に合祀されている。


=== 軍乱による日本人犠牲者 ===
=== 靖国神社合祀分 ===
[[ファイル:Imogullan1.jpg|thumb|right|380px|襲撃された日本公使館]]
[[ファイル:Japanese legation to Korea, c.1900.jpg|thumb|right|380px|漢城(現、ソウル)の日本公使館。1900年頃の撮影]]
[[ファイル:ImoIncident ToyoharaChikanobu (2).jpg|thumb|right|380px|公使館脱出を描いた[[豊原周延]]の木版画]]
殺害された日本人のうち公使館員等で朝鮮人兇徒によって殺害された以下の日本人男性は、[[軍人]]であると否とにかかわらず、戦没者に準じて[[靖国神社]]に合祀されている<ref group="注釈">陸軍省 公文録・明治十五年・第百八巻・明治十五年九月~十一月 "故工兵中尉堀本礼造外二名并朝鮮国ニテ戦死巡査及公使館雇ノ者等靖国神社ヘ合祀ノ件"、 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A01100233700. 「同省朝鮮国日本公使館護衛隊ハ鎮守ニ等シキ勤労アルヲ以テ鎮戍ノ軍隊ニ准シ従軍年ニ加算セント請フ之ヲ允ス」</ref>。合祀された人びとの氏名・年齢等は以下の通りである。
;堀本禮造 :[[少尉|陸軍工兵少尉]](戦死により[[中尉|陸軍工兵中尉]]に昇進される)。
;堀本禮造 :[[少尉|陸軍工兵少尉]](戦死により[[中尉|陸軍工兵中尉]]に昇進される)。
;水島義 :日本公使館雇員
;水島義 :日本公使館雇員
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;岡内格 :23歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月6日靖国神社合祀)
;岡内格 :23歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月6日靖国神社合祀)


靖国神社[[遊就館]]では、事変で[[殉職]]した英霊の顕彰が行われており、壬午事変時に日本公使館に掲げられていた[[日章旗]]が併せて展示されている。
=== 遊就館における顕彰 ===
靖国神社[[遊就館]]では、事変で殉職した英霊の顕彰が行われており、壬午事変時に日本公使館に掲げられていた日の丸が併せて展示されている。


=== 日本公使館員の脱出 ===
== 軍乱に対する処罰 ==
[[ファイル:Flight of Japanese Legation 1882.jpg|thumb|380px|小舟で朝鮮を脱出した花房はじめ公使館員]]
大院君は清に連行され、[[李鴻章]]による査問会の後、[[天津市|天津]]に幽閉された([[1882年]][[8月]])。
漢城の日本公使館駐留武官だった水野大尉の報告などによると、暴徒に包囲された公使館員たちの脱出行は以下のとおりである<ref name=asia>国立公文書館アジア歴史資料センター「水野大尉筆記朝鮮事変ノ概況」レファレンスコード(A03023634400)</ref>。


朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は乱から逃れてくる在留日本人に保護を与えながら、自衛を呼びかける朝鮮政府に対して公使館の護衛を強く要請した。しかし混乱する朝鮮政府に公使館を護衛する余裕はなく、暴徒の襲撃を受けた日本公使館はやむを得ず自ら応戦することになった<ref name=asia/>。蜂起当日はなんとか自衛でしのいだ公使館員一行だったが、暴徒による放火によって避難を余儀なくされた。朝鮮政府が護衛の兵を差し向けてくる気配はなく、また公使館を囲む暴徒も数を増しつつあったので、弁理公使の[[花房義質]]は公使館の放棄を決断<ref name=asia/>。避難先を京畿観察使営と定め、花房公使以下28名は夜間に公使館を脱出した<ref name=asia/>。
「大逆不道罪」で、官吏である[[鄭顕徳]]・[[趙妥夏]]・[[許焜]]・[[張順吉]]、儒学者の[[白楽寛]]、[[金長孫]]・[[鄭義吉]]・[[姜命俊]]・[[洪千石]]・[[柳朴葛]]・[[許民同]]・[[尹尚龍]]・[[鄭双吉]]は[[凌遅刑]]により処刑され、遺体は3日間晒された。なお、その家族一族郎党も斬首刑となった(1882年[[10月]])。


負傷者を出しながらも無事に京畿観察使の陣営に至ることに成功したが、陣営内はすでに暴徒によって占領されており、京畿観察使金輔鉉はすでに殺害されていた。公使館一行は次いで王宮へ向かおうとするが[[南大門]]は固く閉じられていて開かなかった<ref name=asia/>。王宮の守備隊長はかれらに退去を命じたという<ref name=mc15/>。
== 関連記事 ==
* [[済物浦条約]]
* [[甲申政変]]
* [[義兵]]


花房らはついに[[漢城府|漢城]]脱出を決意し、[[漢江]]を渡って[[仁川府]]に保護を求めた。仁川府使は快く彼らを保護したが、夜半過ぎに公使一行の休憩所が襲撃され、一行のうち5名が殺害された<ref name=mc15/><ref name=asia/>。襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっており、公使一行は仁川府を脱出、暴徒の追撃を受け多数の死傷者を出しながら[[済物浦]]から小舟([[漁船]])で脱出した<ref name=asia/>。その後、海上を漂流しているところを[[イギリス]]の測量船フライングフィッシュ号に保護され、[[7月29日]]、[[長崎]]へと帰還することができた<ref name=asia/>。
==参考文献及び外部リンク==

* 明治百年史叢書 第285巻、 日韓外交史料第2巻 壬午事変 (編集:市川正明)(原書房)
=== 閔妃の逃亡 ===
* 『近世朝鮮史』(著 [[林泰輔]]著) (早稲田大学出版部) 1900年
王宮に乱入した暴徒は誰もがみな、閔妃は大院君の指図によって毒殺されたものと思っていた<ref name=mc15/>。しかし、実際には閔妃は暴徒乱入の報に接するやすぐに用意をととのえ、それに対応していた。一人の[[侍女]]が閔妃のいる部屋で[[毒薬]]を飲んで自殺し、みずからは隠密裏に自室を脱出したのである<ref name=mc15/>。下僕の一人が彼女を背にして怒り狂う暴徒の群れのなかをかき分け、途中、会う人ごとに詰問されたが、下僕は必ず「自分はとるに足らない下っ端であるが、この騒動から自分の妹を連れ出すところだ」と応答してこの災難をくぐりぬけた<ref name=mc15/>。閔妃はこうして漢城市内の私邸に到着、そこから[[駕籠]]で[[忠州]]([[忠清北道]])付近の僻村へと逃亡、同地に隠れ住んだ<ref name=unno50/><ref name=mc15/>。なお、このとき閔妃を運んだ駕籠かきの一人が、水運びを生業とする貧しい庶民の出身で、のちに政治家として活躍する[[李容翊]]である<ref name=mc15/>。
:: 保護期間満了につき[http://kindai.ndl.go.jp/index.html 国会図書館デジタルライブラリー]で全文を見ることができる。

* [http://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター]
=== 大院君政権の復活 ===
詳細な[[1次資料]]は[[アジア歴史資料センター]]で閲覧可能。
9年ぶりに政権の座についた興宣大院君は、復古的な政策を一挙に推進した(第2次大院君政権)<ref name=o56/>。[[統理機務衙門]]を廃し、3軍府の復活を復活して旧来の5軍営にもどしたほか、両営・別技軍を廃止した<ref name=o56/><ref name=kasuya231/>。そして、閔氏とその係累を政権から追放する一方、閔氏政権によって流罪に処せられていた衛正斥邪派の人びとを赦免し、また[[監獄]]にあった者の身柄を解放して、みずからの腹心を要職に就けた<ref name=o56/><ref name=kasuya231/>。

== 日清両国の対応 ==
日清両国はそれぞれ以下に詳述するように[[軍艦]]・兵士を派遣して軍乱に対応した。[[アメリカ合衆国]]もまた軍艦を派遣した<ref name=o227/>。

=== 日本側の対応 ===
[[ファイル:Yoshimoto Hanabusa.JPG|150px|right|thumb|在朝日本公使館弁理公使だった花房義質]]
[[ファイル:KaoruM13.jpg|150px|right|thumb|外務卿、井上馨]]
長崎に帰着した花房公使はただちに外務卿[[井上馨]]に事件発生を伝えた<ref name=unno50/>。政府はさしあたって事実経過の調査、謝罪・賠償要求のため花房公使を全権委員に任命し、居留民保護のため軍艦を派遣することとし、井上外務卿が[[山口県]][[下関市|下関]]へ出向いて指揮をとることとした<ref name=unno50/>。

一方、日本国内では朝鮮に対する即時報復説が台頭した<ref name=mc15/>。国内各地から[[義勇兵]]志願者が殺到し、朝鮮におもむいて暴虐きわまりない「野蛮人ども」と戦うことを許可するよう強く求めた<ref name=mc15/>。また、国民一般による署名嘆願運動には日本人のみならず外国人商人も少なからず参加した<ref name=mc15/>。

日本政府は、花房公使に朝鮮政府との交渉を命じ、
:1.朝鮮政府の公式謝罪
:2.被害者遺族への扶助料支給
:3.犯人および責任者の処罰
:4.損害賠償
:5.朝鮮軍による公使館警備
:6.朝鮮政府に重大責任あるばあいは[[巨済島]]または[[鬱陵島]]の割譲
:7.朝鮮政府が誠意を示さないばあいは仁川を占領し後命を待つこと
などを訓令し<ref name=unno50/>、軍艦と兵士を率いさせて朝鮮に派遣した<ref name=o56/>。

やがて訓令には
:8.[[咸興市|咸興]]、[[大邱広域市|大邱]]、および漢城近郊[[楊花津]](現、ソウル特別市[[麻浦区]])の開市
:9.外交使節の内地旅行権
:10.通商条約上の権益拡大
が付け加えられた<ref name=unno50/>。また、先遣隊として軍艦2隻と[[輸送船]]1隻を派遣し、近藤真鍬書記官らと陸軍兵300名を輸送させた<ref name=unno50/>。

[[8月5日]]、駐日清国公使は日本政府に対し清国政府による派兵をともなう[[調停]]を伝えたが、外務卿代理の[[吉田清成]]は、再三、「自主ノ邦」たる朝鮮と日本の問題は条約にもとづいて解決すべきものとして介入を謝絶した<ref name=unno50/>。それに対し、清国側は朝鮮は清の属国であるから介入は当然と主張した<ref name=unno50/><ref group="注釈">日本政府の法律顧問だった[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]は、日本は朝鮮を[[独立国]]として認めたのだから日朝間交渉に清国を介入させるべきではないが、清国はみずからの論理で介入すること必至であるから、清国政府が照会する前に日本政府は朝鮮政府に要求を申し入れておく必要があると助言した。[[#海野|海野(1995)p.53]]</ref>。

[[8月13日]]、公使花房全権は[[工部省]]の[[汽船]]「明治丸」で済物浦に入港した<ref name=unno50/>。先遣隊に後続を加えると、軍艦4隻、輸送船3隻、陸軍歩兵1個大隊の千数百名が仁川周辺に集結していた<ref name=o56/><ref name=kasuya231/><ref name=unno50/>。[[日本陸軍|陸軍]]の指揮官は[[高島鞆之助]][[陸軍少将]]、[[日本海軍|海軍]]を率いたのは[[仁礼景範]][[海軍少将]]であった。

[[8月16日]]、仁川府に着いた花房公使は2個中隊を率いて軍乱で破壊されたままの漢城に入京し、昌徳宮に進路をとって王宮内で高宗に謁見、さらに大院君と会見した<ref name=o56/><ref name=unno50/>。このとき、日本政府の要求7項目を記した冊子を領議政の[[洪純穆]]に手渡した<ref name=unno50/>。朝鮮政府が即答を避けたため、回答期限を3日後としたが、日本の[[賠償金]]要求50万円は当時の朝鮮政府にはきわめて高額で工面が困難だったこともあって、領議政の急務を理由に回答の延期を通告してきた<ref name=o56/><ref name=unno50/>。これは、大院君が日本の要求を突き返すよう政府に命じたともいわれている<ref name=o56/>。

[[8月23日]]、花房全権は朝鮮側の約束違反を難詰したうえで護衛兵を率いて漢城を出発、仁川に引き上げて、そこで軍備をととのえた<ref name=o56/><ref name=unno50/>。翌[[8月24日]]には仁川において[[馬建忠]]と会見している(詳細後述)。

=== 清国側の対応 ===
[[ファイル:MaJianzhong.jpg|170px|right|thumb|軍乱収拾のために酷暑のなかを精力的に活動した馬建忠]]
清国政府が軍乱発生の報を最初に受けたのは、[[8月1日]]、[[東京]]在住の清国公使[[黎庶昌]]からの[[電報]]によってであった<ref name=o56/><ref name=unno50/>。[[李鴻章]]は生母死去の服喪中だったため、北洋大臣代理職にあった[[張樹声]]が、[[天津]]に滞在していた朝鮮官僚[[金允植]]と[[魚允中]]に事件の経緯を伝え、両名に意見を尋ねた<ref name=o56/><ref name=unno50/>。金と魚は閔氏政権の開化派官僚であった<ref name=o56/>。ふたりは、事件が国王高宗の開国政策に反対する守旧派勢力の[[クーデター]]であると推断したうえで、日本軍と反乱軍が衝突する怖れがあるとし、また、日本がこの機会に朝鮮進出をはかるだろうと訴えて、張に清国の派兵と日朝間の調停を要請した<ref name=o56/><ref name=kasuya231/><ref name=unno50/>。

[[ファイル:Di Ruchang.jpg|120px|left|thumb|北洋水師提督、丁汝昌]]
張樹声はただちに北洋水師提督の[[丁汝昌]]に出動準備を命じ、[[上海]]滞在中の[[馬建忠]]を外交交渉役として呼び寄せた<ref name=o56/><ref name=unno50/>。[[8月7日]]、清国皇帝[[光緒帝]]によって「派兵して保護すべし」の命令が下った<ref name=unno50/>。これは、藩属国たる朝鮮の保護のみならず、朝鮮で被害を受けた日本をも保護せよというものであった<ref name=unno50/>。

丁汝昌の率いる[[北洋艦隊]]の軍艦3隻(「[[威遠]]」「[[超勇]]」「[[揚威]]」)は、馬建忠と魚允中を乗せて[[山東省]][[芝罘]](現、[[煙台市]])を出港、[[8月10日]]には済物浦に入港した<ref name=o56/><ref name=unno50/><ref name=kasuya231/>。仁川入りした馬建忠は情報収集にあたるとともに日朝両国の要人と非公式に接触し、清国政府に対しては兵員の増派を上申した<ref name=unno50/>。これにより、[[8月20日]]、[[広東艦隊|広東総督]]の[[呉長慶]]が3,000名の兵を率い、3隻の軍艦に護衛されて済物浦の南方約40キロメートルの馬山浦([[京畿道]]の[[南陽湾]]沿岸に所在。[[慶尚南道]]の[[馬山市|馬山]]とは異なる)に到着した<ref name=o56/><ref name=kasuya231/><ref name=unno50/>。

馬建忠は漢城へ向かい、清国軍もその後から漢城に進駐して日本軍を圧倒する兵力を配置した<ref name=o56/><ref name=unno50/>。[[8月24日]]には朝鮮との戦争も辞せずの構えをとっていた仁川の花房全権公使をおとずれて意見交換をおこない、翌[[8月25日]]の再度の会見では花房から朝鮮全権との再協議に応ずるという確約を引き出した<ref name=o56/><ref name=unno50/>。日本が清国の調停を受けたのは、それを拒否すれば清国軍との衝突も覚悟しなければならなかったためと考えられる<ref name=o56/>。また、このとき、ふたりの間で大院君排除の問題が話されたかどうかは不明であるが、開国政策を妨害する大院君を政権から取り除くべきという一点において、日清両国は共通の立場に立ちえたものと考えられる<ref name=unno50/>。

[[8月26日]]、漢城へ戻った馬建忠は丁汝昌・呉長慶と協議し、日朝再協議の実現のためには大院君を排除するしかないとの結論に達した<ref name=o56/>。彼らはその旨を、魚允中を通して高宗に伝えた<ref name=o56/>。

== 軍乱の収束 ==
=== 大院君拉致事件 ===
軍乱発生から約1か月断った1882年[[8月26日]](朝鮮暦7月13日)、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された漢城駐留の清国軍によって大院君拉致事件が起こった<ref name=unno50/>。大院君の排斥と国王の復権という基本方針は張樹声の指示によるものと考えられるが、大院君の軟禁は馬建忠・丁汝昌・呉長慶の3名によって計画されたものであった<ref name=unno50/>。朝鮮王宮はじめ漢城の城門は清国兵によって固められ、清国軍はおびき出された大院君を捕捉して南陽湾から[[河北省]][[天津市|天津]]へと連行した<ref name=unno50/>。連行理由は、清国皇帝が[[冊封]]した朝鮮国王をしりぞけて政権をみずから奪取するのは国王を裏切り、皇帝を蔑ろにする所行であるというものである<ref name=unno50/>。

清国軍はまた、漢城府東部の[[往十里]]、南部の[[梨泰院]]を攻撃して反乱に参加した兵士や住民を殺傷した<ref name=kasuya231/>。こうして、政権は国王高宗と忠州から戻った閔妃の一族に帰し、事変は終息した。

=== 日朝の再協議と済物浦条約 ===
[[ファイル:ChemulpoTreaty45.jpg|180px|right|thumb|済物浦条約(複写) 償金50万円について定めた第四款と軍員の駐留について定めた第五款]]
{{See also|済物浦条約}}
[[8月26日]]の大院君拉致事件ののち、高宗・閔氏の政権が復活し、済物浦の花房義質全権公使のもとへ朝鮮政府から謝罪文が送られた。これは清国の馬建忠の斡旋によるものであった<ref name=kasuya231/>。花房はこれを受け入れ、日本軍艦[[金剛 (コルベット)|金剛]]艦上での交渉再開を約束した。しかし、高宗・閔氏の政権は外交的には馬建忠に依存せざるをえなかった<ref name=unno56/>。[[8月28日]]夜、朝鮮全権大臣[[李裕元]]、副官[[金弘集 (政治家)|金宏集]]らは済物浦に停泊中の金剛をおとずれ、交渉をはじめた<ref name=unno56/>。交渉は、この日と翌日(29日)にかけて集中的におこなわれ、1882年[[8月30日]](朝鮮暦7月17日)、6款より成る[[済物浦条約]]を調印した。このような短時間で交渉が成立したのは馬建忠が日朝双方に事前に根回しをしていたからである<ref name=unno56/>。一方、この交渉の結果、[[日朝修好条規]]([[1876年]]締結)の追加条項としての同条規続約が調印された<ref name=unno56/>。

軍乱を起こした犯人・責任者の処罰、日本人[[官吏]]被害者の[[慰霊]]、被害遺族・負傷者への見舞金支給、朝鮮政府による公式謝罪、日本外交官の内地旅行権などについては、日本側原案がほぼ承認された<ref name=unno56/>。[[開港場]]遊歩地域の拡大(内地旅行権および内地[[通商|通商権]])に関しては、朝鮮側の希望を若干容れて修正された<ref name=unno56/>。朝鮮側が最も反対していた50万円の[[賠償金]]と公使館警備のために朝鮮に軍隊一個大隊を駐留させる権利については、花房公使の強硬な姿勢により、文言の修正と但し書きの挿入程度にとどまり、基本的に日本側の要求が容認された<ref name=unno56/><ref name=sasaki221>[[#佐々木|佐々木(1992)pp.221-224]]</ref><ref name=makihara278>[[#牧原|牧原(2008)pp.278-286]]</ref><ref group="注釈">朝鮮側が日本案にあった「賠償」という文言に強く反発したため「補填」の文言に改めた(日本政府が決算した本事件の出兵経費は81万2620円43銭であった)。補填金50万円は、のちに朝鮮財政の困窮を理由に10万円×5年払いを5万円×10年払いとしたが完納されず、1884年に日本側が残額を寄贈するという形式をとって帳消しとなった。結局、領収額は10万円(寄贈額は40万円)ということになった。</ref>。全体的にみれば、日本側の要求がほぼ受け入れられた内容となった<ref name=unno56/><ref name=sasaki221/><ref group="注釈">民間人の内地旅行・通商権は当初開港場より20キロメートル以内であったが、2年後の1884年には40キロメートル以内に拡大された。[[#糟谷|糟谷(2000)p.232]]</ref>。

済物浦条約の締結に際して清国は、そのなかみについて特に深く介入したわけではなかった<ref name=sasaki221/>。むしろ、大院君を朝鮮王宮から連れ去ったことによって日本側に優位な交渉条件を準備したともいえる<ref name=sasaki221/>。このとき清国は、[[ベトナム]]をめぐって[[フランス]]との緊張が強いられていたので、日本と徹底して事を構えるつもりはなかった。日本もまた、外務卿[[井上馨]]の基本方針は対清協調、対朝親和というものであり、在野の知識人もまた日清朝の三国提携論が優勢であった<ref name=sasaki221/>。花房公使は調印後の[[9月2日]]、井上外務卿あてに「大満足にまで条約を締結せり」と報告の[[電報]]を打電した。

なお、済物浦条約は[[批准]]を必要としなかったが、[[日朝修好条規続約]]の方は批准を要し、この年の[[10月30日]]、[[明治天皇]]によって批准がなされている<ref name=unno56/><ref group="注釈">批准書の交換は1882年[[10月31日]]、軍乱の謝罪特使として来日していた朝鮮国全権大使兼朴泳孝、副大臣[[金晩植]]と井上馨外務卿のあいだで取り交わされた。[[#海野|海野(1995)p.57]]</ref>。

=== 開国・開化方針の確認 ===
1882年[[9月13日]]、清の幼帝[[光緒帝]]は大院君の[[河北省]]拘留と[[呉長慶]]麾下の将兵3,000名の漢城駐留の命を下した<ref name=unno56/>。清国が軍事力を背景に宗主権の強化再編に乗り出したのである<ref name=unno56/><ref name=kasuya232>[[#糟谷|糟谷(2000)pp.232-235]]</ref>。清にすがって国内を統治しようとする閔氏政権の親清政策もこれを助けたが、従来の宗属関係は藩属国の内治外交には干渉しない建前だったので、これは両国を近代的な宗属関係に変質させる意味合いをもっていた<ref name=unno56/>。

[[9月14日]](朝鮮暦8月5日)、[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]は教書を下し、開国・開化を国是とすること、「東道西器」すなわち道徳は東洋の伝統を保持し「邪教」([[キリスト教]])を排斥するものの西洋の「器」([[技術]]、[[軍事]]、[[制度]])は学ぶべきことを明示し、国内の[[斥洋碑]]の撤去を命じた<ref name=kasuya232/>。ただ、開化の方向性は明確になったものの、河北省[[天津]]訪問中の[[趙寧夏]]・[[金弘集 (政治家)|金宏集]]が改革案『善後六策』を李鴻章に示して、その意見を求めるなど、この開化策は清国に大きく依存したものとなった<ref name=kasuya232/>。

=== 中朝商民水陸貿易章程の締結 ===
{{See also|中朝商民水陸貿易章程}}
[[ファイル:Li Hung-Chang, 1871.jpg|180px|right|thumb|1871年頃の李鴻章]]
[[ファイル:Yuan Shikai as governor of shandong.jpg|150px|right|thumb|1900年頃の袁世凱]]

1882年[[10月4日]](朝鮮暦9月12日)、清国と朝鮮は天津において[[中朝商民水陸貿易章程]]を締結した。清国側は[[北洋大臣]][[李鴻章]]のほか[[周馥]]と馬建忠が、朝鮮側は兵曹判書の趙寧夏と金宏集、魚允中がこれに署名した<ref name=unno56/>。この章程は両国間で締結された近代的形式を踏んだ[[条約]]としては最初のものであった<ref name=unno56/>。しかし、その内容は清の朝鮮に対する[[宗主権]]を明確にしたものであり、清による属国支配を実質化するものであった<ref name=unno56/><ref name=makihara278/><ref name=mitani48>[[#三谷|三谷(2016)p.48]]</ref><ref name=namikinoue221>[[#並木井上|並木・井上(1997)p.221]]</ref>。

中朝商民水陸貿易章程は、両国が対等な立場で結んだ[[条約]]ではなく、[[中国帝王一覧#清(後金)|清国皇帝]]が臣下である[[朝鮮国王]]に下賜する[[法令]]であるとされ、その前文において旧来の[[朝貢]]関係が不変であることを再確認し、この貿易章程が中国の属邦を特に「優待」するものであり、それぞれの国が等しく潤うものではないとされた<ref name=unno56/><ref name=kasuya232/><ref name=harada87>[[#原田|原田(2005)p.87]]</ref>。言い換えれば、これは宗属関係に由来する独自の規定であり、他の諸外国は[[最恵国待遇]]をもってしても、この貿易章程上の利益にあずかることができないとされたのである<ref name=unno50/><ref name=kasuya232/>。清国は属国朝鮮に「恩恵」を施す存在であると明記されたが<ref name=harada87/>、清にのみ[[領事裁判権]]が与えられ、[[原告]]が[[中国人]]で[[被告]]が[[朝鮮人]]の場合には審理に清国商務委員がくわわることができるという不平等条項を含んでいた<ref name=unno56/><ref name=kasuya232/>。また、第一条では清国の北洋大臣が朝鮮国王と同格であることが明確に規定された<ref name=namikinoue221/>。

貿易章程では、朝鮮人が[[北京]]で[[倉庫|倉庫業]]・[[運送業]]・[[問屋|問屋業]]を[[店舗]]営業できる代わりに、清国人は漢城や楊花津で同様の店舗経営ができるものとした<ref name=unno56/><ref name=kasuya232/>。さらに、朝鮮内地で物資を仕入れ購入する権利もあたえられた<ref name=kasuya232/>。これらは諸外国が朝鮮とむすんだ通商条約にはない規定であり、したがって貿易章程における「属邦優待」とは、清国が朝鮮貿易上の特権を排他的に独占し、清国の内治通商支配を基礎づけるものであった<ref name=unno56/>。なお、のちに清国は[[1884年]][[2月]]、同章程第4条を改訂して朝鮮の内地通商権をさらに広げている<ref name=namikinoue221/>。

貿易章程の結ばれた1882年10月、天津滞在中の趙寧夏は軍乱後の政策について李鴻章の指導を仰ぎ、朝鮮政府が外交顧問として招聘すべき人材の推薦を依頼した<ref name=unno56/>。李鴻章が推薦したのは[[ドイツ人]]の[[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ]](穆麟德、元天津・[[上海]]副領事)と馬建忠の兄[[馬建常]](元[[神戸]]・[[大阪]]領事)であった<ref name=unno56/><ref name=o66>[[#呉|呉(2000)pp.66-78]]</ref>。2人はこの年の12月に帰国した趙寧夏とともに漢城入りし、[[12月27日]]、高宗に謁見した<ref name=unno56/><ref group="注釈">メレンドルフは、朝鮮国王が召見した最初のヨーロッパ人となった。[[#海野|海野(1995)p.58]]</ref>。

また、朝鮮政府より軍隊養成と軍制改革を依頼された呉長慶は、当時頭角をあらわしつつあった若干23歳の野心家[[袁世凱]]に命じてこれを担当させた<ref name=unno56/>。朝鮮に派遣された袁は朝鮮の[[指揮 (軍事)|軍事権]]を掌握し、1年半後には彼のもとで養成された2,000名の新式陸軍が誕生した<ref name=unno56/>。

こうして[[経済]]面のみならず、[[軍事]]・[[外交]]の面でも清国は朝鮮への介入を強め、近代的な支配隷属関係への質的移行を示すようになった<ref name=unno56/>。

=== 反乱軍の処罰 ===
1882年10月、「大逆不道罪」によって、[[鄭顕徳]]・[[趙妥夏]]・[[許焜]]・[[張順吉]]らの官吏、また、[[白楽寛]]・[[金長孫]]・[[鄭義吉]]・[[姜命俊]]・[[洪千石]]・[[柳朴葛]]・[[許民同]]・[[尹尚龍]]・[[鄭双吉]]らの[[儒家|儒学者]]は[[凌遅刑]]により処刑され、遺体は3日間晒された。また、その一族等も[[斬首]]刑に処せられた。

== 軍乱の影響 ==
=== 朝鮮 ===
[[ファイル:Okkyun.jpg|150px|right|thumb|独立党のリーダーとして活躍した金玉均]]
軍乱の結果、閔氏政権は清国への傾斜を強めて事大主義的な姿勢を鮮明にし、清国庇護のもとでの開化政策という路線が定まった<ref name=makihara278/>。その結果、今まで攘夷主義と敵対してきた開化派が、清国重視のグループと日本との連携を強化しようとするグループに分裂した<ref name=makihara278/>。朝鮮を開国に踏み切らせた日本であったが、中朝商民水陸貿易章程によって空洞化され、朝鮮政府に対する影響力はその分減退した<ref name=o66/>。金宏集([[金弘集 (政治家)|金弘集]])、[[金允植]]、[[魚允中]]らは清国主導の近代化を支持し、閔氏政権との連携を強めた<ref name=o66/>。一方、済物浦条約の規定によって1882年10月に謝罪使として日本に派遣された[[朴泳孝]]特命全権大使、[[徐光範]]従事官、[[金玉均]]書記官らは、いずれも日本との結びつきを強めた<ref name=sasaki221/>。かれらは12月まで日本に滞在し、[[福沢諭吉]]ら多くの日本の知識人と交誼を結んで海外事情や新知識を獲得していった<ref name=sasaki221/>。また、大院君勢力の一掃によって、朝鮮で攘夷主義的な政策の復活は閉ざされたが、民衆レベルではむしろ[[東学]]の浸透など宗教性を帯びて深く根をおろしていった。

閔氏政権は清国の制度にならった政治改革をおこない、外交・通商を担当する[[統理交渉通商事務衙門]]と内政・軍務を担当する[[統理軍国事務衙門]]を設置した<ref name=o66/>。また、朝鮮は清国軍3,000名、日本軍200名弱の首都駐留という新しい事態を引き受けざるを得なくなったが、日本軍の規律は秩序立ったものであったのに対し、清国軍は漢城各所でしばしば[[掠奪]]・暴行をはたらき、市民に被害が生じたと記されている<ref name=o66/>。

壬午軍乱当時、忠州にかくまわれていた閔妃は軍乱収束後王宮にもどったが、その際ひとりの[[巫女]]をともなっていた<ref name=o66/>。巫女は卑賎の出身であったが、閔妃の王宮帰還を予言するなどして閔妃の歓心を得て宮廷の賓客として遇されたものである<ref name=o66/>。閔妃はこの巫女を厚く崇敬して毎日2回の[[祭祀]]を欠かさず、一族や高官にもこれを勧めたため、やがてこれにかかる費用は莫大なものとなった<ref name=o66/>。また、各地の宗教者も集まって王宮を占拠するような状態となり、売官がまたもはびこって国内統治はいっそう混迷の度を深めた<ref name=o66/>。

=== 清国 ===
清国は、親日派勢力を排除して朝鮮半島への干渉を強め、朝鮮に対する宗主国の権勢を取り戻して近代的な属国支配を強めた<ref name=un22>[[#海野2|海野(1992)pp.22-24]]</ref>。従来、朝鮮の内政には関与しなったが、清国側とすれば[[台湾]]・琉球・朝鮮に対する日本の攻勢に対抗したものであり、日朝修好条規を空洞化させて朝鮮を勢力圏に取り込む姿勢を明らかにしたのである<ref name=makihara278/>。李鴻章は北洋大臣として朝鮮国王と同格の存在となり、朝鮮の内政・外交は李鴻章とその現地での代理人たる袁世凱の掌握するところとなった。大院君は李鴻章による査問会ののち天津に幽閉され、高宗は査問会において「朝鮮国王李熙陳情表」を清国皇帝あてに提出して大院君赦免を陳情したが効なく、その幽閉は3年間続いた<ref group="注釈">高宗が提出した「朝鮮国王李熙陳情表」の内容は以下の通り。
{{quotation|
皇帝陛下の臣下であります私の心は震えています。実父は悪くありません。罪はみな臣であります私にあります。天下に善政をされる人倫の聖なる極みの皇帝陛下に伏して願います。実父を許してくださるなら、小国の私たちは感激して皇恩を永遠に称えます。
}}</ref>。

=== 日本 ===
[[ファイル:Imogullan2.gif|380px|right|thumb|日本公使館が襲撃された場面を描いた錦絵]]
日本では、軍乱を描いた多数の[[錦絵]]・小冊子が刊行され、同胞が暴徒によって殺害された衝撃はひろく国民に[[ナショナリズム]]の反応を引き起こした<ref name=makihara286>[[#牧原|牧原(2008)pp.286-289]]</ref>。日清修好条規によって朝鮮を開国させた日本であったが、この軍乱では清国の機敏な動きに後れをとり、清国に対し軍事的に劣位にあることが痛感されたため、以後、[[山県有朋]]らを中心に軍拡が強く唱えられることとなった<ref name=un44>[[#海野2|海野(1992)pp.44-46]]</ref><ref name=sasaki227>[[#佐々木|佐々木(1992)pp.227-229]]</ref>。1882年は近代日本における軍備拡張の起点といわれており、この年の[[11月24日]]、[[明治天皇]]は宮中謁見所に地方長官を召集して軍備拡張と租税増徴の[[勅諭]]を述べた<ref name=un44/>。以後、大蔵卿[[松方正義]]による緊縮財政・[[デフレ]]政策にもかかわらず、あえて増税が進められ、[[1883年]]は前年比[[軍事費]]を大幅に増加させた<ref name=makihara278/><ref name=sasaki227/><ref name=sasaki302>[[#佐々木|佐々木(1992)pp.302-305]]</ref><ref group="注釈">軍事費の伸びは1882年-1883年が大きかったが、軍人の数は1884年-1885年の伸びが大きかった。後者は、甲申政変における日本の不首尾が契機となっている。[[#佐々木|佐々木(1992)p.303]]</ref>。増税については、政府は国民とくに民権派が動いて「騒然たる景況」となることを強く警戒したものの、民権派の大半は必ずしも軍拡に反対しなかった<ref name=makihara278/><ref name=sasaki227/>。

日清朝三国提携を模索する意見の多かった言論界でも変化がみられた。1882年[[12月7日]]『[[時事新報]]』社説「東洋の政略果して如何せん」において福沢諭吉は「我東洋の政略は支那人の為に害しられたり」と述べ、清国は日本が主導すべき朝鮮の「文明化」を妨害する正面敵として論及されるようになった<ref name=un22/>。このような状況を打開すべく、福沢は金玉均ら独立党の勢力挽回に期待をかけたのである<ref name=un22/><ref group="注釈">ただし、全体的にみれば民権派の新聞は、この時点では比較的冷静で、朝鮮の攘夷主義者に対してもかれらは愛国者だから必ずや清国に対して抵抗するだろうと期待したり、清国との連携を深めてロシアに対抗すべきだという見解も多くみられた。[[#牧原|牧原(2008)p.288]]</ref>。

=== 東アジア国際情勢 ===
日朝間で結ばれた済物浦条約は、朝鮮をあくまでも属国として支配しようとする清国を牽制する意味合いもあり、朝鮮半島で対峙する日清両軍の軍事衝突をひとまず避けることはできたが、一方では朝鮮への影響力を確保したい日本と属国支配を強めたい清国との対立は、以後さまざまなかたちで継続し、やがて、[[甲申事変]]や[[日清戦争]]へとつながっていった。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
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:: 保護期間満了につき[http://kindai.ndl.go.jp/index.html 国会図書館デジタルライブラリー]で全文を閲覧することができる。

=== 論文 ===
*{{Cite book|和書|author=[[三谷博]]|date=2016-01|title=グローバル化への対応-中・日・韓三国の分岐-|publisher=[[統計研究会]]『学際』第1号|url=http://www.isr.or.jp/TokeiKen/pdf/gakusai/1_05.pdf|ref=三谷}}
*{{Cite book|和書|author=[[原田環]]|date=2005-06|title=東アジアの国際関係とその近代化-朝鮮と-|publisher=[[日韓歴史共同研究]]報告書(第1期)|url=http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/02-0j_harada_j.pdf|
ref={{Harvid|原田|2005}}}}

== 関連項目 ==
{{commonscat|Imo Incident}}
* [[済物浦条約]]
* [[中朝商民水陸貿易章程]]
* [[甲申政変]]
* [[義兵]]

== 外部リンク ==
* [http://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター]([[国立公文書館]]・[[アジア歴史資料センター]]のデジタルアーカイブ。詳細な[[一次資料]]の閲覧が可能)

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2017年3月18日 (土) 08:06時点における版

壬午軍乱
朝鮮反乱軍に襲撃される花房義質公使一行(楊洲周延錦絵
各種表記
ハングル 임오군란
漢字 壬午軍亂
発音 イモグルラン
日本語読み: じんごぐんらん
ローマ字 Imo gullan
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壬午軍乱(じんごぐんらん) または 壬午事変(じんごじへん) は、1882年明治15年)7月23日(旧暦では光緒8年=高宗19年6月9日)、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現、ソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。

朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とする閔氏政権は、開国後、日本の支援のもと開化政策を進めたが、財政出費がかさんで旧軍兵士への俸給が滞ったことが反乱のきっかけとなった。すなわち、閔氏政権は近代的軍隊として「別技軍」を新設し、日本人教官を招致して教練を開始したが、これに反発をつのらせた旧式軍隊が俸給の遅配・不正支給もあって暴動を起こし、それに民衆も加わって閔氏一族の屋敷や官庁、日本公使館を襲撃し、朝鮮政府高官、日本人軍事顧問、日本公使館員らを殺害したものである[1]。朝鮮王宮にも乱入したが、閔妃は王宮を脱出した[1]。反乱軍は閔氏政権を倒し、興宣大院君を担ぎ出して大院君政権が復活した。

日本は軍艦4隻と千数百の兵士を派遣し、清国もまた朝鮮の宗主国として属領保護を名目に軍艦3隻と兵3,000人を派遣した[1]。反乱軍鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、大院君を拉致して中国の天津に連行、その外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させた[1]。日本は乱後、清の馬建忠の斡旋の下、閔氏政権と交渉して済物浦条約を締結し、賠償金の支払い、公使館護衛のための日本陸軍駐留などを認めさせた。清国は朝鮮政府に外交顧問を送り、李鴻章を中心とする閣僚は朝鮮に袁世凱を派遣、袁が事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握した[1]。こののち袁世凱は、3,000名の清国軍をひきつづき漢城に駐留させた[1]。この乱により、朝鮮は清国に対していっそう従属の度を強める一方、朝鮮における親日勢力は大きく後退した。

この乱の名称は干支の「壬午(みずのえうま)」に由来し、壬午の変(じんごのへん)、壬午事件(じんごじけん)などとも表記される。当時の日本では朝鮮国事変(ちょうせんこくじへん)、朝鮮事変(ちょうせんじへん)などとも称された。また、かつてはその首謀者の名を付し、大院君の乱(だいいんくんのらん)という表現もあった[2]

背景

特権階級である両班が寝転んでいるそばで農民たちが働いている(18世紀末葉の絵画)

李王朝下の朝鮮では、国王みずからが売官をおこない、支配階級たる両班による農民への苛斂誅求、不平等条約の特権に守られた日清両国商人による収奪などにより民衆生活が疲弊していた[3]。王宮の内部では、清国派、ロシア派、日本派などにわかれ、外国勢力と結びついた権力抗争が繰り広げられていた[3]。とくに、宮中では政治の実権をめぐって、国王高宗の実父である興宣大院君と高宗の妃である閔妃が激しく対立していた。

閔妃とされてきた写真

当時、朝鮮の国論は、清の冊封国属邦)としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指す開化派に分かれていた[注釈 1]。このうち後者はさらに、国際政治の変化を直視し、外国からの侵略から身を守るには、すでに崩壊の危機に瀕している清朝間の宗属関係に依拠するよりは、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき親清開化派に分かれていた[4]。親清開化派は、清朝宗属関係と列国の国際関係を対立的にとらえるのではなく、二者併存のもとで自身の近代化を進めようというもので、閔氏政権の立場はこれに近かった[4][5]。急進開化派は、朝鮮近代化のモデルとして日本に学び、日本の協力を得ながら自主独立の国を目指そうという立場であり、金玉均朴泳孝ら青年官僚がこれに属した[5]

開化政策への転換に対しては、守旧派のなかでも特に攘夷思想に傾斜した儒者たちのグループ(衛正斥邪派)が強く反発した[6]辛巳の年1881年には年初から中南部各道の衛正斥邪派の在地両班は漢城府に集まって金宏集(のちの金弘集)ら開化政策を進める閣僚の処罰と衛正斥邪策の実行を求める上疏運動を展開した(辛巳斥邪上疏運動[6]。閔氏政権は、上疏の代表であった洪在鶴死刑に処したほか、上疏運動の中心人物を流罪に処するなど、これを厳しく弾圧した[6]。衛正斥邪派は大院君をリーダーと仰ぎ、この年の夏には、安驥泳らが閔氏政権を倒したうえで大院君の庶長子(李載先)を国王に擁立しようというクーデター計画が発覚している[6][注釈 2]

清朝間の宗属関係についてであるが、厳密には古代以来の冊封-朝貢体制における「属邦」と近代国際法における「属国」とは性格を異にしている。しかし、朝貢国として琉球を失うなど国際的地位の低下に危機感をつのらせた清朝は、日本や欧米諸国が朝鮮を清の属国とは認めないことを通達した事実を受け、最後の朝貢国となりつつあった朝鮮を近代国際法下での「属国」として扱うべく行動した[4]。もともと宗属関係は藩属国の内治外交に干渉しない原則であったが、清国はこの原則を放棄して干渉強化に乗り出したのである[4]。これは、近代的な支配隷属関係にもとづく権力の再構成であり、宗属関係の変質を意味していた[4]

一方、富国強兵殖産興業スローガンに近代化を進める日本は、工業製品の販路として、また増え続ける国内人口を養う食糧供給基地として朝鮮半島を重視し、そのためには朝鮮が清国から政治的・経済的に独立していることが国益にかなっていた。

軍乱の発生

俸給米不正支給から暴動へ

国王の父、興宣大院君

日清修好条規の締結により開国に踏み切った朝鮮政府は、開国5年目の1881年5月、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の中心となって日本と同様の近代的な軍隊の創設を目指した。近代化に対しては一日の長がある日本から軍事顧問として堀本禮造陸軍工兵少尉を招き、その指導の下、旧軍とは別に新式装備をそなえる新編成の「別技軍」を組織して西洋式の訓練をおこなったり、青年を日本へ留学させたりと開化政策を推進した[5]。別技軍には、日本が献納した新式小銃はじめ武器弾薬は最新式のものが支給され、その隊員も両班の子弟が中心でさまざまな点で優遇されていた[7]。別技軍は、各軍営から80名の志願兵を選抜し、王直属の親衛隊である武衙営に所属させた[5]

これに対し、旧軍と呼ばれた従来からの軍卒二千数百名は、旧式の火縄銃があたえられているのみで、大半は小部隊に分けられ各州に配備されていた[5]。彼らはなんら新しい装備も訓練も与えられことなく、別技軍とは待遇が異なり、また、しばしば差別的に扱われることに不満をつのらせていた[7]。さらに、5営あった軍営が統廃合により2営(武衛営・壮禦営)となり、その多くがいずれは退役を余儀なくされていた[5]。それに加えて、当時朝鮮では財政難のため、当時は米で支払われていた軍隊への給料(俸給米)の支給が1年も遅れていた[5][7][8]1882年の夏は、朝鮮半島が大旱魃に見舞われ、穀物は不足し、政府の財源は枯渇していた[9]

1882年7月19日、ようやく13か月ぶりに武衛・壮禦の両営兵士に支払われることになった俸給米はひと月分にすぎなかった[5]。しかし、支給に当たった宣恵庁の庫直(倉庫係)が嵩増しした残りを着服しようとしたため、、腐敗米などが混ざっていた[5][6][8]。これに激怒した旧軍兵士は倉庫係を襲ってこれに暴行を加え、倉庫に監禁し、庁舎に投石した[5][6][8]。ところが、この知らせを受けた担当官僚(宣恵庁堂上)であった閔謙鎬は首謀の兵士たちを捕縛して投獄し、いずれ死刑に処することを決定した[5][6][8]。これに憤慨した各駐屯地の軍兵たちが救命運動に立ち上がったが、運動はしだいに過激化し、政権に不満をいだく貧民や浮浪者をも巻き込んでの大暴動へと発展していった[5]。民衆もまた、開港後の穀物価格の急騰に不満をつのらせていたのである[10]。かくして、7月23日(朝鮮暦6月9日)、壬午軍乱が勃発した[5]。これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃し、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭の興宣大院君の教唆煽動によるものであった[7][8][10]。反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、途中からは別技軍も暴動に加わった[5]

7月23日、兵士らは閔謙鎬邸を襲撃したのち、投獄中の兵士と衛正斥邪派の人びとを解放し、首都の治安維持に責任を負う京畿観察使の陣営と日本公使館を襲撃した[6]。このとき、別技軍の軍事教官であった堀本少尉が殺害されている[6]。翌7月24日、軍兵は下層民を加えて勢力を増し、官庁、閔妃一族の邸宅などを襲撃し、前領議政(総理大臣)の李最応も邸宅で殺害された[6]。さらに暴徒は王宮(昌徳宮)にも乱入し、軍乱のきっかけをつくった閔謙鎬、前宣恵庁堂上の金輔鉉閔台鎬閔昌植ら閔氏系の高級官僚数名を惨殺した[6]。このとき、閔妃は夫の高宗を置き去りにして王宮から脱出し、その日のうちに忠州方面へ逃亡した。王宮に難を逃れていた閔妃ので別技軍の教練所長だった閔泳翊は重傷を負った。

軍兵たちは23日夕刻までに王宮を占拠し、国王からの要請という形式を踏んで大院君を王宮に迎え、かれを再び政権の座につけた[5]

当時の様子を、朝鮮滞在のロシア帝国の官僚ダデシュカリアニは、以下のように書き記している[注釈 3]

朝鮮は一瞬のうちに、凄まじい殺戮の舞台と化した。父親たちが子供たちに武器を向けたのである。ソウルでは8日間、無差別の流血が止まらなかった。当初は叛徒らが勝利を収めた。進歩派、ならびに当時ソウルに在住した外国人の双方を同時に敵としなくて済むように、彼らは先ず後者に襲いかかった。…(後略)[11]

暴徒は漢城在住の日本人語学生、巡査らも殺害した[5]

軍乱による日本人犠牲者

襲撃された日本公使館
漢城(現、ソウル)の日本公使館。1900年頃の撮影
公使館脱出を描いた豊原周延の木版画

殺害された日本人のうち公使館員等で朝鮮人兇徒によって殺害された以下の日本人男性は、軍人であると否とにかかわらず、戦没者に準じて靖国神社に合祀されている[注釈 4]。合祀された人びとの氏名・年齢等は以下の通りである。

堀本禮造
陸軍工兵少尉(戦死により陸軍工兵中尉に昇進される)。
水島義
日本公使館雇員
鈴木金太郎
31歳。日本公使館雇員(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
飯塚玉吉
27歳。日本公使館雇員(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
廣戸昌克
33歳。一等巡査 (事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
本田親友
22歳。三等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
宮 鋼太郎
18歳。外務省二等巡査(事由 弁理公使花房義質を護衛中 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
川上堅鞘
27歳。外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
池田為義
28歳。外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
遠矢庄八朗
外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
近藤道堅
22歳。私費語学生(事由 袈裟かけに2箇所重傷を負い自刃す 戦死:明治15年11月1日靖国神社合祀)
黒澤盛信
28歳。私費語学生(戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀 :扶助料千五百圓を賜う)
池田平之進
21歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
岡内格
23歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月6日靖国神社合祀)

靖国神社遊就館では、事変で殉職した英霊の顕彰が行われており、壬午事変時に日本公使館に掲げられていた日章旗が併せて展示されている。

日本公使館員の脱出

小舟で朝鮮を脱出した花房はじめ公使館員

漢城の日本公使館駐留武官だった水野大尉の報告などによると、暴徒に包囲された公使館員たちの脱出行は以下のとおりである[12]

朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は乱から逃れてくる在留日本人に保護を与えながら、自衛を呼びかける朝鮮政府に対して公使館の護衛を強く要請した。しかし混乱する朝鮮政府に公使館を護衛する余裕はなく、暴徒の襲撃を受けた日本公使館はやむを得ず自ら応戦することになった[12]。蜂起当日はなんとか自衛でしのいだ公使館員一行だったが、暴徒による放火によって避難を余儀なくされた。朝鮮政府が護衛の兵を差し向けてくる気配はなく、また公使館を囲む暴徒も数を増しつつあったので、弁理公使の花房義質は公使館の放棄を決断[12]。避難先を京畿観察使営と定め、花房公使以下28名は夜間に公使館を脱出した[12]

負傷者を出しながらも無事に京畿観察使の陣営に至ることに成功したが、陣営内はすでに暴徒によって占領されており、京畿観察使金輔鉉はすでに殺害されていた。公使館一行は次いで王宮へ向かおうとするが南大門は固く閉じられていて開かなかった[12]。王宮の守備隊長はかれらに退去を命じたという[9]

花房らはついに漢城脱出を決意し、漢江を渡って仁川府に保護を求めた。仁川府使は快く彼らを保護したが、夜半過ぎに公使一行の休憩所が襲撃され、一行のうち5名が殺害された[9][12]。襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっており、公使一行は仁川府を脱出、暴徒の追撃を受け多数の死傷者を出しながら済物浦から小舟(漁船)で脱出した[12]。その後、海上を漂流しているところをイギリスの測量船フライングフィッシュ号に保護され、7月29日長崎へと帰還することができた[12]

閔妃の逃亡

王宮に乱入した暴徒は誰もがみな、閔妃は大院君の指図によって毒殺されたものと思っていた[9]。しかし、実際には閔妃は暴徒乱入の報に接するやすぐに用意をととのえ、それに対応していた。一人の侍女が閔妃のいる部屋で毒薬を飲んで自殺し、みずからは隠密裏に自室を脱出したのである[9]。下僕の一人が彼女を背にして怒り狂う暴徒の群れのなかをかき分け、途中、会う人ごとに詰問されたが、下僕は必ず「自分はとるに足らない下っ端であるが、この騒動から自分の妹を連れ出すところだ」と応答してこの災難をくぐりぬけた[9]。閔妃はこうして漢城市内の私邸に到着、そこから駕籠忠州忠清北道)付近の僻村へと逃亡、同地に隠れ住んだ[7][9]。なお、このとき閔妃を運んだ駕籠かきの一人が、水運びを生業とする貧しい庶民の出身で、のちに政治家として活躍する李容翊である[9]

大院君政権の復活

9年ぶりに政権の座についた興宣大院君は、復古的な政策を一挙に推進した(第2次大院君政権)[5]統理機務衙門を廃し、3軍府の復活を復活して旧来の5軍営にもどしたほか、両営・別技軍を廃止した[5][6]。そして、閔氏とその係累を政権から追放する一方、閔氏政権によって流罪に処せられていた衛正斥邪派の人びとを赦免し、また監獄にあった者の身柄を解放して、みずからの腹心を要職に就けた[5][6]

日清両国の対応

日清両国はそれぞれ以下に詳述するように軍艦・兵士を派遣して軍乱に対応した。アメリカ合衆国もまた軍艦を派遣した[1]

日本側の対応

在朝日本公使館弁理公使だった花房義質
外務卿、井上馨

長崎に帰着した花房公使はただちに外務卿井上馨に事件発生を伝えた[7]。政府はさしあたって事実経過の調査、謝罪・賠償要求のため花房公使を全権委員に任命し、居留民保護のため軍艦を派遣することとし、井上外務卿が山口県下関へ出向いて指揮をとることとした[7]

一方、日本国内では朝鮮に対する即時報復説が台頭した[9]。国内各地から義勇兵志願者が殺到し、朝鮮におもむいて暴虐きわまりない「野蛮人ども」と戦うことを許可するよう強く求めた[9]。また、国民一般による署名嘆願運動には日本人のみならず外国人商人も少なからず参加した[9]

日本政府は、花房公使に朝鮮政府との交渉を命じ、

1.朝鮮政府の公式謝罪
2.被害者遺族への扶助料支給
3.犯人および責任者の処罰
4.損害賠償
5.朝鮮軍による公使館警備
6.朝鮮政府に重大責任あるばあいは巨済島または鬱陵島の割譲
7.朝鮮政府が誠意を示さないばあいは仁川を占領し後命を待つこと

などを訓令し[7]、軍艦と兵士を率いさせて朝鮮に派遣した[5]

やがて訓令には

8.咸興大邱、および漢城近郊楊花津(現、ソウル特別市麻浦区)の開市
9.外交使節の内地旅行権
10.通商条約上の権益拡大

が付け加えられた[7]。また、先遣隊として軍艦2隻と輸送船1隻を派遣し、近藤真鍬書記官らと陸軍兵300名を輸送させた[7]

8月5日、駐日清国公使は日本政府に対し清国政府による派兵をともなう調停を伝えたが、外務卿代理の吉田清成は、再三、「自主ノ邦」たる朝鮮と日本の問題は条約にもとづいて解決すべきものとして介入を謝絶した[7]。それに対し、清国側は朝鮮は清の属国であるから介入は当然と主張した[7][注釈 5]

8月13日、公使花房全権は工部省汽船「明治丸」で済物浦に入港した[7]。先遣隊に後続を加えると、軍艦4隻、輸送船3隻、陸軍歩兵1個大隊の千数百名が仁川周辺に集結していた[5][6][7]陸軍の指揮官は高島鞆之助陸軍少将海軍を率いたのは仁礼景範海軍少将であった。

8月16日、仁川府に着いた花房公使は2個中隊を率いて軍乱で破壊されたままの漢城に入京し、昌徳宮に進路をとって王宮内で高宗に謁見、さらに大院君と会見した[5][7]。このとき、日本政府の要求7項目を記した冊子を領議政の洪純穆に手渡した[7]。朝鮮政府が即答を避けたため、回答期限を3日後としたが、日本の賠償金要求50万円は当時の朝鮮政府にはきわめて高額で工面が困難だったこともあって、領議政の急務を理由に回答の延期を通告してきた[5][7]。これは、大院君が日本の要求を突き返すよう政府に命じたともいわれている[5]

8月23日、花房全権は朝鮮側の約束違反を難詰したうえで護衛兵を率いて漢城を出発、仁川に引き上げて、そこで軍備をととのえた[5][7]。翌8月24日には仁川において馬建忠と会見している(詳細後述)。

清国側の対応

軍乱収拾のために酷暑のなかを精力的に活動した馬建忠

清国政府が軍乱発生の報を最初に受けたのは、8月1日東京在住の清国公使黎庶昌からの電報によってであった[5][7]李鴻章は生母死去の服喪中だったため、北洋大臣代理職にあった張樹声が、天津に滞在していた朝鮮官僚金允植魚允中に事件の経緯を伝え、両名に意見を尋ねた[5][7]。金と魚は閔氏政権の開化派官僚であった[5]。ふたりは、事件が国王高宗の開国政策に反対する守旧派勢力のクーデターであると推断したうえで、日本軍と反乱軍が衝突する怖れがあるとし、また、日本がこの機会に朝鮮進出をはかるだろうと訴えて、張に清国の派兵と日朝間の調停を要請した[5][6][7]

北洋水師提督、丁汝昌

張樹声はただちに北洋水師提督の丁汝昌に出動準備を命じ、上海滞在中の馬建忠を外交交渉役として呼び寄せた[5][7]8月7日、清国皇帝光緒帝によって「派兵して保護すべし」の命令が下った[7]。これは、藩属国たる朝鮮の保護のみならず、朝鮮で被害を受けた日本をも保護せよというものであった[7]

丁汝昌の率いる北洋艦隊の軍艦3隻(「威遠」「超勇」「揚威」)は、馬建忠と魚允中を乗せて山東省芝罘(現、煙台市)を出港、8月10日には済物浦に入港した[5][7][6]。仁川入りした馬建忠は情報収集にあたるとともに日朝両国の要人と非公式に接触し、清国政府に対しては兵員の増派を上申した[7]。これにより、8月20日広東総督呉長慶が3,000名の兵を率い、3隻の軍艦に護衛されて済物浦の南方約40キロメートルの馬山浦(京畿道南陽湾沿岸に所在。慶尚南道馬山とは異なる)に到着した[5][6][7]

馬建忠は漢城へ向かい、清国軍もその後から漢城に進駐して日本軍を圧倒する兵力を配置した[5][7]8月24日には朝鮮との戦争も辞せずの構えをとっていた仁川の花房全権公使をおとずれて意見交換をおこない、翌8月25日の再度の会見では花房から朝鮮全権との再協議に応ずるという確約を引き出した[5][7]。日本が清国の調停を受けたのは、それを拒否すれば清国軍との衝突も覚悟しなければならなかったためと考えられる[5]。また、このとき、ふたりの間で大院君排除の問題が話されたかどうかは不明であるが、開国政策を妨害する大院君を政権から取り除くべきという一点において、日清両国は共通の立場に立ちえたものと考えられる[7]

8月26日、漢城へ戻った馬建忠は丁汝昌・呉長慶と協議し、日朝再協議の実現のためには大院君を排除するしかないとの結論に達した[5]。彼らはその旨を、魚允中を通して高宗に伝えた[5]

軍乱の収束

大院君拉致事件

軍乱発生から約1か月断った1882年8月26日(朝鮮暦7月13日)、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された漢城駐留の清国軍によって大院君拉致事件が起こった[7]。大院君の排斥と国王の復権という基本方針は張樹声の指示によるものと考えられるが、大院君の軟禁は馬建忠・丁汝昌・呉長慶の3名によって計画されたものであった[7]。朝鮮王宮はじめ漢城の城門は清国兵によって固められ、清国軍はおびき出された大院君を捕捉して南陽湾から河北省天津へと連行した[7]。連行理由は、清国皇帝が冊封した朝鮮国王をしりぞけて政権をみずから奪取するのは国王を裏切り、皇帝を蔑ろにする所行であるというものである[7]

清国軍はまた、漢城府東部の往十里、南部の梨泰院を攻撃して反乱に参加した兵士や住民を殺傷した[6]。こうして、政権は国王高宗と忠州から戻った閔妃の一族に帰し、事変は終息した。

日朝の再協議と済物浦条約

済物浦条約(複写) 償金50万円について定めた第四款と軍員の駐留について定めた第五款

8月26日の大院君拉致事件ののち、高宗・閔氏の政権が復活し、済物浦の花房義質全権公使のもとへ朝鮮政府から謝罪文が送られた。これは清国の馬建忠の斡旋によるものであった[6]。花房はこれを受け入れ、日本軍艦金剛艦上での交渉再開を約束した。しかし、高宗・閔氏の政権は外交的には馬建忠に依存せざるをえなかった[4]8月28日夜、朝鮮全権大臣李裕元、副官金宏集らは済物浦に停泊中の金剛をおとずれ、交渉をはじめた[4]。交渉は、この日と翌日(29日)にかけて集中的におこなわれ、1882年8月30日(朝鮮暦7月17日)、6款より成る済物浦条約を調印した。このような短時間で交渉が成立したのは馬建忠が日朝双方に事前に根回しをしていたからである[4]。一方、この交渉の結果、日朝修好条規1876年締結)の追加条項としての同条規続約が調印された[4]

軍乱を起こした犯人・責任者の処罰、日本人官吏被害者の慰霊、被害遺族・負傷者への見舞金支給、朝鮮政府による公式謝罪、日本外交官の内地旅行権などについては、日本側原案がほぼ承認された[4]開港場遊歩地域の拡大(内地旅行権および内地通商権)に関しては、朝鮮側の希望を若干容れて修正された[4]。朝鮮側が最も反対していた50万円の賠償金と公使館警備のために朝鮮に軍隊一個大隊を駐留させる権利については、花房公使の強硬な姿勢により、文言の修正と但し書きの挿入程度にとどまり、基本的に日本側の要求が容認された[4][10][13][注釈 6]。全体的にみれば、日本側の要求がほぼ受け入れられた内容となった[4][10][注釈 7]

済物浦条約の締結に際して清国は、そのなかみについて特に深く介入したわけではなかった[10]。むしろ、大院君を朝鮮王宮から連れ去ったことによって日本側に優位な交渉条件を準備したともいえる[10]。このとき清国は、ベトナムをめぐってフランスとの緊張が強いられていたので、日本と徹底して事を構えるつもりはなかった。日本もまた、外務卿井上馨の基本方針は対清協調、対朝親和というものであり、在野の知識人もまた日清朝の三国提携論が優勢であった[10]。花房公使は調印後の9月2日、井上外務卿あてに「大満足にまで条約を締結せり」と報告の電報を打電した。

なお、済物浦条約は批准を必要としなかったが、日朝修好条規続約の方は批准を要し、この年の10月30日明治天皇によって批准がなされている[4][注釈 8]

開国・開化方針の確認

1882年9月13日、清の幼帝光緒帝は大院君の河北省拘留と呉長慶麾下の将兵3,000名の漢城駐留の命を下した[4]。清国が軍事力を背景に宗主権の強化再編に乗り出したのである[4][14]。清にすがって国内を統治しようとする閔氏政権の親清政策もこれを助けたが、従来の宗属関係は藩属国の内治外交には干渉しない建前だったので、これは両国を近代的な宗属関係に変質させる意味合いをもっていた[4]

9月14日(朝鮮暦8月5日)、高宗は教書を下し、開国・開化を国是とすること、「東道西器」すなわち道徳は東洋の伝統を保持し「邪教」(キリスト教)を排斥するものの西洋の「器」(技術軍事制度)は学ぶべきことを明示し、国内の斥洋碑の撤去を命じた[14]。ただ、開化の方向性は明確になったものの、河北省天津訪問中の趙寧夏金宏集が改革案『善後六策』を李鴻章に示して、その意見を求めるなど、この開化策は清国に大きく依存したものとなった[14]

中朝商民水陸貿易章程の締結

1871年頃の李鴻章
1900年頃の袁世凱

1882年10月4日(朝鮮暦9月12日)、清国と朝鮮は天津において中朝商民水陸貿易章程を締結した。清国側は北洋大臣李鴻章のほか周馥と馬建忠が、朝鮮側は兵曹判書の趙寧夏と金宏集、魚允中がこれに署名した[4]。この章程は両国間で締結された近代的形式を踏んだ条約としては最初のものであった[4]。しかし、その内容は清の朝鮮に対する宗主権を明確にしたものであり、清による属国支配を実質化するものであった[4][13][15][16]

中朝商民水陸貿易章程は、両国が対等な立場で結んだ条約ではなく、清国皇帝が臣下である朝鮮国王に下賜する法令であるとされ、その前文において旧来の朝貢関係が不変であることを再確認し、この貿易章程が中国の属邦を特に「優待」するものであり、それぞれの国が等しく潤うものではないとされた[4][14][17]。言い換えれば、これは宗属関係に由来する独自の規定であり、他の諸外国は最恵国待遇をもってしても、この貿易章程上の利益にあずかることができないとされたのである[7][14]。清国は属国朝鮮に「恩恵」を施す存在であると明記されたが[17]、清にのみ領事裁判権が与えられ、原告中国人被告朝鮮人の場合には審理に清国商務委員がくわわることができるという不平等条項を含んでいた[4][14]。また、第一条では清国の北洋大臣が朝鮮国王と同格であることが明確に規定された[16]

貿易章程では、朝鮮人が北京倉庫業運送業問屋業店舗営業できる代わりに、清国人は漢城や楊花津で同様の店舗経営ができるものとした[4][14]。さらに、朝鮮内地で物資を仕入れ購入する権利もあたえられた[14]。これらは諸外国が朝鮮とむすんだ通商条約にはない規定であり、したがって貿易章程における「属邦優待」とは、清国が朝鮮貿易上の特権を排他的に独占し、清国の内治通商支配を基礎づけるものであった[4]。なお、のちに清国は1884年2月、同章程第4条を改訂して朝鮮の内地通商権をさらに広げている[16]

貿易章程の結ばれた1882年10月、天津滞在中の趙寧夏は軍乱後の政策について李鴻章の指導を仰ぎ、朝鮮政府が外交顧問として招聘すべき人材の推薦を依頼した[4]。李鴻章が推薦したのはドイツ人パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(穆麟德、元天津・上海副領事)と馬建忠の兄馬建常(元神戸大阪領事)であった[4][18]。2人はこの年の12月に帰国した趙寧夏とともに漢城入りし、12月27日、高宗に謁見した[4][注釈 9]

また、朝鮮政府より軍隊養成と軍制改革を依頼された呉長慶は、当時頭角をあらわしつつあった若干23歳の野心家袁世凱に命じてこれを担当させた[4]。朝鮮に派遣された袁は朝鮮の軍事権を掌握し、1年半後には彼のもとで養成された2,000名の新式陸軍が誕生した[4]

こうして経済面のみならず、軍事外交の面でも清国は朝鮮への介入を強め、近代的な支配隷属関係への質的移行を示すようになった[4]

反乱軍の処罰

1882年10月、「大逆不道罪」によって、鄭顕徳趙妥夏許焜張順吉らの官吏、また、白楽寛金長孫鄭義吉姜命俊洪千石柳朴葛許民同尹尚龍鄭双吉らの儒学者凌遅刑により処刑され、遺体は3日間晒された。また、その一族等も斬首刑に処せられた。

軍乱の影響

朝鮮

独立党のリーダーとして活躍した金玉均

軍乱の結果、閔氏政権は清国への傾斜を強めて事大主義的な姿勢を鮮明にし、清国庇護のもとでの開化政策という路線が定まった[13]。その結果、今まで攘夷主義と敵対してきた開化派が、清国重視のグループと日本との連携を強化しようとするグループに分裂した[13]。朝鮮を開国に踏み切らせた日本であったが、中朝商民水陸貿易章程によって空洞化され、朝鮮政府に対する影響力はその分減退した[18]。金宏集(金弘集)、金允植魚允中らは清国主導の近代化を支持し、閔氏政権との連携を強めた[18]。一方、済物浦条約の規定によって1882年10月に謝罪使として日本に派遣された朴泳孝特命全権大使、徐光範従事官、金玉均書記官らは、いずれも日本との結びつきを強めた[10]。かれらは12月まで日本に滞在し、福沢諭吉ら多くの日本の知識人と交誼を結んで海外事情や新知識を獲得していった[10]。また、大院君勢力の一掃によって、朝鮮で攘夷主義的な政策の復活は閉ざされたが、民衆レベルではむしろ東学の浸透など宗教性を帯びて深く根をおろしていった。

閔氏政権は清国の制度にならった政治改革をおこない、外交・通商を担当する統理交渉通商事務衙門と内政・軍務を担当する統理軍国事務衙門を設置した[18]。また、朝鮮は清国軍3,000名、日本軍200名弱の首都駐留という新しい事態を引き受けざるを得なくなったが、日本軍の規律は秩序立ったものであったのに対し、清国軍は漢城各所でしばしば掠奪・暴行をはたらき、市民に被害が生じたと記されている[18]

壬午軍乱当時、忠州にかくまわれていた閔妃は軍乱収束後王宮にもどったが、その際ひとりの巫女をともなっていた[18]。巫女は卑賎の出身であったが、閔妃の王宮帰還を予言するなどして閔妃の歓心を得て宮廷の賓客として遇されたものである[18]。閔妃はこの巫女を厚く崇敬して毎日2回の祭祀を欠かさず、一族や高官にもこれを勧めたため、やがてこれにかかる費用は莫大なものとなった[18]。また、各地の宗教者も集まって王宮を占拠するような状態となり、売官がまたもはびこって国内統治はいっそう混迷の度を深めた[18]

清国

清国は、親日派勢力を排除して朝鮮半島への干渉を強め、朝鮮に対する宗主国の権勢を取り戻して近代的な属国支配を強めた[19]。従来、朝鮮の内政には関与しなったが、清国側とすれば台湾・琉球・朝鮮に対する日本の攻勢に対抗したものであり、日朝修好条規を空洞化させて朝鮮を勢力圏に取り込む姿勢を明らかにしたのである[13]。李鴻章は北洋大臣として朝鮮国王と同格の存在となり、朝鮮の内政・外交は李鴻章とその現地での代理人たる袁世凱の掌握するところとなった。大院君は李鴻章による査問会ののち天津に幽閉され、高宗は査問会において「朝鮮国王李熙陳情表」を清国皇帝あてに提出して大院君赦免を陳情したが効なく、その幽閉は3年間続いた[注釈 10]

日本

日本公使館が襲撃された場面を描いた錦絵

日本では、軍乱を描いた多数の錦絵・小冊子が刊行され、同胞が暴徒によって殺害された衝撃はひろく国民にナショナリズムの反応を引き起こした[20]。日清修好条規によって朝鮮を開国させた日本であったが、この軍乱では清国の機敏な動きに後れをとり、清国に対し軍事的に劣位にあることが痛感されたため、以後、山県有朋らを中心に軍拡が強く唱えられることとなった[21][22]。1882年は近代日本における軍備拡張の起点といわれており、この年の11月24日明治天皇は宮中謁見所に地方長官を召集して軍備拡張と租税増徴の勅諭を述べた[21]。以後、大蔵卿松方正義による緊縮財政・デフレ政策にもかかわらず、あえて増税が進められ、1883年は前年比軍事費を大幅に増加させた[13][22][23][注釈 11]。増税については、政府は国民とくに民権派が動いて「騒然たる景況」となることを強く警戒したものの、民権派の大半は必ずしも軍拡に反対しなかった[13][22]

日清朝三国提携を模索する意見の多かった言論界でも変化がみられた。1882年12月7日時事新報』社説「東洋の政略果して如何せん」において福沢諭吉は「我東洋の政略は支那人の為に害しられたり」と述べ、清国は日本が主導すべき朝鮮の「文明化」を妨害する正面敵として論及されるようになった[19]。このような状況を打開すべく、福沢は金玉均ら独立党の勢力挽回に期待をかけたのである[19][注釈 12]

東アジア国際情勢

日朝間で結ばれた済物浦条約は、朝鮮をあくまでも属国として支配しようとする清国を牽制する意味合いもあり、朝鮮半島で対峙する日清両軍の軍事衝突をひとまず避けることはできたが、一方では朝鮮への影響力を確保したい日本と属国支配を強めたい清国との対立は、以後さまざまなかたちで継続し、やがて、甲申事変日清戦争へとつながっていった。

脚注

注釈

  1. ^ 小島毅は、清・朝鮮の関係について、清を「朝鮮にとって親分」と形容している。小島(2011)p.44
  2. ^ 安驥泳と李載先はこの年のうちに刑死しており、大院君派の勢力は大きく後退した。糟谷(2000)p.231
  3. ^ 著者のダデシュカリアニはロシア帝国アムール州総督官房付で公爵。「朝鮮の現況」の初出は『アジア地理・地勢・統計資料集』(第22分冊、サンクトペテルブルク1886年刊)
  4. ^ 陸軍省 公文録・明治十五年・第百八巻・明治十五年九月~十一月 "故工兵中尉堀本礼造外二名并朝鮮国ニテ戦死巡査及公使館雇ノ者等靖国神社ヘ合祀ノ件"、 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A01100233700. 「同省朝鮮国日本公使館護衛隊ハ鎮守ニ等シキ勤労アルヲ以テ鎮戍ノ軍隊ニ准シ従軍年ニ加算セント請フ之ヲ允ス」
  5. ^ 日本政府の法律顧問だったギュスターヴ・エミール・ボアソナードは、日本は朝鮮を独立国として認めたのだから日朝間交渉に清国を介入させるべきではないが、清国はみずからの論理で介入すること必至であるから、清国政府が照会する前に日本政府は朝鮮政府に要求を申し入れておく必要があると助言した。海野(1995)p.53
  6. ^ 朝鮮側が日本案にあった「賠償」という文言に強く反発したため「補填」の文言に改めた(日本政府が決算した本事件の出兵経費は81万2620円43銭であった)。補填金50万円は、のちに朝鮮財政の困窮を理由に10万円×5年払いを5万円×10年払いとしたが完納されず、1884年に日本側が残額を寄贈するという形式をとって帳消しとなった。結局、領収額は10万円(寄贈額は40万円)ということになった。
  7. ^ 民間人の内地旅行・通商権は当初開港場より20キロメートル以内であったが、2年後の1884年には40キロメートル以内に拡大された。糟谷(2000)p.232
  8. ^ 批准書の交換は1882年10月31日、軍乱の謝罪特使として来日していた朝鮮国全権大使兼朴泳孝、副大臣金晩植と井上馨外務卿のあいだで取り交わされた。海野(1995)p.57
  9. ^ メレンドルフは、朝鮮国王が召見した最初のヨーロッパ人となった。海野(1995)p.58
  10. ^ 高宗が提出した「朝鮮国王李熙陳情表」の内容は以下の通り。

    皇帝陛下の臣下であります私の心は震えています。実父は悪くありません。罪はみな臣であります私にあります。天下に善政をされる人倫の聖なる極みの皇帝陛下に伏して願います。実父を許してくださるなら、小国の私たちは感激して皇恩を永遠に称えます。

  11. ^ 軍事費の伸びは1882年-1883年が大きかったが、軍人の数は1884年-1885年の伸びが大きかった。後者は、甲申政変における日本の不首尾が契機となっている。佐々木(1992)p.303
  12. ^ ただし、全体的にみれば民権派の新聞は、この時点では比較的冷静で、朝鮮の攘夷主義者に対してもかれらは愛国者だから必ずや清国に対して抵抗するだろうと期待したり、清国との連携を深めてロシアに対抗すべきだという見解も多くみられた。牧原(2008)p.288

出典

参考文献

書籍 

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  • 小島毅『歴史を動かす-東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011年8月。ISBN 978-4750511153 
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  • 申奎燮 著、申奎燮・大槻健君島和彦 訳『韓国の歴史-国定韓国高等学校歴史教科書(新版)』明石書店〈世界の教科書シリーズ〉、2000年4月。ISBN 978-4750312736 
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  • 並木頼寿井上裕正『世界の歴史(19)中華帝国の危機』中央公論社、1997年。ISBN 978-4124034196 
  • 牧原憲夫『文明国をめざして』小学館〈全集日本の歴史13〉、2008年12月。ISBN 978-4-09-622113-6 
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  • 林泰輔『近世朝鮮史』早稲田大学出版部、1900年。 
保護期間満了につき国会図書館デジタルライブラリーで全文を閲覧することができる。

論文

関連項目

外部リンク