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「カラハン朝」の版間の差分

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{{基礎情報 過去の国
{{基礎情報 過去の国
|略名 = 
|略名 = カラハン朝
|日本語国名 = カラハン朝
|日本語国名 = カラハン朝
|公式国名 =
|公式国名 =
|建国時期 = [[840年]]
|建国時期 = 9世紀
|亡国時期 = [[1211年]]
|亡国時期 = [[1212年]]
|先代1 = 回鶻
|先代1 = カルルク
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|先代2 = カルルク
|先代2 =
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|次代1 = 西遼
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|次旗1 = blank.png
|次代2 = 西遼
|次代2 = ホラズム・シャー朝
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|次旗2 = blank.png
|位置画像 = KaraKhanidAD1000.png
|次代3 = ナイマン
|位置画像説明 = 1000年頃のカラハン朝の支配領域
|次旗3 = blank.png
|国旗画像 =
|公用語 =
|首都 = [[ベラサグン]]<br/>[[カシュガル市|カシュガル]]<br/>[[サマルカンド]]
|国旗リンク =
|元首等肩書 = アルスラン・ハン<br/>ボグラ・ハン
|国旗説明 =
|元首等年代始1 = 10世紀
|国旗幅 =
|元首等年代終1 = [[955年]]
|国旗縁 =
|元首等氏名1 = サトゥク・ボグラ・ハン
|国章画像 =
|元首等年代始2 = 960年頃
|国章リンク =
|元首等年代終2 = ?
|国章説明 =
|元首等氏名2 = ムーサー・アルスラン・ハン
|国章幅 =
|元首等年代始3 = ?
|標語 =
|元首等年代終3 = [[998年]]
|国歌名 =
|元首等氏名3 = アリー・アルスラン・ハン
|国歌 =
|元首等年代始4 =
|国歌追記 =
|元首等年代終4 =
|位置画像 = Kingdom of Kara-Khanids- 999-1212.png
|元首等氏名4 =
|位置画像説明 = カラハン朝の版図
|変遷1 = イスラム教への集団改宗
|公用語 = {{仮リンク|カラハン朝トルコ語|tr|Karahanlı Türkçesi}}
|変遷年月日1 = [[960年]]
|首都 = [[ベラサグン]]</br>[[カシュガル]]</br>[[サマルカンド]]
|変遷2 = 国家の東西分裂
|元首等肩書 = [[可汗]]
|変遷年月日2 = [[11世紀]]半ば
|元首等年代始1 = ???年
|変遷3 = [[西遼|カラ・キタイ]](西遼)への従属
|元首等年代終1 = ???年
|変遷年月日3 = 12世紀
|元首等氏名1 = ビルゲ・キュル・カーディル・カン
|変遷4 = 東カラハン朝の滅亡
|元首等年代始2 = [[927年]]頃
|元首等代終2 = [[955年]]
|変遷月日4 = [[1210年]]
|変遷5= 西カラハン朝の滅亡
|元首等氏名2 = {{仮リンク|サトゥク・ボグラ・ハン|en|Sultan Satuq Bughra Khan|label=サトゥク・ボグラ・カラ・カガン}}
|変遷年月日5 = [[1212年]]
|面積測定時期1 = 1025年(想定)
|面積値1 = 3.000.000km<sup>2</sup>
|人口測定時期1 =
|人口値1 =
|変遷1 = 建国
|変遷年月日1 = [[840年]]
|変遷2 = 東西に分裂
|変遷年月日2 = [[1041年]]
|変遷3 = 滅亡
|変遷年月日3 = [[1211年]]
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}}
'''カラハン朝'''(カラハンちょう、[[ペルシア語]] : '''&#1602;&#1585;&#1575;&#1582;&#1575;&#1606;&#1610;&#1575;&#1606;''' Qar&#257;kh&#257;n&#299;y&#257;n)は、かつて[[中央アジア]]に存在した[[イスラム王朝]]。中央アジアの[[テュルク]](トルコ)系の遊牧民族の中で最初に[[イスラム教|イスラーム化]]した集団と考えられている<ref name="ce-jiten">濱田「カラハン朝」『中央ユーラシアを知る事典』、147頁</ref>。


カラハン朝はテュルク系の支配者として初めて、イラン系の民族・文化が中心的な地位を占めていた[[マー・ワラー・アンナフル]]を支配した国家である<ref>伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、325頁</ref>。カラハン朝がマー・ワラー・アンナフルを支配するイラン系の王朝[[サーマーン朝]]を滅ぼした後、[[タジキスタン共和国]]を除いてマー・ワラー・アンナフルにイラン系の国家が再建されることは無かった<ref name="mano1999-87">間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、87頁</ref>。
'''カラハン朝'''(カラハンちょう、[[ペルシア語]] : '''&#1602;&#1585;&#1575;&#1582;&#1575;&#1606;&#1610;&#1575;&#1606;''' Qar&#257;kh&#257;n&#299;y&#257;n)は、[[中央アジア]]にあった[[テュルク系]][[イスラム王朝]]([[9世紀]]中頃 - [[1211年]])。[[テュルク系民族]]として最初に[[イスラム教]]へ集団的に改宗し、中央アジアのテュルク化・イスラム化に大きな役割を果たした。


カラハン朝の時代は「[[西トルキスタン]]」の黎明期とも言え、[[パミール高原]]以西の地域にテュルク・イスラーム文化が確立された<ref name="umemura1999-81">梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、81頁</ref>。カラハン朝が滅亡した後、カラハン朝の時代に芽生えたテュルク・イスラーム文化はモンゴル、[[ウズベク]]、[[カザフ]]などの西トルキスタンを征服した他の民族・文化を同化する<ref name="mano1999-87"/>。[[タリム盆地]]の[[ウイグル族]]はカラハン朝を自らの祖先が建てた国と見なし、王朝の君主[[サトゥク・ボグラ・ハン]]や[[マフムード・カーシュガリー]]、[[ユースフ・ハーッス・ハージブ]]らカラハン朝時代の学者の廟を建立した<ref>梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、79頁</ref>。
==名称==

'''カラハン朝'''、'''イリグ・ハン朝'''、'''ハーカーニーヤ'''(カガン朝の意:この王朝が君主号のカガンを用いたことによる。)、'''アフラースィヤーブ朝'''とも呼ばれ、カラハン朝あるいはイリグ・ハン朝の名は歴史家による便宜的な呼称であり<ref>山田、1989「カラ・ハンという称号はこの国の君主の称号としてその後もよく用いられていることもあって、グリゴリエフ(B.B.Григорьев)がこの国をカラハン国(Die Karachaniden)あるいはカラハン朝(the Qara-khanids)と名付け、多くの賛同を得た。《B.B.Григорьев,1874:Караханиды в Мавераннагре по Тарихи Мунеджима-Баши в османском тексте с переводом и примечаниями,Труди Boстoчнoгo oтдeлeнияимпeракогo aрхeoлoгичeскогo oбщeствa,17.》一方、この国のものとされた貨幣に、支配者の名としてelik,ilik,iläkなどと写される語が多くみられたことから、とくに古銭学者のあいだではイレクハン国(Die Ilek-khane,the Ilek-khans)の名がよく用いられている。」</ref>、同時代の[[アラビア語]]、[[ペルシア語]]などではハーカーン朝(&#1582;&#1575;&#1602;&#1575;&#1606;&#1610;&#1607; Khak&#257;n&#299;ya)として記録されていた。
== 王朝の呼称 ==
「カラハン朝」は後世の歴史家によって付けられた名称であり、「カラハン」という君主の称号に由来する<ref name="yamada206">山田「トルキスタンの成立」『北アジア遊牧民族史研究』、206頁</ref>。「カラ」は「強い」「大きい」を意味する言葉で、「カラハン」という称号はは「強大な[[ハン]]」の意と考えられている<ref name="mano1999-100">間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、100頁</ref>。イスラーム世界の史料では「ハーカーニーヤ(ハン、カガンの王朝)」「アフラースィヤーブ朝」と書かれ<ref name="hamada2000-163">濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、163頁</ref>、古銭学者の間では貨幣に刻まれている称号(elik、ilik、iläk)に由来するイレク・ハン国(イリグ・ハン国)という名称も使用される<ref name="yamada206"/>。また、王統の起源を[[ウイグル]](回鶻)に推定する立場の人間は、「回鶻新王国」「葱嶺(パミール)西回鶻」の呼称を使用している<ref name="maruyama55">丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、55頁</ref>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 建国期 ===
=== 勃興期 ===
[[840年]]に[[モンゴル高原]]の[[回鶻|ウイグル国家]]が崩壊した後、カラハン朝の勢力が台頭する<ref name="ce-jiten"/>。ウイグル国家を構成していたテュルク諸部族は中国、[[チベット]]、中央アジアに移動し、そのうち15の部族は[[セミレチエ]]地方を支配するカルルク族の元に逃走した<ref>山田『草原とオアシス』、126頁</ref>。
[[840年]]に[[モンゴル高原]]を支配する[[回鶻]](ウイグル)可汗国が崩壊した後、[[天山山脈]]北方の西、[[イシク湖]]の北、[[バルハシ湖]]の南、[[チュイ川]]の東の草原地帯で自らの王国を形成したと考えられている。構成員の多くはカルルク人で、以前からこの地方で遊牧していた[[カルルク]]部を征服、もしくは連合したとする説など諸説あるが、史料が乏しく仮説にも大きな幅があるため有力とされる見解は今のところ無い<ref>他にもウイグル説、テュルクメン説、ヤグマー説、カルルク・ヤグマー説、チギル説、突厥説がある。また、カルルク説を唱えているのはプリツァク氏である。</ref>。


カラハン朝の王統の起源は明らかになっておらず<ref name="hamada2000-163"/>、様々な説が挙げられている。[[ウクライナ]]の学者Omeljan Pritsakはカラハン朝の起源を[[ウイグル]]、[[オグズ|トルクマン]]、[[カルルク]]、[[チギル]]、[[ヤグマー]]、カルルク・ヤグマー混合、[[突厥]]の7に分類し<ref>山田「トルキスタンの成立」『北アジア遊牧民族史研究』、206-207頁</ref>、カラハン朝の起源をウイグル国家崩壊後に独立したカルルクの部族連合と推定した<ref name="maruyama55"/>。突厥起源説では、突厥の支配支族の一つである[[阿史那氏]]の末裔が「カガン」を称し、[[タラス]]、[[イリ川|イリ河谷]]、[[カシュガル市|カシュガル]]に至る地域に新たな部族連合を形成したと説明されている<ref name="hamada2000-163"/>。カルルクを王朝の起源とする説では亡命者を受け入れたカルルクの集団がやがてカラハン国家に変貌したと説明され、カルルクの指導者であるキュル・ビルゲ(ビルゲ・キュル・カドゥル)、キュル・ビルゲの孫[[サトゥク・ボグラ・ハン|サトゥク]]のいずれかを王朝の創始者と見なしている<ref>山田『草原とオアシス』、142-143頁</ref>。創始者のキュル・ビルゲの時代に、それまでカルルクが本拠地としていた[[スイアブ]]から[[ベラサグン]]に本拠地を移したと考えられている<ref>山田『草原とオアシス』、144頁</ref>。
=== イスラム化 ===
[[10世紀]]の前半頃、伝説的な初代ハンの孫{{仮リンク|サトゥク・ボグラ・ハン|en|Sultan Satuq Bughra Khan}}(? ~993年)が[[サーマーン朝]]の影響を受けてイスラム教に改宗し、異教徒であった伯父を倒して副都[[カシュガル]]から首都[[ベラサグン]]にかけてのイスラム王国を築いたとされる。


キュル・ビルゲの子バズルは大ハン(アルスラン・ハン)としてべラサグンを支配し、バズルの弟オグウルチャクは小ハン(ボグラ・ハン)としてタラスを支配した<ref name="yamada207">山田「トルキスタンの成立」『北アジア遊牧民族史研究』、207頁</ref>。[[893年]]に[[マー・ワラー・アンナフル]]地方を支配する[[サーマーン朝]]によってタラスが占領されるとオグウルチャクはカシュガルに移り、この地でサーマーン朝の政争から逃れた人間を受け入れた<ref name="yamada207"/>。オグウルチャクが亡命者であるサーマーン朝の王子ナスルを[[アルトゥシュ市|アルトゥシュ]]の統治者に任命した後、ナスルの元にはイスラームの商人が多く集まるようになり、アルトゥシュに[[モスク]]が建立された<ref name="maruyama56">丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、56頁</ref>。オグウルチャクの元ではイスラム教の布教は禁止されていたが、ナスルの受け入れによって領内のイスラム教の信者は次第に増加していき、オグウルチャクの甥サトゥクもナスルの影響を受けて密かにイスラム教に改宗した<ref name="maruyama56"/>。25歳に達したサトゥクは[[仏教]]を信仰するオグウルチャクを討ってカシュガルを征服し、カラハン朝で初めてのイスラム教を信仰する君主となる<ref name="maruyama56"/>。
イスラム側の史料によればカラハン朝は、[[960年]]に帳幕([[ユルト]])20万帳にのぼる遊牧民たちのイスラム教への集団改宗を行ったとされる。これ以後のカラハン朝は[[ジハード]](聖戦)を掲げ、ボグラ・ハンの跡を継いだイリグ・ハンは西に拡大して[[999年]]に[[ブハラ]]を征服、サーマーン朝を滅ぼして[[マー・ワラー・アンナフル]](トランスオクシアナ)を併合した。しかし、[[1008年]]には[[ホラーサーン]]の[[ガズナ朝]]に敗れ[[アム川]]以南へは進出できなかった。イリグ・ハンの跡を継いだトゥガン・ハンは、[[タリム盆地]]の仏教国[[ホータン]]や[[亀茲|クチャ]]を征服するが、軍を返す途上で死去したためアルスラン・ハンが跡を継いだ。


カラハン朝の歴史のうち史実と見なされるのはサトゥクがハンに即位した時代以降で、サトゥクの時代より前の時代として記されている出来事を単なる伝承、または史実と見なすかで研究者の見解は分かれている<ref>山田「トルキスタンの成立」『北アジア遊牧民族史研究』、206,208頁</ref>。イスラームに改宗したカラハン朝の君主は異教を奉じる他の王族に聖戦([[ジハード]])を挑み、王朝のイスラーム化が進行していく<ref name="mano1999-86">間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、86頁</ref>。[[942年]]/[[943年|3年]]にサトゥクは大ハンが支配するベラサグンを占領するが、領内ではイスラム教は完全に受け入れられてはいなかった<ref name="maruyama57">丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、57頁</ref>。11世紀以降に信仰の違いのためにカラハン朝が[[天山ウイグル王国]](西ウイグル王国、高昌回鶻王国)から完全に分離した後、君主の中で初めてイスラム教を受け入れたサトゥクは王朝の始祖として崇拝されるようになった<ref name="maruyama57"/>。
=== テュルク化 ===
現在の[[新疆ウイグル自治区]]西部から[[ウズベキスタン]]に至る広大な領域を支配するに至ったカラハン朝では、征服したタリム盆地やマー・ワラー・アンナフルの[[オアシス]]都市にテュルク系[[ムスリム]](イスラム教徒)たちが入り込み、徐々に遊牧生活をやめ都市へ定住していった。同じ頃、カラハン朝との境となる天山山脈の東側にはウイグルの残存勢力による[[天山ウイグル王国]]が形成され、同様に定住化に向かい、この二つのテュルク系国家のもと当該地域のテュルク化が進んだ。また、ホータン、カシュガルなどタリム盆地の西部もカラハン朝のもとでイスラム化していき、後に「[[トルキスタン]]」(「テュルク人の土地」を意味する)と呼ばれる契機となった。


=== 宗教戦争とサーマーン朝への攻撃 ===
カルルク人の上にウイグル人が乗っかる形で成立したカラハン朝は軍事封建制が布かれ分権的性格が強かったと考えられ。可汗が2名いたことが貨幣の研究から明らかになっている。また、全土を統治する大可汗が[[ベラサグン]]にあってアルスラン・カラ・ハンを、副可汗が[[カシュガル]]にあってボグラ・カラ・ハンを名乗り、王やテギン・ヤブグなどの上に君臨した。11世紀のカラハン朝は幾つかの封侯国に分かれ、ハンに対して完全には服さなかった。
[[960年]]頃にサトゥクの子ムーサーはベラサグンの大ハンを破り、仏教国である[[ホータン王国|于&#38352;]]([[ホータン市|ホータン]])を攻撃した。ムーサーはカシュガルを本拠地に定め、それまでの大ハンの都であるベラサグンを副都に降格し、兄弟のスライマーンをベラサグンの小ハンに任命した<ref name="maruyama58">丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、58頁</ref>。于&#38352;は同じ仏教国である天山ウイグル王国、[[吐蕃]]と同盟を結んで優位に立ち、[[969年]]9月に于&#38352;の攻撃を受けたカラハン朝の君主Tazik Tsun Hienはカシュガルを放棄して逃走し、多くの財宝と捕虜が于&#38352;の手に渡った<ref name="maruyama59">丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、59頁</ref>。


サトゥクの孫の時代には、ムーサーの子アリーが国家の東部を支配するアルスラン・ハン、スライマーンの子ハサン(ハールーン)が西部を支配するボグラ・ハンの地位にあり、サーマーン朝が支配するマー・ワラー・アンナフルに侵入した<ref>濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、164-165頁</ref>。[[992年]]にハサンはマー・ワラー・アンナフルの中心都市[[ブハラ]]と[[サマルカンド]]を占領するが、ハサンはカシュガルへの帰還中に没し、サーマーン朝はブハラを回復する。[[996年]]に締結した条約によってカラハン朝はサーマーン朝から[[ザラフシャーン盆地]]北部地域を獲得し<ref>バルトリド『中央アジア史概説』、55頁</ref>、[[999年]]にアリーの子ナスル・アルスラン・イリク・ハンがブハラを占領し、サーマーン朝を滅ぼした。
=== 東西分裂と衰退 ===

[[1041年]]に至って正式に東西に分裂、[[スィル川]]と[[パミール高原]]を境として{{仮リンク|西カラハン朝|tr||zh|西喀喇汗}}([[1041年]] - [[1089年]]/[[1210年]])と{{仮リンク|東カラハン朝|tr|Doğu Karahanlılar|zh|东喀喇汗}}([[1032年]] - [[1210年]])に分かれた。その後、定住化が進んで軍事力を弱体化させていた東西のカラハン朝は、同じ[[11世紀]]にマー・ワラー・アンナフルの西で興った[[セルジューク朝]]に打ち破られ、[[1089年]]に西カラハン朝はセルジューク朝のホラーサーン政権に服属した。
[[998年]]に大ハンのアリーが于&#38352;との戦争で落命し、カシュガルは仏教徒の反乱に乗じた于&#38352;軍によって占領される<ref name="maruyama60">丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、60頁</ref>。アリーの跡を継いだアフマド1世はブハラに援軍を要請し、ブハラの宗教指導者ムハイディンら4人の[[イマーム]]に率いられた40,000の志願兵によって于&#38352;軍からカシュガルを奪回した<ref name="maruyama60"/>。カラハン朝は[[1006年]]までにホータン、11世紀半ばに[[クチャ県|クチャ]]を征服し、仏教徒が多数を占める地域のテュルク化・イスラーム化が促進される<ref name="mano1999-86"/>。于&#38352;が滅亡した後もホータンでは長らく仏教徒の反乱が続いたが、最終的に仏教徒の抵抗は失敗し、イスラム教への改宗を拒否する人間の大部分は他の国に亡命した<ref>丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、61頁</ref>。

于&#38352;を滅ぼした後、アフマド1世は天山ウイグル王国に改宗のための聖戦を数度にわたって実施する。[[1017年]]にカラハン軍はベラサグンから天山ウイグル王国に攻め込むが反撃に遭い、天山ウイグル王国の軍隊はベラサグン近郊に接近した<ref name="maruyama62">丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、62頁</ref>。病床についていたアフマド1世は陣頭で指揮を執って天山ウイグル王国を破り、[[トルファン市|トルファン]]に進軍するが、帰国後に病没した<ref name="maruyama62"/>。アフマド1世の死後にカラハン朝内部の抗争は激化し、ホータンを支配するユースフ・カディル・ハンがカシュガルのハン位を継いだ時代には中央アジアの支配権を巡って[[ガズナ朝]]と争った<ref>丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、60,62頁</ref>。

当初カラハン朝とガズナ朝との関係は良好で、ナスルとガズナ朝のスルターン・[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]の娘との婚姻が進められていた<ref name="grou230">グルセ『アジア遊牧民族史』上、230頁</ref>。しかし、カラハン朝はガズナ朝を成り上がり者の国と蔑視し、ペルシア・インドを抑えるマフムードもカラハン朝を野蛮な国と見なし、またカラハン朝からの攻撃を警戒していた<ref name="grou230"/>。[[1006年]]にマフムードがインドに出征した際、ナスルは隙を突いて[[ホラーサーン]]地方に侵入し、ホータンのユースフの援軍を得て[[バルフ]]、[[ニーシャープール]]を略奪した。[[1008年]]1月にナスルはバルフ近郊のシャルヒヤーンの戦闘でマフムードに敗れ、撤退する。[[1025年]]にマフムードがナスルの子アリーの支配化に置かれていたマー・ワラー・アンナフルに侵入した際、カシュガルの支配者の地位を継いだユースフはマフムードと連合して西カラハン朝を攻撃した<ref>グルセ『アジア遊牧民族史』上、231頁</ref>。[[1026年]]にアリーはブハラ、サマルカンドをガズナ朝から奪回したが、[[1032年]]にはマフムードの子マスウードによって一時的にブハラを占領された。

マー・ワラー・アンナフルを中心とする西部はアリーの一族、ベラサグン、カシュガルを中心とする東部はハサンの一族が支配する体制が敷かれていたが、[[11世紀]]半ばにカラハン朝は完全に東西に分裂する<ref>濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、165頁</ref>。東西に分裂したカラハン朝は互いに争い、10世紀半ばから行われていた異教徒に対する聖戦は終息する<ref name="maruyama62"/>。

=== 東西分裂後 ===
西カラハン朝は[[サマルカンド]]を首都に定め、11世紀に[[アッバース朝]]の[[カリフ]]の権威を承認した<ref>梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、80-81頁</ref>。西カラハン朝の支配者は当初ウズガンド({{仮リンク|ウズゲン|en|Uzgen}})に居住していたが、権力を強化した後にサマルカンドに宮廷を移し、ウズガンドはフェルガナの統治者の本拠地とされた<ref name="bart1966-56">バルトリド『中央アジア史概説』、56頁</ref>。西カラハン朝は全マー・ワラー・アンナフルの支配者を自称していたが、フェルガナはサマルカンドから半ば独立した状態にあった<ref name="bart1966-56"/>。

東カラハン朝は草原地帯のテュルク・ムスリムの軍事力によって[[フェルガナ盆地]]のオアシス都市を支配し、その経済力は[[天山山脈]]の南北に及んでいた<ref name="umemura1999-81"/>。ユースフの死後、東カラハン朝はベラサグン、カシュガル、ホータンを支配する大ハン、タラスを支配する小ハンの領土に分裂する<ref name="grou233">グルセ『アジア遊牧民族史』上、233頁</ref>。[[1055年]]頃、タラスを支配するムハンマド1世・ボグラ・ハンは大ハンが領有するカシュガルを獲得した。ムハンマド1世はカシュガルを文化都市に発展させ、東カラハン朝からは教訓書『クタドゥグ・ビリグ』やトルコ語の辞典『トルコ語集成』などの作品が生み出された。11世紀末に東カラハン朝はアフマド・ボグラ・ハンによって再統一され、彼の治世に『クタドゥグ・ビリグ』が著される<ref>グルセ『アジア遊牧民族史』上、233-234頁<!-- 元の文では「ハールーン・ボグラ・ハン(1102年没)」 --></ref>

11世紀初頭に[[オグズ]]の一派がイランで興した[[セルジューク朝]]が[[1040年]]に[[ダンダーンカーンの戦い]]で[[ガズナ朝]]を破り、勢力を広げた。当初カラハン朝はセルジューク朝の攻撃に耐え、セルジューク朝の支配下に置かれていた[[ホラーサーン]]地方の都市を占領する。[[1072年]]にマー・ワラー・アンナフルはセルジューク朝の攻撃を受け、西カラハン朝のナスル1世はセルジューク朝に臣従を誓った<ref name="grou233"/>。アフマド1世の治世の[[1089年]]、政府と対立するマー・ワラー・アンナフルの[[ウラマー]](イスラームの神学者)の要請に応じて西カラハン朝を攻撃したセルジューク軍はサマルカンドを占領し、西カラハン朝はセルジューク朝の支配下に置かれた<ref name="UNESCO"/>。アフマド1世はセルジューク朝から支配権を回復したものの、1095年にウラマーによって異端と宣告され、処刑された<ref name="UNESCO">{{citation|last = Davidovich|first = E. A.|year = 1998|title = History of Civilisations of Central Asia|editor1-last = Asimov|editor1-first = M.S.|editor2-last = Bosworth|editor2-first = C.E.|volume = 4 part I |chapter=Chapter 6 The Karakhanids |pages = 119–144|publisher = UNESCO Publishing|isbn = 92-3-103467-7 }}</ref>。およそ半世紀の間、西カラハン朝はセルジューク朝に臣従し、大部分の君主はセルジューク朝によって選ばれた<ref name="UNESCO"/>。

東カラハン朝はセルジューク朝がタラス、セミレチエに侵攻した後にセルジューク朝への臣従を表明したが、臣従の期間はごく短かった。[[1102年]]に東カラハン朝の王統に連なる西カラハン朝の君主ジブラーイールはセルジューク朝が支配する[[ホラーサーン]]地方に侵入するが、この地を治める王子[[サンジャル]]によってテルメド近郊の戦いで殺害される。[[1130年]]にハサン、[[1132年]]にマフムード2世を王位に就けた<ref>グルセ『アジア遊牧民族史』上、251-252頁</ref>。

12世紀前半の[[中国]]北部では[[女真|女真族]]の建国した[[金 (王朝)|金]]が[[契丹|契丹族]]の国家[[遼]]に取って代わり、遼の王族[[耶律大石]]に率いられた一団は中国から中央アジアに移住して[[西遼|カラ・キタイ]](西遼)を建国した。東カラハン朝のアフマド・ハンは[[東トルキスタン]]の横断を試みたカラ・キタイ軍を破り、耶律大石は進路を[[天山山脈]]北方に変更する<ref name="bart1966-62">バルトリド『中央アジア史概説』、62頁</ref>。ベラサグンを支配するカラハン朝の王族が耶律大石に援軍を求めた後、ハンの敵を破った耶律大石はベラサグンを奪い、この地でグル・ハンを称した<ref name="bart1966-62"/>。[[1137年]]に西カラハン朝の君主マフムード2世は[[ホジェンド]]付近の戦闘でカラ・キタイの軍に敗れ、マフムードは叔父である[[セルジューク朝]]のスルターン・[[サンジャル]]に助けを求めたが、[[1141年]]の[[カトワーンの戦い]]でセルジューク朝・カラハン朝の連合軍はカラ・キタイに敗北する<ref>井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112-113頁</ref>。東カラハン朝とカラ・キタイの戦闘に関する記録は残されていないが、アフマドの子イブラーヒーム2世は殉教者(Shahīd)の名前で呼ばれていることからカラ・キタイとの戦闘で落命したと考えられている。臣従を認めさせて貢納を徴収するカラ・キタイの間接統治策の下、東カラハン朝はカラ・キタイの王位を簒奪した[[ナイマン|ナイマン部族]]の[[クチュルク]]に滅ぼされ、西カラハン朝は[[1212年]]に[[ホラズム・シャー朝]]に滅ぼされるまで存続した<ref>濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、172頁</ref>。


=== 滅亡 ===
=== 滅亡 ===
[[1210年]]にクチュルクはカラ・キタイの王位を簒奪するが、カシュガルとホータンはクチュルクの支配を受け入れなかった。クチュルクはカラ・キタイの宮廷に拘留されていた東カラハン朝の王子ムハンマド3世をカシュガルに帰国させるが、釈放されたムハンマド3世はカシュガルの貴族によって殺害される<ref>グルセ『アジア遊牧民族史』上、370-371頁</ref>。東トルキスタンを平定するため、クチュルクは2,3年にわたって軍隊を派遣しなければならなかった<ref name="CMD147">ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、147頁</ref>。
[[12世紀]]初頭には[[耶律大石]]を指導者とする集団が中央アジアにあらわれ、カラハン朝発祥の草原地帯に入ってカラ・キタイ([[西遼]])を建国した。東西のカラハン朝はカラ・キタイの流入以後、徐々に記録から消えていった。


西カラハン朝の最後の君主オスマーンは中央アジアで勢力を拡大するホラズム・シャー朝の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]に協力を求め、従属・貢納と引き換えにカラ・キタイへの攻撃を要請した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、156頁</ref>。[[1209年]]/[[1210年|10年]]にオスマーンはムハンマドが実施したカラ・キタイ遠征に参加して勝利を収め、戦後ムハンマドの娘を娶る<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、157-158頁</ref>。サマルカンドにはカラ・キタイから派遣された代官に代わってホラズムから派遣された知事が赴任したが、オスマーンはホラズムの圧政に苦しみ、1210年/12年にカラ・キタイの王位を簒奪したクチュルクに助けを求め、サマルカンド内のホラズム人を虐殺した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、158-159頁</ref>。サマルカンドで起きた事件の報告を受け取ったムハンマドはサマルカンドに進軍し、町はホラズム軍の攻撃によって陥落する。降伏したオスマーンとその家族はムハンマドによって殺害され、ムハンマドはサマルカンドを新たな首都に定め、マー・ワラー・アンナフルはホラズム・シャー朝に併合された<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、158頁</ref>。
東カラハン朝は[[1131年]]にカラ・キタイと戦って敗れ、カシュガルのオアシスをわずかに支配する小国となり、[[1211年]]になってカラ・キタイを乗っ取った[[ナイマン]]の[[クチュルク]]によって滅ぼされた。


== 社会 ==
西カラハン朝は[[1141年]]の[[カトワーンの戦い]]の後は[[サマルカンド]]を中心にマー・ワラー・アンナフルを支配するカラ・キタイの属国として命脈を保ったが、[[13世紀]]初頭に[[ホラズム・シャー朝]]がカラ・キタイを破ってマー・ワラー・アンナフルを占領すると、ホラズム・シャー朝にサマルカンドを追われて完全に滅ぼされた。
カラハン朝の王族はペルシアの伝説上のテュルクの王である[[アフラースィヤーブ]]の子孫を自称していた<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、325頁</ref>。カラハン朝はイスラム教を受容した後も伝統的な遊牧国家の統治体制を敷き続け、二人の[[ハーン|ハン]](カガン)が国家の東西を統治していた<ref name="ce-jiten"/>。カラハン朝の宮廷は最高権力者であるハンに対するテュルク的な観念以外に、「王の中の王」([[シャー|シャーハーン・シャー]])というペルシア的な王権の観念、中華世界の皇帝権の影響も受けており、中国皇帝の呼称である「タブガチ・ハン」も君主の称号として使用されていた<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、187-188頁</ref>。領土の東部を大ハン(アルスラン・カラ・ハン)、西部を小ハン(ボグラ・カラ・ハン)が支配し、それぞれのハンの下にイリク(イリグ、イレク)、テギンという称号の下級君主が置かれていた<ref name="ce-jiten"/>。カラハン朝の君主の称号に含まれる「アルスラン」は[[ライオン|獅子]]、「ボグラ」は[[ラクダ|雄駱駝]]を意味し、ライオンはチギル部族、雄駱駝はヤグマー部族の[[トーテム|トーテム獣]]と考えられている<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、101頁</ref>。王子は「テギン」、王女は「カトゥン」と呼ばれ、貴種として他の人間と明確に区別された<ref name="mano1999-100"/>。

11世紀の半ばに入ってもハンたちは夏季に遊牧生活を営み、冬季に都市部に居住する生活を送っていた<ref name="umemura1999-81"/>。封的な支配体制の下で土地の統治は各地の王族に委任され<ref name="ce-jiten"/>、領土を分封された王族はイリク・ハンの称号を使用していた<ref>ソビエト科学アカデミー編『世界史』中世3普及版(江口朴郎、野原四郎、林基監訳, 東京図書, 1963年4月)、695頁</ref>。領土の分配はそれぞれの王族が本拠に定める都市の発展を促し、都市に住む[[ウラマー]](イスラームの法学者)の地位をも向上させる<ref name="hamada2008-42">濱田『中央アジアのイスラーム』、42頁</ref>。カラハン朝初期の時代、都市の事情に通じていなかった君主たちは征服した都市にそれまで存在していた行政組織に代えて[[マートゥリーディー派]]のウラマーに都市の統治を委任していた<ref name="hamada2008-43">濱田『中央アジアのイスラーム』、43頁</ref>。各都市には[[カーディー]](イスラーム法の判事)が任命され、王族の利益の確保を進める一部のカーディーと都市民の権利の保護を図るウラマーの対立を経て、ウラマーは都市民の代表者としての地位を確立する<ref name="hamada2008-43"/>。カラハン朝支配化の中央アジアには、多くの[[ファトワー]]を発した[[ムフティー]]のナジュムッディーン・ナサフィー、マートゥリーディー派の思想を体系化したアブー・アル=ムイーンらの学者も現れた。カラハン朝が衰退しカラ・キタイが台頭した後もウラマーはオアシス都市の代理統治者としてなおも権威と権力を保ち続け<ref>濱田『中央アジアのイスラーム』、43-44頁</ref>、西カラハン朝統治下のブハラの名家であるブルハーン家はサマルカンドの宮廷とは別にカラ・キタイに貢納を行い、サマルカンドの宮廷から独立した統治を行っていた<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、192-193頁</ref>。

西カラハン朝の首都のサマルカンドには宰相府が置かれ、行政に携わる書記(ウダバー)が高い社会的地位を有していた<ref name="hamada2008-42"/>。カラハン朝の宮廷職に文官・武官の明確な区別は設けられておらず、騎兵隊長、軍司令官(スバシ)、侍従([[ハージブ]])、秘書官の順に昇進していった<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、100-101頁</ref>。宮廷職はテュルク諸部族出身の貴族が担い、ハンの一族は彼らの補佐を受けていた<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、101頁</ref>。サーマーン朝時代に没落した[[ディフカーン]](中央アジアの土豪)は短期間勢力を回復したが再び勢力を失い、12世紀から13世紀にかけての政治的事件の記録に現れなくなった<ref>バルトリド『中央アジア史概説』、57頁</ref>。

== 経済 ==
カラハン朝支配下のトルキスタンではテュルク系のイスラム教徒によるキャラバン交易が行われ、政府が鋳造した貨幣が流通していた<ref>伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、326頁</ref>。発行された貨幣はイスラーム世界の[[ディルハム]]銀貨を元にしたもので、イリグ・ハン(王ハン)、タブガチ・ハン(中国のハン)といった称号や、[[アラビア語]]によるイスラームの信仰告白の定型句が刻まれていた<ref>伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、325-326頁<!-- 元の文では「タブガチ・カガン」 --></ref>。貨幣に刻まれた銘文はカラハン朝の歴史を伝える貴重な史料となっている<ref>山田『草原とオアシス』、145頁</ref>。

西カラハン朝末期のサマルカンドは400,000-500,000の人口を擁する大都市で、園林が郊外に連なり、果実・穀物の栽培、養蚕が行われていた<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、105頁</ref>。カラハン朝時代の教訓書『クタドゥグ・ビリグ』には農民、牧人、商人、職人は生活の基盤を支える社会階級と記され、彼らの活動によって生み出された富が都市部の支配者層の下に蓄積されていた<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、102-105頁</ref>。農地では塩分を含んだ土地の改良、貯水池を利用した灌漑、風力による脱穀が行われ、収穫された食物はパンに加工されていたた<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、103-104頁</ref>。果実の中ではブドウの栽培が盛んで生食にするほかワイン、ジュース、干しブドウに加工され、ブドウのほかにはリンゴ、メロン、スイカなどの作物も栽培されていた<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、104-105頁</ref>。

== 宗教 ==
[[Image:Sutuq Bughraxan Qebrisi.JPG|thumb|160px|right|[[アルトゥシュ市|アルトゥシュ]]のサトゥク・ボグラ・ハン廟]]
サトゥク・ボグラ・ハンがイスラム教に改宗する前のカラハン朝では仏教が主流であり、ほかに[[マニ教]]、[[ネストリウス派]][[キリスト教]]、[[シャーマニズム]]などが信仰されていた<ref name="maruyama57"/>。サトゥク・ボグラ・ハンの改宗に関する最古の記録は14世紀初頭の文献内で引用された11世紀の史料に遡るが、この時点で既にサトゥクの改宗には伝説的な脚色が加えられていた<ref name="ce-jiten214">濱田「サトゥク・ボグラ・ハン」『中央ユーラシアを知る事典』、214頁</ref>。アラブの歴史家[[イブン・アスィール]]は[[960年]]に200,000戸のテュルクの集団改宗が起きたことを記録しているが、この記述はサトゥクの息子ムーサーの時代にカラハン朝が完全にイスラームを受容したことの表れだと考えられている<ref name="ce-jiten214"/>。カラハン朝の君主がイスラム教に改宗した理由について、信徒に対して団結を求めるイスラームの教義、「聖戦」や「殉教」といった概念が支配の維持、勢力の拡大に貢献できる側面が指摘されている<ref name="maruyama58"/>。

サトゥク、ムーサーの時代にカシュガルで行われた強制的なイスラームへの改宗は国内の他の宗教の信徒の反発を引き起こし、于&#38352;、天山ウイグル王国などの仏教国との関係を悪化させる<ref name="maruyama58"/>。ムーサーは王位を巡る争いの中で強制的な改宗を進め、改宗政策においては[[ニーシャープール]]出身の[[スーフィー]](神秘主義者)・カリマティが大きな役割を果たした<ref name="maruyama59"/>。カラハン軍が于&#38352;を破ってホータンを占領した後、城砦は破壊されたが、仏教寺院は破壊されずにモスクに改築された<ref name="maruyama60"/>。

1141年のカトワーンの戦いでカラハン朝がカラ・キタイに敗れた後、ベラサグンに近い[[セミレチエ]]の地にカラ・キタイの軍隊が駐屯した。東西のカラハン朝はカラ・キタイの臣従国として存続し、徴税と定住生活を送るイスラム教徒の監督を命じられた。カラ・キタイの支配者層は仏教を信仰していたが、支配地の信仰には寛容な姿勢を取っていた<ref name="svat">{{cite book |title=A history of Inner Asia |author=Svatopluk Soucek |chapter=Chapter 5 - The Qarakhanids |publisher=Cambridge University Press |year=2000 |isbn=0-521-65704-0 }}</ref>。東カラハン朝の首都カシュガルはイスラム教の文化と権威が保たれながらも、東方におけるネストリウス派のキリスト教徒の中心都市となった。[[チュイ川]]の渓谷では、カラ・キタイへの従属時代に建てられたキリスト教徒の墓石が発見された<ref name="khitay">{{citation|last = Sinor|first = D.|chapter = Chapter 11 - The Kitan and the Kara Kitay|year = 1998|title = History of Civilisations of Central Asia|editor1-last = Asimov|editor1-first = M.S.|editor2-last = Bosworth|editor2-first = C.E.|volume = 4 part I |publisher = UNESCO Publishing|isbn = 92-3-103467-7 }}</ref>。


== 文化 ==
== 文化 ==
[[Image:Bukhara01.jpg|thumb|160px|right|ブハラのカラーン・ミナレット]]
カラハン朝の成立は、中央アジアのテュルク化の契機として中央アジアの歴史上重要視されている。カラハン朝の時代以降、中央アジアの定住民の多くはもともと話していた{{仮リンク|東イラン語群|en|Eastern Iranian languages|label=東イラン諸語}}など[[インド・イラン語派]]の言語にかわって[[テュルク諸語]]に属する言葉を[[母語]]とするようになり、特に[[シルダリヤ川]]以東の地域は「[[トルキスタン]]」と呼ばれるようになった。また後の[[東トルキスタン]]([[新疆ウイグル自治区]])にあたるタリム盆地とその周辺域のイスラム化に関しても大きな役割を果たした。最初に改宗を行った伝説的な君主{{仮リンク|サトゥク・ボグラ・ハン|en|Sultan Satuq Bughra Khan}}はトルキスタンの各地で[[聖者]]とみなされ、現在にいたるまで深く尊崇されている。
[[Image:UzgenMausoleum.jpg|thumb|160px|right|12世紀にウズゲンに建てられた廟]]
10世紀にテュルク諸部族に受容されたイスラム教はテュルクの文化と結合し、11世紀に[[アラビア文字]]で表記するテュルクの言語(カラハン朝トルコ語)が成立した
<ref>間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、98頁</ref>。[[1096年]]に[[ユースフ・ハーッス・ハージブ]]によってテュルクの言語による教訓書『[[クタドゥグ・ビリグ]]』が東カラハン朝の君主に献呈された。テュルクの言語をアラビア文字で記した最初の作品である『クタドゥグ・ビリグ』は、テュルク・イスラーム文学最古の作品に位置付けられている<ref>間野「トルコ化・イスラーム化時代の中央アジアの社会と文化1」『中央アジア史』、96頁</ref>。

テュルク・イスラーム文学はイスラーム世界と[[ペルシア文学]]の強い影響を受けており、従前のテュルクと深い関係があった中国、仏教、キリスト教、マニ教の影響は見られない<ref>バルトリド『中央アジア史概説』、53-54頁</ref>。『クタドゥグ・ビリグ』には[[クルアーン]]、[[ハディース]]、[[スーフィー]]の著書から引用した忠言が記されており、王族のイスラームの改宗から1世紀後にはイスラーム学はトルキスタンの知識人の間に深く浸透していたことがうかがえる<ref>濱田『中央アジアのイスラーム』、38-39頁</ref>。権力闘争の末に[[バグダード]]に逃れた東カラハン朝の王族[[マフムード・カーシュガリー]]は『トルコ語集成(ディーワン・ルガード・アッテュルク)』を[[1077年]]/[[1078年|78年]]に著し、アッバース朝のカリフ・[[ムクタディー]]に献呈した。しかし、『クタドゥグ・ビリグ』『トルコ語集成』の後に続くトルコ語による著述活動は盛んとは言い難く、これらの作品が流布した範囲も広くは無かった<ref>濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、167-168頁</ref>。[[ティムール朝]]の時代に入って、テュルクの言語は中央アジア世界で[[ペルシア語]]に並ぶ地位を確立する<ref>濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、168頁</ref>。


カラハン朝時代に建設された大規模な建設物は多く残っており、10世紀末まで中央アジアを支配していたサーマーン朝と比べて多い<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、184頁</ref>。[[1121年]]にブハラに金曜モスクが建立され、[[1127年]]にはモスクの前に[[カラーン・ミナレット]]が建てられた<ref name="cejiten-mina">堀川徹「カラーン・ミナレット」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)、147-148頁</ref>。ミナレットの高さは約45.6mで、戦災や地震の被害を受けながらも修復され、姿をとどめている<ref name="cejiten-mina"/>。サーマーン朝時代に比較的小さな都市だったウズガンドは一時的にマー・ワラー・アンナフル全土の支配者である西カラハン朝の君主の居所とされ、宮廷が移された後もフェルガナの統治者の本拠地とされた<ref name="bart1966-56"/>。ウズガンドには高さ約18mの[[ミナレット]]が建立され、ウズゲンの建物の中でも12世紀に建てられたものは特に評価が高い<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、184-185頁</ref>。[[1078年]]/[[1079年|79年]]にナスル1世によってブハラとサマルカンドの間に建設されたラバーティ・マリクは隊商宿([[キャラバンサライ]])以外に防衛施設としての役割も有していたと考えられている<ref>バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、182,185頁</ref>。
イスラム化とマー・ワラー・アンナフルの征服を通してサーマーン朝でアラブ・イスラム文化とペルシア文化が結びついて成熟したペルシア・イスラム文化が流入しすぐれた都市文化が栄え、イラン・中央アジア各地に定着した。さらに「{{仮リンク|カラハン朝トルコ語|tr|Karahanlı Türkçesi}}」と呼ばれる[[アラビア文字]]を使って記されるテュルク語の文語が生まれて、テュルク・イスラム文化と呼ぶべき独自の文化を誕生させた。その精華として広く知られるのが、[[11世紀]]にはカシュガルの宮廷に仕える[[侍従]]ユースフ([[ユースフ・ハーッス・ハージブ]])があらわしたカラハン朝トルコ語による韻文作品『{{仮リンク|クタドゥグ・ビリグ|en|Kutadgu Bilig}}』である。また、[[カシュガル]]生まれのカラハン朝の王族{{仮リンク|マフムード・アル・カーシュガリー|en|Mahmud al-Kashgari}}は内紛を避けて[[アッバース朝]]に逃れ、[[バグダード]]で[[セルジューク朝]]が権力を確立して間も無い時期([[1077年]]ないし[[1081年]])に[[中央ユーラシア]]各地の様々なテュルク諸語の語彙を集めた『{{仮リンク|ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク|tr|Divânu Lügati't-Türk}}』(トルコ語辞典)を編纂しこれをアッバース朝[[カリフ]]・{{仮リンク|ムクタディー|en|Al-Muqtadi}}に献呈したが、これは当時のテュルク系民族の言語や生活ぶりを伝える重要な資料となっている。


==政治体制==
== 君主 ==
{|width=100% class="wikitable"
カラハン朝は[[突厥]]と同様に東西2人の[[カガン]]があり、東方のアルスラン・カラ・カガンが大カガン、西方のボグラ・カラ・カガンが小カガンであった。この両カガンの下にはアルスラン・イリグ、ボグラ・イリグ、アルスラン・テギン、ボグラ・テギンという4人の下級君主がおり、順次上位の君主へと昇進した。<ref>[[小松久男]]『中央ユーラシア史』p164</ref>
! style="background-color:#F0DC88" width=5% | 代数
! style="background-color:#F0DC88" width=17% | 君主名
! style="background-color:#F0DC88" width=17% | 統治年代
! style="background-color:#F0DC88" width=17% | 先代との関係
|-
|align="center"| 1
|align="center"| キュル・ビルゲ・ハン
|align="center"|[[840年]]
|align="center"| -
|-
|align="center"| 2
|align="center"| バズル
|align="center"|?
|align="center"| 1の子
|-
|align="center"| 3
|align="center"| ?
|align="center"|?
|align="center"| 2の子
|-
|align="center"| 4
|align="center"| ?
|align="center"|?
|align="center"| 3の子
|-
|align="center"| -
|align="center"| [[サトゥク・ボグラ・ハン]]
|align="center"|[[955年]]没
|align="center"| 2の子。カシュガルの小ハン。
|-
|align="center"| 5
|align="center"| ムーサー
|align="center"|[[960年]]
|align="center"| サトゥクの子
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 6
|align="center"| アリー
|align="center"|[[998年]]没
|align="center"| 5の子
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 7
|align="center"| アフマド1世
|align="center"|[[998年]]
|align="center"| 6の子
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 8
|align="center"| マンスール
|align="center"|[[1015年]]-[[1016年|16年]] - [[1024年]]/[[1025年|25年]]
|align="center"| 6の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 9
|align="center"| アフマド2世
|align="center"|1024年/25年 - [[1026年]]/[[1027年|27年]]
|align="center"| 5の曾孫。ハサン(992年没)の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 10
|align="center"| ユースフ
|align="center"|1026年/27年 - 1032年没<ref name="maruyama62"/>
|align="center"| 9の兄弟。
|-
|}


{|width=50% class="wikitable"
==歴代君主==
|+ '''凡例'''
===カラハン朝===
|-
#ビルゲ・キュル・カーディル・カン(アルスラーン・カラ・カン)(? - [[840年]] - ?)
! width=25% | 色
#バズィル(アルスラーン・カラ・カン)(? - [[860年]] - ?)…キュル・カーディル長子
! width=75% | 家系
#オグルカク・カーディル・カン(ボグラ・カラ・カン)([[893年]] - [[904年]]頃)…キュル・カーディル次子
|-
#(アブドゥル・カリム){{仮リンク|サトゥク・ボグラ・ハン|en|Sultan Satuq Bughra Khan|label=サトゥク・ボグラ・カラ・カン}}([[942年]] - [[955年]])…バズィル次子
! style="background:lightgreen"|
#(サムス・アッダウラ)ムーサ・バイタス・アルスラン・カン([[956年]] - ?)…サトゥク長子
|align="center"|サトゥク・ボグラ・ハンの孫アリーの一族
#スライマーン・アルスラーン・ハン([[958年]] - [[970年]]頃)
|-
#シーハーブ・アッディーン・アブー・ムーサ・ハールーン(アル=ハサン)([[982年]] - [[993年]])
! style="background:Wheat"|
#アブール・ハサン・アリー・ボグラ・カラ・カン(? - [[998年]])…ムーサの子
|align="center"|サトゥク・ボグラ・ハンの孫ハサン(ハールーン)の子孫
#アブー・ナスル・アフマド・トゥガン・カン・ビン・アリー(998年 - [[1017年]])…封号:ナースィル・アル=ハック・ワ・サイフ・アッダウラ
|-
#*アブー・ナスル・アフマド・ビン・アリー・ユースフ・カーディル・カン(998年 - [[1015年]])
|}
#サーナ・アッダウラ・アブー・マンスール・ムハンマド・アルスラーン・イリグ(1017年 - [[1024年]])
#*マンスール・アルスラーン・カン・ビン・アリー(1015年 - [[1024年]])
#アフマド・ビン・ハサン・トゥガン・カン(1024年 - [[1026年]])
#ユースフ・ビン・ハサン・カーディル・カン(1026年 - [[1032年]])
#*ナースィル・アッディーン・ユースフ・カーディル・カン(1024年 - [[1032年]])


===西カラハン朝===
=== 西カラハン朝 ===
{|width=100% class="wikitable"
#ムハンマド・アルスラーン・カラ・カガン(ムハンマド1世)([[1042年]]頃 - [[1052年]]頃)
! style="background-color:#F0DC88" width=5% | 代数
#アブー・ムザッファール・イブラーヒーム・タブガチ・ボグラ・ハン(イブラーヒーム1世)(1052年 - [[1068年]])
! style="background-color:#F0DC88" width=17% | 君主名
#サームス・アル=ムルク・ナスル・イブン・イブラーヒーム([[1068年]] - [[1080年]])
! style="background-color:#F0DC88" width=17% | 統治年代
#ヒドゥル(1080年 - [[1081年]])
! style="background-color:#F0DC88" width=17% | 先代との関係
#アフマド・イブン・アル=ヒドゥル(アフマド1世)(1080/81年 - [[1089年]])
|-
#ヤークーブ・カーディル・ハン(1089年 - [[1095年]])
|- ! style="background:lightgreen"
#マスウード1世(1095年 - [[1097年]])
|align="center"| 1
#スライマーン・カーディル・タムガチ(1097年)
|align="center"| ムハンマド1世
#マフムード・アルスラーン・ハン(マフムード1世)(1097年 - [[1099年]])
|align="center"|[[1041年]]/[[1042年|42年]]
#ジブラーイール・アルスラーン・ハン(1099年 - [[1102年]])
|align="center"| アリーの孫。アフマド1世、マンスールの兄弟ナスル(1012年没<ref>丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、63頁</ref>)の子
#ムハンマド・アルスラーン・ハン(ムハンマド2世)([[1102年]] - [[1129年]])
|-
#ナスル(1129年)
|- ! style="background:lightgreen"
#アフマド・カーディル・ハン(アフマド2世)(1129年 - [[1130年]])
|align="center"| 2
#ハサン・ジャラール・アッドゥンヤ(1130年 - [[1132年]])
|align="center"| イブラーヒーム1世
#イブラーヒーム・ルクン・アッドゥンヤ(イブラーヒーム2世)(? - 1132年)
#マフムード2世(1132 - [[1141年]]
|align="center"|[[1052]]/[[1053年]]
|align="center"| 1の兄弟
#イブラーヒーム・タブガチ・ハン(イブラーヒーム3世)(1141年 - [[1156年]])
|-
#アリー・チャグリ・ハン(1156年 - [[1161年]])
|- ! style="background:lightgreen"
#マスウード・タブガチ・ハン(マスウード2世)(1161年 - [[1171年]])
|align="center"| 3
#ムハンマド・タブガチ・ハン(1171年 - [[1178年]])
|align="center"| ナスル1世
#イブラーヒーム・アルスラーン・ハン(イブラーヒーム4世)(1178年 - [[1204年]])
|align="center"|[[1068年]]
#ウスマーン・ウルグ・スルターン(1204年 - [[1212年]])
|align="center"| 2の子
→[[ホラズム・シャー朝]]によって滅亡
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 4
|align="center"| ヒズル
|align="center"|[[1080年]]
|align="center"| 2の子
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 5
|align="center"| アフマド1世
|align="center"|[[1081年]]? - 1089年
|align="center"| 4の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 6
|align="center"| ヤークーブ
|align="center"|[[1089年]]
|align="center"| 東カラハン朝の君主スライマーンの子
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 7
|align="center"| マスウード1世
|align="center"|[[1095年]]
|align="center"| 3,4の甥
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 8
|align="center"| スライマーン
|align="center"|? - [[1097年]]
|align="center"| 3,4の甥、7の従兄弟
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 9
|align="center"| マフムード2世
|align="center"|1097年
|align="center"| マンスールの子孫
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 10
|align="center"| ジブラーイール
|align="center"|1097年
|align="center"| 東カラハン朝の君主オマルの子
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 11
|align="center"| ムハンマド2世
|align="center"|[[1102年]] - [[1130年]]
|align="center"| 8の子
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 12
|align="center"| アフマド2世
|align="center"|[[1129年]]? - [[1132年]]?
|align="center"| 11の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 13
|align="center"| ハサン
|align="center"|[[1130年]]
|align="center"| -
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 14
|align="center"| イブラーヒーム2世
|align="center"|[[1132年]]没
|align="center"| 8の子
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 15
|align="center"| マフムード2世
|align="center"|[[1132年]] - [[1141年]]
|align="center"| 11の子
|-
|- ! style="background:lightgreen"
|align="center"| 16
|align="center"| イブラーヒーム3世
|align="center"|[[1141年]] - ?
|align="center"| 11の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 17
|align="center"| アリー
|align="center"|[[1156年]]
|align="center"| 13の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 18
|align="center"| マスウード2世
|align="center"|[[1160年]]/[[1161年|61年]]
|align="center"| 13の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 19
|align="center"| イブラーヒーム4世
|align="center"|[[1203年]]/[[1204年|04年]]没
|align="center"| 13の孫、17,18の甥
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 20
|align="center"| オスマーン
|align="center"|[[1212年]]没
|align="center"| 19の子
|-
|}


===東カラハン朝===
=== 東カラハン朝 ===
{|width=100% class="wikitable"
#サラーフ・アッダウラ・アブー・スーガ・スライマーン・アルスラーン・カン([[1032年|1032]]/[[1042年|42]]年 - [[1055年|1055]]/[[1056年|56]]年)
! style="background-color:#F0DC88" width=5% | 代数
#ムハンマド・ボグラ・カン(ムハンマド1世)(1056年 - [[1057年]])
! style="background-color:#F0DC88" width=17% | 君主名
#イブラーヒーム1世(1057年 - [[1059年]])
! style="background-color:#F0DC88" width=17% | 統治年代
#マフムード(1059年 - [[1075年]])
! style="background-color:#F0DC88" width=17% | 先代との関係
#ウマル(1075年)
|-
#アブー・アリー・アル=ハサン(1075年 - [[1102年]])
|- ! style="background:Wheat"
#アフマド・ハン(1102年 - [[1128年]])
|align="center"| 1
#イブラーヒーム2世(1128年 - [[1158年]])
|align="center"| スライマーン
#ムハンマド2世([[1158年]]以後)
|align="center"|[[1032年]] - [[1056年]]/[[1057年|57年]]
#ユースフ(? - [[1205年]])
|align="center"| ユースフの子
#ムハンマド3世(1205年 - [[1211年]])
|-
→[[ナイマン]]によって滅亡
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 2
|align="center"| ムハンマド1世
|align="center"|1056年/57年
|align="center"| ユースフの子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 3
|align="center"| イブラーヒーム1世
|align="center"|1057年/[[1058年|58年]]
|align="center"| 2の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 4
|align="center"| マフムード
|align="center"|[[1059年]]/[[1060年|60年]]
|align="center"| ユースフの子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 5
|align="center"| オマル
|align="center"|[[1074年]]/[[1075年|75年]]没
|align="center"| 4の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 6
|align="center"| ハサン
|align="center"|1074年/75年
|align="center"| 1の子。西カラハン朝の君主ヤークーブの兄弟
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 7
|align="center"| アフマド
|align="center"|[[1102年]]/[[1103年|03年]]没
|align="center"| 6の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 8
|align="center"| イブラーヒーム2世
|align="center"|[[1128年]]以後
|align="center"| 7の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 9
|align="center"| ムハンマド2世
|align="center"|[[1158年]]以後
|align="center"| 8の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 10
|align="center"| ユースフ
|align="center"|[[1205年]]没
|align="center"| 9の子
|-
|- ! style="background:Wheat"
|align="center"| 11
|align="center"| ムハンマド3世
|align="center"|[[1210年]]/[[1211年|11年]]没
|align="center"| 10の子
|-
|}


==脚注==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<references />


==参考資料==
== 参考文献 ==
* 井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)
*[[山田信夫 (歴史家)|山田信夫]]『北アジア遊牧民族史研究』([[東京大学出版会]]、1989年、ISBN 4130260480)
* 伊原弘、梅村坦『宋と中央ユーラシア』(樺山紘一、礪波護、山内昌之編, 世界の歴史7巻, 中央公論社, 1997年6月)
*[[小松久男]]『世界各国史4 中央ユーラシア史』([[山川出版社]]、[[2005年]]、ISBN 463441340X)
* 梅村坦「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
*林幹「突厥与回紇史」(内蒙古人民出版社)、2007年、ISBN 9787204088904
* 濱田正美「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)
* 濱田正美「カラハン朝」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
* 濱田正美「サトゥク・ボグラ・ハン」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
* 濱田正美『中央アジアのイスラーム』(世界史リブレット, 山川出版社, 2008年2月)
* 間野英二「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
* 間野英二「トルコ化・イスラーム化時代の中央アジアの社会と文化1」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
* 丸山鋼二「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号収録(文教大学, 2008年)
* 山田信夫『草原とオアシス』(<ビジュアル版>世界の歴史, 講談社, 1985年7月)
* 山田信夫「トルキスタンの成立」『北アジア遊牧民族史研究』収録(東京大学出版会, 1989年1月)
* C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年3月)
* ルネ・グルセ『アジア遊牧民族史』上(後藤富男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1979年1月)
* ウェ・バルトリド『中央アジア史概説』(長沢和俊訳, 角川文庫, 角川書店, 1966年)
* V.V.バルトリド『トルキスタン文化史』1巻(小松久男監訳, 東洋文庫, 平凡社, 2011年2月)
* 『新イスラム事典』(平凡社, 2002年3月)、579-580頁の系図


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2015年5月26日 (火) 04:01時点における版

カラハン朝
カルルク 9世紀 - 1212年 西遼
ホラズム・シャー朝
カラハン朝の位置
1000年頃のカラハン朝の支配領域
首都 ベラサグン
カシュガル
サマルカンド
アルスラン・ハン
ボグラ・ハン
10世紀 - 955年 サトゥク・ボグラ・ハン
960年頃 - ?ムーサー・アルスラン・ハン
? - 998年アリー・アルスラン・ハン
変遷
イスラム教への集団改宗 960年
国家の東西分裂11世紀半ば
カラ・キタイ(西遼)への従属12世紀
東カラハン朝の滅亡1210年
西カラハン朝の滅亡1212年

カラハン朝(カラハンちょう、ペルシア語 : قراخانيان Qarākhānīyān)は、かつて中央アジアに存在したイスラム王朝。中央アジアのテュルク(トルコ)系の遊牧民族の中で最初にイスラーム化した集団と考えられている[1]

カラハン朝はテュルク系の支配者として初めて、イラン系の民族・文化が中心的な地位を占めていたマー・ワラー・アンナフルを支配した国家である[2]。カラハン朝がマー・ワラー・アンナフルを支配するイラン系の王朝サーマーン朝を滅ぼした後、タジキスタン共和国を除いてマー・ワラー・アンナフルにイラン系の国家が再建されることは無かった[3]

カラハン朝の時代は「西トルキスタン」の黎明期とも言え、パミール高原以西の地域にテュルク・イスラーム文化が確立された[4]。カラハン朝が滅亡した後、カラハン朝の時代に芽生えたテュルク・イスラーム文化はモンゴル、ウズベクカザフなどの西トルキスタンを征服した他の民族・文化を同化する[3]タリム盆地ウイグル族はカラハン朝を自らの祖先が建てた国と見なし、王朝の君主サトゥク・ボグラ・ハンマフムード・カーシュガリーユースフ・ハーッス・ハージブらカラハン朝時代の学者の廟を建立した[5]

王朝の呼称

「カラハン朝」は後世の歴史家によって付けられた名称であり、「カラハン」という君主の称号に由来する[6]。「カラ」は「強い」「大きい」を意味する言葉で、「カラハン」という称号はは「強大なハン」の意と考えられている[7]。イスラーム世界の史料では「ハーカーニーヤ(ハン、カガンの王朝)」「アフラースィヤーブ朝」と書かれ[8]、古銭学者の間では貨幣に刻まれている称号(elik、ilik、iläk)に由来するイレク・ハン国(イリグ・ハン国)という名称も使用される[6]。また、王統の起源をウイグル(回鶻)に推定する立場の人間は、「回鶻新王国」「葱嶺(パミール)西回鶻」の呼称を使用している[9]

歴史

勃興期

840年モンゴル高原ウイグル国家が崩壊した後、カラハン朝の勢力が台頭する[1]。ウイグル国家を構成していたテュルク諸部族は中国、チベット、中央アジアに移動し、そのうち15の部族はセミレチエ地方を支配するカルルク族の元に逃走した[10]

カラハン朝の王統の起源は明らかになっておらず[8]、様々な説が挙げられている。ウクライナの学者Omeljan Pritsakはカラハン朝の起源をウイグルトルクマンカルルクチギルヤグマー、カルルク・ヤグマー混合、突厥の7に分類し[11]、カラハン朝の起源をウイグル国家崩壊後に独立したカルルクの部族連合と推定した[9]。突厥起源説では、突厥の支配支族の一つである阿史那氏の末裔が「カガン」を称し、タラスイリ河谷カシュガルに至る地域に新たな部族連合を形成したと説明されている[8]。カルルクを王朝の起源とする説では亡命者を受け入れたカルルクの集団がやがてカラハン国家に変貌したと説明され、カルルクの指導者であるキュル・ビルゲ(ビルゲ・キュル・カドゥル)、キュル・ビルゲの孫サトゥクのいずれかを王朝の創始者と見なしている[12]。創始者のキュル・ビルゲの時代に、それまでカルルクが本拠地としていたスイアブからベラサグンに本拠地を移したと考えられている[13]

キュル・ビルゲの子バズルは大ハン(アルスラン・ハン)としてべラサグンを支配し、バズルの弟オグウルチャクは小ハン(ボグラ・ハン)としてタラスを支配した[14]893年マー・ワラー・アンナフル地方を支配するサーマーン朝によってタラスが占領されるとオグウルチャクはカシュガルに移り、この地でサーマーン朝の政争から逃れた人間を受け入れた[14]。オグウルチャクが亡命者であるサーマーン朝の王子ナスルをアルトゥシュの統治者に任命した後、ナスルの元にはイスラームの商人が多く集まるようになり、アルトゥシュにモスクが建立された[15]。オグウルチャクの元ではイスラム教の布教は禁止されていたが、ナスルの受け入れによって領内のイスラム教の信者は次第に増加していき、オグウルチャクの甥サトゥクもナスルの影響を受けて密かにイスラム教に改宗した[15]。25歳に達したサトゥクは仏教を信仰するオグウルチャクを討ってカシュガルを征服し、カラハン朝で初めてのイスラム教を信仰する君主となる[15]

カラハン朝の歴史のうち史実と見なされるのはサトゥクがハンに即位した時代以降で、サトゥクの時代より前の時代として記されている出来事を単なる伝承、または史実と見なすかで研究者の見解は分かれている[16]。イスラームに改宗したカラハン朝の君主は異教を奉じる他の王族に聖戦(ジハード)を挑み、王朝のイスラーム化が進行していく[17]942年/3年にサトゥクは大ハンが支配するベラサグンを占領するが、領内ではイスラム教は完全に受け入れられてはいなかった[18]。11世紀以降に信仰の違いのためにカラハン朝が天山ウイグル王国(西ウイグル王国、高昌回鶻王国)から完全に分離した後、君主の中で初めてイスラム教を受け入れたサトゥクは王朝の始祖として崇拝されるようになった[18]

宗教戦争とサーマーン朝への攻撃

960年頃にサトゥクの子ムーサーはベラサグンの大ハンを破り、仏教国である于闐ホータン)を攻撃した。ムーサーはカシュガルを本拠地に定め、それまでの大ハンの都であるベラサグンを副都に降格し、兄弟のスライマーンをベラサグンの小ハンに任命した[19]。于闐は同じ仏教国である天山ウイグル王国、吐蕃と同盟を結んで優位に立ち、969年9月に于闐の攻撃を受けたカラハン朝の君主Tazik Tsun Hienはカシュガルを放棄して逃走し、多くの財宝と捕虜が于闐の手に渡った[20]

サトゥクの孫の時代には、ムーサーの子アリーが国家の東部を支配するアルスラン・ハン、スライマーンの子ハサン(ハールーン)が西部を支配するボグラ・ハンの地位にあり、サーマーン朝が支配するマー・ワラー・アンナフルに侵入した[21]992年にハサンはマー・ワラー・アンナフルの中心都市ブハラサマルカンドを占領するが、ハサンはカシュガルへの帰還中に没し、サーマーン朝はブハラを回復する。996年に締結した条約によってカラハン朝はサーマーン朝からザラフシャーン盆地北部地域を獲得し[22]999年にアリーの子ナスル・アルスラン・イリク・ハンがブハラを占領し、サーマーン朝を滅ぼした。

998年に大ハンのアリーが于闐との戦争で落命し、カシュガルは仏教徒の反乱に乗じた于闐軍によって占領される[23]。アリーの跡を継いだアフマド1世はブハラに援軍を要請し、ブハラの宗教指導者ムハイディンら4人のイマームに率いられた40,000の志願兵によって于闐軍からカシュガルを奪回した[23]。カラハン朝は1006年までにホータン、11世紀半ばにクチャを征服し、仏教徒が多数を占める地域のテュルク化・イスラーム化が促進される[17]。于闐が滅亡した後もホータンでは長らく仏教徒の反乱が続いたが、最終的に仏教徒の抵抗は失敗し、イスラム教への改宗を拒否する人間の大部分は他の国に亡命した[24]

于闐を滅ぼした後、アフマド1世は天山ウイグル王国に改宗のための聖戦を数度にわたって実施する。1017年にカラハン軍はベラサグンから天山ウイグル王国に攻め込むが反撃に遭い、天山ウイグル王国の軍隊はベラサグン近郊に接近した[25]。病床についていたアフマド1世は陣頭で指揮を執って天山ウイグル王国を破り、トルファンに進軍するが、帰国後に病没した[25]。アフマド1世の死後にカラハン朝内部の抗争は激化し、ホータンを支配するユースフ・カディル・ハンがカシュガルのハン位を継いだ時代には中央アジアの支配権を巡ってガズナ朝と争った[26]

当初カラハン朝とガズナ朝との関係は良好で、ナスルとガズナ朝のスルターン・マフムードの娘との婚姻が進められていた[27]。しかし、カラハン朝はガズナ朝を成り上がり者の国と蔑視し、ペルシア・インドを抑えるマフムードもカラハン朝を野蛮な国と見なし、またカラハン朝からの攻撃を警戒していた[27]1006年にマフムードがインドに出征した際、ナスルは隙を突いてホラーサーン地方に侵入し、ホータンのユースフの援軍を得てバルフニーシャープールを略奪した。1008年1月にナスルはバルフ近郊のシャルヒヤーンの戦闘でマフムードに敗れ、撤退する。1025年にマフムードがナスルの子アリーの支配化に置かれていたマー・ワラー・アンナフルに侵入した際、カシュガルの支配者の地位を継いだユースフはマフムードと連合して西カラハン朝を攻撃した[28]1026年にアリーはブハラ、サマルカンドをガズナ朝から奪回したが、1032年にはマフムードの子マスウードによって一時的にブハラを占領された。

マー・ワラー・アンナフルを中心とする西部はアリーの一族、ベラサグン、カシュガルを中心とする東部はハサンの一族が支配する体制が敷かれていたが、11世紀半ばにカラハン朝は完全に東西に分裂する[29]。東西に分裂したカラハン朝は互いに争い、10世紀半ばから行われていた異教徒に対する聖戦は終息する[25]

東西分裂後

西カラハン朝はサマルカンドを首都に定め、11世紀にアッバース朝カリフの権威を承認した[30]。西カラハン朝の支配者は当初ウズガンド(ウズゲン)に居住していたが、権力を強化した後にサマルカンドに宮廷を移し、ウズガンドはフェルガナの統治者の本拠地とされた[31]。西カラハン朝は全マー・ワラー・アンナフルの支配者を自称していたが、フェルガナはサマルカンドから半ば独立した状態にあった[31]

東カラハン朝は草原地帯のテュルク・ムスリムの軍事力によってフェルガナ盆地のオアシス都市を支配し、その経済力は天山山脈の南北に及んでいた[4]。ユースフの死後、東カラハン朝はベラサグン、カシュガル、ホータンを支配する大ハン、タラスを支配する小ハンの領土に分裂する[32]1055年頃、タラスを支配するムハンマド1世・ボグラ・ハンは大ハンが領有するカシュガルを獲得した。ムハンマド1世はカシュガルを文化都市に発展させ、東カラハン朝からは教訓書『クタドゥグ・ビリグ』やトルコ語の辞典『トルコ語集成』などの作品が生み出された。11世紀末に東カラハン朝はアフマド・ボグラ・ハンによって再統一され、彼の治世に『クタドゥグ・ビリグ』が著される[33]

11世紀初頭にオグズの一派がイランで興したセルジューク朝1040年ダンダーンカーンの戦いガズナ朝を破り、勢力を広げた。当初カラハン朝はセルジューク朝の攻撃に耐え、セルジューク朝の支配下に置かれていたホラーサーン地方の都市を占領する。1072年にマー・ワラー・アンナフルはセルジューク朝の攻撃を受け、西カラハン朝のナスル1世はセルジューク朝に臣従を誓った[32]。アフマド1世の治世の1089年、政府と対立するマー・ワラー・アンナフルのウラマー(イスラームの神学者)の要請に応じて西カラハン朝を攻撃したセルジューク軍はサマルカンドを占領し、西カラハン朝はセルジューク朝の支配下に置かれた[34]。アフマド1世はセルジューク朝から支配権を回復したものの、1095年にウラマーによって異端と宣告され、処刑された[34]。およそ半世紀の間、西カラハン朝はセルジューク朝に臣従し、大部分の君主はセルジューク朝によって選ばれた[34]

東カラハン朝はセルジューク朝がタラス、セミレチエに侵攻した後にセルジューク朝への臣従を表明したが、臣従の期間はごく短かった。1102年に東カラハン朝の王統に連なる西カラハン朝の君主ジブラーイールはセルジューク朝が支配するホラーサーン地方に侵入するが、この地を治める王子サンジャルによってテルメド近郊の戦いで殺害される。1130年にハサン、1132年にマフムード2世を王位に就けた[35]

12世紀前半の中国北部では女真族の建国した契丹族の国家に取って代わり、遼の王族耶律大石に率いられた一団は中国から中央アジアに移住してカラ・キタイ(西遼)を建国した。東カラハン朝のアフマド・ハンは東トルキスタンの横断を試みたカラ・キタイ軍を破り、耶律大石は進路を天山山脈北方に変更する[36]。ベラサグンを支配するカラハン朝の王族が耶律大石に援軍を求めた後、ハンの敵を破った耶律大石はベラサグンを奪い、この地でグル・ハンを称した[36]1137年に西カラハン朝の君主マフムード2世はホジェンド付近の戦闘でカラ・キタイの軍に敗れ、マフムードは叔父であるセルジューク朝のスルターン・サンジャルに助けを求めたが、1141年カトワーンの戦いでセルジューク朝・カラハン朝の連合軍はカラ・キタイに敗北する[37]。東カラハン朝とカラ・キタイの戦闘に関する記録は残されていないが、アフマドの子イブラーヒーム2世は殉教者(Shahīd)の名前で呼ばれていることからカラ・キタイとの戦闘で落命したと考えられている。臣従を認めさせて貢納を徴収するカラ・キタイの間接統治策の下、東カラハン朝はカラ・キタイの王位を簒奪したナイマン部族クチュルクに滅ぼされ、西カラハン朝は1212年ホラズム・シャー朝に滅ぼされるまで存続した[38]

滅亡

1210年にクチュルクはカラ・キタイの王位を簒奪するが、カシュガルとホータンはクチュルクの支配を受け入れなかった。クチュルクはカラ・キタイの宮廷に拘留されていた東カラハン朝の王子ムハンマド3世をカシュガルに帰国させるが、釈放されたムハンマド3世はカシュガルの貴族によって殺害される[39]。東トルキスタンを平定するため、クチュルクは2,3年にわたって軍隊を派遣しなければならなかった[40]

西カラハン朝の最後の君主オスマーンは中央アジアで勢力を拡大するホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドに協力を求め、従属・貢納と引き換えにカラ・キタイへの攻撃を要請した[41]1209年/10年にオスマーンはムハンマドが実施したカラ・キタイ遠征に参加して勝利を収め、戦後ムハンマドの娘を娶る[42]。サマルカンドにはカラ・キタイから派遣された代官に代わってホラズムから派遣された知事が赴任したが、オスマーンはホラズムの圧政に苦しみ、1210年/12年にカラ・キタイの王位を簒奪したクチュルクに助けを求め、サマルカンド内のホラズム人を虐殺した[43]。サマルカンドで起きた事件の報告を受け取ったムハンマドはサマルカンドに進軍し、町はホラズム軍の攻撃によって陥落する。降伏したオスマーンとその家族はムハンマドによって殺害され、ムハンマドはサマルカンドを新たな首都に定め、マー・ワラー・アンナフルはホラズム・シャー朝に併合された[44]

社会

カラハン朝の王族はペルシアの伝説上のテュルクの王であるアフラースィヤーブの子孫を自称していた[45]。カラハン朝はイスラム教を受容した後も伝統的な遊牧国家の統治体制を敷き続け、二人のハン(カガン)が国家の東西を統治していた[1]。カラハン朝の宮廷は最高権力者であるハンに対するテュルク的な観念以外に、「王の中の王」(シャーハーン・シャー)というペルシア的な王権の観念、中華世界の皇帝権の影響も受けており、中国皇帝の呼称である「タブガチ・ハン」も君主の称号として使用されていた[46]。領土の東部を大ハン(アルスラン・カラ・ハン)、西部を小ハン(ボグラ・カラ・ハン)が支配し、それぞれのハンの下にイリク(イリグ、イレク)、テギンという称号の下級君主が置かれていた[1]。カラハン朝の君主の称号に含まれる「アルスラン」は獅子、「ボグラ」は雄駱駝を意味し、ライオンはチギル部族、雄駱駝はヤグマー部族のトーテム獣と考えられている[47]。王子は「テギン」、王女は「カトゥン」と呼ばれ、貴種として他の人間と明確に区別された[7]

11世紀の半ばに入ってもハンたちは夏季に遊牧生活を営み、冬季に都市部に居住する生活を送っていた[4]。封的な支配体制の下で土地の統治は各地の王族に委任され[1]、領土を分封された王族はイリク・ハンの称号を使用していた[48]。領土の分配はそれぞれの王族が本拠に定める都市の発展を促し、都市に住むウラマー(イスラームの法学者)の地位をも向上させる[49]。カラハン朝初期の時代、都市の事情に通じていなかった君主たちは征服した都市にそれまで存在していた行政組織に代えてマートゥリーディー派のウラマーに都市の統治を委任していた[50]。各都市にはカーディー(イスラーム法の判事)が任命され、王族の利益の確保を進める一部のカーディーと都市民の権利の保護を図るウラマーの対立を経て、ウラマーは都市民の代表者としての地位を確立する[50]。カラハン朝支配化の中央アジアには、多くのファトワーを発したムフティーのナジュムッディーン・ナサフィー、マートゥリーディー派の思想を体系化したアブー・アル=ムイーンらの学者も現れた。カラハン朝が衰退しカラ・キタイが台頭した後もウラマーはオアシス都市の代理統治者としてなおも権威と権力を保ち続け[51]、西カラハン朝統治下のブハラの名家であるブルハーン家はサマルカンドの宮廷とは別にカラ・キタイに貢納を行い、サマルカンドの宮廷から独立した統治を行っていた[52]

西カラハン朝の首都のサマルカンドには宰相府が置かれ、行政に携わる書記(ウダバー)が高い社会的地位を有していた[49]。カラハン朝の宮廷職に文官・武官の明確な区別は設けられておらず、騎兵隊長、軍司令官(スバシ)、侍従(ハージブ)、秘書官の順に昇進していった[53]。宮廷職はテュルク諸部族出身の貴族が担い、ハンの一族は彼らの補佐を受けていた[54]。サーマーン朝時代に没落したディフカーン(中央アジアの土豪)は短期間勢力を回復したが再び勢力を失い、12世紀から13世紀にかけての政治的事件の記録に現れなくなった[55]

経済

カラハン朝支配下のトルキスタンではテュルク系のイスラム教徒によるキャラバン交易が行われ、政府が鋳造した貨幣が流通していた[56]。発行された貨幣はイスラーム世界のディルハム銀貨を元にしたもので、イリグ・ハン(王ハン)、タブガチ・ハン(中国のハン)といった称号や、アラビア語によるイスラームの信仰告白の定型句が刻まれていた[57]。貨幣に刻まれた銘文はカラハン朝の歴史を伝える貴重な史料となっている[58]

西カラハン朝末期のサマルカンドは400,000-500,000の人口を擁する大都市で、園林が郊外に連なり、果実・穀物の栽培、養蚕が行われていた[59]。カラハン朝時代の教訓書『クタドゥグ・ビリグ』には農民、牧人、商人、職人は生活の基盤を支える社会階級と記され、彼らの活動によって生み出された富が都市部の支配者層の下に蓄積されていた[60]。農地では塩分を含んだ土地の改良、貯水池を利用した灌漑、風力による脱穀が行われ、収穫された食物はパンに加工されていたた[61]。果実の中ではブドウの栽培が盛んで生食にするほかワイン、ジュース、干しブドウに加工され、ブドウのほかにはリンゴ、メロン、スイカなどの作物も栽培されていた[62]

宗教

アルトゥシュのサトゥク・ボグラ・ハン廟

サトゥク・ボグラ・ハンがイスラム教に改宗する前のカラハン朝では仏教が主流であり、ほかにマニ教ネストリウス派キリスト教シャーマニズムなどが信仰されていた[18]。サトゥク・ボグラ・ハンの改宗に関する最古の記録は14世紀初頭の文献内で引用された11世紀の史料に遡るが、この時点で既にサトゥクの改宗には伝説的な脚色が加えられていた[63]。アラブの歴史家イブン・アスィール960年に200,000戸のテュルクの集団改宗が起きたことを記録しているが、この記述はサトゥクの息子ムーサーの時代にカラハン朝が完全にイスラームを受容したことの表れだと考えられている[63]。カラハン朝の君主がイスラム教に改宗した理由について、信徒に対して団結を求めるイスラームの教義、「聖戦」や「殉教」といった概念が支配の維持、勢力の拡大に貢献できる側面が指摘されている[19]

サトゥク、ムーサーの時代にカシュガルで行われた強制的なイスラームへの改宗は国内の他の宗教の信徒の反発を引き起こし、于闐、天山ウイグル王国などの仏教国との関係を悪化させる[19]。ムーサーは王位を巡る争いの中で強制的な改宗を進め、改宗政策においてはニーシャープール出身のスーフィー(神秘主義者)・カリマティが大きな役割を果たした[20]。カラハン軍が于闐を破ってホータンを占領した後、城砦は破壊されたが、仏教寺院は破壊されずにモスクに改築された[23]

1141年のカトワーンの戦いでカラハン朝がカラ・キタイに敗れた後、ベラサグンに近いセミレチエの地にカラ・キタイの軍隊が駐屯した。東西のカラハン朝はカラ・キタイの臣従国として存続し、徴税と定住生活を送るイスラム教徒の監督を命じられた。カラ・キタイの支配者層は仏教を信仰していたが、支配地の信仰には寛容な姿勢を取っていた[64]。東カラハン朝の首都カシュガルはイスラム教の文化と権威が保たれながらも、東方におけるネストリウス派のキリスト教徒の中心都市となった。チュイ川の渓谷では、カラ・キタイへの従属時代に建てられたキリスト教徒の墓石が発見された[65]

文化

ブハラのカラーン・ミナレット
12世紀にウズゲンに建てられた廟

10世紀にテュルク諸部族に受容されたイスラム教はテュルクの文化と結合し、11世紀にアラビア文字で表記するテュルクの言語(カラハン朝トルコ語)が成立した [66]1096年ユースフ・ハーッス・ハージブによってテュルクの言語による教訓書『クタドゥグ・ビリグ』が東カラハン朝の君主に献呈された。テュルクの言語をアラビア文字で記した最初の作品である『クタドゥグ・ビリグ』は、テュルク・イスラーム文学最古の作品に位置付けられている[67]

テュルク・イスラーム文学はイスラーム世界とペルシア文学の強い影響を受けており、従前のテュルクと深い関係があった中国、仏教、キリスト教、マニ教の影響は見られない[68]。『クタドゥグ・ビリグ』にはクルアーンハディーススーフィーの著書から引用した忠言が記されており、王族のイスラームの改宗から1世紀後にはイスラーム学はトルキスタンの知識人の間に深く浸透していたことがうかがえる[69]。権力闘争の末にバグダードに逃れた東カラハン朝の王族マフムード・カーシュガリーは『トルコ語集成(ディーワン・ルガード・アッテュルク)』を1077年/78年に著し、アッバース朝のカリフ・ムクタディーに献呈した。しかし、『クタドゥグ・ビリグ』『トルコ語集成』の後に続くトルコ語による著述活動は盛んとは言い難く、これらの作品が流布した範囲も広くは無かった[70]ティムール朝の時代に入って、テュルクの言語は中央アジア世界でペルシア語に並ぶ地位を確立する[71]

カラハン朝時代に建設された大規模な建設物は多く残っており、10世紀末まで中央アジアを支配していたサーマーン朝と比べて多い[72]1121年にブハラに金曜モスクが建立され、1127年にはモスクの前にカラーン・ミナレットが建てられた[73]。ミナレットの高さは約45.6mで、戦災や地震の被害を受けながらも修復され、姿をとどめている[73]。サーマーン朝時代に比較的小さな都市だったウズガンドは一時的にマー・ワラー・アンナフル全土の支配者である西カラハン朝の君主の居所とされ、宮廷が移された後もフェルガナの統治者の本拠地とされた[31]。ウズガンドには高さ約18mのミナレットが建立され、ウズゲンの建物の中でも12世紀に建てられたものは特に評価が高い[74]1078年/79年にナスル1世によってブハラとサマルカンドの間に建設されたラバーティ・マリクは隊商宿(キャラバンサライ)以外に防衛施設としての役割も有していたと考えられている[75]

君主

代数 君主名 統治年代 先代との関係
1 キュル・ビルゲ・ハン 840年 -
2 バズル ? 1の子
3 ? ? 2の子
4 ? ? 3の子
- サトゥク・ボグラ・ハン 955年 2の子。カシュガルの小ハン。
5 ムーサー 960年 サトゥクの子
6 アリー 998年 5の子
7 アフマド1世 998年 6の子
8 マンスール 1015年-16年 - 1024年/25年 6の子
9 アフマド2世 1024年/25年 - 1026年/27年 5の曾孫。ハサン(992年没)の子
10 ユースフ 1026年/27年 - 1032年没[25] 9の兄弟。
凡例
家系
サトゥク・ボグラ・ハンの孫アリーの一族
サトゥク・ボグラ・ハンの孫ハサン(ハールーン)の子孫

西カラハン朝

代数 君主名 統治年代 先代との関係
1 ムハンマド1世 1041年/42年 アリーの孫。アフマド1世、マンスールの兄弟ナスル(1012年没[76])の子
2 イブラーヒーム1世 1052年/1053年 1の兄弟
3 ナスル1世 1068年 2の子
4 ヒズル 1080年 2の子
5 アフマド1世 1081年? - 1089年 4の子
6 ヤークーブ 1089年 東カラハン朝の君主スライマーンの子
7 マスウード1世 1095年 3,4の甥
8 スライマーン ? - 1097年 3,4の甥、7の従兄弟
9 マフムード2世 1097年 マンスールの子孫
10 ジブラーイール 1097年 東カラハン朝の君主オマルの子
11 ムハンマド2世 1102年 - 1130年 8の子
12 アフマド2世 1129年? - 1132年? 11の子
13 ハサン 1130年 -
14 イブラーヒーム2世 1132年 8の子
15 マフムード2世 1132年 - 1141年 11の子
16 イブラーヒーム3世 1141年 - ? 11の子
17 アリー 1156年 13の子
18 マスウード2世 1160年/61年 13の子
19 イブラーヒーム4世 1203年/04年 13の孫、17,18の甥
20 オスマーン 1212年 19の子

東カラハン朝

代数 君主名 統治年代 先代との関係
1 スライマーン 1032年 - 1056年/57年 ユースフの子
2 ムハンマド1世 1056年/57年 ユースフの子
3 イブラーヒーム1世 1057年/58年 2の子
4 マフムード 1059年/60年 ユースフの子
5 オマル 1074年/75年 4の子
6 ハサン 1074年/75年 1の子。西カラハン朝の君主ヤークーブの兄弟
7 アフマド 1102年/03年 6の子
8 イブラーヒーム2世 1128年以後 7の子
9 ムハンマド2世 1158年以後 8の子
10 ユースフ 1205年 9の子
11 ムハンマド3世 1210年/11年 10の子

脚注

  1. ^ a b c d e 濱田「カラハン朝」『中央ユーラシアを知る事典』、147頁
  2. ^ 伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、325頁
  3. ^ a b 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、87頁
  4. ^ a b c 梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、81頁
  5. ^ 梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、79頁
  6. ^ a b 山田「トルキスタンの成立」『北アジア遊牧民族史研究』、206頁
  7. ^ a b 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、100頁
  8. ^ a b c 濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、163頁
  9. ^ a b 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、55頁
  10. ^ 山田『草原とオアシス』、126頁
  11. ^ 山田「トルキスタンの成立」『北アジア遊牧民族史研究』、206-207頁
  12. ^ 山田『草原とオアシス』、142-143頁
  13. ^ 山田『草原とオアシス』、144頁
  14. ^ a b 山田「トルキスタンの成立」『北アジア遊牧民族史研究』、207頁
  15. ^ a b c 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、56頁
  16. ^ 山田「トルキスタンの成立」『北アジア遊牧民族史研究』、206,208頁
  17. ^ a b 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、86頁
  18. ^ a b c 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、57頁
  19. ^ a b c 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、58頁
  20. ^ a b 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、59頁
  21. ^ 濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、164-165頁
  22. ^ バルトリド『中央アジア史概説』、55頁
  23. ^ a b c 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、60頁
  24. ^ 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、61頁
  25. ^ a b c d 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、62頁
  26. ^ 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、60,62頁
  27. ^ a b グルセ『アジア遊牧民族史』上、230頁
  28. ^ グルセ『アジア遊牧民族史』上、231頁
  29. ^ 濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、165頁
  30. ^ 梅村「中央アジアのトルコ化」『中央アジア史』、80-81頁
  31. ^ a b c バルトリド『中央アジア史概説』、56頁
  32. ^ a b グルセ『アジア遊牧民族史』上、233頁
  33. ^ グルセ『アジア遊牧民族史』上、233-234頁
  34. ^ a b c Davidovich, E. A. (1998), “Chapter 6 The Karakhanids”, in Asimov, M.S.; Bosworth, C.E., History of Civilisations of Central Asia, 4 part I, UNESCO Publishing, pp. 119–144, ISBN 92-3-103467-7 
  35. ^ グルセ『アジア遊牧民族史』上、251-252頁
  36. ^ a b バルトリド『中央アジア史概説』、62頁
  37. ^ 井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112-113頁
  38. ^ 濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、172頁
  39. ^ グルセ『アジア遊牧民族史』上、370-371頁
  40. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、147頁
  41. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、156頁
  42. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、157-158頁
  43. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、158-159頁
  44. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、158頁
  45. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、325頁
  46. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、187-188頁
  47. ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、101頁
  48. ^ ソビエト科学アカデミー編『世界史』中世3普及版(江口朴郎、野原四郎、林基監訳, 東京図書, 1963年4月)、695頁
  49. ^ a b 濱田『中央アジアのイスラーム』、42頁
  50. ^ a b 濱田『中央アジアのイスラーム』、43頁
  51. ^ 濱田『中央アジアのイスラーム』、43-44頁
  52. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、192-193頁
  53. ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、100-101頁
  54. ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、101頁
  55. ^ バルトリド『中央アジア史概説』、57頁
  56. ^ 伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、326頁
  57. ^ 伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、325-326頁
  58. ^ 山田『草原とオアシス』、145頁
  59. ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、105頁
  60. ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、102-105頁
  61. ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、103-104頁
  62. ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、104-105頁
  63. ^ a b 濱田「サトゥク・ボグラ・ハン」『中央ユーラシアを知る事典』、214頁
  64. ^ Svatopluk Soucek (2000). “Chapter 5 - The Qarakhanids”. A history of Inner Asia. Cambridge University Press. ISBN 0-521-65704-0 
  65. ^ Sinor, D. (1998), “Chapter 11 - The Kitan and the Kara Kitay”, in Asimov, M.S.; Bosworth, C.E., History of Civilisations of Central Asia, 4 part I, UNESCO Publishing, ISBN 92-3-103467-7 
  66. ^ 間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、98頁
  67. ^ 間野「トルコ化・イスラーム化時代の中央アジアの社会と文化1」『中央アジア史』、96頁
  68. ^ バルトリド『中央アジア史概説』、53-54頁
  69. ^ 濱田『中央アジアのイスラーム』、38-39頁
  70. ^ 濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、167-168頁
  71. ^ 濱田「中央ユーラシアの「イスラーム化」と「テュルク化」」『中央ユーラシア史』、168頁
  72. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、184頁
  73. ^ a b 堀川徹「カラーン・ミナレット」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)、147-148頁
  74. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、184-185頁
  75. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、182,185頁
  76. ^ 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』18巻2号、63頁

参考文献

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  • ルネ・グルセ『アジア遊牧民族史』上(後藤富男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1979年1月)
  • ウェ・バルトリド『中央アジア史概説』(長沢和俊訳, 角川文庫, 角川書店, 1966年)
  • V.V.バルトリド『トルキスタン文化史』1巻(小松久男監訳, 東洋文庫, 平凡社, 2011年2月)
  • 『新イスラム事典』(平凡社, 2002年3月)、579-580頁の系図