カザフ・ハン国
| カザフ・ハン国 | |||||
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| قازاق حاندىعى | |||||
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| 公用語 | カザフ語 | ||||
| 首都 | テュルキスタン | ||||
| ハン | |||||
| 1469年/1470年 - 1473年/1474年 | ケレイ・ハン | ||||
| 1469年/1470年 - 1480年 | ジャニベク・ハン | ||||
| 1511年 - 1518年 | カーシム・ハン | ||||
| 1716年 - 1748年 | アブル=ハイル・ハン | ||||
| 1841年 - 1847年 | ケネサル | ||||
| 変遷 | |||||
| 成立 | 1469年 | ||||
| 分裂 | 1718年頃 | ||||
| ロシア帝国に併合 | 1847年 | ||||
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カザフ・ハン国(カザフ・ハンこく、カザフ語: قازاق حاندىعى、Қазақ хандығы、Qazaq xandığı、ロシア語: Казахское ханство、Kazakhskoye khanstvo)は、15世紀から19世紀にかけて現在のカザフスタンに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスのトカ・テムル家の子孫が建てた。
カザフ(カザク)の由来
[編集]「カザク qazaq」という呼称の確かな語源は不明であるが、13~14世紀頃から「逃亡者」「放浪者」の意味で用いられるようになり、のちには現行の支配者に対する権力の要求者、およびそれを支持して略奪行為をおこなう集団を指すようになったといわれる[1]。
「カザク」と「コサック」は同じ「冒険者」「独立不羈の民」を意味するテュルク語であった[2]。そのためロシア帝国は両者の混同を避けるため、1925年までカザフ人を「キルギス」と呼んだため、クルグズ(キルギス)との混同を招いた[2]。
『ターリーヒ・ラシーディー』(Tārīkh-i Rashīdī)、『神秘の海』ではジャニベクとケレイ(ギレイ)が「カザク」という呼称を帯びる理由として彼らがウズベク地方を離れてモグーリスタンにおいて放浪・略奪という「カザク的行為」を行ったためと説明している[3]。
歴史
[編集]カザフ・ハン国の形成
[編集]1446年、ウズベクのアブル=ハイル・ハンがシル川中流域のオアシス都市スグナク、サウラン、ウズゲンドを占領すると、もともとシル川中流域を支配していた青帳ハン国(オルダ・ウルス)の残党(当時の史料ではこれをカザフ・ウズベクと呼んでいた)がトカ・テムル家のオロスの曾孫ケレイとジャニベクを擁してアブル=ハイル・ハンに背き、モグーリスタンの辺境に移住した[4][5]。
1468年、アブル=ハイル・ハンが没すると、ウズベクのウルスは分裂状態に陥り、その多くはモグーリスタン辺境のカザフのもとへ流れ、ケレイとジャニベクの両ハンを君主とあおいでカザフ・ハン国を形成、『ターリーヒ・ラシーディー』によるとその数は20万に達したという[6][7]。
シャイバーニー朝との戦い
[編集]1508年から1509年にかけてシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハンが侵攻してきたが、ハンのブルンドゥク(在位:1473年/1474年 - 1511年)はその撃退に成功した。
ウズベク(シャイバーニー朝)がマー・ワラー・アンナフルへ移住すると、カザフはキプチャク草原の遊牧民を麾下におさめ、カーシム・ハン(在位:1511年 - 1521年)の時代に強盛となった。彼らはシル川中流域やセミレチエ地方のオアシス都市を支配下に入れ、東西トルキスタン(旧チャガタイ・ハン国領)をしばしば攻撃して周囲の諸勢力に恐れられた[6]。
1521年にカーシム・ハンが亡くなると、シルダリヤ下流の諸都市は、モグーリスタンの君主たちと同盟を結んだシャイバーニー朝の手に再び落ちた[8]。カザフ・ハンのターヒル(在位:1523年 - 1533年)による奪還の試みは実を結ばず、これらの町の帰属は16世紀まで変わらなかった[8]。そしてカザフ人たち、とくにカーシムの息子ハックナザル(在位:1538年 - 1580年)は、モグーリスタンの君主たちおよびオイラトに対抗して、クルグズの諸部族と不安定な連合を組んだ[8]。彼らは北東では拡張主義的な狙いを持ったシビル・ハン国のクチュム・ハンと衝突し、このためにウズベクのアブドゥッラー・ハンと一時的な同盟を結んだ[8]。西方では、タタール人、バシキール人、ロシア国家がステップの心臓部に向かって進出してきたことによって不安定化したノガイ人と衝突した[8]。ハックナザルの後継者は、やはりジャニベクの子孫であるシガイ(シュガイ)だった[8]。彼が統治したのは2年間だけだったが、その子タウエケルは、オイラトの前進に押されて1550年にタシケントに避難したのち、北方へ再出発した[8]。1586年、彼はタシケントおよびシルダリヤ下流の諸都市を奪回しようとした[8]。ハン位を狙う他のカザフ人に対し、自らの正当性を主張するのが困難であった一方で、彼はウズベクの君主たちに対抗して1594年にモスクワ大公国のフョードル1世と同盟を結び、1598年にシャイバーニー朝のアブドゥル=ムウミン(在位:1598年)が暗殺されると、カザフ・ハン国はその混乱に乗じてシャイバーニー朝に侵攻したが、シャイバーニー朝のピール・ムハンマド2世によって撃退された[9]。タウエケル・ハンはこの戦いでの負傷がもとで死んだ[8]。弟のエシム(在位:1598年 - 1628年)が後を継ぎ、取り合いになっていた町であるトルキスタンとタシケント、フェルガナ地方をウズベク人から奪うことに成功した[10]。これらの町は1598年から1723年まで、カザフ・ハンの権力のもとに留まることとなる[11]。
オイラト(ジュンガル)との争い
[編集]17世紀は内的および外的な対抗関係の激化によって特徴づけられる[11]。セミレチエは完全にオイラトに支配され、カザフ・ハン国は強い分離主義的傾向と崩壊の危機にさらされた[11]。1635年のジュンガル・ホンタイジ国の形成が、オイラト側からの侵入のリズムと効果を高める一方、清帝国の増大化する圧力のためにオイラトは新しい牧地を求めてますますカザフの領域内部に押し寄せてきた[11]。すでに1620年代から彼らはコンパクトな集団単位でトボル川、オビ川、イシム川、イルティシュ川の岸に達し、イリ川とタラス川の地域に冬営地を設けていた[11]。17世紀末には本格的な軍隊がセミレチエと彼らが渇望していた南カザフスタンの諸都市に襲い掛かった[11]。サイラムは占領されて再び破壊され、住民の一部はジュンガリアに強制移住させられた[11]。ステップの叙事詩は17世紀から18世紀の最初の4半世紀に至るまでステップを股にかけていたオイラトの侵入のこだまを伝えている[11]。この侵入は町やカザフ人の営地を破壊し、キャラバンの大規模交易に損害を与えた[11]。1602年および1634~1654年のジュンガルのバートル・ホンタイジ治下、1670年~1697年のガルダン・ハーン治下、そして彼の後継者ツェワンラブタンの治世下である1697年~1727年、とくに1710年、1713年と1723年~1727年には、カザフ人にとって壊滅的な事態が生じ、長くトラウマを残すこととなった[11]。このうち最後の時期はカザフ史において「アクタバン・シュブルンドゥ」または「大いなる災厄」の名で知られる[11]。これはタウケ・ハン(在位:1680年 - 1718年)による安定化と侵入者への抵抗の試みの後に突発したものであった[12]。タウケ・ハンはカザフ・ハン国の法のいくつかの要素を文書(ジェティ・ジャルグ)にまとめたことで、ソ連時代にも有名であった[13]。他方、ジュンガル側の史書はカザフの略奪を繰り返し起こる侵略行為として嘆いている[13]。1710年、タウケ・ハンはジュンガルに対するカザフ人の一斉反撃をクルグズ人、カラカルパク人の助刀を得ながら組織するために、集会(クリルタイ)を招集した[13]。三つのジュズから構成される軍が、勇士ボゲンバイ・バトゥルを筆頭に戦闘準備に入った[13]。1711年にジュンガルは東方に撃退されたが、1718年春にカザフ・ハンたちの不和を利用してアヤコズの戦いで仕返しをした[13]。一部のハンは1718年に少なくとも名目的にロシアと同盟関係を結んだが、同じ年のタウケの死で再び諸ジュズの覇権争いが始まった[13]。中ジュズではセメケ、ボラト、アブルマンベトという3人が相次いでハンとなり、小ジュズはアブルハイルの支配下にあった[13]。1723年以来ジュンガルの侵入は頻度を増し、トルキスタン、タシケント両市までもが彼らの手に落ちた[13]。1726年に反撃が組織され、トルガイ・ステップ南東のカラ・シユルという場所で軍事衝突が起きた[13]。ここは「カルマク・クルルガン」つまり「カルマク(オイラト)が死んだ場所」と呼ばれるようになった[13]。この勝利でステップの何人もの勇壮な騎士たちが名をあげた[13]。それはカバンバイ、ナウルズバイ、ジャニベク、ボゲンバイ、エセト、ライムベクらであり、またトレ・ビー、カズベク・ビー、アイテケ・ビーのような三つのジュズの長(ビー)たちであった[14]。続いて1729/30年にバルハシ湖南方のアヌラカイで戦いが起き、小ジュズのアブルハイル・ハンがジュンガルに大敗を蒙らせ、ここは「敵の嘆き声と涙の場所」と呼ばれた[15]。
3つのジュズ
[編集]
緑:小ジュズ、オレンジ:中ジュズ、ピンク:大ジュズ
18世紀前半までにカザフ・ハン国は政治的な統一を失い、セミレチエ地方の大ジュズ、カザフ草原中部の中ジュズ、カザフ草原西部の小ジュズという部族連合体が形成されていた[2]。この頃のカザフはたびたび東のジュンガルの侵攻に遭っており、特に1723年の侵攻は「大いなる災厄(アクタバン・シュブルンドゥ)」と呼ばれるほどの大打撃を被った[2]。
1730年、小ジュズのアブル=ハイル・ハン(在位:1716年 - 1748年)は、当時着々と東方に進出してきたロシア帝国に使者を送り、服属を願い出た。これにならって他のジュズのハンも服属を表明し、ジュンガルの脅威に備えた[16]。
ロシア帝国の支配下
[編集]1820年代に入ると、ロシア帝国はカザフ草原の安定化をはかるために、すでに権威を喪失していた小ジュズと中ジュズのハンに代わって直接統治を始めた[16]。同じころ、新興のコーカンド・ハン国に備えるべく、セミレチエ地方の大ジュズもロシア統治を受け入れた[16]。こうしてロシア帝国に組み込まれたカザフ草原は、アクモリンスク州・セミパラチンスク州・セミレチエ州・ウラリスク州・トゥルガイ州・シルダリア州の6州に区分され、その東半分は1891年にステップ総督府の管轄下に置かれた(セミレチエ州は1897年にトルキスタン総督府へ移管)[16]。しかし、この間のロシアによる土地の収奪や遊牧民の季節的移動ルートの切断、またコサックによる威嚇的な軍事偵察行為はカザフ人の不満や反感を買った[17]。すでにプガチョフの農民反乱には多くのカザフ人が加わっていたが、その後もロシア統治に対するカザフ人の反乱が相次ぎ、なかでも中ジュズのアブライ・ハンの血を引くケネサル・カスムルイ、サドゥク・ケネサルルイ父子は40年(1837年 - 1877年)に及ぶ果敢な闘争を展開したことで知られている[17]。北からのロシア、南からのコーカンド・ハン国の攻勢に対してカザフの統一を目指した彼らの闘争は未完に終わったが、カザフの英雄を称える叙事詩や詩句は民衆の記憶に刻まれた[17]。ケネサルの反乱を契機として、ロシアはカザフ人に兵役を課すことを断念した[17]。帝国への忠誠に疑念のある「異族人」に軍事の知識や技術を与えることはむしろ有害とみなされた[17]。
滅亡
[編集]一般的にケネサルの戦死した1847年をもってカザフ・ハン国の滅亡とするか、1822年~1824年のロシアによるハン制の廃止をもって滅亡とする説が多い。
服装
[編集]- カザフの領袖と彼の妻。 《皇清職貢図》1769年 皇清職貢図
- カザフの平民と彼の妻。 皇清職貢図, 1769
- 1761年北京にいるカザフの代表 (zh:万国来朝图)
ジュズとは
[編集]「ジュズ」(Jüz жүз)とは「部族連合体」と言い換えられることがあるが、語源としては「カザフ人全体の中の(部分)」という意味だとも言われる[18]。大ジュズ、中ジュズ、小ジュズの3つがあり、トレ(貴族)、ホジャ(正統カリフの子孫とされる人々)、トレングト(ハンやスルタンに仕える半奴隷)、奴隷などを除くすべてのカザフ人がいずれかのジュズに属していた[18]。「ウシュ・ジュズ(3つのジュズ)」という言葉はカザフ民族の別称の一つでもある[18]。
ジュズの出現の時期と状況は謎に包まれており、ジュズがカザフ・ハン国よりも早い時期(たとえば10世紀)に形成されたという見解もあるが、非常に強引な史料解釈に基づいており支持は少ない[18]。3つのジュズの存在を初めて明確に記した史料は1731年にタタール人通訳でロシア外交官のマメト・テフケレフが記録したカザフのバトゥル(戦士、英雄)の話だということになるが、これは若干修正を要する[18]。1730年にアブルハイル・ハンがロシアのアンナ女帝に送った手紙にも「私の治下の中ジュズと小ジュズの多数のカザフ人と共に保護を求める」という一節が出てくるからである[18]。ただしこれもアクタバン・シュブルンドゥ以降の史料であることに変わりはない[18]。中央アジア定住民の史料を含め、東洋諸言語の史料にもこれ以前にジュズについて記したものは見つかっていない[19]。
人口
[編集]各ジュズの人口についてもまちまちの推計が出されている[19]。リョーフシンは1832年の著書で「大ジュズ50〜60万人、中ジュズ136万人以内、小ジュズ約110万人」という数字を出している[19]。ベクマハノヴァらは1973年の研究で、1850年当時の人口を「大ジュズ156万1681人、中ジュズ136万7202人、小ジュズ104万8537人」と算出した[19]。トゥヌシュパエフは1917年の人口を「大ジュズ117万人、中ジュズ272万人、小ジュズ204万人」としている[19]。このように形成過程や規模に関しては諸説が入り乱れているが、3つのジュズの地域的分布が自然的・歴史的背景と整合するものであることはカザフスタンやロシアの学者たちがほぼ一致して指摘するところである[19]。
地理
[編集]大ジュズの居住地は南東部つまりセミレチエからシルダリヤ方面にかけてステップと砂漠の中にオアシス点在し、定住民や山地遊牧民との接触が盛んな場所である[19]。かつて烏孫、西突厥、カルルク、カラ・キタイ、チャガタイ・ウルスが栄えた[19]。
中ジュズの居住地は東部・北部、つまりアルタイ山脈の西からカザフ丘陵、バルハシ湖、イルティシュ川、イシム川、サルス川、トルガイ川流域にかけて、典型的なステップ地帯である[19]。キプチャクやケレイト、ナイマンの後裔が住み、またオルダ・ウルスがあった場所である[19]。
小ジュズの居住地は西部つまりアラル海周辺、カスピ海の東岸と北岸、ウラル山脈南方で、大湖・大河と砂漠・ステップが景観を織りなす。ロシアと中央アジアのオアシス地域を結ぶ交通路にあたり、かつてハザール、シバン・ウルス、バトゥ・ウルス、ノガイ・オルダの一部であった[19]。注目すべきは各ジュズの居住地がそれぞれ好適な夏営地と冬営地を組み合わせていることである[19]。
大ジュズの場合、アルタウなどの山中が夏営地で、バルハシ湖、チュー川、タラス川流域などが冬営地である[19]。中ジュズの場合、イリティシ川沿いなどが夏営地で、シル川中流やジェズカズガン南部(森林ステップ)が冬営地である[19]。小ジュズの場合、ウラル川流域などが夏営地で、シル川下流、カスピ海沿岸などが冬営地である[19]。最良の夏営地と冬営地を往復できたのは王族や一部の部族に限られ、他はより広い範囲の牧地を季節に応じて使い分けていたであろう[19]。また、3つのジュズの居住地はカザフの多くのハンが本拠としたトルキスタン市を扇の要として三方に広がっている[19]。このようにジュズは遊牧の営みの上で自立できる広がりを持ち、しかもカザフ・ハン国の政治的中心と結びつく形で分布していたのである[19]。
機能的な側面
[編集]ジュズの問題を考える際、その機能的な側面に着目することも必要である[19]。カザフ人に広く伝わることわざに「中ジュズには鞭を与えて係争の調停に当たらせよ。大ジュズには桶を与えて家畜を飼わせよ。小ジュズには槍を与えて敵に向かわせよ」といった格言がある[20]。背景としては中ジュズが優れたビー(慣習法による裁判官の役割を果たす有力者)を多く輩出したこと、大ジュズの地域が羊の飼育に適していること、小ジュズが多くの伝説的な英雄を生んだノガイの伝統を引くことが考えられる[20]。現在では大ジュズは統治を、中ジュズは学問を、小ジュズは戦闘を得意とするなどとも言われるが、これは恐らく19世紀後半以降の知識人の多くが中ジュズから現れたことや、1960〜80年代のカザフ・ソビエト社会主義共和国のクナーエフ時代に大ジュズ出身の政治エリートが増えたことによる変形版であろう[20]。もっとも、カザフ社会における主要な機能を3つのジュズに分担させる考え方が現在も受け継がれていることは興味深い[20]。
3つのジュズを実質的な上下関係はないが、兄弟にたとえられ、長幼の序のようなものが想定されることがある[20]。そこで大ジュズには戦利品の分配や上座への着席で優先権が与えられる一方、末子相続の慣習から小ジュズを尊重する考えもある[20]。ガリエフは印欧語族における三区分イデオロギー説(デュメジル)を援用して3つのジュズの機能分担と擬制的な上下関係が人間を祭司・戦士・生産者の3身分に分ける印欧語族の世界観と一致していると指摘する[20]。彼によれば、カザフ草原にかつて住んでいた東イラン系の人々(サカなど)からカザフ人が受け継いだ世界観の表れの一つがジュズの区分だというのである[20]。
以上のまとめれば、ジュズとはカザフ人が登場する以前の民族ないしウルスの区分や世界観をもとにし、また自然環境とら一致して成立したものであることは状況証拠から言えば大体信じてよいと思われる[20]。しかし具体的成立時期は史料からは全く分からない[20]。17-18世紀のジュンガルとの対抗の中で、古くからの社会編成や集団意識を動員しつつ新たに創造されたものである可能性も捨てきれない[20]。
歴代ハン
[編集]カザフ・ハン国
[編集]- ケレイ・ハン(1469年/1470年 - 1473年/1474年)…エンケ・プラドの子
- ブルンドゥク(1473年/1474年 - 1511年)…ケレイ・ハンの子
- カーシム・ハン(1511年 - 1521年)…ジャニベクの子
- ママシュ(1518年 - 1521年/1522年)…カーシムの長男
- ターヒル(1523年 - 1533年)…ジャニベクの三男アディクの長男
- ブイダシュ(1531年/1532年 - ?)…ジャニベクの三男アディクの次男
- トグム(? - 1537年/1538年?)…ジャニベクの七男ジャディクの長男
- ハックナザル(1537年/1538年 - 1580年?)…カーシムの次男
- シガイ(1580年? - 1582年)…ジャニベクの七男ジャディクの次男
- タウエケル(1583年? - 1598年)…シガイの次男
- エシム(イシム)(1598年 - 1613年/1614年)…シガイの三男
- トゥルスン(1613年 - 1627年?)…ジャリムの子
- エシム(1627年? - 1628年)…復位
- ジャンギル(? - 1652年)…エシムの子
- タウケ(? - 1717年/1718年?)…ジャンギルの子
大ジュズ
[編集]中ジュズ
[編集]哈薩克汗
[編集]小ジュズ
[編集]ブケイ・オルダ
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ 長峰 2009, p. 11.
- 1 2 3 4 小松 2000, p. 324.
- ↑ 長峰 2009, p. 12.
- ↑ 小松 2000, p. 230.
- ↑ 長峰 2009, p. 10.
- 1 2 小松 2000, p. 231.
- ↑ 長峰 2009, p. 10-11頁.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 プジョル 2006, p. 54.
- ↑ 小松 2000, p. 235.
- ↑ プジョル 2006, pp. 54=56.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 プジョル 2006, p. 56.
- ↑ プジョル 2006, pp. 56–57.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 プジョル 2006, p. 57.
- ↑ プジョル 2006, pp. 57–58.
- ↑ プジョル 2006, p. 58.
- 1 2 3 4 小松 2000, p. 325.
- 1 2 3 4 5 小松 2000, p. 326.
- 1 2 3 4 5 6 7 宇山 1999, p. 97.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 宇山 1999, p. 98.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 宇山 1999, p. 99.
参考資料
[編集]書籍
[編集]- 小松久男編『中央ユーラシア史』山川出版社〈世界各国史4〉、2000年10月30日。ISBN 978-4634413405。
- カトリーヌ・プジョル著、宇山智彦、須田将訳『カザフスタン』白水社〈文庫クセジュ 904〉、2006年9月1日。ISBN 978-4560509043。
論文
[編集]- 長峰博之「「カザク・ハン国」形成史の再考:ジョチ・ウルス左翼から「カザク・ハン国」へ」『東洋学報』第90巻第4号、東洋文庫、2009年3月、441-466頁、ISSN 0386-9067、NAID 120006517053。
- 宇山智彦「カザフ民族史再考--歴史記述の問題によせて」『地域研究論集』第4号、国立民族学博物館地域研究企画交流センター、1993年3月、85-116頁、CRID 1520572357588811008、ISSN 1343-1897、NAID 40005184141。