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|画像コメント= 1485年頃に描かれた[[ミニアチュール]]。ジャンヌを直接のモデルとして描いた肖像画は現存しておらず、このミニアチュールもジャンヌの死後に想像で描かれた作品である (Centre Historique des Archives Nationales, Paris, AE II 2490)
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|他言語表記={{lang-fr-short|Jeanne d'Arc}}
[[ドミニク・アングル]]『[[シャルル7世]]の戴冠<br>式におけるジャンヌ・ダルク』(1854年)
|生誕地= {{FRA987}}、[[ドンレミ=ラ=ピュセル|ドンレミ]]<ref>{{cite web|url=http://www.chemainustheatrefestival.ca/season_saint_timeline.html |title=Chemainus Theatre Festival > The 2008 Season > Saint Joan > Joan of Arc Historical Timeline |publisher=Chemainustheatrefestival.ca |date= |accessdate=2012-11-30}}</ref>
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|生誕年(日)= [[1412年]]頃[[1月6日]]<ref>(See Pernoud's ''Joan of Arc By Herself and Her Witnesses'', p. 98: "Boulainvilliers tells of her birth in Domrémy, and it is he who gives us an exact date, which may be the true one, saying that she was born on the night of Epiphany, 6 January").</ref>
|他言語表記={{lang-fr-short|Jeanne d'Arc}}<br />{{lang-en-short|Joan of Arc}}<br />{{lang-es-short|Juana de Arco}}<br />{{lang-it-short|Giovanna d'Arco}}<br />等
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[[File:Coat of Arms of Jeanne d'Arc.svg|right|thumb|200px|ジャンヌ・ダルクの紋章]]
'''ジャンヌ・ダルク'''({{lang-fr|'''Jeanne d'Arc'''}}、過去:{{lang|fr|'''Jehanne Darc'''}}<ref>D'Arc という綴りは近世になって変化してできたもので、15世紀当時には姓に[[アポストロフィ|アポストロフ]]をつける習慣は無かった。公式の記録などでは Darc, Dars, Day, Darx, Dare, Tarc, Tart, Dart などと書かれる。</ref>、[[ユリウス暦]] [[1412年]][[1月6日]] - [[1431年]][[5月30日]])は、15世紀の[[フランス王国]]の軍人。また、[[カトリック教会]]における[[聖人]]で、「'''[[オルレアン]]の乙女'''」({{lang-fr|la Pucelle d'Orléans}}<ref>[[アカデミー・フランセーズ]]国語辞典([[http://artflx.uchicago.edu/cgi-bin/dicos/pubdico1look.pl?strippedhw=Pucelle]])(''Dictionnaire de l'Académie française'', 仏語)</ref>/{{lang-en-short|The Maid of Orléans}}<ref>新グローバル英和辞典([[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&stype=0&dtype=1&dname=1ss&p=Maid]])</ref>)とも呼ばれる。
'''ジャンヌ・ダルク'''({{lang-fr|Jeanne d'Arc}}、過去:{{lang|fr|Jehanne Darc}}<ref>D'Arc という綴りは近世になって変化してできたもので、15世紀当時には姓に[[アポストロフィ|アポストロフ]]をつける習慣は無かった。公式の記録などでは Darc, Dars, Day, Darx, Dare, Tarc, Tart, Dart などと書かれる。ジャンヌ自身は Jehanne と綴ったといわれている [http://www.stjoan-center.com/Album/part47.html www.stjoan-center.com/Album/, parts 47] and [http://www.stjoan-center.com/Album/part49.html 49]; it is also noted in Pernoud and Clin).</ref>、{{IPA-fr|ʒan daʁk|IPA}}、[[ユリウス暦]] [[1412年]]頃[[1月6日]]<ref>現代の研究書ではジャンヌの誕生日が1月6日だと断言しているものが多い。しかしながら、ジャンヌは自身の年齢でさえも推測で答えることしかできなかった。ジャンヌの復権審理の場でもジャンヌの年齢は推測であり、復権審理に証人として出廷したジャンヌの名付親ですら、ジャンヌの生年月日を明らかにすることはなかった。1月6日がジャンヌの誕生日であるという説は、1429年7月21日のペルスヴァル・ブーランビリエ卿の証言を元にした書簡ただ一つに拠っている(see Pernoud's ''Joan of Arc By Herself and Her Witnesses'', p. 98: 「ブーランビリエはジャンヌがドンレミで生まれたと語った。そして正確な、あるいは正確だと思われるジャンヌの誕生日は、御公現の祝日1月6日だと証言した」しかしながらブーランビリエはドンレミの出身ではなく、このブーランビリエが語ったとされる証言の記録も残っていない。教区教会の出生記録に貴族以外の誕生日が記録され始めたのは、数世代後になってからのことである{{citation needed|date=January 2012}}。</ref> - [[1431年]][[5月30日]])は、15世紀の[[フランス王国]]の軍人。フランスの国民的ヒロインで、[[カトリック教会]]における[[聖人]]でもある。「オルレアンの乙女」({{lang-fr|la Pucelle d'Orléans}}<ref>[[アカデミー・フランセーズ]]国語辞典([http://artflx.uchicago.edu/cgi-bin/dicos/pubdico1look.pl?strippedhw=Pucelle])(''Dictionnaire de l'Académie française'', 仏語)</ref>/{{lang-en-short|The Maid of Orléans}}<ref>新グローバル英和辞典([http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&stype=0&dtype=1&dname=1ss&p=Maid])</ref>)とも呼ばれる。


<!-- 全体のリード文、サマリなので、「概要」節などで区切らないでください -->
[[百年戦争]]で活躍して[[オルレアン]]解放に貢献したが、[[コンピエーニュ]]で捕虜となり、[[ルーアン]]で[[刑死]]した。
ジャンヌは現在のフランス東部に、農夫の娘として生まれた。神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの[[百年戦争]]で重要な戦いに参戦して勝利を収め、後のフランス王[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の戴冠に貢献した。その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教[[ピエール・コーション]]によって「不服従と異端<ref>Marina Warner, Joan of Arc, Image of Female heroism, p.5</ref>」の疑いで[[異端審問]]にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を閉じた<ref name=ward/>。


ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]の命でジャンヌの復権裁判が行われ、その結果ジャンヌの無実と[[殉教]]が宣言された<ref name=ward>Andrew Ward (2005) {{IMDb title|id=0421212|title=Joan of Arc}}</ref>。その後ジャンヌは、1909年に[[列福]]、1920年には[[列聖]]され、[[パリのディオニュシウス|聖ドニ]]、[[トゥールのマルティヌス|聖マルタン]]、[[ルイ9世 (フランス王)|聖王ルイ]]、[[リジューのテレーズ|聖テレーズ]]と同じく、フランスの守護聖人の一人となっている。ジャンヌは、王太子シャルル7世を助けてイングランドに占領されていたフランス領を奪還せよという神の「声」を聞いたとされている。これを信じたシャルル7世は、イングランド軍に包囲されて陥落寸前だった[[オルレアン]]へとジャンヌを派遣し、オルレアン解放の任に当たらせた。オルレアンでは古参指揮官たちから冷ややかな態度で迎えられたが、わずか九日間で兵士の士気を高めることに成功したジャンヌは徐々にその名声を高めていった。そしてジャンヌは続く重要ないくつかの戦いの勝利にも貢献し、劣勢を挽回したシャルル7世は[[ランス (マルヌ県)|ランス]]でフランス王位に就くことができた。
== 生涯 ==
[[ファイル:Maison J dArc.jpg|thumb|left|250px|現在は博物館として残るジャンヌ・ダルクの生家]]


フランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌは西洋史上でも有名な人物の一人となった。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家たちがジャンヌを崇敬しているといわれる。世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。イングランドの劇作家[[ウィリアム・シェークスピア]]の戯曲『[[ヘンリー六世 第1部]]』、フランスの詩人[[ヴォルテール]]の詩『オルレアンの乙女 ([[:en:The Maid of Orleans (poem)]])』、ドイツの思想家[[フリードリヒ・フォン・シラー]]の戯曲『オルレアンの乙女 ([[:en:The Maid of Orleans (play)]])』、イタリアの作曲家[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]の歌劇『ジョヴァンナ・ダルコ ([[:en:Giovanna d'Arco]])』、ロシアの作曲家[[ピョートル・チャイコフスキー]]の歌劇『オルレアンの少女 ([[:en:The Maid of Orleans (opera)]])』、アメリカの作家[[マーク・トウェイン]]の小説『ジャンヌ・ダルクについての個人的回想 ([[:en:Personal Recollections of Joan of Arc]])』、フランスの劇作家[[ジャン・アヌイ]]の戯曲『ヒバリ ([[:en:L'Alouette (The Lark)]])』、ドイツの劇作家[[ベルトルト・ブレヒト]]の戯曲『食肉市場のジャンヌ・ダルク ([[:en:Saint Joan of the Stockyards]])』、『[[聖女ジャンヌ・ダーク]]』として映画化されたアイルランドの劇作家[[ジョージ・バーナード・ショー]]の戯曲『聖女ジョウン』、『[[ジャンヌ・ダーク]]』として映画化されたアメリカの劇作家[[マクスウェル・アンダーソン]]の戯曲『ロレーヌのジャンヌ』、デンマークの映画監督[[カール・テオドア・ドライヤー]]の映画『[[裁かるるジャンヌ]]』、フランスの映画監督[[ロベール・ブレッソン]]の映画『ジャンヌ・ダルク裁判 ([[:en:The Trial of Joan of Arc]])』、フランスの作曲家[[アルテュール・オネゲル]]が曲を書いた[[オラトリオ]]『[[火刑台上のジャンヌ・ダルク]]』、カナダの詩人[[レナード・コーエン]]の楽曲『ジャンヌ・ダルク ([[:en:Joan of Arc (Leonard Cohen song)]])』、イギリスのバンド[[オーケストラル・マヌヴァーズ・イン・ザ・ダーク]]の楽曲『ジャンヌ・ダルク ([[:en:Joan of Arc (song)]])』などである。現在に至るまで映画、演劇、テレビ番組、テレビゲーム、音楽などさまざまな媒体で、ジャンヌを題材とした作品が作り続けられている。
=== 生い立ちと時代背景 ===
ジャンヌ・ダルクは、後の復権裁判でのある証言によると、[[1412年]][[1月6日]]にフランスの[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]地方にあるドンレミ(ドムレミーとも。現在の[[ドンレミ=ラ=ピュセル]])村の農家に父ジャック・ダルクと母イザベル・ロメとの間に生まれた。ジャンヌにはジャックマン、ピエール、ジャンという3人の兄と、妹が1人いた。村の教会はフランスの[[守護聖人]]である聖[[レミギウス]]([[メロヴィング朝]]初代フランク国王[[クロヴィス1世]]を[[カトリック]]に改宗させたことで知られる)に献じられていた。[[アレクサンドリアのカタリナ|聖カトリーヌ]]の彫像もあった。


== 背景 ==
そのころフランス北部([[ノルマンディー]])は、[[ブルゴーニュ派]]と連合した[[イングランド]]に占領されていた。フランスには[[1422年]]に[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]が亡くなって以来、国王が不在だった。
歴史家ケリー・デヴリーズ ([[:en:Kelly DeVries]]) は、ジャンヌが歴史に登場した時代について「彼女(ジャンヌ)を落胆させるものがあったとしたら、1429年当時のフランスの情勢がまさにそれだったであろう」としている。1337年に勃発した[[百年戦争]]は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じてイングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことが発端だった。ほとんどすべての戦いがフランス国内で行われ、イングランド軍の[[焦土作戦]]によってフランス経済は壊滅的な打撃を受けていた<ref>John Aberth. ''From the Brink of the Apocalypse'',Routledge, 2000 ISBN 0-415-92715-3, ISBN 978-0-415-92715-4 [http://books.google.co.uk/books?id=4xyp-SscNBkC&pg=PA85 p. 85]</ref>。また当時のフランスは[[ペスト#14世紀の大流行|黒死病]]によって人口が減っており、さらに対外貿易も途絶えて外貨が入ってこない状況に置かれていた。ジャンヌが歴史に登場したのは、フランス軍が数十年間にわたって大きな戦いに勝利しておらず、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった。デヴリーズは当時の「フランス王国にはその前身だった13世紀の([[カペー朝]]の)面影すらなかった」と記している<ref>DeVries, pp. 27–28.</ref>。


ジャンヌが生まれた1412年ごろのフランス王は[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]だったが、精神障害に悩まされており<ref>{{cite web |url=http://www.history.ac.uk/richardII/charlesVI.html |title=Charles VI |publisher=Institute of Historical Research |accessdate=9 March 2010}}</ref>、国内統治がほとんど不可能な状態だった。王不在ともいえるこのような不安定な情勢下で、シャルル6世の弟のオルレアン公[[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]と、従兄弟のブルゴーニュ公[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]]がフランス摂政の座と王子たちの養育権をめぐって激しく対立した。そして1407年にルイがジャン1世の配下に暗殺されたことで、フランス国内の緊張は一気に高まった<ref>{{cite web |url=http://www.burgundytoday.com/historic-places/history-of-burgundy/dukes-of-burgundy.htm |title=The Glorious Age of the Dukes of Burgundy |publisher=Burgundy Today |accessdate=9 March 2010}}</ref>。
シャルル6世は跡継ぎとして[[ドーファン|王太子]]シャルル(後の[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]])を残したが、フランスの王位はイングランドのまだ幼い[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]に相続された。これは、[[百年戦争]]、および[[アジャンクールの戦い]]で生じた血で血を洗う攻防戦を終了しようと、[[1420年]]にシャルル6世およびイングランドの[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]によって署名された[[トロワ条約]]の結果だった。


オルレアン公ルイとブルゴーニュ公ジャン1世を支持する派閥は、それぞれアルマニャック派とブルゴーニュ派と呼ばれるようになっていった。イングランド王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]は、このフランス国内の混乱を好機ととらえてフランスへと侵攻した。イングランド軍は1415年の[[アジャンクールの戦い]]で大勝し、フランス北部の多くの都市をその支配下に置くに至る<ref>DeVries, pp. 15–19.</ref>。そして後にフランス王位に就く[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]は、兄4人が相次いで死去したために14歳のときから[[ドーファン|王太子]]と目されていた<ref>Pernoud and Clin, p. 167.</ref>。シャルル7世が果たした最初の重要な公式活動は、1419年にブルゴーニュ公国との間に和平条約を締結しようとしたことである。しかしながらシャルル7世が安全を保証した会合の席で、ブルゴーニュ公[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]]はアルマニャック派の支持者たちに殺害されてしまう。父ジャン1世の後を継いでブルゴーニュ公となった[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]]はシャルル7世を激しく非難し、フランスとの和平条約締結を白紙に戻してイングランドと同盟を結んだ。そしてイングランドとブルゴーニュの連合軍は、多くのフランス領土をその支配下に置いていった<ref>DeVries, p. 24.</ref>。
条約の文言には「ヘンリー(5世)はシャルル6世の娘[[キャサリン・オブ・ヴァロワ|キャサリン]]と結婚し、シャルル6世の死に際して王位はヘンリー(5世)および彼らの子に継承され、2つの王国を統合する」とあり、これは実質的に王位継承のラインからシャルル6世の男子を外すことを意味し、多くのフランス貴族によって反対された。とはいえ、ヘンリー6世は幼いため、フランス王としての正式な[[戴冠式]]を行えなかった。


1420年にシャルル6世妃[[イザボー・ド・バヴィエール|イザボー]]は、シャルル6世が死去した後のフランス王位を王太子シャルル7世ではなく、イングランド王[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]とその後継者に譲るという内容の[[トロワ条約]]にサインした。この条約の締結は、シャルル7世がフランス王シャルル6世の子供ではなく、王妃イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子供であるという噂を再燃させることになった<ref>Pernoud and Clin, pp. 188–189.</ref>。ヘンリー6世は1422年8月に、シャルル6世もその二カ月後の10月に相次いで死去し、ヘンリー5世の嫡子[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]がイングランド王位とトロワ条約に則ってフランス王位を継承した。ただし、ヘンリー6世はまだ一歳にも満たない乳児だったために、ヘンリー5世の弟ベッドフォード公[[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]が[[摂政]]として国政を司った<ref>DeVries, p. 24, 26.</ref>。
=== 神の啓示と使命 ===
[[ファイル:JoanOfArcLarge.jpeg|250px|thumb|left|{{仮リンク|ジュール・バスティアン=ルパージュ|fr|Jules Bastien-Lepage}}『'''「声」を聞くジャンヌ・ダルク'''』([[1879年]]、[[ニューヨーク]]、[[メトロポリタン美術館]]蔵)


1429年の初めごろにはフランス北部のほぼ全てと、フランス南西部のいくつかの都市がフランスの手を離れていた。ブルゴーニュ公国はフランス王室と関係が深い[[ランス (マルヌ県)|ランス]]を支配下に置いた。ランスは歴代フランス王が戴冠式を行った場所であり、フランスがこの都市を失った意味は大きかった。[[パリ]]と[[ルーアン]]を占領したイングランド軍は、王家に忠誠を誓う数少なくなった都市である[[オルレアン]]を包囲した。ロワール川沿いに位置し戦略上の要衝地でもあったオルレアンは、フランス中心部への侵攻を防ぐ最後の砦であり「オルレアンの趨勢が全フランスの運命を握っていた」のである<ref>Pernoud and Clin, p. 10.</ref>。そしてオルレアンが陥落するのも時間の問題だと見なされていた<ref>DeVries, p. 28.</ref>。
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<small>背後の森の中に大天使ミカエル、聖女カトリーヌ、マルグリットが見える</small>]]
[[ファイル:Lenepveu, Jeanne d'Arc au siège d'Orléans.jpg|thumb|left|Jules Eugène Lenepveu, 『オルレアン攻囲のジャンヌ・ダルク』(1886 - 1890年)]]


== ジャンヌの生涯 ==
ジャンヌは[[1425年]]、初めて「声」を聞いたとされる。後の処刑裁判での答弁によると、聖女[[アレクサンドリアのカタリナ|カトリーヌ]]と[[アンティオキアのマルガリタ|マルグリット]]、そして大天使[[ミカエル]]の声であったという。「声」はジャンヌにヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会い、オルレアンの包囲を解いてフランスを救うよう告げた。ジャンヌは「声」に従い、[[1428年]]5月にボードリクールの元を訪れたが追い返された。
[[File:Jeannedarcbirthplace.jpg|thumb|ジャンヌの生誕地は現在は記念館になっている。画面右の樹木の後ろに見えるのが、少女期のジャンヌがミサに通った教会である。]]
ジャンヌはジャック・ダルク ([[:en:Jacques d'Arc]]) とイザベル・ロメ ([[:en:Isabelle Romée]]) の娘として生まれた。父ジャック・ダルク(1380年 - 1440年)がロメと呼ばれていたイザベル・ヴトン(1387年 - 1468年)と結婚したのは1405年のことで、二人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ、カトリーヌの5人の子供が生まれている<ref>シャルル7世はジャンヌが死去した17年後の1429年12月29日にジャック一家の家格を引き上げ、1430年1月20日には貴族に叙したというフランス会計院の記録が残っている。これによってジャック一家の姓は「ドゥ・リス ({{lang|fr|du Lys}})」に変わった。</ref>。ジャンヌが生まれたのは[[バル公領]]の村[[ドンレミ=ラ=ピュセル|ドンレミ]]で、当時のバル公領は、マース川西部がフランス領、マース川東部が[[神聖ローマ帝国]]領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。バル公領は後に[[ロレーヌ公国]]に併合され、ドンレミはジャンヌの別称である「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン ({{lang|fr|la Pucelle d'Orléans}}))」にちなんでドンレミ=ラ=ピュセルと改名されている<ref>Condemnation trial, p. 37.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html]. Retrieved 23 March 2006.</ref>。ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた<ref>Pernoud and Clin, p. 221.</ref>。当時のドンレミはフランス東部の辺鄙な小村で周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。ジャンヌが幼少のころにドンレミも何度が襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。


後にジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年ごろに生まれたことになる。さらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは1424年ごろのことで当時12歳だったと証言している。このとき独りで屋外を歩いていたジャンヌは、[[ミカエル|大天使ミシェル]]、[[アレクサンドリアのカタリナ|聖カトリーヌ]]、[[アンティオキアのマルガリタ|聖マルグリット]]の姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。聖人たちの姿はこの上なく美しく、三名が消えた後にジャンヌは泣き崩れたと語っている<ref>Condemnation trial, pp. 58–59.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html]. Retrieved 23 March 2006.</ref>。
到着直前に伝令使は、ジャンヌの手紙を持って一足先にシノンに入った。{{要出典範囲|date=2012年6月|その知らせを聞いた王太子シャルルは、ジャンヌと会う際にちょっとした芝居をしたと言われている。側近たちの中に紛れて王太子らしくない服装でジャンヌを呼んだが、ジャンヌはすぐに本物のシャルルを見抜いた。ジャンヌとシャルルは幕僚たちから離れ、2人きりで話をすることになった。そしてジャンヌはシャルルに、「声」から授かったシャルルの王としての正統性を証明する秘密の話をしたと言われている。これは王太子の兆候(シーニュ)に関する話であったと伝えられている。}}ジャンヌは後の処刑裁判でも、この時の秘密の話についての内容を証言することを頑なに拒み続けたため、どのような内容だったのかは不明である。いずれにせよ、王太子であったシャルルはこの話を聞き、ジャンヌを信じることになった。ジャンヌを疑っていた聖職者たちも、[[ポワチエ|ポワティエ]]での3週間にわたる審理の結果、ジャンヌを認めた。


ジャンヌは16歳のときに親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォークルール ([[:en:Vaucouleurs]]) へと赴き、当地の守備隊隊長だったロベール・ド・ボードリクール伯に[[シノン]]の仮王宮を訪れる許可を願い出た。ボードリクールはジャンヌを嘲笑をもって追い返したが、ジャンヌの決心が揺らぐことはなかった<ref>DeVries, pp. 37–40.</ref>。翌年1月に再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メス ([[:en:Jean de Metz]]) とベルトラン・ド・プーランジ ([[:en:Bertrand de Poulengy]]) という二人の貴族の知己を得た<ref name="Nullification">Nullification trial testimony of Jean de Metz.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null04.html]. Retrieved 12 February 2006.</ref>。この二人の助けでボードリクールに再開したジャンヌは、オルレアン近郊でのニシンの戦い ([[:en:Battle of the Herrings]]) でフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した<ref>Oliphant, ch. 2.[http://www.authorama.com/book/jeanne-d-arc.html]. Retrieved 12 February 2006.</ref>。
[[1429年]]4月、ジャンヌは「乙女」({{lang-fr-short|la Pucelle}} ラ・ピュセル)と呼ばれることになり、[[ロワール川]]沿いの都市[[オルレアン]]に向けて出発した。当時オルレアンはイングランド軍に包囲されていた。ジャンヌはオルレアンの総司令官であった[[ジャン・ド・デュノワ|「オルレアンの私生児」ジャン]](後のデュノワ伯)、後に熱心な支持者となるアランソン公、オルレアンの隊長「[[ラ・イル|ラ・イール]]」、一説には{{誰|date=2012年6月}}[[シャルル・ペロー]]の『[[青ひげ]]』のモデルとも言われる[[ジル・ド・レイ]]たちと共に、イングランド軍と戦った。ジャンヌは勇猛果敢に突撃したが、左肩に矢を受けた。命に別状はない外傷だったが、この時は未だ年若い10代後半の少女であるに過ぎず、不安のあまり泣き出す始末だった。ジャンヌは人を殺したくないという理由から、旗持ちを好んでいたが、仲間の兵隊たちを鼓舞する役目を堂々と果たし、戦闘では進んで危険な突撃を敢行した。無論、ジャンヌの鼓舞により、オルレアンの兵隊たちの士気はいやが上にも上がった。翌月、イングランド軍は撤退しオルレアンは7ヶ月以上にわたる包囲網から解放された。


=== 歴史への登場 ===
その後、ジャンヌは[[ロシュ城]]にいた王太子シャルルの下に馳せ参じ、[[ランス (マルヌ県)|ランス]]にてシャルル7世として正式な戴冠式を挙げることを強く主張した。ランスは[[フランク王国]][[メロヴィング朝]]の王[[クロヴィス1世]]が[[洗礼]]を受けた町で、歴代のフランス王がこの地で戴冠式を挙げていた。そのため、シャルルの王位継承権の正統性を世に知らしめるためには何としてでもランスで戴冠式を挙げる必要があった。だが、ランスまで行くにはイングランド軍を打ち破らねばならなかった。そのため反対する者もいたが、最終的にはジャンヌの提案が受け入れられ、シャルルはランスへと向かった。途中にあった都市を次々と傘下に入れ、途中に宮廷筆頭侍従の[[ドゥ・ラ・トレムイユ]]と犬猿の仲であった[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|リッシュモン元帥]]の救援を受け入れ、[[1429年]]6月18日の[[パテーの戦い]]で勝利を収めた。これによってランスへの道が開け、[[7月17日]]にシャルルは[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂]]で戴冠式を挙げ、正式なフランス国王シャルル7世となった。これによって、ジャンヌの神託であるオルレアンの解放とランスでの戴冠式の両方が成し遂げられたことになる。
[[File:Traité de Troyes.svg|300px|thumb|'''1415年-1429年'''{{Legend|#ea8b9d|イングランド王ヘンリー6世の支配下}}
{{Legend|#c896c8|ブルゴーニュ公フィリップ3世の支配下}}
{{Legend|#7f9ad7|フランス王太子シャルル7世の支配下}}
{{Legend|#ffff00|主戦場}}
{{Legend-line|red dotted 2px|1415年のイングランド軍侵攻路}}
{{Legend-line|white dotted 2px|ドンレミからシノンに至るジャンヌの進路}}
{{Legend-line|blue dotted 2px|1429年のランスに至るジャンヌの進路}}]]
{{See also|:en:Siege of Orléans}}
ロベール・ド・ボードリクールは、ニシンの戦いに関するジャンヌの予言が的中したことを前線からの報告で聞き、協力者を連れてのジャンヌのシノン訪問を許可した。ジャンヌは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながらシャルル7世の王宮があるシノンへと向かった<ref name="Richey">Richey, p. 4.</ref>。シノンの王宮に到着して間もないジャンヌと余人を払って面会したシャルル7世は、ジャンヌから強い印象を受けた。当時シャルル7世の妃[[マリー・ダンジュー|マリー]]の母でアンジュー公妃の[[ヨランド・ダラゴン]]が、オルレアンへの派兵軍を資金的に援助していた。ジャンヌは派兵軍との同行と騎士の軍装の着用をヨランドに願い出て許された。ジャンヌは甲冑、馬、剣、旗印などの軍装と、ジャンヌの協力者たちの軍備一式を寄付によって調達することに成功した。フランス王族がジャンヌに示した多大なる厚遇について歴史家スティーヴン・リッチーは、崩壊寸前のフランス王国にとって、ジャンヌが唯一の希望に思えたからだろうとしている。


{{Quotation|
この戴冠式には、本質的には敵対勢力であるはずの、北部フランスの[[ブルゴーニュ派]]の人々も招かれていた。シャルル7世の顧問官たちは、この時すでに新たなる外交政策の布石を打ち始めていた。{{要出典範囲|date=2012年6月|あくまでも戦闘と武力によるフランスの解放を主張するアランソン公らジャンヌの属するタカ派勢力は徐々に邪魔者になり始めていたといえる。}}ジャンヌが誰よりも頼りにしようとしたリッシュモン大元帥はランスでの戴冠式にさえ参加できず、これはシャルルの義母[[ヨランド・ダラゴン]]らによるラ・トレムイユの排除まで続くことになる。{{要出典範囲|date=2012年6月|ジャンヌはすでに役目(神託の達成)を終えていたのであるが、シャルル7世としてはカリスマ的な人気を得ていたジャンヌを放り出すわけにもいかず}}、引き続き従軍を命じた。こうして、ジャンヌは複雑な政治情勢や王と顧問官達の思惑の犠牲になった。
度重なる屈辱的な敗戦でフランスの軍事力も国力も瓦解し、その指導力は失墜しきっていた。王太子シャルルがジャンヌの突拍子もない軍備の要求を認め、さらには軍の指揮官の一人に据えた背景には、それまで試みてきたありとあらゆる正攻法が失敗に終わったことに大きな原因があろう。崩壊寸前の絶望的な状況に置かれた政権のみが、母国の軍を率いて勝利せよという神の声を聴いたなどという無学な農夫の娘の訴えに耳を傾けるのだ。
|author=Stephen W. Richey
|source="Joan of Arc: A Military Appreciation"
<ref>{{cite web
|url=http://www.stjoan-center.com/military/stephenr.html
|title=Joan of Arc: A Military Appreciation
|last=Richey|first=Stephen W.
|year=2000
|publisher=The Saint Joan of Arc Center
|accessdate=10 July 2011
}}</ref>
}}


神の声を聴いたと公言するジャンヌの登場は、長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた<ref name="Vale, M.G.A. 1974, p. 55">Vale, M.G.A., 'Charles VII', 1974, p. 55.</ref>。しかしながら、ジャンヌの存在は大きな危険をもはらんでいた。シャルル7世の顧問たちは、ジャンヌの宗教的正当性が疑問の余地なく立証されたわけではなく、ジャンヌが異教の魔女でありシャルル7世の王国は悪魔からの賜物だと告発されかねないことに危機感を抱いた。ジャンヌを異端と見なす可能性を否定してその高潔性を証明するために、シャルル7世はジャンヌの身元調査の審議会と、[[ポワチエ]]での教理問答を命じた。そして1429年4月にジャンヌの審議に当たった委員会は、ジャンヌの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えの善きキリスト教徒であることを宣言」した<ref name="Vale, M.G.A. 1974, p. 55"/>。一方で教理問答に携わったポワチエの神学者たちは、ジャンヌが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとした。ただし、ジャンヌの役割の聖性を創りあげるに足る「有利な憶測」をシャルル7世に伝えた。これらの結果だけでシャルル7世にとって十分なものだったが、顧問たちはジャンヌを王宮に呼び戻してシャルル7世自らがジャンヌの正当性を正式に認める義務があるとし「証拠もなく彼女(ジャンヌ)が異端であると疑い、無視するのは[[聖霊]]の否定であり、神の御助けを拒絶するも同然」だと主張した<ref>Vale, M.G.A., 'Charles VII', 1974, p. 56.</ref>。ジャンヌの主張が真実であると認定されたことはオルレアン派遣軍の士気を大いに高めることにつながった。
=== 捕縛と裁判 ===
[[ファイル:Tour Jeanne D'Arc10.jpg|thumb|200px|[[ルーアン]]のブーヴルイユ城にある通称「ジャンヌ・ダルクの塔」]]
[[ファイル:Joan of arc interrogation.jpg|200px|thumb|[[ポール・ドラローシュ]]『牢の中でウィンチェスター枢機卿に尋問されるジャンヌ・ダルク』(ルーアン美術館蔵)]]


イングランド軍が包囲していたオルレアン ([[:en:siege of Orléans]]) にジャンヌが到着したのは1429年4月29日だった。当時オルレアン公[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]はイングランドの捕虜となっており、異母弟[[ジャン・ド・デュノワ]]がオルレアン公家の筆頭としてオルレアンを包囲するイングランドに対する攻略軍を率いていた。当初のド・デュノワはジャンヌが作戦会議へ参加することを認めず、交戦の状況もジャンヌに知らせようとはしなかった<ref>歴史書や小説では、ジャンヌを冷遇したド・デュノワを別の名前で記していることが多い。ジャンヌの死後にド・デュノワが叙爵された、デュノワ伯爵という称号で記述している書物もある。ジャンの存命時には、ド・デュノワは庶子でフランス王シャルル7世の最年長の従兄弟だったことから敬意をこめて「オルレアンの私生児」と呼ばれていた。現在の「私生児 ({{lang|en|bastard}}) という言葉には侮蔑的な意味が強いため、「私生児」と呼ばれていた当時のド・デュノワが馬鹿にされていたと勘違いされることも少なくない。オルレアン公家との関係を強調した「ジャン・ドルレアン ({{lang|fr|Jean d'Orleans}})」という呼称は必ずしも正確ではないが、時代錯誤的な間違いとはいえない (see Pernoud and Clin, pp. 180–181)。</ref>。しかしながら、このようなド・デュノワの妨害を無視して、ジャンヌは多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになった。
その後、ジャンヌは次第に宮廷内で孤立してしまう。首都である[[パリ]]を奪還することなくしてシャルル7世の地位は磐石にはならないと考えるジャンヌ、および[[ジャン2世 (アランソン公)|アランソン公]]などのタカ派に対して、国王側近は現状の成果に甘んじてこの方針に反対したため、ジャンヌは孤独な戦いを強いられるようになった。


ジャンヌに軍事指揮官としての能力があったかどうかは歴史的な論争になっている。エドゥアール・ペロワのような伝統的保守的な歴史家たちは、ジャンヌは旗手として戦いに参加して兵士の士気を鼓舞する役割を果たしたとしている<ref>Perroy, p. 283.</ref>。この説は、ジャンヌが剣を振るうよりも旗を持つことを選んだと、後の異端審問の場で証言したとされていることを根拠としている。この説に対し、異端審問の無効性を重視する立場の現代の研究者は、ジャンヌが優れた戦術家で、卓越した戦略家であるとしてと軍の指揮官たちから尊敬されていたと主張している。スティーヴン・リッチーもジャンヌが優れた指揮官だったとしている研究者で「彼女(ジャンヌ)がフランス軍を率い、その後の戦いに奇跡的な勝利をおさめ続けて戦争の趨勢を完全に逆転した」としている<ref name="Richey"/>。ただし、どちらの説をとる研究者でも、ジャンヌが従軍していたときのフランス軍が快進撃を続けたという点では一致している<ref>Pernoud and Clin, p. 230.</ref>。
[[1430年]][[5月23日]]、ジャンヌは[[コンピエーニュ]]の戦いで[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ善良公]]のブルゴーニュ軍に捕えられる。その後、1万リーブルの身代金と引き替えにブルゴーニュ軍からイングランド軍に身柄が引き渡され、同年[[12月24日]]に[[ルーアン]]のブーヴルイユ城に監禁される。


=== ジャンヌの軍事指揮能力 ===
[[1431年]][[2月21日]]、ルーアンで[[異端審問]]裁判が始まる。名義上の裁判長は[[ジャン・ル・メイトス]]だが、彼は裁判の正当性に疑問を感じ、予審のほとんどを欠席し、正式な裁判でも沈黙を続けた。実際に裁判を指揮したのはイングランド側の意向を強く受けた代理裁判長[[ピエール・コーション]]だった。その他60名を超える聖職者たちが裁判にたずさわったが、{{誰範囲2|date=2012年6月|イングランドの強引な介入に反発を示す者も少なからずいた。}}
{| class="toccolours" style="float:right; margin-left:10px; margin-right:1em; font-size:85%; background:#c6dbf7; color:black; width:30em; max-width:40%;" cellspacing="5"
|-
| style="text-align:left;"|「... ここにいる乙女が八日間でロワール川に陣取っていたイングランド軍を打ち破り、完全に駆逐しました。イングランド兵士は戦死あるいは捕虜となり、戦いの意思を失っています。サフォーク伯、ラ・ポール卿兄弟、タルボット卿、スケールズ卿、ファストルフ卿ら、イングランドの貴顕や指揮官たちが敗北したことは紛れもない事実なのです」
|-
| style="text-align:left;"| -- ジャンヌが1429年6月25日にトゥルネー市民に送った書簡。Quicherat V, pp.&nbsp;125–126.
|}
ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新した。ジャンヌが参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、さらにこの作戦は大失敗に終わっていた。ジャンヌのオルレアン到着後の5月4日にフランス軍が攻勢に出て、オルレアン郊外のサン・ルー要塞を攻略し、5月5日にはジャンヌが軍を率いて、放棄されていたサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠した。翌日に開かれた作戦会議でジャンヌはド・デュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張している。ド・デュノワはこれ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。結局ジャンヌはある一人の大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功している。この夜に、ジャンヌは自身が参加していなかった作戦会議で、援軍が到着するまでこれ以上の軍事行動を見合わせることが決められたことを知った。しかしながらジャンヌはこの決定を無視し、5月7日にイングランド軍主力の拠点である「レ・トゥレル」への攻撃を主張した<ref>DeVries, pp. 74–83</ref>。ジャンヌと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにも関わらず戦列に復帰して最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった<ref>敬虔なカトリック教徒はこの出来事がジャンヌが聖なる使命を帯びていたことの証拠だと見なしている。シノンとポワチエで、ジャンヌはオルレアンへ向かえという神の声を聴いたと公言した。オルレアンでの戦功で高まったジャンヌの名声は、アンブラン大司教などの有力な聖職者や著名な神学者[[ジャン・ジェルソン]]からの支持を得ることにつながった。両者ともにこの出来事の直後にジャンヌを支持する声明を発表している</ref>。


オルレアンでの劇的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢の発端となった。イングランド軍はパリの再占領かノルマンディ攻略を目指していた。予想以上の勝利をあげた直後に、ジャンヌはシャルル7世を説き伏せて、自身をアランソン公[[ジャン2世 (アランソン公)|ジャン2世]]の副官の地位につけることと、ランスへと通じるロワール川沿いの橋を占拠して、シャルル7世のランスでの戴冠の幕開けとするという作戦に対する勅命を得た。しかしながらランスへの進軍は、ランスまでの道程がパリへの道程のおよそ二倍であることと、当時のランスがイングランド占領地の中心部にあったことから無謀ともいえる作戦の提案だった<ref>DeVries, pp. 96–97.</ref>。
審理の大きな争点はジャンヌが聞いたとする声の正体だった。ジャンヌは声の主を天使である[[アレクサンドリアのカタリナ|聖カトリーヌ(カタリナ)]]、[[アンティオキアのマルガリタ|聖マルグリット(マルガリタ)]]、及び[[ミカエル|聖ミシェル(ミカエル)]]だと主張したが、審理の結果それは森の精霊であり、ジャンヌは[[悪魔崇拝]]や神の冒涜を犯した[[異端|異端者]]であると結論づけられた。また[[男装]]も異端の証とされたが、[[魔女]]は悪魔との交わりで処女を失うと考えられていたことから裁判に先立って行われる[[処女]]検査では処女であることが確認された。


イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、6月12日にジャルジョー、6月15日にマン=シュール=ロワール、6月17日にボージャンシーと、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。そして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるド・デュノワたちもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた<ref>Nullification trial testimony of Jean, Duke of Alençon.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null07.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に[[カタパルト (投石機)|投石器]]から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。6月18日にジョン・ファストロフ卿が率いる援軍が加わったイングランド軍と、フランス軍との間に[[パテーの戦い]]の戦端が開かれた。フランス軍が大勝したこのパテーの戦いとイングランド軍が大勝した1415年の[[アジャンクールの戦い]]とは比較されることがある。パテーの戦いでは、フランス軍前衛がイングランド軍が誇る長弓部隊の準備が整う前に攻撃を開始した。これによりイングランド軍は総崩れとなり、イングランド軍主力も壊滅的被害を受けて多くの指揮官が戦死あるいは捕虜となった。ファストロフは僅かな護衛とともに戦場を離脱したが、後にこの屈辱的な敗戦の責めを負わされている。一方でこのパテーの戦いでフランス軍が被った被害は最小限に留まった<ref>DeVries, pp. 114–115.</ref>。
[[5月24日]]、{{仮リンク|サン=トゥアン修道院|fr|Abbaye Saint-Ouen de Rouen}}の仮設法廷で判決が言い渡され、ジャンヌは[[火刑]]に処されるはずだったが、判決読み上げの途中でジャンヌは異端であることを認め、教会の指示に従って改宗することを告げた。この時ジャンヌが署名した誓約書は読み聞かされた内容とラテン語の正式な文面は大きく違っていたと言われる。ジャンヌは改宗に応じて悔悛したため極刑は免れ、永久入牢とされた。


{| class="toccolours" style="float:right; margin-left:10px; margin-right:1em; font-size:85%; background:#c6dbf7; color:black; width:30em; max-width:40%;" cellspacing="5"
しかし[[5月28日]]、女性の服装に戻っていたはずのジャンヌは再び男装に戻る。{{要出典範囲|date=2012年6月|ジャンヌは教会の牢ではなくイングランド軍の牢に監禁されていたため、看守らの性的脅迫にさらされていたと思われる。}}一度改宗した者が再び異端に戻る「異端再犯」はもはや説得し救済することはできないとして、極刑を免れることはなかった。
|-
| style="text-align:left;"|「ブルゴーニュ大公。私は伏して貴君に心からお願いいたします。これ以上、聖なるフランス王国と戦いを続けるのはおやめください。聖なる王国の国土や城塞から、一日も早く軍を退いていただけますよう。そして私は、平和を愛するフランス国王の名代として、国王が名誉にかけて貴君との和平を望んでいることをお伝えします」
|-
| style="text-align:left;"| -- ジャンヌが1429年7月17日にブルゴーニュ公フィリップ3世に宛てた書簡。Quicherat V, pp.&nbsp;126–127.
|}
フランス軍は6月29日にジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始し、7月3日には[[オセール]]を占領していたブルゴーニュ公国軍が条件付降伏を申し出ている。ランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。シャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結された[[トロワ]]も、4日間の包囲の末に戦わずして降伏した<ref>DeVries, pp. 122–126.</ref>。また、トロワに近づいたころのフランス軍が抱えていた問題は食糧の補給不足だった。この問題の解決に貢献したのはトロワで世界の終末を説いていたブラザー・リチャードという巡礼修道士で、リチャードは成長の早い豆類を栽培してフランス軍に給するよう、トロワ市民たちを説得することに成功した。そして豆が食べられるようになったころに、食料不足に悩んでいたフランス軍がトロワに到着したのである<ref>Lucie-Smith, pp. 156–160.</ref>。


ランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。ジャンヌとアランソン公ジャン2世はパリへと進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結の交渉を優先しようとした。しかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世は和平交渉を反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリの守りを固めるためにイングランド軍に援軍を送った<ref>DeVries, p. 134.</ref>。ブルゴーニュ公国との和平交渉に失敗したフランスはパリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫った。イングランド軍の司令官ベッドフォード公[[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]が率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは8月15日で、戦線はそのまま膠着状態となった。フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは9月8日である。この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。しかしながらジャンヌは9月9日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだ国王シャルル7世からの撤退命令を受けた。多くの歴史家が、シャルル7世の寵臣で宮廷侍従長だったラ・トレモイユがシャルル7世戴冠後に犯した政治的失策を非難している<ref>歴史家たちの間でもラ・トレモイユに対する非難の度合いには温度差があり、ちょっとした陰謀に加担したというものから、口を極めて罵倒しているものまでさまざまである。Gower, ch. 4.[http://www.gutenberg.org/files/16933/16933.txt] (Retrieved 12 February 2006) ,Pernoud and Clin, pp. 78–80; DeVries, p. 135; and Oliphant, ch. 6.[http://www.authorama.com/book/jeanne-d-arc.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。10月にジャンヌはサン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦 ([[:en:Siege of Saint-Pierre-le-Moûtier]]) で軍に復帰した。続いて11月から12月のラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦 ([[:en:Siege of La Charité]]) にも従軍したがこの包囲戦は失敗している。そして、12月29日にジャンヌとその家族は貴族に叙せられた。
=== 火刑 ===
{{-}}
[[ファイル:Stilke Hermann Anton - Joan of Arc's Death at the Stake.jpg|thumb|left|[[:de:Hermann Stilke|Hermann Stilke]], 『火刑に処されるジャンヌ・ダルク』(1843年)]]


<gallery widths="150px" heights="150px">
[[5月30日]]、ジャンヌは異端者として教会から[[破門]]とイングランド軍による即時[[死刑]]を宣告され、ルーアン市内のヴィエ・マルシェ広場で火刑に処された。
File:Grande salle château de Chinon.JPG|ジャンヌと王太子シャルル7世が出会ったシノン城の大広間跡。シノン城で唯一現存している塔がジャンヌの記念博物館になっている。
File:The Maid of Orléans.PNG|[[ヤン・マテイコ]]が描いた、1429年のジャンヌのランス進駐。
File:Chateau Beaugency ballon.jpg|ジャンヌの戦場となった現存する数少ない城塞ボージャンシー城 ([[:en:Beaugency]])。フランス軍が都市の城壁を打ち破ると、イギリス軍は画面右上に見える塔に立て篭もった。
File:Notre Dame de Reims - détail haut.JPG|歴代フランス王が戴冠式を挙行したランスの[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂]]。1481年に火災に遭っており、現在見られる尖塔は火災後に増築されたもの。
File:ingres coronation charles vii.jpg|[[ドミニク・アングル]]が1854年に描いた『シャルル7世戴冠式のジャンヌ・ダルク』([[ルーヴル美術館]]、パリ)。長い髪、スカートなど、ジャンヌの女性らしさをより強調した作風となっている。
</gallery>


=== 捕縛 ===
{{要出典範囲|date=2012年6月|火刑は中世ヨーロッパのキリスト教的世界において、処刑される者にとっても最も苛烈な刑罰だった。その残虐な刑罰方法もさることながら、重要なのは死体が灰になってしまうという点にある。当時の埋葬方法は[[土葬]]が基本だった。[[キリスト教]]の[[カトリック教会|カトリック]]であれば誰もが死後には土葬を望んだのである。その理由というのは、遺体が燃やされて灰になってしまっては[[最後の審判]]の際に復活すべき体がなくなってしまうから、という宗教的なものだった。火刑は肉体的・身体的な恐怖感のみならず、精神的・宗教的な絶望感をも与えたのである。近代に入り、欧米でも国によっては火葬は公衆衛生学的な視点から伝染病対策などとして積極的に勧められるようになったが、熱心なキリスト教の信者たちは[[火葬]]に対して強い抵抗を感じていた。}}
[[File:Capture de Jeanne.JPG|thumb|[[コンピエーニュ]]でブルゴーニュ公国軍に捕らえられるジャンヌ。パリの[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]の壁画。]]
フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれ、その後の数カ月の間ジャンヌにはほとんどすることがなかった。1430年3月23日にジャンヌは、カトリックの分派[[フス派]]への書簡を書き取らせた。フス派はカトリック教会の教義の多くを否定し、異端として迫害されていた改革派だった。ジャンヌの書簡には「あなたたちの妄執と馬鹿げた妄信はお止めなさい。異端を捨てるか生命を捨てるかのどちらかです」と書かれていた<ref>Pernoud and Clin, pp. 258-259.</ref>。フランスとイングランドとの休戦協定は間もなく失効した。ジャンヌは5月にコンピエーニュ包囲戦 ([[:en:Siege of Compiègne]]) の援軍として[[コンピエーニュ]]へ向かった。1430年5月23日にジャンヌが率いる軍がマルニーに陣取っていたブルゴーニュ公国軍を攻撃し、この短時間の戦いでジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となってしまう<ref name="barbara_geiger1">
{{cite journal
| title=A Friend to Compiegne
| author=Geiger,Barbara
| journal=Calliope Magazine
| year=2008
| month=April
| volume=18
| issue=8
| pages=32–34
}}</ref>。ブルゴーニュ公国軍に6,000人の援軍が到着したことから、ジャンヌは兵士たちにコンピエーニュ城塞近くへの撤退を命じ<ref name="barbara_geiger1" />、自身はしんがりとなってこの場所で戦いぬく決心をした。しかしながらブルゴーニュ公国軍はジャンヌの退路を断ち、ジャンヌは一筋の矢を受けて馬から転がり落ちつつも、最後まで戦いを諦めなかった<ref>DeVries, pp. 161–170.</ref>。


{| class="toccolours" style="float:left; margin-left:0; margin-right:1em; font-size:85%; background:#c6dbf7; color:black; width:30em; max-width:40%;" cellspacing="5"
{{要出典範囲|date=2013年2月|点火されるまでのジャンヌは「神様、神様」と泣き叫んでいたが、火の勢いが強くなると「全てを委ねます」といって無反応になったと記録されている。}}
|-
| style="text-align:left;"|「王(シャルル7世)がブルゴーニュ公と15日間の休戦協定を結んだのは事実であり、ブルゴーニュ公が15日が経たないうちにパリへと兵を進軍させたのも事実です。私がすぐさまパリに向かわなかったとしても驚くことではありません。私はこういった休戦協定には反対であり、私自身がこの協定を破る可能性すらあります。私がこの協定を尊重するとすれば、それは王の名誉を守るためという一点だけです。王族の間で交わされるこのような協定が今回の15日間の休戦協定のように平和をもたらさない馬鹿げたものであっても、私は協定を守り、不測の事態に備えて軍を整えることでしょう」
|-
| style="text-align:left;"| -- ジャンヌが1429年8月5日にランス市民に宛てた書簡。 Quicherat I, p.&nbsp;246.
|}
<span style="white-space:nowrap">当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って</span>、身柄の引渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引渡しに介入せず見殺しにしたことを非難している。母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは幾度が脱走を試みている。ブルゴーニュ公領の[[アラス]]に移送されたときには、監禁されていたヴェルマンドワの塔から21メートル下の堀へと飛び降りたこともあった<ref>Pernoud, Regine. ''Joan of Arc: Her Story'', p. 96.</ref>。最終的にイングランドがブルゴーニュ公フィリップ3世に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取った。そしてイングランドのシンパだったフランス人司教[[ピエール・コーション]]がこれら一連の交渉ごとと、その後のジャンヌの異端審問に重要な役割を果たすことになる<ref>"Joan of Arc, Saint". ''Encyclopædia Britannica''. 2007. Encyclopædia Britannica Online Library Edition. 12 September 2007 <http://www.library.eb.com.ezproxy.ae.talonline.ca/eb/article-27055>.</ref>。
{{-}}


=== 異端審問 ===
イングランド側は彼女が逃げうせたと証言されるのを防ぐため、ジャンヌが息絶えた後に一度石炭を掻きならして火を遠ざけ、炭化した死体を見物人にさらした。その後、遺物の収集を阻止するため、灰になるまで焼却した。ジャンヌの亡骸の灰は、[[セーヌ川]]に流された。([[:en:Joan_of_Arc#Execution|Joan_of_Arc#Execution]] 参照)
{{See also|:en:Trial of Joan of Arc}}
[[File:Tour Jeanne D'Arc10.jpg|thumb|異端審問裁判期間にジャンヌが監禁されていたルーアン城の塔。後に「ジャンヌ・ダルクの塔」として知られるようになった。]]
ジャンヌの[[異端審問]]は政治的思惑を背景としていた。ベッドフォード公[[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]は、甥のイングランド王ヘンリー6世の名代としてシャルル7世のフランス王位継承に異議を唱えた。ジャンヌはシャルル7世の戴冠に力を貸した人物であり、これはトロワ条約に則ったフランス王位継承の正当性を揺るがす行為だったと激しく糾弾していたのである。そして1431年1月9日に、イギリスの占領統治府が置かれていた[[ルーアン]]で、ジャンヌの異端審問裁判が開始された<ref>判事たちによる予審が1月9日から3月26日まで、通常の審理が3月26日から5月24日まで、異議申し立てが5月24日、再審理が5月28日と29日という日程だった。</ref>。しかしながら一連の訴訟手続きは異例尽くめなものだった。


[[File:joan of arc interrogation.jpg|thumb|left|[[ポール・ドラローシュ]]が1824年に描いた『ウィンチェスター枢機卿の尋問を受ける独房のジャンヌ・ダルク』([[ルーアン美術館]](ルーアン)。]]
{{要出典範囲|date=2012年6月|このように灰さえも残さず決して土に返さないという遺体の取り扱いにおいても、ジャンヌが受けた取り扱いは当時としては最も苛烈なものだった。}}
ジャンヌの裁判における大きな問題点として、審理を主導した司教コーションが当時の教会法に従えばジャンヌの裁判への司法権を有していなかったことがあげられる<ref>後の復権裁判では、コーションがジャンヌの裁判について何の権能も持っていなかったことが判決文中に明示されている(''Joan of Arc: Her Story'', Pernoud and Clin, p. 108)。フランス人の副裁判官は、最初からこの裁判は管轄外であるとして異議を唱えていた。</ref>。コーションの審理は、この裁判を開いたイングランドの意向に完全に沿ったものだった。ジャンヌに対する証言の吟味を委任された教会公証人のニコラ・バイイも、ジャンヌを有罪とするに足る証言、証拠を見つけることができなかった<ref>Nullification trial testimony of Father Nicholas Bailly.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null03.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。物的証拠も法廷を維持する法的根拠もないままに、ジャンヌの異端審問裁判は開始されたといえる。さらに教会法で認められていた弁護士をつける権利さえもジャンヌには与えられなかった。公開裁判となった初回の審議でジャンヌは、出席者が自身に敵対する立場(親イングランド、ブルゴーニュ)の者ばかりであり、「親フランスの聖職者」も法廷に出席すべきだと主張した<ref>Taylor, Craig, ''Joan of Arc: La Pucelle'', p. 137.</ref>。


この法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。もっとも有名なものはジャンヌが「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と訊かれたときに「恩寵を受けていないのであれば神が私を無視しておられるのでしょう。恩寵を受けているのであれば神が私を守ってくださっているのでしょう」と答えた問答である<ref>Condemnation trial, p. 52.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。この尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的陥穽だった。教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていた。ジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになるのである。公証人ボワギヨームは、法廷でジャンヌのこの返答をしたときに「この質問を彼女にした尋問者は呆然としていた」と後になって証言している<ref name="Pernoud">Pernoud and Clin, p. 112.</ref>。20世紀の劇作家[[ジョージ・バーナード・ショー]]はこの問答記録を目にしたときに深い感銘を受け、ジャンヌの裁判記録を『聖女ジョウン』として戯曲に仕立て上げた<ref>Shaw, "Saint Joan". Penguin Classics; Reissue edition (2001). ISBN 0-14-043791-6</ref>。さらに数名の法廷関係者が後に、裁判記録の重要な箇所がジャンヌに不利になるよう改ざんされていると証言している。裁判出席者の多くが強制的に召集された聖職者だった。審問官の[[ジャン・ル・メートル]]も意に沿わぬ裁判に集められた一人で、なかにはイングランドから死をもって脅された聖職者もいた。また、異端審問裁判で定められた手順では、ジャンヌは教会の罪人として修道女など女性の監視のもとで監禁されることになっていた。しかしながらイングランドはジャンヌを世俗の罪人として扱い、イングランドの男性兵卒をジャンヌの監視役の任に就けた。コーションはジャンヌが望んだ、当時開催されていたキリスト教の最高会議である[[バーゼル公会議]]や教皇への請願など、自身が主導する審理を妨げるような要求をすべて却下した<ref>Pernoud and Clin, p. 130.</ref>。裁判で明らかになったとされているジャンヌに対する12の罪状は、改ざんされた裁判記録と明らかに矛盾している<ref>Condemnation trial, pp. 314–316.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。ジャンヌは文盲だったため、自身が署名した供述宣誓書が死刑宣告にも等しい危険な書類だったことを理解していなかった。異端審問法廷は裁判の公式記録に基づいた宣誓供述書ではなく、ジャンヌが異端を認めたという内容に改ざんした宣誓供述書にすりかえて、ジャンヌに署名させていた<ref>Condemnation trial, pp. 342–343.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html] (Retrieved 12 February 2006) Also nullification trial testimony of Brother Pierre Migier, "As to the act of recantation, I know it was performed by her; it was in writing, and was about the length of a Pater Noster."[http://www.stjoan-center.com/Trials/null09.html] (Retrieved 12 February 2006) In modern English this is better known as the [[:en:Lord's Prayer]], Latin and English text available here:[http://www.christusrex.org/www1/pater/] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。
[[1449年]][[11月10日]]、シャルル7世がイングランド軍を打ち破り、ルーアンに入城した。[[1450年]][[2月15日]]、シャルル7世の命令でジャンヌの裁判の調査が行われた。調査の結果、[[教皇|ローマ教皇]][[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]は裁判のやり直しを命じ、[[1455年]][[11月7日]]、ジャンヌの母イザベル・ロメの訴えによりジャンヌの復権裁判が行われた。かつてジャンヌと共に戦ったデュノワ伯ジャンや、オルレアンの市民たちを含めた115名の証人が呼ばれた。[[1456年]][[7月7日]]、ジャンヌが火刑にされた地であるルーアンにて、処刑裁判の破棄が宣告された。


=== 処刑 ===
== 偽ジャンヌ・ダルクと私生児説 ==
[[File:Stilke Hermann Anton - Joan of Arc's Death at the Stake.jpg|thumb|へルマン・スティルケが1843年に描いた『火刑台のジャンヌ・ダルク』([[エルミタージュ美術館]]、[[サンクトペテルブルク]])。ジャンヌは白いロングスカートを身につけ、頭には罪人を示す被り物がある。]]
ジャンヌが処刑されてから5年後の[[1436年]][[5月30日]]、ジャンヌを名乗る女性がロレーヌ地方の[[メス (都市)|メス]]に現れた。ジャンヌの兄ピエールとジャンはこの女性をジャンヌと認めたため、近隣の領主たちの歓迎を受けることになった。同年秋、彼女は当時[[ルクセンブルク君主一覧|ルクセンブルク公]]領だった[[アルロン]]で、ロレーヌ地方の領主ロベール・デ・ザルモアーズと結婚した。そのため、彼女はジャンヌ・デ・ザルモアーズの名で後世に知られることになった。[[1439年]][[8月]]、オルレアンにて町を救った功績として金銭を贈られた。[[1440年]]、パリの国王裁判所に出頭させられて説諭を受けたが、制裁を受けることもなく姿を消した。[[1457年]]、ジャンヌの名を騙ったことについての赦免状を求めるために[[アンジュー]]に現れたという記録が残されている。
当時[[異端]]の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛した後に再び異端の罪を犯したときだけだった。ジャンヌは改悛の誓願を立てたときに、それまでの男装をやめることにも同意していた。女装に戻ったジャンヌだったが、数日後に「大きなイギリス人男性が独房に押し入り、力ずくで乱暴しようとした」と法廷関係者に訴えた<ref>See Pernoud, p. 220, which quotes appellate testimony by Friar Martin Ladvenu and Friar Isambart de la Pierre.</ref>。このような性的暴行から身を守るためと、ジャン・マシューの供述によればドレスが盗まれて他に着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになった<ref>Nullification trial testimony of Jean Massieu.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null02.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。


[[File:Joan of Arc Roen Burning place IMG 1602.JPG|thumb|left|150px|マキシム・レアル・デル・サルトが1928年に制作したジャンヌの彫像。ジャンヌが処刑された場所から数インチのところに設置されている。2002年10月には歴史的記念物に登録された。]]
{{要出典範囲|date=2012年6月|ジャンヌは実は王家の私生児であったという説もある。この説によると、ジャンヌはシャルル6世の妃[[イザボー・ド・バヴィエール]]とシャルル6世の弟[[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|オルレアン公ルイ]]との間に生まれた、シャルル7世の異父妹とされる。イザボー王妃の息子フィリップは[[1407年]][[11月10日]]に死去し、ルイ・オルレアンは同年11月23日に暗殺されているが、このフィリップこそがジャンヌのことであり、男の子が生まれたが死産した、ということにして密かにジャック・ダルクの元に預けられた、というのである。}}{{要出典範囲|date=2012年6月|ジャンヌ私生児説を主張する者たちの中には、この女性こそ王家の私生児であった本物のジャンヌであり、処刑されたのはジャンヌの身代わりであるというジャンヌ生存説を唱える者もいる{{誰|date=2011年7月}}。だが、研究家たち{{誰|date=2011年7月}}にはこれらの説は否定的に見られている。}}
ジャンヌは敵軍の占領地を無事に通過するために小姓に変装し、戦場では身体を守るために甲冑を身に着けた。『乙女の記録 ({{lang|fr|Chronique de la Pucelle}})』には、ジャンヌが男装していたことが、戦場でのジャンヌに対する性的嫌がらせを抑止していたと記されている。ジャンヌの処刑後に開かれた復権裁判で証言することになるある聖職者は、ジャンヌが性的嫌がらせや性的暴行から身を守るために、獄中でも男装していたと証言している<ref>Nullification trial testimony of Guillaume de Manchon.[http://www.stjoan-center.com/Trials/#nullification] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。貞操を守るために男装するというのはもっともな理由であり、男装のジャンヌを見慣れた男たちは、徐々にジャンヌを性的な対象とは見なさなくなっていった<ref>中世装束の専門家アドリアン・ハルマンは、ジャンヌが20もの留め具で上着と結びつけられた二枚のズボンを着用していたとしている。さらに表のズボンはブーツのような皮革製だった。"Jeanne d'Arc, son costume, son armure."[http://lerozier.free.fr/chausses.htm]{{fr icon}} . Retrieved 23 March 2006.</ref>。


ジャンヌは男装をしていた理由を問われたときに、以前のポワチエでの教理問答を引き合いに出している。ポワチエで行われたジャンヌの教理問答に関する記録は残っていないが、さまざまな状況からポワチエの聖職者たちはジャンヌの男装を認めていたと考えられている。ジャンヌの役目は本来であれば男性がなすべきことであり、ジャンヌにしてみれば男装が自身の役割にふさわしい格好だった<ref>Condemnation trial, p. 78.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html] (Retrieved 12 February 2006) ポワティエの神学理論教授でジャンヌの復権裁判でも証言した司祭セガンは、直接的にはジャンヌの服装について言及していないが、その供述はジャンヌが非常に信心深い女性だったかということを肯定する心情にあふれている。[http://www.stjoan-center.com/Trials/null05.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。ジャンヌは戦場にいたときも監禁されていたときも髪を短く整えていた。神学者[[ジャン・ジェルソン]]などジャンヌの支持者たちは、後に復権裁判でフランス異端審問官長ジャン・ブレアルが擁護したように、ジャンヌの短髪を弁護している<ref>Fraioli, "Joan of Arc: The Early Debate", p. 131.</ref>。しかしながら、1431年に行われた異端審問の再審理で、ジャンヌが女装をするという誓いを破って男装に戻ったことが異端にあたると宣告され、異端の罪を再び犯したとして死刑判決を受けた。
{{誰範囲2|date=2012年6月|なお、シャルル7世の「王太子の兆候(シーニュ)」とは、シャルル7世が王妃イザボーの不義の子であるという噂を否定するものであり、ジャンヌこそがイザボーの不義の子だということを示したものであるという説もあるが、この説も研究家たちには否定的に見られている。}}


1431年5月30日に執行されたジャンヌの[[火刑]]の目撃証言が残っている。場所はルーアンのヴィエ・マルシェ広場で、高い柱に縛り付けられたジャンヌは、立会人のマルタン・ラドヴニューとイザンヴァル・ド・ラ・ピエールの二人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼んだ。一人のイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。そして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒した。さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされた。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってマチルダと呼ばれる橋の上からセーヌ川へ流された。ジャンヌの処刑執行者の一人ジョフロワ・セラージュは後に「地獄へ落ちるかのような激しい恐怖を感じた」と語っている<ref>Pernoud, p. 233.</ref>。
== 後世の評価 ==
[[ファイル:Jehanne signature.jpg|thumb|200px|ジャンヌ・ダルク自筆の署名。
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<small>[[1430年]][[3月28日]]付ランス住民宛書簡。マレーシー家蔵</small>]]


2006年2月に[[法医学]]の専門家たちが、シノンの博物館に残るジャンヌのものだといわれている骨と皮膚を六カ月かけて調査すると発表した。この調査からはこれらの骨や皮膚がジャンヌのものであるかどうかは判明しなかったが、放射線炭素年代測定や性別調査の結果から、完全なでっちあげともいえないとされた<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4711784.stm]. Retrieved 1 March 2006)</ref>。しかしながら、2006年12月17日に公表された暫定的な報告書では、ジャンヌのものとは考えられないと結論づけられている<ref>[http://www.msnbc.msn.com/id/16257470/] . Retrieved 17 December 2006.</ref>
{{要出典範囲|date=2012年6月|ジャンヌ・ダルクは、フランス軍内や直接関わりのあった都市の住人には人気があったものの、フランス全土での知名度はさほど高くなかった。}}


== ジャンヌの死後 ==
[[ナポレオン・ボナパルト]]は、フランス人として初めてジャンヌ・ダルクを評価し、フランスの救世主として大々的に紹介した。ただし、これはナポレオン自身の[[フランス第一帝政|皇帝]]の地位の正当化のためであった。その後フランスの[[ナショナリズム]]の高まりと共に、ジャンヌについての史料の編纂・研究が行われ、多くの文学・芸術作品のモチーフとなった。最近ではフランスの右翼政治家[[ジャン=マリー・ル・ペン]]などフランス国民の愛国主義・国民統合のシンボルとして祭りあげる動きもある。
[[File:Joan of Arc-Notre Dame.jpg|thumb|upright|right|パリの[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]に安置されているジャンヌの彫像。]]
百年戦争はジャンヌの死後も22年にわたって続いた。トロワ条約に則ってフランス王位を主張するイングランド王ヘンリー6世が、10歳の誕生日である1431年12月にフランス王としての戴冠式をパリで挙行してはいたが、フランス王シャルル7世はフランス王位の正当性を保ち続けることに成功していた。イングランド軍が1429年がパテーの戦いで失った軍事的主導権と長弓部隊を未だ再編成できていなかった1435年に、[[アラス]]でフランス、イングランド、ブルゴーニュの三カ国会議 ([[:en:Congress of Arras]]) が開かれた。この会議でそれまでのイングランドとフランスの同盟関係は解消され、逆にフランスとブルゴーニュの関係が接近することとなった。シャルル7世との百年戦争を主導し、ヘンリー6世の摂政としてイングランドの国政も担当していたベッドフォード公ジョンが1435年9月に死去したが、10代半ばのヘンリー6世は後見人たる新たな摂政を置かず、イングランド史上最年少の国王親政を始めた。そしておそらくはこのヘンリー6世の貧弱な指導力が百年戦争終結の最大の要因となった。歴史家ケリー・デヴリーズは、ジャンヌが採用した積極的な砲火の集中と正面突破作戦が、その後のフランス軍の戦術に影響を与えたとしている<ref>DeVries, pp. 179–180.</ref>。
<!--In 1452, during the posthumous investigation into her execution, the Church declared that a religious play in her honor at Orléans would allow attendees to gain an [[indulgence]] (remission of temporal punishment for sin) by making a [[pilgrimage]] to the event.-->


=== 復権裁判 ===
このようにフランス人としての国民意識形成に役割を果たしたジャンヌであったが、その出生地ロレーヌは東西[[フランク王国]]の分裂以来伝統的に[[ドイツ]]の政治的・文化的影響が強い土地である。ロレーヌがフランス王領に編入されたのは、1737年に[[ロレーヌ公]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン]]({{要出典範囲|date=2012年6月|フランツの祖先であるロレーヌ公シャルル2世はジャンヌを歴史の表舞台へと出す役割を担っている}})が[[神聖ローマ皇帝|神聖ローマ帝位]]を得るのと引き換えに譲渡した時であった。近代になってジャンヌがナショナリズムの象徴として持ち上げられるようになるころには、ロレーヌは[[アルザス地方]]とともにドイツとの間で帰属を巡って問題となった([[アルザス=ロレーヌ]])。ロレーヌが正式にフランスに帰属したのは[[第二次世界大戦]]後である。
{{Main|:en:Retrial of Joan of Arc}}
百年戦争の終結後に、ジャンヌの復権裁判が開かれた。ローマ教皇[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]も公式に承認したこの裁判は「(異端)無効化裁判 ({{lang|en|nullification trial}})」とも呼ばれ、フランス異端審問官長ジャン・ブレアルとジャンヌの母イザベル・ヴトンからの要請によるものだった。この復権裁判の目的はジャンヌに対する有罪宣告と陪審評決が、教会法の観点から正当なものだったがどうかを明らかにすることだった。修道士ギョーム・ブイユによる調査から裁判が開始され、ブレアルが1452年からこの裁判を主導することとなった。ジャンヌの復権裁判の開廷が公式に宣言されたのは1455年11月である。この裁判にはヨーロッパ各地の聖職者たちも関与しており、正式な法的手順を逸脱することのないように注視されていた。裁判に携わった神学者たちは115人分の宣誓供述を審理した。1456年6月にブレアルは、ジャンヌが殉教者であり、異端審問を主導したピエール・コーションが無実の女性に異端の罪を被せたとする結果をまとめ上げた。ジャンヌの直接の処刑の原因となった男装については、女性の服装に関する教会法の観点から有効とされていた<ref>{{bibleref|Deuteronomy|22:5}}</ref>。しかしながら、有罪を宣告される過程においてジャンヌが拘束されていたことが教義上の例外に当たるとして、復権裁判では異端審問での有罪判決が覆されている。そして復権裁判法廷は、1456年7月7日にジャンヌの無罪を宣告した<ref>Nullification trial sentence rehabilitation.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null13.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。


<gallery widths="200px" heights="200px">
{{要出典範囲|date=2012年6月|一方、敗北したイングランド側では、ジャンヌに対して長く「魔女」としてのレッテルを貼り続けていた。王家の腐敗が描かれる一方で愛国的姿勢も見受けられる[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の史劇『[[ヘンリー六世 第1部|ヘンリー六世・第一部]]』(''Henry VI, Part 1'', 1592年)でのジャンヌの描き方はその典型例である。}}
File:Vigiles du roi Charles VII 02.jpg|『シャルル7世年代記』の、ジャンヌとシャルル7世が描かれたミニアチュール。
File:Joan of Arc on horseback.png|1505年の装飾写本に描かれた、騎乗するジャンヌ。
File:Vigiles du roi Charles VII 05.jpeg|『シャルル7世年代記』の、パリ攻撃が描かれたミニアチュール。
File:Vigiles du roi Charles VII 10.jpg|『シャルル7世年代記』の、捕縛されるジャンヌが描かれたミニアチュール。
</gallery>


== 列聖 ==
{{要出典範囲|date=2012年6月|しかし、[[近代]]以後にはシャルル7世との抗争にイングランド勢が勝利した暁には、ヘンリー6世らイングランド王族が豊かなフランス側を本拠とするため、結果的にはイングランドがフランス側に事実上併合される可能性があったため「もしイングランドが百年戦争に勝利してフランスを併合していたら、イングランド=フランスに[[絶対王政]]が成立して、今日の[[自由主義]]はイギリスに存在しなかったかも知れない。結果的にはジャンヌはイギリスをも救った」という見方も現れるようになったという}}。さらには、[[ジョージ・バーナード・ショー]]の戯曲『聖女ジョーン』(ジョーンはジャンヌの英語名)で表されるように、[[プロテスタント]]の[[殉教者]]として評価する者まで出た。
{{Main|:en:Canonization of Joan of Arc}}
ジャンヌは16世紀にフランスの[[カトリック同盟 (フランス)|カトリック同盟]]の象徴となっていった。1849年にオルレアン大司教に任命されたフェリックス・デュパンルー ([[:en:Félix Dupanloup]]) がジャンヌを大いに賞賛する演説を行い、フランスのみならずイングランドの耳目も集めた。デュパンルーのジャンヌに対する高い評価と功績の紹介は、1909年4月18日にローマ教皇[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]からのジャンヌの[[列福]]となって結実した。さらに1920年5月16日には、ローマ教皇[[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]がジャンヌを[[列聖]]した。そしてジャンヌはローマ・カトリック教会におけるもっとも有名な[[聖人]]の一人となっていった<ref>ジャンヌはカトリック教会公式サイトで、もっとも閲覧されている聖人となっている [http://www.catholic.org/saints/popular.php]。Retrieved 12 February 2006.</ref>。


== 後世への影響と評価 ==
ジャンヌ・ダルクは[[1909年]][[4月18日]]に[[教皇|ローマ教皇]][[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]によって[[列福]]された。次いで[[1920年]][[5月16日]]に[[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]によって[[列聖]]され、[[聖人]]となった。
[[File:Jehanne signature.jpg|thumb|ジャンヌは文盲だったため、書簡はすべて口述筆記させたものだった。現存する三通のジャンヌの書簡にはジャンヌの署名が入っている。]]
[[ファイル:Pcs34560_IMG_10573.JPG|thumb|200px|[[ルーブル美術館]]前に設置されているジャンヌ・ダルクの金張りの騎馬像]]
ジャンヌはその死後4世紀にわたって半ば神格化されてきた。ジャンヌに関する伝記の主たる情報源は年代記によるものである。ジャンヌが有罪宣告を受けた裁判の内容を記した5冊の年代記装飾写本が、9世紀に古文書の中から発見された。この発見から間もなく歴史家たちの手によって、115人分の宣誓供述書や異端審問裁判でのラテン語で書かれた有罪宣告書の下敷きとなったフランス語での覚書など、ジャンヌの復権裁判の全記録も見つけ出された。当時やりとりされたさまざまな書簡も発見され、それらの中の三通の書簡からは「ジャンヌ ({{lang|fr|Jehanne}})」という、明らかに読み書きの教育を受けていない人物の手による署名が見つかった<ref>Pernoud and Clin, pp. 247–264.</ref>。これらジャンヌに関して発見された大量の一次資料について、デヴリーズは「男女を問わず中世の人物のなかで、これほど研究の対象となっているものはいない」としている<ref>DeVries in "Fresh Verdicts on Joan of Arc", edited by Bonnie Wheeler, p. 3.</ref>。
[[ファイル:Joan parliament of paris.jpg|thumb|200px|[[1429年]]5月10日にパリ高等法院書記クレマン・ド・フォーカンベルグが描いた素描(フランス国民議会図書館蔵)]]


辺鄙な小村に生まれた無学な農夫の娘ジャンヌ・ダルクは10代にして途方もない名声を手にいれた。フランスとイギリスの国王は、およそ1000年前に成立し、ヨーロッパの王位継承権の根拠となっていた[[サリカ法典|サリカ法]]の解釈の違いを言い立て、自分たちの立場を正当化しつつ戦争を継続した。百年戦争は王位継承権に関するフランス王家とイングランド王家との対立だったといえる。しかしながらジャンヌはこの両国間の戦争に新たな概念と視点をもたらした。あるときジャン・ド・メスがジャンヌに「フランス王が国を追われたら、我々はイングランド人となるのだろうか」と問いかけたことがある<ref name="Nullification"/>。スティーヴン・リッチーは「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒したときは別だということをジャンヌは理解していた」としている<ref name=Richey>Richey,[http://www.stjoan-center.com/military/stephenr.html] . Retrieved 12 12 February 2006.</ref>。リッチーはジャンヌは後世に与えた広い訴求力を次のように記している。
== てんかん説 ==
ジャンヌ・ダルクの神がかり的な言動については、発作を伴わない[[幻覚]]症状のみの[[側頭葉]][[てんかん]]によるものだとする見解がある。癲癇(てんかん)による[[エクスタシー]]体験は[[フョードル・ドストエフスキー]]のものが有名で、ジャンヌは過剰に道徳的・自律的だが、時として攻撃的になるという典型的な癲癇気質であったことがこの説を支持する要素となる<ref name="sanka"/>。国際癲癇学会(International Epilepsy Congress、IEC)の[[1991年]]の論文では、当時の証言や裁判記録を踏まえ、左側頭葉に発作焦点を持つ音楽原性癲癇であると考察されている。


{{quotation|
癲癇と宗教・神秘的体験の関連性については、元々[[側頭葉]]の一部には「神の回路」が存在していて、その部位が過度に刺激された癲癇患者が神懸かりになるという事例が報告されている<ref>[[ラマチャンドラン]]『脳のなかの幽霊』山下篤子訳、角川書店、1999年。</ref>。
その死後5世紀にわたって、人々は彼女(ジャンヌ)をありとあらゆることに関連付けようとしてきた。悪魔崇拝、神秘主義、権力悪用の言い訳、近現代ナショナリズムの始祖にして象徴、畏敬すべきヒロイン、聖人。拷問におびえ、火刑に処せられるそのときであっても、彼女は神の声に導かれたのだと主張し続けた。実際に彼女が神の声を聞いたかどうかに関係なく、彼女がその生涯で成し遂げたことを知った人は、誰もが驚嘆と感嘆で心を揺さぶられることだろう。
|スティーヴン・リッチー<ref name=Richey/>
}}

男勝りの活躍をしたとはいえ、ジャンヌは[[フェミニスト]]ではなかった。ジャンヌの行動原理は、神の声を聴き自身が選ばれた人間だと信じた、あらゆる階層の人々に見られる伝統的な宗教観に則ったものだった。ジャンヌはフランス軍から戦闘に関係のない女性を追い出し、ときには言うことを聞かないこれら非戦闘従軍者を剣の腹で殴りつけたこともあった<ref>通説とは異なり、女性の非戦闘従軍者の主な役割は売春ではない。女性たちは炊事、洗濯、荷駄運搬といった支援の役目を果たしていた。女性の非戦闘従軍者が従軍している兵士の妻であることも多かった。もちろん売春も行われてはいた。Byron C. Hacker and Margaret Vining, "The World of Camp and Train: Women's Changing Roles in Early Modern Armies".[http://www.assostoria.it/Armisovrano/Hacker-Vining.pdf] . Retrieved 12 February 2006.</ref><ref>ジャンヌの上司だったアランソン公ジャン2世は、ジャンヌがサン・ドニで非戦闘従軍者に向けて剣を叩き折るのを目撃した。ジャンヌの小姓だったルイ・ド・コンテは復権裁判で、ティエリ城近くで起きたこの出来事は単なる口頭での注意に過ぎなかったと証言している。 [http://www.stjoan-center.com/Trials/null07.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。しかしながら、ジャンヌが受けた重要な支援の中には女性から受けたものもある。シャルル7世の義母であるアンジュー公妃[[ヨランド・ダラゴン]]はジャンヌの処女性を支持し、ジャンヌがオルレアンへ向かうために必要な財政支援をした女性だった。コンピエーニュで監禁されていたジャンヌの監視責任者だったルクセンブルグ伯の叔母にあたるジョウンは、ジャンヌに対する待遇を改善し、おそらくはジャンヌがイングランド軍へ引き渡されるのを遅らせようとした女性だった。そしてブルゴーニュ公フィリップ2世の妹で、ジャンヌと敵対していたベッドフォード公ジョンの公妃アンヌ ([[:en:Anne of Burgundy]]) も、異端審問に先立つ審理でジャンヌが処女であると証言した女性だった<ref>ジャンヌの聴罪司祭が処女膜検査と記している手法は、処女かどうかを判断するのに十分とはいえない。しかしながら、当時の最上流階級の既婚女性たちが賛同した手法だった。 Rehabilitation trial testimony of Jean Pasquerel.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null07.html] Retrieved 12 March 2006.</ref> 。これにより、異端審問ではジャンヌが悪魔と交わって取引をした魔女であると告発することはできなかった。結果的にはこのことが後にジャンヌの正当性と聖性を証明する一助となった。15世紀の女権論者の文学者[[クリスティーヌ・ド・ピザン]]から今日に至るまで、ジャンヌは勇敢で行動的な女性の好例とみなされている<ref>English translation of Christine de Pizan's poem "La Ditie de Jeanne d'Arc" by L. Shopkow.[http://www.indiana.edu/~sotl/portfolios/shopkow/joan.htm] (Retrieved 12 February 2006) Analysis of the poem by Professors Kennedy and Varty of Magdalen College, Oxford.[http://web.archive.org/web/20080616120159/http://www.smu.edu/ijas/cdepisan/intro.html] Retrieved 12 February 2006.</ref>。

ジャンヌは[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の時代から、フランスを代表する政治的象徴だとみなされている。[[古典的自由主義|自由主義者]]たちは、ジャンヌが下層階級の出身であることの重要性を力説した。初期の[[保守主義|保守主義者]]たちは、ジャンヌの王族に対する献身を強調したが、後にジャンヌは[[ナショナリズム|国粋主義者]]であるとして、その評価を撤回している。[[第二次世界大戦]]では、親ドイツの[[ヴィシー政権]]と反ドイツのフランス・レジスタンス ([[:en:French Resistance]]) の両方からジャンヌのイメージが利用された。親ドイツで反イギリスのヴィシー政権側は、ジャンヌがイングランドに対抗して戦ったことを思い出させる宣伝ポスターを作成した。このポスターにはイギリスの軍用機がルーアンを爆撃しているイラストが描かれ、「こいつらはいつでも罪を犯しにルーアンへ戻ってくる」という脅迫文句が書かれていた。一方レジスタンス側は、ジャンヌが祖国フランスを占領していた敵国と戦ったこと、ジャンヌの出身地であるロレーヌが[[ナチズム|ナチ]]の占領下にあることを強調した。1972年に結成されたフランスの極右政党である[[国民戦線 (フランス)|国民戦線]]もジャンヌをイメージ戦略に使っている。政党の会合場所にはジャンヌの彫像が、出版する刊行物にはジャンヌの肖像が、そして党章にはジャンヌの殉教をモチーフとした三色旗が使用されている。

[[フランス海軍]]にはジャンヌ・ダルクの名前を冠した種類の異なる艦船が2013年現在までに3隻存在している。1902年竣工の[[ジャンヌ・ダルク (装甲巡洋艦)|装甲巡洋艦ジャンヌ・ダルク]]、1931年竣工の[[ジャンヌ・ダルク (軽巡洋艦)|軽巡洋艦ジャンヌ・ダルク]]、1964年竣工の[[ジャンヌ・ダルク (ヘリ空母)|ヘリ空母ジャンヌ・ダルク]]である。

<gallery widths="200px" heights="200px">
File:Joan of Arc Emmanuel Fremiet.jpg|エマニュエル・フレミエが1874年に制作したジャンヌの黄金像。ピラミッド広場、パリ。
File:Flag of Free France 1940-1944.svg|第二次世界大戦中に[[シャルル・ド・ゴール]]率いる自由フランス旗。中央の赤い十字架はジャンヌを象徴する[[ロレーヌ十字]]である。
File:Jeanne d'Arc Joan of Arc at San Francisco's Palace of the Legion of Honor and crepuscular rays.jpg|剣を振り掲げるジャンヌの騎馬像。 カリフォルニア・レジョンドヌール美術館美術館、サンフランシスコ。
</gallery>

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[[Traditionalist Catholic]]s, in France and elsewhere, also use her as a symbol of inspiration, often comparing the 1988 excommunication of Archbishop [[Marcel Lefebvre]] (founder of the [[Society of St. Pius X]] and a dissident against the Vatican II reforms), to her excommunication.

[[Philippe-Alexandre Le Brun de Charmettes]] is the first historian who wrote Joan of Arc's complete history<ref>[http://openlibrary.org/details/histoiredejeanne01lebr Histoire de Jeanne d`Arc by P.A Le Brun de Charmettes-Tome1] [http://openlibrary.org/details/histoiredejeanne02lebr Tome2] [http://openlibrary.org/details/histoiredejeanne03lebr Tome3] [http://openlibrary.org/details/histoiredejeanne04lebr Tome4]</ref> in 1817, in an attempt to restore her family's reputation from Joan's status as a relapsed heretic.
His interest in Joan came at a time when France was still struggling to define its new identity after the [[French revolution|Revolution]] and the [[Napoleonic wars]]. The national ''[[ethos]]'' was in search of non-controversial heroes. As a staunch supporter of King and country, Joan of Arc was an acceptable symbol to the monarchists. As a patriot and the daughter of commoners, she was seen as one prototype of the low-born volunteers (the ''soldats de l'an II'') who had victoriously fought for revolutionary France in 1802 and as such could be claimed by the Republicans. As a religious martyr, she was also popular in the powerful Catholic community. De Charmette's ''Orléanide'', today largely forgotten, was another attempt to magnify the national ''ethos'' as writers like [[Virgil]] (the ''[[Aeneid]]''), or [[Luís de Camões|Camoens]] (''[[Os Lusíadas]]'') had done for Rome and Portugal.
-->
== 幻視と神からの声 ==
[[File:Jeanne d' Arc (Eugene Thirion).jpg|thumb|ウージェーヌ・ティリオンが1876年に描いた大天使ミシェルの声を聞く『ジャンヌ・ダルク』。[[普仏戦争]]の敗北により、1871年に[[プロイセン王国]]との間に[[アルザス=ロレーヌ|アルザス=ロレーヌ地方]]を割譲するという[[フランクフルト講和条約]]が結ばれたこともあって、19世紀後半のフランスでは、ジャンヌをモチーフとしたこのような作品には政治的な意味合いが隠されていた。]]
ジャンヌが目にした聖人たちの姿と神からの声は、今でも興味の的となっている。研究者たちのほぼ一致した見解としては、ジャンヌの信仰心が揺ぎないものだったということである。ジャンヌは、神からの啓示を受けたときに幻視したのは、[[アンティオキアのマルガリタ|聖マルグリット]]、[[アレクサンドリアのカタリナ|聖カトリーヌ]]、そして[[ミカエル|大天使ミシェル]]だったと語っている。しかしながら、ジャンヌが幻視したのが間違いなくこの三人であったかどうかに関しては曖昧な点もある。ジャンヌの身に起こったことは、間違いなく聖なる啓示だったと考えるカトリック教徒もいる。

ジャンヌの幻視や神の声を聴いたという神秘体験に関する主たる情報源は、ジャンヌが激しく糾弾された異端審問の記録である。この記録にはジャンヌが自身が裁判の進行に反抗し、神秘体験に関する尋問への宣誓供述をすべて拒否したことが記されているため、ジャンヌの神秘体験に対する研究も議論の的となっている。ジャンヌは、異端審問で証言することがかつてシャルル7世との間に交わした機密保持の誓いを破ることになると訴えていた。これら現存している異端審問の記録の内容が、偏った法廷のでっち上げなのか、ジャンヌがシャルル7世との機密を守るためについた嘘なのかはわからない<ref>Condemnation trial, pp. 36–37, 41–42, 48–49. . Retrieved 1 September 2006.</ref>。歴史家のなかには、ジャンヌの信仰心の顕れだといわれる神秘体験については言及せず、ジャンヌの実際的な側面のみを研究するものもいる<ref>ジャンヌの軍事的側面の研究者ケリー・デヴリー ズは次のように述べている。
{{Quotation|
(ジャンヌが見たとする聖人たちの)幻視や幻視の信憑性は、ジャンヌの軍事的資質を考える上で重要な要素ではない。真に重要なことは、ジャンヌの軍事指揮官としての資質が神からの賜物だと「彼女自身が」信じていたということだ。|DeVries, p. 35.|
}}</ref>。ただし、ジャンヌと同時代の記録も20世紀ちかくの歴史家たちも、ジャンヌは心身ともに健全だったということで、ほぼ意見の一致を見ている。

現代の学者の多くが、ジャンヌの神秘体験を精神医学あるいは神経医学の観点から説明しようとしている。ジャンヌの幻視の原因となった症例として、[[てんかん]]、[[偏頭痛]]、[[結核]]、[[統合失調症]]などが可能性として考えられている<ref>これらの仮説の多くが、医学者からではなく歴史研究者によって唱えられている。ジャンヌの幻視を疾病に求めた医学者の論文としては次のようなものがある。<br/>
{{cite journal
|author=d'Orsi G, Tinuper P
|title="I heard voices...": from semiology, an historical review, and a new hypothesis on the presumed epilepsy of Joan of Arc
|journal=Epilepsy Behav
|volume=9
|issue=1
|pages=152–7
|year=2006
|month=August
|pmid=16750938
|doi=10.1016/j.yebeh.2006.04.020
|url=http://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S1525-5050(06)00175-2}} (idiopathic partial epilepsy with auditory features)<br/>
{{cite journal
|doi=10.1111/j.1528-1157.1991.tb05537.x
|author=Foote-Smith E, Bayne L
|title=Joan of Arc
|journal=Epilepsia
|volume=32
|issue=6
|pages=810–5
|year=1991
|pmid=1743152
}} (epilepsy)<br/>
{{cite journal
|doi=10.1097/00007611-198412000-00003
|author=Henker FO
|title=Joan of Arc and DSM III
|journal=South. Med. J.
|volume=77
|issue=12
|pages=1488–90
|year=1984
|month=December
|pmid=6390693
|url=http://meta.wkhealth.com/pt/pt-core/template-journal/lwwgateway/media/landingpage.htm?issn=0038-4348&volume=77&issue=12&spage=1488
}} (various psychiatric definitions)<br/>
{{cite journal
|author=Allen C
|title=The schizophrenia of Joan of Arc
|journal=Hist Med
|volume=6
|issue=3–4
|pages=4–9
|date=Autumn–Winter 1975
|pmid=11630627
}} (schizophrenia)</ref>。ただし、ジャンヌの生涯に関する情報が不足していることもあって、これらの仮説の中で定説といえるものは存在しない。医学誌『ニューロサイコバイオロジー』で側頭葉結核腫に関する論文を発表した二人の医学者は、同論文でジャンヌの神秘意見を疾病に求める傾向に疑義を呈している。

{{quotation|
最終的な結論を出すのは困難である。しかしながら、重篤な疾病である慢性結核に「この患者」が罹病していたとは考えにくい。暮らしぶりや活動力からすると重病に罹っていたという可能性はありえない<ref>
{{cite journal
|doi=10.1159/000119218
|author=Nores JM, Yakovleff Y
|title=A historical case of disseminated chronic tuberculosis
|journal=Neuropsychobiology
|volume=32
|issue=2
|pages=79–80
|year=1995
|pmid=7477805
}}</ref>。
}}
ジャンヌが[[パスチャライゼーション|加熱殺菌]]されていない牛乳を飲んだために牛結核症に罹患したとする説もあるが、歴史家レジーヌ・ペルヌーは、加熱殺菌されていない牛乳を飲むだけでジャンヌのような恩恵にあずかることができるのであれば、フランス政府は牛乳の加熱殺菌を禁ずる法令を出すだろうと一蹴している<ref>Pernoud, p. 275.</ref>。

ジャンヌが精神的疾患に罹患していたという説の反論として、ジャンヌがシャルル7世の宮廷で支持を得ていたことが挙げられている。シャルル7世の父であるフランス王[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]が精神を病んでいたこともあり、シャルル7世は「精神障害者」を見極めることができたはずだとする。シャルル6世は「狂気王シャルル」と呼びならわされており、その治世下の廷臣や軍人の多くから、その狂気に満ちた振る舞いがフランス凋落の一因だとみなされていた。その父たる先王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]も、シャルル6世の精神が繊弱であることを認識していた。シャルル7世のフランス王位継承を剥奪するトロワ条約の締結も、シャルル6世の血を引くシャルル7世が父王と同様の狂気に陥る可能性が背景にあった。シャルル6世の狂気の血は次世代にも受け継がれ、イングランド王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]が1453年に精神疾患に罹病している。ヘンリー6世はシャルル7世の甥で、シャルル6世の孫にあたる血筋だった。ジャンヌがシノン王宮に到着したときの印象を、王室顧問官ジャック・ジェルが記録している。
{{quotation|
聖人の幻を見たなどという、影響されやすい農夫の娘との会話で安易に信念を変えてはならない。諸外国との問題については合理的であるべきだ。
}}
[[File:Vigiles misc 03.jpg|thumb|『シャルル7世年代記』のミニアチュール。トロワ市民が城門の鍵をシャルル7世とジャンヌに渡す場面が描かれている。]]
シャルル7世の宮廷では、精神衛生の問題に関しては用心深く懐疑的だった<ref>Pernoud and Clin, pp. 3, 169, 183.</ref><ref>「当初の彼女(ジャンヌ)は狂人ではないかとみなされており、放擲すべきだという意見もありました。しかしながら彼女の立ち居振る舞いに皆が魅了されていったのです」:復権裁判での王室顧問官未亡人マルグリットの証言。 [http://www.stjoan-center.com/Trials/null05.html] Retrieved 12 February 2006.</ref>。

ジャンヌが統合失調症などの精神疾患に罹病していたことを示す兆候は皆無である。死の直前までその頭脳は明晰であり、復権裁判でもジャンヌが明敏だったことが証言されている。
{{Quotation|
彼ら(異端審問の裁判官たち)は次々と質問を変えて(ジャンヌを)攻めたてましたが、彼女の答えは用心深く、優れた記憶力の持ち主であることは明らかでした<ref>復権裁判でのギョーム・ド・マンションの証言。 [http://www.stjoan-center.com/Trials/null09.html] Retrieved 12 February 2006.</ref>。
}}
尋問に対するジャンヌの明晰な答えをおそれた裁判官たちは、この異端審問を非公開裁判とすることを余儀なくされた<ref name="Pernoud"/>。

精神疾患は必ずしも重篤な認識機能障害を伴うとは限らない。それでもなおジャンヌの神秘体験は、現在の精神疾患の診断基準と照らし合わせると明らかに有害な精神状態であるとする説も根強い。[[アメリカ精神医学会]]が定めた『[[精神障害の診断と統計の手引き]]』には統合失調症の兆候として、的外れな会話、緊張病性行動、情動の平板化、失語症、意欲喪失などが挙げられている<ref>APA's ''Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders'', fourth edition, pp. 273–275. Online copy of the print manual available at: [http://www.psychiatryonline.com/DSMPDF/dsm-iv.pdf]. Retrieved 19 November 2010.</ref>。しかしながら、このような症例はジャンヌには当てはまらない。

ジャンヌの多様な経験から、その精神状態を説明できるとする精神科医もいる。[[イェール大学]]の心理学教授ラルフ・ホフマンは、「神の声」などの神秘体験や幻視が必ずしも精神疾患の兆候を意味するものではないと指摘した。そして、専門的な言葉ではなく単に「インスパイアド・ヴォイス」とホフマンが解説した事例に、ジャンヌの神秘体験が当てはまるとしている<ref>Hoffman, "Auditory Hallucinations: What's It Like Hearing Voices?" in HealthyPlace.com, 27 September 2003.[http://www.healthyplace.com/Communities/Thought_Disorders/schizo/articles/hearing_voices.htm]. Retrieved 12 February 2006.</ref>。


== 偽造されたジャンヌの遺骨 ==
また、癲癇の原因としては[[教会]]の[[鐘]]などが原因となる音楽原性、あるいは[[ウシ|牛]]などから感染した[[結核]]が原因とみられ、これについては
1867年にパリの薬局で「オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクの火刑跡から採取された」という説明書きがある瓶が発見された。この瓶の中には黒焦げの人間の肋骨、炭化した木材、麻布の切れ端、猫の大腿骨(魔女を火刑に処するときに火中に放り込まれた黒猫の骨だとされた)が入っていた。これらは現在シノンの博物館に所蔵されている。2006年にレイモン・ポワンカレ病院の古病理学者で法医学者でもあるフランス人フィリップ・シャルリエ ([[:fr:Philippe Charlier]]) がこの遺物を調査した。そして、[[放射性炭素年代測定]]やさまざまな[[分光法|分光分析]]が実施された結果<ref name="Nature">
* 火刑で[[心臓]]・[[腸]]が焼け残ったのは結核性[[心膜炎]]や腸管結核によるもの
{{cite journal
* [[無月経]]で痩せていたのは[[悪液質]]のため
|author=Declan Butler.
などが結核の傍証として挙げられる<ref name="sanka">早川智「ジャンヌ・ダルクと神の声」『産科と婦人科』、71巻6号、診断と治療社、P.794-798、2004年</ref>。
|title=Joan of Arc's relics exposed as forgery
|journal=[[:en:Nature (magazine)|Nature]]
|volume=446
|issue=7136
|page= 593
|date=4 April 2007
|doi=10.1038/446593a
|url=http://www.nature.com/nature/journal/v446/n7136/full/446593a.html
}}</ref>、紀元前6世紀から紀元前3世紀のエジプトのミイラであることが判明した。真っ黒な外観は燃焼によるものではなく、死体防腐処理に使用された薬物によるものだった。また、調査では大量のマツの花粉も見つかっており、これはミイラ制作に使用された松脂の存在と一致する。さらに燃えた跡のない麻布は、ミイラを包むときによく使われた素材でもあった。著名な香水製造者である[[ゲラン]]とジャン・パトー ([[:en:Jean Patou]]) はかつて、この遺物からは[[バニラ]]の匂いがすると語ったことがあったが、バニラもミイラ制作時によく使用されていた。中世ではミイラが薬の原料とされており、この遺物ももともとは薬瓶だったものが、フランスのナショナリズムが高揚した時期に偽造されたものだと考えられている。
<!--
==Revisionist theories==
{{Main|Alternative historical interpretations of Joan of Arc}}
The accuracy of the standard accounts of the life of Joan of Arc has been questioned by revisionist authors.
-->


== 脚注 ==
== 脚注 ==
<!-- NOTE: Please add new citations in the same format as existing citations. See [[Wikipedia:Footnotes]] or ask for help on the talk page. -->
{{Reflist}}
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|last=DeVries|first=Kelly|title=Joan of Arc: A Military Leader|publisher=Sutton Publishing |location=Stroud, Gloucestershire |year=1999 |isbn=0-7509-1805-5 |oclc=42957383}}
* [[アナトール・フランス]]『ジャンヌ・ダルク』[[吉江孤雁]]訳 早稲田大学出版部、1917
* {{Cite book|first=Richard C. |last=Famiglietti|title=Royal Intrigue: Crisis at the Court of Charles VI 1392–1420|publisher=AMS Press|location=New York |series=AMS studies in the Middle Ages, 9 |year=1987|isbn=0-404-61439-6}}<!-- Was "Pernoud and Clin". -->
* アンドレ・ボシュア 『ジャンヌ・ダルク』[[新倉俊一 (フランス文学者)|新倉俊一]]訳、[[白水社]]〈文庫クセジュ〉、1969年、ISBN 4560054584。
* {{Cite book|last=Lucie-Smith |first=Edward |title=Joan of Arc |year=1976 |publisher=Allen Lane |location=Bristol |isbn=0-7139-0857-2}}
* [[高山一彦]]『ジャンヌ・ダルクの神話』 [[講談社現代新書]]、1982年、ISBN 4061456423。
* {{Cite book|last=Oliphant |first=Mrs. (Margaret) |title=Jeanne d'Arc: Her Life and Death |isbn=978-1404310865 |series=Heroes of the Nations |date=June 2002 (Web page: November 2003) |origyear=1896 |publisher=IndyPublish.com |url=http://www.authorama.com/book/jeanne-d-arc.html}}
* [[ジュール・ミシュレ]]『ジャンヌ・ダルク』[[森井真]]・[[田代葆]]訳、[[中央公論新社|中央公論社]]、1983年、<中公文庫>、1987年
* {{cite book |title=Joan of Arc: Her Story |last=Pernoud |first=Régine |coauthors=Marie-Véronique Clin |others=translated and revised by Jeremy duQuesnay Adams; edited by Bonnie Wheeler |year=1999 |publisher=St. Martin's Press |location=New York |isbn=9780312214425 |url=http://www.amazon.com/dp/0312214421/#reader-link |oclc=39890535}}<!-- Added, but references may actually refer to Famiglietti. -->
* [[堀越孝一]]『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』清水書院、1984年、ISBN 438944042X
** 日本語訳 - {{Cite |和書 |author = レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン |translator = 福本直之 |title = ジャンヌ・ダルク |date = 1992 |edition = |publisher = [[東京書籍]] |isbn = 4487761530}}
* 堀越孝一 『ジャンヌ=ダルク』 [[朝日新聞社]]、1991年、ISBN 402260655X。

* {{仮リンク|レジーヌ・ペルヌー|fr|Régine Pernoud}}、マリ=ヴェロニック・クラン 『ジャンヌ・ダルク』[[福本直之]]訳、[[東京書籍]]、1992年
== 関連文献 ==
* レジーヌ・ペルヌー『ジャンヌ・ダルクの実像』 高山一彦訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1995年、ISBN 4560057664。
{{Refbegin}}
* レジーヌ・ペルヌー『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』[[塚本哲也]]監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、2002年、ISBN 4422211625。
;伝記書
* 高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』白水社、2002年、ISBN 4560028370。
* {{Cite |和書 |author = アンドレ・ボシュア |translator = [[新倉俊一 (フランス文学者)|新倉俊一]] |title = ジャンヌ・ダルク |date = 1969 |edition = |publisher = [[白水社]]〈文庫クセジュ〉 |isbn = 4560054584}}
* レジーヌ・ペルヌー『ジャンヌ・ダルク復権裁判』高山一彦訳、白水社、2002年、ISBN 4560028389。
* 高山一彦ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」』[[岩波新書]]、2005年、ISBN 4004309689。
* {{Cite |和書 |author = [[高山一彦]] |title = ジャンヌ・ダルクの神話 |date = 1982 |edition = |publisher =[[講談社現代新書]] |isbn = 4061456423}}
* {{Cite |和書 |author = [[ジュール・ミシュレ]] |translator = 森井真・田代葆 |title = ジャンヌ・ダルク |date = 1987 |edition = |publisher = [[中央公論新社|中公文庫]] |isbn = 4122014085}}
* {{Cite |和書 |author = [[堀越孝一]] |title = ジャンヌ=ダルクの百年戦争 |date = 1984 |edition = |publisher = 清水書院 |isbn = 438944042X}}
* {{Cite |和書 |author = [[堀越孝一]] |title = ジャンヌ=ダルク |date = 1991 |edition = |publisher = [[朝日新聞社]] |isbn = 402260655X}}
* {{Cite |和書 |author = レジーヌ・ペルヌー |translator = 高山一彦 |title = ジャンヌ・ダルクの実像 |date = 1995 |edition = |publisher = 白水社〈文庫クセジュ〉 |isbn = 4560057664}}
* {{Cite |和書 |author = レジーヌ・ペルヌー |translator = 遠藤ゆかり |title = 奇跡の少女ジャンヌ・ダルク |date = 2002 |edition = |publisher = 創元社〈「知の再発見」双書〉 |isbn = 4422211625}}
* {{Cite |和書 |author = 高山一彦 |title = ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 |date = 2005 |edition = |publisher = [[岩波新書]] |isbn = 4004309689}}
*{{Cite book|author=Anon|title=The First Biography of Joan of Arc with the Chronicle Record of a Contemporary Account|url=http://www.smu.edu/ijas/texts/joan.pdf|others=trans. Rankin, Daniel & Quintal, Claire}}
*{{Cite book|title=The trial of Jeanne d'Arc|editor=Barrett, W.P.|publisher=Gotham house|location=New York|year=1932|oclc=1314152}}
*{{Cite book|last=Brooks|first=Polly Schoyer|title=Beyond the Myth: The Story of Joan of Arc|publisher=Houghton Mifflin Co|location=New York|year=1999|isbn=0-397-32422-7|oclc=20319268}}
*{{Cite book|last=de Quincey|first=Thomas|title=The English Mail-Coach and Joan of Arc|url=http://www.gutenberg.org/dirs/etext04/7mjnc10.txt}}
*{{Cite book|last=Fraioli|first=Deborah|title=Joan of Arc: The Early Debate|publisher=Boydell Press,|location=London|year=2002|isbn=0-85115-880-3|oclc=48680250}}
*{{Cite book|last=France|first=Anatole|title=The Life of Joan of Arc|url=http://www.gutenberg.org/etext/19488}}
*{{Cite book|last=Gower|first=Ronald Sutherland|title=Joan of Arc|url=http://www.gutenberg.org/files/16933/16933.txt}}
*{{Cite book|last=Heimann|first=Nora|title=Joan of Arc in French Art and Culture (1700–1855): From Satire to Sanctity|publisher=Ashgate|location=Aldershot|year=2005|isbn=0-7546-5085-5}}
*{{Cite book|last1=Heimann|first1=Nora|last2=Coyle|first2=Laura|title=Joan of Arc: Her Image in France and America|publisher=Corcoran Gallery of Art in association with D Giles Limited|location=Washington, DC|year=2006|isbn=1-904832-19-9}}
*{{Cite book|last=Le Brun de Charmettes|first=Philippe-Alexandre|title=Histoire de Jeanne d`Arc|publisher=ED. Artus Bertrand|location=Paris|year=1817|oclc=8443774|url=http://openlibrary.org/details/histoiredejeanne01lebr|language=French}}
*{{Cite book|last=Le Brun de Charmettes|first=Philippe-Alexandre|title=L`ORLEANIDE,POEME NATIONAL EN VINGT-HUIT CHANTS|editor=Smith, Audin|location=Paris|year=1821|language=French}}
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*{{Cite book|last=Pernoud|first=Régine|title=The Retrial of Joan of Arc; The Evidence at the Trial For Her Rehabilitation 1450–1456|publisher=Harcourt, Brace and Company|location=New York|year=1955|oclc=1338471|others=trans. J.M. Cohen}}
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*{{Cite book|last1=Pernoud|first1=Régine|last2=Clin|first2=Marie-Véronique|title=Joan of Arc: Her Story|publisher=St. Martin's Griffin|location=New York|year=1999|isbn=0-312-22730-2|oclc=39890535|others=trans. Jeremy Duquesnay Adams}}
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*{{Cite book|last=Richey|first=Stephen W.|title=Joan of Arc: The Warrior Saint|publisher=Praeger|location=Westport, CT|year=2003|isbn=0-275-98103-7|oclc=52030963}}
*{{Cite book|last=Richey|first=Stephen W.|title=Joan of Arc: The Warrior Saint|publisher=Praeger|location=Westport, CT|year=2003|isbn=0-275-98103-7|oclc=52030963}}
*{{Cite book |author=Romm F. |title=Загадки Орлеанской девы |trans_title=Mysteries of The Maid of Orleans |url=http://enas.ru/npp/chep/zhanna-800.htm |year=2008 |publisher=ENAS |location=Moscow |language=Russian}}
*{{Cite book|last=Spoto|first=Donald|title=Joan : the mysterious life of a heretic who became a saint|publisher=HarperSanFrancisco|location=San Francisco|year=2007|isbn=0-06-081517-5|oclc=84655969}}
*{{Cite book|title=The trial of Joan of Arc : being the verbatim report of the proceedings from the Orleans manuscript|publisher=Folio Society|location=London|year=1956|oclc=1182797|others=trans. Scot, W.S.}}
{{Refend}}

{{Refbegin}}
;歴史書
*{{Cite book|last=Allmand|first=C.|title=The Hundred Years War: England and France at War c. 1300&nbsp;– 1450|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|year=1988|isbn=0-521-31923-4 }}
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*{{Cite book|last=Guizot|first=François Pierre Guillaume|title=A Popular History of France from the Earliest Times|volume=3|url=http://www.gutenberg.org/files/11953/11953.txt}}
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*{{Cite book|last=Vauchez|first=André|title=Sainthood in the Later Middle Ages|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|year=1997|isbn=0-521-44559-0|others=trans. Jean Birrell}}
{{Refend}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ジャンヌ・ダルクの異名を持つ人物の一覧]]
* [[ジャンヌ・ダルクの異名を持つ人物の一覧]]
* [[ジャンヌダルク (ヘリ空母)]] - 1964年竣工したフランスのヘリ空母(ヘリ巡洋艦・練習艦)
* [[ジル・ド]] - ジャンヌ協力したフランス軍元帥
* [[ラ・イル]] - ジャンヌに協力したフランス軍人。
* [[フス戦争]] - 同じ時代の宗教戦争。手紙を送っている。
* [[ジャン・ポトン・ド・ザントライユ]] - ジャンヌに協力したフランス軍人。
* [[マリアンヌ]] - フランスで勇敢に軍を率いた架空の女性の英雄。自由の女神像や、絵画、民衆を導く自由の女神で知られる。ジャンヌ・ダルクと直接の関係はない。
* [[巫病]]
* [[エミリア・プラテル]] - [[ロシア帝国]]の支配を排して[[ポーランド・リトアニア共和国]]の復活を目指した19世紀初頭の[[11月蜂起|ポーランド11月蜂起]]で活躍した実在の女性軍人。
* [[エミリア・プラテル]] - [[ロシア帝国]]の支配を排して[[ポーランド・リトアニア共和国]]の復活を目指した19世紀初頭の[[11月蜂起|ポーランド11月蜂起]]で活躍した実在の女性軍人。


== ジャンヌ・ダルクが主題の作品 ==
== ジャンヌ・ダルクが主題の作品 ==
=== 小説 ===
=== 小説 ===
* [[マーク・トウェイン]]『ジャンヌ・ダルクについての個人的回想』"Personal Recollections of Joan of Arc", 1895年<br />
訳書は「マーク・トウェインのジャンヌ・ダルク」([[大久保博 (翻訳家)|大久保博]]訳 [[角川書店]]、[[1996年]])
* [[ミシェル・トゥルニエ]] ''Michel Tournier'' (原著), [[榊原晃三]] (翻訳)『聖女ジャンヌと悪魔ジル』[[白水社]]、[[1992年]] ISBN 456004306X
* [[ミシェル・トゥルニエ]] ''Michel Tournier'' (原著), [[榊原晃三]] (翻訳)『聖女ジャンヌと悪魔ジル』[[白水社]]、[[1992年]] ISBN 456004306X
* [[佐藤賢一]]『傭兵ピエール』[[集英社]]、[[1996年]] ISBN 4087751961
* [[佐藤賢一]]『傭兵ピエール』[[集英社]]、[[1996年]] ISBN 4087751961
167行目: 400行目:
* 矢崎努『裁判素記~ジャンヌ・ダルクへの道』[[文芸社]]、[[2007年]] ISBN 428602699X
* 矢崎努『裁判素記~ジャンヌ・ダルクへの道』[[文芸社]]、[[2007年]] ISBN 428602699X
* 佐藤賢一『ジャンヌ・ダルクまたはロメ』[[講談社]]、[[2012年]] ISBN 4062753189
* 佐藤賢一『ジャンヌ・ダルクまたはロメ』[[講談社]]、[[2012年]] ISBN 4062753189

=== 音楽 ===
* [[チャイコフスキー]] 歌劇『オルレアンの少女』
* [[オネゲル]] 劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』


=== 漫画 ===
=== 漫画 ===
* [[酒見賢一]](著), [[近藤勝也]](イラスト)『D’arc~ジャンヌ・ダルク伝』 [[アニメージュ#アニメージュコミックス|アニメージュコミックス]]ワイド判, [[1995年]]
* [[酒見賢一]](著), [[近藤勝也]](イラスト)『D’arc~ジャンヌ・ダルク伝』 [[アニメージュ#アニメージュコミックス|アニメージュコミックス]]ワイド判, [[1995年]]
* [[安彦良和]](著), [[大谷暢順]](原作)『ジャンヌ』[[日本放送出版協会]], [[1995年]](愛蔵版, [[2002年]], ISBN 4140053860)
* 天川すみこ『ジャンヌ・ダルク 』[[あすかコミックス]]DX, [[1995年]], ISBN 4048525786
* 天川すみこ『ジャンヌ・ダルク 』[[あすかコミックス]]DX, [[1995年]], ISBN 4048525786

=== 絵本 ===
* [[ジョゼフィーン・プール]] ''Josephine Poole''(著), アンジェラ・バレット ''Angela Barrett''(イラスト), [[片岡しのぶ]] (翻訳)『絵本ジャンヌ・ダルク伝 [[あすなろ書房]]、[[2004年]] ISBN 4751522728

=== 戯曲 ===
* [[ジョージ・バーナード・ショー]] ''George Bernard Shaw''『聖女ジョウン』(または『聖女ジャンヌ・ダルク』、Saint Joan)、[[1923年]] 日本語訳は『福田恆存翻訳全集』[[文藝春秋]]に所収

=== 映画 ===
* [[裁かるるジャンヌ]] (1928年)
* [[ジャンヌダーク]] (1935年)
* [[ジャンヌ・ダーク]] (1948年)
* [[聖女ジャンヌ・ダーク]] (1957年)
* {{仮リンク|ジャンヌ・ダルク裁判|fr|Procès de Jeanne d'Arc}} (1962年)
* ジャンヌ・ダルク/I 戦闘 II 牢獄([[ジャンヌ/愛と自由の天使]]&[[ジャンヌ/薔薇の十字架]]) (1994年)
* [[ジャンヌ・ダルク (映画)|ジャンヌ・ダルク]] (1999年)


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Jeanne d'Arc}}
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{{wikisource|en:Author:Joan of Arc|ジャンヌ・ダルクに関する資料}}
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*[http://www.Jehanne-Darc.com/ Jeanne d'Arc Centre] Jenny Hefczyc による伝記、調査{{en icon}}{{fr icon}}{{de icon}}
<!--- Please add new links in alphabetical order. Please be careful: this list concentrates on sites with scholarly research value. --->
*[http://www.jeannedarc.com.fr/centre/centre.htm オルレアン市立ジャンヌ・ダルク研究センター] {{fr icon}}
*[http://www.newadvent.org/cathen/08409c.htm "Blessed Joan of Arc" (written before her canonization)]—1919 version of the ''[[Catholic Encyclopedia]]''
*[http://archive.joan-of-arc.org/ Archive of Joan of Arc materials]
*[http://www.medailles-jeannedarc.fr Médailles Jeanne d’Arc], Exonumia: Medallions devoted to Joan of Arc
*[http://gardenofpraise.com/ibdjoan.htm Garden of Praise&nbsp;– Joan of Arc]
*[http://www.catholic.org/saints/saint.php?saint_id=295 Catholic Online Saints]
*[http://www.britannica.com/eb/article-9106457/Saint-Joan-of-Arc "Joan of Arc"]—''[[ブリタニカ百科事典|Encyclopaedia Britannica]]'' article
*[http://perso.wanadoo.fr/musee.jeannedarc/indexanglais.htm Site of the Joan of Arc Museum] in Rouen, France.
*[http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/10/AR2008101001919.html?hpid=features1&hpv=national "A Stirring Icon of Girl Power: A Father and a Daughter Follow the Trail of Joan of Arc"]—Article in ''[[The Washington Post]]'' by Steve Hendrix, 12 October 2008.
*[http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&hl=en&msa=0&msid=115658726523943724797.00047c4d04ab4d36b169f&t=h&z=11 Joan of Arc's Loire Valley Battles] on [[Google Maps]]
*Poems by Florence Earle Coates: "[[wikisource:Rouen: In the Prison of Joan of Arc|Rouen: In the Prison of Joan of Arc]]", "[[wikisource:Joan of Arc (Coates)|Joan of Arc]]", "[[wikisource:Blessèd|Blessèd]]", "[[wikisource:Rheims|Rheims]]"


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2013年8月6日 (火) 11:49時点における版

ジャンヌ・ダルク
1485年頃に描かれたミニアチュール。ジャンヌを直接のモデルとして描いた肖像画は現存しておらず、このミニアチュールもジャンヌの死後に想像で描かれた作品である (Centre Historique des Archives Nationales, Paris, AE II 2490)
他言語表記 : Jeanne d'Arc
生誕 1412年1月6日[1]
フランス王国ドンレミ[2]
死没 (1431-05-30) 1431年5月30日(19歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国(占領下)、ルーアン
列福日 1909年4月18日
列福場所 フランスの旗 フランス共和国 ノートルダム大聖堂 (パリ)
列福決定者 ピウス10世
列聖日 1920年5月16日
列聖場所 バチカンの旗 バチカン サン・ピエトロ大聖堂
列聖決定者 ベネディクトゥス15世
記念日 5月30日
守護対象 フランスの旗 フランス、殉教者、捕虜、軍人、女性従軍者など
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ジャンヌ・ダルクの紋章

ジャンヌ・ダルクフランス語: Jeanne d'Arc、過去:Jehanne Darc[3]IPA: [ʒan daʁk]ユリウス暦 1412年1月6日[4] - 1431年5月30日)は、15世紀のフランス王国の軍人。フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。「オルレアンの乙女」(フランス語: la Pucelle d'Orléans[5]/: The Maid of Orléans[6])とも呼ばれる。

ジャンヌは現在のフランス東部に、農夫の娘として生まれた。神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、後のフランス王シャルル7世の戴冠に貢献した。その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端[7]」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を閉じた[8]

ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌの復権裁判が行われ、その結果ジャンヌの無実と殉教が宣言された[8]。その後ジャンヌは、1909年に列福、1920年には列聖され、聖ドニ聖マルタン聖王ルイ聖テレーズと同じく、フランスの守護聖人の一人となっている。ジャンヌは、王太子シャルル7世を助けてイングランドに占領されていたフランス領を奪還せよという神の「声」を聞いたとされている。これを信じたシャルル7世は、イングランド軍に包囲されて陥落寸前だったオルレアンへとジャンヌを派遣し、オルレアン解放の任に当たらせた。オルレアンでは古参指揮官たちから冷ややかな態度で迎えられたが、わずか九日間で兵士の士気を高めることに成功したジャンヌは徐々にその名声を高めていった。そしてジャンヌは続く重要ないくつかの戦いの勝利にも貢献し、劣勢を挽回したシャルル7世はランスでフランス王位に就くことができた。

フランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌは西洋史上でも有名な人物の一人となった。ナポレオン1世以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家たちがジャンヌを崇敬しているといわれる。世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。イングランドの劇作家ウィリアム・シェークスピアの戯曲『ヘンリー六世 第1部』、フランスの詩人ヴォルテールの詩『オルレアンの乙女 (en:The Maid of Orleans (poem))』、ドイツの思想家フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『オルレアンの乙女 (en:The Maid of Orleans (play))』、イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの歌劇『ジョヴァンナ・ダルコ (en:Giovanna d'Arco)』、ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキーの歌劇『オルレアンの少女 (en:The Maid of Orleans (opera))』、アメリカの作家マーク・トウェインの小説『ジャンヌ・ダルクについての個人的回想 (en:Personal Recollections of Joan of Arc)』、フランスの劇作家ジャン・アヌイの戯曲『ヒバリ (en:L'Alouette (The Lark))』、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの戯曲『食肉市場のジャンヌ・ダルク (en:Saint Joan of the Stockyards)』、『聖女ジャンヌ・ダーク』として映画化されたアイルランドの劇作家ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『聖女ジョウン』、『ジャンヌ・ダーク』として映画化されたアメリカの劇作家マクスウェル・アンダーソンの戯曲『ロレーヌのジャンヌ』、デンマークの映画監督カール・テオドア・ドライヤーの映画『裁かるるジャンヌ』、フランスの映画監督ロベール・ブレッソンの映画『ジャンヌ・ダルク裁判 (en:The Trial of Joan of Arc)』、フランスの作曲家アルテュール・オネゲルが曲を書いたオラトリオ火刑台上のジャンヌ・ダルク』、カナダの詩人レナード・コーエンの楽曲『ジャンヌ・ダルク (en:Joan of Arc (Leonard Cohen song))』、イギリスのバンドオーケストラル・マヌヴァーズ・イン・ザ・ダークの楽曲『ジャンヌ・ダルク (en:Joan of Arc (song))』などである。現在に至るまで映画、演劇、テレビ番組、テレビゲーム、音楽などさまざまな媒体で、ジャンヌを題材とした作品が作り続けられている。

背景

歴史家ケリー・デヴリーズ (en:Kelly DeVries) は、ジャンヌが歴史に登場した時代について「彼女(ジャンヌ)を落胆させるものがあったとしたら、1429年当時のフランスの情勢がまさにそれだったであろう」としている。1337年に勃発した百年戦争は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じてイングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことが発端だった。ほとんどすべての戦いがフランス国内で行われ、イングランド軍の焦土作戦によってフランス経済は壊滅的な打撃を受けていた[9]。また当時のフランスは黒死病によって人口が減っており、さらに対外貿易も途絶えて外貨が入ってこない状況に置かれていた。ジャンヌが歴史に登場したのは、フランス軍が数十年間にわたって大きな戦いに勝利しておらず、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった。デヴリーズは当時の「フランス王国にはその前身だった13世紀の(カペー朝の)面影すらなかった」と記している[10]

ジャンヌが生まれた1412年ごろのフランス王はシャルル6世だったが、精神障害に悩まされており[11]、国内統治がほとんど不可能な状態だった。王不在ともいえるこのような不安定な情勢下で、シャルル6世の弟のオルレアン公ルイと、従兄弟のブルゴーニュ公ジャン1世がフランス摂政の座と王子たちの養育権をめぐって激しく対立した。そして1407年にルイがジャン1世の配下に暗殺されたことで、フランス国内の緊張は一気に高まった[12]

オルレアン公ルイとブルゴーニュ公ジャン1世を支持する派閥は、それぞれアルマニャック派とブルゴーニュ派と呼ばれるようになっていった。イングランド王ヘンリー6世は、このフランス国内の混乱を好機ととらえてフランスへと侵攻した。イングランド軍は1415年のアジャンクールの戦いで大勝し、フランス北部の多くの都市をその支配下に置くに至る[13]。そして後にフランス王位に就くシャルル7世は、兄4人が相次いで死去したために14歳のときから王太子と目されていた[14]。シャルル7世が果たした最初の重要な公式活動は、1419年にブルゴーニュ公国との間に和平条約を締結しようとしたことである。しかしながらシャルル7世が安全を保証した会合の席で、ブルゴーニュ公ジャン1世はアルマニャック派の支持者たちに殺害されてしまう。父ジャン1世の後を継いでブルゴーニュ公となったフィリップ3世はシャルル7世を激しく非難し、フランスとの和平条約締結を白紙に戻してイングランドと同盟を結んだ。そしてイングランドとブルゴーニュの連合軍は、多くのフランス領土をその支配下に置いていった[15]

1420年にシャルル6世妃イザボーは、シャルル6世が死去した後のフランス王位を王太子シャルル7世ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るという内容のトロワ条約にサインした。この条約の締結は、シャルル7世がフランス王シャルル6世の子供ではなく、王妃イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子供であるという噂を再燃させることになった[16]。ヘンリー6世は1422年8月に、シャルル6世もその二カ月後の10月に相次いで死去し、ヘンリー5世の嫡子ヘンリー6世がイングランド王位とトロワ条約に則ってフランス王位を継承した。ただし、ヘンリー6世はまだ一歳にも満たない乳児だったために、ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョン摂政として国政を司った[17]

1429年の初めごろにはフランス北部のほぼ全てと、フランス南西部のいくつかの都市がフランスの手を離れていた。ブルゴーニュ公国はフランス王室と関係が深いランスを支配下に置いた。ランスは歴代フランス王が戴冠式を行った場所であり、フランスがこの都市を失った意味は大きかった。パリルーアンを占領したイングランド軍は、王家に忠誠を誓う数少なくなった都市であるオルレアンを包囲した。ロワール川沿いに位置し戦略上の要衝地でもあったオルレアンは、フランス中心部への侵攻を防ぐ最後の砦であり「オルレアンの趨勢が全フランスの運命を握っていた」のである[18]。そしてオルレアンが陥落するのも時間の問題だと見なされていた[19]

ジャンヌの生涯

ジャンヌの生誕地は現在は記念館になっている。画面右の樹木の後ろに見えるのが、少女期のジャンヌがミサに通った教会である。

ジャンヌはジャック・ダルク (en:Jacques d'Arc) とイザベル・ロメ (en:Isabelle Romée) の娘として生まれた。父ジャック・ダルク(1380年 - 1440年)がロメと呼ばれていたイザベル・ヴトン(1387年 - 1468年)と結婚したのは1405年のことで、二人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ、カトリーヌの5人の子供が生まれている[20]。ジャンヌが生まれたのはバル公領の村ドンレミで、当時のバル公領は、マース川西部がフランス領、マース川東部が神聖ローマ帝国領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。バル公領は後にロレーヌ公国に併合され、ドンレミはジャンヌの別称である「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン (la Pucelle d'Orléans))」にちなんでドンレミ=ラ=ピュセルと改名されている[21]。ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた[22]。当時のドンレミはフランス東部の辺鄙な小村で周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。ジャンヌが幼少のころにドンレミも何度が襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。

後にジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年ごろに生まれたことになる。さらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは1424年ごろのことで当時12歳だったと証言している。このとき独りで屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミシェル聖カトリーヌ聖マルグリットの姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。聖人たちの姿はこの上なく美しく、三名が消えた後にジャンヌは泣き崩れたと語っている[23]

ジャンヌは16歳のときに親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォークルール (en:Vaucouleurs) へと赴き、当地の守備隊隊長だったロベール・ド・ボードリクール伯にシノンの仮王宮を訪れる許可を願い出た。ボードリクールはジャンヌを嘲笑をもって追い返したが、ジャンヌの決心が揺らぐことはなかった[24]。翌年1月に再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メス (en:Jean de Metz) とベルトラン・ド・プーランジ (en:Bertrand de Poulengy) という二人の貴族の知己を得た[25]。この二人の助けでボードリクールに再開したジャンヌは、オルレアン近郊でのニシンの戦い (en:Battle of the Herrings) でフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した[26]

歴史への登場

1415年-1429年
  イングランド王ヘンリー6世の支配下
  ブルゴーニュ公フィリップ3世の支配下
  フランス王太子シャルル7世の支配下
  主戦場
  1415年のイングランド軍侵攻路
  ドンレミからシノンに至るジャンヌの進路
  1429年のランスに至るジャンヌの進路

ロベール・ド・ボードリクールは、ニシンの戦いに関するジャンヌの予言が的中したことを前線からの報告で聞き、協力者を連れてのジャンヌのシノン訪問を許可した。ジャンヌは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながらシャルル7世の王宮があるシノンへと向かった[27]。シノンの王宮に到着して間もないジャンヌと余人を払って面会したシャルル7世は、ジャンヌから強い印象を受けた。当時シャルル7世の妃マリーの母でアンジュー公妃のヨランド・ダラゴンが、オルレアンへの派兵軍を資金的に援助していた。ジャンヌは派兵軍との同行と騎士の軍装の着用をヨランドに願い出て許された。ジャンヌは甲冑、馬、剣、旗印などの軍装と、ジャンヌの協力者たちの軍備一式を寄付によって調達することに成功した。フランス王族がジャンヌに示した多大なる厚遇について歴史家スティーヴン・リッチーは、崩壊寸前のフランス王国にとって、ジャンヌが唯一の希望に思えたからだろうとしている。

度重なる屈辱的な敗戦でフランスの軍事力も国力も瓦解し、その指導力は失墜しきっていた。王太子シャルルがジャンヌの突拍子もない軍備の要求を認め、さらには軍の指揮官の一人に据えた背景には、それまで試みてきたありとあらゆる正攻法が失敗に終わったことに大きな原因があろう。崩壊寸前の絶望的な状況に置かれた政権のみが、母国の軍を率いて勝利せよという神の声を聴いたなどという無学な農夫の娘の訴えに耳を傾けるのだ。 — Stephen W. Richey、"Joan of Arc: A Military Appreciation"

[28]

神の声を聴いたと公言するジャンヌの登場は、長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた[29]。しかしながら、ジャンヌの存在は大きな危険をもはらんでいた。シャルル7世の顧問たちは、ジャンヌの宗教的正当性が疑問の余地なく立証されたわけではなく、ジャンヌが異教の魔女でありシャルル7世の王国は悪魔からの賜物だと告発されかねないことに危機感を抱いた。ジャンヌを異端と見なす可能性を否定してその高潔性を証明するために、シャルル7世はジャンヌの身元調査の審議会と、ポワチエでの教理問答を命じた。そして1429年4月にジャンヌの審議に当たった委員会は、ジャンヌの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えの善きキリスト教徒であることを宣言」した[29]。一方で教理問答に携わったポワチエの神学者たちは、ジャンヌが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとした。ただし、ジャンヌの役割の聖性を創りあげるに足る「有利な憶測」をシャルル7世に伝えた。これらの結果だけでシャルル7世にとって十分なものだったが、顧問たちはジャンヌを王宮に呼び戻してシャルル7世自らがジャンヌの正当性を正式に認める義務があるとし「証拠もなく彼女(ジャンヌ)が異端であると疑い、無視するのは聖霊の否定であり、神の御助けを拒絶するも同然」だと主張した[30]。ジャンヌの主張が真実であると認定されたことはオルレアン派遣軍の士気を大いに高めることにつながった。

イングランド軍が包囲していたオルレアン (en:siege of Orléans) にジャンヌが到着したのは1429年4月29日だった。当時オルレアン公シャルルはイングランドの捕虜となっており、異母弟ジャン・ド・デュノワがオルレアン公家の筆頭としてオルレアンを包囲するイングランドに対する攻略軍を率いていた。当初のド・デュノワはジャンヌが作戦会議へ参加することを認めず、交戦の状況もジャンヌに知らせようとはしなかった[31]。しかしながら、このようなド・デュノワの妨害を無視して、ジャンヌは多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになった。

ジャンヌに軍事指揮官としての能力があったかどうかは歴史的な論争になっている。エドゥアール・ペロワのような伝統的保守的な歴史家たちは、ジャンヌは旗手として戦いに参加して兵士の士気を鼓舞する役割を果たしたとしている[32]。この説は、ジャンヌが剣を振るうよりも旗を持つことを選んだと、後の異端審問の場で証言したとされていることを根拠としている。この説に対し、異端審問の無効性を重視する立場の現代の研究者は、ジャンヌが優れた戦術家で、卓越した戦略家であるとしてと軍の指揮官たちから尊敬されていたと主張している。スティーヴン・リッチーもジャンヌが優れた指揮官だったとしている研究者で「彼女(ジャンヌ)がフランス軍を率い、その後の戦いに奇跡的な勝利をおさめ続けて戦争の趨勢を完全に逆転した」としている[27]。ただし、どちらの説をとる研究者でも、ジャンヌが従軍していたときのフランス軍が快進撃を続けたという点では一致している[33]

ジャンヌの軍事指揮能力

「... ここにいる乙女が八日間でロワール川に陣取っていたイングランド軍を打ち破り、完全に駆逐しました。イングランド兵士は戦死あるいは捕虜となり、戦いの意思を失っています。サフォーク伯、ラ・ポール卿兄弟、タルボット卿、スケールズ卿、ファストルフ卿ら、イングランドの貴顕や指揮官たちが敗北したことは紛れもない事実なのです」
-- ジャンヌが1429年6月25日にトゥルネー市民に送った書簡。Quicherat V, pp. 125–126.

ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新した。ジャンヌが参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、さらにこの作戦は大失敗に終わっていた。ジャンヌのオルレアン到着後の5月4日にフランス軍が攻勢に出て、オルレアン郊外のサン・ルー要塞を攻略し、5月5日にはジャンヌが軍を率いて、放棄されていたサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠した。翌日に開かれた作戦会議でジャンヌはド・デュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張している。ド・デュノワはこれ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。結局ジャンヌはある一人の大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功している。この夜に、ジャンヌは自身が参加していなかった作戦会議で、援軍が到着するまでこれ以上の軍事行動を見合わせることが決められたことを知った。しかしながらジャンヌはこの決定を無視し、5月7日にイングランド軍主力の拠点である「レ・トゥレル」への攻撃を主張した[34]。ジャンヌと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにも関わらず戦列に復帰して最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった[35]

オルレアンでの劇的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢の発端となった。イングランド軍はパリの再占領かノルマンディ攻略を目指していた。予想以上の勝利をあげた直後に、ジャンヌはシャルル7世を説き伏せて、自身をアランソン公ジャン2世の副官の地位につけることと、ランスへと通じるロワール川沿いの橋を占拠して、シャルル7世のランスでの戴冠の幕開けとするという作戦に対する勅命を得た。しかしながらランスへの進軍は、ランスまでの道程がパリへの道程のおよそ二倍であることと、当時のランスがイングランド占領地の中心部にあったことから無謀ともいえる作戦の提案だった[36]

イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、6月12日にジャルジョー、6月15日にマン=シュール=ロワール、6月17日にボージャンシーと、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。そして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるド・デュノワたちもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた[37]。このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に投石器から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。6月18日にジョン・ファストロフ卿が率いる援軍が加わったイングランド軍と、フランス軍との間にパテーの戦いの戦端が開かれた。フランス軍が大勝したこのパテーの戦いとイングランド軍が大勝した1415年のアジャンクールの戦いとは比較されることがある。パテーの戦いでは、フランス軍前衛がイングランド軍が誇る長弓部隊の準備が整う前に攻撃を開始した。これによりイングランド軍は総崩れとなり、イングランド軍主力も壊滅的被害を受けて多くの指揮官が戦死あるいは捕虜となった。ファストロフは僅かな護衛とともに戦場を離脱したが、後にこの屈辱的な敗戦の責めを負わされている。一方でこのパテーの戦いでフランス軍が被った被害は最小限に留まった[38]

「ブルゴーニュ大公。私は伏して貴君に心からお願いいたします。これ以上、聖なるフランス王国と戦いを続けるのはおやめください。聖なる王国の国土や城塞から、一日も早く軍を退いていただけますよう。そして私は、平和を愛するフランス国王の名代として、国王が名誉にかけて貴君との和平を望んでいることをお伝えします」
-- ジャンヌが1429年7月17日にブルゴーニュ公フィリップ3世に宛てた書簡。Quicherat V, pp. 126–127.

フランス軍は6月29日にジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始し、7月3日にはオセールを占領していたブルゴーニュ公国軍が条件付降伏を申し出ている。ランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。シャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結されたトロワも、4日間の包囲の末に戦わずして降伏した[39]。また、トロワに近づいたころのフランス軍が抱えていた問題は食糧の補給不足だった。この問題の解決に貢献したのはトロワで世界の終末を説いていたブラザー・リチャードという巡礼修道士で、リチャードは成長の早い豆類を栽培してフランス軍に給するよう、トロワ市民たちを説得することに成功した。そして豆が食べられるようになったころに、食料不足に悩んでいたフランス軍がトロワに到着したのである[40]

ランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。ジャンヌとアランソン公ジャン2世はパリへと進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結の交渉を優先しようとした。しかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世は和平交渉を反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリの守りを固めるためにイングランド軍に援軍を送った[41]。ブルゴーニュ公国との和平交渉に失敗したフランスはパリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫った。イングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは8月15日で、戦線はそのまま膠着状態となった。フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは9月8日である。この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。しかしながらジャンヌは9月9日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだ国王シャルル7世からの撤退命令を受けた。多くの歴史家が、シャルル7世の寵臣で宮廷侍従長だったラ・トレモイユがシャルル7世戴冠後に犯した政治的失策を非難している[42]。10月にジャンヌはサン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦 (en:Siege of Saint-Pierre-le-Moûtier) で軍に復帰した。続いて11月から12月のラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦 (en:Siege of La Charité) にも従軍したがこの包囲戦は失敗している。そして、12月29日にジャンヌとその家族は貴族に叙せられた。

捕縛

コンピエーニュでブルゴーニュ公国軍に捕らえられるジャンヌ。パリのパンテオンの壁画。

フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれ、その後の数カ月の間ジャンヌにはほとんどすることがなかった。1430年3月23日にジャンヌは、カトリックの分派フス派への書簡を書き取らせた。フス派はカトリック教会の教義の多くを否定し、異端として迫害されていた改革派だった。ジャンヌの書簡には「あなたたちの妄執と馬鹿げた妄信はお止めなさい。異端を捨てるか生命を捨てるかのどちらかです」と書かれていた[43]。フランスとイングランドとの休戦協定は間もなく失効した。ジャンヌは5月にコンピエーニュ包囲戦 (en:Siege of Compiègne) の援軍としてコンピエーニュへ向かった。1430年5月23日にジャンヌが率いる軍がマルニーに陣取っていたブルゴーニュ公国軍を攻撃し、この短時間の戦いでジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となってしまう[44]。ブルゴーニュ公国軍に6,000人の援軍が到着したことから、ジャンヌは兵士たちにコンピエーニュ城塞近くへの撤退を命じ[44]、自身はしんがりとなってこの場所で戦いぬく決心をした。しかしながらブルゴーニュ公国軍はジャンヌの退路を断ち、ジャンヌは一筋の矢を受けて馬から転がり落ちつつも、最後まで戦いを諦めなかった[45]

「王(シャルル7世)がブルゴーニュ公と15日間の休戦協定を結んだのは事実であり、ブルゴーニュ公が15日が経たないうちにパリへと兵を進軍させたのも事実です。私がすぐさまパリに向かわなかったとしても驚くことではありません。私はこういった休戦協定には反対であり、私自身がこの協定を破る可能性すらあります。私がこの協定を尊重するとすれば、それは王の名誉を守るためという一点だけです。王族の間で交わされるこのような協定が今回の15日間の休戦協定のように平和をもたらさない馬鹿げたものであっても、私は協定を守り、不測の事態に備えて軍を整えることでしょう」
-- ジャンヌが1429年8月5日にランス市民に宛てた書簡。 Quicherat I, p. 246.

当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引渡しに介入せず見殺しにしたことを非難している。母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは幾度が脱走を試みている。ブルゴーニュ公領のアラスに移送されたときには、監禁されていたヴェルマンドワの塔から21メートル下の堀へと飛び降りたこともあった[46]。最終的にイングランドがブルゴーニュ公フィリップ3世に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取った。そしてイングランドのシンパだったフランス人司教ピエール・コーションがこれら一連の交渉ごとと、その後のジャンヌの異端審問に重要な役割を果たすことになる[47]

異端審問

異端審問裁判期間にジャンヌが監禁されていたルーアン城の塔。後に「ジャンヌ・ダルクの塔」として知られるようになった。

ジャンヌの異端審問は政治的思惑を背景としていた。ベッドフォード公ジョンは、甥のイングランド王ヘンリー6世の名代としてシャルル7世のフランス王位継承に異議を唱えた。ジャンヌはシャルル7世の戴冠に力を貸した人物であり、これはトロワ条約に則ったフランス王位継承の正当性を揺るがす行為だったと激しく糾弾していたのである。そして1431年1月9日に、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで、ジャンヌの異端審問裁判が開始された[48]。しかしながら一連の訴訟手続きは異例尽くめなものだった。

ポール・ドラローシュが1824年に描いた『ウィンチェスター枢機卿の尋問を受ける独房のジャンヌ・ダルク』(ルーアン美術館(ルーアン)。

ジャンヌの裁判における大きな問題点として、審理を主導した司教コーションが当時の教会法に従えばジャンヌの裁判への司法権を有していなかったことがあげられる[49]。コーションの審理は、この裁判を開いたイングランドの意向に完全に沿ったものだった。ジャンヌに対する証言の吟味を委任された教会公証人のニコラ・バイイも、ジャンヌを有罪とするに足る証言、証拠を見つけることができなかった[50]。物的証拠も法廷を維持する法的根拠もないままに、ジャンヌの異端審問裁判は開始されたといえる。さらに教会法で認められていた弁護士をつける権利さえもジャンヌには与えられなかった。公開裁判となった初回の審議でジャンヌは、出席者が自身に敵対する立場(親イングランド、ブルゴーニュ)の者ばかりであり、「親フランスの聖職者」も法廷に出席すべきだと主張した[51]

この法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。もっとも有名なものはジャンヌが「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と訊かれたときに「恩寵を受けていないのであれば神が私を無視しておられるのでしょう。恩寵を受けているのであれば神が私を守ってくださっているのでしょう」と答えた問答である[52]。この尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的陥穽だった。教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていた。ジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになるのである。公証人ボワギヨームは、法廷でジャンヌのこの返答をしたときに「この質問を彼女にした尋問者は呆然としていた」と後になって証言している[53]。20世紀の劇作家ジョージ・バーナード・ショーはこの問答記録を目にしたときに深い感銘を受け、ジャンヌの裁判記録を『聖女ジョウン』として戯曲に仕立て上げた[54]。さらに数名の法廷関係者が後に、裁判記録の重要な箇所がジャンヌに不利になるよう改ざんされていると証言している。裁判出席者の多くが強制的に召集された聖職者だった。審問官のジャン・ル・メートルも意に沿わぬ裁判に集められた一人で、なかにはイングランドから死をもって脅された聖職者もいた。また、異端審問裁判で定められた手順では、ジャンヌは教会の罪人として修道女など女性の監視のもとで監禁されることになっていた。しかしながらイングランドはジャンヌを世俗の罪人として扱い、イングランドの男性兵卒をジャンヌの監視役の任に就けた。コーションはジャンヌが望んだ、当時開催されていたキリスト教の最高会議であるバーゼル公会議や教皇への請願など、自身が主導する審理を妨げるような要求をすべて却下した[55]。裁判で明らかになったとされているジャンヌに対する12の罪状は、改ざんされた裁判記録と明らかに矛盾している[56]。ジャンヌは文盲だったため、自身が署名した供述宣誓書が死刑宣告にも等しい危険な書類だったことを理解していなかった。異端審問法廷は裁判の公式記録に基づいた宣誓供述書ではなく、ジャンヌが異端を認めたという内容に改ざんした宣誓供述書にすりかえて、ジャンヌに署名させていた[57]。 。

処刑

へルマン・スティルケが1843年に描いた『火刑台のジャンヌ・ダルク』(エルミタージュ美術館サンクトペテルブルク)。ジャンヌは白いロングスカートを身につけ、頭には罪人を示す被り物がある。

当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛した後に再び異端の罪を犯したときだけだった。ジャンヌは改悛の誓願を立てたときに、それまでの男装をやめることにも同意していた。女装に戻ったジャンヌだったが、数日後に「大きなイギリス人男性が独房に押し入り、力ずくで乱暴しようとした」と法廷関係者に訴えた[58]。このような性的暴行から身を守るためと、ジャン・マシューの供述によればドレスが盗まれて他に着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになった[59]

マキシム・レアル・デル・サルトが1928年に制作したジャンヌの彫像。ジャンヌが処刑された場所から数インチのところに設置されている。2002年10月には歴史的記念物に登録された。

ジャンヌは敵軍の占領地を無事に通過するために小姓に変装し、戦場では身体を守るために甲冑を身に着けた。『乙女の記録 (Chronique de la Pucelle)』には、ジャンヌが男装していたことが、戦場でのジャンヌに対する性的嫌がらせを抑止していたと記されている。ジャンヌの処刑後に開かれた復権裁判で証言することになるある聖職者は、ジャンヌが性的嫌がらせや性的暴行から身を守るために、獄中でも男装していたと証言している[60]。貞操を守るために男装するというのはもっともな理由であり、男装のジャンヌを見慣れた男たちは、徐々にジャンヌを性的な対象とは見なさなくなっていった[61]

ジャンヌは男装をしていた理由を問われたときに、以前のポワチエでの教理問答を引き合いに出している。ポワチエで行われたジャンヌの教理問答に関する記録は残っていないが、さまざまな状況からポワチエの聖職者たちはジャンヌの男装を認めていたと考えられている。ジャンヌの役目は本来であれば男性がなすべきことであり、ジャンヌにしてみれば男装が自身の役割にふさわしい格好だった[62]。ジャンヌは戦場にいたときも監禁されていたときも髪を短く整えていた。神学者ジャン・ジェルソンなどジャンヌの支持者たちは、後に復権裁判でフランス異端審問官長ジャン・ブレアルが擁護したように、ジャンヌの短髪を弁護している[63]。しかしながら、1431年に行われた異端審問の再審理で、ジャンヌが女装をするという誓いを破って男装に戻ったことが異端にあたると宣告され、異端の罪を再び犯したとして死刑判決を受けた。

1431年5月30日に執行されたジャンヌの火刑の目撃証言が残っている。場所はルーアンのヴィエ・マルシェ広場で、高い柱に縛り付けられたジャンヌは、立会人のマルタン・ラドヴニューとイザンヴァル・ド・ラ・ピエールの二人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼んだ。一人のイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。そして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒した。さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされた。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってマチルダと呼ばれる橋の上からセーヌ川へ流された。ジャンヌの処刑執行者の一人ジョフロワ・セラージュは後に「地獄へ落ちるかのような激しい恐怖を感じた」と語っている[64]

2006年2月に法医学の専門家たちが、シノンの博物館に残るジャンヌのものだといわれている骨と皮膚を六カ月かけて調査すると発表した。この調査からはこれらの骨や皮膚がジャンヌのものであるかどうかは判明しなかったが、放射線炭素年代測定や性別調査の結果から、完全なでっちあげともいえないとされた[65]。しかしながら、2006年12月17日に公表された暫定的な報告書では、ジャンヌのものとは考えられないと結論づけられている[66]

ジャンヌの死後

パリのノートルダム大聖堂に安置されているジャンヌの彫像。

百年戦争はジャンヌの死後も22年にわたって続いた。トロワ条約に則ってフランス王位を主張するイングランド王ヘンリー6世が、10歳の誕生日である1431年12月にフランス王としての戴冠式をパリで挙行してはいたが、フランス王シャルル7世はフランス王位の正当性を保ち続けることに成功していた。イングランド軍が1429年がパテーの戦いで失った軍事的主導権と長弓部隊を未だ再編成できていなかった1435年に、アラスでフランス、イングランド、ブルゴーニュの三カ国会議 (en:Congress of Arras) が開かれた。この会議でそれまでのイングランドとフランスの同盟関係は解消され、逆にフランスとブルゴーニュの関係が接近することとなった。シャルル7世との百年戦争を主導し、ヘンリー6世の摂政としてイングランドの国政も担当していたベッドフォード公ジョンが1435年9月に死去したが、10代半ばのヘンリー6世は後見人たる新たな摂政を置かず、イングランド史上最年少の国王親政を始めた。そしておそらくはこのヘンリー6世の貧弱な指導力が百年戦争終結の最大の要因となった。歴史家ケリー・デヴリーズは、ジャンヌが採用した積極的な砲火の集中と正面突破作戦が、その後のフランス軍の戦術に影響を与えたとしている[67]

復権裁判

百年戦争の終結後に、ジャンヌの復権裁判が開かれた。ローマ教皇カリストゥス3世も公式に承認したこの裁判は「(異端)無効化裁判 (nullification trial)」とも呼ばれ、フランス異端審問官長ジャン・ブレアルとジャンヌの母イザベル・ヴトンからの要請によるものだった。この復権裁判の目的はジャンヌに対する有罪宣告と陪審評決が、教会法の観点から正当なものだったがどうかを明らかにすることだった。修道士ギョーム・ブイユによる調査から裁判が開始され、ブレアルが1452年からこの裁判を主導することとなった。ジャンヌの復権裁判の開廷が公式に宣言されたのは1455年11月である。この裁判にはヨーロッパ各地の聖職者たちも関与しており、正式な法的手順を逸脱することのないように注視されていた。裁判に携わった神学者たちは115人分の宣誓供述を審理した。1456年6月にブレアルは、ジャンヌが殉教者であり、異端審問を主導したピエール・コーションが無実の女性に異端の罪を被せたとする結果をまとめ上げた。ジャンヌの直接の処刑の原因となった男装については、女性の服装に関する教会法の観点から有効とされていた[68]。しかしながら、有罪を宣告される過程においてジャンヌが拘束されていたことが教義上の例外に当たるとして、復権裁判では異端審問での有罪判決が覆されている。そして復権裁判法廷は、1456年7月7日にジャンヌの無罪を宣告した[69]

列聖

ジャンヌは16世紀にフランスのカトリック同盟の象徴となっていった。1849年にオルレアン大司教に任命されたフェリックス・デュパンルー (en:Félix Dupanloup) がジャンヌを大いに賞賛する演説を行い、フランスのみならずイングランドの耳目も集めた。デュパンルーのジャンヌに対する高い評価と功績の紹介は、1909年4月18日にローマ教皇ピウス10世からのジャンヌの列福となって結実した。さらに1920年5月16日には、ローマ教皇ベネディクトゥス15世がジャンヌを列聖した。そしてジャンヌはローマ・カトリック教会におけるもっとも有名な聖人の一人となっていった[70]

後世への影響と評価

ジャンヌは文盲だったため、書簡はすべて口述筆記させたものだった。現存する三通のジャンヌの書簡にはジャンヌの署名が入っている。

ジャンヌはその死後4世紀にわたって半ば神格化されてきた。ジャンヌに関する伝記の主たる情報源は年代記によるものである。ジャンヌが有罪宣告を受けた裁判の内容を記した5冊の年代記装飾写本が、9世紀に古文書の中から発見された。この発見から間もなく歴史家たちの手によって、115人分の宣誓供述書や異端審問裁判でのラテン語で書かれた有罪宣告書の下敷きとなったフランス語での覚書など、ジャンヌの復権裁判の全記録も見つけ出された。当時やりとりされたさまざまな書簡も発見され、それらの中の三通の書簡からは「ジャンヌ (Jehanne)」という、明らかに読み書きの教育を受けていない人物の手による署名が見つかった[71]。これらジャンヌに関して発見された大量の一次資料について、デヴリーズは「男女を問わず中世の人物のなかで、これほど研究の対象となっているものはいない」としている[72]

辺鄙な小村に生まれた無学な農夫の娘ジャンヌ・ダルクは10代にして途方もない名声を手にいれた。フランスとイギリスの国王は、およそ1000年前に成立し、ヨーロッパの王位継承権の根拠となっていたサリカ法の解釈の違いを言い立て、自分たちの立場を正当化しつつ戦争を継続した。百年戦争は王位継承権に関するフランス王家とイングランド王家との対立だったといえる。しかしながらジャンヌはこの両国間の戦争に新たな概念と視点をもたらした。あるときジャン・ド・メスがジャンヌに「フランス王が国を追われたら、我々はイングランド人となるのだろうか」と問いかけたことがある[25]。スティーヴン・リッチーは「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒したときは別だということをジャンヌは理解していた」としている[27]。リッチーはジャンヌは後世に与えた広い訴求力を次のように記している。

その死後5世紀にわたって、人々は彼女(ジャンヌ)をありとあらゆることに関連付けようとしてきた。悪魔崇拝、神秘主義、権力悪用の言い訳、近現代ナショナリズムの始祖にして象徴、畏敬すべきヒロイン、聖人。拷問におびえ、火刑に処せられるそのときであっても、彼女は神の声に導かれたのだと主張し続けた。実際に彼女が神の声を聞いたかどうかに関係なく、彼女がその生涯で成し遂げたことを知った人は、誰もが驚嘆と感嘆で心を揺さぶられることだろう。 — スティーヴン・リッチー[27]

男勝りの活躍をしたとはいえ、ジャンヌはフェミニストではなかった。ジャンヌの行動原理は、神の声を聴き自身が選ばれた人間だと信じた、あらゆる階層の人々に見られる伝統的な宗教観に則ったものだった。ジャンヌはフランス軍から戦闘に関係のない女性を追い出し、ときには言うことを聞かないこれら非戦闘従軍者を剣の腹で殴りつけたこともあった[73][74]。しかしながら、ジャンヌが受けた重要な支援の中には女性から受けたものもある。シャルル7世の義母であるアンジュー公妃ヨランド・ダラゴンはジャンヌの処女性を支持し、ジャンヌがオルレアンへ向かうために必要な財政支援をした女性だった。コンピエーニュで監禁されていたジャンヌの監視責任者だったルクセンブルグ伯の叔母にあたるジョウンは、ジャンヌに対する待遇を改善し、おそらくはジャンヌがイングランド軍へ引き渡されるのを遅らせようとした女性だった。そしてブルゴーニュ公フィリップ2世の妹で、ジャンヌと敵対していたベッドフォード公ジョンの公妃アンヌ (en:Anne of Burgundy) も、異端審問に先立つ審理でジャンヌが処女であると証言した女性だった[75] 。これにより、異端審問ではジャンヌが悪魔と交わって取引をした魔女であると告発することはできなかった。結果的にはこのことが後にジャンヌの正当性と聖性を証明する一助となった。15世紀の女権論者の文学者クリスティーヌ・ド・ピザンから今日に至るまで、ジャンヌは勇敢で行動的な女性の好例とみなされている[76]

ジャンヌはナポレオン1世の時代から、フランスを代表する政治的象徴だとみなされている。自由主義者たちは、ジャンヌが下層階級の出身であることの重要性を力説した。初期の保守主義者たちは、ジャンヌの王族に対する献身を強調したが、後にジャンヌは国粋主義者であるとして、その評価を撤回している。第二次世界大戦では、親ドイツのヴィシー政権と反ドイツのフランス・レジスタンス (en:French Resistance) の両方からジャンヌのイメージが利用された。親ドイツで反イギリスのヴィシー政権側は、ジャンヌがイングランドに対抗して戦ったことを思い出させる宣伝ポスターを作成した。このポスターにはイギリスの軍用機がルーアンを爆撃しているイラストが描かれ、「こいつらはいつでも罪を犯しにルーアンへ戻ってくる」という脅迫文句が書かれていた。一方レジスタンス側は、ジャンヌが祖国フランスを占領していた敵国と戦ったこと、ジャンヌの出身地であるロレーヌがナチの占領下にあることを強調した。1972年に結成されたフランスの極右政党である国民戦線もジャンヌをイメージ戦略に使っている。政党の会合場所にはジャンヌの彫像が、出版する刊行物にはジャンヌの肖像が、そして党章にはジャンヌの殉教をモチーフとした三色旗が使用されている。

フランス海軍にはジャンヌ・ダルクの名前を冠した種類の異なる艦船が2013年現在までに3隻存在している。1902年竣工の装甲巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1931年竣工の軽巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1964年竣工のヘリ空母ジャンヌ・ダルクである。

幻視と神からの声

ウージェーヌ・ティリオンが1876年に描いた大天使ミシェルの声を聞く『ジャンヌ・ダルク』。普仏戦争の敗北により、1871年にプロイセン王国との間にアルザス=ロレーヌ地方を割譲するというフランクフルト講和条約が結ばれたこともあって、19世紀後半のフランスでは、ジャンヌをモチーフとしたこのような作品には政治的な意味合いが隠されていた。

ジャンヌが目にした聖人たちの姿と神からの声は、今でも興味の的となっている。研究者たちのほぼ一致した見解としては、ジャンヌの信仰心が揺ぎないものだったということである。ジャンヌは、神からの啓示を受けたときに幻視したのは、聖マルグリット聖カトリーヌ、そして大天使ミシェルだったと語っている。しかしながら、ジャンヌが幻視したのが間違いなくこの三人であったかどうかに関しては曖昧な点もある。ジャンヌの身に起こったことは、間違いなく聖なる啓示だったと考えるカトリック教徒もいる。

ジャンヌの幻視や神の声を聴いたという神秘体験に関する主たる情報源は、ジャンヌが激しく糾弾された異端審問の記録である。この記録にはジャンヌが自身が裁判の進行に反抗し、神秘体験に関する尋問への宣誓供述をすべて拒否したことが記されているため、ジャンヌの神秘体験に対する研究も議論の的となっている。ジャンヌは、異端審問で証言することがかつてシャルル7世との間に交わした機密保持の誓いを破ることになると訴えていた。これら現存している異端審問の記録の内容が、偏った法廷のでっち上げなのか、ジャンヌがシャルル7世との機密を守るためについた嘘なのかはわからない[77]。歴史家のなかには、ジャンヌの信仰心の顕れだといわれる神秘体験については言及せず、ジャンヌの実際的な側面のみを研究するものもいる[78]。ただし、ジャンヌと同時代の記録も20世紀ちかくの歴史家たちも、ジャンヌは心身ともに健全だったということで、ほぼ意見の一致を見ている。

現代の学者の多くが、ジャンヌの神秘体験を精神医学あるいは神経医学の観点から説明しようとしている。ジャンヌの幻視の原因となった症例として、てんかん偏頭痛結核統合失調症などが可能性として考えられている[79]。ただし、ジャンヌの生涯に関する情報が不足していることもあって、これらの仮説の中で定説といえるものは存在しない。医学誌『ニューロサイコバイオロジー』で側頭葉結核腫に関する論文を発表した二人の医学者は、同論文でジャンヌの神秘意見を疾病に求める傾向に疑義を呈している。

最終的な結論を出すのは困難である。しかしながら、重篤な疾病である慢性結核に「この患者」が罹病していたとは考えにくい。暮らしぶりや活動力からすると重病に罹っていたという可能性はありえない[80]

ジャンヌが加熱殺菌されていない牛乳を飲んだために牛結核症に罹患したとする説もあるが、歴史家レジーヌ・ペルヌーは、加熱殺菌されていない牛乳を飲むだけでジャンヌのような恩恵にあずかることができるのであれば、フランス政府は牛乳の加熱殺菌を禁ずる法令を出すだろうと一蹴している[81]

ジャンヌが精神的疾患に罹患していたという説の反論として、ジャンヌがシャルル7世の宮廷で支持を得ていたことが挙げられている。シャルル7世の父であるフランス王シャルル6世が精神を病んでいたこともあり、シャルル7世は「精神障害者」を見極めることができたはずだとする。シャルル6世は「狂気王シャルル」と呼びならわされており、その治世下の廷臣や軍人の多くから、その狂気に満ちた振る舞いがフランス凋落の一因だとみなされていた。その父たる先王シャルル5世も、シャルル6世の精神が繊弱であることを認識していた。シャルル7世のフランス王位継承を剥奪するトロワ条約の締結も、シャルル6世の血を引くシャルル7世が父王と同様の狂気に陥る可能性が背景にあった。シャルル6世の狂気の血は次世代にも受け継がれ、イングランド王ヘンリー6世が1453年に精神疾患に罹病している。ヘンリー6世はシャルル7世の甥で、シャルル6世の孫にあたる血筋だった。ジャンヌがシノン王宮に到着したときの印象を、王室顧問官ジャック・ジェルが記録している。

聖人の幻を見たなどという、影響されやすい農夫の娘との会話で安易に信念を変えてはならない。諸外国との問題については合理的であるべきだ。

『シャルル7世年代記』のミニアチュール。トロワ市民が城門の鍵をシャルル7世とジャンヌに渡す場面が描かれている。

シャルル7世の宮廷では、精神衛生の問題に関しては用心深く懐疑的だった[82][83]

ジャンヌが統合失調症などの精神疾患に罹病していたことを示す兆候は皆無である。死の直前までその頭脳は明晰であり、復権裁判でもジャンヌが明敏だったことが証言されている。

彼ら(異端審問の裁判官たち)は次々と質問を変えて(ジャンヌを)攻めたてましたが、彼女の答えは用心深く、優れた記憶力の持ち主であることは明らかでした[84]

尋問に対するジャンヌの明晰な答えをおそれた裁判官たちは、この異端審問を非公開裁判とすることを余儀なくされた[53]

精神疾患は必ずしも重篤な認識機能障害を伴うとは限らない。それでもなおジャンヌの神秘体験は、現在の精神疾患の診断基準と照らし合わせると明らかに有害な精神状態であるとする説も根強い。アメリカ精神医学会が定めた『精神障害の診断と統計の手引き』には統合失調症の兆候として、的外れな会話、緊張病性行動、情動の平板化、失語症、意欲喪失などが挙げられている[85]。しかしながら、このような症例はジャンヌには当てはまらない。

ジャンヌの多様な経験から、その精神状態を説明できるとする精神科医もいる。イェール大学の心理学教授ラルフ・ホフマンは、「神の声」などの神秘体験や幻視が必ずしも精神疾患の兆候を意味するものではないと指摘した。そして、専門的な言葉ではなく単に「インスパイアド・ヴォイス」とホフマンが解説した事例に、ジャンヌの神秘体験が当てはまるとしている[86]

偽造されたジャンヌの遺骨

1867年にパリの薬局で「オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクの火刑跡から採取された」という説明書きがある瓶が発見された。この瓶の中には黒焦げの人間の肋骨、炭化した木材、麻布の切れ端、猫の大腿骨(魔女を火刑に処するときに火中に放り込まれた黒猫の骨だとされた)が入っていた。これらは現在シノンの博物館に所蔵されている。2006年にレイモン・ポワンカレ病院の古病理学者で法医学者でもあるフランス人フィリップ・シャルリエ (fr:Philippe Charlier) がこの遺物を調査した。そして、放射性炭素年代測定やさまざまな分光分析が実施された結果[87]、紀元前6世紀から紀元前3世紀のエジプトのミイラであることが判明した。真っ黒な外観は燃焼によるものではなく、死体防腐処理に使用された薬物によるものだった。また、調査では大量のマツの花粉も見つかっており、これはミイラ制作に使用された松脂の存在と一致する。さらに燃えた跡のない麻布は、ミイラを包むときによく使われた素材でもあった。著名な香水製造者であるゲランとジャン・パトー (en:Jean Patou) はかつて、この遺物からはバニラの匂いがすると語ったことがあったが、バニラもミイラ制作時によく使用されていた。中世ではミイラが薬の原料とされており、この遺物ももともとは薬瓶だったものが、フランスのナショナリズムが高揚した時期に偽造されたものだと考えられている。

脚注

  1. ^ (See Pernoud's Joan of Arc By Herself and Her Witnesses, p. 98: "Boulainvilliers tells of her birth in Domrémy, and it is he who gives us an exact date, which may be the true one, saying that she was born on the night of Epiphany, 6 January").
  2. ^ Chemainus Theatre Festival > The 2008 Season > Saint Joan > Joan of Arc Historical Timeline”. Chemainustheatrefestival.ca. 2012年11月30日閲覧。
  3. ^ D'Arc という綴りは近世になって変化してできたもので、15世紀当時には姓にアポストロフをつける習慣は無かった。公式の記録などでは Darc, Dars, Day, Darx, Dare, Tarc, Tart, Dart などと書かれる。ジャンヌ自身は Jehanne と綴ったといわれている www.stjoan-center.com/Album/, parts 47 and 49; it is also noted in Pernoud and Clin).
  4. ^ 現代の研究書ではジャンヌの誕生日が1月6日だと断言しているものが多い。しかしながら、ジャンヌは自身の年齢でさえも推測で答えることしかできなかった。ジャンヌの復権審理の場でもジャンヌの年齢は推測であり、復権審理に証人として出廷したジャンヌの名付親ですら、ジャンヌの生年月日を明らかにすることはなかった。1月6日がジャンヌの誕生日であるという説は、1429年7月21日のペルスヴァル・ブーランビリエ卿の証言を元にした書簡ただ一つに拠っている(see Pernoud's Joan of Arc By Herself and Her Witnesses, p. 98: 「ブーランビリエはジャンヌがドンレミで生まれたと語った。そして正確な、あるいは正確だと思われるジャンヌの誕生日は、御公現の祝日1月6日だと証言した」しかしながらブーランビリエはドンレミの出身ではなく、このブーランビリエが語ったとされる証言の記録も残っていない。教区教会の出生記録に貴族以外の誕生日が記録され始めたのは、数世代後になってからのことである[要出典]
  5. ^ アカデミー・フランセーズ国語辞典([1])(Dictionnaire de l'Académie française, 仏語)
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  12. ^ The Glorious Age of the Dukes of Burgundy”. Burgundy Today. 2010年3月9日閲覧。
  13. ^ DeVries, pp. 15–19.
  14. ^ Pernoud and Clin, p. 167.
  15. ^ DeVries, p. 24.
  16. ^ Pernoud and Clin, pp. 188–189.
  17. ^ DeVries, p. 24, 26.
  18. ^ Pernoud and Clin, p. 10.
  19. ^ DeVries, p. 28.
  20. ^ シャルル7世はジャンヌが死去した17年後の1429年12月29日にジャック一家の家格を引き上げ、1430年1月20日には貴族に叙したというフランス会計院の記録が残っている。これによってジャック一家の姓は「ドゥ・リス (du Lys)」に変わった。
  21. ^ Condemnation trial, p. 37.[3]. Retrieved 23 March 2006.
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  27. ^ a b c d Richey, p. 4. 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "Richey"が異なる内容で複数回定義されています
  28. ^ Richey, Stephen W. (2000年). “Joan of Arc: A Military Appreciation”. The Saint Joan of Arc Center. 2011年7月10日閲覧。
  29. ^ a b Vale, M.G.A., 'Charles VII', 1974, p. 55.
  30. ^ Vale, M.G.A., 'Charles VII', 1974, p. 56.
  31. ^ 歴史書や小説では、ジャンヌを冷遇したド・デュノワを別の名前で記していることが多い。ジャンヌの死後にド・デュノワが叙爵された、デュノワ伯爵という称号で記述している書物もある。ジャンの存命時には、ド・デュノワは庶子でフランス王シャルル7世の最年長の従兄弟だったことから敬意をこめて「オルレアンの私生児」と呼ばれていた。現在の「私生児 (bastard) という言葉には侮蔑的な意味が強いため、「私生児」と呼ばれていた当時のド・デュノワが馬鹿にされていたと勘違いされることも少なくない。オルレアン公家との関係を強調した「ジャン・ドルレアン (Jean d'Orleans)」という呼称は必ずしも正確ではないが、時代錯誤的な間違いとはいえない (see Pernoud and Clin, pp. 180–181)。
  32. ^ Perroy, p. 283.
  33. ^ Pernoud and Clin, p. 230.
  34. ^ DeVries, pp. 74–83
  35. ^ 敬虔なカトリック教徒はこの出来事がジャンヌが聖なる使命を帯びていたことの証拠だと見なしている。シノンとポワチエで、ジャンヌはオルレアンへ向かえという神の声を聴いたと公言した。オルレアンでの戦功で高まったジャンヌの名声は、アンブラン大司教などの有力な聖職者や著名な神学者ジャン・ジェルソンからの支持を得ることにつながった。両者ともにこの出来事の直後にジャンヌを支持する声明を発表している
  36. ^ DeVries, pp. 96–97.
  37. ^ Nullification trial testimony of Jean, Duke of Alençon.[7] . Retrieved 12 February 2006.
  38. ^ DeVries, pp. 114–115.
  39. ^ DeVries, pp. 122–126.
  40. ^ Lucie-Smith, pp. 156–160.
  41. ^ DeVries, p. 134.
  42. ^ 歴史家たちの間でもラ・トレモイユに対する非難の度合いには温度差があり、ちょっとした陰謀に加担したというものから、口を極めて罵倒しているものまでさまざまである。Gower, ch. 4.[8] (Retrieved 12 February 2006) ,Pernoud and Clin, pp. 78–80; DeVries, p. 135; and Oliphant, ch. 6.[9] . Retrieved 12 February 2006.
  43. ^ Pernoud and Clin, pp. 258-259.
  44. ^ a b Geiger,Barbara (April 2008). “A Friend to Compiegne”. Calliope Magazine 18 (8): 32–34. 
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  48. ^ 判事たちによる予審が1月9日から3月26日まで、通常の審理が3月26日から5月24日まで、異議申し立てが5月24日、再審理が5月28日と29日という日程だった。
  49. ^ 後の復権裁判では、コーションがジャンヌの裁判について何の権能も持っていなかったことが判決文中に明示されている(Joan of Arc: Her Story, Pernoud and Clin, p. 108)。フランス人の副裁判官は、最初からこの裁判は管轄外であるとして異議を唱えていた。
  50. ^ Nullification trial testimony of Father Nicholas Bailly.[10] . Retrieved 12 February 2006.
  51. ^ Taylor, Craig, Joan of Arc: La Pucelle, p. 137.
  52. ^ Condemnation trial, p. 52.[11] . Retrieved 12 February 2006.
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  56. ^ Condemnation trial, pp. 314–316.[12] . Retrieved 12 February 2006.
  57. ^ Condemnation trial, pp. 342–343.[13] (Retrieved 12 February 2006) Also nullification trial testimony of Brother Pierre Migier, "As to the act of recantation, I know it was performed by her; it was in writing, and was about the length of a Pater Noster."[14] (Retrieved 12 February 2006) In modern English this is better known as the en:Lord's Prayer, Latin and English text available here:[15] . Retrieved 12 February 2006.
  58. ^ See Pernoud, p. 220, which quotes appellate testimony by Friar Martin Ladvenu and Friar Isambart de la Pierre.
  59. ^ Nullification trial testimony of Jean Massieu.[16] . Retrieved 12 February 2006.
  60. ^ Nullification trial testimony of Guillaume de Manchon.[17] . Retrieved 12 February 2006.
  61. ^ 中世装束の専門家アドリアン・ハルマンは、ジャンヌが20もの留め具で上着と結びつけられた二枚のズボンを着用していたとしている。さらに表のズボンはブーツのような皮革製だった。"Jeanne d'Arc, son costume, son armure."[18](フランス語) . Retrieved 23 March 2006.
  62. ^ Condemnation trial, p. 78.[19] (Retrieved 12 February 2006) ポワティエの神学理論教授でジャンヌの復権裁判でも証言した司祭セガンは、直接的にはジャンヌの服装について言及していないが、その供述はジャンヌが非常に信心深い女性だったかということを肯定する心情にあふれている。[20] . Retrieved 12 February 2006.
  63. ^ Fraioli, "Joan of Arc: The Early Debate", p. 131.
  64. ^ Pernoud, p. 233.
  65. ^ [21]. Retrieved 1 March 2006)
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  69. ^ Nullification trial sentence rehabilitation.[23] . Retrieved 12 February 2006.
  70. ^ ジャンヌはカトリック教会公式サイトで、もっとも閲覧されている聖人となっている [24]。Retrieved 12 February 2006.
  71. ^ Pernoud and Clin, pp. 247–264.
  72. ^ DeVries in "Fresh Verdicts on Joan of Arc", edited by Bonnie Wheeler, p. 3.
  73. ^ 通説とは異なり、女性の非戦闘従軍者の主な役割は売春ではない。女性たちは炊事、洗濯、荷駄運搬といった支援の役目を果たしていた。女性の非戦闘従軍者が従軍している兵士の妻であることも多かった。もちろん売春も行われてはいた。Byron C. Hacker and Margaret Vining, "The World of Camp and Train: Women's Changing Roles in Early Modern Armies".[25] . Retrieved 12 February 2006.
  74. ^ ジャンヌの上司だったアランソン公ジャン2世は、ジャンヌがサン・ドニで非戦闘従軍者に向けて剣を叩き折るのを目撃した。ジャンヌの小姓だったルイ・ド・コンテは復権裁判で、ティエリ城近くで起きたこの出来事は単なる口頭での注意に過ぎなかったと証言している。 [26] . Retrieved 12 February 2006.
  75. ^ ジャンヌの聴罪司祭が処女膜検査と記している手法は、処女かどうかを判断するのに十分とはいえない。しかしながら、当時の最上流階級の既婚女性たちが賛同した手法だった。 Rehabilitation trial testimony of Jean Pasquerel.[27] Retrieved 12 March 2006.
  76. ^ English translation of Christine de Pizan's poem "La Ditie de Jeanne d'Arc" by L. Shopkow.[28] (Retrieved 12 February 2006) Analysis of the poem by Professors Kennedy and Varty of Magdalen College, Oxford.[29] Retrieved 12 February 2006.
  77. ^ Condemnation trial, pp. 36–37, 41–42, 48–49. . Retrieved 1 September 2006.
  78. ^ ジャンヌの軍事的側面の研究者ケリー・デヴリー ズは次のように述べている。
    (ジャンヌが見たとする聖人たちの)幻視や幻視の信憑性は、ジャンヌの軍事的資質を考える上で重要な要素ではない。真に重要なことは、ジャンヌの軍事指揮官としての資質が神からの賜物だと「彼女自身が」信じていたということだ。 — DeVries, p. 35.
  79. ^ これらの仮説の多くが、医学者からではなく歴史研究者によって唱えられている。ジャンヌの幻視を疾病に求めた医学者の論文としては次のようなものがある。
    d'Orsi G, Tinuper P (August 2006). “"I heard voices...": from semiology, an historical review, and a new hypothesis on the presumed epilepsy of Joan of Arc”. Epilepsy Behav 9 (1): 152–7. doi:10.1016/j.yebeh.2006.04.020. PMID 16750938. http://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S1525-5050(06)00175-2.  (idiopathic partial epilepsy with auditory features)
    Foote-Smith E, Bayne L (1991). “Joan of Arc”. Epilepsia 32 (6): 810–5. doi:10.1111/j.1528-1157.1991.tb05537.x. PMID 1743152.  (epilepsy)
    Henker FO (December 1984). “Joan of Arc and DSM III”. South. Med. J. 77 (12): 1488–90. doi:10.1097/00007611-198412000-00003. PMID 6390693. http://meta.wkhealth.com/pt/pt-core/template-journal/lwwgateway/media/landingpage.htm?issn=0038-4348&volume=77&issue=12&spage=1488.  (various psychiatric definitions)
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  81. ^ Pernoud, p. 275.
  82. ^ Pernoud and Clin, pp. 3, 169, 183.
  83. ^ 「当初の彼女(ジャンヌ)は狂人ではないかとみなされており、放擲すべきだという意見もありました。しかしながら彼女の立ち居振る舞いに皆が魅了されていったのです」:復権裁判での王室顧問官未亡人マルグリットの証言。 [30] Retrieved 12 February 2006.
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参考文献

関連文献

伝記書
歴史書

関連項目

ジャンヌ・ダルクが主題の作品

小説

漫画

外部リンク

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