イザボー・ド・バヴィエール

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イザボー・ド・バヴィエール
Isabeau de Bavière
バイエルン=インゴルシュタット家
Isabeau de Baviere (detail).jpg
称号 フランス王妃
全名 Elisabeth
エリザベート
出生 1370年
死去 1435年9月24日
Pavillon royal de la France.svg フランス王国パリ
埋葬 Pavillon royal de la France.svg フランス王国サン=ドニサン=ドニ大聖堂
配偶者 シャルル6世
子女 イザベル
ジャンヌ
シャルル
マリー
ミシェル
ルイ
ジャン
カトリーヌ
シャルル7世
フィリップ
父親 シュテファン3世
母親 タデア・ヴィスコンティ
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イザボー・ド・バヴィエールフランス語: Isabeau de Bavière, 1370年頃 - 1435年9月24日)はフランス王妃。シャルル7世の母。ヴィッテルスバッハ家バイエルン公(バイエルン=インゴルシュタット公)シュテファン3世の長女。曽祖父は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世。結婚前はドイツ名でエリーザベト・フォン・バイエルンElisabeth von Bayern)と呼ばれていた。フランス語形はエリザベート・ド・バヴィエールElisabeth de Bavière)。

生涯[編集]

シャルル6世が発狂した後、王弟オルレアン公ルイと関係を持ち[1]ブルゴーニュ派アルマニャック派の対立の一因となった。1407年にルイが暗殺された後、両派の勢力争いの中で王家の権威の維持に努めたが、1417年にアルマニャック伯にパリを追放されると[2]、公然とブルゴーニュ公ジャン無怖公と結んだ[3]1420年トロワ条約ではイングランド王ヘンリー5世の王位継承を認め、王太子シャルル(後のシャルル7世)がシャルル6世の子ではないことを示唆したといわれる[4]。しかし1431年に行われたヘンリー6世のフランス王戴冠式にブルゴーニュ公フィリップ3世は欠席し、フィリップはイングランド側と疎遠になっていった。そして1435年9月21日アラスの和約でシャルルとブルゴーニュ派は和解した[5]。その数日後、イザボーはパリで亡くなった。

オルレアン公ルイの他、アルマニャック伯ベルナール7世、ジャン無怖公との関係が噂され、反対派からは「淫乱王妃」と呼ばれた。また「フランスは女(イザボー)によって破滅し、娘(ジャンヌ・ダルク)によって救われた」との言葉が後に流布された。

子女[編集]

1385年7月17日、14歳のときに、アミアンでシャルル6世(当時16歳)と結婚。翌1386年から1407年までに12人の子供をもうけた[6]

  1. シャルル(1386年) - 1人目のドーファンとなる。
  2. ジャンヌ(1388年 - 1390年
  3. イザベル1389年 - 1409年) - イングランド王リチャード2世妃。
  4. ジャンヌ1391年 - 1433年) - ブルターニュ公ジャン5世と結婚。
  5. シャルル(1392年 - 1398年) - 2人目のドーファン。
  6. マリー(1393年 - 1438年) - ポワシー修道院に入る。
  7. ミシェル1393年 - 1422年) - ブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ善良公)と結婚。
  8. ルイ1397年 - 1415年) - ギュイエンヌ公。3人目のドーファンとなる。
  9. ジャン1398年 - 1417年) - トゥーレーヌ公。4人目のドーファンとなる。
  10. カトリーヌ1401年 - 1437年) - イングランド王ヘンリー5世妃。ヘンリー6世の母。
  11. シャルル(1403年 - 1461年) - 5人目のドーファン。フランス王シャルル7世となる。
  12. フィリップ(1407年) - ジャンヌ・ダルク私生児説の基になった。

脚注[編集]

  1. ^ 桐生、p. 91 - 100
  2. ^ 桐生、p. 203
  3. ^ 桐生、p. 208
  4. ^ 桐生、p. 245 - 248
  5. ^ 桐生、p. 267 - 268
  6. ^ 桐生、p. 77

参考資料[編集]