ラ・イル

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15世紀の彩色本に描かれたラ・イルとザントライユ

ラ・イルLa Hire)ことエティエンヌ・ド・ヴィニョルÉtienne de Vignolles, 1390年頃 - 1442年1月11日)は、フランスの軍人。百年戦争後期で活躍した人物で、ジャンヌ・ダルクの戦友であったことでも知られる。

経歴[編集]

ラ・イルの紋章

ガスコーニュプレシャック=レ=バンフランス語版に生まれる[1]

少年時代からイングランド軍との戦いに明け暮れていたという。アルマニャックベルナール7世元帥の軍に加わったのが最初の軍歴である[1]1411年ピカルディーへ侵攻[2]1418年シャルル7世の軍に加わり、ブルゴーニュ派との戦いで頭角を現す。クシー城フランス語版を一時的にブルゴーニュ派から奪還した戦いで武名を挙げる。この際に「王に非ず公に非ず、侯にも非ず、伯にも非ず、我はクシー城主なり」という言葉を残したといわれる[1]

その後、バル枢機卿ルイ1世英語版に雇われ、ヴェルマンドワ、ラン、ロレーヌなどで戦った。1421年にはボージェの戦いに参戦している[1]。この際に止まっていた宿で暖炉が彼の足の上に落ちてきて片足を骨折した。この後遺症で足を引きずるようにして歩くようになったが、彼の傭兵生活の妨げとはならなかったようである[3]1427年にイングランド軍がモンタルジを包囲した際、ジャン・ド・デュノワらと共にイングランド軍を破りモンタルジを解放した[4][5]

1428年10月25日オルレアン防衛のための援軍としてデュノワと同郷のジャン・ポトン・ド・ザントライユらと共に同地に駆け付け、目覚ましい戦功をあげた(オルレアン包囲戦)。またシャルル7世から軍資金を引き出すため、オルレアンとシノンの王宮を何度も往復した。1429年2月のニシンの戦いに敗れオルレアンから離脱するが、ジャンヌ・ダルクがやってくると、彼女に最も忠実な戦友の1人となった[6][7]。ジャンヌと共に戦ってイングランド軍のオルレアン包囲網を突破、続いてアランソン公ジャン2世ジル・ド・レアンドレ・ド・ラヴァルらと合流してロワール川沿岸を進軍した。パテーの戦いではザントライユと共に指揮官としての才能を存分に発揮し、フランスに勝利をもたらした[8][9]

1431年ルーアンへジャンヌ奪還に向かうも失敗、ジャンヌが火刑台で処刑された時には、自身もドゥルダンでイングランド軍の捕虜となっていた。シャルル7世が身代金の一部を負担することにより解放され、解放後にはフランス軍の総司令官となったアルテュール・ド・リッシュモン大元帥の主要な武将として活躍。ザントライユと共に指揮官として1435年ジェルブロワの戦いen)に臨んだ。この勝利によって、1438年にはノルマンディー総司令官と呼ばれたが、1443年1月11日、モントーバンで負傷、死去した。

人物・評価[編集]

百年戦争中盤までのフランス軍における傭兵制度の下においての司令官であり、赫々たる武勲がある。一方で略奪癖は直らず、国王と常備軍への軍制改革の流れの中で孤立していった。また、野戦においてはリッシュモン大元帥の指揮下でこそ活躍したが、その指揮下を離れると敗北するのが常であり、1435年に単独でトーマス・スケールズ麾下のイングランド軍に敗北、1436年にもイングランドの将軍ジョン・タルボットにザントライユ共々敗れ、1437年には陣営をタルボット・スケールズに奇襲され、ザントライユが捕えられ辛うじて逃げ延びるなど散々であった。ただし略奪や野戦における敗北は傭兵制度の下での常である[10]

古仏語で「憤怒」を意味する「ラ・イル」のあだ名は、彼が粗暴で怒りっぽい性格であったことに由来する[11][3]。今日のフランス語でも「癇癪持ち」を意味する語として残っている。

元々教会や信仰にはまるで関心を持っていなかったが、ジャンヌが厳しく告解を迫るので、ついに彼も折れて告解をしたという。部下たちも多くがそれに倣って告解したようである[7]

トランプハートジャックのモデルとして知られている。

モンタルジ解放の時、以下のように神に祈ったとされる。「もしもお前がラ・イルで、ラ・イルが神様だったら、ラ・イルがお前にしてほしいと思うだろうことをラ・イルのためにしてやってくれ」[4][7]

ラ・イルを演じた人物[編集]

俳優[編集]

声優[編集]

脚注[編集]

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出典[編集]

  1. ^ a b c d ペルヌー & クラン 1992, p. 314.
  2. ^ エチュヴェリー 1991, p. 77.
  3. ^ a b ペルヌー & クラン 1992, p. 315.
  4. ^ a b エチュヴェリー 1991, p. 159.
  5. ^ ペルヌー & クラン 1992, p. 34.
  6. ^ 堀越 1984, p. 37-41, 147-148.
  7. ^ a b c ペルヌー & クラン 1992, p. 316.
  8. ^ エチュヴェリー 1991, p. 189-190.
  9. ^ 堀越 1984, p. 153.
  10. ^ エチュヴェリー 1991, p. 208-209, 218, 225, 232-233.
  11. ^ 堀越 1984, p. 148.

参考文献[編集]