ジャン2世 (アランソン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
アランソン公ジャン2世

ジャン2世・ド・ヴァロワ(Jean II de Valois, duc d'Alençon, 1409年3月2日 - 1476年9月8日)は、アランソン公1415年 - 1474年)。アランソン公ジャン1世マリー・ド・ブルターニュの息子で、フランス元帥アルテュール・ド・リッシュモンの甥。百年戦争におけるフランス軍の指揮官の一人で、ジャンヌ・ダルクの戦友として知られる。

経歴[編集]

1415年アジャンクールの戦いで父が戦死、ジャン2世は若くしてアランソン公とペルシュ伯を継いだ。1424年に若くしてヴェルヌイユの戦いen)に参加したが、イングランド軍の捕虜となった為、1429年まで囚人として過ごした。高額な身代金が払われた後に釈放されたが、彼自身は衰弱した上に領地はイングランド軍の支配下に置かれていた。

解放後間もなくジャン2世はジャンヌ・ダルクに出会い、彼女やジル・ド・レラ・イルジャン・ポトン・ド・ザントライユアンドレ・ド・ラヴァルジャン・ド・デュノワと共にロワール川付近で戦ってパテーの戦いで活躍した。また、彼は王太子派の中で最も重要なジャンヌの支持者であった。1429年9月にジャンヌ等と共に行っていた軍事行動が終わると、ジャン2世は1人でイングランド領であるノルマンディーを攻めるようになった。

しかし、ジャン2世はアラスの協定に不満を抱き、シャルル7世と仲違いしていった。1440年にデュノワやブルボン公シャルル1世らと共謀してプラグリーの乱en)に参加したり、イングランド軍に内通したりした。その後、彼はジャンヌの復権裁判でデュノワの偽証により逮捕された。

1458年、大逆罪で有罪判決を受け、死刑を宣告された。だが判決は減刑されて再び収容された。1461年ルイ11世の手によって釈放されたが、ルイ11世に仕えるのを断り三度収容された。

1474年7月18日、パリの議会で再び死刑を宣告され、領地は没収された。しかし刑は執行されず、1476年にルーヴルの牢獄で死去した。

結婚と子供[編集]

1424年にオルレアン公シャルル・ド・ヴァロワと最初の妻イザベル・ド・ヴァロワの娘ジャンヌ・ド・ヴァロワ(1409年 - 1432年)と結婚した。ジャンヌとは子供をもうけることなく死別した。

1437年にアルマニャック伯ジャン4世(オルレアン公シャルルの2番目の妻ボンヌの兄)の娘マリー・ダルマニャック(1420年頃 - 1473年)と再婚した。マリーとの間には1男1女をもうけた。

  • カトリーヌ(1452年 - 1505年)
  • ルネ(1454年 - 1492年)

他に庶子が数人いる。

先代:
ジャン1世
アランソン公
1415年 - 1474年
次代:
ルネ