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「ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ」の版間の差分

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{{基礎情報 軍人
{{基礎情報 軍人
| 氏名 = ヘルムート・KB・フォン・モルトケ
| 氏名 = ヘルムート・カールベルンハルト・フォン・モルトケ
| 各国語表記 = Helmuth Karl Bernhard von Moltke
| 各国語表記 =Helmuth Karl Bernhard von Moltke
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| 渾名 = 大モルトケ<ref name="渡部(2009)168">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.168</ref><br>近代ドイツ陸軍の父<ref name="世界伝記大事典(1981,11)">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981,11)]]</ref><br>偉大なる沈黙者<ref name="世界伝記大事典(1981,11)">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981,11)]]</ref>
| 渾名 =
| 生誕地 = [[ファイル:Flagge Großherzogtümer Mecklenburg.svg|25px]][[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン公国]] [[パルヒム]]
| 生誕地 = [[ファイル:Flagge Großherzogtümer Mecklenburg.svg|25px]] [[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン公国]] [[パルヒム]]([[:de:Parchim|de]])
| 死没地 = {{DEU1871}} [[ベルリン]]
| 死没地 = {{DEU1871}}<br>{{PRU}} [[ベルリン]]
| 所属組織 = [[デンマーク=ノルウェー]]陸軍<br />[[プロイセン王国]]陸軍<br />ドイツ帝国陸軍
| 所属組織 = [[File:Flag of Denmark (state).svg|25px]] [[デンマーク陸軍]]<br />[[File:War Ensign of Prussia (1816).svg|25px]] {{仮リンク|プロイセン陸軍|de|Preußische Armee}} 
| 軍歴 = 1822 - 1888
| 軍歴 = [[1819年]] - [[1822年]](デンマーク軍)<br>1822 - [[1888年]](プロイセン軍)
| 最終階級 = [[元帥 (ドイツ)|元帥]]
| 最終階級 = [[少尉]](デンマーク軍)<br>[[元帥 (ドイツ)|元帥]](プロイセン軍)
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'''ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ(伯爵)・フォン・モルトケ'''('''Helmuth Karl Bernhard''' Graf '''von Moltke''', [[1800年]][[10月26日]] - [[1891年]][[4月24日]]) は、[[プロイセン]]及び[[ドイツ]]の[[軍人]]、[[軍事学者]]。
[[file:BismarckRoonMoltke.jpg|right|thumb|200px|ビスマルク(左)、ローン(中央)、モルトケ(右)。1860年代。]]


1858年から1888年にかけて[[プロイセン参謀本部|プロイセン参謀総長]]を務め、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|対デンマーク戦争]]・[[普墺戦争]]・[[普仏戦争]]を勝利に導き、[[ドイツ統一]]に貢献した。近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。最終階級は[[元帥 (ドイツ)|元帥]]。
'''ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ'''伯爵 ('''Helmuth Karl Bernhard''' Graf '''von Moltke''', [[1800年]][[10月26日]] - [[1891年]][[4月24日]]) は、[[プロイセン王国]]の[[軍人]]、[[軍事学者]]である。


で後同じく陸軍参謀総長として第一次世界大戦の帝政ドイツ陸軍を指揮した[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ]](小モルトケ)と区別して、'''大モルトケ'''と呼ばれる。
甥にあたる[[第一次世界大戦]]時参謀総長[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ]](小モルトケ)と区別して、'''大モルトケ'''と呼ばれる。また[[明治時代]]の文献にはモルトケを「毛奇」と表記する物がある<ref name="ミウルレル(1888)">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]]</ref>
== 概要 ==
[[ドイツ]]北東[[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン公国]]出身。父はメクレンブルク貴族で[[プロイセン王国]]の軍人だったが、後に退役して[[デンマーク王国]]と[[同君連合]]にあった[[ホルシュタイン公国]]へ移住し、デンマーク軍人になった。


モルトケもデンマークの幼年士官学校へ入学し、[[1818年]]にデンマーク軍少尉に任官したが、[[1822年]]にはプロイセン軍へ移籍した。プロイセン陸軍大学を出て参謀将校となった。[[1835年]]から[[1839年]]にかけては[[軍事顧問]]として[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]に派遣されている。その後、[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ王子(フリードリヒ3世)]]付きの副官を経て[[1858年]]に[[プロイセン参謀本部]]の参謀総長に任じられた。当時の参謀本部の地位は低く、1863年の[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|対デンマーク戦争]]前半戦では作戦指導に直接介入できない立場だったが、後半戦でようやく作戦介入ができる立場になった。この戦争の勝利で影響力を高め、[[1866年]]の普墺戦争と[[1870年]]の[[普仏戦争]]では全面的な作戦指導を任された。
陸軍[[参謀総長]]として手腕を見せ、対[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|デンマーク戦争]]・[[普墺戦争]]・[[普仏戦争]]に勝利して[[ドイツ統一]]に貢献した。[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]、[[アルブレヒト・フォン・ローン|ローン]]とともにドイツ帝国建国の三傑と讃えられている。


モルトケの戦略は「分散進撃・包囲・一斉攻撃」を特徴とし、敵戦力の撃滅を主張する[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]の思想を受け継いでいる。それを可能とするために鉄道や電信など新技術の導入に積極的であった。その戦略のもと、普墺戦争と普仏戦争を勝利に導いた。とりわけフランス皇帝[[ナポレオン3世]]を捕虜とした[[セダンの戦い]]は高く評価され、この戦勝の恩賞で[[伯爵]](Graf)の称号を与えられた。

普仏戦争の勝利によってドイツ各諸邦はプロイセンの主導する[[ドイツ帝国]]に統一された。戦後は[[フランス第三共和政|フランス共和国]]と[[ロシア帝国]]に対する予防戦争を求め、二正面作戦の計画を立てていたが、[[1888年]]に高齢を理由に参謀総長を辞した。1891年に[[ベルリン]]で死去した。
{{-}}
== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生誕 ===
モルトケは1800年、北[[ドイツ]]のデンマークとの国境紛争の地の[[メクレンブルク=フォアポンメルン州 |メクレンブルク]]の[[パルヒム]]に生まれる。父はドイツ貴族であるがデンマークの陸軍士官になり、モルトケはプロイセン幼年学校からデンマーク士官学校に転じ、[[1818年]]、18歳の時にデンマーク軍少尉に任官するが、後に転じてプロイセン士官学校に入る。[[1826年]]、プロイセン軍少尉に任官し、[[参謀]]畑を進んだ。[[1835年]]から[[1839年]]にかけて[[軍事顧問]]として[[オスマン帝国]]に派遣された後、[[1858年]]、[[プロイセン参謀本部]]の参謀総長に推され、翌年に[[中将]]となる。
[[File:MoltkesGeburtshausinParchim.jpg|thumb|パルヒムのモルトケの生家。モルトケの伯父の家であった。]]
モルトケは1800年、ドイツ北東部の[[バルト海]]に面する国[[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン公国]]の{{仮リンク|パルヒム|de|Parchim}}で生まれた<ref name="片岡(2002)227">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.227</ref><ref name="ゼークト(1943)181">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.181</ref><ref name="望田(1979)93">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.93</ref>。

父はプロイセン軍退役中尉フリードリヒ・フィリップ・ヴィクトール・フォン・モルトケ(Friedrich Philipp Victor von Moltke)。母はその妻ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓パシェン(Paschen))<ref>[[#大橋(1984)|大橋(1984)]] p.13/215</ref><ref name="片岡(2002)227">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.227</ref><ref name="ミウルレル(1888)2">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.2</ref>。モルトケは8人兄弟の三男であった<ref name="片岡(2002)228">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.228</ref>。

父の{{仮リンク|モルトケ家|de|Moltke (Adelsgeschlecht)}}はメクレンブルクに古くから続く貴族の末裔である<ref name="ゲルリッツ(1998)103">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.103</ref>。メクレンブルクのシュヴェーリン教区の1246年の記録にマティウス・モルトケという騎士の存在が確認できる<ref name="片岡(2002)227"/>。家の歴史こそ古いがモルトケが生まれた頃にはモルトケ家はすでに没落していた<ref name="渡部(2009)168">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.168</ref>。

父は[[岳父]]の薦めで軍を退役して農場経営をはじめたものの失敗し、モルトケが生まれた頃にはパルヒムにある兄ヘルムート(モルトケの伯父)の家に居候していた<ref name="片岡(2002)228"/><ref name="ゼークト(1943)181">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.181</ref>。モルトケはこの伯父の家で生まれ、伯父の名前をとって「ヘルムート」と名付けられた<ref name="ゼークト(1943)181"/><ref name="ミウルレル(1888)2">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.2</ref>。

一方母のパシェン家は[[リューベック]]の裕福な商家であった<ref name="片岡(2002)227">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.227</ref><ref name="ゼークト(1943)181"/>。父はパッとしない人物だったが、母は美しく聡明な人で数ヶ国語を話し、文学と音楽に造詣が深かった。そのためモルトケの才能は母親譲りではないかと言われる<ref name="片岡(2002)228">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.228</ref><ref name="ゼークト(1943)181"/>。
{{-}}
=== 幼年期 ===
1806年に父は北ドイツ・[[ホルシュタイン公国]]の騎士領アウグステンホーフ(augustenhof)の農場を購入したが、同国は[[デンマーク王]]の[[同君連合]]下にあり、同国の地主になるにはデンマーク臣民になる必要があったため、1806年にモルトケ家はデンマーク国籍を取得している<ref name="片岡(2002)228">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.228</ref>。しかしホルシュタインの屋敷は立て直さければならないほどの状態だったので夫婦は別居することになり、母とモルトケら子供たちは1805年から1807年までリューベックの母の実家で暮らした<ref name="大橋(1984)215">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.215</ref><ref name="ゼークト(1943)182">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.182</ref><ref name="片岡(2002)229">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.229</ref>。

1806年11月7日にリューベックは[[ナポレオン・ボナパルト]]率いるフランス軍とプロイセン軍の戦場となり、モルトケの自宅もフランス兵の略奪を受けたため、一家は困窮した生活を余儀なくされた<ref name="大橋(1984)13"/><ref name="渡部(2009)168"/><ref name="片岡(2002)230">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.230</ref>。この後、父のアウグステンホーフの農場へ引っ越し、再び一家で暮らすようになったが<ref name="ゼークト(1943)182">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.182</ref><ref name="ミウルレル(1888)5">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.5</ref>、父の農場経営はうまくいっていなかった。そのため父はデンマーク臣民になった際に入隊した[[デンマーク軍]]で勤務するようになった([[中将]]まで昇進している)<ref>[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.228-229</ref>。

モルトケは二人の兄とともに[[牧師]]から教育を受けて育った<ref name="大橋(1984)216">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.216</ref><ref name="ゼークト(1943)182"/>。

=== デンマーク軍 ===
モルトケは考古学者になりたかったというが、貧しい家計がそれを許さず、1811年に次兄とともにデンマーク首都[[コペンハーゲン]]にあったデンマーク王立陸軍幼年学校に入学した<ref name="大橋(1984)216"/><ref name="片岡(2002)233">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.233</ref><ref name="ゼークト(1943)182"/><ref name="ミウルレル(1888)6">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.6</ref>。

学友によると幼年学校時代のモルトケは「ふさふさした[[金髪]]と気立てのいい[[碧眼]]が特徴的で、物静かだったが、人を迎える時は愛想よく迎えた。勤務と勉学への取り組みは士官候補生としては他に例がないほど真面目・着実だった。学友からも信頼を勝ち得ていた。控えめで誠実な風貌だったが、時に憂鬱の翳が表情をかすめた」という<ref name="大橋(1984)217">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.217</ref><ref name="ゼークト(1943)183">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.183</ref><ref name="片岡(2002)234">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.234</ref>。

ただモルトケは繊細で身体が弱かったのでスパルタ教育は苦手であり<ref name="渡部(2009)168">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.168</ref>、後年この幼年学校について「あまりに厳格すぎた」「しごきばかりだった」と否定的に語っている<ref name="大橋(1984)216"/><ref name="ゼークト(1943)183">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.183</ref><ref name="片岡(2002)233">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.233</ref>。

また幼年学校時代のモルトケは戦術と兵術の教科が苦手であり、学校側は「この候補生が軍人になることは考えられない」と評価したという<ref name="片岡(2002)234">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.234</ref>。国家から給金を受けている寄宿生の候補生は義務としてデンマーク王に近侍として仕えねばならず<ref name="片岡(2002)234"/><ref>[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.183-184</ref><ref name="ミウルレル(1888)8">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.8</ref>、モルトケも1818年の近侍試験に第1位の成績で合格し、1819年1月まで任にあたった<ref name="大橋(1984)218">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.218</ref>。

1819年1月に第4位の成績で士官学校を卒業し<ref name="片岡(2002)234"/>、デンマーク軍[[少尉]]となり、{{仮リンク|オルデンブルク (ホルシュタイン)|label=オルデンブルク|de|Oldenburg in Holstein}}の歩兵連隊に勤務した<ref name="大橋(1984)218"/><ref name="ゼークト(1943)184">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.184</ref>。

=== プロイセン軍へ移籍 ===
デンマークはナポレオンと同盟していたため、ナポレオン敗退とともに[[ノルウェー]]を失うなど厳しい立場に追い込まれた。将校数も過剰になり、モルトケが出世できる見込みは薄くなった<ref name="大橋(1984)13">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.13</ref><ref name="ミウルレル(1888)11">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.11</ref>。また1821年にプロイセン首都[[ベルリン]]を訪問したモルトケは、ナポレオンに勝利したプロイセン軍に憧れを持つようになったという<ref name="大橋(1984)218">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.218</ref><ref name="望田(1979)94">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.94</ref>。

プロイセン軍の方が未来があると考えたモルトケは1822年1月にデンマーク軍を辞めてプロイセン軍の士官採用試験を受験した。良好な成績を収めたため、3月から[[フランクフルト・アン・デア・オーダー]]の近衛歩兵第8連隊に少尉として配属された<ref>[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.14/219</ref><ref name="ゼークト(1943)184">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.184</ref><ref name="ミウルレル(1888)13">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.13</ref>。モルトケの父はもともとプロイセン軍人であったし、元デンマーク軍人という経歴は特に問題とはならなかったようである。むしろデンマーク語やデンマーク軍の情報に通じた将校として期待を受けていた<ref name="片岡(2002)235">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.235</ref>。王弟[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム王子(後のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)]]は閲兵式で初めてモルトケを見た時に「このデンマーク人はまずまずの拾い物だな」と述べたという<ref name="片岡(2002)235"/><ref name="ゲルリッツ(1998)104">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.104</ref>。

=== 陸軍大学 ===
1823年10月にベルリンの{{仮リンク|プロイセン陸軍大学|de|Preußische Kriegsakademie}}に入学した<ref name="ミウルレル(1888)13"/><ref name="片岡(2002)235"/><ref name="大橋(1984)14">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.14</ref><ref name="ゼークト(1943)185">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.185</ref>。

当時の陸軍大学校長は『[[戦争論]]』の著者として知られる[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]少将であったが、クラウゼヴィッツから直接に教えを受ける機会はなかった<ref name="片岡(2002)235"/><ref name="大橋(1984)219">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.219</ref>。

陸軍大学でのモルトケは軍事専門書には最小限の時間しか割かず、語学や文学、地理の勉強に没頭した<ref name="片岡(2002)237">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.237</ref>。文学ではドイツ文学の他、[[ウォルター・スコット]]や[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]、[[チャールズ・ディケンズ|ディケンズ]]などイギリス文学を愛好した<ref name="ゼークト(1943)186">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.186</ref>。地理では[[カール・リッター]]や[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]から強い影響を受けた<ref name="ゼークト(1943)186">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.186</ref>。モルトケが入学していたころの陸軍大学は後世に比べて[[一般教養]]科目が多かったため、こうした勉強スタイルが可能となった。この経験は教養人の面と軍事専門家の面の調和というモルトケの人格を形成する基礎となった<ref name="片岡(2002)238">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.238</ref>。

学業は「極めて優良」、指揮能力は「申し分なし」という成績を残して1826年に陸軍大学を卒業し原隊に復帰した<ref name="ゼークト(1943)185">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.185</ref><ref name="大橋(1984)220">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.220</ref>。

=== 文芸活動 ===
1827年にはフランクフルト・アン・デア・オーダーの第5師団の師団学校(Divisionsschule)の測量と製図の教官となる<ref name="ゼークト(1943)186">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.186</ref><ref name="大橋(1984)220"/><ref name="片岡(2002)239">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.239</ref><ref name="ミウルレル(1888)14">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.14</ref>。

しかし少尉時代は相変わらず貧しい生活を余儀なくされ、この頃のモルトケはアルバイトで物書きをしていた。多数の論文のほか、1827年には短編小説『二人の友人』を出版している。1832年には馬を買う資金を集めるために75[[ポンド]]で『[[ローマ帝国衰亡史]]』を全12巻でドイツ語翻訳することを請け負い、9巻まで翻訳したが、出版社によって計画が中止されたためモルトケは25ポンドしか得られなかったという<ref name="大橋(1984)14">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.14</ref><ref name="渡部(2009)169">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.169</ref>。

このような活発な文芸活動にもかかわらず、モルトケは当時の社会思潮にはほとんど興味を示さなかった<ref name="渡部(2009)169"/>。

=== 参謀本部へ ===
地図製作に関する著作が評価されて、1828年5月から1832年まで[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]陸地測量部に所属し、[[シュレージエン]]や[[ポーゼン]]の地図の作製にあたった<ref name="大橋(1984)220">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.220</ref><ref name="ゼークト(1943)186-187">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.186-187</ref>。[[18世紀]]後半から地図の技術は急速に進歩し、また19世紀の戦争は戦域拡大の傾向があったため、地図の重要性が一層増していた。プロイセンは地図後進国であったので、地図に力を入れている時期であった<ref name="片岡(2002)240">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.240</ref>。

1832年3月に参謀本部第二課へ人事異動となり、フリードリヒ大王の戦史の編纂にあたった<ref name="片岡(2002)243">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.243</ref>。1833年に中尉に昇進。1833年から1835年にかけて[[マイン川|マイン河畔]]、[[北イタリア]]、デンマーク、[[ラウジッツ]]、[[ウィーン]]、[[コンスタンティノープル]]などに出張旅行に出た<ref>[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.221-222</ref>。1835年1月には[[聖ヨハネ騎士団]]に加入している<ref name="大橋(1984)222">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.222</ref><ref name="ゼークト(1943)188">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.188</ref>。

3月に[[大尉]]に昇進し、『デンマーク陸海軍について』の論文で国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]から称賛された<ref name="大橋(1984)222"/><ref name="ゼークト(1943)188">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.188</ref>。

=== トルコ軍の軍事顧問となる ===
[[File:MahmutII.jpg|thumb|200px|モルトケを軍事教官にして軍の近代化を行おうとした[[オスマン帝国|オスマン・トルコ帝国]][[スルタン|皇帝(スルタン)]][[マフムト2世]]。]]
1835年11月のコンスタンティノープルへの旅行で[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]][[陸軍大臣]][[モハメット・コスレフ・パシャ]]に才能を買われた。モハメットはプロイセン政府と交渉してモルトケを自らの[[軍事顧問]]とした<ref name="大橋(1984)222">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.222</ref><ref name="ゼークト(1943)189">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.189</ref><ref name="ミウルレル(1888)26-27">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.26-27</ref>。

当時のトルコは近代化に遅れてロシアやイギリスに圧迫され、国内では内乱が多発し、ロシア皇帝([[ツァーリ]])[[ニコライ1世]]から「死にかけの病人」と呼ばれるような状態であった<ref name="片岡(2002)247">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.247</ref>。トルコ皇帝([[スルタン]])[[マフムト2世]]はトルコ軍の近代化を企図し、[[フリードリヒ大王]]以来世界最優秀の陸軍国家と目されていたプロイセンに着目した。1836年1月にマフムト2世は正式にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に対してプロイセン軍の将校や下士官を軍事教官としてトルコ軍に派遣してくれるよう依頼した<ref name="大橋(1984)223">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.223</ref>。同地に滞在しているモルトケが早速トルコ駐在を命じられ、トルコ軍の教育と編成にあたることとなった<ref name="大橋(1984)223">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.223</ref><ref name="片岡(2002)248">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.248</ref><ref name="ゼークト(1943)189"/>。イギリスやフランスの軍人も教官として招聘されていたが、スルタンはモルトケの方が優秀と判断してプロイセン流の近代化を行う事を最終的に決断した<ref name="片岡(2002)248"/><ref name="ゼークト(1943)191">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.191</ref>。だが結局この時のモルトケの派遣でトルコ陸軍が根本的な変革を遂げることはなかった<ref name="三宅(2011)344">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.344</ref>。

1837年4月から6月にかけてスルタンに随伴して当時トルコ領だった[[ブルガリア]]や[[ルメリア]]など[[バルカン半島]]南部を視察した<ref name="大橋(1984)223">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.223</ref><ref name="ゼークト(1943)190-191">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.190-191</ref><ref name="渡部(2009)170">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.170</ref>。モルトケはトルコの民族衣装を着て随伴したが、スルタンの視察旅行が大げさなことにカルチャーギャップを受けたという<ref name="ゼークト(1943)191"/><ref name="大橋(1984)223">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.223</ref><ref name="ミウルレル(1888)36-43">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.36-43</ref>。

=== エジプト・トルコ戦争 ===
1838年3月に[[トロス山脈|トロス]]軍司令官[[ハーフィツ・パシャ]]の補佐官に任じられ、[[チグリス]]や[[ユーフラテス川]]流域に滞在した<ref name="片岡(2002)249">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.249</ref><ref name="ゼークト(1943)191">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.191</ref><ref name="ミウルレル(1888)57">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.57</ref>。この軍は[[クルド人]]の反乱鎮圧を名目に組織されていたが、実際にはエジプト独立を狙うオスマン帝国属州エジプト総督[[ムハンマド・アリー]]に備えた軍であった<ref name="片岡(2002)249"/>。モルトケはハーフィツの命令でエジプトとの戦争に備えてシリア国境の測量にあたった<ref name="片岡(2002)250">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.250</ref><ref name="ミウルレル(1888)61">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.61</ref>。

1839年春にスルタンはムハンマド・アリーを征伐することを決定し、ハーフィツの軍をシリアへ進ませた([[エジプト・トルコ戦争]])<ref name="ミウルレル(1888)101">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.101</ref>。ヨーロッパ諸国の干渉のみがトルコの崩壊とエジプトの独立を防ぐという現実を受け入れずにスルタンがヨーロッパ諸国に独断で起こした戦争であった<ref>[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.250-251</ref>。モルトケは[[イブラーヒーム・パシャ]]率いるエジプト軍がコンスタンティノープルに直進すると考え、その側面を突くことができる位置である[[ユーフラテス川]]に囲まれた[[ビラディック]]に全兵力を集中させることを提案した。ここは川に囲まれて退路がないが、士気の低いトルコ軍の場合は背水の陣で戦った方が有利と考えられた(退路があると脱走兵が多く出るので)<ref name="片岡(2002)251">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.251</ref><ref name="ミウルレル(1888)108">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.108</ref>。

しかし司令官ハーフィツ・パシャはモルトケの言葉よりイスラム聖職者の言葉を信じ、[[ニジブ]]に陣を構えた<ref name="片岡(2002)251">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.251</ref><ref name="ゼークト(1943)192">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.192</ref>。エジプト軍が三軍に分かれたのを見てモルトケはエジプト軍が包囲行動を起こそうとしているとしてビラディックへの撤退を具申したが、ハーフィツは「退却は恥辱」とするイスラム聖職者たちの言葉を容れてそれを却下した。あきれ果てたモルトケはハーフィツに「明日の日暮れ頃には貴方は軍隊を失った司令官の境遇を思い知ることになるでしょう」と嫌味を述べたという<ref name="片岡(2002)252">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.252</ref>。

そしてモルトケの予想通り{{仮リンク|ニジプの戦い|tr|Nizip Muharebesi}}においてトルコ軍はエジプト軍に散々に敗れた。あげくハーフィツは死傷兵たちを見捨てて逃げだし、嫌々トルコ軍に従軍していたクルド人たちは、自分たちの上官を殺害して勝手に故郷へ帰っていくという惨状となった<ref name="大橋(1984)224">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.224</ref><ref name="ゼークト(1943)193">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.193</ref><ref>[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.128-129</ref>。トルコ軍のあまりの潰走ぶりにモルトケも食糧や馬を放棄して命からがらで脱出した<ref name="片岡(2002)252">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.252</ref>。

=== プロイセンへ帰国 ===
モルトケはすっかりトルコ軍に幻滅し、8月5日にコンスタンティノープルに戻り、陸軍大臣モハメット・コスレフ・パシャに敗戦報告をし、崩御したマフムト2世の墓参りをした後、プロイセンへと帰国した。ベルリンで[[プール・ル・メリット勲章]]の授与を受けた<ref name="大橋(1984)225">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.225</ref><ref name="ゼークト(1943)193-194">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.193-194</ref>。

しかしモルトケにとってこの敗戦は重要な経験となった。モルトケが帰国した頃、プロイセン参謀本部では[[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ]]の「不変の原則」の戦略理論を信奉する者が増え、その[[教条主義]]化が進んでいたが、モルトケはガチガチの軍事理論はオスマン軍におけるハーフィツやイスラム聖職者のような無能者の存在、あるいは別の齟齬によってすぐに破綻してしまうと考えて「不変の原則」に冷やかだった<ref name="片岡(2002)254">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.254</ref>。

帰国後にトルコ関連の本を多数出版しており、1841年に『トルコ書簡』(トルコから家族へ送った手紙集)を編纂、また同年『トルコの内部崩壊とその後の政治形態』を著した。1844年には『1828~29年のロシア・トルコ戦争史』を著している<ref name="大橋(1984)226">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.226</ref>。

=== ベルリン・ハンブルク鉄道理事 ===
帰国後、ただちに参謀本部に復帰した。1840年4月に[[カール・フォン・プロイセン|カール王子]]が軍団長を務めるベルリン第4軍団の参謀に就任した。カール王子の紹介で宮廷にも顔を出すようになった<ref name="大橋(1984)225">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.225</ref><ref name="片岡(2002)269">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.269</ref><ref name="ゼークト(1943)194-195">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.194-195</ref>。

1841年にモルトケにベルリン・ハンブルク間の鉄道の理事への就任要請が来た。モルトケはそれまで鉄道にはまったくの門外漢だった。この任命は恐らくメクレンブルク公国とデンマークとの鉄道通過交渉においてモルトケの出自が期待されたものと思われる<ref name="片岡(2002)275">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.275</ref>。モルトケはこの要請を受け入れて1844年まで鉄道理事を務めた<ref name="片岡(2002)275">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.275</ref>。これにより鉄道に関する知識を身に付け、鉄道に関する論文を多数著した<ref name="大橋(1984)17">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.17</ref><ref name="渡部(2009)172">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.172</ref>。

鉄道の出現で軍隊と戦争のあり方は一変することになる。鉄道は特別な行軍練習をしていない予備役も大量に戦場へ移送することを可能としたため、常備軍は実戦力ではなく、戦時編成の際の中核及び戦時動員された予備役の訓練機関と化した。鉄道は補給能力を大きく上昇させ、後方から兵員と補給が絶え間なく送られてくるために国力が続く限りいつまでも戦えるようになった。つまり「[[総力戦]]」への道が開かれた<ref name="片岡(2002)270-271">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.270-271</ref>。しかしこれは未来の話であり、この当時においては鉄道のスピードは遅く、積載量も少なく、線路や信号など鉄道インフラも不十分であったので、鉄道を使っての移送は費用対効果から考えて微妙と考えるのが一般的だった。だが鉄道の可能性を信じる将校たちの輪は少しずつ広がっていき、モルトケもその一人であった<ref>[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.272-275</ref>。一般に鉄道の出現で攻撃的な戦争は難しくなると言われたが、モルトケの発想はその逆であり、敵の態勢が整う前に大量の兵力を鉄道で迅速に集結・展開させられるので攻撃的戦争をしやすくなると考えていた<ref name="片岡(2002)276">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.276</ref>。

=== 結婚 ===
1842年4月に少佐に昇進<ref name="ゼークト(1943)198">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.198</ref><ref name="ミウルレル(1888)148">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.148</ref>。同年、義理の姪にあたるマリー・ブルト(Mary Burt){{#tag:ref|モルトケの妹はイギリス人ジョン・ブルト(John Burt)に後妻として嫁いでおり、彼が先妻との間に儲けていた娘がマリー・ブルトであった<ref name="大橋(1984)16">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.16</ref><ref name="ミウルレル(1888)148">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.148</ref>。|group=注釈}}と結婚した。当時モルトケは42歳、マリーは16歳であった<ref name="片岡(2002)269">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.269</ref>。マリーはモルトケが妹(マリーにとっては義母)に宛てて律儀に送ってくる手紙に感銘を受けて、26歳もの年の差がありながら結婚した<ref>[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.16/226</ref>。

モルトケが無口だったこともあって夫婦喧嘩もなく、夫婦仲は円満だった。夕方に二人で聖書を読むのが習慣だった。ただ子供には恵まれなかった<ref name="片岡(2002)269">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.269</ref>。

=== ハインリヒ王子付き侍従武官 ===
1845年にローマで病気療養中の{{仮リンク|ハインリヒ・フォン・プロイセン (1781-1846)|label=ハインリヒ王子|de|Heinrich von Preußen (1781–1846)}}(国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]の叔父)付の侍従武官に任じられた<ref name="ゼークト(1943)199">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.199</ref><ref name="ミウルレル(1888)149">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.149</ref>。

当時のイタリアは[[イタリア統一]]運動とフランスとオーストリアの争いにより不穏になっていたが、モルトケは各国の動向についてベルリンに報告書を書いている。またこれを機にローマの測量を行っている<ref name="片岡(2002)277">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.277</ref><ref name="渡部(2009)173">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.173</ref>。

1846年7月に王子が薨去するとその遺骸は[[スペイン]]・[[フランス]]を経由してベルリンへ運ばれることとなり、モルトケがその警護を任せられた<ref name="大橋(1984)17">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.17</ref>。しかし船に弱いモルトケは道中の船上で[[船酔い]]したため船長に途中下船させられ、陸路で先にハンブルクへ向かい、船の到着を待ったという<ref name="片岡(2002)277"/>。

=== 1848年革命をめぐって ===
1846年12月に[[コブレンツ]]の第8軍団に参謀として配属されたのを経て<ref name="ミウルレル(1888)150">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.150</ref>、1848年3月に参謀総長{{仮リンク|カール・フォン・ライヘア|de|Karl von Reyher}}中将に見出されて参謀本部戦史課長に就任した<ref name="大橋(1984)227">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.227</ref>。同じころ[[1848年革命]]でベルリンが混乱していたため、妻を[[ホルシュタイン]]へ逃した<ref name="大橋(1984)228">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.228</ref>。モルトケは革命の精神のうち、ドイツ統一には関心を持っていたが、民主主義的な要素は嫌っていた<ref name="ゼークト(1943)201">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.201</ref>。

1848年革命によってドイツ・ナショナリズムが高まる中、デンマークとの間に第一次[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]が発生した。モルトケは自由主義的・民主主義的・ナショナリズム的なこの戦争を批判的に捉えていたが、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題には並々ならぬ関心を寄せていた。モルトケ自身かつてデンマーク軍の将校であり、彼の兄弟たちはいまだデンマーク軍に勤務しており、家族はホルシュタインで暮らしていたためである<ref name="大橋(1984)230">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.230</ref>。モルトケは15年もの歳月を費やしてデンマーク戦争に関する論文を書き上げている<ref name="片岡(2002)281">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.281</ref><ref name="ゼークト(1943)203">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.203</ref>。[[マルメ]]における休戦協定後に弟アドルフが共同政府に参加し、モルトケにもドイツ人部隊指揮官への就任要請が来たが、断っている<ref name="大橋(1984)230">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.230</ref><ref name="ゼークト(1943)204">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.204</ref>。

1848年8月に第4軍団参謀長となる。第4軍団は1849年に[[バーデン大公国]]における革命の鎮圧に出動しているが、モルトケ自身は戦闘には参加しなかった<ref name="大橋(1984)228"/><ref name="ゼークト(1943)202">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.202</ref>。

参謀総長ライヘアから絶大な信任を得、1848年革命鎮圧後の反動期には動員計画の研究を任されている<ref name="ゲルリッツ(1998)105">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.105</ref><ref name="片岡(2002)282">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.282</ref>。1850年9月に[[中佐]]、1851年12月に[[大佐]]に昇進した<ref name="大橋(1984)229">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.229</ref>。1854年の軍事演習ではライヘアが病床にあったため、代わってモルトケが引率した<ref name="ゲルリッツ(1998)105"/><ref name="片岡(2002)282"/><ref name="ゼークト(1943)204">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.204</ref>。

=== フリードリヒ王子付き侍従武官 ===
[[File:Frederico da Prússia - 1855.jpg|thumb|200px|[[1855年]]時の[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ王子]]。]]
1855年9月1日、当時24歳だった国王の甥フリードリヒ王子(後のドイツ皇帝[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]])付きの侍従武官となった<ref name="片岡(2002)282"/><ref>[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.230-231</ref><ref name="ゼークト(1943)204">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.204</ref><ref name="ミウルレル(1888)150">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.150</ref>。この人事はモルトケ自らが希望した物ではなく(彼自身は連隊長か旅団長になりたがっていた)、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の特別な信任によるものであったという<ref name="片岡(2002)282"/><ref name="ゼークト(1943)205">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.205</ref>。

就任後すぐにフリードリヒ王子に随伴してイギリスを訪問した。この際にフリードリヒ王子はイギリス女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]の[[プリンセス・ロイヤル|王長女]][[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]と婚約した<ref name="ゼークト(1943)205-206">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.205-206</ref>。

1856年8月に[[少将]]に昇進。8月から9月にかけてフリードリヒ王子に随伴してロシア皇帝[[アレクサンドル2世]]の戴冠式に参加した<ref name="片岡(2002)283">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.283</ref><ref name="大橋(1984)231">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.231</ref><ref name="ゼークト(1943)206">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.206</ref>。この時に妻に宛てて書いた[[デンマーク語]]の手紙を『ロシア書簡』として編纂してデンマークの新聞に掲載した(後にドイツ語翻訳される)<ref name="大橋(1984)231"/><ref name="ゼークト(1943)207">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.207</ref>。

1856年11月、フリードリヒ王子が婚約者ヴィクトリアの誕生日祝いのために訪英した際にモルトケは[[カレー (フランス)|カレー]]で王子の帰国を出迎えたが、その際に[[パリ]]でフランス皇帝[[ナポレオン3世]]に賓客として迎えられた<ref name="片岡(2002)283"/><ref name="ゼークト(1943)207">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.207</ref>。しかしモルトケは「ナポレオン」という名前そのものに嫌悪感を持っており<ref name="片岡(2002)281">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.281</ref>、ナポレオン3世個人についても「稀代の詐欺師」と呼んでいい印象はもっていなかった<ref name="片岡(2002)283"/>。この謁見の際にもナポレオン3世について「眼が死んでいる」と妻の手紙の中で評している<ref name="片岡(2002)283">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.283</ref>。

またこの際にフランス軍を視察しているが、フランス兵が[[銃床]]を強く地面に打ち付けているのを銃の精度を落とすと批判的に見ていたという<ref name="ゼークト(1943)207"/><ref name="大橋(1984)232">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.232</ref><ref name="ミウルレル(1888)176">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.176</ref>。すでに侍従武官の任を解かれ、参謀総長代理の職位にあった1858年1月にもフリードリヒ王子のヴィクトリアとの結婚のためイギリスを訪問している<ref name="大橋(1984)233">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.233</ref><ref name="ゼークト(1943)210-211">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.210-211</ref>。

こうしたヨーロッパ各国の歴訪により当時の軍人としては稀な地理的見聞を持つに至った<ref name="渡部(2009)173">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.173</ref>。
{{-}}
=== 参謀総長就任 ===
1857年に参謀総長ライヘアが死去し、当時の軍の実力者だった「国王個人業務局」(軍事内局)局長[[エドヴィン・フォン・マントイフェル]]少将が摂政ヴィルヘルム王子(後の[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]。精神病になった兄王に代わり摂政となっていた)にモルトケを後任の参謀総長として推薦したが、モルトケはいまだ少将であること、また国王の精神病が回復する可能性もあったことから1857年10月29日にひとまず参謀総長代行に任じられた<ref>[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.24/233</ref><ref name="片岡(2002)284">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.284</ref><ref name="渡部(2009)174">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.174</ref>。

1858年9月18日に正式に参謀総長に任じられた<ref name="片岡(2002)284">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.284</ref><ref name="ゲルリッツ(1998)105">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.105</ref>。時に57歳。モルトケはこの時より31年にわたって参謀総長に在職し続けることになる<ref name="片岡(2002)284"/>。

当時のプロイセン軍では軍事内局が国王側近の立場を盾に陸軍大臣を凌いで巨大な権限を有しており、陸軍大臣隷下の参謀本部は日蔭の存在と化していた。しかしモルトケにはマントイフェルのように権力を拡大させようなどという意思はなく、黙々と職務をこなした<ref name="大橋(1984)26">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.26</ref><ref name="ゲルリッツ(1998)106">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.106</ref>。

就任後モルトケは参謀本部の機構改革を行い、担当区域ごとに3つの部門(ロシアやオーストリアなどを担当する東方課、フランスなどを担当する西方課、オーストリア以外のドイツ諸国を担当するドイツ課)を創設するとともに、鉄道課を新設した<ref name="片岡(2002)287">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.287</ref><ref name="ゲルリッツ(1998)110">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.110</ref>。

=== 鉄道と電信の活用 ===
モルトケは新設した鉄道課に鉄道の軍事利用について商工省と交渉にあたらせ、またモルトケ自身も陸軍大臣にプロイセン西方に一軍団ごとに鉄道を複線で設置するよう要求した<ref name="片岡(2002)287-288">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.287-288</ref>。また動員の通知は電信を利用することとし、これにより動員準備の時間を大幅に短縮させた<ref name="片岡(2002)288">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.288</ref>。

この時代すでにプロイセンの商工業は著しい飛躍を遂げていた。モルトケはこれだけ鉄道網や電信が整備された時代ならばナポレオン時代の戦略はすでに時代遅れになっていると考えていた。ナポレオン時代は道路網と電信が貧弱だったため、ナポレオンは主戦場に戦力を集中させたが、それに対してモルトケは鉄道を使える現在ならもっと軍を広く分散して進撃させられると考えた<ref>[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.107-108</ref><ref name="渡部(2009)175">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.175</ref>。また[[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ]]の内線(敵に包囲される位置)有利論に対しても鉄道と電信が整備されている時代ならば外線(包囲側)が有利であると考えていた<ref name="片岡(2002)288">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.288</ref><ref name="ゲルリッツ(1998)108">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.108</ref><ref name="渡部(2009)176">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.176</ref>。

=== イタリア統一戦争 ===
1859年4月、[[フランス第二帝政|フランス帝国]]と[[サルデーニャ王国]]は[[オーストリア帝国]]と開戦し、[[イタリア統一戦争]]が勃発した。

この頃駐ロシア大使をしていた[[オットー・フォン・ビスマルク]]が[[ドイツ連邦]]の覇権をめぐるオーストリアとの対立関係から反オーストリア的中立を訴えていたのに対して、モルトケはオーストリアとの対立をそれほど深刻には考えておらず、オーストリア側で参戦することを希望していた<ref name="ゼークト(1943)212">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.212</ref>。この頃のモルトケの覚書には「プロイセンとオーストリアが協力関係にある限りフランスはドイツへ侵攻してくることはできない」と書かれている<ref name="大橋(1984)39">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.39</ref><ref name="ゼークト(1943)212">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.212</ref>。

摂政[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム王子]]は、この戦争に対してはじめ曖昧な態度をとっていたが、6月24日の[[ソルフェリーノの戦い]]にオーストリアが敗戦するとプロイセン軍全軍に動員を命じ、フランスを牽制した。フランス皇帝[[ナポレオン3世]]はこれを警戒し、7月8日に敗戦国に対する物としては比較的寛大な条件でオーストリアとの間に[[ヴィッラフランカの休戦|休戦協定]]を結んでいる<ref name="ゼークト(1943)212"/>。

この戦争はモルトケにとって鉄道を利用した近代戦争の良い研究対象となった<ref name="ゲルリッツ(1998)112">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.112</ref><ref name="片岡(2002)289-290">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.289-290</ref>。フランス軍、オーストリア軍ともに鉄道を利用して大軍団を投入していたが、大軍団は命令が伝達されにくく、両軍とも命令を待って無駄に停止している部隊が多いことに注目した。プロイセン軍の将校は命令がなくても砲火の方へ進軍するよう教育を受けているので、ここまでのことにはならないとしても、不安要素と考えたモルトケは日頃から「補給と進撃の分散と戦闘時の集結」の考えを指揮官たちに徹底させたうえで、指揮官の自主性・独断を尊重する気風作りを目指すようになった<ref name="片岡(2002)290">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.290</ref>。

またこの戦争において火力はオーストリア軍の方が優れていたにも関わらず、フランス軍の[[銃剣]][[突撃]]がオーストリア軍に大打撃を与え、最終的にはフランスが勝利した。この結果に衝撃を受けたオーストリアは、[[白兵戦]]を再評価するようになっていくが、一方モルトケは白兵戦が強かったのではなく、オーストリア軍が撃つのが早すぎる散漫な射撃を行ったことがオーストリアの敗因と分析し、射撃の命令系統の強化がこの戦争の教訓と考えた<ref name="片岡(2002)290-291">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.290-291</ref>。

こうしたモルトケのイタリア統一戦争研究の成果は1862年に参謀本部戦史部が『1859年のイタリア戦争』として刊行した<ref name="片岡(2002)289">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.289</ref><ref name="ゼークト(1943)212-213">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.212-213</ref>。

この戦争中の1859年5月に[[中将]]に昇進した<ref>[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.233-234</ref><ref name="ゼークト(1943)212">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.212</ref>。

=== 軍制改革 ===
[[file:BismarckRoonMoltke.jpg|right|thumb|200px|宰相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]](左)、陸相[[アルブレヒト・フォン・ローン|ローン]](中央)、参謀総長モルトケ(右)。1860年代。]]
摂政[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム王子]]による軍制改革はプロイセン軍の軍備増強をもたらした<ref name="片岡(2002)294">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.294</ref>。

ヴィルヘルム王子は軍制改革は、プロイセンの人口の増加{{#tag:ref|1815年時点でプロイセンの人口は約1000万人であったが、1855年には1800万人になっていた<ref name="片岡(2002)294">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.294</ref>。|group=注釈}}に合わせて徴兵数を増やし、2年に減じられている兵役を3年に戻し<ref name="望田(1979)59">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.59</ref>、歩兵39個連隊と騎兵10個連隊を増設し<ref name="ゲルリッツ(1998)110">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.110</ref>、逆に[[民主主義]]的な要素が強い{{仮リンク|国土防衛軍|de|Landwehr}}を縮小することを目指した<ref name="望田(1979)59-60">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.59-60</ref>。またモルトケ提案の野砲部隊強化案も盛り込まれていた<ref name="ゲルリッツ(1998)110">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.110</ref>。

ヴィルヘルム王子は1859年12月に国土防衛軍に好意的な{{仮リンク|グスタフ・フォン・ボーニン|de|Gustav von Bonin}}陸相を辞職させ、[[アルブレヒト・フォン・ローン]]大将を後任の陸軍大臣に任じた<ref name="エンゲルベルク(1996)478">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.478</ref>。しかしヴィルヘルム王子がヴィルヘルム1世として国王に即位した後の1861年に行われた下院総選挙で[[自由主義]]左派政党{{仮リンク|ドイツ進歩党|de|Deutsche Fortschrittspartei}}がプロイセン下院の多数派となり、軍隊に対する王権の強化を阻止するためヴィルヘルム1世の軍制改革予算案に反対するようになった<ref name="大橋(1984)46">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.46</ref>。ヴィルヘルム1世はこれを統帥権干犯と看做して怒りを隠さなかった<ref name="片岡(2002)295">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.295</ref>。この情勢に対して軍事内局局長[[エドヴィン・フォン・マントイフェル]]は議会に対するクーデタを主張していたが、陸相ローンはクーデタには反対だった<ref>[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.62-63/69</ref>。一方モルトケはこの対立に巻き込まれないよう、参謀本部を軍制改革をめぐる論争から隔離することに努めた<ref name="ゲルリッツ(1998)111">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.111</ref>。

結局ヴィルヘルム1世とローンは対議会の秘密兵器として[[オットー・フォン・ビスマルク]]を宰相に任じた。ビスマルクは就任するや[[鉄血演説]]を行って進歩党のナショナリズムを煽って軍制改革を支持させようとしたが、それが失敗したと見ると5年にわたってほとんど議会を召集せず、無予算統治を開始して軍制改革を断行した<ref name="大橋(1984)46">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.46</ref><ref name="片岡(2002)295">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.295</ref><ref name="ゲルリッツ(1998)111-112">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.111-112</ref>。

ここにビスマルク、ローン、モルトケというドイツ統一の中心人物となる3人が出そろった<ref name="ゼークト(1943)214">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.214</ref>。
{{-}}

=== 対デンマーク戦争 ===
ビスマルクの無予算統治により憲法闘争が巻き起こる中、ビスマルクは国内をまとめるためにも[[小ドイツ主義統一]]へ急速に動き出した。デンマーク王[[クリスチャン9世]]が[[ロンドン議定書]]に違反して[[同君連合]]下にある北ドイツの邦国[[シュレースヴィヒ公国]]・[[ホルシュタイン公国]]・[[ザクセン=ラウエンブルク|ラウエンブルク公国]]のうちデンマーク系住民が比較的多く、ドイツ連邦に加盟していないシュレースヴィヒ公国をデンマークに併合しようとしたことでドイツ中でドイツ・ナショナリズムが激昂した。ビスマルクは内心では三公国のプロイセンへの併合を企みつつ、「デンマークにロンドン議定書を守らせる」という大義名分を掲げて列強(ロンドン議定書に署名しているのでそれを否定できない)の介入を阻止しながらオーストリアと同盟して[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|対デンマーク戦争]]を開始した<ref name="片岡(2002)296-297">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.296-297</ref><ref name="望田(1979)88-92">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.88-92</ref>。1864年2月1日から{{仮リンク|フリードリヒ・フォン・ヴランゲル|de|Friedrich von Wrangel}}元帥を総司令官とするプロイセン軍、オーストリア軍の連合軍がシュレースヴィヒへ進撃した<ref name="望田(1979)103">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.103</ref>。

モルトケにとってはかつての祖国との戦いであり(兄たちは今もデンマーク官吏だった)、複雑な思いでいたが、参謀総長の役職は割り切って務めていたという<ref name="大橋(1984)49-50">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.49-50</ref>。

モルトケは以前より対デンマーク戦について「デンマーク軍がシュレースヴィヒ国境付近に主力を投入してきたら、そこで包囲撃滅するが、{{仮リンク|デュッペル|da|Dybbøl (Sønderborg Kommune)}}などの要塞に籠城した場合は[[ユトランド半島|ユトランド州]](デンマーク領)の侵攻に乗り出す。」という戦略を立てていた<ref name="望田(1979)100">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.100</ref>。しかしビスマルクは列強の介入とオーストリアの離脱を恐れてロンドン議定書違反となるデンマーク領への侵攻には反対し、結果ヴランゲル元帥にはデンマーク軍をデュッペル要塞に撤退させず撃滅するようにとの訓令が出されることになった<ref name="望田(1979)103">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.103</ref>。対デンマーク戦争緒戦時点でのモルトケの作戦への影響力はこの程度だった。彼はベルリンに留め置かれており、軍事情報も満足に届けられなかった<ref name="望田(1979)103-104">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.103-104</ref><ref name="渡部(2009)179">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.179</ref>。現場司令官のヴランゲル元帥に至っては「参謀本部など不要である。そんなもののために軍務が複雑になっているのはプロイセン軍の恥である」と公言しているような状態だった<ref name="渡部(2009)179"/>。

しかし結局ヴランゲル元帥率いるプロイセン軍は包囲撃滅に失敗して3万8000人ものデンマーク軍がデュッペル要塞に籠城するのを許してしまった。ビスマルクはドイツ諸国の世論を配慮して明確な勝利が必要としてデュッペル要塞攻撃を主張したが、モルトケは犠牲が出過ぎるとしてデュッペル要塞攻撃に反対した<ref name="望田(1979)104">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.104</ref><ref name="三宅(2011)158-159">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.158-159</ref>。しかしヴィルヘルム1世の直裁によりデュッペル要塞攻撃が決定し、この時もモルトケの意見は退けられる形となった<ref name="三宅(2011)159">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.159</ref>。1864年4月18日、プロイセン軍は1000人以上の犠牲を出しながらも同要塞を攻略した<ref name="望田(1979)105">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.105</ref>。しかしデンマーク軍主力は[[アルス島]]への撤退に成功している<ref name="大橋(1984)46">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.46</ref>。

一方オーストリア軍とプロイセン近衛師団は「戦闘はシュレースヴィヒの中のみ」という原則を無視して2月17日にデンマーク領ユトランド州へ侵入した。これが追認される形で3月8日からオーストリア軍とプロイセン近衛師団によるユトランド州侵攻が開始された。5月までにはユトランド半島ほぼ全域を占領した<ref name="大橋(1984)63-65">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.63-65</ref>。しかしデンマーク領への侵攻はロンドン議定書違反になるため、これによってイギリスが介入し、5月12日に一時休戦してロンドン会議が開かれるも、プロイセン・オーストリア側の「シュレースヴィヒとホルシュタインの割譲」の要求をデンマークが認めず、イギリスも参戦を望まなかったので強い力を発揮できず、交渉は決裂して6月26日に戦争が再開された<ref name="大橋(1984)65">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.65</ref>。

その間、総司令官ヴランゲル元帥とその参謀長{{仮リンク|エドゥアルト・フォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン|de|Eduard Vogel von Falckenstein}}将軍の指揮について軍事内局局長マントイフェルら軍有力者から疑問が呈されていた。1864年5月にヴランゲル元帥に代わってヴィルヘルム1世の甥である[[フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン (1828-1885)|フリードリヒ・カール王子]]が総司令官に任じられ、またファルケンシュタインに代わってモルトケが総司令官参謀長に就任することとなった<ref name="大橋(1984)236-237">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.236-237</ref><ref name="片岡(2002)298-299">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.298-299</ref><ref name="ゼークト(1943)215">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.215</ref><ref name="三宅(2011)158">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.158</ref>。この人事によってようやくモルトケが作戦指導に参画できるようになった<ref name="三宅(2011)159"/>。

モルトケはデンマーク軍主力が待ち受ける[[アルス島]]への上陸作戦を決行することとした。戦闘が再開された後の6月29日に手薄な島の北方から上陸させてデンマーク軍主力が籠城する[[セナボー]]陣地を側面から攻撃して陥落させた。7月1日までにはアルス島全域を占領し、プロイセン軍はいよいよ首都[[コペンハーゲン]]がある[[シェラン島]]上陸を窺うようになった<ref name="大橋(1984)65-66">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.65-66</ref>。

戦意を喪失したデンマーク王クリスチャン9世はプロイセン・オーストリア両国に講和を申し入れ、1864年10月にウィーンで結ばれた講和条約によって、シュレースヴィヒ公国、ホルシュタイン公国、ラウエンブルク公国の三公国を両国に譲渡した<ref name="大橋(1984)66">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.66</ref>。

この戦勝でモルトケの地位も強化されたが、彼はすでに64歳になっていた<ref name="大橋(1984)73">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.73</ref>。モルトケはヴランゲル元帥があまり良い指揮を見せられなかったのは80歳という高齢のせいだと考えていたため、自分も後進に道を譲ろうと考え、この戦勝を機に退役願いを出したが、モルトケを高く評価したヴィルヘルム1世によって却下された<ref name="片岡(2002)299">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.299</ref><ref name="大橋(1984)73">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.73</ref>。

一方権勢を増すビスマルクとローンは、軍の最大実力者である軍事内局局長マントイフェルとの対立をいよいよ深めていった。マントイフェルは相変わらず議会に対するクーデタを主張し、また反革命の立場から親オーストリアを主張し、オーストリアとの対決を決意していたビスマルクと敵対した<ref name="望田(1979)107-109">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.107-109</ref>。1865年6月、ビスマルクらの強い要求に折れたヴィルヘルム1世はマントイフェルをシュレースヴィヒ総督に「栄転」させて中央から追放した<ref name="望田(1979)109">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.109</ref>。

後任の軍事内局局長{{仮リンク|ヘルマン・フォン・トレスコウ|de|Hermann von Tresckow}}将軍は軍事に関係する御前会議にモルトケも出席させるようヴィルヘルム1世に働きかけて認められた<ref name="片岡(2002)299">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.299</ref>。

=== 対オーストリア戦の準備 ===
[[File:General der Infanterie von Moltke.jpg|thumb|200px|歩兵大将の頃のヘルムート・フォン・モルトケ]]
シュレースヴィヒとホルシュタインをめぐってプロイセンとオーストリアの対立が深まると、モルトケはオーストリアとの戦争は不可避と考えるようになった。一方ビスマルクは不可避とは考えていなかったが、国内外に有利な状況を作る手っ取り早い方法としてオーストリアとの戦争を志向した<ref name="ゲルリッツ(1998)116">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.116</ref>。こうして1866年2月のプロイセン御前会議は戦争の危険があってもこの問題で譲歩してはならないことが確認された<ref name="ゼークト(1943)216">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.216</ref>。

モルトケはすでに1860年頃から対オーストリア作戦を策定していた。その時は守勢作戦だったが、軍制改革が進み、兵力が増強されたこと、またビスマルクの外交手腕でイタリアを同盟国に引き込み、またフランスとロシアの好意的中立が確保されたことにより攻勢的作戦に修正していった<ref name="大橋(1984)91-92">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.91-92</ref><ref name="望田(1979)127">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.127</ref><ref name="渡部(2009)180">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.180</ref>。

ビスマルクは[[ナポレオン3世]]率いるフランスの動向を気にして一個軍団を[[ライン川]]に残すことを主張したが、モルトケは[[ベーメン]]に集結するであろうオーストリア軍主力の撃滅を優先すべきであることをヴィルヘルム1世に進言して認められた<ref name="三宅(2011)160">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.160</ref><ref name="望田(1979)128">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.128</ref><ref name="渡部(2009)181-182">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.181-182</ref>。一方モルトケは南ドイツ諸国に対する二個軍団もベーメン方面へ投入したかったが、これはビスマルクの反対で退けられた<ref name="大橋(1984)93">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.93</ref>。

モルトケはオーストリアより充実していたプロイセンの鉄道網を利用して、これまでの軍事学の常識を覆す「分散進撃して攻撃時のみ集中」させる作戦計画を立てた<ref name="ゲルリッツ(1998)117">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.117</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)571">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.571</ref>。ザクセンからニーダーシュレージエンにいたる300キロの弧状にプロイセン軍の全兵力の7分の6にあたる三軍(エルベ軍、第1軍、第2軍)を配置し、それぞれの位置からベーメンのオーストリア軍へ向けて進撃させて決戦場で合流させる計画だった<ref name="ゲルリッツ(1998)117">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.117</ref><ref name="渡部(2009)181">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.181</ref>。ベーメンへ通じる鉄道はプロイセン側は5本、オーストリア側は1本であり、モルトケは優位を確信していた<ref name="渡部(2009)181">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.181</ref>。

補給の組織化のため、トレスコウ将軍の推挙でヴィルヘルム1世は6月2日の勅令をもって今後国王の勅命は参謀総長をもって伝達するものと定めた。これによりモルトケは戦時中においては陸軍大臣に図らずとも全軍に命令を下せるようになった<ref name="片岡(2002)301">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.301</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)569">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.569</ref><ref name="ゼークト(1943)217">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.217</ref>。6月8日付けで歩兵大将に昇進した<ref name="ゼークト(1943)216">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.216</ref>。

=== 普墺戦争 ===
6月16日にモルトケはエルベ軍を[[ザクセン王国]]へ侵攻させた。ザクセン軍は戦闘を避けて撤退し、ベーメンのオーストリア軍に合流した<ref name="大橋(1984)107">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.107</ref>。一方モルトケはザクセンにエルベ軍、シュレージエンに第一軍と第二軍を配置につけ、エルベ軍、第一軍、第二軍の三軍全部でもってベーメンのギッチンへ向けて進軍させた。指揮官たちの中にはナポレオン時代の観念に囚われて「分散進撃は各個撃破を受ける恐れがあり危険である。まずシュレージエンで全軍の合流を」と主張する者も多かったが、モルトケは「鉄道と電信が発展した現在ではその心配はない」とヴィルヘルム1世に進言して作戦を続行させた<ref name="大橋(1984)108">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.108</ref>。

7月1日にオーストリア軍主力が[[ケーニヒグレーツ]]に集結しているとの報告を受けたモルトケは、オーストリア軍包囲の好機とみた<ref name="片岡(2002)306">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.306</ref>。7月3日モルトケはケーニヒグレーツから最も遠い距離にいる第二軍(泥道に足を取られていた)に敵の右側面から攻撃するよう指示しつつ、勝機を逃さないため、第二軍やエルベ軍の到着を待たずに、敵との距離が最も近かった第1軍にオーストリア軍に攻撃をかけさせた。緒戦は第1軍単独で戦う羽目となったため、プロイセン軍に不利な情勢だった<ref name="大橋(1984)109-111">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.109-111</ref>。

続々とやってくる前線部隊の救援要請の伝令に対してもモルトケは冷静であり、作戦を変更しようとはしなかった。この時、心配になった宰相ビスマルクが[[葉巻]]をモルトケに勧め、それに対してモルトケは目の前に出された葉巻入れの中の葉巻を見比べて高級な葉巻を静かにとり、これを見たビスマルクは「作戦立案者がこれだけ落ち着いているであれば大丈夫であろう」と安堵したという逸話がある<ref name="渡部(2009)184">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.184</ref>。

やがてエルベ軍と[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ皇太子]]率いる第二軍が到着して右側面から攻勢をかけたことで形勢は逆転し、オーストリア軍は総崩れとなった([[ケーニヒグレーツの戦い]])<ref name="エンゲルベルク(1996)571">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.571</ref><ref name="大橋(1984)109-113">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.109-113</ref><ref name="片岡(2002)306-308">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.306-308</ref><ref name="望田(1979)132-133">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.132-133</ref>。モルトケは第二軍に[[エルベ川]]左岸から攻撃をかけさせてエルベ軍の攻撃と対応してオーストリア軍を包囲しようとしたが、まだこの頃のモルトケの権威は微妙なものだったので{{#tag:ref|[[ケーニヒグレーツの戦い]]においてモルトケの作戦指示書を見た師団長{{仮リンク|アルブレヒト・グスタフ・フォン・マンシュタイン|de|Albrecht Gustav von Manstein}}将軍は「良く出来た作戦指示書だ。ところでこのモルトケ将軍とは誰のことか」と尋ねたという逸話が残っている<ref name="片岡(2002)224">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.224</ref><ref name="望田(1979)130">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.130</ref><ref name="渡部(2009)183">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.183</ref>。|group=注釈}}、指揮官たちは分散進撃で各個撃破されることを恐れて、一度他の部隊と集合してから戦闘に入らせる者が多かった。結果正面戦闘になり、オーストリア軍の砲兵と騎兵隊の有効な反撃を受けて、追撃は不徹底に終わり、オーストリア軍は[[エルベ川]]、[[ドナウ川]]を越えてウィーン向けて撤退することに成功した<ref name="エンゲルベルク(1996)571"/><ref name="大橋(1984)113">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.113</ref><ref name="望田(1979)133">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.133</ref>。

ともあれ戦争には勝利し、モルトケはヴィルヘルム1世に「陛下は本日の戦闘に勝利されただけではなく、今回の戦争にも勝利されました」と報告したという<ref name="ゼークト(1943)174">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.174</ref><ref name="渡部(2009)184">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.184</ref>。この勝利はモルトケの包囲作戦の成功もあったが、同時にプロイセン軍が元込め式の[[ドライゼ銃]]を採用していたおかげでもある。元込め式は連射の速度が速かったので、(先のイタリア統一戦争の教訓で)銃剣突撃を果敢に仕掛けてきたオーストリア軍を蹴散らすことができたのであった<ref name="渡部(2009)185-186">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.185-186</ref>。

ケーニヒグレーツの勝利でプロイセン軍はウィーンから60キロの位置にある[[ニコルスブルク]]へ進撃した<ref name="渡部(2009)186">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.186</ref>。すでに戦意を失っていたオーストリアは、フランス皇帝[[ナポレオン3世]]を介してプロイセンに講和を申し出た。ビスマルクはすでに次なるフランスとの戦いを見据えており、その時オーストリアから中立を得なければならないことから講和に応じるつもりであり、そのためウィーン進軍を停止するよう主張した。一方モルトケは当初これに反対したという。軍は意気揚々としてウィーンへ向けて進軍中であるから、停止を命じることなど無理と考えていたという<ref name="大橋(1984)116-117">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.116-117</ref><ref name="渡部(2009)186-187">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.186-187</ref>{{#tag:ref|一方でウィーン進軍についてモルトケは一貫してビスマルクを支持して、ウィーン進軍に反対していたとする説もある<ref name="三宅(2011)161">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.161</ref>。|group=注釈}}。だが最終的にはモルトケもビスマルクの立場を支持し、「ウィーンを占領してもオーストリアは降伏しない。広大な[[ハンガリー]]へ後退して祖国奪還の戦意に燃えて戦争を続けるだろう。さらにフランスが介入してきて二正面作戦になる恐れもある」と各司令官たちの説得にあたった<ref name="大橋(1984)117">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.117</ref>。

ビスマルクはフリードリヒ皇太子の助力も得てウィーン進軍を主張していたヴィルヘルム1世を説得して、オーストリアやフランスと講和交渉に入った<ref name="渡部(2009)189">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.189</ref>。その結果、オーストリアとザクセンは領土を保全されるが、オーストリアは今後ドイツ問題には干渉しないこと、また北ドイツ諸国でプロイセン王を盟主とする[[北ドイツ連邦]]を創設するが、[[バイエルン王国]]など南ドイツ諸国はこれに参加しないことが決められた。

モルトケは普墺戦争の性質について「防衛戦争ではないし、国民世論が起こした戦争でもない。領土の拡大や物質的利益を狙って起こされた戦争でもない。権力的地位という理念を狙って官房内で必要とされて静かに準備されていた戦争であった。オーストリアは1ミリも領土を失わなかったが、ドイツにおける覇権を喪失したのである」と総括している<ref name="三宅(2011)161">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.161</ref>。

=== 対フランス戦争の準備 ===
モルトケは1867年2月の北ドイツ連邦[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]](Reichstag)の議員選挙に出馬した。彼はこの選挙直後の手紙の中で一足早く開票情勢が判明したベルリンの6選挙区において彼やビスマルク、ローンらが落選したことについて「大衆は何も見ていない。彼ら(民主主義者)が支配する国家および社会は禍である。地方はもう少しマシだろうが、まだ結果が分からない」と書いている。しかし結局モルトケは3つの選挙区で当選し、メーメル・ハイデクルーク(memel-heydekrug)選挙区選出の議員として帝国議会に議席を持つことになった<ref name="ゼークト(1943)226">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.226</ref>。
[[File:Krzyzowa4.JPG|thumb|250px|領地クライザウのモルトケの屋敷]]
同年8月、ヴィルヘルム1世はモルトケに恩賞として[[シュレージエン]]の{{仮リンク|クライザウ|de|Kreisau}}の荘園を与えた。モルトケは貴族には所領が不可欠と考えており、父同様に地主になりたがっていたのでこの恩賞を大いに喜んだという<ref name="片岡(2002)309">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.309</ref><ref name="ゲルリッツ(1998)124">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.124</ref><ref name="渡部(2009)190">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.190</ref>。

しかし1868年12月24日には妻マリーに先立たれ、悲しみの淵に沈んだ。ヴィルヘルム1世はモルトケを励まそうとマリーの異母弟をモルトケの副官に任じている<ref name="片岡(2002)310">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.310</ref><ref name="ゼークト(1943)228">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.228</ref>。

普墺戦争終結直後からフランスとの戦争は予想されており、モルトケは当初守勢作戦を立てていた。しかし北ドイツ連邦の安定で軍事力も増強されるに及んで攻勢計画に変更していった<ref name="望田(1979)160-162">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.160-162</ref>。

1867年に『ドイツラントにおける1866年の戦争(Der Feldzug von 1866 in Deutschland)』を監修し、それをきっかけに軍内で普墺戦争の成功点と失敗点の検討がはじまった<ref name="望田(1979)162-163">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.162-163</ref><ref name="渡部(2009)190">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.190</ref>。失敗点として挙げられたのはまず大砲の火力の不備であった。これは鋼鉄製の後装の曳火信管のクルップ砲を導入することで改善を図り、速射性、照準の正確さ、運搬性においてフランス軍の大砲を凌ぐようになった<ref name="渡部(2009)190">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.190</ref>。さらに参謀本部の権威が普墺戦争期には未だ微妙だったため命令が徹底されなかったことであるが、それは普墺戦争後の参謀本部の権威化が進む中で普仏戦争時にはすでに解決していた<ref name="渡部(2009)191">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.191</ref>。他に騎兵がほとんどを力を発揮しなかったことがあり、新しい時代の騎兵のあり方として偵察用や側面や背面攻撃用にすることとした<ref name="渡部(2009)191-192">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.191-192</ref>。また軍の戦略上の単位についてモルトケは軍団より師団を重視したがっていたが、これはヴィルヘルム1世により認められなかった<ref name="渡部(2009)192">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.192</ref>。

1869年には『[[高級指揮官に与える教令]]』を発し、その中でケーニヒグレーツの戦いをモデルに短期決戦論を説き、「異なる地点から各軍が戦場に集中しなければならない。その際、最後の短時間の進撃は別々の方面から敵軍の正面と側面に対して同時に行われねばならない」とした。この短期決戦論はその後ドイツ軍部において教条化していくことになる<ref name="望田(1979)164">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.164</ref>。

短期決戦において重要なのは鉄道であり、モルトケは参謀総長に就任して以来、フランスとの戦争を見据えてドイツ各地から[[ライン川]]へ向かう鉄道の建設に尽力していた<ref name="大橋(1984)123">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.123</ref>。その結果普仏戦争時点で北ドイツからフランスへ通じる鉄道は6本になっていた<ref name="渡部(2009)190">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.190</ref>。

そのためモルトケは普仏戦争に強い自信を持っており、早期の開戦が有利であると主張していた<ref name="片岡(2002)310">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.310</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)620">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.620</ref>。1867年には対フランス開戦をビスマルクに求めているが、ビスマルクは反プロイセン的な南ドイツ諸国をプロイセンが取り込めるほどドイツ・ナショナリズムを激昂させる行動をフランスにさせる機会を窺っていた<ref name="ゲルリッツ(1998)125">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.125</ref>。

=== 普仏戦争 ===
==== 開戦 ====
ルクセンブルク問題を経てフランスとプロイセンの関係は悪化を続け、[[ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家]]の[[レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン|レオポルト王子]]のスペイン王立候補をめぐってフランスの怒りは頂点に達し、1870年7月13日、フランス大使{{仮リンク|ヴァンサン・ベネデッティ|fr|Vincent Benedetti}}が[[バート・エムス]]においてヴィルヘルム1世と会見し、レオポルトのスペイン王立候補を支持しないと宣言することを求めたが、ヴィルヘルム1世はこれを拒否し、その件をビスマルクに電報で伝えた<ref name="大橋(1984)142-143">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.142-143</ref><ref name="望田(1979)158-159">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.158-159</ref>。

電報を受けたビスマルクは一緒にいたモルトケに対して「プロイセン軍は戦闘準備にどれぐらいかかるかね」と聞き、それに対してモルトケは「すぐ開戦した方がいいでしょう。遅れるよりは。」と回答した。モルトケを信頼していたビスマルクはこのモルトケの一言でフランスとの開戦を決意したという<ref name="渡部(2009)193-194">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.193-194</ref>。そしてヴィルヘルム1世の電報の内容を意図的に省略して意味を捻じ曲げ、ドイツ・ナショナリズムとフランス・ナショナリズムを煽る電報を作成して新聞に公表させた<ref name="望田(1979)159">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.159</ref>。これによってドイツ中で反フランス感情が高まり、南ドイツ諸国もプロイセンを支持し、一方フランスでも反プロイセン感情が高まり、ナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告するよう追い込んだ<ref name="大橋(1984)143-144">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.143-144</ref><ref name="望田(1979)159-160">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.159-160</ref>。

フランス政府は7月14日に動員を決定し、7月19日にプロイセンに[[宣戦布告]]した<ref name="片岡(2002)110">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.110</ref>。一方プロイセン軍は7月16日から動員準備を開始した<ref name="片岡(2002)310">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.310</ref>。7月20日の勅令でモルトケは戦争中、大本営参謀総長として全ての作戦指揮を任されることとなった<ref name="片岡(2002)310">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.310</ref>。普仏戦争ではビスマルクが軍事に関する御前会議に招かれることが少なくなり、結果モルトケの影響力が増すことになった<ref name="片岡(2002)310-311">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.310-311</ref><ref name="三宅(2011)161">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.161</ref>。

開戦時点でプロイセン王ヴィルヘルム1世(実質的にはモルトケ)率いる北ドイツ連邦軍と南ドイツ諸国軍は約38万人、フランス軍は30万人の兵力であったと見られるが、プロイセン軍は兵役が現役3年、予備役4年、後備役5年となっており、一方フランス軍は現役7年であった。しかもフランス軍は身代わりの代替を認めていたので長い軍歴を持つ職業軍人的な軍隊であった。一方プロイセン軍は短期間の徴兵を幅広く行っている大衆軍隊だった<ref name="大橋(1984)145">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.145</ref>{{#tag:ref|普仏戦争でプロイセン軍が勝利したことは大衆軍隊の勝利と看做され、フランスもこの戦争後には大衆軍隊へと移行していくことになる<ref name="望田(1979)169">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.169</ref>。|group=注釈}}。

==== 国境付近の戦闘 ====
[[File:Emil Volkers Wilhelm I auf dem Weg zur Frontinspektion 1872.jpg|thumb|250px|宰相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]、参謀総長モルトケ、陸相[[アルブレヒト・フォン・ローン|ローン]]らを引き連れて前線視察を行う[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]を描いた絵画。]]
ドイツ軍は8月3日までに予備兵力も動員して49万の兵力を[[プファルツ地方]]へ送りこんだ。三軍に別れ、[[トリーア]]に第1軍([[カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ]]大将指揮下6万人)、ヴィルヘルム1世の大本営がおかれた[[マインツ]]に第2軍([[フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン (1828-1885)|フリードリヒ・カール王子]]指揮下19万5000人)、[[ランダウ]]に第3軍([[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ皇太子]]指揮下13万人)が配置された<ref>[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.152-154/156</ref>。

この頃までにフランス軍が[[アルザス地方]]の[[ストラスブール]]付近(アルザス集団、10万人)と[[ロレーヌ地方]](ロレーヌ集団、15万人)に別れて計25万の兵力を集中させているという情報がモルトケのもとに入っていた<ref>[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.151/154</ref>。フランス軍が外線(包囲側)になる布陣であったが、モルトケはアルザス集団とロレーヌ集団が[[ヴォージュ山脈]]を挟んでいるのを利用して、本戦の前に第3軍を使ってアルザス集団を南へ押しこんで本戦ではドイツ軍側が外線になるよう仕向けようとした<ref name="大橋(1984)155">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.155</ref>。

ところが8月6日にシュタインメッツ大将の第1軍が独断でフランス軍ロレーヌ集団に攻勢をかけ、{{仮リンク|スピシュランの戦い|de|Schlacht bei Spichern}}に及び、ロレーヌ集団を撃退した。この戦いは勝利したとはいえ単純な正面戦闘となり、追撃もできないほど大きな損害を出したばかりか、衝撃を受けた[[ナポレオン3世]]が全フランス軍に[[シャロン=アン=シャンパーニュ]]までの後退命令を出し、国境でフランス軍主力を包囲撃滅するというモルトケの計画が崩れてしまった<ref>[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.156-157</ref>。しかし普段から現場指揮官の自主性を大事にしていたモルトケはシュタインメッツを批判しなかった。戦後に戦史家がシュタインメッツ批判を行った際にも「この戦闘は予期できない物だったが、戦術上の勝利は常に戦略上の計画を助けるものであるから、我々は勝利は常に感謝して、それを利用すべきである。この戦闘について言えば、敵主力と接触することができたのであり、その後の大本営の戦略決定を非常に容易にしたといえる。」として擁護している<ref name="渡部(2009)196">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.196</ref>。

==== メス包囲戦 ====
動揺したナポレオン3世は8月13日に総司令官の座をロレーヌ集団司令官[[フランソワ・アシル・バゼーヌ]]元帥に譲った。バゼーヌ元帥はひとまず[[メス (フランス)|メス]]に籠城した。一方アルザス集団はさらに西にあるシャロン=アン=シャンパーニュまで後退を続けた<ref name="望田(1979)173">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.173</ref>。

モルトケはメスのロレーヌ集団を次なる包囲攻撃目標に定め、第1軍は第2軍の右翼を担うべく{{仮リンク|ニエ川|fr|Nied}}へ、第2軍の2個師団はメス東南へ、第2軍主力はメス南方へそれぞれ布陣し、メス包囲体制をとらせることとした(第3軍はアルザス集団を追撃)<ref name="大橋(1984)158">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.158</ref>。この行軍の際、[[ザール川]]渡河でシュタインメッツ大将の第1軍が第2軍の進軍路に割り込んだため、交通渋滞が発生した。訓令主義のモルトケもこれには命令を出さざるを得ず、軍司令官を通さずに軍団長に直接命令を出すなど命令系統無視を侵してまで交通整理に務め、なんとか予定通り各軍を配置につかせた<ref name="大橋(1984)159">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.159</ref>。

8月14日、ロレーヌ集団がメスから更に西の[[ヴェルダン]]へ後退するつもりだと知った第1軍と第2軍がロレーヌ集団に攻撃を開始した([[メス攻囲戦]])。交通渋滞で撤退できずにいたロレーヌ集団は二個軍団を反撃に出し、時間を稼ごうとした<ref name="大橋(1984)159-160">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.159-160</ref>。それに対してモルトケは第2軍にヴェルダンへの道を塞ぐことを命じ、また第1軍の一部を北方へ移動させ、全方角からの包囲状態にしてロレーヌ集団のメス脱出を阻止した<ref name="大橋(1984)160">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.160</ref>。モルトケは第2軍にメス南西部から攻勢をかけるよう命じていたが、第2軍司令官はロレーヌ集団が北西から脱出しようとしていると判断し、独断で北方から攻勢をかけ、ロレーヌ集団をメスに押し戻す事に成功した<ref name="大橋(1984)161">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.161</ref>。

==== セダン包囲戦 ====
[[File:Anton von Werner, Kapitulations-Verhandlungen von Sedan (19. Jhdt.).jpg|thumb|250px|1870年9月2日、セダンのフランス軍と降伏交渉を行うモルトケと[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]を描いた絵画({{仮リンク|アントン・フォン・ヴェルナー|de|Anton von Werner}}画)]]
シャロン=アン=シャンパーニュに後退していたアルザス集団はナポレオン3世と[[パトリス・マクマオン]]元帥の指揮のもとシャロン軍を新編成して、ロレーヌ集団の救出へ向かった。モルトケは8月15日にこれを知り、第2軍3個軍団をもってマース軍(司令官は[[ザクセン王国|ザクセン]]皇太子[[アルベルト (ザクセン王)|アルベルト]])を新編成して、同軍と第三軍でもってシャロン軍にあたらせることとした(第1軍と第2軍は引き続きメス包囲)<ref name="大橋(1984)162">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.162</ref>。モルトケはこの両軍に対してシャロン軍の正面と右翼から攻勢をかけて北へ圧迫し、パリから遮断するよう指示していた<ref name="渡部(2009)198">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.198</ref>。

両軍はモルトケの指示通り[[スダン|セダン]]西南でシャロン軍との戦闘に及んで勝利し、シャロン軍を北のセダン要塞に圧迫した。9月1日に新たに近衛軍団がセダン包囲に加わってセダン総攻撃が始まった([[セダンの戦い]])<ref name="大橋(1984)162">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.162</ref>。フランス騎兵隊が絶望的な突撃をかけて玉砕した後、ナポレオン3世は将軍たちから求められたナポレオン3世自らが先頭に立っての突撃作戦を拒否し、要塞内のマクマオン元帥以下8万30000人のシャロン軍将兵とともにドイツ軍に投降した<ref name="望田(1979)174-175">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.174-175</ref>。皇帝を捕虜にしたというニュースは世界を驚かせた。[[フリードリヒ・エンゲルス]]のような社会主義者さえもが「(モルトケは)青春のエネルギーを全て発散している」と評して舌を巻いた<ref name="エンゲルベルク(1996)691">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.691</ref>。

モルトケはヴィルヘルム1世に「陛下が今世紀最大の勝利を得たことを祝福申し上げます」と報告したという。また部下の参謀将校一人一人と握手して「このような戦果をあげられたのは君たちのおかげだ」と語ったという<ref name="大橋(1984)164">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.164</ref>。

宰相ビスマルクは戦果はもう十分であり、アルザス・ロレーヌ地方の割譲を求める講和に入るべきと主張したが、モルトケはパリを陥落させる必要があると主張し、9月4日に第3軍とマース軍をパリへ向けて進撃させ、9月19日からパリを包囲した<ref name="大橋(1984)164">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.164</ref>。
{{-}}
==== パリ包囲戦 ====
[[File:German Headquarters in Versailles. 1870 .jpg|thumb|250px|パリ包囲戦中の[[ヴェルサイユ]]の大本営を描いた絵画。中央右に座っているのが参謀総長モルトケ。テーブルを囲う順に右隣から陸相[[アルブレヒト・フォン・ローン|ローン]]、宰相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]、皇太子[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ]]、プロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]](アントン・フォン・ヴェルナー画)]]
ナポレオン3世が捕虜になったことで、パリでは[[フランス第二帝政|第二帝政]]が打倒されて共和政の臨時政府が樹立されていた<ref name="望田(1979)175">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.175</ref>。この臨時政府とビスマルクの間で講和交渉が行われたもののビスマルクがアルザス・ロレーヌ地方の割譲を求めたために決裂した<ref name="望田(1979)175-176">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.175-176</ref>。なおモルトケは当初フランス領土の割譲の要求はフランスの抵抗力を増すと考えて慎重だったが、10月27日にメスのロレーヌ集団が降伏したことでフランス軍は戦力をほぼ失ったと判断し、国防上重要なアルザス・ロレーヌ地方の割譲を求めるようになっていた<ref name="望田(1979)178">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.178</ref>。

10月8日にはフランス臨時政府内相[[レオン・ガンベッタ]]が包囲されたパリから[[気球]]で脱出し、南フランスで[[ゲリラ]]部隊を組織した。このゲリラ部隊がドイツ軍の後方線に効果的な打撃を加えてくるようになった<ref name="望田(1979)177">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.177</ref>。そのような状況の中、パリ包囲をめぐってモルトケは[[兵糧攻め]]、ビスマルクは砲撃を主張した。モルトケは弾薬不足や今あるパリの臨時政府が長く持たないと思っていたことなどからこのままパリ包囲を続けていればいいと考えていた<ref name="望田(1979)178">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.178</ref>。一方ビスマルクはだらだらとパリを包囲していると[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]か[[ロシア帝国|ロシア]]が介入してくると考えていた<ref name="望田(1979)178">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.178</ref>。

しかし各地の要塞が陥落して弾薬の心配がなくなるとモルトケも砲撃を支持するようになった<ref name="大橋(1984)165">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.165</ref>。この頃北ドイツ連邦では帝国議会において社会主義者の[[アウグスト・ベーベル]]らが反戦運動の一環で戦時国債の発行に反対し、大逆罪容疑で逮捕されるという事件が発生していた。モルトケはこれ以上戦争を長引かせるとこうした危険分子の活動が活発化すると懸念するようになっていた<ref name="望田(1979)179">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.179</ref>。

かくして1870年12月27日からパリ砲撃が開始された。パリ砲撃の最中、ビスマルクは南ドイツ諸国とドイツ統一の交渉を行い、北ドイツ連邦に南ドイツ諸国も加わる形で[[ドイツ帝国]]の樹立を取り決めた。そして1871年1月18日に大本営がおかれている[[ヴェルサイユ宮殿]]においてヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が挙行された<ref name="望田(1979)186">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.186</ref><ref name="渡部(2009)202">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.202</ref>。

一方包囲と砲撃が続くパリでは飢餓が深刻となり、1871年1月26日、ついにパリが開城されることとなった<ref name="望田(1979)179">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.179</ref>。ドイツ占領軍の許可のもと行われた2月8日のフランス議会選挙の末に[[アドルフ・ティエール]]が議会の選出でフランス政府首班となり、彼はアルザス・ロレーヌ地方の割譲と50億フランの賠償金支払いの条件を受諾してドイツと講和条約を結んだ<ref name="望田(1979)180">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.180</ref>。

この講和に反対したパリ市民たちが[[パリ・コミューン]]政府を樹立し、ティエール政府をパリから追った。ビスマルクとモルトケはフランス軍捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させ、またドイツ軍にパリ砲撃を行わせることでティエール政府によるパリ・コミューン鎮圧を支援した<ref name="望田(1979)181">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.181</ref>。
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=== ドイツ統一後 ===
[[File:Reichstagsfraktion der Deutschkonservativen Partei 1889.jpg|thumb|250px|1889年、{{仮リンク|ドイツ保守党|de|Deutschkonservative Partei}}の党員集会。中央の軍服の人物がモルトケ。]]
普仏戦争の勝利によってプロイセン陸軍は世界最強の陸軍、プロイセン参謀本部は世界最高の軍事企画機関と看做されるようになった<ref name="渡部(2009)203">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.203</ref>。ドイツ帝国諸邦の中では[[バイエルン王国]]のみ独自の参謀本部を持ち続けたが、それも有名無実な存在と化していき、ドイツ諸国は次々とプロイセン参謀本部に将校を送ってそこで仕事をさせるようになった<ref name="渡部(2009)203">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.203</ref>。

モルトケは普仏戦争中の1870年10月に[[伯爵]]に叙されており、帰国後の1871年6月に[[元帥 (ドイツ)|元帥]]位を与えられた<ref name="ゼークト(1943)242">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.242</ref>。1872年1月28日には{{仮リンク|プロイセン貴族院|de|Preußisches Herrenhaus}}の終身議員に勅任された<ref name="ゼークト(1943)242">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.242</ref>。帝国議会議員の方も引き続き在職し、しばしば帝国議会で軍事問題の演説を行った。モルトケの演説は軍事に特化しており、簡潔明瞭、かつ[[個人攻撃]]がなかったため評判が良かったという<ref name="ゼークト(1943)247">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.247</ref><ref name="渡部(2009)204">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.204</ref>。1872年より陸軍大学が参謀総長の隷下と定められた<ref name="ゲルリッツ(1998)138">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.138</ref>。

老齢のモルトケは1879年頃から体力の衰えを訴えるようになり、1881年12月27日に辞表を提出した。しかしヴィルヘルム1世は「卿の軍に対する功績は余りにも偉大であるため、朕は卿が生きている限り卿の退役を考慮することはできない。」として辞職を退けた<ref name="片岡(2002)322">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.322</ref><ref name="ゼークト(1943)245">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.245</ref>。しかし同時にモルトケの身体を心配して[[アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー]]将軍を参謀次長に任じることでモルトケの激務を軽減を図ろうとした<ref name="片岡(2002)322">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.322</ref><ref name="ゼークト(1943)244">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.244</ref><ref name="渡部(2009)203-204">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.203-204</ref>。また晩年の10年ほどは甥の[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ]](小モルトケ、後に彼も参謀総長となる)がモルトケの副官を務めた。子供のないモルトケは彼のことを我が子のように可愛がった<ref name="ゲルリッツ(1998)147">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.147</ref>。

1883年5月20日の勅令で参謀総長に[[帷幄上奏]]権が認められ、平時においてもいつでも皇帝に上奏できるようになった<ref name="渡部(2009)204">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.204</ref><ref name="ゲルリッツ(1998)139">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.139</ref>。これによって参謀総長が陸軍省の統制を受けるのは事実上軍の装備についてだけとなった<ref name="ゲルリッツ(1998)139">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.139</ref>。

1887年には『1870年から1871年の独仏戦争史』の監修にあたった<ref name="ゼークト(1943)246">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.246</ref>。

普仏戦争後のモルトケは一貫してフランスとロシアに対する予防戦争を主張していた。モルトケは参謀総長に就任した時から露仏との二正面作戦は念頭に置いていたが、普仏戦争後にはその可能性がより高まっていた。とりわけモルトケはこの二国との戦争を不可避と考えていた<ref name="三宅(2011)163">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.163</ref>。モルトケは二正面作戦について1871年4月に「短期間のうちに一方の敵を倒し、次いでもう片方の敵と戦う事を想定しなければならない」と語っている<ref name="片岡(2002)319">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.319</ref>。どちらに重点をおいて攻勢をかけるかについては、モルトケは状況に応じて揺れ動いた。はじめ露仏双方に同兵力を当てて攻勢をかけることを想定していたが、やがてフランスの軍拡が目覚ましくなると、フランス側に重点的に攻勢をかける案に変更した。さらに1879年に独墺同盟が成立したことでロシア側に攻勢をかける計画に変更している<ref name="片岡(2002)320">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.320</ref>。

戦争の時期については、(とりわけフランスについては)早ければ早いほどドイツが有利と考えていた。1875年の『ポスト紙』事件で独仏戦争の危機が発生した際にもモルトケはロシアとフランス双方を相手にしてでもフランスに対して予防戦争を行うべきとビスマルクに提言したが(この際のモルトケは対ロシア戦線より対フランス戦線に兵力を集中する案を提出している)、予防戦争の意思がないビスマルクから却下されている<ref name="三宅(2011)163">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.163</ref>。1887年にもヴァルダーゼー将軍に突き上げられる形で対ロシア開戦をビスマルクに提言しているが、やはり却下されている<ref name="三宅(2011)164">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.164</ref>。

1888年3月9日にヴィルヘルム1世、6月15日にその後を継いだ[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]が相次いで崩御し、[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が皇帝に即位した。モルトケはこれを機に辞職を決意し、1888年8月10日にヴィルヘルム2世に対して「私はもはや馬に乗る事も叶いません。陛下には私より若い者の力が必要となるでしょう。」とする辞表を提出した。これに対してヴィルヘルム2世は「卿を失う事は耐えがたきことだが、卿の健康を考えればこれ以上の留任を求めるのも躊躇われる。」として辞職を許可する一方、代わりに形式的な役職の国防委員会委員長職への就任を求め、モルトケはこれに応じた<ref name="ゼークト(1943)246">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.246</ref>。

1890年10月26日の90歳の誕生日は盛大に祝われた。皇帝ヴィルヘルム2世やドイツ各邦国の諸侯たち、軍高官たちが続々と祝賀会に出席し、各界名士から祝賀のメッセージを送られた<ref name="ゼークト(1943)247">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.247</ref>。その中でモルトケは一歩兵からの祝賀の詩の手紙に注目し、「歩兵がこのように美しい詩を書く事が出来る我が軍には、成就できないことなど何もない」と語った<ref name="ゼークト(1943)247">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.247</ref>。
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=== 死去 ===
退任後のモルトケは領地クライザウかベルリンの参謀本部内にある自宅で暮らし<ref name="ゼークト(1943)248">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.248</ref>、1891年春からベルリンに滞在していた<ref name="ゲルリッツ(1998)148">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.148</ref>。

同年4月24日午前、プロイセン貴族院の本会議に出席したモルトケは、夕方から親族の集まりに参加した。途中疲労を感じたモルトケはこっそりその場を退席して一人隣室へ移った。甥の小モルトケ少佐がモルトケがいなくなったことに気づき、様子を見に行ったところ、隣室の椅子の上で前のめりになっていたモルトケを発見した。すぐに寝室のベッドへ運ばれたモルトケだったが、まもなく息を引き取った。彼は最期まで夫人の肖像を見つめていたという<ref name="ゲルリッツ(1998)148"/><ref name="ゼークト(1943)248"/><ref name="片岡(2002)322">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.322</ref>。

4月28日に葬儀が行われ、遺体は領地クライザウへ戻された<ref name="ゼークト(1943)248"/>。
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{{Gallery
|File:Berlin central station & Moltkebridge 2.jpg|{{仮リンク|モルトケ橋|de|Moltkebrücke}}と[[ベルリン中央駅]]
|File:Parchim Moltke Denkmal.jpg|[[パルヒム]]にあるモルトケ像
|File:Moltke Berlin Grosser Stern.jpg|[[ベルリン]]の[[ティーアガルテン]]にあるモルトケ像
}}

== 人物 ==
[[File:Conrad Freyberg Moltke.jpg|thumb|200px|ヘルムート・フォン・モルトケ元帥を描いた絵画(1877年{{仮リンク|コンラート・フライベルク|de|Conrad Freyberg}}画)]]
=== 軍事哲学 ===
モルトケには「戦争に時代や状況を飛び越えた一般原則は存在しない」「戦史から勝利の公式を見つけることは出来ない」という持論があった<ref name="片岡(2002)291">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.291</ref>。そのためモルトケはこれまでの軍事の常識を簡単に捨て去ることができた。

モルトケの戦略の特徴は「分散進撃し、包囲して一斉攻撃」である。これはこれまでの全ての戦略の原則に反するものだった<ref name="エンゲルベルク(1996)571">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.571</ref>。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]時代は戦力集中が軍事の常識であり、ナポレオンは内線(包囲される側)作戦で戦力を集中させて外線(包囲側)部隊を確固撃破した。ナポレオン時代を代表する軍事学者[[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ]]もそれに基づいて戦力が集中する内線が有利と説いていた。しかしモルトケはこのナポレオン時代の常識を覆して、いまや鉄道と電信の登場で分散進撃しても攻撃時のみ集中させることが可能となっている以上、外線が有利であると主張した<ref name="大橋(1984)26-33">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.26-33</ref><ref name="渡部(2009)175-176">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.175-176</ref>。補給を考えれば分散進撃の方が安定するからである<ref name="渡部(2009)192">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.192</ref>。ドライゼ銃などプロイセン軍の火力の増強で数的不利がそれほど問題にはならなくなったこと、軍制改革で歩兵の年齢が若返り、その機動力が増加したことも考慮してのことであった<ref name="エンゲルベルク(1996)571">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.571</ref>。またモルトケは包囲することで敵戦力を撤退させずに撃滅することを重視した。これは「武力行使の目的は敵国土の軍事占領ではなく、敵戦力と戦意の粉砕」とする[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]の思想の結実であるといえる<ref name="渡部(2009)192">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.192</ref>。

モルトケの生きた時代は、それ以前の時代に前例がないほど急速に技術が進歩した時代である。鉄道と電信という新技術の登場で軍事も大幅に変革された。とはいえ黎明期であったからその技術は未熟であり、発展の展望も未知数だった<ref name="片岡(2002)291">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.291</ref>。しかしモルトケは新技術の積極的な利用を躊躇わなかった。モルトケは鉄道と電信を積極的に軍事利用しようとした最初の人物だった<ref name="望田(1979)88-92">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.88-92</ref><ref name="渡部(2009)175">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.175</ref>。

しかし当時の未熟な技術では鉄道や電信が故障や事故など不測の事態を起こすことも多かった。それでもスムーズに分散進撃や包囲集中攻撃を行うため、モルトケは現場指揮官の自主性を大事にした。現場指揮官には全体的な目的を承知させるための訓令を出すにとどめ、彼らの独断を奨励した<ref name="片岡(2002)292-293">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.292-293</ref><ref name="ゼークト(1943)67-68">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.67-68</ref><ref name="渡部(2009)176">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.176</ref>。ナポレオンの軍隊の将軍がほとんど自主権を持たなかったこととは対照的であった<ref name="大橋(1984)32">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.32</ref><ref name="渡部(2009)176">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.176</ref>。

もちろん現場指揮官の独断によって全体の計画が破たんする場合もあり得るが(前述した普仏戦争緒戦のシュタインメッツ大将の事例のように)、モルトケはそれを批判するより、利用する戦略修正に全力を挙げるべきと考えていた<ref name="大橋(1984)157">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.157</ref>。モルトケは「戦争は全てが不確実であり、確実なのは意志と実行力だけである。それが将帥の資産である。」と語っている<ref name="ゲルリッツ(1998)141">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.141</ref>。

=== 戦争観 ===
モルトケは「永遠の平和など夢にすぎない。しかも決して美しくない夢である。戦争とは神の世界秩序の一環である。戦争においてこそ人間の最も高貴な美徳、勇気、自己否定、命をかける義務心や犠牲心が育まれる。もし戦争がなかったら世界は[[唯物主義]]の中で腐敗していくであろう。」と語り、戦争を無条件に批判する思想に反対した<ref name="ゼークト(1943)91">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.91</ref><ref name="片岡(2002)18">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.18</ref>。

一方でモルトケは「戦争は勝利しても自国民にとっては一種の不幸である。領土の獲得も賠償金の獲得も人間の命を償い、遺族の悲しみを埋め合わせることはできない」という[[人道主義]]者のごとき発言もしている<ref name="ゼークト(1943)92">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.92</ref>。

つまりモルトケは戦争を禍と見つつも、他の多くの禍と同じく、人間の精神を向上させる素晴らしい面があると見ていたのである<ref name="ゼークト(1943)91">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.91</ref>。

また戦争の形態についてモルトケは、普仏戦争(とりわけナポレオン3世が捕虜になった後の後半戦)から見られるようになった傾向として、官房戦争から国民戦争に移行しつつあることを主張した。フランス臨時政府が組織した[[ゲリラ]]部隊はその典型であるが、モルトケはそうした戦闘方法に不快感を持っており、「フランスのように無尽蔵な手段と愛国心を持った国民が戦ったところで教育を受けた勇敢な正規軍には勝てないのである。問題なのは武装した群衆は軍隊ではなく、そうした者たちを戦闘に駆りだすのは野蛮な行為だということだ。戦争はますます激烈になり、憎むべきものとなってしまう。」と心配していた<ref name="三宅(2011)162-163">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.162-163</ref>。

=== 政治思想 ===
[[エドヴィン・フォン・マントイフェル]]や[[アルブレヒト・フォン・ローン]]などの軍人と比べると政治色の薄い職業軍人的人物だった。またそのため対外問題を軍事的観点から捉えるモルトケと政治的観点から捉えるビスマルクでは意見が齟齬することもあった<ref name="望田(1979)97">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.97</ref>。

しかし政治色が薄いといってもモルトケは帝国議会議員でもあり、政治思想がないわけではなかった。彼は[[保守主義者]]であり、[[社会主義者]]の増長を憂慮しており、将来的には軍を使って社会主義者を排除する必要があると考えていた<ref name="望田(1979)166">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.166</ref>。また[[民主主義]]も嫌っており、[[アメリカ南北戦争]]や普仏戦争で活躍を見せた[[民兵]]も民主主義的になりやすいその傾向から嫌悪し、その軍事的有効性について一切考慮したがらず、民兵に対する正規軍の優越を確信していた<ref name="望田(1979)166-167">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.166-167</ref><ref name="三宅(2011)162">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.162</ref>。

モルトケは常に国民に対して不信感・嫌悪感を持ちながら、他方で([[国民軍]]になりかねない)近代的統一軍隊をプロイセンの[[権威主義]]体制を破壊せずに創造する事を目指すというビスマルクと似た二重性があった<ref name="望田(1979)167">[[#望田(1979)|望田(1979)]] p.167</ref>。

=== 文学的素養 ===
多くの著作を持つなど文学的な才能も持つ人物であった<ref name="渡部(2009)168">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.168</ref>。

語学に堪能であり、母語のドイツ語とデンマーク語、フランス語(陸軍大学校で学ぶ)、英語(妻を通じて)、トルコ語(トルコ駐留時代に習得)、ロシア語、イタリア語、スペイン語の7ヶ国語を操った<ref>[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.237-238</ref>

=== 趣味 ===
趣味は音楽([[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]])鑑賞、高級葉巻をくゆらすこと、そして読書であった<ref name="ゲルリッツ(1998)103">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.103</ref><ref name="大橋(1984)27">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.27</ref><ref name="渡部(2009)168">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.168</ref>。

== ビスマルクとの関係 ==
[[File:WilhelmI Gruppe32 Siegesallee.JPG|thumb|200px|ベルリンにかつて存在した{{仮リンク|勝利通り|de|Siegesallee}}の沿道に建てられていた32の石造の一つ[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]像。左がモルトケの胸像、右が[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の胸像。]]
モルトケは無口、早起き、小食だが、ビスマルクはおしゃべり、朝寝坊、大食漢であるなど、二人は個人的には全く気が合わなかったという<ref name="渡部(2009)204">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.204</ref><ref name="ゲルリッツ(1998)113">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.113</ref>。だがモルトケは彼が最も恐れていた多正面作戦を常に阻止してくれるビスマルクの外交手腕を高く評価していたので、ビスマルク外交に口出しすることはなく、むしろ協力した<ref name="渡部(2009)204">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.204</ref>。

1879年にビスマルクが普墺同盟を締結しようとした際、ヴィルヘルム1世はロシアとの関係悪化を恐れて慎重な態度をとったが、モルトケは軍事的観点からヴィルヘルム1世の説得にあたって普墺同盟を認めさせている<ref name="渡部(2009)205">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.205</ref>。1887年に参謀総長代理ヴァルダーゼー将軍がロシアの軍拡を理由に対ロシア開戦を皇帝に帷幄上奏すべきとモルトケに進言してきた際にもモルトケは直接に帷幄上奏権を行使しようとはせず、まずビスマルクに対して対ロシア開戦してはどうかと提言した。ビスマルクが予防戦争はしないと明言するとモルトケも了解して帷幄上奏権を使ってのごり押しはしなかった<ref name="渡部(2009)205">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.205</ref>。

モルトケは戦時における作戦指導へのビスマルクの口出しは排除しようとしたが、平時の外交に関しては全面的にビスマルクに任せていた<ref name="渡部(2009)205">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.205</ref>。戦争は政治指導者の手段でしかないと考えていたためである<ref name="ゲルリッツ(1998)113">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.113</ref>。

ビスマルクの方もたび重なる対立にも関わらず、モルトケには大きな信頼を寄せていた。普仏戦争中にビスマルクはモルトケについて「あれは実に珍しい人物である。義務は系統立てて果たし、何でも常に準備を整えていて、無条件に信頼できた。それでいて完全に冷静だった。」「モルトケは生涯にわたって全てのことについて節度を心得ていた。」と語っている<ref name="エンゲルベルク(1996)570">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.570</ref>。

こうした間柄のビスマルクとモルトケが務めている間は参謀総長に巨大な権限があっても問題はなかったが、参謀総長が政治指導者に従わなくなったら、あるいは政治指導者が弱い性格だったら、政府はもはや軍部の意に反して政治ができなくなる可能性も秘めていた<ref name="ゲルリッツ(1998)123">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.123</ref>。『ドイツ参謀本部興亡史』の著者である[[ヴァルター・ゲルリッツ]]は「ビスマルクとモルトケという組み合わせはプロイセンの歴史の中でただ一度だけ起こったことであり、その後二度と起こる事はなかった」と評した<ref name="ゲルリッツ(1998)114">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.114</ref>。
{{-}}
== 影響 ==
[[File:Helmuth von Moltke Büste.jpg|right|thumb|200px|モルトケ元帥の[[胸像]]。]]
普仏戦争の勝利でモルトケのプロイセン参謀本部は世界中の軍隊の憧れの存在となった。各国は続々とプロイセンの制度の導入を開始した<ref name="大橋(1984)180">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.180</ref><ref name="渡部(2009)207">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.207</ref>。

[[フランス軍]]は普仏戦争敗戦後の翌年1871年に{{仮リンク|フランス参謀本部|fr|État-major}}を立ち上げ、進級規定が厳格なプロイセン参謀本部に倣った組織体制を作り、クラウゼヴィッツの研究も開始した<ref name="渡部(2009)207-208">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.207-208</ref>。[[アメリカ軍]]でも[[米西戦争]]がプロイセンの戦争に比べてあまりに不手際であったとしてプロイセン参謀本部に倣った新機構を創設し、これが後に[[アメリカ国防総省]]([[ペンタゴン]])となった<ref name="渡部(2009)208-209">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.208-209</ref>。ロシアでも参謀本部の改編が行われ、イギリスも20世紀に入ってプロイセン参謀本部を参考にするようになった<ref name="ゲルリッツ(1998)143">[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)]] p.143</ref>。

ただフランスやアメリカ、イギリスではモルトケの参謀本部の影響を受けつつも、参謀は書記・伝令という旧来からの風潮は消えなかった<ref name="大橋(1984)180">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.180</ref>。イギリス海軍の影響を受ける[[日本海軍]]やアメリカ軍の影響を受ける[[自衛隊]]もそうした傾向が強い<ref name="大橋(1984)180">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.180</ref>。一方モルトケ式に強い影響を受けたのが[[日本陸軍]]と[[オスマン帝国軍|オスマン・トルコ陸軍]]であった。

日本陸軍は元来フランス式軍制を目指すところが多かったが、普仏戦争後にはプロイセン参謀本部に倣った[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]制度を導入した<ref name="三宅(2011)332">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.332</ref>。さらに1884年に[[お雇い外国人]]として来日したモルトケの弟子[[クレメンス・メッケル]]少佐の協力を得てドイツ式軍制導入の改革([[鎮台]]の[[師団]]への再編成、一般服役の徴兵制など)が行われた<ref name="三宅(2011)334-336">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.334-336</ref>。またメッケルによって陸軍大学のドイツ型参謀教育が確立されていった<ref name="三宅(2011)351">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.351</ref>。ドイツ式軍制に生まれ変わった日本軍は[[日清戦争]]と[[日露戦争]]に勝利して成果を示した。とりわけ日清戦争では清軍が未だお粗末な作戦能力の東洋的軍隊だったこともあり、モルトケ流の分散進撃・包囲撃滅が大きな戦果をあげている<ref name="渡部(2009)211">[[#渡部(2009)|渡部(2009)]]、p.211</ref>。日露戦争勝利から1年後の1906年にメッケルが死んだことを知った[[児玉源太郎]]参謀総長らメッケルの薫陶を受けた日本軍人らは、彼に感謝の意を示すために陸軍大学校でメッケルの英霊を弔うための神祭を執り行っている<ref name="三宅(2011)338">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.338</ref>。

トルコには1830年代にモルトケ自身が教官として派遣されていたことがある。ただこの時にはトルコ陸軍の根本的な改革をすることはできなかった<ref name="三宅(2011)344">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.344</ref>。トルコ陸軍が重い腰をあげてドイツ式改革を開始するのは露土戦争敗戦後の1883年に[[コルマール・フォン・デア・ゴルツ]]がトルコに派遣されてからである。ゴルツによってトルコ陸軍にドイツ型参謀教育が施され<ref name="三宅(2011)351">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.351</ref>、またトルコ陸軍の再編成が行われた<ref name="三宅(2011)351">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.351</ref>。もっともトルコでは改革を妨害する勢力も根強かったので(ゴルツを招いた皇帝[[アブデュルハミト2世]]も含めて)日本ほどスムーズにはいかず、ゴルツの改革も限定的にしかできなかった<ref name="三宅(2011)361">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.361</ref>。それでもゴルツの成果は[[希土戦争 (1897年)|希土戦争]]によって発揮された<ref name="三宅(2011)356-357">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.356-357</ref>。また後にゴルツの参謀教育を受けたトルコ青年将校たちが[[青年トルコ人革命]]を起こしたが、彼らは改革を阻害するアブデュルハミト2世が独裁権力を握り続ける限りトルコの近代化は不可能と考えて立ち上がったのだった<ref name="三宅(2011)360">[[#三宅(2011)|三宅、新谷、中島、石津(2011)]] p.360</ref>。
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== キャリア ==


=== 経歴 ===
その戦略的思考は[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]の影響を強く受け、[[1866年]]の普墺戦争では入念な研究準備の下に、わずか七週間の戦争でオーストリアを屈服させた。
*プロイセン陸軍第8近衛歩兵連隊所属(1822年3月19日-1823年)<ref name="ゼークト(1943)184">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.184</ref>
*陸軍大学在学(1823年-1826年)<ref name="ゼークト(1943)184">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.184</ref>
*第5師団師団学校教官(1827年-1828年)<ref name="ゼークト(1943)186">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.186</ref>
*[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]陸地測量部勤務(1828年-1831年)<ref name="ゼークト(1943)186">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.186</ref>
*参謀本部付(1833年3月30日-)<ref name="ゼークト(1943)187">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.187</ref>
*トルコ駐在(1836年6月8日-1839年9月)<ref name="ゼークト(1943)189">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.189</ref>
*第4軍団参謀(1840年4月18日-1845年10月18日)<ref name="ゼークト(1943)194">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.194</ref>
*{{仮リンク|ハインリヒ・フォン・プロイセン (1781-1846)|label=ハインリヒ王子|de|Heinrich von Preußen (1781–1846)}}付副官(1845年10月18日-1846年7月12日)<ref name="ゼークト(1943)199-200">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.199-200</ref>
*第8軍団参謀(1846年12月24日-1848年5月16日)<ref name="ゼークト(1943)200">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.200</ref>
*参謀本部戦史課長(1848年5月16日-1848年8月22日)<ref name="大橋(1984)227">[[#大橋(1984)|大橋(1984)]]、p.227</ref><ref name="ゼークト(1943)201">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.201</ref>
*第4軍団参謀長(1848年8月22日-1855年9月1日)<ref name="ゼークト(1943)201">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.201</ref>
*[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ皇太子]]付副官(1855年9月1日-1858年10月29日)<ref name="ゼークト(1943)204">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.204</ref>
*[[プロイセン参謀本部|参謀総長]]代理(1857年10月29日-1858年9月18日)<ref name="ゼークト(1943)208">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.208</ref>
*参謀総長(1858年9月18日-1888年8月10日)<ref>[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.211/246</ref>
*[[北ドイツ連邦]]・[[ドイツ帝国]][[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]]議員(1867年4月-1891年4月24日)<ref name="ゼークト(1943)226">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.226</ref>
*プロイセン貴族院終身議員(1872年1月28日-1891年4月24日)<ref name="ゼークト(1943)242">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.242</ref>
*国防委員会委員長(1888年8月10日-?)<ref name="ゼークト(1943)246">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.246</ref>


=== デンマーク陸軍階級 ===
その後もプロイセン陸軍の充実に努める。[[1868年]]には甥の小モルトケが副官になっている。[[1869年]]に『[[高級指揮官に与える教令]]』を著した。[[1870年]]に普仏戦争が勃発。フランス皇帝[[ナポレオン3世]]をも捕虜とする[[セダンの戦い|セダンの大勝利]]により[[伯爵]]の称号を得、'''グラーフ・フォン・モルトケ'''となる。7月19日の対仏宣戦布告から四ヵ月後の[[1871年]]1月28日に[[パリ]]に入城し、戦争を終結させた。この戦勝によりドイツ各地の諸邦はプロイセンの主導する[[ドイツ帝国]]に統一された。
*[[1819年]][[1月1日]]、[[少尉]](Sekundløjtnant)<ref name="ゼークト(1943)184">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.184</ref>


=== プロイセン陸軍階級 ===
[[1888年]]、退役。1891年に[[ベルリン]]で死去した。
*[[1822年]][[3月19日]]、[[少尉]](Sekonde-Lieutenant)<ref name="ゼークト(1943)184">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.184</ref><ref name="Deutsche-Biographie">[http://www.deutsche-biographie.de/sfz64976.html Deutsche-Biographie]</ref>
*[[1833年]][[3月30日]]、[[中尉]](Premierlieutenant)<ref name="ゼークト(1943)187">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.187</ref><ref name="Deutsche-Biographie"/>
*[[1835年]][[3月30日]]、[[大尉]](Hauptmann)<ref name="ゼークト(1943)188">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.188</ref><ref name="Deutsche-Biographie"/><ref name="ミウルレル(1888)15">[[#ミウルレル(1888)|ミウルレル(1888)]] p.15</ref>
*[[1842年]][[4月12日]]、[[少佐]](Major)<ref name="片岡(2002)269">[[#片岡(2002)|片岡(2002)]] p.269</ref><ref name="ゼークト(1943)198">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.198</ref><ref name="Deutsche-Biographie"/>
*[[1850年]][[9月26日]]、[[中佐]](Oberstleutnant)<ref name="ゼークト(1943)203">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.203</ref><ref name="Deutsche-Biographie"/>
*[[1851年]][[12月2日]]、[[大佐]](Oberst)<ref name="ゼークト(1943)203">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.203</ref><ref name="Deutsche-Biographie"/>
*[[1856年]][[8月9日]]、[[少将]](Generalmajor)<ref name="ゼークト(1943)206">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.206</ref><ref name="Deutsche-Biographie"/>
*[[1859年]][[5月31日]]、[[中将]](Generalleutnant)<ref name="ゼークト(1943)212">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.212</ref><ref name="Deutsche-Biographie"/>
*[[1866年]][[6月8日]]、[[歩兵]][[大将]](General der Infanterie)<ref name="ゼークト(1943)216">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.216</ref><ref name="Deutsche-Biographie"/>
*[[1871年]][[6月16日]]、[[元帥 (ドイツ)|元帥]](Generalfeldmarschall)<ref name="ゼークト(1943)242">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.242</ref><ref name="Deutsche-Biographie"/>


== 業績 ==
=== 爵位 ===
*[[1870年]][[10月28日]]、[[伯爵]](Graf)<ref name="ゼークト(1943)241">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.241</ref><ref name="Deutsche-Biographie"/>
モルトケの戦史上の功績の一つは、当時の新技術である鉄道と電信を積極的に利用したことである。電信により迅速に命令伝達し、大部隊を鉄道で主戦場に輸送して、敵主力を包囲殲滅する戦術を確立したことにある(第二次世界大戦におけるヒトラー・ドイツの無線を利用した戦車間の命令伝達、戦車部隊と航空機との直接交信による陸空の混合攻撃[[電撃戦]]も、モルトケの影響の一つである)。これは[[中央集権]]組織の原型とされ、経営史上の功績の一つでもある。


== 逸話 ==
=== 勲章 ===
*[[プール・ル・メリット勲章]](1839年12月27日受章)<ref name="ゼークト(1943)194">[[#ゼークト(1943)|ゼークト(1943)]] p.194</ref>
*語学や文才に優れていた反面、寡黙な人物であった。
*{{仮リンク|黒鷲勲章|de|Schwarzer Adlerorden}}(1866年受章)<ref name="Deutsche-Biographie"/>
*[[保守]]的な[[思想]]の持ち主であったが、精悍な容貌と謙虚な性格、さらに数々の功績によって敵味方問わず広く尊敬を集めていたという。
*[[大鉄十字章]](1871年受章)<ref name="Deutsche-Biographie"/>
*普墺戦争における指揮に代表されるように、非常に優れた戦略的思考の持ち主であり、オスマン帝国の軍事顧問時代からその才能を発揮していた。
*ある時、実妹に対して「結婚は[[富籤]]だ。何を引き当てるか運次第だ。もし[[結婚]]するなら、お前の育てた娘を娶る」と言い放った。果たして42歳の時に彼は結婚するのだが、その[[伴侶]]は妹の義理の娘に当たる人物であった。彼と彼女の間には26歳の年齢差があったという。


== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|3}}</div>
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|エルンスト・エンゲルベルク|de|Ernst Engelberg}}|translator=[[野村美紀子]]|date=1996年(平成8年)|title=ビスマルク <small>生粋のプロイセン人・帝国創建の父</small>|publisher=[[海鳴社]]|isbn=978-4875251705|ref=エンゲルベルク(1996)}}
*モルトケ著、陸軍士官学校訳『毛奇将軍戦術問答(問題之部)(答解之部)』 [[偕行社]]、1901年。
*{{Cite book|和書|author=[[大橋武夫]]|date=1984年(昭和59年)|title=参謀総長モルトケ ドイツ参謀本部の完成者|publisher=[[マネジメント社]]|isbn=978-4837801382|ref=大橋(1984)}}
*モルトケ 『毛奇将軍遺稿 独仏戦史』 偕行社、1902年。
*{{Cite book|和書|author=[[片岡徹也]]編著|date=2002年(平成14年)|title=戦略論大系3 モルトケ|editor=戦略研究学会|publisher=[[芙蓉書房出版]]|isbn=978-4829503041|ref=片岡(2002)}}
*ミウルレル著、中島真雄訳 『独逸元勲 毛奇将軍全伝上篇』 兵林館、1888年。
*{{Cite book|和書|author=[[ヴァルター・ゲルリッツ]]|translator=[[守屋純]]|date=1998年(平成10年)|title=ドイツ参謀本部興亡史|publisher=[[学研]]|isbn=978-4054009813|ref=ゲルリッツ(1998)}}
*コフート著、紀成虎一訳 『将軍之半面 議論文章家としてのモルトケ伯』 [[民友社]]、1897年。
*[[ハンス・フォン・ゼークト|ゼークト]]斎藤栄治訳 『モルトケ』軍事文化叢書 [[岩波書店]] 1943
*{{Cite book|和書|author=[[ハンス・フォン・ゼークト]]|translator=[[斎藤栄治]]|date=1943年(昭和18年)|title=モルトケ|publisher=[[岩波書店]]|asin=B000JAPSRG|ref=ゼークト(1943)}}
*{{Cite book|和書|author=ミウルレル|translator=[[中島真雄]]|date=1888年(明治21年)|title=独逸元勲 毛奇将軍全伝上篇|publisher=[[兵林館]]|ref=ミウルレル(1888)}}
*ドイツ参謀本部著、外山卯三郎訳 『軍事学叢書 モルトケ作戦の準備と遂行』みたみ出版、1944
*{{Cite book|和書|author=[[三宅正樹]]、[[新谷卓]]、[[中島浩貴]]、[[石津朋之]]|date=2011年(平成23年)|title=ドイツ史と戦争 「軍事史」と「戦争史」|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4779116575|ref=三宅(2011)}}
*戦略研究学会・片岡徹也編著 『戦略論大系3 モルトケ』 芙蓉書房出版、2002年。
*{{Cite book|和書|author=[[望田幸男]]|date=1979年(昭和54年)|title=ドイツ統一戦争―ビスマルクとモルトケ|publisher=[[教育社]]|asin=B000J8DUZ0|ref=望田(1979)}}
*[[大橋武夫]] 『参謀総長モルトケ ドイツ参謀本部の完成者』マネジメント社 1984年
*[[渡部昇一]]ドイツ参謀本部』 [[中公新書]] 1974年
*{{Cite book|和書|author=[[渡部昇一]]|date=2009年(平成21年)|title=ドイツ参謀本部 その栄光と終焉|publisher=[[祥伝社新書]]|isbn=978-4396111687|ref=渡部(2009)}}
*{{Cite book|和書|date=1981年(昭和56年)|title=世界伝記大事典 世界編 11巻 ミーラロ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7VF4Y|ref=世界伝記大事典(1981,11)}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [http://www.archive.org/details/francogermanwaro00moltuoft ''The Franco-German War of 1870-71'' by Helmuth von Moltke at archive.org]
* [http://www.archive.org/details/francogermanwaro00moltuoft ''The Franco-German War of 1870-71'' by Helmuth von Moltke at archive.org]
*[http://www.archive.org/details/moltkestacticalp00moltrich ''Moltke's tactical problems from 1858-1882'' by Helmuth von Moltke at archive.org]
*[http://www.archive.org/details/moltkestacticalp00moltrich ''Moltke's tactical problems from 1858-1882'' by Helmuth von Moltke at archive.org]
{{先代次代|プロイセン陸軍参謀総長|1858年 - 1888年<br/>(代理:1857年 - 1858年)|{{仮リンク|カール・フォン・ライヘア|de|Karl von Reyher}}|[[アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー]]}}


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2012年8月19日 (日) 13:15時点における版

ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ
Helmuth Karl Bernhard von Moltke
渾名 大モルトケ[1]
近代ドイツ陸軍の父[2]
偉大なる沈黙者[2]
生誕 1800年10月26日
メクレンブルク=シュヴェリーン公国 パルヒム(de)
死没 (1891-04-24) 1891年4月24日(90歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国 ベルリン
所属組織 デンマーク陸軍
プロイセン陸軍 
軍歴 1819年 - 1822年(デンマーク軍)
1822年 - 1888年(プロイセン軍)
最終階級 少尉(デンマーク軍)
元帥(プロイセン軍)
署名
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ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ(伯爵)・フォン・モルトケHelmuth Karl Bernhard Graf von Moltke, 1800年10月26日 - 1891年4月24日) は、プロイセン及びドイツ軍人軍事学者

1858年から1888年にかけてプロイセン参謀総長を務め、対デンマーク戦争普墺戦争普仏戦争を勝利に導き、ドイツ統一に貢献した。近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。最終階級は元帥

甥にあたる第一次世界大戦時の参謀総長ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ)と区別して、大モルトケと呼ばれる。また明治時代の文献にはモルトケを「毛奇」と表記する物がある[3]

概要

ドイツ北東メクレンブルク=シュヴェリーン公国出身。父はメクレンブルク貴族でプロイセン王国の軍人だったが、後に退役してデンマーク王国同君連合にあったホルシュタイン公国へ移住し、デンマーク軍人になった。

モルトケもデンマークの幼年士官学校へ入学し、1818年にデンマーク軍少尉に任官したが、1822年にはプロイセン軍へ移籍した。プロイセン陸軍大学を出て参謀将校となった。1835年から1839年にかけては軍事顧問としてオスマン=トルコ帝国に派遣されている。その後、フリードリヒ王子(フリードリヒ3世)付きの副官を経て1858年プロイセン参謀本部の参謀総長に任じられた。当時の参謀本部の地位は低く、1863年の対デンマーク戦争前半戦では作戦指導に直接介入できない立場だったが、後半戦でようやく作戦介入ができる立場になった。この戦争の勝利で影響力を高め、1866年の普墺戦争と1870年普仏戦争では全面的な作戦指導を任された。

モルトケの戦略は「分散進撃・包囲・一斉攻撃」を特徴とし、敵戦力の撃滅を主張するクラウゼヴィッツの思想を受け継いでいる。それを可能とするために鉄道や電信など新技術の導入に積極的であった。その戦略のもと、普墺戦争と普仏戦争を勝利に導いた。とりわけフランス皇帝ナポレオン3世を捕虜としたセダンの戦いは高く評価され、この戦勝の恩賞で伯爵(Graf)の称号を与えられた。

普仏戦争の勝利によってドイツ各諸邦はプロイセンの主導するドイツ帝国に統一された。戦後はフランス共和国ロシア帝国に対する予防戦争を求め、二正面作戦の計画を立てていたが、1888年に高齢を理由に参謀総長を辞した。1891年にベルリンで死去した。

生涯

生誕

パルヒムのモルトケの生家。モルトケの伯父の家であった。

モルトケは1800年、ドイツ北東部のバルト海に面する国メクレンブルク=シュヴェリーン公国パルヒムドイツ語版で生まれた[4][5][6]

父はプロイセン軍退役中尉フリードリヒ・フィリップ・ヴィクトール・フォン・モルトケ(Friedrich Philipp Victor von Moltke)。母はその妻ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓パシェン(Paschen))[7][4][8]。モルトケは8人兄弟の三男であった[9]

父のモルトケ家ドイツ語版はメクレンブルクに古くから続く貴族の末裔である[10]。メクレンブルクのシュヴェーリン教区の1246年の記録にマティウス・モルトケという騎士の存在が確認できる[4]。家の歴史こそ古いがモルトケが生まれた頃にはモルトケ家はすでに没落していた[1]

父は岳父の薦めで軍を退役して農場経営をはじめたものの失敗し、モルトケが生まれた頃にはパルヒムにある兄ヘルムート(モルトケの伯父)の家に居候していた[9][5]。モルトケはこの伯父の家で生まれ、伯父の名前をとって「ヘルムート」と名付けられた[5][8]

一方母のパシェン家はリューベックの裕福な商家であった[4][5]。父はパッとしない人物だったが、母は美しく聡明な人で数ヶ国語を話し、文学と音楽に造詣が深かった。そのためモルトケの才能は母親譲りではないかと言われる[9][5]

幼年期

1806年に父は北ドイツ・ホルシュタイン公国の騎士領アウグステンホーフ(augustenhof)の農場を購入したが、同国はデンマーク王同君連合下にあり、同国の地主になるにはデンマーク臣民になる必要があったため、1806年にモルトケ家はデンマーク国籍を取得している[9]。しかしホルシュタインの屋敷は立て直さければならないほどの状態だったので夫婦は別居することになり、母とモルトケら子供たちは1805年から1807年までリューベックの母の実家で暮らした[11][12][13]

1806年11月7日にリューベックはナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍とプロイセン軍の戦場となり、モルトケの自宅もフランス兵の略奪を受けたため、一家は困窮した生活を余儀なくされた[14][1][15]。この後、父のアウグステンホーフの農場へ引っ越し、再び一家で暮らすようになったが[12][16]、父の農場経営はうまくいっていなかった。そのため父はデンマーク臣民になった際に入隊したデンマーク軍で勤務するようになった(中将まで昇進している)[17]

モルトケは二人の兄とともに牧師から教育を受けて育った[18][12]

デンマーク軍

モルトケは考古学者になりたかったというが、貧しい家計がそれを許さず、1811年に次兄とともにデンマーク首都コペンハーゲンにあったデンマーク王立陸軍幼年学校に入学した[18][19][12][20]

学友によると幼年学校時代のモルトケは「ふさふさした金髪と気立てのいい碧眼が特徴的で、物静かだったが、人を迎える時は愛想よく迎えた。勤務と勉学への取り組みは士官候補生としては他に例がないほど真面目・着実だった。学友からも信頼を勝ち得ていた。控えめで誠実な風貌だったが、時に憂鬱の翳が表情をかすめた」という[21][22][23]

ただモルトケは繊細で身体が弱かったのでスパルタ教育は苦手であり[1]、後年この幼年学校について「あまりに厳格すぎた」「しごきばかりだった」と否定的に語っている[18][22][19]

また幼年学校時代のモルトケは戦術と兵術の教科が苦手であり、学校側は「この候補生が軍人になることは考えられない」と評価したという[23]。国家から給金を受けている寄宿生の候補生は義務としてデンマーク王に近侍として仕えねばならず[23][24][25]、モルトケも1818年の近侍試験に第1位の成績で合格し、1819年1月まで任にあたった[26]

1819年1月に第4位の成績で士官学校を卒業し[23]、デンマーク軍少尉となり、オルデンブルクドイツ語版の歩兵連隊に勤務した[26][27]

プロイセン軍へ移籍

デンマークはナポレオンと同盟していたため、ナポレオン敗退とともにノルウェーを失うなど厳しい立場に追い込まれた。将校数も過剰になり、モルトケが出世できる見込みは薄くなった[14][28]。また1821年にプロイセン首都ベルリンを訪問したモルトケは、ナポレオンに勝利したプロイセン軍に憧れを持つようになったという[26][29]

プロイセン軍の方が未来があると考えたモルトケは1822年1月にデンマーク軍を辞めてプロイセン軍の士官採用試験を受験した。良好な成績を収めたため、3月からフランクフルト・アン・デア・オーダーの近衛歩兵第8連隊に少尉として配属された[30][27][31]。モルトケの父はもともとプロイセン軍人であったし、元デンマーク軍人という経歴は特に問題とはならなかったようである。むしろデンマーク語やデンマーク軍の情報に通じた将校として期待を受けていた[32]。王弟ヴィルヘルム王子(後のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)は閲兵式で初めてモルトケを見た時に「このデンマーク人はまずまずの拾い物だな」と述べたという[32][33]

陸軍大学

1823年10月にベルリンのプロイセン陸軍大学に入学した[31][32][34][35]

当時の陸軍大学校長は『戦争論』の著者として知られるカール・フォン・クラウゼヴィッツ少将であったが、クラウゼヴィッツから直接に教えを受ける機会はなかった[32][36]

陸軍大学でのモルトケは軍事専門書には最小限の時間しか割かず、語学や文学、地理の勉強に没頭した[37]。文学ではドイツ文学の他、ウォルター・スコットバイロンディケンズなどイギリス文学を愛好した[38]。地理ではカール・リッターアレクサンダー・フォン・フンボルトから強い影響を受けた[38]。モルトケが入学していたころの陸軍大学は後世に比べて一般教養科目が多かったため、こうした勉強スタイルが可能となった。この経験は教養人の面と軍事専門家の面の調和というモルトケの人格を形成する基礎となった[39]

学業は「極めて優良」、指揮能力は「申し分なし」という成績を残して1826年に陸軍大学を卒業し原隊に復帰した[35][40]

文芸活動

1827年にはフランクフルト・アン・デア・オーダーの第5師団の師団学校(Divisionsschule)の測量と製図の教官となる[38][40][41][42]

しかし少尉時代は相変わらず貧しい生活を余儀なくされ、この頃のモルトケはアルバイトで物書きをしていた。多数の論文のほか、1827年には短編小説『二人の友人』を出版している。1832年には馬を買う資金を集めるために75ポンドで『ローマ帝国衰亡史』を全12巻でドイツ語翻訳することを請け負い、9巻まで翻訳したが、出版社によって計画が中止されたためモルトケは25ポンドしか得られなかったという[34][43]

このような活発な文芸活動にもかかわらず、モルトケは当時の社会思潮にはほとんど興味を示さなかった[43]

参謀本部へ

地図製作に関する著作が評価されて、1828年5月から1832年まで参謀本部陸地測量部に所属し、シュレージエンポーゼンの地図の作製にあたった[40][44]18世紀後半から地図の技術は急速に進歩し、また19世紀の戦争は戦域拡大の傾向があったため、地図の重要性が一層増していた。プロイセンは地図後進国であったので、地図に力を入れている時期であった[45]

1832年3月に参謀本部第二課へ人事異動となり、フリードリヒ大王の戦史の編纂にあたった[46]。1833年に中尉に昇進。1833年から1835年にかけてマイン河畔北イタリア、デンマーク、ラウジッツウィーンコンスタンティノープルなどに出張旅行に出た[47]。1835年1月には聖ヨハネ騎士団に加入している[48][49]

3月に大尉に昇進し、『デンマーク陸海軍について』の論文で国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世から称賛された[48][49]

トルコ軍の軍事顧問となる

モルトケを軍事教官にして軍の近代化を行おうとしたオスマン・トルコ帝国皇帝(スルタン)マフムト2世

1835年11月のコンスタンティノープルへの旅行でオスマン=トルコ帝国陸軍大臣モハメット・コスレフ・パシャに才能を買われた。モハメットはプロイセン政府と交渉してモルトケを自らの軍事顧問とした[48][50][51]

当時のトルコは近代化に遅れてロシアやイギリスに圧迫され、国内では内乱が多発し、ロシア皇帝(ツァーリ)ニコライ1世から「死にかけの病人」と呼ばれるような状態であった[52]。トルコ皇帝(スルタン)マフムト2世はトルコ軍の近代化を企図し、フリードリヒ大王以来世界最優秀の陸軍国家と目されていたプロイセンに着目した。1836年1月にマフムト2世は正式にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に対してプロイセン軍の将校や下士官を軍事教官としてトルコ軍に派遣してくれるよう依頼した[53]。同地に滞在しているモルトケが早速トルコ駐在を命じられ、トルコ軍の教育と編成にあたることとなった[53][54][50]。イギリスやフランスの軍人も教官として招聘されていたが、スルタンはモルトケの方が優秀と判断してプロイセン流の近代化を行う事を最終的に決断した[54][55]。だが結局この時のモルトケの派遣でトルコ陸軍が根本的な変革を遂げることはなかった[56]

1837年4月から6月にかけてスルタンに随伴して当時トルコ領だったブルガリアルメリアなどバルカン半島南部を視察した[53][57][58]。モルトケはトルコの民族衣装を着て随伴したが、スルタンの視察旅行が大げさなことにカルチャーギャップを受けたという[55][53][59]

エジプト・トルコ戦争

1838年3月にトロス軍司令官ハーフィツ・パシャの補佐官に任じられ、チグリスユーフラテス川流域に滞在した[60][55][61]。この軍はクルド人の反乱鎮圧を名目に組織されていたが、実際にはエジプト独立を狙うオスマン帝国属州エジプト総督ムハンマド・アリーに備えた軍であった[60]。モルトケはハーフィツの命令でエジプトとの戦争に備えてシリア国境の測量にあたった[62][63]

1839年春にスルタンはムハンマド・アリーを征伐することを決定し、ハーフィツの軍をシリアへ進ませた(エジプト・トルコ戦争[64]。ヨーロッパ諸国の干渉のみがトルコの崩壊とエジプトの独立を防ぐという現実を受け入れずにスルタンがヨーロッパ諸国に独断で起こした戦争であった[65]。モルトケはイブラーヒーム・パシャ率いるエジプト軍がコンスタンティノープルに直進すると考え、その側面を突くことができる位置であるユーフラテス川に囲まれたビラディックに全兵力を集中させることを提案した。ここは川に囲まれて退路がないが、士気の低いトルコ軍の場合は背水の陣で戦った方が有利と考えられた(退路があると脱走兵が多く出るので)[66][67]

しかし司令官ハーフィツ・パシャはモルトケの言葉よりイスラム聖職者の言葉を信じ、ニジブに陣を構えた[66][68]。エジプト軍が三軍に分かれたのを見てモルトケはエジプト軍が包囲行動を起こそうとしているとしてビラディックへの撤退を具申したが、ハーフィツは「退却は恥辱」とするイスラム聖職者たちの言葉を容れてそれを却下した。あきれ果てたモルトケはハーフィツに「明日の日暮れ頃には貴方は軍隊を失った司令官の境遇を思い知ることになるでしょう」と嫌味を述べたという[69]

そしてモルトケの予想通りニジプの戦いにおいてトルコ軍はエジプト軍に散々に敗れた。あげくハーフィツは死傷兵たちを見捨てて逃げだし、嫌々トルコ軍に従軍していたクルド人たちは、自分たちの上官を殺害して勝手に故郷へ帰っていくという惨状となった[70][71][72]。トルコ軍のあまりの潰走ぶりにモルトケも食糧や馬を放棄して命からがらで脱出した[69]

プロイセンへ帰国

モルトケはすっかりトルコ軍に幻滅し、8月5日にコンスタンティノープルに戻り、陸軍大臣モハメット・コスレフ・パシャに敗戦報告をし、崩御したマフムト2世の墓参りをした後、プロイセンへと帰国した。ベルリンでプール・ル・メリット勲章の授与を受けた[73][74]

しかしモルトケにとってこの敗戦は重要な経験となった。モルトケが帰国した頃、プロイセン参謀本部ではアントワーヌ=アンリ・ジョミニの「不変の原則」の戦略理論を信奉する者が増え、その教条主義化が進んでいたが、モルトケはガチガチの軍事理論はオスマン軍におけるハーフィツやイスラム聖職者のような無能者の存在、あるいは別の齟齬によってすぐに破綻してしまうと考えて「不変の原則」に冷やかだった[75]

帰国後にトルコ関連の本を多数出版しており、1841年に『トルコ書簡』(トルコから家族へ送った手紙集)を編纂、また同年『トルコの内部崩壊とその後の政治形態』を著した。1844年には『1828~29年のロシア・トルコ戦争史』を著している[76]

ベルリン・ハンブルク鉄道理事

帰国後、ただちに参謀本部に復帰した。1840年4月にカール王子が軍団長を務めるベルリン第4軍団の参謀に就任した。カール王子の紹介で宮廷にも顔を出すようになった[73][77][78]

1841年にモルトケにベルリン・ハンブルク間の鉄道の理事への就任要請が来た。モルトケはそれまで鉄道にはまったくの門外漢だった。この任命は恐らくメクレンブルク公国とデンマークとの鉄道通過交渉においてモルトケの出自が期待されたものと思われる[79]。モルトケはこの要請を受け入れて1844年まで鉄道理事を務めた[79]。これにより鉄道に関する知識を身に付け、鉄道に関する論文を多数著した[80][81]

鉄道の出現で軍隊と戦争のあり方は一変することになる。鉄道は特別な行軍練習をしていない予備役も大量に戦場へ移送することを可能としたため、常備軍は実戦力ではなく、戦時編成の際の中核及び戦時動員された予備役の訓練機関と化した。鉄道は補給能力を大きく上昇させ、後方から兵員と補給が絶え間なく送られてくるために国力が続く限りいつまでも戦えるようになった。つまり「総力戦」への道が開かれた[82]。しかしこれは未来の話であり、この当時においては鉄道のスピードは遅く、積載量も少なく、線路や信号など鉄道インフラも不十分であったので、鉄道を使っての移送は費用対効果から考えて微妙と考えるのが一般的だった。だが鉄道の可能性を信じる将校たちの輪は少しずつ広がっていき、モルトケもその一人であった[83]。一般に鉄道の出現で攻撃的な戦争は難しくなると言われたが、モルトケの発想はその逆であり、敵の態勢が整う前に大量の兵力を鉄道で迅速に集結・展開させられるので攻撃的戦争をしやすくなると考えていた[84]

結婚

1842年4月に少佐に昇進[85][86]。同年、義理の姪にあたるマリー・ブルト(Mary Burt)[注釈 1]と結婚した。当時モルトケは42歳、マリーは16歳であった[77]。マリーはモルトケが妹(マリーにとっては義母)に宛てて律儀に送ってくる手紙に感銘を受けて、26歳もの年の差がありながら結婚した[88]

モルトケが無口だったこともあって夫婦喧嘩もなく、夫婦仲は円満だった。夕方に二人で聖書を読むのが習慣だった。ただ子供には恵まれなかった[77]

ハインリヒ王子付き侍従武官

1845年にローマで病気療養中のハインリヒ王子ドイツ語版(国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の叔父)付の侍従武官に任じられた[89][90]

当時のイタリアはイタリア統一運動とフランスとオーストリアの争いにより不穏になっていたが、モルトケは各国の動向についてベルリンに報告書を書いている。またこれを機にローマの測量を行っている[91][92]

1846年7月に王子が薨去するとその遺骸はスペインフランスを経由してベルリンへ運ばれることとなり、モルトケがその警護を任せられた[80]。しかし船に弱いモルトケは道中の船上で船酔いしたため船長に途中下船させられ、陸路で先にハンブルクへ向かい、船の到着を待ったという[91]

1848年革命をめぐって

1846年12月にコブレンツの第8軍団に参謀として配属されたのを経て[93]、1848年3月に参謀総長カール・フォン・ライヘアドイツ語版中将に見出されて参謀本部戦史課長に就任した[94]。同じころ1848年革命でベルリンが混乱していたため、妻をホルシュタインへ逃した[95]。モルトケは革命の精神のうち、ドイツ統一には関心を持っていたが、民主主義的な要素は嫌っていた[96]

1848年革命によってドイツ・ナショナリズムが高まる中、デンマークとの間に第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が発生した。モルトケは自由主義的・民主主義的・ナショナリズム的なこの戦争を批判的に捉えていたが、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題には並々ならぬ関心を寄せていた。モルトケ自身かつてデンマーク軍の将校であり、彼の兄弟たちはいまだデンマーク軍に勤務しており、家族はホルシュタインで暮らしていたためである[97]。モルトケは15年もの歳月を費やしてデンマーク戦争に関する論文を書き上げている[98][99]マルメにおける休戦協定後に弟アドルフが共同政府に参加し、モルトケにもドイツ人部隊指揮官への就任要請が来たが、断っている[97][100]

1848年8月に第4軍団参謀長となる。第4軍団は1849年にバーデン大公国における革命の鎮圧に出動しているが、モルトケ自身は戦闘には参加しなかった[95][101]

参謀総長ライヘアから絶大な信任を得、1848年革命鎮圧後の反動期には動員計画の研究を任されている[102][103]。1850年9月に中佐、1851年12月に大佐に昇進した[104]。1854年の軍事演習ではライヘアが病床にあったため、代わってモルトケが引率した[102][103][100]

フリードリヒ王子付き侍従武官

1855年時のフリードリヒ王子

1855年9月1日、当時24歳だった国王の甥フリードリヒ王子(後のドイツ皇帝フリードリヒ3世)付きの侍従武官となった[103][105][100][93]。この人事はモルトケ自らが希望した物ではなく(彼自身は連隊長か旅団長になりたがっていた)、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の特別な信任によるものであったという[103][106]

就任後すぐにフリードリヒ王子に随伴してイギリスを訪問した。この際にフリードリヒ王子はイギリス女王ヴィクトリア王長女ヴィクトリアと婚約した[107]

1856年8月に少将に昇進。8月から9月にかけてフリードリヒ王子に随伴してロシア皇帝アレクサンドル2世の戴冠式に参加した[108][109][110]。この時に妻に宛てて書いたデンマーク語の手紙を『ロシア書簡』として編纂してデンマークの新聞に掲載した(後にドイツ語翻訳される)[109][111]

1856年11月、フリードリヒ王子が婚約者ヴィクトリアの誕生日祝いのために訪英した際にモルトケはカレーで王子の帰国を出迎えたが、その際にパリでフランス皇帝ナポレオン3世に賓客として迎えられた[108][111]。しかしモルトケは「ナポレオン」という名前そのものに嫌悪感を持っており[98]、ナポレオン3世個人についても「稀代の詐欺師」と呼んでいい印象はもっていなかった[108]。この謁見の際にもナポレオン3世について「眼が死んでいる」と妻の手紙の中で評している[108]

またこの際にフランス軍を視察しているが、フランス兵が銃床を強く地面に打ち付けているのを銃の精度を落とすと批判的に見ていたという[111][112][113]。すでに侍従武官の任を解かれ、参謀総長代理の職位にあった1858年1月にもフリードリヒ王子のヴィクトリアとの結婚のためイギリスを訪問している[114][115]

こうしたヨーロッパ各国の歴訪により当時の軍人としては稀な地理的見聞を持つに至った[92]

参謀総長就任

1857年に参謀総長ライヘアが死去し、当時の軍の実力者だった「国王個人業務局」(軍事内局)局長エドヴィン・フォン・マントイフェル少将が摂政ヴィルヘルム王子(後のヴィルヘルム1世。精神病になった兄王に代わり摂政となっていた)にモルトケを後任の参謀総長として推薦したが、モルトケはいまだ少将であること、また国王の精神病が回復する可能性もあったことから1857年10月29日にひとまず参謀総長代行に任じられた[116][117][118]

1858年9月18日に正式に参謀総長に任じられた[117][102]。時に57歳。モルトケはこの時より31年にわたって参謀総長に在職し続けることになる[117]

当時のプロイセン軍では軍事内局が国王側近の立場を盾に陸軍大臣を凌いで巨大な権限を有しており、陸軍大臣隷下の参謀本部は日蔭の存在と化していた。しかしモルトケにはマントイフェルのように権力を拡大させようなどという意思はなく、黙々と職務をこなした[119][120]

就任後モルトケは参謀本部の機構改革を行い、担当区域ごとに3つの部門(ロシアやオーストリアなどを担当する東方課、フランスなどを担当する西方課、オーストリア以外のドイツ諸国を担当するドイツ課)を創設するとともに、鉄道課を新設した[121][122]

鉄道と電信の活用

モルトケは新設した鉄道課に鉄道の軍事利用について商工省と交渉にあたらせ、またモルトケ自身も陸軍大臣にプロイセン西方に一軍団ごとに鉄道を複線で設置するよう要求した[123]。また動員の通知は電信を利用することとし、これにより動員準備の時間を大幅に短縮させた[124]

この時代すでにプロイセンの商工業は著しい飛躍を遂げていた。モルトケはこれだけ鉄道網や電信が整備された時代ならばナポレオン時代の戦略はすでに時代遅れになっていると考えていた。ナポレオン時代は道路網と電信が貧弱だったため、ナポレオンは主戦場に戦力を集中させたが、それに対してモルトケは鉄道を使える現在ならもっと軍を広く分散して進撃させられると考えた[125][126]。またアントワーヌ=アンリ・ジョミニの内線(敵に包囲される位置)有利論に対しても鉄道と電信が整備されている時代ならば外線(包囲側)が有利であると考えていた[124][127][128]

イタリア統一戦争

1859年4月、フランス帝国サルデーニャ王国オーストリア帝国と開戦し、イタリア統一戦争が勃発した。

この頃駐ロシア大使をしていたオットー・フォン・ビスマルクドイツ連邦の覇権をめぐるオーストリアとの対立関係から反オーストリア的中立を訴えていたのに対して、モルトケはオーストリアとの対立をそれほど深刻には考えておらず、オーストリア側で参戦することを希望していた[129]。この頃のモルトケの覚書には「プロイセンとオーストリアが協力関係にある限りフランスはドイツへ侵攻してくることはできない」と書かれている[130][129]

摂政ヴィルヘルム王子は、この戦争に対してはじめ曖昧な態度をとっていたが、6月24日のソルフェリーノの戦いにオーストリアが敗戦するとプロイセン軍全軍に動員を命じ、フランスを牽制した。フランス皇帝ナポレオン3世はこれを警戒し、7月8日に敗戦国に対する物としては比較的寛大な条件でオーストリアとの間に休戦協定を結んでいる[129]

この戦争はモルトケにとって鉄道を利用した近代戦争の良い研究対象となった[131][132]。フランス軍、オーストリア軍ともに鉄道を利用して大軍団を投入していたが、大軍団は命令が伝達されにくく、両軍とも命令を待って無駄に停止している部隊が多いことに注目した。プロイセン軍の将校は命令がなくても砲火の方へ進軍するよう教育を受けているので、ここまでのことにはならないとしても、不安要素と考えたモルトケは日頃から「補給と進撃の分散と戦闘時の集結」の考えを指揮官たちに徹底させたうえで、指揮官の自主性・独断を尊重する気風作りを目指すようになった[133]

またこの戦争において火力はオーストリア軍の方が優れていたにも関わらず、フランス軍の銃剣突撃がオーストリア軍に大打撃を与え、最終的にはフランスが勝利した。この結果に衝撃を受けたオーストリアは、白兵戦を再評価するようになっていくが、一方モルトケは白兵戦が強かったのではなく、オーストリア軍が撃つのが早すぎる散漫な射撃を行ったことがオーストリアの敗因と分析し、射撃の命令系統の強化がこの戦争の教訓と考えた[134]

こうしたモルトケのイタリア統一戦争研究の成果は1862年に参謀本部戦史部が『1859年のイタリア戦争』として刊行した[135][136]

この戦争中の1859年5月に中将に昇進した[137][129]

軍制改革

宰相ビスマルク(左)、陸相ローン(中央)、参謀総長モルトケ(右)。1860年代。

摂政ヴィルヘルム王子による軍制改革はプロイセン軍の軍備増強をもたらした[138]

ヴィルヘルム王子は軍制改革は、プロイセンの人口の増加[注釈 2]に合わせて徴兵数を増やし、2年に減じられている兵役を3年に戻し[139]、歩兵39個連隊と騎兵10個連隊を増設し[122]、逆に民主主義的な要素が強い国土防衛軍ドイツ語版を縮小することを目指した[140]。またモルトケ提案の野砲部隊強化案も盛り込まれていた[122]

ヴィルヘルム王子は1859年12月に国土防衛軍に好意的なグスタフ・フォン・ボーニンドイツ語版陸相を辞職させ、アルブレヒト・フォン・ローン大将を後任の陸軍大臣に任じた[141]。しかしヴィルヘルム王子がヴィルヘルム1世として国王に即位した後の1861年に行われた下院総選挙で自由主義左派政党ドイツ進歩党がプロイセン下院の多数派となり、軍隊に対する王権の強化を阻止するためヴィルヘルム1世の軍制改革予算案に反対するようになった[142]。ヴィルヘルム1世はこれを統帥権干犯と看做して怒りを隠さなかった[143]。この情勢に対して軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェルは議会に対するクーデタを主張していたが、陸相ローンはクーデタには反対だった[144]。一方モルトケはこの対立に巻き込まれないよう、参謀本部を軍制改革をめぐる論争から隔離することに努めた[145]

結局ヴィルヘルム1世とローンは対議会の秘密兵器としてオットー・フォン・ビスマルクを宰相に任じた。ビスマルクは就任するや鉄血演説を行って進歩党のナショナリズムを煽って軍制改革を支持させようとしたが、それが失敗したと見ると5年にわたってほとんど議会を召集せず、無予算統治を開始して軍制改革を断行した[142][143][146]

ここにビスマルク、ローン、モルトケというドイツ統一の中心人物となる3人が出そろった[147]

対デンマーク戦争

ビスマルクの無予算統治により憲法闘争が巻き起こる中、ビスマルクは国内をまとめるためにも小ドイツ主義統一へ急速に動き出した。デンマーク王クリスチャン9世ロンドン議定書に違反して同君連合下にある北ドイツの邦国シュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国ラウエンブルク公国のうちデンマーク系住民が比較的多く、ドイツ連邦に加盟していないシュレースヴィヒ公国をデンマークに併合しようとしたことでドイツ中でドイツ・ナショナリズムが激昂した。ビスマルクは内心では三公国のプロイセンへの併合を企みつつ、「デンマークにロンドン議定書を守らせる」という大義名分を掲げて列強(ロンドン議定書に署名しているのでそれを否定できない)の介入を阻止しながらオーストリアと同盟して対デンマーク戦争を開始した[148][149]。1864年2月1日からフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥を総司令官とするプロイセン軍、オーストリア軍の連合軍がシュレースヴィヒへ進撃した[150]

モルトケにとってはかつての祖国との戦いであり(兄たちは今もデンマーク官吏だった)、複雑な思いでいたが、参謀総長の役職は割り切って務めていたという[151]

モルトケは以前より対デンマーク戦について「デンマーク軍がシュレースヴィヒ国境付近に主力を投入してきたら、そこで包囲撃滅するが、デュッペルデンマーク語版などの要塞に籠城した場合はユトランド州(デンマーク領)の侵攻に乗り出す。」という戦略を立てていた[152]。しかしビスマルクは列強の介入とオーストリアの離脱を恐れてロンドン議定書違反となるデンマーク領への侵攻には反対し、結果ヴランゲル元帥にはデンマーク軍をデュッペル要塞に撤退させず撃滅するようにとの訓令が出されることになった[150]。対デンマーク戦争緒戦時点でのモルトケの作戦への影響力はこの程度だった。彼はベルリンに留め置かれており、軍事情報も満足に届けられなかった[153][154]。現場司令官のヴランゲル元帥に至っては「参謀本部など不要である。そんなもののために軍務が複雑になっているのはプロイセン軍の恥である」と公言しているような状態だった[154]

しかし結局ヴランゲル元帥率いるプロイセン軍は包囲撃滅に失敗して3万8000人ものデンマーク軍がデュッペル要塞に籠城するのを許してしまった。ビスマルクはドイツ諸国の世論を配慮して明確な勝利が必要としてデュッペル要塞攻撃を主張したが、モルトケは犠牲が出過ぎるとしてデュッペル要塞攻撃に反対した[155][156]。しかしヴィルヘルム1世の直裁によりデュッペル要塞攻撃が決定し、この時もモルトケの意見は退けられる形となった[157]。1864年4月18日、プロイセン軍は1000人以上の犠牲を出しながらも同要塞を攻略した[158]。しかしデンマーク軍主力はアルス島への撤退に成功している[142]

一方オーストリア軍とプロイセン近衛師団は「戦闘はシュレースヴィヒの中のみ」という原則を無視して2月17日にデンマーク領ユトランド州へ侵入した。これが追認される形で3月8日からオーストリア軍とプロイセン近衛師団によるユトランド州侵攻が開始された。5月までにはユトランド半島ほぼ全域を占領した[159]。しかしデンマーク領への侵攻はロンドン議定書違反になるため、これによってイギリスが介入し、5月12日に一時休戦してロンドン会議が開かれるも、プロイセン・オーストリア側の「シュレースヴィヒとホルシュタインの割譲」の要求をデンマークが認めず、イギリスも参戦を望まなかったので強い力を発揮できず、交渉は決裂して6月26日に戦争が再開された[160]

その間、総司令官ヴランゲル元帥とその参謀長エドゥアルト・フォーゲル・フォン・ファルケンシュタインドイツ語版将軍の指揮について軍事内局局長マントイフェルら軍有力者から疑問が呈されていた。1864年5月にヴランゲル元帥に代わってヴィルヘルム1世の甥であるフリードリヒ・カール王子が総司令官に任じられ、またファルケンシュタインに代わってモルトケが総司令官参謀長に就任することとなった[161][162][163][164]。この人事によってようやくモルトケが作戦指導に参画できるようになった[157]

モルトケはデンマーク軍主力が待ち受けるアルス島への上陸作戦を決行することとした。戦闘が再開された後の6月29日に手薄な島の北方から上陸させてデンマーク軍主力が籠城するセナボー陣地を側面から攻撃して陥落させた。7月1日までにはアルス島全域を占領し、プロイセン軍はいよいよ首都コペンハーゲンがあるシェラン島上陸を窺うようになった[165]

戦意を喪失したデンマーク王クリスチャン9世はプロイセン・オーストリア両国に講和を申し入れ、1864年10月にウィーンで結ばれた講和条約によって、シュレースヴィヒ公国、ホルシュタイン公国、ラウエンブルク公国の三公国を両国に譲渡した[166]

この戦勝でモルトケの地位も強化されたが、彼はすでに64歳になっていた[167]。モルトケはヴランゲル元帥があまり良い指揮を見せられなかったのは80歳という高齢のせいだと考えていたため、自分も後進に道を譲ろうと考え、この戦勝を機に退役願いを出したが、モルトケを高く評価したヴィルヘルム1世によって却下された[168][167]

一方権勢を増すビスマルクとローンは、軍の最大実力者である軍事内局局長マントイフェルとの対立をいよいよ深めていった。マントイフェルは相変わらず議会に対するクーデタを主張し、また反革命の立場から親オーストリアを主張し、オーストリアとの対決を決意していたビスマルクと敵対した[169]。1865年6月、ビスマルクらの強い要求に折れたヴィルヘルム1世はマントイフェルをシュレースヴィヒ総督に「栄転」させて中央から追放した[170]

後任の軍事内局局長ヘルマン・フォン・トレスコウドイツ語版将軍は軍事に関係する御前会議にモルトケも出席させるようヴィルヘルム1世に働きかけて認められた[168]

対オーストリア戦の準備

歩兵大将の頃のヘルムート・フォン・モルトケ

シュレースヴィヒとホルシュタインをめぐってプロイセンとオーストリアの対立が深まると、モルトケはオーストリアとの戦争は不可避と考えるようになった。一方ビスマルクは不可避とは考えていなかったが、国内外に有利な状況を作る手っ取り早い方法としてオーストリアとの戦争を志向した[171]。こうして1866年2月のプロイセン御前会議は戦争の危険があってもこの問題で譲歩してはならないことが確認された[172]

モルトケはすでに1860年頃から対オーストリア作戦を策定していた。その時は守勢作戦だったが、軍制改革が進み、兵力が増強されたこと、またビスマルクの外交手腕でイタリアを同盟国に引き込み、またフランスとロシアの好意的中立が確保されたことにより攻勢的作戦に修正していった[173][174][175]

ビスマルクはナポレオン3世率いるフランスの動向を気にして一個軍団をライン川に残すことを主張したが、モルトケはベーメンに集結するであろうオーストリア軍主力の撃滅を優先すべきであることをヴィルヘルム1世に進言して認められた[176][177][178]。一方モルトケは南ドイツ諸国に対する二個軍団もベーメン方面へ投入したかったが、これはビスマルクの反対で退けられた[179]

モルトケはオーストリアより充実していたプロイセンの鉄道網を利用して、これまでの軍事学の常識を覆す「分散進撃して攻撃時のみ集中」させる作戦計画を立てた[180][181]。ザクセンからニーダーシュレージエンにいたる300キロの弧状にプロイセン軍の全兵力の7分の6にあたる三軍(エルベ軍、第1軍、第2軍)を配置し、それぞれの位置からベーメンのオーストリア軍へ向けて進撃させて決戦場で合流させる計画だった[180][182]。ベーメンへ通じる鉄道はプロイセン側は5本、オーストリア側は1本であり、モルトケは優位を確信していた[182]

補給の組織化のため、トレスコウ将軍の推挙でヴィルヘルム1世は6月2日の勅令をもって今後国王の勅命は参謀総長をもって伝達するものと定めた。これによりモルトケは戦時中においては陸軍大臣に図らずとも全軍に命令を下せるようになった[183][184][185]。6月8日付けで歩兵大将に昇進した[172]

普墺戦争

6月16日にモルトケはエルベ軍をザクセン王国へ侵攻させた。ザクセン軍は戦闘を避けて撤退し、ベーメンのオーストリア軍に合流した[186]。一方モルトケはザクセンにエルベ軍、シュレージエンに第一軍と第二軍を配置につけ、エルベ軍、第一軍、第二軍の三軍全部でもってベーメンのギッチンへ向けて進軍させた。指揮官たちの中にはナポレオン時代の観念に囚われて「分散進撃は各個撃破を受ける恐れがあり危険である。まずシュレージエンで全軍の合流を」と主張する者も多かったが、モルトケは「鉄道と電信が発展した現在ではその心配はない」とヴィルヘルム1世に進言して作戦を続行させた[187]

7月1日にオーストリア軍主力がケーニヒグレーツに集結しているとの報告を受けたモルトケは、オーストリア軍包囲の好機とみた[188]。7月3日モルトケはケーニヒグレーツから最も遠い距離にいる第二軍(泥道に足を取られていた)に敵の右側面から攻撃するよう指示しつつ、勝機を逃さないため、第二軍やエルベ軍の到着を待たずに、敵との距離が最も近かった第1軍にオーストリア軍に攻撃をかけさせた。緒戦は第1軍単独で戦う羽目となったため、プロイセン軍に不利な情勢だった[189]

続々とやってくる前線部隊の救援要請の伝令に対してもモルトケは冷静であり、作戦を変更しようとはしなかった。この時、心配になった宰相ビスマルクが葉巻をモルトケに勧め、それに対してモルトケは目の前に出された葉巻入れの中の葉巻を見比べて高級な葉巻を静かにとり、これを見たビスマルクは「作戦立案者がこれだけ落ち着いているであれば大丈夫であろう」と安堵したという逸話がある[190]

やがてエルベ軍とフリードリヒ皇太子率いる第二軍が到着して右側面から攻勢をかけたことで形勢は逆転し、オーストリア軍は総崩れとなった(ケーニヒグレーツの戦い[181][191][192][193]。モルトケは第二軍にエルベ川左岸から攻撃をかけさせてエルベ軍の攻撃と対応してオーストリア軍を包囲しようとしたが、まだこの頃のモルトケの権威は微妙なものだったので[注釈 3]、指揮官たちは分散進撃で各個撃破されることを恐れて、一度他の部隊と集合してから戦闘に入らせる者が多かった。結果正面戦闘になり、オーストリア軍の砲兵と騎兵隊の有効な反撃を受けて、追撃は不徹底に終わり、オーストリア軍はエルベ川ドナウ川を越えてウィーン向けて撤退することに成功した[181][197][198]

ともあれ戦争には勝利し、モルトケはヴィルヘルム1世に「陛下は本日の戦闘に勝利されただけではなく、今回の戦争にも勝利されました」と報告したという[199][190]。この勝利はモルトケの包囲作戦の成功もあったが、同時にプロイセン軍が元込め式のドライゼ銃を採用していたおかげでもある。元込め式は連射の速度が速かったので、(先のイタリア統一戦争の教訓で)銃剣突撃を果敢に仕掛けてきたオーストリア軍を蹴散らすことができたのであった[200]

ケーニヒグレーツの勝利でプロイセン軍はウィーンから60キロの位置にあるニコルスブルクへ進撃した[201]。すでに戦意を失っていたオーストリアは、フランス皇帝ナポレオン3世を介してプロイセンに講和を申し出た。ビスマルクはすでに次なるフランスとの戦いを見据えており、その時オーストリアから中立を得なければならないことから講和に応じるつもりであり、そのためウィーン進軍を停止するよう主張した。一方モルトケは当初これに反対したという。軍は意気揚々としてウィーンへ向けて進軍中であるから、停止を命じることなど無理と考えていたという[202][203][注釈 4]。だが最終的にはモルトケもビスマルクの立場を支持し、「ウィーンを占領してもオーストリアは降伏しない。広大なハンガリーへ後退して祖国奪還の戦意に燃えて戦争を続けるだろう。さらにフランスが介入してきて二正面作戦になる恐れもある」と各司令官たちの説得にあたった[205]

ビスマルクはフリードリヒ皇太子の助力も得てウィーン進軍を主張していたヴィルヘルム1世を説得して、オーストリアやフランスと講和交渉に入った[206]。その結果、オーストリアとザクセンは領土を保全されるが、オーストリアは今後ドイツ問題には干渉しないこと、また北ドイツ諸国でプロイセン王を盟主とする北ドイツ連邦を創設するが、バイエルン王国など南ドイツ諸国はこれに参加しないことが決められた。

モルトケは普墺戦争の性質について「防衛戦争ではないし、国民世論が起こした戦争でもない。領土の拡大や物質的利益を狙って起こされた戦争でもない。権力的地位という理念を狙って官房内で必要とされて静かに準備されていた戦争であった。オーストリアは1ミリも領土を失わなかったが、ドイツにおける覇権を喪失したのである」と総括している[204]

対フランス戦争の準備

モルトケは1867年2月の北ドイツ連邦帝国議会(Reichstag)の議員選挙に出馬した。彼はこの選挙直後の手紙の中で一足早く開票情勢が判明したベルリンの6選挙区において彼やビスマルク、ローンらが落選したことについて「大衆は何も見ていない。彼ら(民主主義者)が支配する国家および社会は禍である。地方はもう少しマシだろうが、まだ結果が分からない」と書いている。しかし結局モルトケは3つの選挙区で当選し、メーメル・ハイデクルーク(memel-heydekrug)選挙区選出の議員として帝国議会に議席を持つことになった[207]

領地クライザウのモルトケの屋敷

同年8月、ヴィルヘルム1世はモルトケに恩賞としてシュレージエンクライザウドイツ語版の荘園を与えた。モルトケは貴族には所領が不可欠と考えており、父同様に地主になりたがっていたのでこの恩賞を大いに喜んだという[208][209][210]

しかし1868年12月24日には妻マリーに先立たれ、悲しみの淵に沈んだ。ヴィルヘルム1世はモルトケを励まそうとマリーの異母弟をモルトケの副官に任じている[211][212]

普墺戦争終結直後からフランスとの戦争は予想されており、モルトケは当初守勢作戦を立てていた。しかし北ドイツ連邦の安定で軍事力も増強されるに及んで攻勢計画に変更していった[213]

1867年に『ドイツラントにおける1866年の戦争(Der Feldzug von 1866 in Deutschland)』を監修し、それをきっかけに軍内で普墺戦争の成功点と失敗点の検討がはじまった[214][210]。失敗点として挙げられたのはまず大砲の火力の不備であった。これは鋼鉄製の後装の曳火信管のクルップ砲を導入することで改善を図り、速射性、照準の正確さ、運搬性においてフランス軍の大砲を凌ぐようになった[210]。さらに参謀本部の権威が普墺戦争期には未だ微妙だったため命令が徹底されなかったことであるが、それは普墺戦争後の参謀本部の権威化が進む中で普仏戦争時にはすでに解決していた[215]。他に騎兵がほとんどを力を発揮しなかったことがあり、新しい時代の騎兵のあり方として偵察用や側面や背面攻撃用にすることとした[216]。また軍の戦略上の単位についてモルトケは軍団より師団を重視したがっていたが、これはヴィルヘルム1世により認められなかった[217]

1869年には『高級指揮官に与える教令』を発し、その中でケーニヒグレーツの戦いをモデルに短期決戦論を説き、「異なる地点から各軍が戦場に集中しなければならない。その際、最後の短時間の進撃は別々の方面から敵軍の正面と側面に対して同時に行われねばならない」とした。この短期決戦論はその後ドイツ軍部において教条化していくことになる[218]

短期決戦において重要なのは鉄道であり、モルトケは参謀総長に就任して以来、フランスとの戦争を見据えてドイツ各地からライン川へ向かう鉄道の建設に尽力していた[219]。その結果普仏戦争時点で北ドイツからフランスへ通じる鉄道は6本になっていた[210]

そのためモルトケは普仏戦争に強い自信を持っており、早期の開戦が有利であると主張していた[211][220]。1867年には対フランス開戦をビスマルクに求めているが、ビスマルクは反プロイセン的な南ドイツ諸国をプロイセンが取り込めるほどドイツ・ナショナリズムを激昂させる行動をフランスにさせる機会を窺っていた[221]

普仏戦争

開戦

ルクセンブルク問題を経てフランスとプロイセンの関係は悪化を続け、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家レオポルト王子のスペイン王立候補をめぐってフランスの怒りは頂点に達し、1870年7月13日、フランス大使ヴァンサン・ベネデッティフランス語版バート・エムスにおいてヴィルヘルム1世と会見し、レオポルトのスペイン王立候補を支持しないと宣言することを求めたが、ヴィルヘルム1世はこれを拒否し、その件をビスマルクに電報で伝えた[222][223]

電報を受けたビスマルクは一緒にいたモルトケに対して「プロイセン軍は戦闘準備にどれぐらいかかるかね」と聞き、それに対してモルトケは「すぐ開戦した方がいいでしょう。遅れるよりは。」と回答した。モルトケを信頼していたビスマルクはこのモルトケの一言でフランスとの開戦を決意したという[224]。そしてヴィルヘルム1世の電報の内容を意図的に省略して意味を捻じ曲げ、ドイツ・ナショナリズムとフランス・ナショナリズムを煽る電報を作成して新聞に公表させた[225]。これによってドイツ中で反フランス感情が高まり、南ドイツ諸国もプロイセンを支持し、一方フランスでも反プロイセン感情が高まり、ナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告するよう追い込んだ[226][227]

フランス政府は7月14日に動員を決定し、7月19日にプロイセンに宣戦布告した[228]。一方プロイセン軍は7月16日から動員準備を開始した[211]。7月20日の勅令でモルトケは戦争中、大本営参謀総長として全ての作戦指揮を任されることとなった[211]。普仏戦争ではビスマルクが軍事に関する御前会議に招かれることが少なくなり、結果モルトケの影響力が増すことになった[229][204]

開戦時点でプロイセン王ヴィルヘルム1世(実質的にはモルトケ)率いる北ドイツ連邦軍と南ドイツ諸国軍は約38万人、フランス軍は30万人の兵力であったと見られるが、プロイセン軍は兵役が現役3年、予備役4年、後備役5年となっており、一方フランス軍は現役7年であった。しかもフランス軍は身代わりの代替を認めていたので長い軍歴を持つ職業軍人的な軍隊であった。一方プロイセン軍は短期間の徴兵を幅広く行っている大衆軍隊だった[230][注釈 5]

国境付近の戦闘

宰相ビスマルク、参謀総長モルトケ、陸相ローンらを引き連れて前線視察を行うヴィルヘルム1世を描いた絵画。

ドイツ軍は8月3日までに予備兵力も動員して49万の兵力をプファルツ地方へ送りこんだ。三軍に別れ、トリーアに第1軍(カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ大将指揮下6万人)、ヴィルヘルム1世の大本営がおかれたマインツに第2軍(フリードリヒ・カール王子指揮下19万5000人)、ランダウに第3軍(フリードリヒ皇太子指揮下13万人)が配置された[232]

この頃までにフランス軍がアルザス地方ストラスブール付近(アルザス集団、10万人)とロレーヌ地方(ロレーヌ集団、15万人)に別れて計25万の兵力を集中させているという情報がモルトケのもとに入っていた[233]。フランス軍が外線(包囲側)になる布陣であったが、モルトケはアルザス集団とロレーヌ集団がヴォージュ山脈を挟んでいるのを利用して、本戦の前に第3軍を使ってアルザス集団を南へ押しこんで本戦ではドイツ軍側が外線になるよう仕向けようとした[234]

ところが8月6日にシュタインメッツ大将の第1軍が独断でフランス軍ロレーヌ集団に攻勢をかけ、スピシュランの戦いドイツ語版に及び、ロレーヌ集団を撃退した。この戦いは勝利したとはいえ単純な正面戦闘となり、追撃もできないほど大きな損害を出したばかりか、衝撃を受けたナポレオン3世が全フランス軍にシャロン=アン=シャンパーニュまでの後退命令を出し、国境でフランス軍主力を包囲撃滅するというモルトケの計画が崩れてしまった[235]。しかし普段から現場指揮官の自主性を大事にしていたモルトケはシュタインメッツを批判しなかった。戦後に戦史家がシュタインメッツ批判を行った際にも「この戦闘は予期できない物だったが、戦術上の勝利は常に戦略上の計画を助けるものであるから、我々は勝利は常に感謝して、それを利用すべきである。この戦闘について言えば、敵主力と接触することができたのであり、その後の大本営の戦略決定を非常に容易にしたといえる。」として擁護している[236]

メス包囲戦

動揺したナポレオン3世は8月13日に総司令官の座をロレーヌ集団司令官フランソワ・アシル・バゼーヌ元帥に譲った。バゼーヌ元帥はひとまずメスに籠城した。一方アルザス集団はさらに西にあるシャロン=アン=シャンパーニュまで後退を続けた[237]

モルトケはメスのロレーヌ集団を次なる包囲攻撃目標に定め、第1軍は第2軍の右翼を担うべくニエ川フランス語版へ、第2軍の2個師団はメス東南へ、第2軍主力はメス南方へそれぞれ布陣し、メス包囲体制をとらせることとした(第3軍はアルザス集団を追撃)[238]。この行軍の際、ザール川渡河でシュタインメッツ大将の第1軍が第2軍の進軍路に割り込んだため、交通渋滞が発生した。訓令主義のモルトケもこれには命令を出さざるを得ず、軍司令官を通さずに軍団長に直接命令を出すなど命令系統無視を侵してまで交通整理に務め、なんとか予定通り各軍を配置につかせた[239]

8月14日、ロレーヌ集団がメスから更に西のヴェルダンへ後退するつもりだと知った第1軍と第2軍がロレーヌ集団に攻撃を開始した(メス攻囲戦)。交通渋滞で撤退できずにいたロレーヌ集団は二個軍団を反撃に出し、時間を稼ごうとした[240]。それに対してモルトケは第2軍にヴェルダンへの道を塞ぐことを命じ、また第1軍の一部を北方へ移動させ、全方角からの包囲状態にしてロレーヌ集団のメス脱出を阻止した[241]。モルトケは第2軍にメス南西部から攻勢をかけるよう命じていたが、第2軍司令官はロレーヌ集団が北西から脱出しようとしていると判断し、独断で北方から攻勢をかけ、ロレーヌ集団をメスに押し戻す事に成功した[242]

セダン包囲戦

1870年9月2日、セダンのフランス軍と降伏交渉を行うモルトケとビスマルクを描いた絵画(アントン・フォン・ヴェルナー画)

シャロン=アン=シャンパーニュに後退していたアルザス集団はナポレオン3世とパトリス・マクマオン元帥の指揮のもとシャロン軍を新編成して、ロレーヌ集団の救出へ向かった。モルトケは8月15日にこれを知り、第2軍3個軍団をもってマース軍(司令官はザクセン皇太子アルベルト)を新編成して、同軍と第三軍でもってシャロン軍にあたらせることとした(第1軍と第2軍は引き続きメス包囲)[243]。モルトケはこの両軍に対してシャロン軍の正面と右翼から攻勢をかけて北へ圧迫し、パリから遮断するよう指示していた[244]

両軍はモルトケの指示通りセダン西南でシャロン軍との戦闘に及んで勝利し、シャロン軍を北のセダン要塞に圧迫した。9月1日に新たに近衛軍団がセダン包囲に加わってセダン総攻撃が始まった(セダンの戦い[243]。フランス騎兵隊が絶望的な突撃をかけて玉砕した後、ナポレオン3世は将軍たちから求められたナポレオン3世自らが先頭に立っての突撃作戦を拒否し、要塞内のマクマオン元帥以下8万30000人のシャロン軍将兵とともにドイツ軍に投降した[245]。皇帝を捕虜にしたというニュースは世界を驚かせた。フリードリヒ・エンゲルスのような社会主義者さえもが「(モルトケは)青春のエネルギーを全て発散している」と評して舌を巻いた[246]

モルトケはヴィルヘルム1世に「陛下が今世紀最大の勝利を得たことを祝福申し上げます」と報告したという。また部下の参謀将校一人一人と握手して「このような戦果をあげられたのは君たちのおかげだ」と語ったという[247]

宰相ビスマルクは戦果はもう十分であり、アルザス・ロレーヌ地方の割譲を求める講和に入るべきと主張したが、モルトケはパリを陥落させる必要があると主張し、9月4日に第3軍とマース軍をパリへ向けて進撃させ、9月19日からパリを包囲した[247]

パリ包囲戦

パリ包囲戦中のヴェルサイユの大本営を描いた絵画。中央右に座っているのが参謀総長モルトケ。テーブルを囲う順に右隣から陸相ローン、宰相ビスマルク、皇太子フリードリヒ、プロイセン王ヴィルヘルム1世(アントン・フォン・ヴェルナー画)

ナポレオン3世が捕虜になったことで、パリでは第二帝政が打倒されて共和政の臨時政府が樹立されていた[248]。この臨時政府とビスマルクの間で講和交渉が行われたもののビスマルクがアルザス・ロレーヌ地方の割譲を求めたために決裂した[249]。なおモルトケは当初フランス領土の割譲の要求はフランスの抵抗力を増すと考えて慎重だったが、10月27日にメスのロレーヌ集団が降伏したことでフランス軍は戦力をほぼ失ったと判断し、国防上重要なアルザス・ロレーヌ地方の割譲を求めるようになっていた[250]

10月8日にはフランス臨時政府内相レオン・ガンベッタが包囲されたパリから気球で脱出し、南フランスでゲリラ部隊を組織した。このゲリラ部隊がドイツ軍の後方線に効果的な打撃を加えてくるようになった[251]。そのような状況の中、パリ包囲をめぐってモルトケは兵糧攻め、ビスマルクは砲撃を主張した。モルトケは弾薬不足や今あるパリの臨時政府が長く持たないと思っていたことなどからこのままパリ包囲を続けていればいいと考えていた[250]。一方ビスマルクはだらだらとパリを包囲しているとイギリスロシアが介入してくると考えていた[250]

しかし各地の要塞が陥落して弾薬の心配がなくなるとモルトケも砲撃を支持するようになった[252]。この頃北ドイツ連邦では帝国議会において社会主義者のアウグスト・ベーベルらが反戦運動の一環で戦時国債の発行に反対し、大逆罪容疑で逮捕されるという事件が発生していた。モルトケはこれ以上戦争を長引かせるとこうした危険分子の活動が活発化すると懸念するようになっていた[253]

かくして1870年12月27日からパリ砲撃が開始された。パリ砲撃の最中、ビスマルクは南ドイツ諸国とドイツ統一の交渉を行い、北ドイツ連邦に南ドイツ諸国も加わる形でドイツ帝国の樹立を取り決めた。そして1871年1月18日に大本営がおかれているヴェルサイユ宮殿においてヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が挙行された[254][255]

一方包囲と砲撃が続くパリでは飢餓が深刻となり、1871年1月26日、ついにパリが開城されることとなった[253]。ドイツ占領軍の許可のもと行われた2月8日のフランス議会選挙の末にアドルフ・ティエールが議会の選出でフランス政府首班となり、彼はアルザス・ロレーヌ地方の割譲と50億フランの賠償金支払いの条件を受諾してドイツと講和条約を結んだ[256]

この講和に反対したパリ市民たちがパリ・コミューン政府を樹立し、ティエール政府をパリから追った。ビスマルクとモルトケはフランス軍捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させ、またドイツ軍にパリ砲撃を行わせることでティエール政府によるパリ・コミューン鎮圧を支援した[257]

ドイツ統一後

1889年、ドイツ保守党の党員集会。中央の軍服の人物がモルトケ。

普仏戦争の勝利によってプロイセン陸軍は世界最強の陸軍、プロイセン参謀本部は世界最高の軍事企画機関と看做されるようになった[258]。ドイツ帝国諸邦の中ではバイエルン王国のみ独自の参謀本部を持ち続けたが、それも有名無実な存在と化していき、ドイツ諸国は次々とプロイセン参謀本部に将校を送ってそこで仕事をさせるようになった[258]

モルトケは普仏戦争中の1870年10月に伯爵に叙されており、帰国後の1871年6月に元帥位を与えられた[259]。1872年1月28日にはプロイセン貴族院の終身議員に勅任された[259]。帝国議会議員の方も引き続き在職し、しばしば帝国議会で軍事問題の演説を行った。モルトケの演説は軍事に特化しており、簡潔明瞭、かつ個人攻撃がなかったため評判が良かったという[260][261]。1872年より陸軍大学が参謀総長の隷下と定められた[262]

老齢のモルトケは1879年頃から体力の衰えを訴えるようになり、1881年12月27日に辞表を提出した。しかしヴィルヘルム1世は「卿の軍に対する功績は余りにも偉大であるため、朕は卿が生きている限り卿の退役を考慮することはできない。」として辞職を退けた[263][264]。しかし同時にモルトケの身体を心配してアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー将軍を参謀次長に任じることでモルトケの激務を軽減を図ろうとした[263][265][266]。また晩年の10年ほどは甥のヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ、後に彼も参謀総長となる)がモルトケの副官を務めた。子供のないモルトケは彼のことを我が子のように可愛がった[267]

1883年5月20日の勅令で参謀総長に帷幄上奏権が認められ、平時においてもいつでも皇帝に上奏できるようになった[261][268]。これによって参謀総長が陸軍省の統制を受けるのは事実上軍の装備についてだけとなった[268]

1887年には『1870年から1871年の独仏戦争史』の監修にあたった[269]

普仏戦争後のモルトケは一貫してフランスとロシアに対する予防戦争を主張していた。モルトケは参謀総長に就任した時から露仏との二正面作戦は念頭に置いていたが、普仏戦争後にはその可能性がより高まっていた。とりわけモルトケはこの二国との戦争を不可避と考えていた[270]。モルトケは二正面作戦について1871年4月に「短期間のうちに一方の敵を倒し、次いでもう片方の敵と戦う事を想定しなければならない」と語っている[271]。どちらに重点をおいて攻勢をかけるかについては、モルトケは状況に応じて揺れ動いた。はじめ露仏双方に同兵力を当てて攻勢をかけることを想定していたが、やがてフランスの軍拡が目覚ましくなると、フランス側に重点的に攻勢をかける案に変更した。さらに1879年に独墺同盟が成立したことでロシア側に攻勢をかける計画に変更している[272]

戦争の時期については、(とりわけフランスについては)早ければ早いほどドイツが有利と考えていた。1875年の『ポスト紙』事件で独仏戦争の危機が発生した際にもモルトケはロシアとフランス双方を相手にしてでもフランスに対して予防戦争を行うべきとビスマルクに提言したが(この際のモルトケは対ロシア戦線より対フランス戦線に兵力を集中する案を提出している)、予防戦争の意思がないビスマルクから却下されている[270]。1887年にもヴァルダーゼー将軍に突き上げられる形で対ロシア開戦をビスマルクに提言しているが、やはり却下されている[273]

1888年3月9日にヴィルヘルム1世、6月15日にその後を継いだフリードリヒ3世が相次いで崩御し、ヴィルヘルム2世が皇帝に即位した。モルトケはこれを機に辞職を決意し、1888年8月10日にヴィルヘルム2世に対して「私はもはや馬に乗る事も叶いません。陛下には私より若い者の力が必要となるでしょう。」とする辞表を提出した。これに対してヴィルヘルム2世は「卿を失う事は耐えがたきことだが、卿の健康を考えればこれ以上の留任を求めるのも躊躇われる。」として辞職を許可する一方、代わりに形式的な役職の国防委員会委員長職への就任を求め、モルトケはこれに応じた[269]

1890年10月26日の90歳の誕生日は盛大に祝われた。皇帝ヴィルヘルム2世やドイツ各邦国の諸侯たち、軍高官たちが続々と祝賀会に出席し、各界名士から祝賀のメッセージを送られた[260]。その中でモルトケは一歩兵からの祝賀の詩の手紙に注目し、「歩兵がこのように美しい詩を書く事が出来る我が軍には、成就できないことなど何もない」と語った[260]

死去

退任後のモルトケは領地クライザウかベルリンの参謀本部内にある自宅で暮らし[274]、1891年春からベルリンに滞在していた[275]

同年4月24日午前、プロイセン貴族院の本会議に出席したモルトケは、夕方から親族の集まりに参加した。途中疲労を感じたモルトケはこっそりその場を退席して一人隣室へ移った。甥の小モルトケ少佐がモルトケがいなくなったことに気づき、様子を見に行ったところ、隣室の椅子の上で前のめりになっていたモルトケを発見した。すぐに寝室のベッドへ運ばれたモルトケだったが、まもなく息を引き取った。彼は最期まで夫人の肖像を見つめていたという[275][274][263]

4月28日に葬儀が行われ、遺体は領地クライザウへ戻された[274]

人物

ヘルムート・フォン・モルトケ元帥を描いた絵画(1877年コンラート・フライベルクドイツ語版画)

軍事哲学

モルトケには「戦争に時代や状況を飛び越えた一般原則は存在しない」「戦史から勝利の公式を見つけることは出来ない」という持論があった[276]。そのためモルトケはこれまでの軍事の常識を簡単に捨て去ることができた。

モルトケの戦略の特徴は「分散進撃し、包囲して一斉攻撃」である。これはこれまでの全ての戦略の原則に反するものだった[181]ナポレオン時代は戦力集中が軍事の常識であり、ナポレオンは内線(包囲される側)作戦で戦力を集中させて外線(包囲側)部隊を確固撃破した。ナポレオン時代を代表する軍事学者アントワーヌ=アンリ・ジョミニもそれに基づいて戦力が集中する内線が有利と説いていた。しかしモルトケはこのナポレオン時代の常識を覆して、いまや鉄道と電信の登場で分散進撃しても攻撃時のみ集中させることが可能となっている以上、外線が有利であると主張した[277][278]。補給を考えれば分散進撃の方が安定するからである[217]。ドライゼ銃などプロイセン軍の火力の増強で数的不利がそれほど問題にはならなくなったこと、軍制改革で歩兵の年齢が若返り、その機動力が増加したことも考慮してのことであった[181]。またモルトケは包囲することで敵戦力を撤退させずに撃滅することを重視した。これは「武力行使の目的は敵国土の軍事占領ではなく、敵戦力と戦意の粉砕」とするクラウゼヴィッツの思想の結実であるといえる[217]

モルトケの生きた時代は、それ以前の時代に前例がないほど急速に技術が進歩した時代である。鉄道と電信という新技術の登場で軍事も大幅に変革された。とはいえ黎明期であったからその技術は未熟であり、発展の展望も未知数だった[276]。しかしモルトケは新技術の積極的な利用を躊躇わなかった。モルトケは鉄道と電信を積極的に軍事利用しようとした最初の人物だった[149][126]

しかし当時の未熟な技術では鉄道や電信が故障や事故など不測の事態を起こすことも多かった。それでもスムーズに分散進撃や包囲集中攻撃を行うため、モルトケは現場指揮官の自主性を大事にした。現場指揮官には全体的な目的を承知させるための訓令を出すにとどめ、彼らの独断を奨励した[279][280][128]。ナポレオンの軍隊の将軍がほとんど自主権を持たなかったこととは対照的であった[281][128]

もちろん現場指揮官の独断によって全体の計画が破たんする場合もあり得るが(前述した普仏戦争緒戦のシュタインメッツ大将の事例のように)、モルトケはそれを批判するより、利用する戦略修正に全力を挙げるべきと考えていた[282]。モルトケは「戦争は全てが不確実であり、確実なのは意志と実行力だけである。それが将帥の資産である。」と語っている[283]

戦争観

モルトケは「永遠の平和など夢にすぎない。しかも決して美しくない夢である。戦争とは神の世界秩序の一環である。戦争においてこそ人間の最も高貴な美徳、勇気、自己否定、命をかける義務心や犠牲心が育まれる。もし戦争がなかったら世界は唯物主義の中で腐敗していくであろう。」と語り、戦争を無条件に批判する思想に反対した[284][285]

一方でモルトケは「戦争は勝利しても自国民にとっては一種の不幸である。領土の獲得も賠償金の獲得も人間の命を償い、遺族の悲しみを埋め合わせることはできない」という人道主義者のごとき発言もしている[286]

つまりモルトケは戦争を禍と見つつも、他の多くの禍と同じく、人間の精神を向上させる素晴らしい面があると見ていたのである[284]

また戦争の形態についてモルトケは、普仏戦争(とりわけナポレオン3世が捕虜になった後の後半戦)から見られるようになった傾向として、官房戦争から国民戦争に移行しつつあることを主張した。フランス臨時政府が組織したゲリラ部隊はその典型であるが、モルトケはそうした戦闘方法に不快感を持っており、「フランスのように無尽蔵な手段と愛国心を持った国民が戦ったところで教育を受けた勇敢な正規軍には勝てないのである。問題なのは武装した群衆は軍隊ではなく、そうした者たちを戦闘に駆りだすのは野蛮な行為だということだ。戦争はますます激烈になり、憎むべきものとなってしまう。」と心配していた[287]

政治思想

エドヴィン・フォン・マントイフェルアルブレヒト・フォン・ローンなどの軍人と比べると政治色の薄い職業軍人的人物だった。またそのため対外問題を軍事的観点から捉えるモルトケと政治的観点から捉えるビスマルクでは意見が齟齬することもあった[288]

しかし政治色が薄いといってもモルトケは帝国議会議員でもあり、政治思想がないわけではなかった。彼は保守主義者であり、社会主義者の増長を憂慮しており、将来的には軍を使って社会主義者を排除する必要があると考えていた[289]。また民主主義も嫌っており、アメリカ南北戦争や普仏戦争で活躍を見せた民兵も民主主義的になりやすいその傾向から嫌悪し、その軍事的有効性について一切考慮したがらず、民兵に対する正規軍の優越を確信していた[290][291]

モルトケは常に国民に対して不信感・嫌悪感を持ちながら、他方で(国民軍になりかねない)近代的統一軍隊をプロイセンの権威主義体制を破壊せずに創造する事を目指すというビスマルクと似た二重性があった[292]

文学的素養

多くの著作を持つなど文学的な才能も持つ人物であった[1]

語学に堪能であり、母語のドイツ語とデンマーク語、フランス語(陸軍大学校で学ぶ)、英語(妻を通じて)、トルコ語(トルコ駐留時代に習得)、ロシア語、イタリア語、スペイン語の7ヶ国語を操った[293]

趣味

趣味は音楽(モーツァルト)鑑賞、高級葉巻をくゆらすこと、そして読書であった[10][294][1]

ビスマルクとの関係

ベルリンにかつて存在した勝利通りドイツ語版の沿道に建てられていた32の石造の一つヴィルヘルム1世像。左がモルトケの胸像、右がビスマルクの胸像。

モルトケは無口、早起き、小食だが、ビスマルクはおしゃべり、朝寝坊、大食漢であるなど、二人は個人的には全く気が合わなかったという[261][295]。だがモルトケは彼が最も恐れていた多正面作戦を常に阻止してくれるビスマルクの外交手腕を高く評価していたので、ビスマルク外交に口出しすることはなく、むしろ協力した[261]

1879年にビスマルクが普墺同盟を締結しようとした際、ヴィルヘルム1世はロシアとの関係悪化を恐れて慎重な態度をとったが、モルトケは軍事的観点からヴィルヘルム1世の説得にあたって普墺同盟を認めさせている[296]。1887年に参謀総長代理ヴァルダーゼー将軍がロシアの軍拡を理由に対ロシア開戦を皇帝に帷幄上奏すべきとモルトケに進言してきた際にもモルトケは直接に帷幄上奏権を行使しようとはせず、まずビスマルクに対して対ロシア開戦してはどうかと提言した。ビスマルクが予防戦争はしないと明言するとモルトケも了解して帷幄上奏権を使ってのごり押しはしなかった[296]

モルトケは戦時における作戦指導へのビスマルクの口出しは排除しようとしたが、平時の外交に関しては全面的にビスマルクに任せていた[296]。戦争は政治指導者の手段でしかないと考えていたためである[295]

ビスマルクの方もたび重なる対立にも関わらず、モルトケには大きな信頼を寄せていた。普仏戦争中にビスマルクはモルトケについて「あれは実に珍しい人物である。義務は系統立てて果たし、何でも常に準備を整えていて、無条件に信頼できた。それでいて完全に冷静だった。」「モルトケは生涯にわたって全てのことについて節度を心得ていた。」と語っている[297]

こうした間柄のビスマルクとモルトケが務めている間は参謀総長に巨大な権限があっても問題はなかったが、参謀総長が政治指導者に従わなくなったら、あるいは政治指導者が弱い性格だったら、政府はもはや軍部の意に反して政治ができなくなる可能性も秘めていた[298]。『ドイツ参謀本部興亡史』の著者であるヴァルター・ゲルリッツは「ビスマルクとモルトケという組み合わせはプロイセンの歴史の中でただ一度だけ起こったことであり、その後二度と起こる事はなかった」と評した[299]

影響

モルトケ元帥の胸像

普仏戦争の勝利でモルトケのプロイセン参謀本部は世界中の軍隊の憧れの存在となった。各国は続々とプロイセンの制度の導入を開始した[300][301]

フランス軍は普仏戦争敗戦後の翌年1871年にフランス参謀本部フランス語版を立ち上げ、進級規定が厳格なプロイセン参謀本部に倣った組織体制を作り、クラウゼヴィッツの研究も開始した[302]アメリカ軍でも米西戦争がプロイセンの戦争に比べてあまりに不手際であったとしてプロイセン参謀本部に倣った新機構を創設し、これが後にアメリカ国防総省(ペンタゴン)となった[303]。ロシアでも参謀本部の改編が行われ、イギリスも20世紀に入ってプロイセン参謀本部を参考にするようになった[304]

ただフランスやアメリカ、イギリスではモルトケの参謀本部の影響を受けつつも、参謀は書記・伝令という旧来からの風潮は消えなかった[300]。イギリス海軍の影響を受ける日本海軍やアメリカ軍の影響を受ける自衛隊もそうした傾向が強い[300]。一方モルトケ式に強い影響を受けたのが日本陸軍オスマン・トルコ陸軍であった。

日本陸軍は元来フランス式軍制を目指すところが多かったが、普仏戦争後にはプロイセン参謀本部に倣った参謀本部制度を導入した[305]。さらに1884年にお雇い外国人として来日したモルトケの弟子クレメンス・メッケル少佐の協力を得てドイツ式軍制導入の改革(鎮台師団への再編成、一般服役の徴兵制など)が行われた[306]。またメッケルによって陸軍大学のドイツ型参謀教育が確立されていった[307]。ドイツ式軍制に生まれ変わった日本軍は日清戦争日露戦争に勝利して成果を示した。とりわけ日清戦争では清軍が未だお粗末な作戦能力の東洋的軍隊だったこともあり、モルトケ流の分散進撃・包囲撃滅が大きな戦果をあげている[308]。日露戦争勝利から1年後の1906年にメッケルが死んだことを知った児玉源太郎参謀総長らメッケルの薫陶を受けた日本軍人らは、彼に感謝の意を示すために陸軍大学校でメッケルの英霊を弔うための神祭を執り行っている[309]

トルコには1830年代にモルトケ自身が教官として派遣されていたことがある。ただこの時にはトルコ陸軍の根本的な改革をすることはできなかった[56]。トルコ陸軍が重い腰をあげてドイツ式改革を開始するのは露土戦争敗戦後の1883年にコルマール・フォン・デア・ゴルツがトルコに派遣されてからである。ゴルツによってトルコ陸軍にドイツ型参謀教育が施され[307]、またトルコ陸軍の再編成が行われた[307]。もっともトルコでは改革を妨害する勢力も根強かったので(ゴルツを招いた皇帝アブデュルハミト2世も含めて)日本ほどスムーズにはいかず、ゴルツの改革も限定的にしかできなかった[310]。それでもゴルツの成果は希土戦争によって発揮された[311]。また後にゴルツの参謀教育を受けたトルコ青年将校たちが青年トルコ人革命を起こしたが、彼らは改革を阻害するアブデュルハミト2世が独裁権力を握り続ける限りトルコの近代化は不可能と考えて立ち上がったのだった[312]

キャリア

経歴

  • プロイセン陸軍第8近衛歩兵連隊所属(1822年3月19日-1823年)[27]
  • 陸軍大学在学(1823年-1826年)[27]
  • 第5師団師団学校教官(1827年-1828年)[38]
  • 参謀本部陸地測量部勤務(1828年-1831年)[38]
  • 参謀本部付(1833年3月30日-)[313]
  • トルコ駐在(1836年6月8日-1839年9月)[50]
  • 第4軍団参謀(1840年4月18日-1845年10月18日)[314]
  • ハインリヒ王子ドイツ語版付副官(1845年10月18日-1846年7月12日)[315]
  • 第8軍団参謀(1846年12月24日-1848年5月16日)[316]
  • 参謀本部戦史課長(1848年5月16日-1848年8月22日)[94][96]
  • 第4軍団参謀長(1848年8月22日-1855年9月1日)[96]
  • フリードリヒ皇太子付副官(1855年9月1日-1858年10月29日)[100]
  • 参謀総長代理(1857年10月29日-1858年9月18日)[317]
  • 参謀総長(1858年9月18日-1888年8月10日)[318]
  • 北ドイツ連邦ドイツ帝国帝国議会議員(1867年4月-1891年4月24日)[207]
  • プロイセン貴族院終身議員(1872年1月28日-1891年4月24日)[259]
  • 国防委員会委員長(1888年8月10日-?)[269]

デンマーク陸軍階級

プロイセン陸軍階級

爵位

勲章

脚注

注釈

  1. ^ モルトケの妹はイギリス人ジョン・ブルト(John Burt)に後妻として嫁いでおり、彼が先妻との間に儲けていた娘がマリー・ブルトであった[87][86]
  2. ^ 1815年時点でプロイセンの人口は約1000万人であったが、1855年には1800万人になっていた[138]
  3. ^ ケーニヒグレーツの戦いにおいてモルトケの作戦指示書を見た師団長アルブレヒト・グスタフ・フォン・マンシュタインドイツ語版将軍は「良く出来た作戦指示書だ。ところでこのモルトケ将軍とは誰のことか」と尋ねたという逸話が残っている[194][195][196]
  4. ^ 一方でウィーン進軍についてモルトケは一貫してビスマルクを支持して、ウィーン進軍に反対していたとする説もある[204]
  5. ^ 普仏戦争でプロイセン軍が勝利したことは大衆軍隊の勝利と看做され、フランスもこの戦争後には大衆軍隊へと移行していくことになる[231]

出典

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参考文献

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  • 大橋武夫『参謀総長モルトケ ドイツ参謀本部の完成者』マネジメント社、1984年(昭和59年)。ISBN 978-4837801382 
  • 片岡徹也編著 著、戦略研究学会 編『戦略論大系3 モルトケ』芙蓉書房出版、2002年(平成14年)。ISBN 978-4829503041 
  • ヴァルター・ゲルリッツ 著、守屋純 訳『ドイツ参謀本部興亡史』学研、1998年(平成10年)。ISBN 978-4054009813 
  • ハンス・フォン・ゼークト 著、斎藤栄治 訳『モルトケ』岩波書店、1943年(昭和18年)。ASIN B000JAPSRG 
  • ミウルレル 著、中島真雄 訳『独逸元勲 毛奇将軍全伝上篇』兵林館、1888年(明治21年)。 
  • 三宅正樹新谷卓中島浩貴石津朋之『ドイツ史と戦争 「軍事史」と「戦争史」』彩流社、2011年(平成23年)。ISBN 978-4779116575 
  • 望田幸男『ドイツ統一戦争―ビスマルクとモルトケ』教育社、1979年(昭和54年)。ASIN B000J8DUZ0 
  • 渡部昇一『ドイツ参謀本部 その栄光と終焉』祥伝社新書、2009年(平成21年)。ISBN 978-4396111687 
  • 『世界伝記大事典 世界編 11巻 ミーラロ』ほるぷ出版、1981年(昭和56年)。ASIN B000J7VF4Y 

関連項目

外部リンク

モルトケの著述についての資料を閲覧することが可能。

先代
カール・フォン・ライヘアドイツ語版
プロイセン陸軍参謀総長
1858年 - 1888年
(代理:1857年 - 1858年)
次代
アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー

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