アルザス地域圏

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アルザス
Alsace
アルザスの旗
アルザスの旗
位置
アルザスの位置
概要
首府 ストラスブール
Strasbourg
人口 1,805,023人
(2005年)
面積 8,280km²
13
小郡 75
コミューン {{{コミューン数}}}
ISO 3166-2:FR FR-A

アルザス地域圏(アルザスちいきけん、アルザス語: Elsàssアレマン語: Elsäß、標準ドイツ語: Elsassフランス語: Alsace、英語: Alsace)は、フランス中東部にかつて存在した地域圏である[1]ストラスブール(独:シュトラースブルク)を首府とする。ヴォージュ山脈のある西側の大部分をかつてのロレーヌ地域圏と接し、残りはかつてのフランシュ=コンテ地域圏と接している。東はドイツスイスに接する。地域圏内にはバ=ラン県オー=ラン県二つの県を含む。中フランクと重なるブルーバナナ圏に属している。

2016年1月1日より、グラン・テスト地域圏となった。

概要[編集]

域内面積は日本の兵庫県(約8,394平方キロメートル)と同じぐらい、人口は鹿児島県(約177万人)とほぼ同程度。南北に細長く展開し、北部がバ=ラン県(「ライン川下流」の意味)、南部がオー=ラン県(「ライン川上流」の意味)にそれぞれ分かれる。

住民の大部分はドイツ系アレマン人の一派であるアルザス人(エルザス人)で、人口130万人がドイツ語の方言であるアルザス語を使う。住民は通史的に中部フランク王国由来のアイデンティティをもつ。アルザスではライン川の水運を利用した農業・工業がそれぞれ古代・中世から盛んである[2]。また、アメリカやオーストラリアほどではないにせよ豊富に鉄鉱石や石炭を産出する。アルザスの地誌は、中フランクの地誌を代表する。

古代の晩期、東西フランクのはざまにあったころ、アルザスは戦火に焼かれた。神聖ローマ帝国の領地となってから20世紀まで、アルザスは戦争の度に蹂躙された。その凄惨な記憶をもつアルザス人はドイツともフランスとも同化しないで生きてきた。

争奪の対象アルザスは地政学上の要衝に違いなかったが、中世のライン川というのは地元の平野全体でぐねぐねと曲がり、また枝分かれして、中州や沼をつくっていた[3]。この不衛生な環境が19世紀の開発で改善されるまで風土病のマラリアを流行らせた[3]

第二次世界大戦終結以来フランス領である。デグサなどのドイツ系企業施設が立地したこともあり、戦後は厳しいフランス同化政策がとられた。多くの住民はフランス語とアルザス語のバイリンガルだが、若年層ほどフランス語を多用する。近年になってフランス政府は同化政策を改めたが、フランス語しか話せない若者も少なくないので、今後の教育方針をめぐる議論は続いている。

ストラスブールは欧州統合の基地として、中央政府や直近のルクセンブルクと連携している。

アルザス通史の著作は地元においてすら希少である。およそアルザス史の公的な記録は欧州統合に水を差さないような形をとっている。フランス人の著したものは、神聖ローマ帝国の時代がまるでなかったかのようにし、フランス革命ナポレオンおよび各世界大戦でのアルザス解放に紙面を割いている。ドイツ人の著したものは、普仏戦争からナチスドイツの時代を大して説明しないで、神聖ローマ統治下の華やかなアルザスを積極的に描写している。アルザス人が著したものは、ローマ帝国フランク王国の治世をふまえて神聖ローマ統治下の栄華を西欧全体の成果とみなすが、近現代史を論拠とするドイツ非難とフランス擁護に傾いている。アドルフ・ティエール普仏戦争敗退後にアルザスを講和の具としたことや、ナチスドイツが侵攻してきたときストラスブールをフランス軍が無人状態で放棄したことなどには言及していない[4]

2002年の域内GDPは443億ユーロ(約5兆円、鹿児島県と同程度)、一人当たりGDPは24,804ユーロ(約390万円)にのぼる。一人当たりGDPはフランス国内の22地域圏中イル・ド・フランスに次いで第2位に達し、労働者の68%がサービス業に、25%が工業に従事している。現在、アルザスはフランスで最も工業化された地域圏となっており、生活水準もフランスの中でも高い方に属する。

歴史[編集]

アルザス史の原典となるはずであった資料は、幾重もの戦火に晒されて散逸が著しい。

アウストラシア再現ならず[編集]

都市の慟哭[編集]

  • 16世紀初頭 - ユダヤ人が西欧中から追放されて、神聖ローマで残ったユダヤ人の村が主にアルザスに限られた[32]
  • 1523年 - ストラスブールの市参事会でルター派が多数となり、同市が宗教改革都市となった[33]
  • 1524年 - サヴェルヌで10万人規模の一揆。アルザス全体で約3万人が死亡。十都市同盟の連帯がおわった。[34]
  • 1621年 - 11月エルンスト・フォン・マンスフェルトが下アルザスへ侵攻し翌年7月まで無差別的に略奪した[35]
  • 1623年 - ストラスブールの通貨安定令で、1ストラスブール・ルーブル金貨=1フローリン5シリングと決められた[36]
  • 1631年 - グスタフ2世アドルフベールヴァルデ条約でフランスから軍資金を得た[37]
  • 1632年 - ストラスブールがスウェーデンと同盟し、あらゆる軍事的支援を行った[38]。グスタフ2世死去。
  • 1634年末 - スウェーデンがストラスブールでフランスと条約を締結し、アルザスと傭兵軍をフランスへ全委譲した[39][40]
  • 1648年 - ヴェストファーレン条約で、アルザスが神聖ローマ帝国(ドイツ)からフランスに割譲される[41]
  • 1652年 - アルザスがフロンドの乱に巻き込まれた。下アルザスへはスペイン・ハプスブルク朝の勢力に加わったロトリンゲン公が領地奪還のため侵入した。諸都市は、帝国からスウェーデンに対する賠償金を徴収され、またフランスからは駐留経費の負担を求められた。このような板ばさみが1681年まで続いた。[42]
  • 1671年 - ルイ14世が特にアルザスのユダヤ人を保護する(以後普仏戦争までのユダヤ史)。
  • 1673年 - 8月28日オランダ侵略戦争の行軍中、ルイ14世がコルマールを奇襲して要塞を解体させた[43]
  • 1681年 - 9月ルイ14世がナイメーヘンの和約を根拠にストラスブールを包囲し、翌月入市を果した[44]
  • 1697年 - レイスウェイク条約第16条で、アルザス全域がフランスに留保された[45]
  • 1746年 - アルザスのユダヤ人が組織化を許される。以来、ユダヤ人の世帯数が増加した。
  • 1784年 - ルイ16世が行わせた調査によると、19,624人のユダヤ人が地域内181の村に分散居住していた[46]
  • 1789年 - フランス革命の余波で、ストラスブール市庁舎が市民に略奪された[47]
  • 1793年末 - フランス革命戦争で荒廃した下アルザスから、3-4万人の住民がドイツへ脱走し難民となった[48]。バ=ラン県革命裁判所の検察官ウーロージュ・シュナイダーが、ストラスブールで新婚初夜に逮捕され、翌年4月にパリでギロチンにかけられた[49]
  • 1798年 - 3月15日、1515年以来スイスの飛び地であったミュルーズがフランスへ帰属した[50]
  • 1801年 - ナポレオンがローマ教皇のピウス7世と政教協約を結んだ。
  • 1815年 - ウィーン会議で旧十都市同盟のランドーがドイツ領となり、同盟軍が駐留した経費をアルザスが負担した。[51]
  • 1823-24年 - オー=ラン県にありスイスに接するデュルマナックで暴動。市長と人口の半数がユダヤ人だった[52]
  • 1836年 - ナポレオン3世がストラスブール一揆を企てたが、逮捕されてパリへ移送された。
  • 1849年 - 1848年憲法に基く立法議会選挙でアルザスが多数の左派議員を選出した[53]
  • 1850年代 - ドイツ=オーストリア電信連合が発足し、アルザスに電信が整備された。
  • 1870年 - 普仏戦争。講和後、ロレーヌと併せドイツ帝国に占領された。ユダヤ人が東欧から[54]パリなどへ流れた[55]
  • 1880年 - ドイツ帝国が、オーストリア・イギリス・イタリア・ベルギーを除いた外国法人の営業に対して認可制を採用した。
  • 1881年 - アルザスに子会社をもつソシエテ・ジェネラルが、認可を得るためその子会社をドイツ法人として分離・独立させた(Sogenal[56]。ロレーヌ地域もふくめて、フランスの保険会社も認可を求められたが、適当な措置をとることができず、多くが追放された。この年、普仏戦争以来の異常乾燥が保険会社の火災部門に負担となった。イスタンブールではオスマン債務管理局が設立され、独仏間の熾烈な経済摩擦が世界を巻き込んでいった。
  • 1882年 - クレディ・アグリコルのもとになる農業信用金庫を政府が設置した[57]
  • 1893年 - 19世紀末の30年間で1881年と唯一比較しうる規模の異常乾燥と火災保険者負担が生じ、同年設立のトルコ一般保険会社について再保険者からドイツが締め出された。一方、アメリカの1893年恐慌が南ドイツの証券市場に混乱をもたらした。
  • 1902年 - 11月に三国同盟更新。そのかげで仏伊協商も交渉されて、2年後に締結された。
  • 1913年 - サヴェルヌでツァーベルン事件が起きた。
  • 1919年 - ヴェルサイユ条約によりフランスが占領し、兵士が母国より近代化の進んでいたことに驚嘆した。
  • 1925年 - エドゥアール・エリオ内閣が、地元三宗派の猛烈な抵抗にあって政教協約の廃止を断念した[58]
  • 1930-36年 - 世界恐慌が続く中、マジノ線の建設特需が起こった。
  • 1940年 - 6月19日、フランス勢力が無人状態で放棄したストラスブールをナチスドイツが占領した[59]
  • 1945年 - ドイツの降伏によりフランスが再度占領。以後フランス領として現在に至る。
  • 1959年 - シャルル・ド・ゴールに対立し欧州統合を支持するピエール・フリムランがストラスブール市長となった。
  • 1968年 - 五月革命ストラスブール大学へ飛び火した。以来、フランス資本が他県に流れた。
  • 1982年 - 3月に地方分権法が成立し、アルザスは現在の行政単位と権限を得た。
  • 1984年 - ストラスブールの先端技術開発に1億4千万フランを投入する計画が、突如グルノーブルへ投資することとなった。アルザスの代表者はストラスブール解放40周年記念式典でフランソワ・ミッテランの臨席をボイコットした(シンクロトロン事件)[60]
  • 1992年 - 政府がストラスブールにフランス国立行政学院の本部を移転させた[61]
  • 2001年 - フランス民主連合のファビアンヌ・ケレールがストラスブール市長に当選した。

文化[編集]

アルザス地方の農家(リトルワールド・愛知県犬山市)
アルザス家屋の形は、ドイツ的な木骨造(木骨組み、漆喰固め; Fachwerk(haus)(独))のものが多い。
アルザスの伝統的な衣装

フランス文化を濃厚に受けたルクセンブルクやドイツ西部のザールラント州コブレンツ以西のラインラント=プファルツ州トリーアアーヘンを含む)と比較すると、アルザス地方は古来のドイツ文化の特徴が目立つ。歴史的に中フランクだからと考えることもできるが、今現在もアルザスにはドイツ系多国籍企業直接投資がストラスブールを中心に行われており[62]、ドイツ文化に対する需要が付随しているとも考えられる。

食文化においては、シュークルートザウアークラウト(Sauerkraut))やベッコフ(Bäckeoffe)が名物であるほか、ワインではゲヴュルツトラミナー(Gewürztraminer)をはじめとして、赤よりも白が多く製造されているなどドイツ的である。ビールもフランスきっての量と質を誇るが、しかしこれは必ずしもドイツ文化ではなくスウェーデンのそれでもある。

宗教面でも、フランス全土はカトリックが圧倒的に多い(約90%)のに対してアルザス地方はプロテスタントの信者も多く、ストラスブール市内には両派の教会や関連施設が多数存在する。そういう制度になっているのだが、次に詳述する。

東西両陣営が領有権を争ったので、アルザスにはライシテの適用がない。代わりに1801年のコンコルダート(政教協約)が今でも生きている。訴訟と問題が提起されているが、おおむね合憲とされている。コンコルダートにより、カトリック・ルター派・改革派・ユダヤ教が公認されている。イスラム教は公認されていない。しかし、アルザス・モーゼル地方法上の非公認宗教としてさまざまな権利を保障されている。7人集まるだけで宗教団体を設立することができるし、ライシテの適用がないので要件を満たせば国や自治体から補助金が出る。定款で目的を厳格に宗教とするなら、不動産税が免除される。ストラスブールでは2012年にムスリム専用の公共墓地ができた[63]

行政区画[編集]

上:バ=ラン県、
下:オー=ラン県
名称 人口(人) 州都/主府/本部 備考
バ=ラン県
Bas-Rhin
1,063,000 ストラスブール
Strasbourg
オー=ラン県
Haut-Rhin
731,000 コルマール
Colmar
行政と市町村

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ アルザスの名前はドイツ語のEll-sassから取られている。
  2. ^ ライン川というと河口のオランダばかりに注意しがちであるが、後述のヴルフランのころゴッタルド峠が通れるようになりポー川とつながって真の国際河川となったのである。
  3. ^ a b 市村 p.60.
  4. ^ 市村 pp.2-3.
  5. ^ 市村 p.21.
  6. ^ 市村 pp.23-24.
  7. ^ 市村 p.24.
  8. ^ 蔵持不三也 『ワインの民族誌』 筑摩書房 1988年 pp.94-95.
  9. ^ 市村 p.28.
  10. ^ 市村 p.28.
  11. ^ 市村 p.29.
  12. ^ 市村 pp.30, 32. 正式承認は673年
  13. ^ 市村 p.32.
  14. ^ 市村 p.42.
  15. ^ 市村 pp.43-44.
  16. ^ 市村 p.45. シュタウフェン家の起こりについては次の資料を参考とした。山本伸二 「シュタウフェン家の台頭」 天理大学学報第65巻第2号 に詳しく述べられている。
  17. ^ 市村 p.46.
  18. ^ 市村 p.55.
  19. ^ a b c d 市村 pp.56-59.
  20. ^ 市村 p.81.
  21. ^ 市村 p.61.
  22. ^ 市村 p.100.
  23. ^ 市村 pp.59-60.
  24. ^ 市村 p.76-77.
  25. ^ Monumenta Judaica, Handbuch (Republished), Köln, 1964, p. 212.
  26. ^ 市村 p.102.
  27. ^ 市村 p.100.
  28. ^ 市村 p.83.
  29. ^ 市村 p.84.
  30. ^ 市村 pp.84-85.
  31. ^ 市村 p.85.
  32. ^ H. H. Ben-Sasson, Geschichte des jüdischen Volkes, vol. 2. p. 250.
  33. ^ 市村 pp.151, 161.
  34. ^ 市村 pp.164-167.
  35. ^ 市村 pp.189-190.
  36. ^ 市村 p.197.
  37. ^ 市村 p.190.
  38. ^ 市村 p.191.
  39. ^ 市村 p.192.
  40. ^ スウェーデン軍は行軍しながら徴発・略奪・破壊・放火をくり返し虐殺に手を染めた。 p.193.
  41. ^ ミュンスター講和条約 第73,74,78,81,87,88条。特に73条と87条が取り返しのつかない矛盾をかかえていた。 市村 pp.193-196.
  42. ^ 市村 pp.206-207.
  43. ^ 市村 pp.210-212.
  44. ^ 市村 p.217-222.
  45. ^ 市村 pp.224-225.
  46. ^ Jean Claude Streicher, Georges Fischer, Pierre Bleze, Histoire des Alsaciens, De 1789 à nos jours, p. 229.
  47. ^ 市村 pp.250-252.
  48. ^ 市村 p.268.
  49. ^ 市村 pp.270-272.
  50. ^ 市村 pp.279-280.
  51. ^ 市村 p.287.
  52. ^ 川﨑 亜紀子 「アルザス地方における1848年の反ユダヤ暴動」 早稻田政治經濟學雑誌 364巻 pp.83-98.
  53. ^ 市村 p.291.
  54. ^ 市村 p.343.
  55. ^ Frédéric Hoffet, Psycoanalyse de L'Alsace, Colmar o.J. P. 40.
  56. ^ 1964年発行の社史。現在もソジェナルは独立法人である。
  57. ^ 市村 p.334.
  58. ^ 市村 pp.369-370.
  59. ^ 市村 pp.392-393.
  60. ^ 市村 pp.440-441.
  61. ^ 市村 p.446.
  62. ^ 平篤志 「フランス・アルザス地域における多国籍企業の立地展開と地域経済」 香川大学教育学部研究報告. 第I部 122, pp.15-28, 2004
  63. ^ 佐藤香寿実 「フランス・アルザス地方の「コンコルダート的ライシテ」と非公認宗教としてのイスラーム」 上智ヨーロッパ研究 (8), 61-81, 2016-03-03

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯48度30分 東経7度30分 / 北緯48.500度 東経7.500度 / 48.500; 7.500