尹東柱

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尹東柱
Yun Dong-joo 01.jpg
各種表記
ハングル 윤동주
漢字 尹東柱
発音: ユンドンジュ
ラテン文字表記: Yun Dongju
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尹 東柱ユン・ドンジュ1917年12月30日[1] - 1945年2月16日)は、間島(現・中国吉林省延辺朝鮮族自治州)出身の大学生であり詩人本貫は坡平尹氏。は海煥(ヘファン、해환)。中国人か韓国人(朝鮮人)か中国と韓国の間で論争になっている[2]

概要[編集]

京城(現ソウル)の延禧専門学校の文科で朝鮮語を学んで卒業後の1941年に、東京に留学中に一緒に専門学校の時の友人と現地の独立運動に対する治安維持法違反で逮捕され懲役2年の判決を受け服役中に死亡した。戦後に朝鮮語で書かれた詩が発見されたが、大韓民国やメディアにおいては朝鮮語で詩を作っていたため逮捕されたとして国民的詩人とされている[3][4]。京都大学教授で韓国や東アジアについて専門としている小倉紀蔵は尹の詩に対する民族主義的など偏った考えで解釈して、その解釈を「『正答』であると威圧的かつ声高に主張」や「『道徳的正答』という暴力的な概念をふりまわして、それ以外の解釈や思考を威圧したり排除」することを不適切だとして、尹東柱の詩の言葉を特定の政治的・道徳的立場に本質化して吸収することは「尹の詩への冒瀆」と厳しく批判している。更に尹の詩には政治的・民族的・イデオロギー的なものは皆無なのにそうだと解釈する人々が尹を評価する理由が詩そのものよりも、彼が第二次大戦中に逮捕、独立後の南北と保革対立に巻き込まれずに死亡したからだと結論づけた[5]

経歴[編集]

中学時代の友人と撮った写真。後列右が尹東柱、中央がクリスチャンで民主化運動指導者の文益煥韓国語版牧師。

1917年満州は北間島の明東村(現在の龍井市智新鎮明東村)で、尹永錫・金龍の長男として生まれる。幼名は海煥で、のちにこの名を号とした。父方の曽祖父が咸鏡道鍾城郡から間島に移住した朝鮮人移民の家である。1900年、祖父の尹夏鉉が明東村に移り住み、一家は1910年頃にキリスト教に入信していた。尹夏鉉は開拓によって小地主となり、地域のキリスト教会の長老であった。また、東柱が生まれた当時、父は明東学校の教員であった。

日本での学業と詩作[編集]

1932年、龍井のキリスト教系学校・恩真中学に入学、一家も龍井に移住した。1935年に日本統治にあった朝鮮半島の平壌のプロテスタント系学校・崇実中学校に編入学するが、崇実中学は神社参拝問題のために1936年に当局によって廃校とされた。東柱は龍井に帰り、日本人経営の光明学園中学部に編入。1936年頃より、延吉で発行されていた雑誌『カトリック少年』に、「尹童柱」「尹童舟」などの名義で童詩を発表し始める。1938年、光明学園を卒業し、京城(ソウル)の延禧専門学校(現・延世大学校)文科に入学する。この在学中に崔鉉培から日本で朝鮮語を学んでいる。1940年に卒業後に大学進学のために日本へ渡航しやすくするために創氏改名で「平沼東柱」にしている。この間、朝鮮日報や雑誌『少年』に詩を投稿している。1941年12月、延禧専門学校を卒業。学校卒業時に、代表作となる「序詩」を含む自選詩集『空と風と星と詩』の出版を計画するが、恩師とも相談の上、出版は難しいとの判断から出版を断念した。一旦帰郷した東柱は、父に日本で医学部に留学を勧められたが医学部に進ませたい父と文学部に進学しかったことで自身の進学先で揉める。最終的に尹は1942年に日本に渡り、4月に自身の望みだった立教大学文学部英文科選科に入学する。1942年9月、京都に移り、10月同志社大学文学部英文学科選科に入学する。太平洋戦争の真っただ中だった時代で戦争以前から現在の中学レベル以上の高等教育を受けられるのは日本人でも珍しく、戦時で日本の若者たちは徴用や戦場へ徴兵されたりしている状況だったが、尹らは同志社大学の自由な学風を堪能して、宋夢奎ら友人たちとかなり安定した留学生活を送ることができたと明らかになっている[6]1943年7月14日、在学中に治安維持法違反で朝鮮独立活動をしていた宋と日本の朝鮮での政策を非難したり、他の留学していた朝鮮人らに対して朝鮮独立を訴えたり、民族運動の煽動にあたる罪で逮捕された[7]。1944年2月22日、尹東柱と宋夢奎は起訴され、3月31日に京都地方裁判所で日本国家の否定する考えを宣伝・扇動したことに対する懲役1年以上10年以下の罪だったが懲役2年刑という比較的軽い判決を言い渡される。尹東柱と宋夢奎は福岡刑務所に収監された。1945年2月16日、福岡刑務所で死亡した(満27歳没)[8]

死後の紹介・評価と顕彰[編集]

韓国において[編集]

1947年2月に、ソウルの京郷新聞に「たやすく書かれた詩」が紹介される。尹東柱との面識はなかったものの鄭芝溶が紹介文を書いている。同じ年、ソウルに移住していた弟の尹一柱や友人たちによる追悼会が開かれた。1948年に詩や散文を集めた『空と風と星と詩』(原題《하늘과 바람과 별과 시》、日本語訳題には『天と風と星と詩』もある)がソウルで正音社から刊行され、抒情詩人・民族詩人・抵抗詩人として知られるようになった。1968年には母校延世大学校において、尹東柱が暮らした寄宿舎の前に「尹東柱詩碑」が建立された。

中国において[編集]

龍井市にある生家

中華人民共和国では、国内少数民族である朝鮮族出身の愛国詩人との評価を受けて、龍井市にある生家が復元されるなどしている。2016年4月20日に韓国のソウル詩人協会は「中国当局が尹東柱の国籍を中国だと歪曲している」として中国の所業を厳しく糾弾している[9]

作品[編集]

『空と風と星と詩』には、以下の日本語訳版が刊行されている。

関連書籍[編集]

  • 宋友恵(伊吹郷訳)『尹東柱 青春の詩人』(筑摩書房、1991年)
  • 日本基督教団出版局編『死ぬまで天を仰ぎ-キリスト者詩人・尹東柱』(日本基督教団出版局、1995年)
  • 尹東柱詩碑建立委員会編『星をうたう詩人-尹東柱の詩と研究』(三五館、1997年)
  • 宇治郷毅『詩人尹東柱への旅-私の韓国・朝鮮研究ノート』(緑陰書房
  • 金賛汀『抵抗詩人尹東柱の死』(朝日新聞社

参考文献[編集]

  • 尹東柱(伊吹郷訳)『空と風と星と詩-尹東柱全詩集』(影書房、2002年)
  • 太田修『佛教大学鷹陵文化叢書20 朝鮮近現代史を歩く―京都からソウルへ』(思文閣出版、2009年)

[編集]

  1. ^ 戸籍上は1918年12月30日生まれとなっている。これは出生届けが遅れたため。伊吹(1984)p.258-259.
  2. ^ “抗日詩人尹東柱は、中国愛国詩人?”. http://news.naver.com/main/ranking/read.nhn?mid=etc&sid1=111&rankingType=popular_day&oid=056&aid=0000013125&date=20130920&type=2&rankingSectionId=103&rankingSeq=3 
  3. ^ 実際には延禧専門学校で朝鮮語を専攻、卒業、東京留学、独立運動計画、逮捕、懲役二年、死亡、日本敗戦、詩の発見、の時系列である
  4. ^ “尹東柱記事の間違い(産経新聞) ― 2015/02/09”. http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/09/7568265 
  5. ^ 『言葉のなかの日韓関係 教育・翻訳通訳・生活』、徐 勝と小倉 紀蔵(編) 、発行:明石書店、ISBN 978-4-7503-3805-7 C0036、発売日 2013年4月1日(19頁、23頁)
  6. ^ [1]「尹東柱の紹介内容」レビュー
  7. ^ 『特高月報』(1944年1月20日)の「朝鮮人運動の状況」のなかに「在京都朝鮮人学生民族主義グループ事件策動概要」として記載されている。ただし、ここ記された尹東柱の経歴には多くの誤記があると指摘される。伊吹(1984)p.259-260.
  8. ^ [2]
  9. ^ 韓国の詩人団体「中国、尹東柱の国籍わい曲是正を」[3],中央日報, 2016年04月21日 08時47分

関連項目[編集]

外部リンク[編集]