尹東柱

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尹東柱
Yun Dong-ju.jpg
各種表記
ハングル 윤동주
漢字 尹東柱
発音: ユンドンジュ
ラテン文字表記: Yun Dongju
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尹 東柱(いん とうじゅう、윤동주、1917年12月30日[1] - 1945年2月16日)は、朝鮮語の詩を書く詩人平壌京城府京都で在学中に詩人として活躍。中華民国満洲地域間島朝鮮人開拓民の子孫として生まれ、[2]代表作は「故郷の家――満州でうたう」(1936年)。[3]1944年、京都地方裁判所で思想を宣伝に対して、同志社大学英文学科の学生尹東柱を懲役2年。[4]その一年後刑務所で死亡した。

韓国の民族主義教育において、民族詩人として知られるようになって、2012年頃の大韓民国のアンケートより、95%以上の20代が尹東柱の詩を覚えていました。[5]

概要[編集]

中学時代の友人と撮った写真。後列右が尹東柱、中央がクリスチャンで民主化運動指導者の文益煥朝鮮語版牧師。

中華民国満洲地域間島明東村(現・吉林省延辺州龍井市明東村)での朝鮮人開拓民の子孫として生まれ、[2]本籍咸鏡北道清津府(現・北朝鮮)。[4]代表作は「故郷の家――満州でうたう」(1936年、原題「고향집-만주에서 부른」)。[3]日本国籍を持つ。[6]日本名は平沼東柱。[7]

1917年12月30日、尹永錫・金龍の長男として生まれる。幼名は海煥(해환)で、のちにこの名をとした。父方の曽祖父が咸鏡道鍾城郡から間島に移住した朝鮮人移民の家である。1900年、祖父の尹夏鉉が明東村に移り住み、一家は1910年頃にキリスト教に入信していた。尹夏鉉は開拓によって小地主となり、地域のキリスト教会の長老であった。また、東柱が生まれた当時、父は明東学校の教員であった。

1932年、龍井のキリスト教系学校・恩真中学に入学、一家も龍井に移住した。1935年に日本統治にあった朝鮮半島の平壌のプロテスタント系学校・崇実中学校に編入学するが、崇実中学は神社参拝問題のために1936年に当局によって廃校とされた。東柱は龍井に帰り、日本人経営の光明学園中学部に編入。1936年頃より、延吉で発行されていた雑誌『カトリック少年』に、「尹童柱」「尹童舟」などの名義で童詩を発表し始める。

1938年、光明学園を卒業し、京城(ソウル)の延禧専門学校(現・延世大学校)文科に入学する。この在学中に崔鉉培から日本で朝鮮語を学んでいる。1940年に卒業後に大学進学のために日本へ渡航しやすくするために創氏改名で「平沼東柱」にしている。この間、朝鮮日報や雑誌『少年』に詩を投稿している。1941年12月、延禧専門学校を卒業。学校卒業時に、代表作となる「序詩」を含む自選詩集『空と風と星と詩』の出版を計画するが、恩師とも相談の上、時局柄出版は難しいとの判断から出版を断念、自薦詩集として3部を制作。1部は恩師にもう1部は友人のチョンピョンオクに託す。

一旦帰郷した東柱は、父に日本で医学部に留学を勧められたが、文学部への進学を希望していたため進学先について揉める。最終的に東柱は1942年に日本に渡り、4月に自身の望みだった立教大学文学部英文科選科に入学する。同年9月、京都に移り、10月同志社大学文学部英文学科選科に入学する。

太平洋戦争の真っただ中だった時代で戦争以前から現在の中学レベル以上の高等教育を受けられるのは日本人でも珍しく、第2次世界大戦時で日本の若者たちは徴用や戦場へ徴兵されたりしている状況だった。韓国では当時の朝鮮人にハングルは禁止されていたと信じられているが、趙甲濟によれば、「ある媒体」に、東柱はチェヒョンベ教授の朝鮮語の講義を受けるなど同志社大学の自由な学風を堪能し、宋夢奎ら友人たちとかなり安定した留学生活を送ることができたという記述がある[8]

1943年7月14日、以前から朝鮮独立活動をしていた従兄の宋夢奎と日本の朝鮮での政策を非難したり、他の留学していた朝鮮人らに対して朝鮮独立を訴えたり、民族運動の煽動したとして治安維持法違反容疑で逮捕された[9]。1944年2月22日、尹東柱と宋夢奎は起訴され、3月31日に京都地方裁判所で日本国家が禁止する思想を宣伝・扇動したことに対する懲役1年以上10年以下の法定刑に対し、懲役2年の実刑判決を言い渡される。2人は福岡刑務所に収監された。その一年後の1945年2月16日、原因不明の死因により福岡刑務所で死亡した(満27歳没)[10]

死後の紹介・評価と顕彰[編集]

韓国において[編集]

詩人尹東柱之墓

1947年2月13日に、ソウルの京郷新聞に「たやすく書かれた詩」が紹介される。尹東柱との面識はなかったものの同志社の先輩として鄭芝溶が紹介文を書いている。[11]同じ年、ソウルに移住していた弟の尹一柱や友人たちによる追悼会が開かれた。1948年に詩や散文を集めた『空と風と星と詩』(原題《하늘과 바람과 별과 시》、日本語訳題には『天と風と星と詩』もある)がソウルで正音社から刊行され、抒情詩人・民族詩人・抵抗詩人として知られるようになった。1968年には母校延世大学校において、尹東柱が暮らした寄宿舎の前に「尹東柱詩碑」が建立された。

韓国の民族主義教育において、民族詩人として知られるようになって、2012年頃の韓国のアンケートより、95%以上の20代が尹東柱の詩を覚えていました。[5]

中国において[編集]

龍井市にある生家

韓国と延辺(中国)との交流が盛んになる1980年代まで、尹東柱が生まれ多くの朝鮮族が暮らす延辺でも、その存在は知られていなかった。1985年に尹東柱の墓の場所を40年ぶりに確認した大村益夫早稲田大学教授は、「尹東柱という詩人についても、延辺の文学者たちはまったくその存在を知らず、その作品も知らなかった。東柱の親戚たちも数多く延辺に生活しているが、東柱が韓国で国民的詩人として人々の尊敬を受けているとは夢想だにしなかったようだ」(大村益夫「尹東柱の事跡について」『朝鮮学報』)と記している。

現在は、中国国内の少数民族である朝鮮族出身の愛国詩人との評価を受けて、龍井市にある生家が復元されるなどしている。2016年4月20日に韓国のソウル詩人協会は「中国当局が尹東柱の国籍を中国だと歪曲している」として中国の所業を厳しく糾弾している[12]

日本において[編集]

一方で、民族主義の象徴としての尹東柱の扱いに疑問を挟む声も存在する。京都大学教授で韓国や東アジアについて専門としている小倉紀蔵は、尹の詩を民族主義的など偏った考えで解釈すること、そしてその解釈を「『正答』であると威圧的かつ声高に主張」したり「『道徳的正答』という暴力的な概念をふりまわして、それ以外の解釈や思考を威圧したり排除」したりすることを不適切だとして、詩の言葉を特定の政治的・道徳的立場に本質化して吸収することは「尹の詩への冒瀆」と厳しく批判している。更に尹の詩には政治的・民族的・イデオロギー的なものは皆無であり、イデオロギーありきで解釈する人々が尹を評価する理由が詩そのものよりも、彼が第二次大戦中に逮捕、独立後の南北と保革対立に巻き込まれずに死亡した事にあると結論づけた[13]

1995年に同志社大学の尹東柱詩碑が起点となり、日本全国に尹東柱とその詩や詩碑が拡散された経緯をありありと解説してくれました。[14]瓜生山学園京都造形芸術大学(現・瓜生山学園京都芸術大学)の高原キャンパス内には尹東柱がかつて生活した下宿跡地があり、2006年に尹東柱の作品『序詩』の詩碑をキャンパス内に建立し、毎年命日に追悼法要を行っている[15]。京都造形芸術大学創設者の理事長徳山詳直は1950年に、朝鮮戦争に反対する運動に身を投じて、爆弾の搬送を阻止しようとして逮捕された。徳山詳直は「尹東柱先生が民族独立の闘いの途上で獄死してから5年後、私の闘いは朝鮮との関連で始まった。そしてこの地に大学を創立し、芸術を通した平和を追求している。」と語る。[16]2019年京都造形芸術大学側が主催する詩人尹東柱追悼会及び交流会が、大学のキャンパスの詩碑前で2月15日に開かれた。この日は、理事長の徳山豊や学長の尾池和夫をはじめ、在日韓国・朝鮮人、駐大阪大韓民国総領事館の吳泰奎総領事など関係者ら約80人が参加した。[17]

2010年、立教大の教職員と卒業生による「詩人尹東柱を記念する立教の会」が、立教大学の韓国人留学生向け奨学金「尹東柱国際交流奨学金」を設立した。各学部1人ずつ計8人[18](のちに10人[19])に、留学生の年間授業料(48万8000~67万9000円)[18]とほぼ同額の60万円を支給している。

家族[編集]

尹仁石 成均館大学教授は

作品[編集]

『空と風と星と詩』には、以下の日本語訳版が刊行されている。

関連書籍[編集]

  • 宋友恵(伊吹郷訳)『尹東柱 青春の詩人』(筑摩書房、1991年)
  • 日本基督教団出版局編『死ぬまで天を仰ぎ-キリスト者詩人・尹東柱』(日本基督教団出版局、1995年)
  • 尹東柱詩碑建立委員会編『星をうたう詩人-尹東柱の詩と研究』(三五館、1997年)
  • 宇治郷毅『詩人尹東柱への旅-私の韓国・朝鮮研究ノート』(緑陰書房
  • 金賛汀『抵抗詩人尹東柱の死』(朝日新聞社

参考文献[編集]

  • 尹東柱(伊吹郷訳)『空と風と星と詩-尹東柱全詩集』(影書房、2002年)
  • 太田修『佛教大学鷹陵文化叢書20 朝鮮近現代史を歩く―京都からソウルへ』(思文閣出版、2009年)

ギャラリー[編集]

[編集]

  1. ^ 戸籍上は1918年12月30日生まれとなっている。これは出生届けが遅れたため。伊吹(1984)p.258-259.
  2. ^ a b “西日本新聞セレクト九州の100冊【九州の100冊】~リクエスト編(中)『空と風と星と詩』 尹東柱 今宵も星が風に吹きさらされる”. 西日本新聞. (2017年4月27日). オリジナルの2017年12月6日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20171206154345/http://www.nishinippon.co.jp/feature/kyushu_select_books/article/324569/. "東柱は一九一七年、中国東北部の北間島明東村で朝鮮人開拓民の子孫として生まれた。" 
  3. ^ a b
  4. ^ a b 昭和十九年三月三十一日, 京都地方裁判所第二刑事部, 平沼東柱の判決.
  5. ^ a b 徐正敏 (2012年5月30日). “私と同志社と尹東柱”. 同志社大学キリスト教文化センター主催する「同志社スピリット・ウィーク」同志社大学京田辺校地講演. 2017年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月23日閲覧。
  6. ^ 楊智強『最陌生的鄰居:韓國』商務印書館、台湾、2018年9月(中国語)。ISBN 9789570531640 孫引き:楊智強 (2018年10月8日). “延邊朝鮮族:全中國「最聽話」的少數民族自治州” (中国語). 台湾: 關鍵評論網. オリジナルの2021年2月18日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/8qFWD. "尹東柱去世時,雖然國籍為日本,但他自認為是朝鮮人" 
  7. ^ 中央日報 2017年07月20日【コラム】韓日中が詩人・尹東柱を記憶する方法(1)[1]
  8. ^ 趙甲濟 (2016年2月17日). “'윤동주 소개 내용' 리뷰(Review)” (朝鮮語). 趙甲濟.com. 2020年9月28日閲覧。
  9. ^ 『特高月報』(1944年1月20日)の「朝鮮人運動の状況」のなかに「在京都朝鮮人学生民族主義グループ事件策動概要」として記載されている。ただし、ここ記された尹東柱の経歴には多くの誤記があると指摘される。伊吹(1984)p.259-260.
  10. ^ [2]
  11. ^ 鄭芝溶 (1947年2月13日). “쉽게 씨위진” (韓国語). 京郷新聞 . 孫引き:徐正敏同志社大学の尹東柱詩碑建立過程の余談」『同志社時報』第134号、2012年10月、 69頁。
  12. ^ 韓国の詩人団体「中国、尹東柱の国籍わい曲是正を」[3],中央日報, 2016年04月21日 08時47分
  13. ^ 『言葉のなかの日韓関係 教育・翻訳通訳・生活』、徐 勝と小倉 紀蔵(編) 、発行:明石書店、ISBN 978-4-7503-3805-7 C0036、発売日 2013年4月1日(19頁、23頁)
  14. ^ 徐正敏同志社大学の尹東柱詩碑建立過程の余談」『同志社時報』第134号、2012年10月、 69頁。
  15. ^ 「尹東柱の夢」…美術家の姜益中氏が京都造形芸術大に寄贈”. www.mindan.org. 2020年12月5日閲覧。
  16. ^ 京都造形芸術大で尹東柱追悼会、統一と平和誓った参列者たち”. korea-np.co.jp. 2020年12月6日閲覧。
  17. ^ 京都造形芸術大学主催 詩人尹東柱追悼会(2.15) 상세보기|総領事館 活動駐大阪大韓民国総領事館”. overseas.mofa.go.kr. 2020年12月5日閲覧。
  18. ^ a b 立教大・尹東柱奨学生1号誕生「韓日交流に貢献する」 | 韓国の社会・文化ニュース” (日本語). www.konest.com. 2018年5月27日閲覧。
  19. ^ 立教大学総長の郭洋春氏、「立教大の誇り、尹東柱…韓国の学生がもっと多く来てほしい」」『japanese.donga.com』、2018年5月25日。2018年5月27日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]