安宅産業

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安宅産業株式会社(あたかさんぎょう)は、かつて日本に存在した総合商社である。1904年7月1日安宅弥吉によって安宅商会として創業され、1977年10月1日伊藤忠商事に吸収合併されて消滅した。

戦前から戦後にかけて官営八幡製鐵所の指定問屋4社(三井物産三菱商事岩井商店、安宅産業)の1社となるなど、10大総合商社の一角として最大売上高2兆6千億円を誇る大企業であった。もともとは「堅実」の社風を特色としていたが、同業他社との売上競争の中で原油取引など新規事業にリスクを無視して進出するようになり、最終的にはそれが破綻の原因となった。

歴史[編集]

創業[編集]

安宅弥吉1895年高等商業学校(現・一橋大学)卒業後、いったん日本海陸保険に入社したものの、すぐに日下部商店(個人商店)へ入店、香港支店(現地では日森(ヤッシャム)洋行という商号を使用していた)支店長として香港赴任した。当初は香港からの米の輸入と大連向けの木材・雑貨輸出程度だった支店の取扱商品を、砂糖亜鉛石炭棉花帆布塗料など多数の品目に広げた。特に砂糖は、独自で有力華僑ジャワ糖の直接買い付けルートを開拓するなど、市場で名前を知られる存在となっていた。そして、単なる雇われ支店長から、日森洋行(香港支店)の共同経営者という立場になった。

しかし、1904年日露戦争が勃発すると、当初戦局への悲観論から株価が暴落したため、日下部商店と関係の深かった松本重太郎が経営する百三十銀行松本商店倒産した。そのあおりを食って日下部商店も事実上破綻し、法的にはその香港支店にすぎなかった日森洋行も閉鎖を余儀なくされた。

そこで安宅弥吉は自ら個人商店として安宅商会を創業し、本店を大阪市東区船越町に(その後すぐに同区高麗橋に移転)構えた。創業にあたっては、弥吉が自ら開拓した砂糖を除いて日下部商店/日森洋行の旧来の取扱品ならびに客先には手を付けず、すべて新規に開拓することを旨とした。その傍らで旧日下部商店の整理にも尽力し、整理が完了した後も破綻後まもなくして病没した日下部商店店主の遺族に援助を続けたという。

その一方で、旧日下部商店から引き取った社員や中途入社で入った社員が、経営が厳しい折に給与値上げの交渉をしてきたり、弥吉の目の届かない東京支店で勝手な取引をして損を出したことが発覚したりなどした。そのため、弥吉は「信頼できる部下は自分で育てなくてはならない」という思いを強くし、郷里から小学校の卒業生を紹介してもらい、学費を出して上級の学校を卒業させ、卒業後は安宅商会で働かせるという制度を始めた。これは一見美談でもあるが、後に社内で隠然たる力を誇った「安宅ファミリー」の一部はこの給費生制度によって安宅に入社した社員で占められており、いわば非公式な社内権力の母体にもなっていった。

弥吉の経営哲学を表した言葉として「蛙跳び経営」がある。蛙は1回跳ぶと、次に跳ぶ前にはいったん身を縮めて力をためる。それと同じように、一歩一歩着実に地歩を固めながら進む、というものであった。他の会社が痛手を受けたような時期、例えば鈴木商店が多額の損失を出した第一次世界大戦直後の不況の局面においても、弥吉は「深追いは何より禁物」として在庫ならびに買いポジションをすべて整理するように強力に指示していた。この時は社内の一部に「まだいける」として指示に従わなかった者があり、多少の損をかぶることもあったが、全体としては適切な時期に適切な整理を行うと共に、攻めるべき局面では攻めの経営を行うことで業績を伸ばしていった。

会社組織へ[編集]

1919年11月13日には株式会社へ改組を行った。

1942年5月、弥吉は陸軍とのいざこざが原因となって安宅商会社長を退任し、後任には次男の安宅重雄を指名した。長男の安宅英一ではなく、10歳年下である次男の重雄を社長としたのは、英一が自身もピアノを演奏するなど音楽に興味があったこともあって数多くの芸術家パトロンとなり、月に当時の金額で1万円以上も(当時の大学卒の平均的な初任給は40円だった)浪費していたこと、さらには学生時代(神戸高等商業学校・現神戸大学卒)から靴ひもすら使用人に結ばせるような「殿様気質」を持っており、堅実を信条とする弥吉が「英一には守成の才はないのではないか」という危惧を抱いたためと言われている。また、英一自身も、「社長なんて面倒なことはかなわん」と重雄に社長業を譲ったとも言われている。

しかし、重雄は京都帝国大学文学部哲学科出身で、英一のような浪費癖はなく堅実ではあったものの、哲学専攻という学究肌の人物で、商売に精力を傾けるタイプではなかった[独自研究?]。それも手伝って、社内は重雄をもり立てる方向ではまとまらず、重雄派と英一派の2つの派閥が生まれることになった。英一派の中心となったのが猪崎久太郎取締役であった。1927年から英一がロンドンに留学した際に猪崎が同地に駐在していた縁もあり、さらには英一を担ぐことによって一気に出世の階段を駆け上ることを狙う猪崎と、実務を担うのは面倒だが安宅産業の実権は握りたい英一の利害が一致したこともあり、猪崎の発言力は増す一方であった。

1943年1月1日には社名を安宅産業株式会社に変更。

戦後すぐに、戦争責任問題等もあり、また、英一を担ごうとする猪崎の工作もあって、安宅弥吉翁の前で安宅重雄社長と英一の兄弟が話し合いを持った。その結果、1945年10月に重雄は他の多くの取締役と共に退任し、後任として神田正吉が社長に就任する事になった。英一は猪崎を社長に据えるよう重雄に迫ったが、重雄は「神田を社長にしないのであれば僕は退任しない」としてこれを拒否。猪崎は副社長となり、ロンドン仕込みの英語を駆使して社長の神田を尻目にGHQとの交渉などで活躍して社内の実権を握っていった。この時の猪崎の部下に、後に安宅崩壊のきっかけを作る高木重雄がいた。猪崎は後に1957年社長に就任した。

戦後処理の中で公職追放をおそれた安宅家は、合計で85%以上を保有していた株式をほとんどすべて手放した。しかし、GHQの占領体制が終焉を迎え、他の財閥指定を受けた一族が株を取り戻して支配力を回復したのに対して、安宅家は株の取り戻しに動かず、保有株式は全発行株数の2%にも満たない状況が続いていた。そのような状況の中で1955年に安宅英一は会長に就任したが、彼は不思議な威圧感を持つ人物であり、社内ではワンマンとして絶対的権力をふるっていた猪崎も英一の前に出るとその言いなりになる状況であった。こうして、実際の社業の切り盛りは猪崎社長が行うが、人事権は創業家というだけで大株主でもない安宅英一会長が保持するという二重権力体制が確立されていく。英一は「経営のことはわからんが、人間の判断はわしがする」と言い放ち、社員の採用試験でも最終的な判断を下したことはもちろん、重要人事も英一会長が反対すると流れてしまう状況が続いた。

この状態は英一が1965年8月に会長を退任後、「相談役社賓」という不思議な肩書きに退いた後も続き、会社の表向きの指揮命令系統とは別に、「安宅ファミリー」と呼ばれる安宅家にゆかりのある社員の一団が隠然たる力を持つことになった。当時の社内風土を示すエピソードとして、上司に異動を言い渡された若手社員が「そんなものはファミリーの力で撤回させてやる」と言い返したという話もある。英一は長男の安宅昭弥を取締役(後に専務)として安宅産業に入社させ、ゆくゆくは社長にしたいと考えていた。その番頭として柴田芳雄を専務に据えるなど、安宅ファミリーの影響力は公然たるものがあった。

破綻へ[編集]

1966年には住友商事との合併話があった。戦後にスタートした住友商事は当時まだ規模が小さく、メインバンクが安宅と同じ住友銀行であったことから、住友銀行主導で話が進んだ。猪崎社長は乗り気で話を進め、合併比率1:1、社名は「住友安宅商事」、社長は住友の津田久、会長は猪崎久太郎と合併覚書調印寸前まで漕ぎつけたが、最終的に「相談役社賓」英一の反対で流れることになった。英一の反対の理由は、「君は、『安宅』を潰す気か」というもので、要するに住友商事と合併したのでは息子の昭弥を社長にできないということであった。それまで英一の支持をバックに社内では絶対的なワンマンとして君臨していた猪崎社長は、この件がきっかけとなって同年末に会長に祭り上げられた。

猪崎の後を継いだ越田左多男社長も、ことあるごとに人事権を振りかざす英一と衝突して任期半ばで更迭され、1969年には市川政夫が社長に就任した。市川が社長に就任してからも英一を中心とした「安宅ファミリー」の力は強く、人事もままならない状態は続いた。さらに、引き続き会長にとどまった猪崎と市川は折り合いが悪く、「安宅ファミリー」=英一、会長の猪崎のどちらも後ろ盾に持っていなかった市川は、一方でしがらみなく安宅産業を近代的株式会社として脱皮させるべく努力を続けることができたが、その努力も度々重要人事に関する英一社賓の介入で進まない状況となり、他方では引き続き社長の座に座り続けるためには売上競争に身をやつさざるを得ない状況に置かれていた。当時、総合商社の規模は利益よりも売上高で測られており、売上ベースで総合商社下位グループから抜け出させることが、市川の社長としての地位を安泰にするために課せられた至上命令であった。

このような状況の中で、売上向上のために社運を賭けたカナダにおける精油所プロジェクトが1973年オイルショックを機に1975年に破綻し、1000億円以上にのぼる貸付金・売上債権が焦げ付く事となった。その結果、住友銀行の主導の下での解体・再編を経て、安宅産業株式会社は1977年10月に伊藤忠商事株式会社に吸収合併され、70年以上にわたる歴史に幕を閉じた(本項に関する詳細については安宅産業破綻参照)。

破綻にあたっては、損を出してでも売上を取りに行くような無理な取引、創業家による個人的コレクション(陶磁やクラシックカー)への社費の支出をはじめとする企業の私物化、各事業部門が独自に進めたゴルフ場開発をはじめとする本部統制・リスク管理体制の欠如など、数々の問題点が公にさらされる事となった。

安宅産業の破綻に伴い、日本の総合商社は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅住友商事日商岩井トーメン日綿實業兼松江商の9大商社に再編されていく事になった。

歴代社長[編集]

  • 安宅弥吉:創業~1942年5月
  • 安宅重雄:1942年5月~1945年10月
  • 神田正吉:1945年10月~1957年11月
  • 猪崎久太郎:1957年11月~1966年11月
  • 越田左多男:1966年11月~1969年11月
  • 市川政夫:1969年11月~1976年7月
  • 小松康:1976年7月~1977年10月(住友銀行出身)

なお、安宅英一は、1925年~1934年まで取締役、1955年~1965年まで会長に就任したが、社長に就任したことはない。

本社所在地[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]