内田也哉子

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うちだ ややこ
内田 也哉子
生年月日 (1976-02-11) 1976年2月11日(47歳)
出生地 日本の旗 日本 東京都
民族 日本人
配偶者 本木雅弘(1995年 - 現在)
著名な家族 内田裕也(父)
樹木希林(母)
UTA(長男)
内田伽羅(長女)
主な作品
東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜
流浪の月
 
受賞
日本アカデミー賞
新人俳優賞
2007年東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜
その他の賞
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内田 也哉子(うちだ ややこ、1976年2月11日 - )は、日本エッセイスト歌手女優[1]東京都出身。母は樹木希林、父は内田裕也。夫は本木雅弘。結婚後からエッセイ、海外の絵本の翻訳などの執筆活動に加え、女優業や音楽活動などを行う。

略歴[編集]

也哉子の生まれる前から両親が別居婚を送っていたため、樹木にシングルマザー状態で育てられた[2]。幼稚園から小学6年生の途中までインターナショナルスクールに通った。この間、9歳の頃にニューヨークの北部の田舎の学校に1年間留学し、ホームステイ生活を経験[2]

6年生頃から高校1年生の途中まで一般的な日本の学校に通い、16歳の頃にフランス語を習得したいとの思いからスイスジュネーヴの学校に留学した[3][1]

1995年に19歳で本木雅弘と結婚し、1997年に長男・雅樂(うた[注釈 1])、1999年に長女・伽羅(きゃら[注釈 2])、2010年に次男・玄兎(げんと)を出産。

出産後から子育てをしながら、エッセイ本などの執筆や海外作家の絵本などの翻訳を手掛け、細々とではあるが女優活動も行っている。さらに2005年には、音楽プロジェクトSighBoat渡邊琢磨鈴木正人と共に結成し、自身はボーカルを務めている[1]2012年よりロンドン在住[4]

人物[編集]

子供時代[編集]

幼稚園に上る前に起きた両親の離婚騒動[注釈 3]により、マスコミが自宅に押しかける騒ぎとなった。この影響で地元の幼稚園から入園を断られたため、インターナショナル・スクールに通うことになった[5]。それ以降の学校生活では両親のことを絶対に明かさず[5]、「父はサラリーマンで母は主婦」と誤魔化し続けた[6]

母一人子一人の生活で樹木が仕事で忙しかったため、小学校低学年の頃からずっとカギっ子だった[7]。家での食事は、基本的に一汁一菜にお漬物という極めて質素なもので[5]、テレビを見る習慣もなかった[8]

樹木からおもちゃを買ってもらったことはなく、服もいつも誰かのおさがりだったため、当時は「うちって貧乏なのかな」と思っていた[5]。自宅で過ごす時は本棚に数冊あった絵本を読んだり[8]、家財道具を工夫して遊んでいた[7]。中学に入る前に樹木にブランド店・ヨウジヤマモトで初めてとなる新品の服を数着買ってもらい、貧乏ではないことを初めて知った[5]

樹木希林の子育て[編集]

也哉子は、樹木について「ものすごい強い絶対的なもの。母性より父性の強い人だった」と評している」と評している[5][8]。また、樹木の子育てについては、「『私(樹木)はこうやって歩いていくから付いて来なさい』という感じで、時々振り向いて確認してくれるという親子関係でした」と回想している[5]

樹木は、也哉子が間違ったことをした時は一度だけ注意し、その後同じことがあっても二度は注意しない、という育て方をしていた[9]。また、小さい頃から自由を与えられる反面、自己責任を重視して育てられたため、「勉強しなさい」や「何時までに家に帰ってきなさい」などと言われたことはなかった[7]

樹木は也哉子との会話の中でいつも父・内田裕也を立て、父親不在の家庭に「見えない父」をしっかり君臨させながら育てた[10]。また、樹木が内田の悪口を言うのを一度も聞いたことがないとのこと[11]

父・内田裕也[編集]

内田と暮らしたことは一度もなかった[11][注釈 4]が、也哉子には年1回父の日に父と2人で会う決まりがあったため渋々会いに行っていた[2]。また、父の日以外にもたまに内田が夜中に自宅(樹木の家)に現れ、也哉子たちの迷惑も考えず一人で騒いで帰るということがあった[注釈 5]。このため也哉子は父を「厄介な人」と認識し、こんな状態でも夫婦で居続ける母を不思議に思っていた[11]

思春期を迎えた頃、樹木にその理由を尋ねたところ「私が裕也を必要としているの」と告げられた[注釈 6][注釈 7]。当時はこの言葉の意味がいまいち理解できなかったが、自らの結婚生活を経てようやく母の気持ちが分かってきたという[13]

個性的過ぎる両親を持ったため、周りから「よくグレなかったね」と言われることがある。これに対し本人は、「グレている両親を見ていたので、“ああはなりたくない”という気持ちが自制心を生んだのでしょう」と回想している[5]

結婚[編集]

15歳の時の父の日に内田に約束をすっぽかされ、翌日電話で呼び出されるとそこは父の主演映画『魚からダイオキシン!!』の打ち上げの場だった。父に「そこで飯食っとけ」と言われて1人で食事していた所、声をかけてきたのが出演者の本木雅弘だった[10][2]

その時本木と話したのは少しだけだったが、高校1年生の頃内田を通じて本木の仕事[注釈 8]で1週間通訳の手伝いを依頼された[11]。仕事の合間にいろんな話をして本木と親しくなり、近々スイス留学を控えていることを話すと、住所を交換したことで文通を始めた。留学後の夏休みに帰国し、東京で本木と食事すると「もし将来、結婚を考える時期が来たら、私を選択肢に入れて下さい」と告げられた[注釈 9]

フランスのパリにある大学に進学したが、19歳の頃に本木から正式にプロポーズされた。まだ学生だったため樹木に相談すると、「結婚や人との出会いは計画してできるものじゃないから」と背中を押された[7][注釈 10]

その後也哉子が外国にいる時に、樹木が本木に婿入りを願い出たことで彼の了承を得て内田家に入ることが決まった[注釈 11]。後日、明治神宮で両家の両親やごく身近な親類と内田の知り合いを集めて、古風な結婚式を挙げた[10]。東京で本木と暮らし始め、具体的な時期は不明だがその後樹木も同居するようになった[7]

絵本[編集]

先述の通り絵本が大好きで、幼い頃に絵の魅力と最小限の言葉だけで広がる絵本の世界に感動した[8]。本人は後年、「今思うと家の中にテレビやおもちゃなど余計な物が無い分、私は空想することや絵本の世界にじっくりと思いを巡らせることができたのかもしれません」と回想している[8]

絵本について「子供の頃からの私のオアシス」、「私にとっては詩みたいなもの」と評している。子供時代はもちろん大人になってからも時々絵本を読み[14]、母親になってからは毎晩子供たちに絵本の読み聞かせすることを日課にしていた。本人は、「読み聞かせをしている時間が子供たちとの交流を一番実感できる」と評している[3]

遡ってスイス留学時代は、お小遣いを貯めて日本でまだ翻訳されていない絵本を買い集めて読んでいた。その頃出会った一冊『The Important Book』をある時知人に見せた所、「あなたが翻訳してみれば?」と言われた。この一言が後に、最初の翻訳絵本『たいせつなこと』の出版に繋がり、絵本翻訳の仕事をするきっかけとなった[3]

出演[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

CM[編集]

ラジオ[編集]

書籍[編集]

絵本には、★を付記。

著書[編集]

訳書[編集]

音楽[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 後にUTAの名前でモデルデビュー。
  2. ^ 後に子役デビューし、2015年の映画『あん』では祖母・樹木希林と共演。
  3. ^ 1981年に内田が一方的に離婚届を提出したが、それに納得しない樹木が離婚無効の訴訟を起こし、後日勝訴したというもの。
  4. ^ 也哉子によると、「私が生まれてから父が亡くなるまでの間、一緒に過ごした合計時間は数週間にも満たない」とのこと[12]
  5. ^ 酔っ払った内田が夜中の2時、3時頃に自宅外で喚き、樹木が近所迷惑にならぬよう仕方なく中に入れた。すると内田は家の中のものをひっくり返したり、寝ている也哉子を起こして「座って俺の話を聞け」と言うのがいつものパターンだった。
  6. ^ 也哉子によると具体的には、「母は過去に俳優・岸田森と最初の結婚した当時、穏やかな性格で非の打ち所のない彼との夫婦生活に幸せを感じていた。しかし同時に母は心の闇(本人曰く「ブラックホール」)を感じており、この幸せを壊したいという気持ちになり離婚してしまったという。樹木は当初再婚を考えていなかったが30代の頃に内田に出会い、『あ、こういう訳の分からない人といれば、私のブラックホールが埋まる』と直感的に思った」とのこと。
  7. ^ また也哉子は、樹木について「世間では“破天荒な父の被害にあってる妻”、“尻拭いばっかりしてる妻”みたいなイメージかもしれません。でも実際は父がいることで母は自分自身を保てることができたのです」と語っている。
  8. ^ 日本で初めてアメリカのアカデミー賞が生中継されることになり、本木は通訳を介してアメリカ人とやり取りするナビゲーターを務めた。本木の事務所社長と内田が親しかったことから、英語が話せる也哉子が通訳を任された。
  9. ^ 手紙のやり取りだけで交際もしていない状態だったため、也哉子は突然な話に「きっと本木さんは誰にでもそういうことを言っているんだろうな」と思ったとのこと[11]
  10. ^ ちなみに樹木は本木のことをなぜかゲイと勘違いしており、“2人は年の離れた友人”だと認識していた。このため也哉子から結婚の相談を受けた時は、「彼って女の人が好きだったんだ。意外だわ~」という反応をされた[10]
  11. ^ 本木は農家の次男で実家は長男が継いでいたこともあり、樹木が「うちは一人娘だし内田家を存続させたいから、できれば婿に入っていただけませんか」と願い出た[11][10]

出典[編集]

  1. ^ a b c 内田也哉子のプロフィール”. ORICON NEWS. 2022年3月1日閲覧。
  2. ^ a b c d スタイリスト・伊藤まさことの対談その2「覚悟はない。」”. ネット販売店「weeksdays」のウェブサイト (2019年12月28日). 2022年3月1日閲覧。
  3. ^ a b c 「毎晩、絵本の読み聞かせだけはやってきた」内田也哉子さんが語る、3人の子育てと絵本の翻訳”. ハフポスト (2021年4月15日). 2022年3月15日閲覧。
  4. ^ 本木雅弘 全身がんの姑・樹木希林と離れ、英国移住のわけ”. NEWSポストセブン. 2020年5月17日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h 内田也哉子 母・樹木希林の見送って。破天荒な両親から独り立ちする時”. 婦人公論.jp (2019年9月24日). 2022年3月1日閲覧。
  6. ^ スタイリスト・伊藤まさことの対談その6「なるようにしかならない。」”. ネット販売店「weeksdays」のウェブサイト (2020年1月1日). 2022年3月1日閲覧。
  7. ^ a b c d e 内田也哉子 娘として母として考える家族のカタチ(前編)”. NHKのウェブサイト「読むらじる。」よりラジオ深夜便・内田也哉子 (2021年6月25日). 2022年3月1日閲覧。
  8. ^ a b c d e 内田也哉子さん「母親である前に自分の人生を面白がる」ユニークな母の背中を追いかけて”. ハフポスト日本版 (2021 -4-14). 2022年3月1日閲覧。
  9. ^ スタイリスト・伊藤まさことの対談その1「はじめまして。」”. ネット販売店「weeksdays」のウェブサイト (2019年12月27日). 2022年3月1日閲覧。
  10. ^ a b c d e 内田也哉子 母・樹木希林の見送って。破天荒な両親から独り立ちする時”. 婦人公論.jp (2019年9月24日). 2022年3月1日閲覧。
  11. ^ a b c d e f スタイリスト・伊藤まさことの対談その3「母が惚れた。」”. ネット販売店「weeksdays」のウェブサイト (2019年12月29日). 2022年3月1日閲覧。
  12. ^ 内田也哉子さん謝辞全文「実感のない父と娘の物語が、はじまりにも気付かないうちに幕を閉じた」”. スポニチアネックス (2019年4月3日). 2022年3月20日閲覧。
  13. ^ スタイリスト・伊藤まさことの対談その4「静かに強い。」”. ネット販売店「weeksdays」のウェブサイト (2019年12月30日). 2022年3月1日閲覧。
  14. ^ 内田也哉子 娘として母として考える家族のカタチ(後編)”. NHKのウェブサイト「読むらじる。」よりラジオ深夜便・内田也哉子 (2021年6月25日). 2022年3月1日閲覧。
  15. ^ 5月9日(日)のゲストは、俳優・エッセイスト、内田也哉子さん”. TBSラジオ (2021年5月). 2021年5月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月9日閲覧。

外部リンク[編集]