フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)

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豪胆公フィリップ2世

フィリップ2世フランス語Philippe II, 1342年1月15日 - 1404年4月27日)は、ヴァロワ家の初代ブルゴーニュ(在位:1363年 - 1404年)。ヴァロワ=ブルゴーニュ家の祖。「豪胆公」(le Hardi)と呼ばれる。フランスジャン2世(善良王)とボンヌボヘミアヨハン(盲目王)の王女)の四男。シャルル5世アンジュールイ1世ベリー公ジャン1世の弟。

生涯[編集]

1342年にポントワーズで生まれた。若くから武勇に優れ、百年戦争ポワティエの戦い1356年)でも最後まで父のそばで奮戦、後に豪胆公の異名を取った。1360年に親王領(appanage)としてトゥーレーヌ公に叙されたが、1363年にそれに代わってフィリップ1世の死後父が継承したブルゴーニュ公領を与えられた[1]

さらに、1369年6月19日に兄シャルル5世がフランドルの反乱を抑えるため、イングランドの介入も排除してフランドル伯ルイ2世の娘マルグリット3世とフィリップを結婚させたため、フランドル、アルトワブルゴーニュの各伯領を領有し、ヨーロッパで最も裕福な領土を有する大貴族となった。1390年にはシャロレー伯領を獲得し、この伯位はブルゴーニュ公の相続人に与えられるようになった[2]

シャルル5世の死後、1380年から1388年までは2人の兄アンジュー公ルイ1世やベリー公ジャン1世やブルボン公ルイ2世と共に甥のシャルル6世(狂気王)の摂政を務めた。その間権力と勢力の拡大に努め、1382年に舅のフランドル伯がヘントなどフランドルの都市反乱で劣勢に立たされると、シャルル6世の支援を取り付け舅に加勢、11月27日ローゼベーケの戦いで反乱の指導者フィリップ・ヴァン・アルテベルデ英語版を討ち取り反乱を鎮圧、1384年に舅が亡くなり妻と共にフランドルを相続した。また、北への領土拡大のため1385年4月12日に長男ジャン(後のジャン1世)と長女マルグリットをフランドル近郊のエノー伯ホラント伯ゼーラント伯であるヴィッテルスバッハ家バイエルン公アルブレヒト1世の娘マルグリットと息子ヴィルヘルムを結婚させ(カンブレー二重結婚)、3伯領に足掛かりを作った。更に7月17日、シャルル6世とヴィッテルスバッハ家出身のイザボー・ド・バヴィエールを結婚させ王家にも食い込んでいった[3]

1388年にシャルル6世が親政を始めると権力から遠ざけられたが、1392年にシャルル6世が精神異常の兆候を示すと摂政権をめぐってシャルル6世の弟オルレアン公ルイと争った。対立の焦点は外交にあり、教会大分裂で終息を望みローマを支持するパリ大学に同調する豪胆公に対しオルレアン公はアヴィニョンを支持、ミラノ公国との姻戚関係から北イタリア介入を企むオルレアン公を豪胆公が阻止、1400年ドイツ王ヴェンツェルが廃位されると豪胆公はヴィッテルスバッハ家出身の新たなドイツ王ループレヒトを支持したが、オルレアン公はヴェンツェル支持というように、2人はことごとく対立した。また、シャルル6世の側近だったフランス王軍司令官オリヴィエ・ド・クリッソンを失脚させている[4]

1402年に両者はパリ周辺に軍勢を集め武力衝突寸前となったが、王妃イザボーを始め王族達の説得で和睦、1403年にイザボーを中心とする政権が樹立した。これらの争いは後にブルゴーニュ派アルマニャック派の争いとなりフランスを混乱に追い込むが、豪胆公の生存中は、あくまで宮廷闘争の範疇に収まっていた。とはいえ豪胆公の権力は健在で、孫娘マルグリットルイ王太子と婚約させ、同時にマルグリットの弟で同名の孫フィリップ(後のフィリップ3世)と王太子の姉ミシェルとの婚約も成立、より王家と親密になった。また、1400年にイングランド王ヘンリー4世とシャルル6世の休戦協定に尽力した他、かつて敵対していたクリッソンから幼少のブルターニュジャン5世アルテュール兄弟を託され、後見人として養育している。

1404年にブラバントのハレ(現在のフラームス=ブラバント州の町)で62歳で死去。妻の伯母に当たるブラバント女公ジャンヌには子が無いため、豪胆公の次男アントワーヌを後継者にする取り決めがなされ、アントワーヌを伴いブリュッセルへ旅立ちジャンヌと面会させたが、滞在中に体調を崩したため近隣のハレへ移り、そこで息を引き取った。ブルゴーニュ公位はジャンが、ブラバント公位は1406年にジャンヌ亡き後にアントワーヌが嗣いだ[5]

権勢拡大の一方で芸術にも関心が深く、メルキオール・ブルーデルラムクラウス・スリューテルジャン・マルエルリンブルク兄弟らを招聘して書庫の拡充、多彩なタペストリーの収集、金銀細工・彫刻などあらゆる豪華な飾り立てを奨励、家族の墓所としてディジョンシャンモル修道院を建造して自身もここに埋葬、フランドルの宮廷に華麗な文化を根付かせた[6]

家族[編集]

フィリップ2世が開いた公爵家は、ブルゴーニュで2番目にして最後のものとなった。マルグリット3世との間には9子をもうけた。

脚注[編集]

  1. ^ 清水、P59 - P60、カルメット、P38 - P54、佐藤、P50 - P52、P64 - P65。
  2. ^ 清水、P60、カルメット、P59 - P63、佐藤、P78 - P79。
  3. ^ エチュヴェリー、P51 - P53、清水、P60 - P62、カルメット、P68 - P91、佐藤、P95 - P100。
  4. ^ エチュヴェリー、P53 - P58、清水、P62 - P65、P69 - P70、カルメット、P91 - P95、佐藤、P100 - P101、P109 - P110。
  5. ^ エチュヴェリー、P62 - P64、清水、P70 - P72、カルメット、P96 - P99、P169、佐藤、P112 - P113。
  6. ^ 清水、P61、カルメット、P100 - P113。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

先代:
トゥーレーヌ公
1360年 - 1363年
次代:
(王領編入)
先代:
フィリップ1世
フランス王ジャン2世
ブルゴーニュ公
1363年 - 1404年
次代:
ジャン1世(無怖公)
先代:
ルイ・ド・マール
ブルゴーニュ伯
フランドル伯
ヌヴェール伯
1384年 - 1404年
マルグリットと共同統治
次代:
ジャン1世(無怖公)