ベルナール7世 (アルマニャック伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

ベルナール7世Bernard VII d'Armagnac, 1360年 - 1418年6月12日)は、百年戦争期のフランスの貴族、軍人。アルマニャック伯。フランス王国軍総司令官en)。アルマニャック伯ジャン2世とジャンヌ・ド・ペリゴールの次男でジャン3世の弟。

生涯[編集]

ベルトラン・デュ・ゲクランの指導を受け軍人として成長、1391年に兄が亡くなりアルマニャック伯となった。1407年オルレアン公ルイブルゴーニュジャン1世(無怖公)に暗殺されると、ルイの長子でオルレアン公位を継承したシャルルを筆頭とするオルレアン派と無怖公を筆頭とするブルゴーニュ派の内乱は激化した。

1410年4月、オルレアン公とベルナール7世を始め舅のベリー公ジャン1世ブルターニュジャン5世、相婿のブルボン公ジャン1世と息子のクレルモン伯シャルルアランソン伯ジャン1世ら大貴族の間でジアン同盟が結成された。この同盟は無怖公やイングランドヘンリー5世に対する政治的・軍事的同盟であった。ベルナール7世は同年8月に長女ボンヌをオルレアン公と結婚させ、彼の舅としてブルゴーニュ派と戦った。そのため、オルレアン派はアルマニャック派とも呼ばれる[1]

ベルナール7世はブルゴーニュ派との内乱において活躍し、1411年サン=ドニを落とし、1413年には無怖公に協力的であった食肉商シモン・カボシュフランス語版(シモン・ル・クートリエ)率いるカボシャン党の占拠するパリを窺い、4月にカボシュの反乱フランス語版でパリが混乱、ブルゴーニュ派に反発した国王シャルル6世ルイ王太子の救援に応じて8月にパリへ入りカボシャン党の蜂起を鎮圧、無怖公はパリを退去した。こうしてパリはアルマニャック派の支配するところとなり、1414年2月にパリに残るブルゴーニュ派を排除して無怖公を反逆者と認定、ブルゴーニュ派の都市を落としていった所で9月にブルゴーニュ派と和睦した[2]

1415年アジャンクールの戦いでオルレアン公らアルマニャック派の幹部がイングランド軍に殺害されるか捕虜となり、同年と翌1416年に王太子とベリー公が相次いで亡くなると、ベルナール7世はアルマニャック派の筆頭としてパリで独裁を行うようになったため、1417年にパリから追放した王妃イザボーが無怖公と結び政府は分裂、パリはブルゴーニュ派に補給を絶たれ市民が食糧難に苦しみ、ブルゴーニュ派への粛清でベルナール7世に対する市民の不満は高まった。

1418年5月29日、アルマニャック派の支配に不満を持つパリ市民がブルゴーニュ派の一隊を迎え入れ、ベルナール7世は抵抗出来ずに捕らえられ6月12日に殺害された。その後パリはブルゴーニュ派に制圧され、再びブルゴーニュ派の支配する所となったが、シャルル王太子(後のシャルル7世)は脱出してアルマニャック派に擁立され、ブルゴーニュ派への抵抗を続けていった[3]

子女[編集]

従妹でベリー公ジャン1世の娘ボンヌ・ド・ベリーと結婚し、以下の子女をもうけた。

  • ボンヌ(1393年 - ?) - オルレアン公シャルルと結婚
  • ジャン4世(1396年 - 1450年) - アルマニャック伯
  • マリー(1397年 - 1404年)
  • ベルナール(1400年 - 1456年) - パルディアック伯、ヌムール公、ラ・マルシュ伯
  • アンヌ(1402年 - ?) - 1417年、ドルー伯シャルル2世と結婚
  • ジャンヌ(1403年 - ?)
  • ベアトリス(1406年 - ?)

脚注[編集]

  1. ^ 堀越、P76 - P77、清水、P86 - P87、カルメット、P147 - P148、城戸、P98 - P99。
  2. ^ 清水、P92 - P94、カルメット、P151、P163 - P164、城戸、P110 - P112、P115 - P116。
  3. ^ 堀越、P92、P96 - P100、清水、P99 - P105、カルメット、P176 - P177、P182、城戸、P124 - P125。

参考文献[編集]