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龍皇昇

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龍皇昇
場所入りする龍皇関
基礎情報
四股名 龍皇 昇
本名 エルヘモチリーン・サンチルボルド
Эрхэм-Очирын Санчирболд
愛称 サンチル
生年月日 (1983-03-11) 1983年3月11日(41歳)
出身 モンゴル国ウランバートル市
身長 176cm
体重 148kg
所属部屋 宮城野部屋
得意技 突き、押し
成績
現在の番付 西幕下30枚目
最高位 西前頭8枚目
生涯戦歴 319勝294敗11休(73場所)
幕内戦歴 23勝37敗(4場所)
優勝 なし
データ
初土俵 2000年3月場所
入幕 2007年5月場所
趣味 パソコン
備考
2011年5月21日現在

龍皇 昇(りゅうおう のぼる、1983年3月11日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で宮城野部屋所属の現役大相撲力士。本名はエルヘモチリーン・サンチルボルドモンゴル語キリル文字表記:Эрхэм-Очирын Санчирболдラテン文字転写Erkhem-Ochiryn Sanchirbold)、愛称はサンチル。身長176cm、体重148kg、血液型はAB型、趣味はパソコン。得意手は突き、押し。最高位は西前頭8枚目(2007年7月場所)。

略歴

姉が日本に留学しており旭鷲山を知っていたことから宮城野部屋を紹介され[1]、ウランバートル市立第77高校を3年生で中退して1999年10月に来日し、2000年3月場所で初土俵を踏んだ。順調に出世して、2002年11月場所に幕下昇進を果たした。幕下昇進後は大勝ち続きで一気に幕下上位まで出世したが、2003年11月場所の場所前の稽古で拳を負傷してしまい、その場所を全休し一気に幕下下位に陥落した。その後は幕下上位まで戻ったものの一身一退が続き、1年入門が遅い白鵬に大きく水を開けられてしまった。なお白鵬とは同部屋であり、十両昇進前までは付き人を務めていた。

しかし、2006年3月場所に自己最高位の幕下3枚目で4勝3敗と勝ち越し、夏場所の十両昇進の可能性もあったが見送られ、翌5月場所は最高位の西幕下筆頭で4勝3敗と勝ち越し、5月24日の番付編成会議で翌7月場所の十両昇進が決定した。モンゴル出身では10人目、外国人では16人目の関取である。その場所は西十両14枚目で9勝6敗だった。また、2007年3月場所では、東十両3枚目で9勝6敗と勝ち越し、新入幕を決めた。

新入幕を果たした5月場所は序盤から連勝を重ね、11日目で勝ち越す好調さを見せた。その後14日目には10勝目を挙げ敢闘賞受賞は確実かと思われたが、この場所は平幕で12勝をあげた力士が二人いたこともあって千秋楽に勝てばという条件が付き、結局千秋楽の取り組みでは敗れた為受賞はならなかった。翌7月場所は5勝10敗、さらに9月場所も3勝12敗と大負けし、十両陥落が決定した、しかし2008年1月場所、西十両2枚目で8勝7敗と勝ち越して翌3月場所は3場所ぶりに再入幕を果たしたが、5勝10敗と大きく負け越しとなってしまった、幕内ではなかなか自分の相撲が通じず苦戦し、ついには十両でも負け越しを重ねてしまい、2009年1月場所ではついに関取の座を失い幕下に陥落してしまい、幕下でも成績が振るわず一時は幕下下位まで番付を下げたこともある。

多彩な技で勝負するモンゴル出身力士が多い中では珍しく、龍皇は突き、押しを得意とし、立合いの諸手突きからの重い突っ張りを武器としている。新入幕を果たした2007年5月場所の大相撲中継の新入幕インタビューでも、「モンゴル出身ですが、押し相撲です」と自己紹介した。白鵬と同じ宮城野部屋ということで、白鵬の横綱土俵入りでは露払いを務めている。2007年6月1日、明治神宮で行われた白鵬の新横綱奉納土俵入りでも露払いを務めた。

略歴

  • 2000年3月場所 - 初土俵
  • 2006年7月場所 - 新十両
  • 2007年5月場所 - 新入幕

主な成績

2012年5月場所終了現在

通算成績

  • 通算成績:319勝294敗11休(73場所)
  • 幕内成績:23勝37敗(4場所)
  • 十両成績:81勝84敗(11場所)

場所別成績

                                                                    
龍皇昇 [2]
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
2000年
(平成12年)
x (前相撲) 東序ノ口13枚目
4–3 
西序二段134枚目
6–1 
西序二段54枚目
4–3 
西序二段29枚目
5–2 
2001年
(平成13年)
西三段目94枚目
4–3 
東三段目77枚目
4–3 
東三段目60枚目
3–4 
東三段目73枚目
5–2 
東三段目41枚目
4–3 
西三段目27枚目
3–4 
2002年
(平成14年)
西三段目45枚目
4–3 
西三段目30枚目
3–4 
東三段目52枚目
5–2 
東三段目27枚目
5–2 
東三段目3枚目
4–3 
西幕下51枚目
5–2 
2003年
(平成15年)
西幕下33枚目
6–1 
東幕下13枚目
2–5 
西幕下30枚目
2–5 
西幕下44枚目
5–2 
西幕下26枚目
5–2 
西幕下15枚目
0–0–7 
2004年
(平成16年)
西幕下55枚目
5–2 
東幕下34枚目
5–2 
東幕下22枚目
4–3 
東幕下17枚目
5–2 
東幕下10枚目
4–3 
西幕下6枚目
3–4 
2005年
(平成17年)
西幕下10枚目
4–3 
西幕下8枚目
2–5 
東幕下18枚目
4–3 
東幕下13枚目
3–4 
東幕下17枚目
4–3 
西幕下14枚目
4–3 
2006年
(平成18年)
東幕下9枚目
5–2 
西幕下3枚目
4–3 
西幕下筆頭
4–3 
西十両14枚目
9–6 
西十両8枚目
8–7 
西十両6枚目
7–8 
2007年
(平成19年)
東十両7枚目
8–7 
東十両3枚目
9–6 
東前頭14枚目
10–5 
西前頭8枚目
5–10 
東前頭13枚目
3–12 
西十両5枚目
8–7 
2008年
(平成20年)
西十両2枚目
8–7 
西前頭16枚目
5–10 
西十両5枚目
5–10 
西十両11枚目
8–7 
西十両9枚目
7–8 
西十両10枚目
4–11 
2009年
(平成21年)
東幕下4枚目
1–2–4 
東幕下26枚目
3–4 
東幕下35枚目
2–5 
東幕下51枚目
4–3 
東幕下43枚目
4–3 
西幕下35枚目
5–2 
2010年
(平成22年)
西幕下24枚目
2–5 
西幕下38枚目
6–1 
東幕下14枚目
3–4 
西幕下25枚目
2–5 
西幕下40枚目
5–2 
東幕下26枚目
4–3 
2011年
(平成23年)
西幕下22枚目
3–4 
八百長問題
により中止
西幕下31枚目
4–3 
西幕下16枚目
2–5 
西幕下28枚目
4–3 
東幕下23枚目
4–3 
2012年
(平成24年)
西幕下18枚目
1–6 
西幕下40枚目
5–2 
西幕下30枚目
3–4 
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

人物像

同部屋の弟弟子である白鵬が順調に番付を上げて行く一方で自らは低迷していた時は、「どうして同じ物を食べているのに…」と思っていた。稽古場でも白鵬に歯が立たなくなり、悔しさのあまりに稽古場の羽目板を強打して負傷したりもしている。しかし両者は私生活では非常に仲が良く、稽古が終わってからもよくボウリングやカラオケに行っていたという。誕生日も同じ3月11日(龍皇は白鵬の2歳年上)で、白鵬が結婚するまでは宮城野部屋ではいつも両者の誕生日パーティーを同時に開いていた。

師匠である宮城野親方(元幕内・竹葉山)は、自身が年寄・15代熊ヶ谷を襲名していた当時に著した著書『白鵬 「山」を越える男』(主婦と生活社、2010年)において、「もし宮城野部屋に龍皇がいなかったら、白鵬はモンゴルへ帰っていたかもしれない」と龍皇に対して深い感謝の意を表している。白鵬も「龍皇は僕の恩人ですよ。妻以上に何でも相談できる心強い兄弟子です。彼がいなかったら、マジで横綱になってなかったかもしれないね」と語っている。

2010年9月場所11日目(2010年9月22日)において、白鵬の付き人を務める龍皇が、白鵬が待機している東支度部屋から反対側の西支度部屋へ往来していたことが判明し、日本相撲協会は翌23日、龍皇と(当時の)師匠の11代宮城野(元十両・金親)と15代熊ヶ谷(当時)の両親方に対して厳重注意を行った。力士や付け人が東西の支度部屋を往来することは八百長などの誤解を招きかねないとして禁止されている。龍皇は「猛虎浪関と食事の予定があり、携帯電話がつながらなかったので西支度部屋に行って話をした」と説明し、「(往来禁止は)知らなかった。反省している」と話した[3]。白鵬からも「何してるんだ!」と注意されたという。

改名歴

  • 龍皇 昇(りゅうおう のぼる)2000年3月場所 -
部屋の岩崎マネージャー(元幕下・岩海)が、港龍にちなんだ皇龍を考えた後で語呂が良い「龍皇」にし、下の名は昇龍のようにと「昇」と名付けた。

関連項目

脚注

  1. ^ 当初は高島部屋へ入門する予定だったが、既に高島部屋には旭天鵬の弟である不動山が在籍していて、外国人力士2人の面倒を見るのは大変だという高島親方(元関脇高望山)の意向から、宮城野部屋へ龍皇の所属の受け入れを依頼し、宮城野部屋がそれを引き受けたという経緯がある。
  2. ^ Rikishi in Juryo and Makunouchi” (English). szumo.hu. 2007年6月7日閲覧。
  3. ^ "<大相撲>付け人の幕下・龍皇が反対側の支度部屋に入る"毎日新聞 2010年9月23日記事

外部リンク