赤軍

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赤軍の(正式なものではないが広く用いられた)

赤軍(せきぐん;ロシア語Красная Армияクラースナヤ アールミヤ)は、1918年から1946年にかけてロシアおよびその後継国家であるソビエト連邦に存在した軍隊1917年より始まったロシア内戦の最中に労働者・農民赤軍(ろうどうしゃ・のうみんせきぐん;Рабоче-крестьянская Красная Армияラボーチェ・クリスチヤーンスカヤ・クラースナヤ・アールミヤ、略称:労農赤軍РККАエールカーカーアー)として設立され、1937年に海軍が赤軍から独立した後はソ連軍の地上軍(陸軍)を指す呼称となった[1][2]

は、革命によりソビエト国家が誕生するまでに流されてきた労働者を意味している[要出典]

概要

1917年に発生したロシア革命後の1918年1月28日ユリウス暦1月15日)、人民委員会議は、それまでにあった赤衛隊を基に、「労働者・農民赤軍労農赤軍)」の創設を布告した。2月23日には、ソビエト・ロシアに対する干渉戦争において、赤軍がドイツ軍に勝利しており、ソ連の陸海軍記念日となった。

ロシア内戦中の赤軍創設を指揮したのが、1918年から1925年にかけて軍事人民委員(軍事大臣に相当)であったレフ・トロツキーである。初期の赤軍は、志願兵によって構成されたもので、階級やそれを表す記章がなく、将校は民主的な選挙によって選ばれていた。のちには、軍隊への参加が義務となり、またすべての部隊に政治将校が割り当てられた。帝政時代の遺物として廃止されていた職業軍人による将校制度も、1935年復活した。1937年から1939年大粛清では、ほとんどすべての高級将校が追放されるか、粛清されるかしている。そのために近代化が遅れ、有能な指揮官が殆どいなくなったため、第二次世界大戦初期には敗北が続いた。

ナチス・ドイツ軍のソビエト連邦侵攻時、赤軍は約150万人であった。続く第二次世界大戦中は、1500万から2000万人にまで膨れ上がっている。その内、700万から1000万人が死亡した。第二次世界大戦後は、約500万人に減少し、冷戦の終結時には、300万人になっていた。

第二次世界大戦後期における、ヨーロッパの「解放」において、赤軍は残忍で大規模な殺人・略奪・強姦を行った。世界難民問題研究会協会のドイツ課長であるライヒリンク博士によれば、ソ連赤軍がベルリンまで侵攻してくる間に、190万人の女性が強姦されたという。また、第二次世界大戦末期にソ連が日ソ中立条約を一方的に破って千島列島南樺太満州から朝鮮半島に侵攻した時も、ソ連赤軍は満州・南樺太・朝鮮半島などに住む多数の日本人女性を集団的に強姦した。

1946年2月25日、「赤軍」から「ソビエト連邦軍」という名称に変更された。

なお、日本では、赤軍といえば60年代新左翼運動、学生叛乱期に尖鋭化したことで知られる共産主義者同盟赤軍派とその分派をさすことがある。

組織

1941年6月22日時点での組織。

赤軍郵票(1938)

統制機構

軍事行政単位

海軍

海軍は、海軍人民委員部に所属していた。

戦歴

ベルリンの戦いで勝利の旗を掲げる赤軍の兵士
ベルリンの戦いで勝利の旗を掲げる赤軍の兵士

脚注

  1. ^ ハリエット・F・スコット,ウィリアム・F・スコット『ソ連軍 思想・機構・実力』乾一宇 訳、p.101
  2. ^ ソ連共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所『第二次世界大戦史(История Великой Отечествнной Войны Советского Союза)1』弘文堂、pp.156-168

関連項目

外部リンク

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