猿楽
猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代から室町時代にかけて流行した日本の芸能。および、それをもとに室町期に観阿弥・世阿弥らによって確立された芸能の、1880年までの名称[1]。本項では前者について解説する。後者については能楽を参照のこと。
名称
散楽(さんがく、散樂)、申楽(申樂)とも書く。読み方は「さるごう(さるがう)」とも。演者(狂言含む)は座頭級のものを楽頭、太夫、一般の座員を猿楽師、または単に猿楽とよんだ。猿楽という言葉は散楽の転訛したものである。申楽の表記は世阿弥の伝書で使われる。猿楽は本来神楽だから、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。
歴史
奈良時代
中国大陸から、散楽と呼ばれる芸能が移入されたのが、猿楽のはじまりと考えられている。散楽の具体的な内容は史料が少ない為にはっきりしていないが、正倉院宝物の「墨画弾弓」に描かれた「散楽図」などから推測される限りでは、軽業や手品、物真似、曲芸、歌舞音曲など様々な芸能が含まれていたものとされる。朝廷は散楽師の養成機関「散樂戸」を設けるなどし、この芸能の保護を図った。
平安時代
延暦元年(782年)、桓武天皇の時代に散楽戸は廃止される。朝廷の保護から外れたことにより、散楽師たちは、寺社や街角などでその芸を披露するようになった。そして散楽の芸は、他の芸能と融合していき、それぞれ独自の発展を遂げていった。
この散楽が含む雑芸のうち、物真似などの滑稽芸を中心に発展していったのが猿楽と言われる。当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。これらの実態の一部は『新猿樂記』[2]「東人之初京上(あずまびとのういきょうのぼり)」「妙高尼之襁褓乞(みょうこうあまのむつきごい)」のように記録されている。また同史料には、咒師と呼ばれる呪術者たちへの言及が見られることから、咒禁道の影響を受けた儀式を芸能と融合させたものがこの時期に存在しており、それらが翁猿楽へと発展したのではないかとの説もある。[3]
やがて庶民の人気を得ていくうちに、座を組織して公演を催す集団も各地に現れ始めた。
鎌倉時代
平安時代に成立した初期の猿楽に歌舞音曲が組み合わされ、現在で言うところの能楽の原型が出現したのが鎌倉時代であると考えられている。
南北朝・室町時代
鎌倉時代の猿楽が発展し、観阿弥や世阿弥らの登場によって現在の能楽とほぼ同等の芸能としての猿楽が形作られる。
織豊期から江戸期
現在は能楽と呼ばれている芸能が「猿楽師」による「猿楽」と呼ばれて興行、また豊臣秀吉や徳川家康や後の征夷大将軍である徳川綱吉や各大名などにより演じられていた。また間部詮房は猿楽師から側用人に出世した。
猿楽の演じ手
もともと猿楽は大和において「七道の者」であった。漂泊の白拍子、神子、鉢叩、猿引きらとともに下層の賎民であり同じ賎民階級の声聞師の配下にあった。
一部の猿楽の座は、社寺の庇護を得て、その祭礼の際などに芸を披露した。最初は余興的なものとして扱われていたが、やがて社寺の祭礼の中に、猿楽が重要な要素として組み込まれるような現象も起き始めた。社寺の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、猿楽の座が寸劇を演じるようなこともあった。これらがやがて、「猿樂の能」となり、公家や武家の庇護をも得つつ、能や狂言に発展していったと言われている。
参考文献
- 梅若猶彦『能楽への招待』岩波書店、2003年
注
- ^ 猿楽は、室町期に現在で言うところの能楽に発展し江戸時代に武家の式楽となった後も猿楽と呼ばれたが、明治14年に「能楽」と言い換えられた(詳細は能楽の項を参照のこと)。
- ^ 従来、11世紀中頃に藤原明衡によって書かれたと考えられてきたが、近年、白河法皇の院政期に成立したとの見方も浮上している。
- ^ 梅若猶彦『能楽への招待』岩波書店、2003年