牛島満

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牛島 満
沖縄戦直前の牛島満
生誕 1887年7月31日
日本の旗 日本 鹿児島県鹿児島市
死没 (1945-06-23) 1945年6月23日(57歳没)
日本の旗 日本 沖縄県島尻郡摩文仁村摩文仁
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1908 - 1945
最終階級 陸軍大将
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牛島 満(うしじま みつる、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将(中将から、戦死により即日大将に親任される)。鹿児島県鹿児島市出身。

沖縄戦において、第32軍を指揮し自決した。温厚な性格で知られ教育畑を歴任したが、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として武漢市南京市攻略戦に参加し、武功を挙げた。

生涯

生い立ち

牛島満は1887年7月、薩摩藩士出身の陸軍中尉の父と、同じく薩摩藩の武家の出である母との間に4人目の子として生まれた。出生地は東京であるが、牛島が生まれてすぐ父が急逝したため、母は子ども達を連れて郷里である鹿児島に帰郷している。

亡き父の後を継ぐために軍人への道を志し、1897年に熊本陸軍地方幼年学校に入校。1906年陸軍士官学校に入校し、1908年に士官学校を第20期生として卒業。同年12月少尉に進級し、近衛歩兵第4連隊附となった。1911年12月、中尉に進級。1912年陸軍大学校に入校。同期には山下奉文田中静壱下村定らがいる。1916年に陸大を第28期生として卒業。

1918年年8月、シベリア出兵が始まり、シベリア派遣軍野戦交通部参謀としてウラジオストクに赴任。同年12月大尉に進級し、シベリアからの帰国後は功績から功5級金鵄勲章を授与された。1919年4月、原隊である近衛歩兵第4連隊の中隊長を務めた後、1920年8月から陸軍歩兵学校教官となり、1924年少佐に進級する。

同年、歩兵第43連隊大隊長を拝命し、1925年4月に歩兵第45連隊附の配属将校として、母校である第一鹿児島中学校に配属された。

支那事変に従軍

1928年3月、歩兵第23連隊附となり、同年8月中佐に進級。1930年には下関要塞参謀、1932年には陸軍戸山学校教育部長となり、大佐に進級する。

1933年、牛島が幼年学校に在学中、区隊長を務めていた山岡重厚陸軍省軍務局長の推薦により、牛島は陸軍省高級副官に就任。荒木貞夫林銑十郎川島義之と三代の陸軍大臣に仕えた。

1936年2月26日に起こった226事件の際には、牛島は中国大陸に出張中だったため事件には遭遇しなかったが、翌3月、牛島は事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉らの所属部隊である歩兵第1連隊長に任ぜられ、満洲北部や南満洲と朝鮮との国境付近にある寛甸周辺で活動する東北抗日聯軍などの抗日パルチザン匪賊との戦闘に従事した。

1937年3月、少将に進級し、郷里鹿児島の第6師団歩兵第36旅団長に任ぜられる。まもなく支那事変が勃発し、牛島率いる歩兵第36旅団は8月初旬、列車で朝鮮半島から華北にある山海関に向かい、北京近郊に展開する蒋介石精鋭の中国国民政府軍第14軍の3個師の拠点である千軍台下馬嶺を激しい戦闘の末に占領した。この戦闘では、第36旅団だけで将校7名、准士官以下170名が戦死するという予想を上回る犠牲者が出ている。

その後、牛島率いる36旅団は、9月中旬に保定、10月8日に正定、10月14日には石家荘南郊の内邸まで進撃し、牛島旅団の凄まじい突進ぶりに敵味方も舌を巻いて驚き、華北の戦線に「日本に牛島旅団あり」との勇名をとどろかせた。

11月には、膠着状態にある上海方面の戦勢を打開するため、第6師団が同方面に投入された。第36旅団は上海上陸後、崑山から蘇州の線に沿って進撃し、12月11日に始まった南京攻略戦に参加した。南京戦後は、南京郊外の蕪湖地区に駐屯し、1938年7月に始まった武漢作戦にも、中核部隊として参加している。同年12月には第11軍司令官岡村寧次から牛島に感状が授与されている。同時に陸軍予科士官学校幹事にも任命されている。

教育者として

1939年3月、牛島は歩兵第36旅団長を転出し、陸軍予科士官学校校長兼陸軍戸山学校校長に就任。同年8月には中将に進級した。同年12月第11師団長に親補されて満洲国ソ連国境の町、虎林に赴任し、対ソ防衛の任にあたる。翌1941年10月には陸軍公主嶺学校校長となる。この年の12月8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦するが、牛島自身は政府・軍統帥部の無謀さと戦争の将来に強い懸念を示したとされる。牛島自身は平和主義者であり、事変を早く終結させ、北方の脅威であるソ連の脅威に対し万全の備えを講ずるべきというのが牛島の持論だったと言われている。

1942年4月、牛島は陸軍士官学校校長に就任する。これは軍事参議官の土肥原賢二、山田乙三教育総監が強く牛島を推薦したからだと言われている。当時はの世相はシンガポールが陥落し、国内が軍民共に戦勝気分に酔っていた時期であるが、牛島は陸士の教官に対し、士官候補生や教官の間にも驕りや楽観的空気が蔓延していると指摘して注意を与えている。

また、陸士の教授部戦術課長をしていた加藤道雄に対し、従来のマンネリ的な戦術教育を改めて、圧倒的物量を誇るアメリカ合衆国を想定した実戦既応の教育方針を打ち出すよう指示している。後に加藤大佐がラバウルに参謀として赴任する際には、見聞した米軍の戦法を具体的に知らせるよう頼んでいる。

沖縄の戦い

1944年8月、戦況が日々悪化する中、牛島は第32軍司令官に親補され、沖縄に赴任する。

牛島は、無辜の住民を戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、着任してすぐ県知事と協議している。当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。牛島は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたという。

また60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出した。牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体となった「玉砕」を防ごうとしたと見られる。八原博通高級参謀も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島の計画を支持していた。(一方で、マラリア発症地である山岳地帯で「やんばる」と呼ばれる一帯には食糧の備蓄はなく、また長期間の避難では栄養失調餓死者が出るということは容易に想像が出来たとする意見もある。実際「やんばる」に逃れた住民の死因の大半は栄養失調や餓死、そしてマラリアであった。ただ、牛島個人としてはいざという場合に、軍用糧食を一般住民に配給する覚悟を決めており、側近にもその旨を漏らしている[要出典])。

また、牛島自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島は暇があるたびに作業現場を視察し、中学生や住民にまじって壕掘りの手伝いをした。県民の献身に感動した牛島は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示している。

1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸すると、当初は八原高級参謀の立案通りに米軍を沖縄本島内陸部に誘い込んで攻撃するという持久戦を展開した。しかし、大本営や32軍を管轄する第10方面軍から「消極的」であるとその作戦方針を批判され、ただちに同島の飛行場を奪回するよう圧力がかかり、これに積極攻撃論者の長勇参謀長が同調。八原が反対する中、牛島は総攻撃を認可し、5月4日に攻撃を実行するが、失敗。第32軍は兵力の半数を失うという損害を被る。

これを受けて、八原高級参謀の発案により、第32軍司令部が置かれていた首里を放棄し、南部の摩文仁に司令部を移動したが、この際に沖縄県民も日本軍と共に南部に逃れ、多くが戦闘に巻き込まれて多大な犠牲者を生んだ。このことに関して、八原参謀の提案とはいえ、県民のことを深く考慮せずに司令部の南部撤退に踏み切った牛島の判断は誤っていたのではないかと批判される。

最期

6月23日午前4時30分、牛島は長参謀長と摩文仁洞窟に置かれた司令部壕で割腹自決をした。自決の直前、牛島は長と共に東方を拝して「天皇陛下万歳」を三唱。頬には涙が伝っていたという。午前4時頃、牛島は幕僚と共に、洞窟から外に出て眼下に広がる沖縄の空と海を見渡し、再度洞窟に引き返した。当初は摩文仁の丘の上で自害するつもりであったが、米軍の攻撃が激しく断念している。その夜は壕にいた生存者全員が集められ、牛島は皆に「笑って別れよう」と語り、一人ずつに酒とパイナップルの缶詰を振舞い、今までの労をねぎらった。

牛島は、戦闘に汚れた服から礼装に着替え、東方を拝して白い布の上に正座した。牛島は手に銘刀「来国俊」を持ち、刀を腹に突き当てた。そして、以前より介錯を頼んでいた次級副官、坂口勝大尉が軍刀を牛島の首に振り落とした。遺体は鍾乳洞の自然の穴に埋めたと言われているが、今日まで正確な場所は分かっていない。また、介錯した牛島の首の行方についても、当番兵が抱えたまま手榴弾で自爆した、米軍の砲弾で吹き飛ばされたなどの諸説がある。

一方、元沖縄県知事の大田昌秀は、米国立公文書館から牛島と長勇の最期の様子を記録した文書と二人の遺骸の写真を発見したと主張し、二人の遺骸とされる写真を見る限り、切腹や介錯した後は確認できなかったとし、文書では、牛島と長は青酸カリを含んだ注射器によって服毒自殺したと記されているという[1]。ただし、写真の遺体の人物については、牛島と長では無いとの意見もある。

沖縄憲兵隊の副官だった人物の証言によると、牛島の遺体を確認したいという米軍の要請により摩文仁の軍司令部壕跡に向かうと、司令部壕の下方30〜40メートルのところにあるくぼ地に、同じ場所に並べるように石を積んで埋葬されていた牛島と長参謀長の遺体を確認したという。遺体には首が無く、略章をつけた軍服に白い手袋をしていたとされる[2]

評価

沖縄戦で多大な犠牲を払ったアメリカ軍は牛島を、「牛島将軍は、物静かな、極めて有能な人で、全将兵が心服していた。」と高く評価していた。また、沖縄戦で第32軍の指揮をとった牛島と長勇参謀長と八原博通高級参謀の3名を「牛島の円熟した判断力、長の軽快にして突進型の勢力、八原の機敏な識別力が三位一体となって、第32軍を非常に強力な軍隊にしていた。」とも評価している。[3]また、沖縄戦末期にアメリカ軍司令サイモン・B・バックナー・ジュニア中将から牛島宛に送られた降伏勧告文には「歩兵戦闘の大家である牛島将軍」と書いてあり、それを八原から見せられた牛島は「いつの間にか、俺も歩兵戦術の大家にされてしまったな」と笑っていたと言う[4]

アメリカ軍事評論家ハンソン・ボールドウィンは、「太平洋戦争において日本の名将を二人あげるとするならば、陸の牛島・海の田中」と評し(田中とは、第二水雷戦隊司令官であった田中頼三海軍中将のこと)、沖縄戦における牛島の采配を高く評価している。

一方で、沖縄戦で多くの住民犠牲を出したことにより、日本における牛島の評価は別れている。牛島は万事を長勇参謀長ら参謀に一任し、自らは責任のみ負うとしたていたが、沖縄戦後半に作戦立案を一任した八原博通高級参謀は、作戦を巡ってしばしば他の参謀と対立し、司令部に不協和音を生じる一因となり、作戦の一貫性を欠くこととなった。また、大打撃を受けた1945年5月4日の大攻勢や、民間人に多数の犠牲を出す要因となった首里撤退は、提案したのは長参謀長や八原高級参謀とはいえ、その判断は誤っていたとする指摘もある。

島民の安全を考えて戦闘前に疎開させる配慮を行った硫黄島栗林忠道陸軍大将や、沖縄戦において、玉砕前に戦後の沖縄県民に対して配慮の要望を記述した『沖縄県民斯ク戦ヘリ』の惜別電文を打った大田実海軍中将と比較すると、沖縄戦での牛島の采配に対しては評価が分かれている。

また、鉄血勤皇隊女子看護学徒隊らに突然「爾後各個の判断において行動すべし」との内容の解散命令を出し、その多くが戦死または行方不明となったり自決に追い込まれたことへの責任、自決しただけで自身は部下らとは違い、捨て身になって敵兵に向かい戦死したのではないこと、そして牛島の最後の命令が「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と降伏を否定するものだったことから[5]、戦後の沖縄県民の間には牛島に対し、今も厳しい見方がある。

昭和史家の半藤一利も、自著「指揮官と参謀」の中で牛島個人の人間性や武勇を評価しつつも、「悠揚秦然と微笑をうかべるのみではいけなかった」と第32軍司令官として全てを参謀まかせにしたことを批判している。

沖縄戦がクローズアップされがちな牛島だが、2.26事件以後に歩兵第1連隊の新連隊長に着任した際、事件に関わった下士官兵に対し、「汚名をすすぐために全員白木の箱で帰還せよ」と恫喝したという。下士官兵は一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命令に従って適法な出動と誤認し襲撃に加わっていた。歩兵第1連隊第11中隊の堀口真助二等兵は「早い話が名誉挽回のため死んでお詫びせよという意味らしかった。兵隊に対する激励の言葉とは思われず反発を感じ、連隊長の人間性を疑った」と回想している。事件に参加した兵たちは、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤輝三中隊に所属していた下士官兵は殆どが戦死した。

一方で、元陸軍少佐奥田鑛一郎は、首里撤退の誤りを指摘しつつも、「生き残った第32軍の将兵はもちろん、沖縄県民の牛島司令官個人への感情は、敬愛の気持ちこそあれ、反感や怨磋の声は聞かれなかった」と述べている。軍事評論家である伊藤正徳は「小学校の校長によし、大学の総長にしてもよし。およそ校長として牛島ほど似合いの人は無い」と天性の教育者であったと評している。

辞世の句

矢弾尽き 天地染めて 散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇国護らん
秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ

逸話

  • 昔から戦場で用便を済ます癖があり、必ず見晴らしのいい場所などを選んでいたらしい。中国戦線では用便中に中国軍の1個分隊が目の前に現れたが、その1個分隊を捕虜にしたというエピソードも残っている。
  • ある日、自宅に酔っ払いが表札の「牛島」を「牛鳥」と読み間違え、料亭と間違えて上がって来た事があったが、牛島は嫌な顔をせずに酔っ払いと深夜まで飲み明かしたという[6]
  • 陸士校長の在任中に校内で火災が発生するという事件が起こり、幸い火は懸命の消火活動で幹部室だけで食い止め、生徒宿舎に被害は無かった。火事の報を聞いた牛島は「私が出向いたからといって、火が消えるわけでは無いだろう」と特に慌てる風でもなく、翌朝普段通りに出勤し、現場を見回った際には怒るわけでもなく「1人も怪我をしなくてよかった。しかし、一角だけ綺麗に焼けたもんだ」と笑い、何事も無かったかのように校長室に入っていき、生徒隊長や幹部らを驚かした。失火の責任者として中隊長と当番士官は左遷されたが、この件を聞いた東條英機首相(陸相兼務)は、牛島に対して責任者を処罰するよう要求し、最前線部隊に転出という懲罰人事にまで言及した。これに対して牛島は「校長の私が責任をとる。ましてや中隊長を刑罰的に最前線に送るなど絶対反対」と拒否回答を東條に送りつけている。
  • 牛島に接したことのある沖縄県民の間では、彼の温厚な人柄を懐かしむ声は多い。司令部壕掘りを手伝っていた人物の回想では、「穏やかな人で、敬礼すると『学生さん、ご苦労』と言っていた。靴がすり切れたので、はだしで作業をしていたら、『靴はどうした』と聞いて、早速新しい靴を持ってきた」という。また、32軍幹部の馬の世話をしていた獣医部の回想では、ある日指定時間に遅れて牛島の馬を連れてきた際、怒鳴られるのを覚悟したが、牛島は「私の方が早く来すぎたから」と語り、怒るどころかにこやかに答えたという。[7]
  • 牛島満の慰霊碑が、鹿児島市加治屋町の甲突川河川敷に建立されている。周囲には桜が植樹されており、鹿児島市民には花見の名所として人気がある。
  • 孫に当たる牛島貞満は東京で小学校の教師をし統合教育に尽力するかたわら、毎年、沖縄県内の小学校に出向くほか各地の小学校で平和授業をしている。穏やかで優しい人だったという祖父が「最後まで敢闘」するように伝え、住民の被害を増やしたことを示し、「人が人でなくなるのが戦争です。」と、そして「軍隊は住民を守らない。沖縄戦から学んだことです。」と子供たちに伝える[8]

牛島満を演じた人物

脚注

  1. ^ http://www.news.janjan.jp/living/0902/0902187768/1.php
  2. ^ “戦禍を掘る 出会いの十字路 [125 32軍司令部壕(10)]牛島中将の遺体確認”. 琉球新報. (2010年1月27日). http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156404-storytopic-212.html 2014年10月24日閲覧。 
  3. ^ アメリカ陸軍省編「沖縄 日米最後の戦闘」外間正四郎訳 光人社NF文庫 103頁
  4. ^ 八原博通 「沖縄決戦 高級参謀の手記」中公文庫 2015年 409頁
  5. ^ ただし、この文を起草したのは長野英雄作戦参謀で、『生きて虜囚の〜』の文は長参謀長が付け加えたものである。
  6. ^ 「沖縄軍司令官 牛島満」奥田鑛一郎著 49〜50頁
  7. ^ “首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕 [29 32軍首脳(上)]人間味あふれる司令官”. 琉球新報. (2009年12月13日). http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-154151-storytopic-205.html 2014年10月24日閲覧。 
  8. ^ 琉球新報 2005年6月20日 、朝日新聞「ひと」欄 2010年6月22日

参考文献

関連項目