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榎本健一

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えのもと けんいち
榎本 健一
榎本 健一
別名義 榎本 健 (京都時代)
生年月日 (1904-10-11) 1904年10月11日
没年月日 (1970-01-07) 1970年1月7日(65歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市赤坂区青山
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
職業 俳優歌手コメディアン
ジャンル 舞台映画
活動期間 1922年 - 1970年
活動内容 軽演劇コメディ映画ミュージカル映画
配偶者 花島喜世子 前妻
榎本よしゑ 後妻
著名な家族 長男 夭折
主な作品

軽演劇
最後の伝令
西遊記


映画
虎の尾を踏む男達


楽曲
洒落男
私の青空
月光値千金
エノケンのダイナ

渡辺のジュースの素
 
受賞
紫綬褒章
勲四等旭日小綬章
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榎本 健一(えのもと けんいち、1904年10月11日 - 1970年1月7日)は、日本の俳優歌手コメディアンである。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で活躍した。

来歴・人物

生い立ち

東京市赤坂区青山(現在の東京都港区青山)で生まれる。幼少期に母を亡くし、その家系の祖母が引き取るが、その祖母も死去。父親の元で育てられるものの、生来のやんちゃな性格が仇となり、学校から親が呼び出されることもしばしばあった。晩年の述懐[要出典]によると、当時流行していた『馬賊の歌』に憧れて、満州で馬賊になることも考えていたようだが、浅草に頻繁に遊びに行っていたこともあり、役者になることを志した。

浅草オペラ

その後、浅草オペラの「根岸大歌劇団」の俳優・柳田貞一に弟子入りした。 1922年(大正11年)3月20日、「根岸大歌劇団」がビゼーのオペラ『カルメン』を初演、そのコーラスでデビューしている。コーラス・ボーイとして所属し、佐々紅華の創作オペラ『勧進帳』などに出演。この時代の親友に、後に新劇の名優となり、広島の原爆で落命した丸山定夫がいた。徐々に頭角を現すが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって壊滅的な被害にあった浅草を離れ、当時流行の最先端であった活動写真(映画)の撮影所がある京都嵐山で喜劇的な寸劇を仲間らと演じていた。この震災前後、エノケンは舞台で猿蟹合戦の猿役を演じたとき、ハプニングでお櫃からこぼれた米粒を、猿の動きを真似て、愛嬌たっぷりに拾いながら食べるアドリブが観客に受け、喜劇役者を志すきっかけとなったと言われる。

東亜キネマ京都撮影所、中根龍太郎喜劇プロダクションの端役俳優を経て、1929年(昭和4年)、古巣浅草に戻り「カジノ・フォーリー」に参加。一度は解散するが、エノケンを中心とした新生カジノ・フォーリーは、都会的なギャグとコントのセンスで一躍インテリ層の人気を集め、若き文豪であった川端康成が新聞小説『浅草紅団』(1929年 - 1930年、東京朝日新聞)で紹介。「金曜日の晩には踊り子がズロースを落とす」という噂も手伝って、連日満員の大入りとなり、浅草の人気者となった。

その後、「プペ・ダンサント」を経て、ジャズシンガーの二村定一と二人座長となった「ピエル・ブリヤント」を旗揚げ。座付作家に菊谷栄、俳優陣には、中村是好武智豊子、師匠である柳田貞一らを抱え、これが後に「エノケン一座」となる。

エノケン・ロッパの時代

エノケンの「動き」の激しさについて、手だけで舞台の幕を駆け上る、走っている車の扉から出て反対の扉からまた入るという芸当ができたという伝説がある。この人気に目をつけた松竹はエノケン一座を破格の契約金で専属にむかえ、浅草の松竹座で常打ちの喜劇を公演し、下町での地盤を確固たるものとした(ピエル・ブリヤント後期)。一方、東宝[要出典]は、映画雑誌編集者であった古川緑波の声帯模写などの素人芸に目を付け、トーキーの進出で活躍の場を失っていた活動弁士徳川夢声生駒雷遊らと「笑の王国」を旗揚げさせ、有楽座で主に学生などインテリ層をターゲットとしたモダンな喜劇の公演を旗揚げし、「下町のエノケン、丸の内のロッパ」と並び称せられ、軽演劇における人気を二分した。

東宝の前身である、トーキー専門会社・ピー・シー・エル映画製作所の映画にも出演。その第一作『エノケンの青春酔虎伝』(監督は日活から迎えた山本嘉次郎)は、トーキー初期のヒット作となった。クライマックスシーンで、飛び乗ったシャンデリアから落下、全身を強打して、撮影は一時中断かと思われたが、翌日もエノケンは元気に撮影所に現れ、ラストまで撮り終えたというエピソードも残っている。また、喜劇を得意とする監督であった山本嘉次郎とは度々コンビを組んだ。

浅草時代からコロムビアの廉価盤「リーガル」レーベルや、ビクターに『モンパパ』などをレコーディングしていたが、1936年(昭和11年)にポリドール専属の歌手となり、多くの曲を吹き込んでいる。当時、アメリカで流行し始めたジャズも取り入れ、『洒落男』『私の青空』『月光値千金』『エノケンのダイナ (曲)』など既に他歌手の歌唱でヒットしていた和製ジャズの流行歌を、自分のキャラクターにあわせカバー、『リリ・オム』『南京豆売り』『アロハ・オエ』など、外国曲を原詞とは全く関係の無いストーリーに沿った歌詞で歌いヒットした。同じポリドールの人気歌手東海林太郎上原敏と一緒のスナップ写真が多く残されている。エノケンが司会を務めた1941年(昭和16年)発売の流行歌謡集「歌は戦線へ」はポリドール専属歌手を総動員し、慰問用として数多くプレスされた。

ミュージカル風に話が進行するエノケン映画は、1940年(昭和15年)まで、ほぼ年に3~4本は制作された。『エノケンの千万長者』『エノケンの頑張り戦術』といった現代劇、『エノケンの近藤勇』『エノケンのどんぐり頓兵衛』『エノケンのちゃっきり金太』『エノケンの猿飛佐助』『エノケンの法界坊』『エノケンの弥次喜多』『エノケンの鞍馬天狗』『エノケンの森の石松』『エノケンのざんぎり金太』といった時代劇はいずれもヒットとなった。ほとんどエノケン一座でキャスティングされ、人気を博した。その後、人気俳優らと共演した映画『エノケンの孫悟空』が1941年(昭和16年)に封切られたが、中国ロケを敢行し、当時流行していたオペラ[要出典]を採り入れた内容で、大ヒットとなった。

しかし、第二次世界大戦の激化によって、国策に賛同する役柄を演じさせられる事が多くなり、その人気は徐々に衰退していった。

喜劇界の重鎮

ファイル:Kenichi Enomoto 1945.jpg
『虎の尾を踏む男達』(1952)

終戦後、笠置シヅ子がエノケンの相手役を務めたが、同コンビは有楽座の舞台を連日満員にし、映画でも『エノケンのびっくりしゃっくり時代』『歌うエノケン捕物帖』『エノケン・笠置のお染久松』などがヒット作となった。また、過去に「犬猿の仲」といわれた古川ロッパと1947年4月東京有楽座『弥次喜多道中膝栗毛』で初共演。直後の映画『新馬鹿時代』前編後編でも榎本のヤミ屋を演じて古川の警官と共演。ともに話題を呼んだ。

舞台で孫悟空を演じた際に、如意棒を左足に落としたことが原因で脱疽を発病。1952年(昭和27年)、再発したのは右足で、足の指を切断する事になった。その後は主に舞台に活躍の場を移し、1954年(昭和29年)には古川緑波、柳家金語楼と「日本喜劇人協会」を結成。自ら会長となり、喜劇人協会の公演などで軽演劇を演じ続けた。1960年(昭和35年)には、46歳で紫綬褒章を受章した。

また長男を若くして失った。 1962年(昭和37年)には病魔が再発し、右足を大腿部から切断。失意から自殺未遂を繰り返したが、後妻の献身的な看護と、病床を訪ねた喜劇王ハロルド・ロイド(ロイドも撮影で指を失っている)の励ましにより、生きる気力を取り戻した。

その後、精巧な義足を得て、舞台・映画に復帰。しかし、喜劇であるのに笑わない観客を見て「お客さんは俺の義足しか見てくれねえんだもの」と本人が上演後に漏らした[要出典]。榎本はその後も、この義足にいろいろ仕掛けを施して、義足を使った芸も試している。

晩年

晩年は、舞台活動も少なくなったが、テレビドラマ「おじいちゃま、ハイ」や歌番組出演、「渡辺のジュースの素」「サンヨー・カラーテレビ」などのコマーシャルソングで話題を集めた。一方、映画演劇研究所を開設して後進の育成指導に勤めている。面倒見もよく、1960年代大阪から上京した大村昆は、「当時、関西喜劇人に対する蔑視が強い雰囲気の中、榎本先生だけはとても温かく迎えてくださった。」と証言している。

長年の飲酒癖で肝臓を患うなど体調を崩していたが、1969年11月の中華民国巡業中に、エージェントに出演料を騙し取られ、この時の精神的ダメージで体調がさらに悪化した。そんな中で、 同年12月に帝国劇場で公演された『浅草交響樂』の『最後の伝令』で、中華民国公演から帰国後、空港から駆け付け車椅子姿で演出を担当する。自身、90度で倒れる演技指導をして起き上がれないまま涙を浮かべて「これくらいの気持ちで悲劇を演じなきゃこれは喜劇にならないんだよ・・・大悲劇として演じなけりゃお客の目や耳にとどいても、心にとどく悲劇にはなんねえよ。」と叫んだ。と出演した財津一郎は語っている。[1]その直後の1970年(昭和45年)の元旦に激しく体調を崩したため周りの者の勧めもあり神田駿河台にある日大病院に緊急入院、3日後の1月4日には昏睡状態に陥り、更に3日後の1月7日の午後2時50分頃に肝硬変により死去した。

死後、勲四等旭日小綬章を受章。戒名は天真院殿喜王如春大居士。墓所は港区西麻布の長谷寺にある。

エピソード

  • 敗戦直前に撮影された、「勧進帳」のパロディ映画「虎の尾を踏む男達」(監督・黒澤明)に出演。ラストシーンの跳び六法は、1934年に二代目市川左團次の紹介で川尻清譚から教えてもらったものであった。[2]
  • 映画ロケ先の妙義山麓で菊谷栄の戦没を聞かされ、号泣したが、帰京の列車内でもウイスキーを飲みながら泣き続けていた[3]
  • 主演映画作品の一つ、『エノケンの孫悟空』(東宝)は日本特撮の雄である円谷英二が製作に携わっている。
  • 人気絶頂期、「エノケソ」、「土ノケン」などと名乗る偽物が全国各地を廻り活躍した[要出典]
  • 作家小林信彦は榎本の大きな特徴として、喜劇俳優がシリアスな俳優に抱きがちな劣等感とまったく無縁であったことを挙げ、当時本格演劇の主流であった新劇に対しても「若い人向けにああいうものもあっていい、ぐらいに考えていたふしがある」と、むしろ優越感ともいうべき喜劇の誇りを持っていたことを示唆している(「日本の喜劇人」)。
  • 最晩年、自殺を決断した際、ガス管をひねって「サヨナラ」と言ったが、余りにもその声が大きかったため家人が気付いて、この一件は未遂に終わり一命を取り留めたことがある。二度目は縊死を図ろうと電気コードに首をくくる際転倒しこれまた未遂に終わっている。[4]
  • 長男が結核で他界したときも舞台の仕事があり、彼はそこでもいつも通りの元気な姿を見せた。しかし、長男の逝去を知っているファンたちから、「エノケン、もう良いよ!(長男さんのところに帰ってあげて)」と言われたが、本人は帰らず、気丈に舞台を終えた[要出典]
  • 2004年に、生誕100年記念として歌唱曲を収録したCDが発売された。
  • 晩年、小林信彦や坂本九を相手に往年の芸について長時間説明したが、あまりに古臭く皆を辟易させた。榎本は坂本には一目置いており、自身の芸を譲ってもよいと発言している。[5]

栄典

著作

  • 『エノケンの泣き笑い人生/喜劇こそわが命』(大空社伝記叢書、1998年) ISBN 4756804950

エノケンを登場人物としたフィクション

エノケンを演じた俳優

参考文献

  • 井崎博之『エノケンと呼ばれた男』(講談社文庫、1993年) ISBN 406185528X
  • 矢野誠一『エノケン・ロッパの時代』(岩波新書、2001年) ISBN 4004307511
  • 東京喜劇研究会 編『エノケンと〈東京喜劇〉の黄金時代』(論創社、2003年) ISBN 4846004791

関連項目

脚注

  1. ^ 井崎博之「エノケンと呼ばれた男」
  2. ^ 井崎博之「エノケンと呼ばれた男」講談社文庫155頁
  3. ^ 矢野誠一「エノケン・ロッパの時代」岩波新書72頁
  4. ^ 小林信彦「日本の喜劇人」31頁
  5. ^ 小林「日本の喜劇人」32-34頁

外部リンク