加藤曻

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加藤 昇
Kato Noboru
生誕 1922年9月
京都府京都市
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1943 - 1945
最終階級 海軍中尉
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加藤 昇(かとう のぼる、1922年大正11年)9月 - )は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中尉。(※正式な表記は加藤 曻

来歴

生い立ち

京都府京都市出身。は、商船船長をして不在がちであったため、専らの影響を受けて育つ。1934年(昭和9年)4月、京都市立第二商業学校[1]に入学。同校卒業後、1939年(昭和14年)4月、立命館大学法学部に入学。1942年昭和17年)徴兵検査甲種合格。大東亜戦争の戦況拡大に伴い、1943年(昭和18年)9月、同校を繰上げ卒業。

軍歴

スリガオ海峡海戦(赤:皇軍、黒:米軍

1943年昭和18年)海軍航空隊へ志願し、10月1日海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。三重海軍航空隊で基礎教程を学ぶ。1944年昭和19年)1月、青島海軍航空隊で、偵察機の航空練習を行う。1944年(昭和19年)5月、同上課程を卒業し、海軍少尉に任官。

1944年(昭和19年)8月、連合艦隊第七艦隊に配属され、重巡洋艦最上」の艦載機「零式水上偵察機」搭乗員として、同艦に乗艦する。

水上偵察機瑞雲

1944年(昭和19年)10月、「最上」の乗組員として、レイテ沖海戦スリガオ海峡海戦に参戦。10月24日夜、米艦隊と交戦し、敵機の空襲を受けて機関室を破損し操舵不能となりながら約8ノットの速度で漂流していたところ、パナオン島ビニト岬の南東約38海里の地点で、駆逐艦」に発見され救助された。この時「最上」乗組員1200人中、生存したのは僅かに400人余りであった。生存者の救命後、航行不能となった「最上」は、駆逐艦「曙」により雷撃処分され海底に沈んだ。全滅する西村艦隊の最期を見届けた一人となる。この海戦の後、加藤は第六三四海軍航空隊に配属され、フィリピンキャビテに転出。水上爆撃機「瑞雲」機長として、レイテ湾から北上する米艦艇群に対する攻撃作戦(対艦爆撃)に出撃し多数の戦果を挙げる[2]

1944年(昭和19年)12月、第一航空艦隊に転籍。

1945年(昭和20年)1月、大東亜戦争の戦況悪化に伴い、台湾東港飛行場に撤退。

1945年(昭和20年)4月、鹿屋海軍航空隊に転籍。

1945年(昭和20年)5月、海軍中尉に昇進。

1945年(昭和20年)5月11日夜、彗星夜戦隊として鹿屋基地を出撃し、沖縄北飛行場の夜間攻撃を行う。天候不良や機関不良により、同時に出撃した10機のうち6機が引き返し、投弾出来たのは3機のみであったが、加藤の乗る五番機(操縦:中森輝雄上等飛行兵曹・偵察:加藤昇中尉)は、北飛行場に二十五番時限爆弾を投弾する戦果を挙げ、帰還の途中、与論島北方で敵機(夜戦型F6F戦闘機)2機の銃撃を受ける。水平尾翼に1発被弾するも雲中に逃れて帰還した[3]。同5月13日佐多岬南方海面黎明索敵攻撃のため、六番機(操縦:中森輝雄上飛曹・偵察:加藤昇中尉)に乗り出撃[3]。同5月25日、機動部隊黎明索敵攻撃のため、二番機(操縦:中森輝雄上飛曹・偵察:加藤昇中尉)に乗り出撃[3]。同6月10日奄美大島附近制空のため、第一制空隊一番機(操縦:中森輝雄上飛曹・偵察:加藤昇中尉)に乗り出撃する[3]

この頃には、未帰還機が増え戦況はいよいよ厳しくなり、加藤も特攻出撃の命令を待つ身となるが、特攻出撃で実戦経験のある者が次々と出撃し、操縦士戦闘機も不足する事態となったため、「実戦経験豊富でかつ戦果を挙げていた加藤には、出撃するよりむしろ後人の指導にあたるべし」との軍令が下る。この命を受けて、6月10日の出撃を最後に、加藤は予備訓練生へ航法訓練(飛行訓練)を行う教官として、大井海軍航空隊に転籍。同隊にて予備訓練生の航法訓練を指導することとなる。

1945年(昭和20年)8月15日大東亜戦争の終戦により武装解除。帝国海軍の解体に伴い、加藤も除隊となるが、元士官として基地の残務整理に従事する。

1946年(昭和21年)1月、同基地を離れ、京都に帰郷。

活動

現在は、京都霊山護国神社での戦没者慰霊祭で司会・式進行役を務め、日本自虐史観戦後レジームからの脱却のために、「日本の歴史文化研究会」、「誇りある日本を取り戻す会」、「平成・美しい日本を護る会」、「勝兵塾」などを通して、誇り高く戦った帝国海軍の歴史を実際の現場を知る生き証人の立場として戦闘体験を語る活動を行っている。

講演

  • 2011年平成23年)7月22日 - 『東日本大震災から尖閣衝突事件までを第一線の現場を知るスペシャリストたちが徹底検証!!』於ウイングス京都(ゲスト:佐藤正久一色正春井上和彦宮嶋茂樹、スペシャルゲスト:加藤昇、主催:日本の現状を知る会)
  • 2011年(平成23年)8月7日 - 『大日本帝国海軍中尉 加藤昇さんの次世代に伝えたいお話』於京都霊山護国神社
  • 2011年(平成23年)9月18日 - 『国を守るとは』於京都市内(主催:誠究塾)[4]
  • 2012年(平成24年)1月15日 - 『水上爆撃機「瑞雲」かく戦えり!!』於京都霊山護国神社斎殿(主催:日本の歴史文化研究会)
  • 2012年(平成24年)3月20日 - 『元海軍中尉 加藤昇さんの戦争体験を聞く小さな会』於京都市[5][6]
  • 2012年(平成24年)9月2日 - 『元海軍中尉 加藤昇氏による大東亜戦争体験を聴く』於ウイングス京都(主催:誇りある日本を取り戻す会)
  • 2013年(平成25年)1月20日 - 『加藤昇 元帝国海軍中尉のお話を聞く会』於京都霊山護国神社斎殿[7]
  • 2014年(平成26年)1月19日 - 『加藤昇 元帝国海軍中尉の語る、大正・昭和初期の庶民の暮らしについて』於京都霊山護国神社斎殿[7]
  • 2014年(平成26年)2月23日 - 『加藤昇 元帝国海軍中尉のお話を聞く会』於アパホテル京都駅前[8]
  • 2014年(平成26年)2月25日 - 『重巡洋艦「最上」の最期と、特別攻撃隊出撃について』於アパホテル大阪肥後橋駅前(主催:「勝兵塾」関西支部)
  • 2014年(平成26年)7月16日 - 『元帝国海軍中尉 加藤昇さんのお話』(主催:磐田市倫理法人会)[9]
  • 2014年(平成26年)8月17日 - 『近江高校平和学習・元海軍中尉 加藤曻さんの語る戦争』於近江高校[10]
  • 2014年(平成26年)9月14日 - 『大東亜戦争の敗戦を検証する -本当に勝ち目のない戦だったのか。勝てる可能性はなかったのか-』於キャンパスプラザ京都(パネリスト:加藤昇、稲岡正信(甲南大学非常勤講師)、水谷真逸(近江高校教諭)、司会:石本秀雄、主催:日本の歴史文化研究会)
  • 2014年(平成26年)10月10日 - 『秋のグルメの会』於京都円山公園内「長楽館」(ゲスト:加藤昇、卜部泰三、主催:未来塾アカデミー)[11]
  • 2014年(平成26年)12月13日 - 『加藤昇さんに学ぶ勉強会 -子供時代の教育-[12]』(主催:笹塾)
  • 2015年(平成27年)1月18日 - 『加藤昇 元帝国海軍中尉のお話を聞く会』於京都霊山護国神社斎殿[7]
  • 2015年(平成27年)8月11日 - FMからつの放送に出演し戦闘体験を語る[13]
  • 2015年(平成27年)8月11日 - 終戦70周年記念講演『大東亜戦の体験談とこれからの日本に願うこと 加藤昇[14][13]』於佐賀県唐津市 大手口センタービル・多目的ホール(主催:日本会議唐津支部)
  • 2016年(平成28年)1月1日 - 『未来への道しるべ -大東亜戦争の証言- 元帝国海軍中尉 加藤昇』DVD初盤
  • 2016年(平成28年)1月17日 - 『初詣と加藤昇 元帝国海軍中尉のお話を聞く会』於京都霊山護国神社斎殿(主催:第43回 日本の歴史文化研究会)

主張

映画『永遠の0』に対する評価

映画永遠の0』の登場人物・大石賢一郎(染谷将太)は、加藤と同じ、海軍飛行科予備学生第13期生の設定であるが、建物や装備品、当時の雰囲気の伝わる会話内容などを含めて、まさにそのまま再現されていたと高く評価をしており「スクリーンの中に飛び込んで当時に戻りたかった」と感想を述べている[15]。また、「我々軍人は、お国のためにを恐れず、喜んで戦場に赴いた。そういった世代の人々を『軍国主義に洗脳されていた人々』とか『可哀想』とか評する人々がいるが、私はそういう評価が一番嫌いだ。『可哀想』とかではなく、若い人は当時の我々が何の為に戦ったかを良く考え、その精神を受け継いでいって欲しい」とも述べている[15][13]。また2015年(平成27年)には『永遠の0』の作者・百田尚樹と対談を行っている。

教育勅語について

教育勅語には悪い事は一つも書いていない。反対をしている人はどこが悪いのか示してほしい[10]

集団的自衛権について

(軍事同盟国に対して)集団的自衛権を行使するのは当たり前であり賛成だ[10]

女性観について

幼稚園の頃から、「男子たるもの、女性には常に優しくしなければならない」、「女性はか弱きものであるから男子はこれを守らなければならない」と教わり育った。また「女性は聖なる玄牝(げんぴん)[16]であり、大切にしなければならない」と習い、これを実践した[9][17]

男子の本懐について

海軍時代に上官より「たとえ我々が戦ってんだとしても、それによって一人でも多くの女・子供たちを守ることが出来、この日本民族を再興させることが出来たなら、男子の本懐これに勝るものは無い。そう心して任務につけ!」と習い行動した[18][13]

主演作品

  • 『未来への道しるべ -大東亜戦争の証言- 元帝国海軍中尉 加藤昇』未来への道しるべ製作委員会編(2016年1月1日)

補注

  1. ^ のちの「京都市立西陣商業高等学校」。現在は廃校。
  2. ^ 加藤昇『重巡洋艦「最上」の最期と、特別攻撃隊出撃について』”. 第15回「勝兵塾」関西支部 (2014年2月25日). 2015年1月25日閲覧。
  3. ^ a b c d 『第一三一海軍航空隊-夜戦隊【芙蓉部隊】(2)』”. 「旧軍戦史雑想ノート」航空戦史(海軍編) (2005年12月22日). 2015年1月27日閲覧。
  4. ^ 加藤昇『国を守るとは』”. 第8回「誠究塾」定例勉強会 (2011年9月18日). 2015年1月25日閲覧。
  5. ^ 『元海軍中尉 加藤昇さんの戦争体験を聞く小さな会』”. 全国 護国神社・参拝ご朱印めぐり & 京都霊山護国神社清掃奉仕の会 (2012年3月20日). 2015年1月25日閲覧。
  6. ^ 参加者:山中浩市、久野潤石本秀雄、寺本孝男、濱野有希子、合田友美
  7. ^ a b c (主催:日本の歴史文化研究会)
  8. ^ 『加藤元海軍中尉のお話を聞く会 』に参加して”. 滋賀県 隊友会 (2014年2月23日). 2015年1月25日閲覧。
  9. ^ a b 『元海軍中尉から頂いた言葉 玄牝(げんぴん)』”. 磐田市倫理法人会 (2014年7月16日). 2015年1月29日閲覧。
  10. ^ a b c 元海軍中尉・加藤曻さん戦争を語る近江高校で平和学習”. 滋賀彦根新聞 (2014年8月17日). 2015年1月27日閲覧。
  11. ^ 『秋のグルメの会』”. 未来塾アカデミー (2014年10月10日). 2015年1月29日閲覧。
  12. ^ 『加藤昇さんに学ぶ勉強会 子供時代の教育』”. 笹塾&寺子屋 (2014年12月13日). 2016年2月11日閲覧。
  13. ^ a b c d 『93歳の元帝国海軍中尉:加藤のぼる氏の講演を聴いて ~なんとたくましかった日本男児!~』”. やおよろずの神々の棲む国でⅡ (2015年8月11日). 2016年2月11日閲覧。
  14. ^ 『大東亜戦争の体験談とこれからの日本に願うこと。講師:加藤昇』”. 日本会議唐津支部 事務局 (2015年7月22日). 2016年2月11日閲覧。
  15. ^ a b 2014年(平成26年)1月19日 - 「大正・昭和初期の庶民の暮らしについて」での講演による。
  16. ^ 「新たな生命を産み出すことができる女性の神秘性・尊さ」のこと。老子の言葉にある。
  17. ^ 2015年(平成27年)1月18日 - 『加藤昇 元帝国海軍中尉のお話を聞く会』での講演による。
  18. ^ 2012年(平成24年)1月15日 - 『水上爆撃機「瑞雲」かく戦えり!!』での講演による。

参考文献

同期生

関連項目