今井雅隆
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名前 | ||||||
カタカナ | イマイ マサタカ | |||||
ラテン文字 | IMAI Masataka | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1959年4月2日(65歳) | |||||
出身地 | 静岡県清水市 | |||||
身長 | 180cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
監督歴 | ||||||
1989-1992 1995-1997 1997 1998-1999 2000 2001 2002 2003-2004 2005 2006 2007 2010-現在 |
本田技研 名古屋グランパスエイトサテライト 名古屋グランパスエイト (アシスタントコーチ) 名古屋グランパスエイト(コーチ) マカオ代表(コーチ) フィリピン代表 アビスパ福岡 マカオ代表 ジュビロ磐田(コーチ) ジュビロ磐田サテライト 徳島ヴォルティス モンテディオ山形ユース | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
今井 雅隆(いまい まさたか、1959年4月2日 - )は、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身の元サッカー選手・サッカー指導者。モンテディオ山形ユースの監督。
略歴
選手時代
中学校2年からGKを始め、静岡県自動車工業高校では国体優勝を経験。本田技研工業サッカー部で7年間活躍した後、31歳の若さで本田技研の監督に就任した。
監督初期(本田技研・名古屋・海外)
1989年から1992年まで監督を務めた後、2年間は本田技研の社員として働きながら日本サッカー協会のナショナルトレセンコーチを務めた。1995年からは名古屋グランパスエイトのサテライト監督やトップチームのコーチを務める(当時のトップチームの監督の1人にアーセン・ベンゲルがいた)。その後アジアサッカー連盟の「弱小国援助プログラム」に基づいて日本サッカー協会から派遣され、マカオ代表コーチ、そして日本人初の海外代表監督としてフィリピン代表監督を務めた。
福岡監督時代
2002年、J2に降格したばかりのアビスパ福岡の監督に就任するが、1年でのJ1復帰が目標となる中で、トップチームの監督が実質初めての今井に対する不安の声はサポーターの間で早くから多く聞かれた(フィリピン代表監督の経験はあるが、この時は指導というよりサッカーの普及目的の側面が強かった。また、第1クールから一部サポーターが「今井クビ」の横断幕を出していた)。シーズンが始まるとベテランが多いというチーム編成から試合後半での息切れが目立ち、今井の戦術も二転三転したことで開幕から足踏み状態が続いた。それでも第1クールではほぼ3位の座を保っていたが、第2クールに入るとじりじりと順位を落とし始め、2002 FIFAワールドカップによる中断を迎える。
だが、再開後の内容は改善されるどころかむしろ悪くなっており、この頃からサポーターの今井に対する不満が目立ち始める。7月24日のセレッソ大阪戦では前半だけで江口倫司がハットトリックを決めて3-0と楽勝ムードだったのがそこから5失点して逆転負け(あまりに無残な負け方にサポーターの一部が「今井解任」の横断幕を出したほどである)。続く27日の水戸ホーリーホック戦でも、それまでJ2リーグ戦では3得点が最高だった水戸に5失点を許して大敗。ここでついに今井は辞任となった。
今井へのサポーターの評価は決して良いものとは言えなかったが、辞任後は今井よりもむしろクラブ側への批判の声が集中した。この時点でのクラブ側の方針は「J1昇格」「若手育成」を両立させるというものだったが、この年の福岡全選手の平均年齢は30歳に迫っており、それで「若手育成」と言っても無理のある話であった(そもそも、クラブには強化担当者が不在だった)。さらに、クラブ側が今井の監督就任時に「1年でのJ1復帰を目標に」との要望を明確な形で示していなかった(そうとなれば今井が戦術変更などの試行錯誤を続けていたこともある程度説明が付く)ことが今井辞任後に判明したことも、クラブ批判に輪をかけた。一部報道ではクラブと選手間の対立も報じられるなど現場は内部崩壊状態に陥り、この年の今井辞任後の成績は3勝15敗5分けという、前年までJ1にいたことが信じられないような数字であった。
その後クラブは中村重和を強化担当に(2002年残りシーズンは監督)、松田浩を監督に迎えて育成型チームへの転換に本腰を入れることになるが、J1時代の場当たり補強の流れが残る中でJ初監督を務めなければならなかった今井には少々気の毒であった。
福岡以後
その後、今井は再び日本サッカー協会に派遣されてマカオ代表監督を務め、2005年はジュビロ磐田のコーチを、2006年はジュビロ磐田サテライトチームの監督を務めた。2007年には徳島の監督に就任したが、J2最下位に終わり、シーズン終了後に退任。
2010年よりモンテディオ山形ユース(U-18)の監督に就任。
所属クラブ
選手経歴
- 興津中学校
- 静岡県自動車工業高校(現 静岡北高等学校)
- 国士舘大学サッカー部
- 1982年-1990年 本田技研
指導者経歴
- 1989年-1992年 本田技研:監督
- 1995年-1997年 名古屋グランパスエイト:サテライト監督
- 1997年 名古屋グランパスエイト:トップアシスタントコーチ
- 1998年-1999年 名古屋グランパスエイト:トップコーチ
- 2000年 マカオ代表:コーチ
- 2001年 フィリピン代表:監督
- 2002年-途中 アビスパ福岡:監督
- 2003年-2004年 マカオ代表:監督
- 2005年 ジュビロ磐田:コーチ
- 2006年 ジュビロ磐田:サテライト監督
- 2007年 徳島ヴォルティス:監督
- 2010年 モンテディオ山形:ユース(U-18)監督
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1982 | 本田 | JSL1部 | 0 | ||||||||
1983 | 本田 | JSL1部 | 0 | ||||||||
1984 | 本田 | JSL1部 | 0 | ||||||||
1985 | 本田 | JSL1部 | 0 | ||||||||
1986-87 | 本田 | JSL1部 | 0 | ||||||||
1987-88 | 本田 | JSL1部 | 0 | ||||||||
1988-89 | 本田 | JSL1部 | 0 | ||||||||
1989-90 | 本田 | 30 | JSL1部 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 115 | 0 | |||||||
総通算 | 115 | 0 |
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
1989-90 | JSL1部 | 本田 | 6位 | 22 | 32 | 10 | 2 | 10 | 2回戦 | 2回戦 |
1990-91 | JSL1部 | 本田 | 3位 | 22 | 38 | 10 | 8 | 4 | 準決勝 | 準決勝 |
1991-92 | JSL1部 | 本田 | 10位 | 22 | 23 | 5 | 8 | 9 | 準優勝 | 準決勝 |
2002 | J2 | 福岡 | - | 21 | 28 | 7 | 7 | 7 | - | - |
2007 | J2 | 徳島 | 13位 | 48 | 33 | 6 | 15 | 27 | - | 4回戦 |
- 2002年は第21節で辞任。辞任時の順位は6位。
その他
- コニカカップ 準優勝(1991年)