五十鈴 (軽巡洋艦)

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艦歴
発注 1919年1917年度計画)
起工 1920年8月10日浦賀船渠
進水 1921年10月29日
就役 1923年8月15日
その後 1945年4月7日戦没
除籍 1945年6月20日
性能諸元
排水量 基準:5,170トン
常備:5,570トン
全長 162.15m
全幅 14.17m
吃水 4.80m
機関 90,000馬力
最大速 36.0ノット
乗員 竣工時定員450名[1]
兵装
新造時 50口径一四年式14cm単装砲 7基7門
40口径三年式8cm単装高角砲 2基2門
6.5mm単装機銃 2基2挺
八年式連装魚雷発射管 4基8門
飛行機 1機
飛行機滑走台 1基
機雷48個
改装後 40口径八九式12.7cm連装高角砲 3基6門
九六式25mm3連装機銃 11基33門
同単装機銃 5基5門
九二式4連装魚雷発射管 2基8門
水中探信儀
水中聴音機
爆雷投射機
爆雷投下軌条 2基
爆雷 90個
21号電探 1基
22号電探1基
13号電探 1基

五十鈴(いすず)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦長良型の2番艦である。その艦名は、三重県を流れる五十鈴川より名づけられた。

艦歴

五十鈴は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として、1923年(大正12年)に完成した。完成時には、高速軽巡洋艦として、水雷戦隊の旗艦に適した優秀な艦であり、歴代艦長からは堀悌吉山本五十六高須四郎山口多聞など後に著名になった指揮官も輩出した。

太平洋戦争開戦時にはすでに旧式化しつつあったが、開戦劈頭の香港攻略戦に参加した。1942年4月10日第2南遣艦隊第16戦隊に編入後は小スンダ列島攻略戦など小規模の作戦に従事する。しかし、ソロモン諸島方面でのアメリカ軍の反攻作戦が始まり、五十鈴も急遽ソロモン方面に進出。臨時に第2水雷戦隊の旗艦となり、南太平洋海戦第三次ソロモン海戦に参加。後者では一時航行不能に陥る損害を蒙った。損傷復旧以後は輸送や救援活動に従事。

1943年12月5日、ルオットでアメリカ機動部隊の空襲を受け損傷し日本に帰還。その頃、対空砲火の増強策の一環として5500トン型軽巡の主砲をすべて八九式12.7cm高角砲に換装することになり(1基のみを換装した艦はすでにあった)、その第一弾として損傷復旧中の五十鈴の主砲7門をすべて撤去のうえ、連装高角砲3基6門に換装した。

戦局の悪化により五十鈴に続く艦は出現せず(似たような例としては敷設艦「常磐」(旧一等巡洋艦)があった)、結果的に五十鈴のみが5500トン型軽巡の中で異彩を放つこととなった。この改装では、対空装備の他対潜装備も増備され、改装中に対潜掃討部隊の第31戦隊に当初予定されていた名取に代わって旗艦として編入された。五十鈴が対潜掃討部隊に編入されたのは、名取より電探や対潜兵器が充実していたからであった。

1944年9月14日に改装を終えた五十鈴は対潜掃討に従事することなく、小沢治三郎中将指揮の第三艦隊の一員としてレイテ沖海戦に投入された。これは当時水雷戦隊が不足していたため、対潜掃討部隊とは言え半ば水雷戦隊のような第31戦隊を応急対策として対空戦隊として投入したものであった。この海戦において、敵13機(内4機は不確実)を撃墜したとされる。

レイテ沖海戦で生き残った五十鈴は11月に入り、フィリピン方面に回り輸送任務に従事するが、1944年11月19日コレヒドール島沖で米潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の魚雷を艦尾に受け舵を流されるなど大破した。駆逐艦の護衛によりシンガポール、ついでスラバヤで修理を行う。

1945年4月1日に修理は完了し、またそれより前の3月25日付で第十方面艦隊付属となった[2]。五十鈴は即座にティモール島をはじめとするスンダ列島所在の陸軍部隊を撤退させる「二号作戦」に投入された。4月4日に水雷艇雉、掃海艇2隻とともにスラバヤを出撃[3]。途中米英潜水艦に狙われるも無事にティモール島クーパンに入港し第48師団の将兵を収容[4]。4月5日夜にクーパンを離れて帰路についたが4月6日にはオーストラリア空軍の爆撃機により2回の攻撃を受ける[5]。これには付近に展開していた日本陸軍航空部隊第17錬成飛行隊の一式戦「隼」が迎撃、第一波のB-25 20機(第18・第2飛行隊)が爆撃を行うも「隼」2機が妨害し艦艇に損害は無かった[6]。20分後、第二派攻撃にB-24 9機(第21・第24飛行隊)が来襲するも、増援2機を含む「隼」4機は爆撃を妨害しつつB-24 2機(マクドナルド大尉機・フォード中尉機)を撃墜[7]。艦艇の損害は五十鈴が至近弾2発により舵が故障した他、艦首に不発の爆弾1発が命中[8]、「隼」は1機が被弾のみで全機が帰還している。なお、撃墜され落下傘降下したB-24乗員に五十鈴は機銃掃射を行い、「隼」はのちに飛来したカタリナ1機(第112海難救助飛行隊バルマン大尉機)をさらに撃墜している[9]。続いて潜水艦による攻撃があり第十二号掃海艇が撃沈されたが、五十鈴はスンバワ島ビマに入港、そこで第48師団の諸兵を降ろして第46師団を乗せた[10]

4月7日早朝、ビマを出港した五十鈴は米潜水艦ガビラン (USS Gabilan, SS-252) から1本、チャー(USS Charr, SS-328) から3本の魚雷を受け8時46分頃に沈没した。結局、五十鈴が対潜掃討に従事することはなかった。

改装について

1944年の改装では九六式25mm連装機銃2基という対空兵装から、前述のように八九式12.7cm連装高角砲3基6門、九六式25mm3連装機銃11基、単装25mm機銃5基、単装13mm機銃8基と対空兵装が増備され、対空能力が飛躍的に向上した。また、電波兵器も21号電探(対空用)が艦橋上に、22号電探(対水上用)と13号電探(対空用)が後部マストに装備され(残っている写真から13号電探の装備はレイテ沖海戦には間に合わず海戦後に装備されたと考えられる)、対潜兵器も水中聴音機や爆雷投射機など新式のものが装備された。なお、低下した水上戦闘能力を補うために後部の2基の八年式連装魚雷発射管が九二式4連装魚雷発射管への転換も行われ、これにより酸素魚雷の発射能力を得た。前部の2基の発射管は撤去されてウェルデッキは廃止され、兵員室に充てられた。

射出機実験

長良型の建造時にはいまだ射出機が実用化されておらず、搭載機は自己のエンジンによるプロペラ加速と艦の速力によって発生する合成風力によって滑走台から発艦する必要があった。海軍では5500トン型軽巡各艦を用いてさまざまな方式の射出機の試作・実験を行なっており、五十鈴においてもその実験の経歴がある。

1929年3月、五十鈴の滑走台に萱場式艦発促進装置の試作機が取り付けられ、初の射出実験に成功した。萱場式艦発促進装置はスプリングの力により加速をつける方式の射出機であった。

萱場式艦発促進装置は同年4月には五十鈴から由良に移設され、由良にて約4年間の長期実験が行われたが、火薬式射出機の実用化に伴い撤去されている。

歴代艦長

※『艦長たちの軍艦史』150-152頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長

  1. 石渡武章 大佐:1921年9月1日 -

艦長

  1. 石渡武章 大佐:1923年8月15日 - 1923年11月20日
  2. (心得)堀悌吉 中佐:1923年11月20日 - 12月1日
  3. 堀悌吉 大佐:1923年12月1日 - 1924年3月6日
  4. 市村久雄 大佐:1924年3月6日 - 12月1日
  5. 松山茂 大佐:1924年12月1日 - 1925年11月20日
  6. 田村重彦 大佐:1925年11月20日 - 1926年7月1日
  7. 中原市介 大佐:1926年7月1日 - 1926年12月1日
  8. 津留雄三 大佐:1926年12月1日 - 1927年12月1日
  9. 鎮目静 大佐:1927年12月1日 - 1928年8月20日
  10. 山本五十六 大佐:1928年8月20日 - 12月10日
  11. 羽仁六郎 大佐:1928年12月10日 - 1929年9月26日
  12. (兼)池中健一 大佐:1929年9月26日 - 11月27日
  13. 高須四郎 大佐:1929年11月27日 - 1930年12月1日
  14. 後藤輝道 大佐:1930年12月1日 - 1931年9月14日
  15. (兼)堀江六郎 大佐:1931年9月14日 - 1931年11月14日
  16. 藍原有孝 大佐:1931年11月14日 - 1932年2月16日
  17. (兼)真崎勝次 大佐:1932年2月16日 - 1932年6月20日
  18. 山田省三 大佐:1932年6月20日 - 11月15日
  19. 山口実 大佐:1932年11月15日 - 1933年11月15日
  20. 山田満 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  21. 牧田覚三郎 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
  22. 千葉慶蔵 大佐:1935年11月15日 - 1936年1月7日
  23. (兼)原顕三郎 大佐:1936年1月7日 - 1936年4月25日
  24. 松永貞市 大佐:1936年4月25日 - 12月1日
  25. 山口多聞 大佐:1936年12月1日 -
  26. 中邑元司 大佐:1937年12月1日 -
  27. 橋本愛次 大佐:1938年11月20日 -
  28. 鶴岡信道 大佐:1939年11月15日 -
  29. 浦孝一 大佐:1941年9月1日 -
  30. 篠田清彦 大佐:1943年1月30日 -
  31. 松田源吾 大佐:1944年6月20日 -

同型艦

脚注

  1. ^ 大正12年8月15日付 海軍内令 第302号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。この数字は特修兵を含まない。
  2. ^ 日本軽巡戦史、643ページ
  3. ^ 日本軽巡戦史、644ページ
  4. ^ 日本軽巡戦史、644-645ページ
  5. ^ 日本軽巡戦史、645-646ページ
  6. ^ 梅本、2010年、p.120
  7. ^ 梅本、2010年、p.120
  8. ^ 日本軽巡戦史、646ページ
  9. ^ 梅本、2010年、p.120
  10. ^ 日本軽巡戦史、647ページ

参考文献

  • 遠藤昭『高角砲と防空艦』原書房、1975年。
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年。
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年。
  • 雑誌「歴史群像」2003年12月号(学習研究社
  • 「歴史群像」編集部『「歴史群像」太平洋戦史シリーズ32・軽巡 球磨・長良・川内型』学習研究社、2001年、ISBN 4-05-602582-7
  • 「歴史群像」編集部『「歴史群像」太平洋戦史シリーズ51・帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4
  • 雑誌「」編集部『写真 日本の軍艦 第8巻 軽巡I』光人社、1990年、ISBN 4-76-980458-X
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 官報
  • 梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月

関連項目