九条満家

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九条 満家(くじょう みついえ、応永元年(1394年) - 文安6年5月4日1449年5月25日))は、室町時代関白。関白・九条経教の三男。兄に九条忠基九条教嗣、弟に孝円道尊孝信経覚らがいる。室に唐橋在豊女らが、子に政忠政基尋実興福寺)がいる。号は後三縁院

略歴

応永11年(1404年)12月に元服[1]九条家では初めて足利将軍家からの偏諱を受けた人物であり、室町幕府第3代将軍足利義満から「満」の字を与えられた[2]。初めは父・経教の1字と合わせて満教(みつのり)と名乗り[1]、のちに満輔(みつすけ)[3]満家[4]と改名した。

50年近くも歳の離れた異母兄・忠基に跡継ぎがいなかったため、その養子という形をとって、九条家の第12代当主となる。

応永13年(1406年)13歳で従三位に叙せられる。同21年(1414年)12月には右大臣[1]、同25年(1418年12月2日には25歳にして関白・左大臣に任ぜられる[1]。同26年(1419年)に従一位に昇叙される[1]が、同年9月には左大臣を[1]、その後同31年(1424年)4月には関白を辞任した[1]。文安5年(1448年出家[1]。文安6年(1449年)5月4日、56歳で薨去した[1]。九条家の家督は、嫡男の成家(のち政忠に改名)が継いだ。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 安田、1990年、p.162 「九条満家」 の項(執筆:武田彩子)
  2. ^ 安田、1990年、p.34 「足利義満」 の項(執筆:新田英治)。満家の元服当時、義満は将軍職を子の義持に譲り法名の「道義」を名乗っていたが、時の権力者として「満」の字を与えていたことが窺える。
  3. ^ 永享3年(1431年)から同10年(1438年)にかけての『公卿補任』で「満輔」の名が見られる(安田、1990年、p.162 「九条満家」 の項(執筆:武田彩子))。
  4. ^ 永享10年(1438年)に称する(安田、1990年、p.162 「九条満家」 の項(執筆:武田彩子))。

参考文献