ベンソン (駆逐艦)

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DD421 ベンソン
艦歴
造船所 マサチューセッツ州クインシー フォアリバー造船所
起工 1938年5月16日
進水 1939年11月15日
就役 1940年7月25日
退役 1946年3月18日
その後 1954年2月26日中華民国へ引き渡し。洛陽に改名
除籍
性能諸元
排水量 1,620トン
全長 106.02m
全幅 11.00m
吃水 3.58 m
最大速力 37.5ノット
乗員 士官、兵員208名
兵装 38口径Mk 30 5インチ単装砲 5門
ブローニングM2 12.7mm機銃 6丁
21インチ5連装魚雷発射管2基
爆雷投下軌条2基

ベンソン (USS Benson DD-421) は、第二次世界大戦でのアメリカ海軍ベンソン級駆逐艦の一隻。艦名はウィリアム・シェパード・ベンソン大将にちなんで名付けられた。

ベンソンは1938年5月16日にマサチューセッツ州クインシーにあるベスレヘム・スチールフォアリバー造船所で起工し、1939年11月15日にベンソン大将の未亡人の立会を伴い進水した。1940年7月25日に就役。1955年2月26日に中華民国海軍に引き渡し洛陽DD-14)と改名。1975年に退役。

艦歴

1940年 – 1941年

ベンソンはボストン海軍造船所に到着した後、1940年8月22日にボストンを出発し、ロードアイランド州ニューポート、およびバージニア州ヨークタウンを経由してキューバのグアンタナモ湾に向かい、試験航海を行う。ベンソンは9月3日にチェサピーク湾に向かって出航し、バージニア州クアンティコ英語版ワシントンD.C.への訪問後、13日にノーフォークを出発し、フランス領ギアナカイエンヌへと進み、21日に到着した。ベンソンは10月6日にカイエンヌを出発し、プエルトリコのサン・フアンを経由してニューヨーク海軍造船所に進み、そこで11月中旬までオーバーホールを受けた。

11月18日、ベンソンはニューヨーク港から出て、中立パトロールを開始し、翌年の春までベンソンの主な任務となった。この期間のハイライトは1941年3月にバハマへ向かうフランクリン・D・ルーズベルト大統領を乗せたUSS ポトマック(AG-25)英語版を護衛したことだった。5月下旬、ベンソンはUSS テキサス(BB-35)の巡航を支援した。このころドイツの戦艦ビスマルクは5月21日に出港し、イギリスの護送船団を狙ってデンマーク海峡に向かった。ウィンストン・チャーチル首相はビスマルクの出撃を知ると、ルーズベルト大統領にアメリカ海軍にビスマルクの捜索を依頼した。テキサスと指揮下の艦艇は5月27日にイギリス海軍がビスマルクを沈没させるまで海域を捜索した。

その後まもなく、ベンソンは新しい任務の準備をするためにボストン海軍造船所に戻った。 ベンソンは6月28日にアイスランドに海兵隊員を派遣するために編成されていたタスクフォース19(TF 19)に加わった。タスクフォース19は7月1日にニューファンドランドアルジェンティア英語版を出発し、7月7日の夕方にレイキャビクに到着した。ボストンに戻った後、ベンソンはすぐに給油し、メイン州ポートランド沖での演習のためにカスコ湾に移動した。ベンソンは9月からはボストンとアイスランド間の護送船団において7ヵ月間の護衛任務を務めた。

1942年 – 1943年

1942年3月末に、ベンソンは北アイルランドロンドンデリー港英語版まで船団の護衛任務を務め、そして5月上旬にボストンに戻った。ベンソンはその後秋までブリテン諸島バミューダパナマ運河地帯までの船団護衛任務に就いた。秋以降はフランス領北アフリカへの侵攻作戦であるトーチ作戦に参加することになり、戦艦マサチューセッツ(BB-59)とともに陸上砲撃演習に参加することになった。10月19日の夜明け前の中で演習のためにメイン州のカスコ湾へ向かう途中、ベンソンは駆逐艦トリップ(DD-403)英語版と衝突した。この事故によりベンソンはニューヨーク海軍造船所において修理を受けることになり、トーチ作戦には参加できなかった。

修理後ベンソンは北大西洋と地中海において護送護衛任務を再開した。1943年7月にベンソンはシチリア島上陸作戦に参加した。ベンソンは7月6日にアルジェリアのオランからタスクグループ80.2(TG 80.2)の一隻として出航し、NCS-1護衛隊をシチリア島ジェーラの上陸地点まで護衛した。ベンソンは7月9日から10日の夜明けの数時間前に到着し、その後2日間は枢軸国軍の航空機の襲撃を撃退するために留まった。11日、ベンソンは枢軸国軍の爆撃を受け、至近弾により18名が負傷した。翌日、彼女は攻撃貨物輸送艦ベテルギウス(AKA-11)をアルジェに連れて行き18日に到着した。

8月24日、ベンソンはTF-81に参加し、イタリア本土上陸作戦が行われるまで、地中海でのさらなる巡視および護衛義務を続けた。9月9日の夜明け、連合軍はサレルノの浜辺に上陸した。9月11日、ベンソンはドルニエDo 217爆撃機の誘導爆弾フリッツXによる攻撃で大破した軽巡洋艦サバンナマルタまで護衛した。

ベンソンはすぐにサレルノに戻り、対空防御支援に再び加わり、9月19日の朝にはFw 190戦闘爆撃機を撃墜した。イタリアで陸上作戦を支援しながら、ベンソンは多数の陸上砲撃任務や船団護衛任務を行った。10月2日、ベンソンは墜落したイギリス空軍ウェリントン爆撃機の生存者を救助した。

1944年 – 1945年

1944年1月末にベンソンはモロッコのカサブランカを出港し、輸送船団GUS-28をニューヨークまで護衛した。その後ニューヨークでの点検と東海岸での訓練の後、ベンソンは4月20日に輸送船団TG 27.4に加わり、5月1日にオランに到着した。その後9日に輸送船団UGS-40でジブラルタルに向かった。2日後、ベンソンは約30機のドイツ軍機による攻撃から船団を守り、2機のJu 88爆撃機を撃墜した。

その後数ヶ月間、ベンソンは地中海において輸送船団の護衛を務めた。1944年8月中旬、ベンソンはTG 80.6に加わり、南フランスへの侵攻に参加した。トゥーロン近くのでの巡視任務中、駆逐艦はサンレーモ港を封鎖した。ベンソンはまた、サンレーモの砲撃中のフランス巡洋艦モンカルム及びジャンヌ・ダルクを支援した。1945年1月上旬、彼女はイタリアのリヴォルノに進出し、そこを攻撃しようとしていたドイツ軍を砲撃した。この任務の間、ベンソンはドイツのEボートまたはイタリアMASボートのいずれかの攻撃を受けた、その後ピエトラ・リーグレの敵の造船所を砲撃しているフランスの巡洋艦ジョルジュ・レイグを護衛した。

1945年以降

1945年1月下旬にベンソンは、2月中にメンテナンスや訓練のために米国に戻った。ベンソンは太平洋艦隊に加わるために5月12日にパナマ運河を通過し、29日に真珠湾に到着した。ベンソンはハワイで1ヶ月以上過ごした後、6月14日に空母レキシントンカウペンス、およびハンコックの護衛に加わり、ウェーク島の攻撃に加わった。それから艦隊はフィリピンレイテ経由でウルシーに到着した。対日戦勝記念日の8月15日まで、ベンソンはウルシーと沖縄の間で護送任務と哨戒任務を遂行した。ベンソンは1945年9月2日と3日に横浜に上陸した占領軍の援護を務めた。

日本の降伏後2ヶ月の間に、駆逐艦はフィリピンと東京湾の間で5つの異なる輸送船団を護衛した。12月6日にベンソンは不活発化のために米国に戻ると、チャールストン海軍工廠に係留された。ベンソンは1946年3月18日にそこで退役され、予備艦となった。

1954年2月26日に、ベンソンは中華民国政府に譲渡され、1970年代半ばに洛陽(DD-14)として中華民国海軍に編入された。1975年にアメリカの駆逐艦、タウシグ(DD-746)と交換され、艦名と艦番号もそれぞれ襲名された。

ベンソン(DD-421)は第二次世界大戦で4つのバトルスター英語版を獲得した。

脚注

参考資料

関連項目

外部リンク