ピート・タウンゼント

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ピート・タウンゼンド
ピート・タウンゼンド(2008年)
基本情報
出生名 ピーター・デニス・ブランドフォード・タウンゼンド
生誕 (1945-05-19) 1945年5月19日(78歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル ロック
ハードロック
アート・ロック
ポップ・ロック
職業 ソングライター
ミュージシャン
担当楽器 ギター
ボーカル
ベース
ハーモニカ
ドラムス
キーボード
バンジョー
活動期間 1960年 - 現在
レーベル トラック・レコード
ポリドール・レコード
アトランティック・レコード
アトコ・レコード
デッカ・レコード
ライコディスク
共同作業者 ザ・フー
ディープ・エンド
ロニー・レーン
サンダークラップ・ニューマン
公式サイト http://www.thewho.com/index.php
著名使用楽器
リッケンバッカー・330
フェンダー・ストラトキャスター
ギブソン・SG・スペシャル
ギブソン・レスポール・デラックス
ギブソン・J-200

ピート・タウンゼントPete Townshend、本名:Peter Dennis Blandford Townshend、1945年5月19日 - )は、イギリスミュージシャン小説家ザ・フーギタリストソングライターとして最も有名。身長183cm。なお、苗字の発音は/ˈtaʊnzənd/である。

2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第10位(2003年版では第50位)。

来歴

生い立ち

ロンドンチズウィックで生まれる。父親のクリフ・タウンゼントはイギリスでは有名なサックス・プレイヤーで、母親のベティもまたプロのシンガーであり、まさに音楽一家だった[1]。子供時代は両親がツアーで家を空けることが多かったため、主に祖母に面倒を見られていた。音楽的環境に恵まれた家庭に育ちながら少年時代は音楽に関心を示す事はなかったというが、1956年の夏に友人と共に観に行った映画『ロック・アンド・ロール/狂熱のジャズ』に影響を受け、ギターを弾きたいと欲するようになる。12歳のクリスマスに祖母からギターをプレゼントされが、弾きこなすには難しいと考え、その後4弦のバンジョーを入手し、腕を磨いた。それ以前に父同様にサックスをやろうとしたが、そちらは上達しなかったという[2]

アクトン・カウンティ・グラマー・スクールに進学すると、そこで知り合ったジョン・エントウィッスルとコンフェデレイツというジャズ・バンドを結成する。このバンドはすぐに消滅したが、その後もスコーピオンズというバンドで共にプレイするなど、二人の交流は続いていた[3]

1961年、イーリング・アート・カレッジに入学。同年、エントウィッスルがグラマー・スクールの先輩であるロジャー・ダルトリーに誘われ、スコーピオンズを抜け、ダルトリーのバンド、ザ・ディトゥアーズに加入。翌1962年にはタウンゼントもエントウィッスルに誘われる形で加入する[4]。メジャー・デビューまでの間に何度もメンバー・チェンジが行われたものの、1964年に前任のドラマーに代わりキース・ムーンが加入した事で固まった。バンド名をザ・フーに改め、同年7月、ザ・フーはメジャー・デビューを果たす。

1964年~1982年

初代マネージャーのピート・ミーデン英語版の命で、バンドはモッズの衣装を着て、バンド名もハイ・ナンバーズと改める。だがミーデンの目論見は外れ、バンドは名前をザ・フーに戻し、新しいマネージャーであるキット・ランバートクリス・スタンプ英語版の下で再出発する。ランバートはタウンゼントにダビング録音が可能なテープレコーダーを買い与えた。これがタウンゼントの作曲家の才能を開花させるきっかけとなった[5]。タウンゼントは「アイ・キャント・エクスプレイン」、「エニウェイ・エニハウ・エニホェア」、「マイ・ジェネレーション」、「恋のピンチ・ヒッター」とヒットナンバーを次々と量産、ザ・フーは一躍スターダムにのし上がった。

ザ・フーの楽曲の大部分を作曲していたタウンゼントには、他のメンバーと異なりソロ活動をする必要はなかったが、1970年には当時彼が帰依していたインドの導師メハー・ババの誕生日を祝うために製作されたチャリティー・アルバム『Happy Birthday』に楽曲を提供。1972年には同じ趣旨で製作されたアルバム『I Am』にもやはり楽曲提供する。この2つのアルバムはわずかしかプレスされず、ほとんどはババの信者の手に渡ったが、これがザ・フーのファンの間でうわさになり、これらの楽曲が海賊盤で出回り始めた事から、アメリカのMCAレコードからの要請で1972年にリリースされた『Who Came First (邦題:現人神)』が、タウンゼントの正式な1stソロ・アルバムとなる。ここには上記のババのための2枚のアルバムからの楽曲や、幻に終わったアルバム「ライフハウス」のための楽曲などが収められており、純粋な新作アルバムというより、未発表曲集の意味合いが強いアルバムとなっている[5]1973年1月には、薬物中毒のために活動を停止していたエリック・クラプトンの復帰ライブを開催。同年9月にこのコンサートの実況盤『エリック・クラプトン・レインボー・コンサート』がリリースされる[6]

その後はしばらくソロ活動は行わず、1976年に再びババのためのアルバム『With Love』に楽曲提供する程度にとどまっていたが、この間、タウンゼントはキット・ランバートとの訴訟問題を抱えており、音楽業界に嫌気が差し、ザ・フーにも興味を失いかけていた[5]。そのような時期の1977年に、ロニー・レインと共同で製作した2枚目のソロアルバム『Rough Mix』をリリースする。アルバムには盟友クラプトンやチャーリー・ワッツボズ・バレル等が参加した。

1978年、キース・ムーンが急逝。数年先までスケジュールが決まっていたため、バンドを解散させる事は出来ず、ザ・フーは新たなドラマーに元フェイセズケニー・ジョーンズを迎え再出発する事になるが、ムーンの死を契機に、タウンゼントの興味はソロ活動の方へと移っていった。1980年には、新作のみを揃えた純粋なソロ作としては初のアルバム『Empty Glass』を発表。タウンゼントのソロ作の中では最高のセールスを記録した。だが、ケニー・ジョーンズはタウンゼントが「いい曲をザ・フーではなくソロのほうへ持っていっている」と不満を露にし、二人の仲は急速に悪くなっていく。タウンゼントはそういったストレスからドラッグに溺れるようになり、1981年の年末頃には深刻な状態にまで陥るが、2ヶ月ほどのリハビリを経て復活する[7]1982年には4枚目のソロアルバム『All the Best Cowboys Have Chinese Eyes』をリリース。同年12月のトロントでのコンサートを持って、ザ・フーは解散した。

1983年以降

解散から間もない1983年、デモバージョンや未発表曲を集めた5枚目のソロアルバム『Scoop』をリリース。1985年には自らの10代の頃によく遊んでいた実在するスラム街をテーマにした自伝的なストーリー仕立てのアルバム『White City』と同タイトルのビデオ作品をリリース。同年には自身初の短編小説集「Horse's Neck(邦題:四重人格)」を発表する。同年7月にはライブ・エイド出演のためにザ・フーを再結成させる。さらに11月には、『White City』の設定上にあるバンド「ディープ・エンド」の名でコンサートツアーを開催、メンバーにはピンク・フロイドデヴィッド・ギルモアも参加し、総勢17人による大編成バンドとなった。翌年にはこのライブの模様を収録した『Deep End Live!』をリリース。

1987年、『Scoop』に続く未発表曲集の第2弾『Another Scoop』をリリース。1989年にはザ・フーデビュー25周年記念ツアーを敢行。同年、ザ・フー名義で製作した新曲2曲を収録したソロアルバム『The Iron Man』を発表。

ザ・フー25周年記念ツアーを終えた1991年秋頃から、タウンゼントはコンセプトアルバム『Psychoderelict』の製作に取り掛かる。本作は彼が書いた物語「Ray High And The Glass Household」を下地にしており、『トミー』や『四重人格』同様ロック・オペラの流れを汲む意欲作であった。アルバムは1993年6月にリリース。アルバムは曲と語りを交互に配した作りになっていて、語りの部分を抜いた音楽のみのバージョンもリリースされている。だがこの意欲作はセールス的には惨敗に終わっており、この結果に気落ちしたのか、タウンゼントはレコーディング・アーティストとしては廃業する事を宣言する[8]。この宣言どおり、彼のソロでのスタジオアルバムは、以降2014年現在まで製作されていない。

1999年12月、タウンゼントが長年構想を温めてきた「ライフハウス」がラジオドラマとして発表される。ドラマはBBCラジオ3から放送された。このドラマは2000年に6枚組みのCDボックス『Lifehouse Chronicles』としてインターネット販売され、ラジオを聞けなかった人達の元にも届けられた。CDボックスには、ラジオドラマで放映された音源だけでなく、1970年代前半に作られたデモ・トラックも収録されている。2001年1979年から翌年にかけて行われたプライベートコンサートの実況盤『The Oceanic Concerts』をリリース。共演のラファエル・ラッドとはミハー・ババの信者同士の仲である[9]

2003年1月、児童ポルノサイトにアクセスした容疑で一時身柄を拘束され、家宅捜索を受ける。5月には不起訴処分となる。

2004年、ザ・フーとして初来日を果たす。横浜と大阪の2会場で開催されたロックフェス「The Rock Odyssey 2004」に出演。なお、この時のライブで、ザ・フーの次に登場したエアロスミスジョー・ペリーが、MCでザ・フーから受けた影響と同じステージに立てる喜びを述べた[10]

2012年、400ページ超にも及ぶ自叙伝「Who I Am」を上梓。

音楽スタイル

作曲家として

ザ・フーの楽曲の95%以上はタウンゼントによって作曲されている[5]。タウンゼントはただ作曲するだけでなく、ダビング録音を駆使したマルチ録音によって、ギター、ベースドラムボーカルの基本アレンジまでもこなした。このため、ザ・フーではタウンゼントが作ったデモテープをレコーディング前にメンバーに渡し、曲を覚えてもらってからスタジオに入るという習慣が根付いていた。タウンゼンドのデモテープの完成度の高さは、『Scoop』等の未発表曲集で明らかとなっている[5]。鍵盤楽器の演奏も出来、ザ・フーのピアノ、キーボード類は一部を除きほとんどがタウンゼントによるものである。

ギタリストとして

作曲家としての面ばかりが強調され、ギタリストとして語られることが余りないが、これはタウンゼントが同年代のジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトンのようなテクニカルな速弾きをほとんど行ってこなかった事が要因にある[5]。彼は自身のギタープレイについて「俺は音楽界にいるほとんどのギタリストと同じぐらいギターを上手く弾けるが、俺の技術は派手なコードをでかい音で鳴らす事だけに特化されている」と1966年に語っている[11]。また、ギタリストでありながら自身のギター・ソロを大きくフィーチャーした曲を書く事はあまりなく、ギター・ソロを一切含まない曲も珍しくない。本人も「ドラムやベースがリード楽器になり、ギターがリズム楽器と、立場が逆転していた事がザ・フーのユニークさだった」と語っている[5]。また、スタジオ録音ではあまり多用しないが、ステージでは頻繁にフィードバック奏法を試みている。本人曰く「誰が何と言おうと最初にフィードバック奏法をやったのは俺だと思ってるが、その肩書がビートルズヤードバーズに与えられるのにはがっかりさせられた」[11]

コンサートパフォーマンス

タウンゼントの激しいステージ・アクションは視覚の上でも観客を楽しませた。タウンゼントのギター破壊はザ・フーのコンサートでの大きな目玉だった。これは、天井の低い場所でのライブでギターが偶然天井に当たって壊れた事が観客にはパフォーマンスだと受け取られた事が始まりだった[12]。タウンゼントに影響され、ムーンもドラムを破壊するようになった。パフォーマンスではなく怒りに任せてギターを壊すことも少なくなかったようである[13]。近年ではギター破壊をあまり行っていないが、2004年の初来日公演では横浜で久々にギター破壊を行った。だがこのパフォーマンスで腰を痛めてしまい、次の大阪ではギター破壊は行わなかった[10]

右腕を伸ばし大きく回転させながら弾くウインドミル奏法は、タウンゼントが見たローリング・ストーンズのステージで、キース・リチャーズがウォーミングアップのために行った腕回しをパフォーマンスだと勘違いして真似した事がきっかけである[14]

また、長いMCを行う事でも有名である。2001年にリリースされた『ライブ・アット・リーズ・デラックス・エディション』では、タウンゼンドのMCがノーカットで収録された。

人物

少年時代は、極度に人見知りする自閉的な性格であったという[15]。また自身の大きな鼻をコンプレックスに感じており、「このでかい鼻が俺がいろんな事をやる原動力になっている」とも語っている[3]。イーリング・アート・カレッジに入った頃から内向的な性格を改めるようになり、この頃が人間的にも創造性の面でも大きく成長した時期だと本人は語っている[16]

インタビューなどで見せる理知的で紳士的な態度とは裏腹に激高しやすい性格で、ムーン同様に騒ぎを起こす事もしばしばだった。コンサートを中止させようとした警官を暴行する[17]、音響スタッフに怒りコンサートを中断する[18]、テレビ番組でムーンと一緒になって悪ふざけを起こし番組を滅茶苦茶にする[19]、「トップ・オブ・ザ・ポップス」出演時にギターを破壊した後、プロデューサーに食って掛かった上中指をつき立てBBCから出入り禁止を受ける[20]、などのトラブルを起こしている。長年のパートナーであるダルトリーとの仲も常に良好だったとは言えず、ザ・フーのリーダーの座をタウンゼントが彼から奪ってしまった事で確執もあった[21]。1973年には互いへの不満が頂点に達し、タウンゼントがギターでダルトリーを殴るという事件も起きている(直後にダルトリーからアッパーカットを見舞われ、気絶した)[18]。1975年にはメディアを通じて互いの悪口を言い合うこともあった[22]。近年ではこのようなわだかまりは解消されたようである[23]

長年にわたり重度の難聴を抱えている。これは、1967年に出演したTV番組「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」で、演奏後にバスドラムに仕込んであった爆薬を爆破させた時に、爆風をまともに浴びた事が遠因になっている[24]。1970年代後半の頃には難聴は相当進んでいたが、その後も大音量でレコーディングやライヴを続けてきたためにさらに悪化し、2011年には補聴器を使用しなければならないほどになった[25]

私生活では、1968年5月にカレン・アストリーと結婚[26]。二人の子供に恵まれるも1994年より別居、2009年に正式に離婚している[27]。カレンの弟、ジョン・アストリーは、1990年代後半からザ・フーの全カタログのリマスターを担当している[28]

宗教

メハー・ババの教えは、タウンゼントの作品に大きな影響を与えており、「ババに会ったことで俺自身変わったし、バンド全体も変わった」と認めている。タウンゼントがババを知ったのは1967年、後にアルバム『トミー』のアートワークを手がける事になるマイク・マキナニーからババの事を教えたもらった事がきっかけである。タウンゼントは「ババの教えは、俺の考えにぴったりだった。当時頼るものがないと思っていたところにババの教えが俺の下に降りてきたんだ」と語っている。ババの教義を受けてからは、それまでのドラッグ漬けの生活をやめ(後に再び手を出すようになるが)、ポップソングの限界を破る意欲的な作品を作りたいと欲するようになったという。後の傑作『トミー』(同作には「アバター」としてババの名が刻まれている)や『フーズ・ネクスト』は、ババの教えなしには生まれなかったとタウンゼントは認めている。他のメンバーは、タウンゼントのババへの帰依については寛大に受け止めていたようである[29]

2015年現在もタウンゼントはババに帰依し続けており、彼のホームページにはババに関するコーナーも設けられている。

児童ポルノ事件

2003年1月11日、デイリー・メイルザ・サン両紙が「Landslide社(児童ポルノを掲載していたサイトで警察に摘発された)でクレジットカードを使った顧客リストの中に英国在住の大物ロックスターが含まれている」と掲載。これを見たタウンゼントは「それは自分だ」と自ら名乗りあげた。13日、本人同意の下、警察がタウンゼントの自宅とオフィスを捜索し、タウンゼントは身柄を拘束された。この事件はメディアに大きく採り上げられ、日本でも大きく報道された。だが、日本のメディアが報じたような「逮捕」はされておらず、身柄を8時間拘束されただけで即日釈放されており、逮捕状も請求されていない[30]。5月、タウンゼンドは不起訴処分となったが、警察から警告を受け、5年間は彼の写真や指紋DNAサンプルが英国内の性犯罪者リストに登録される事になった[31]

この事件を受け、タウンゼントの母や相棒のダルトリー、また友人のブライアン・メイが「ピートは小児性愛者ではない」とタウンゼントを擁護[32][33][34]。特にダルトリーは「これは魔女狩りだ」と英国警察に対する怒りを露にした[35]。タウンゼントは事件に関し、自身は決して小児性愛者でない事を主張した上で、「あのサイトにアクセスしたのは、インターネットではショッキングな映像が大人だけでなく子供でも簡単に手に入ることを懸念しており、'95年から始めているインターネットの児童ポルノがもたらすダメージ、特に児童虐待に反対するキャンペーンの調査の一環だった」と説明、さらに自身も少年時代に性的虐待を受けた事があると告白している[36]。また、この時に一貫して自分の味方でいてくれた相棒のダルトリーに対し、感謝の念を表している[37]

オペレーション・オー」の項目も参照。

使用機材

リッケンバッカー 360/12、1997、1996、1993[38]
デビューから1966年まで使用。1989年のザ・フー25周年ツアーでも使用した。
フェンダー・ストラトキャスター[39]
1967年から1968年にかけて使用。また1996年からはエリック・クラプトンモデルをメインに使用している。
ギブソン・SG・スペシャル[40]
1968年から1972年まで使用。ピックアップP-90で、色はダーク・チェリー(白もあり)。ウッドストック・フェスティバルをはじめ、様々な歴史的イベントで使用された。タウンゼントも「しっかりした作りで相性も最高だった」と語っている[41]
ギブソン・レスポール・デラックス[42]
1972年から1982年にかけて使用。SGに代わってメインで使用されるようになる。またタウンゼントのシグネイチャー・モデルも存在し、ピックアップ配列は2個のミニハムバッカーの間にハムバッカー1個をマウントするという独特なもので、コントロールノブの横に新たなトグルスイッチが2個設けられ、ボディの表面にはアラビア数字が大きく入れられている。
フェンダー・テレキャスター[43]
1980年代はメインで使用。シェクター製のものも並行して使用しており[44]、ライブ・エイドではシェクター製の方を使用した。1960年代にも使用していたことがある。
ギブソン・J-200[45]
近年のステージで主に使用。レコーディングでは1960年代から使用している。その他アコースティックではハーモニーも多用している。

また、アンプハイワットをメインに使用。

ディスコグラフィ

  1. Who Came First (1972)
  2. Rough Mix (1977) ※ロニー・レインとの共作
  3. Empty Glass (1980)
  4. All the Best Cowboys Have Chinese Eyes (1982)
  5. Scoop (1983)
  6. White City : A Novel (1985)
  7. Deep End Live (1986)
  8. Another Scoop (1987)
  9. Iron Man (1989)
  10. Psychoderelict (1993)
  11. Pete Townshend Live : A Benefit for Maryville Academy (1999)
  12. Lifehouse Chronicles (1999)
  13. Lifehouse Elements (2000)
  14. The Oceanic Concerts (2001) ※ラファエル・ラッドとの共作
  15. Scoop 3 (2001)

脚注

  1. ^ ニール、ケント・p31
  2. ^ ニール、ケント・p32
  3. ^ a b ニール、ケント・p35
  4. ^ ニール、ケント・p37
  5. ^ a b c d e f g アルティミット・ガイド・p139
  6. ^ ニール、ケント 2008, p. 256.
  7. ^ アルティミット・ガイド・p140
  8. ^ アルティミット・ガイド・p81
  9. ^ アルティミット・ガイド・p143
  10. ^ a b 『Player』(株式会社プレイヤー・コーポレーション)2004年10月号
  11. ^ a b ニール、ケント・p123
  12. ^ ニール、ケント・p56
  13. ^ ニール、ケント・p266
  14. ^ ニール、ケント・42
  15. ^ アルティミット・ガイド・p138
  16. ^ ニール、ケント・39
  17. ^ ニール、ケント・194
  18. ^ a b ニール、ケント・266
  19. ^ ニール、ケント・256
  20. ^ ニール、ケント・265
  21. ^ アルティミット・ガイド・p147
  22. ^ ニール、ケント・286
  23. ^ アルティミット・ガイド・p148
  24. ^ ニール、ケント・155
  25. ^ Talking about Pete's degeneration: Townshend now relies on hearing aids
  26. ^ ニール、ケント・p163
  27. ^ Pete Townshend to Divorce 15 Years After Separation
  28. ^ アルティミット・ガイド・p94
  29. ^ ニール、ケント・pp=133-134
  30. ^ Arrest of Pete Townshend
  31. ^ ピート・タウンゼント、児童ポルノで不起訴となるも警察から警告、性犯罪者リストに
  32. ^ ザ・フーのロジャー・ダルトリー、“ピートは小児性愛者ではない”
  33. ^ ピート・タウンゼントの母親が彼を弁護、虐待を受けていたのは知らなかったと語る
  34. ^ クイーンのブライアン・メイ、ピート・タウンゼントのメディア報道に不快感
  35. ^ ザ・フーのロジャー・ダルトリー、児童ポルノ捜査は“魔女狩り”と英国政府を非難
  36. ^ ピート・タウンゼント、小児性愛を否定。児童ポルノは自伝の下調べが目的と語る
  37. ^ Townshend pays tribute
  38. ^ Rickenbacker Guitars | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:
  39. ^ Fender Stratocasters | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:
  40. ^ Gibson SG Special | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:
  41. ^ ニール、ケント・p=204
  42. ^ Gibson Les Paul Deluxe | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:
  43. ^ 1952 Fender Telecaster | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:
  44. ^ Schecter/Giffin 'Telecaster'-style Guitars | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:
  45. ^ 1968 Gibson J-200 | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:

参考文献

  • アンディ・ニール、マット・ケント著、佐藤幸恵、白井裕美子訳『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』シンコー・ミュージック、2008年、ISBN 978-4-401-63255-8
  • レコード・コレクターズ増刊『ザ・フー アルティミット・ガイド』、2004年。

外部リンク