バンカー・ヒル (空母)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。58.94.2.110 (会話) による 2016年3月15日 (火) 22:35個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

艦歴
起工 1941年9月15日
進水 1942年12月7日
就役 1943年5月24日
退役 1947年1月9日
除籍 1966年11月1日
その後 1973年にスクラップとして売却
性能諸元
排水量 基準:27,100トン
満載:36,380トン
全長 総:872フィート
吃水線:820フィート
全幅 総:147フィート 6インチ
吃水線:93フィート
吃水 基準:28フィート 5インチ
満載:34フィート 2インチ
機関 バブコック&ウィルコックス製ボイラー8基150,000 shp, ウェスティングハウス製蒸気タービン4基4軸推進
最大速 33ノット
航続距離 15ノットで20,000海里
兵員 2,600名(士官含む)
兵装 38口径5インチ連装砲4基
38口径5インチ単装砲4基
56口径40mm4連装機関砲8基
78口径20mm単装機関砲46基
搭載機 90~100機
エレベーター 中央2基、舷側1基
カタパルト

バンカー・ヒルUSS Bunker Hill, CV/CVA/CVS-17,AVT-9)は、アメリカ海軍航空母艦エセックス級航空母艦としては4番目に就役した。太平洋戦争ではマリアナ沖海戦(フィリピン海海戦)、レイテ沖海戦(レイテ湾海戦)などに参加した。 艦名は独立戦争におけるバンカーヒルの戦いに因み、ボストンの軍港の近くにある小さな丘でもある。

艦歴

バンカー・ヒルは1941年9月15日マサチューセッツ州クインシーベスレヘム・スチール株式会社にて起工され、1942年12月7日、ドナルド・ボイントン夫人によって進水され、1943年5月24日に初代艦長J・J・バレンタイン大佐の指揮下就役した。

バンカー・ヒルはモントゴメリー少将の指揮下に入り、空母エセックスインディペンデンスらと任務部隊(高速機動部隊)を編成し、1943年11月11日第二次ラバウル空襲に参加した。11月13日からギルバート攻略作戦(ガルヴァニック作戦)が開始され、バンカー・ヒルはタラワ(環礁)攻略にあたり航空支援を行い、同作戦の支援にあたった(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)。1943年12月25日ニューアイルランド島カビエンの攻略が開始し、こちらでも航空支援で1944年1月1日から4日まで参加した。スプルーアンス中将指揮下の第58任務部隊に加わり、1月29日から2月8日にかけて、マーシャル諸島攻略支援を行った。同任務部隊に所属してトラック島空襲マリアナ諸島空襲(2月23日)、パラオ諸島空襲(3月30日~4月1日)などに参加し、カロリン諸島一帯に展開する日本軍に打撃を与えた。

その後もマリアナ沖海戦、フィリピン攻略、レイテ沖海戦沖縄戦など主要な戦いに参加した。マリアナ沖海戦では、日本海軍第一機動艦隊から出撃した艦上機群のうちの2機による急降下爆撃を受け、至近弾の炸裂により喫水線下に損傷を受けるが、海戦終了直後にウルシー泊地で修理を受け、すぐに戦線に復帰している。

また沖縄戦では、沖縄水上特攻作戦に出撃した戦艦大和に対して、僚艦のエセックス級空母などと共同して艦上機群による攻撃を行いこれを撃沈しているが、バンカー・ヒルも深刻な被害を受けることとなった。

沖縄侵攻を支援中の1945年5月11日の朝、バンカー・ヒルは二機の特攻機の突入によって大きなダメージを受けた。低空を飛行してきた安則盛三中尉操縦の零式艦上戦闘機飛行甲板上に250キロ爆弾を投下した、爆弾はバンカー・ヒルの飛行甲板と舷側を貫通し艦の横数メートルの海上で爆発した。その後零戦は飛行甲板に突入し、燃料を満載していた艦上機を破壊し大火災を引き起こした。小川清少尉の操縦する二機目の零戦は対空砲火を通り抜けて250キロ爆弾を投下し、乗機は艦橋と飛行甲板の境に激突した。爆弾は後部エレベーター付近に達して爆発し、ガソリンに引火し誘爆を引き起こし大火災となった。火災で発生した有毒な煙は換気装置を通じて艦内に大量に導入された。これによってバンカー・ヒルの艦内にいた多くのパイロット、乗員が焼死または一酸化炭素中毒で死亡した。また消火のための放水で注入された海水によって艦内に閉じ込められたまま溺死した水兵も多数いた。戦死者は346名、行方不明43名、負傷者264名となり、バンカー・ヒルはウルシー環礁まで撤退し、真珠湾経由でワシントン州ブレマートンに帰投し、大修理を受けた。日本の敗戦もそこで迎えた。ウルシー環礁に向かう途中で行われた300名以上の水葬は、現在までにアメリカ海軍が1回に行った最大の水葬である。

なお、硫黄島上陸作戦からこの日(5月11日)まで、バンカー・ヒルは第58任務部隊(高速空母機動部隊)の旗艦であり、司令官のマーク・ミッチャー中将が座乗していたが、この特攻攻撃により大破する。ミッチャー中将は旗艦をエンタープライズに変更した。しかし、その3日後の5月14日にエンタープライズも特攻攻撃により深刻な損傷を受け、ミッチャー中将はランドルフへの旗艦変更を余儀なくされた。

1945年7月19日、修理が終わったバンカー・ヒルは戦争が終わった後、復員兵輸送(マジック・カーペット作戦)に参加。1952年10月にCVA-17(攻撃型空母)、1953年8月にCVS-17(対潜空母)など類別変更されたが、他のエセックス級空母とは異なり、同じく大損害を受けたフランクリンと同様に大規模改装を受けることもなく朝鮮戦争ベトナム戦争に参加することはなかった。1959年5月、バンカー・ヒルはAVT-9(航空機訓練・輸送艦)に再分類された。1966年11月1日に除籍されてからの数年間は、サンディエゴのノースアイランド海軍基地で海軍の電子実験船として使用され、その後1973年スクラップとして売却、解体された。

関連項目

外部リンク