テトゥアン

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テトゥアン
تطوان
テトゥアンの市章
市章
位置
テトゥアンの位置(モロッコ内)
テトゥアン
テトゥアン
テトゥアン (モロッコ)
テトゥアンの位置(アフリカ内)
テトゥアン
テトゥアン
テトゥアン (アフリカ)
行政
モロッコの旗 モロッコ
 地方 タンジェ=テトゥアン=アル・ホセイマ地方
 州 テトゥアン州
 市 テトゥアン
市長 ムスタファ アル・バッコーリ[1]
人口
人口 (2019年現在)
  市域 398,723(推計)[2]
  備考 高等計画委員会フランス語版による予測
その他
等時帯 CET (UTC+1)
ナンバープレート 44[注釈 1]
公式ウェブサイト : https://www.tetouan.ma/portail/web/

テトゥアンベルベル語: Tiṭṭawin, ティタウィン; アラビア語: تطوان‎; スペイン語: Tetuán; フランス語: Tétouan; 英語: Tetouan, Tittawin)は、モロッコ北部にある町。「白い鳩」の異名を持つ[3]。モロッコの地中海側にあり、北に40kmほどのところには地中海と大西洋を分かつジブラルタル海峡がある。タンジェからは東へ60km、メディックから南へ10km、ジブラルタル海峡に面したスペインの飛び地セウタからは南へ40km。町の周辺には国道が通っており、中心部の6km東にはサニア・ラメル空港がある。人口は2014年国勢調査で380,787人[2]1997年に「テトゥアン旧市街」(テトゥアンのメディーナ)がユネスコ世界遺産として登録された(ID837)[4]テトゥアン州の州都である。

概要[編集]

テトゥアン新市街のヨーロッパ風の建築物

ベルベル語では「ティタウィン」と呼ばれていた。ティッタウィンとはベルベル語で「目」を意味するが、この地に湧く泉の比喩表現である[5]。また、「グラナダの娘」や「小さなエルサレム」とも呼ばれている[6]。現在では、「ティトゥアン」などとも表記されている。

白い壁の家が多く、特にメディーナと呼ばれる城壁内部の旧市街地は白い家々が立ち並び職人らが多く住み、この部分が世界遺産となっている[4]。15世紀頃にレコンキスタによりイベリア半島から逃れたアラブ人ユダヤ人の手によって城壁の中に町を再建したのが城壁都市の始まり[7]。城壁の長さ5Kmあり、内部に入るための門は7門ある[4]。他の地域と同じく公用語はアラビア語であるが、アラビア語モロッコ方言が主に話される。リーフ語(ベルベル語)を日用生活に使う少数派もいる。スペイン語フランス語も仕事や学問の分野では使われている[8]。主な宗教はイスラム教だが、キリスト教徒ユダヤ教徒などの少数派もいる[8]。このように、テトゥアンはアラブ、ヨーロッパ、ユダヤなどに様々な文化が入り交じる町である[6]。また、メラー(mellah)と呼ばれるユダヤ人地区も残る。これはヨーロッパでいうゲットーに似たもので、町から隔てられ、夜には門を閉ざされていた[8]
町の通りは広々としている。家の多くはイスラム時代のイベリア半島(アル=アンダルス)からレコンキスタで追われた貴族の末裔が住み、大理石の噴水やオレンジの木などを植えた中庭がある。家々の天井の彫刻や壁画も、グラナダアルハンブラ宮殿に残る装飾に似た特徴を見せており、床や柱はタイルによるモザイクでおおわれている[8]。主な伝統産業は銀の糸をはめこんだタイルの製造、底の厚い履物、その他フリントロック式の銃や織物類などがある[8]
一方、壁外の新市街にはスペインに占領されていた時代に建設されたヨーロッパ風の白い建物が建て並ぶ[9][7]

地理[編集]

テトゥアンはリーフ山地の北方のマルティル川渓谷(Martil)の肥沃な北斜面に広がり、町の北と南と西は山に囲まれている[8]テトゥアンの町の周辺はオレンジ、アーモンド、ザクロなどの果樹園が広がり、スギなどが生えている[要出典]。テトゥアンから北東へマルティル川に沿って行くと、すぐにテトゥアンの外港で地中海に面したリゾート地でもあるマルティルの街に着く。町の北の岩山はファフス=アンジュラ州の南端にあたる。

気候[編集]

ケッペンの気候区分地中海性気候(Csa)に区分される。冬に気温が下がり降水量が増し、夏は気温が上がり降水量が減り乾燥する。平均気温が18.9℃、平均年間総雨量は約654.7mm[10]。また、南東から吹く暑く乾燥したシェルキ風英語版と大西洋の湿った西風(Gharbi)の影響で、霧や雨を伴う雲などが発生する[2]

テトゥアン(北緯35度35分34秒 西経5度19分54秒 / 北緯35.59278度 西経5.33167度 / 35.59278; -5.33167座標: 北緯35度35分34秒 西経5度19分54秒 / 北緯35.59278度 西経5.33167度 / 35.59278; -5.33167サニア・ラメル空港付近) (1991年–2020年)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 24.3
(75.7)
25.9
(78.6)
29.4
(84.9)
30.3
(86.5)
35.1
(95.2)
37.0
(98.6)
42.5
(108.5)
41.8
(107.2)
36.2
(97.2)
34.8
(94.6)
29.9
(85.8)
26.8
(80.2)
42.5
(108.5)
平均最高気温 °C°F 17.4
(63.3)
17.7
(63.9)
19.0
(66.2)
20.7
(69.3)
23.4
(74.1)
27.1
(80.8)
30.0
(86)
30.3
(86.5)
27.6
(81.7)
24.2
(75.6)
20.5
(68.9)
18.2
(64.8)
23.0
(73.4)
日平均気温 °C°F 13.4
(56.1)
13.9
(57)
15.3
(59.5)
16.7
(62.1)
19.1
(66.4)
22.5
(72.5)
25.1
(77.2)
25.9
(78.6)
23.6
(74.5)
20.3
(68.5)
16.6
(61.9)
14.4
(57.9)
18.9
(66)
平均最低気温 °C°F 9.3
(48.7)
10
(50)
11.5
(52.7)
12.9
(55.2)
15.2
(59.4)
18.4
(65.1)
20.7
(69.3)
21.4
(70.5)
19.5
(67.1)
16.4
(61.5)
12.7
(54.9)
10.5
(50.9)
14.9
(58.8)
最低気温記録 °C°F −2.6
(27.3)
−0.9
(30.4)
3
(37)
4.8
(40.6)
7
(45)
12.3
(54.1)
13.3
(55.9)
14.5
(58.1)
10.5
(50.9)
7
(45)
2.6
(36.7)
2
(36)
−2.6
(27.3)
降水量 mm (inch) 93.4
(3.677)
86.6
(3.409)
73.1
(2.878)
62.4
(2.457)
30.1
(1.185)
7.6
(0.299)
0.6
(0.024)
4.7
(0.185)
28.8
(1.134)
74.8
(2.945)
92.2
(3.63)
100.4
(3.953)
654.7
(25.776)
平均降水日数 7.6 7.4 7.4 6.8 4.4 1.0 0.2 0.6 3.1 6.8 7.7 8.7 61.7
出典:アメリカ海洋大気庁[10]

人口[編集]

2019年の人口は398,723人と推定される。2014年の国勢調査では世帯数は92,606世帯、人口はタンジェ=テトゥアン=アル・ホセイマ地方で2番目に多い[注釈 2]380,787人だった。2004年の国勢調査では69,489世帯の323,956人だった[2]。2004年から2014年の10年間の人口増加率は23.08%。

交通[編集]

高速道路[編集]

主要道路[編集]

空港[編集]

歴史[編集]

タムーダ遺跡

紀元前3世紀にはタムーダ英語版と呼ばれる町があったとみられる[12]ローマ人やフェニキア人のつかった品々がタムダの遺跡から出土している。ベルベル人の国マウレタニアに属する町であったが、紀元前42年にローマに征服され属州マウレタニア・ティンギタナの一部となり要塞が建設される[12]

マリーン朝の王が現在のテトゥアンの町を築いたのは1307年頃のことで、セウタ攻撃、スペインポルトガルからの侵攻を阻止するための基地となった[12]1399年にはカスティーリャ王国により海賊行為への反撃として破壊された。ポルトガル王国がセウタを占領した後の1437年にはポルトガル王国によって再度攻撃される[12]15世紀末にはレコンキスタで(特に1492年グラナダ陥落で)イベリア半島を追われた難民が押し寄せてテトゥアンをAli al-Mandriの手によって再建された[12]。彼らはまず城壁を築き、その内部を家々で埋めた[7]1609年にはスペインによるモリスコ追放により推定1万人の難民がテトゥアンに定住する[12]
17世紀から18世紀までテトゥアンはモロッコ内陸都市とヨーロッパを繋ぐ重要拠点となり[4]、モロッコで重要な港の一つとなった。その間、テトゥアンにはヨーロッパの領事館が設置され発展した[12]。だが、19世紀に入ると、欧州の植民地主義が原因によりモロッコ全体と共に衰退。また、テトゥアンでもペストが流行し人口の4分の1が失われ、干ばつによる飢餓が発生し、多くの住民が他の都市に移住し衰退に拍車がかかる[12]1830年フランスによるアルジェリア占領によりアルジェリア人の難民がテトゥアンに移住する[12]

テトゥアンの戦い

スペインではテトゥアンは海賊バルバリア海賊)で悪名高く、モロッコ・スペイン戦争中の1860年2月4日にはアイルランド王族の末裔であるスペインの将軍レオポルド・オドンネルテトゥアンの戦い英語版で勝利して町を占領。モロッコがスペインに多額の賠償金を支払い1862年にスペインがテトゥアンから撤退[12]占領している間に町をヨーロッパ風に改造している。この改造は地元から憎まれ、結局市民によって改造の痕跡は全て破壊され、町はほぼ元の状態に戻った[要出典]。オドンネルは後にスペイン首相となり、初代テトゥアン公爵を名乗った。

テトゥアン王宮英語版

1909年1月にテトゥアン郊外を震源とする地震により100人以上が死亡する[13]
テトゥアンを含むモロッコ北端部は1912年フェス条約でスペインの保護国であるスペイン領モロッコとなり(南部の大部分はフランス領モロッコとなった)、1913年にスペイン領モロッコが発足するとテトゥアンが首都となった。モロッコのスルタンの王子が副王ハリーファ Jalifa)としてスペイン領モロッコを治めたが、その実権はスペインの派遣する高等弁務官英語版(Alto Comisario)にあった。この際にスペインが旧市街の隣の壁外にヨーロッパ風の建物を建築し新市街を形成する。また、占領中の1931年にテトゥアンで初めて市議会議員が行われる[12]。この体制は1956年、フランス領モロッコが独立し、スペイン領モロッコの大部分が合流して独立国モロッコが誕生するまで続いた[12]。こうしたことから今日でもスペイン語も話す市民がいる[8]。モロッコの多くでは道路標識はアラビア語とフランス語併記となっているが、テトゥアンではアラビア語とスペイン語が併記されている場合がある[要出典]

ユダヤ人地区のメラーのガザ通り

テトゥアンはユダヤ人の大きなコミュニティがあった町でもある。スペイン領モロッコ時代のテトゥアンには7,630人のユダヤ人が住んでいたが、後に他の都市へとに移住し、スペインからの独立後の1960年の国勢調査ではテトゥアンのユダヤ人の人口は3,103人まで減少。現在もテトゥアンに残るユダヤ人はごくわずかである[14]。テトゥアンに定住していたユダヤ人の多くはイベリア半島のレコンキスタなどの迫害から逃れてきたユダヤ人(セファルディム)であり、ハキティアと呼ばれるラディーノ語(ユダヤ・スペイン語)の一種を話す[15]

世界遺産[編集]

世界遺産 テトゥアン(ティタウィン)旧市街
モロッコ
テトゥアン旧市街地(メディーナ)
テトゥアン旧市街地(メディーナ)
英名 Medina of Tétouan (formerly known as Titawin)
仏名 Médina de Tétouan (ancienne Titawin)
登録区分 文化遺産
登録基準 (2),(4),(5)
登録年 1997年(ID837)
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
テトゥアンの位置
使用方法表示

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  • (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
    • 2.に関しては、前述の白い壁の家並みが決め手となった。

姉妹都市[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ the communial cousiel”. commune de tétouan. 2023-05-25  閲覧。
  2. ^ a b c d Monographie provinciale de Tétouan 2019” (フランス語). 高等計画委員会フランス語版. 2024年1月23日閲覧。
  3. ^ Tétouan,«la Colombe blanche» des poètes arabes” (フランス語). Aujourdhui maroc. 2024年2月1日閲覧。
  4. ^ a b c d Medina of Tétouan (formerly known as Titawin)” (英語). 国際連合教育科学文化機関. 2024年2月1日閲覧。
  5. ^ تطوان المغربية غرناطة ثانية ومدينة نازحي الفردوس المفقود” (アラビア語). 2024年2月1日閲覧。
  6. ^ a b À PROPOS DE TÉTOUAN” (フランス語). infos tourisme maroc. 2024年2月1日閲覧。
  7. ^ a b c テトゥアン旧市街(旧名ティタウィン)(Medina of Tetouan (formerly known as Titawin))の観光情報”. JTB. 2024年2月1日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g TÉTOUAN” (フランス語). medcités. 2024年2月1日閲覧。
  9. ^ espagnole reprend en,marquée par son histoire riche. Tétouan au Maroc” (フランス語). trace direct. 2024年2月1日閲覧。
  10. ^ a b Tétouan Climate Normals 1991–2020”. アメリカ海洋大気庁. 2024年2月1日閲覧。
  11. ^ Annuaire Statistique du Maroc, année 2022 (Format Excel)” (フランス語). 高等計画委員会フランス語版. 2024年1月29日閲覧。
  12. ^ a b c d e f g h i j k l تطوان عبر التاريخ” (アラビア語). テトゥアン. 2024年2月1日閲覧。
  13. ^ A chronicle of earthquakes in Morocco: From year 818 to 2023” (英語). almayadeen. 2024年2月1日閲覧。
  14. ^ Tetouan” (英語). moroccan jews. 2024年2月2日閲覧。
  15. ^ The Spanish Protectorate in Morocco (1912-1956)” (英語). moroccan jews. 2024年2月2日閲覧。
  16. ^ H E R M A N A M I E N T O S D E L A P R O V I N C I A D E S A N T A F E” (スペイン語). サンタフェ. 2024年2月2日閲覧。
  17. ^ Ciudades Hermanadas” (スペイン語). グラナダ市議会. 2024年2月2日閲覧。
  18. ^ HERMANAMIENTOS” (スペイン語). タラサ市議会. 2024年2月2日閲覧。
  19. ^ العلاقات الخارجية(wayback machine、2023年11月1日) - http://khanyounis.mun.ps/ar/home/page/124/%D8%A7%D9%84%D8%B9%D9%84%D8%A7%D9%82%D8%A7%D8%AA-%D8%A7%D9%84%D8%AE%D8%A7%D8%B1%D8%AC%D9%8A%D8%A9[リンク切れ]
  20. ^ العلاقات الخارجية و المدن المتوأمة” (アラビア語). モナスティル県. 2024年2月2日閲覧。

関連項目[編集]