マリーン朝
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1196年 - 1465年
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(国章) 
マリーン朝の領域(1300年)-
公用語 アラビア語、ベルベル語 首都 フェス - 元首等
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1196年 - 1217年 アブド・アル=ハック1世(初代) 1259年 - 1286年 アブー・ユースフ・ヤアクーブ(第6代) 1286年 - 1307年 アブー・ヤアクーブ・ユースフ(第7代) 1348年 - 1358年 アブー・イナーン・ファーリス(第12代) 1420年 - 1465年 アブド・アル=ハック2世(最後) - 変遷
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成立 1196年 滅亡 1465年
マリーン朝(アラビア語:المرينيون al-Marīnīyūn)は、1196年から1465年まで続いた北アフリカの王朝。首都はモロッコのフェス(ファース)。ムワッヒド朝の弱体化にともなってベルベル系遊牧民・ザナータ族の首領・マリーン家のアブド・アル=ハックにより創始された王朝である。
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歴史 [編集]
勃興 [編集]
13世紀初頭のマリーン家はモロッコ東部、現在のアルジェリアとの国境地帯で遊牧生活を営んでいた。ムワッヒド朝成立直後、マリーン家はムワッヒド朝への従属を拒否して辺境地帯へ退くが、1195年のヤアクーブ・マンスールによるアラコルスの戦いには参加しており、多数の戦利品を得ている。ナバス・デ・トロサの戦い以後のムワッヒド朝の弱体化によってモロッコ北東部に侵入、当初は農地の所有者と都市を服従させ、貯蔵用の食料と貢納金を受け取るだけだった。やがて本格的に征服に乗り出し、1216年から1217年にかけてリビアのリーフ山脈を占領、平原部に進出しフェス、ターザ付近の部族長を支配下に収めた。アブー・バクル(在位:1244年 - 1258年)の即位後、1247年にメクネスの制圧をきっかけにムワッヒド朝に忠誠を誓っていた傭兵がマリーン朝側に寝返り、翌年にはターザ、サレといった大西洋岸の都市を占領した。1269年、時のスルターン・アブー・ユースフ・ヤアクーブ(在位:1258年 - 1286年)がマラケシュを占領したことで、ムワッヒド朝を滅ぼした。ヤアクーブは生涯に4度、カスティーリャ王国に対して聖戦を行うが、それには経済的事情と領土野心で成立した王朝[1]に宗教的意義を付加する意図があった[2]。とはいえ、宗教面以外にも、マラガ、アルヘシラス、ジブラルタルなどのイベリア半島南端部の港湾都市を占領して、地中海交易の拠点を確保する経済的な目的も有していた[3]。さらにヤアクーブはカスティーリャ国王アルフォンソ10世(賢王)とその息子サンチョ4世が王位を争っているのを見て、この王位争いに巧みに介入し、レコンキスタでカスティリャ王国に対して優位に立った。
全盛期 [編集]
1286年、ヤアクーブが死去してその息子アブー・ヤアクーブ・ユースフ(在位:1286年 - 1307年)が跡を継ぐと、宗教戦争の矛先をアルジェリアのザイヤーン朝に変えた。ザイヤーン朝の首都トレムセンにある12世紀の神秘主義(スーフィズム)の聖者アブー・マドヤンの墓を手に入れるため[4]トレムセンに数年にわたる包囲を敷いたが、陥落には至らなかった。1307年、ユースフが臣下によって暗殺されると、王朝内でスルターンの地位を巡っての争いが起こり、発展は一時停滞する。ウトマーン2世(在位:1310年 - 1331年)は同じ北アフリカのイスラム国家であるザイヤーン朝、イフリーキヤ(現在のチュニジア)のハフス朝と和睦し、イベリア半島への進出を抑えて国庫の回復を図った。
次代のアブー・アルハサン(アブル・ハサン)(在位:1331年 - 1348年)の治世に王朝は最盛期と転換期を同時に迎える。1340年のサラードの戦いで敗戦を喫した後、アブル・ハサンはイベリア半島への進出を断念して東進政策を取った。サラードの戦いより前の1337年にトレムセンの占領に成功しており、1347年にハフス朝の首都チュニスを占領、王朝の領土はモロッコからイフリーキヤにまで広がった。しかし、ハフス朝の残党とアラブ遊牧民の抵抗にあい、1348年のカイラワーン近郊の戦いに大敗したため、ザイヤーン朝とハフス朝に一時の復興を許すこととなった。半ば成り行きで父アブル・ハサンを廃したアブー・イナーン・ファーリス(アブー・イナーン)(在位:1348年 - 1359年)の治世、王朝の文化は全盛期を迎えた。1352年にトレムセン、1357年にチュニスの再征服に成功するが、相次ぐ対外遠征はマリーン朝の財政に大きな負担を残しており、またアブー・イナーンの治世の初期に起きたペストの大流行により人口は減少し、国の経済は痛手を受けた。
アブー・イナーンが廷臣に暗殺された後、無能な君主が続いて王位継承争いが絶えず、スルターンの即位に関与した宰相も目まぐるしく変わる。アブル・ハサンの子と孫たちによる王位争いは、アブル・ハサンの子アブド・アル・アズィーズ1世(在位:1366年 - 1372年)が勝ち残った。王位の争いは一応の鎮静を見るがトレムセンとチュニスの再々征服どころか国内の統一すらままならず、半独立状態にある王族も存在しており、愛国主義やスーフィズムと結びついた同胞団や修養所(ザーウイヤー)の出現が始まる。アブー・アル=アッバース・アフマド(在位:1374年 - 1384年・1387年 - 1393年)の治世、まだマリーン朝はザイヤーン朝とハフス朝を従属させるだけの力を有していた。イブン・ハルドゥーンが『歴史序説』を著したのは彼の時代であった。
没落、そして滅亡 [編集]
アブー・アル=アッバース・アフマドの死後は3人の息子が王位に就くが、かつての栄光を回復させることはできなかった。ウトマーン3世(在位:1398年 - 1420年)の代に東方への遠征に失敗してザイヤーン朝とハフス朝が完全に再興し、国内は10人の王族が王位を求めて互いに争う惨状に陥っていた。1415年にポルトガルによってセウタを奪われ、ナスル朝にはジブラルタルを占拠された。ウトマーン3世は外患と内憂に有効な方策を講じることができず、1420年に侍従によって暗殺され、わずか1歳のアブド・アル=ハック2世がスルターンに据えられた。アブド・アル=ハック2世の即位とともに、14世紀末にリーフ山脈から進出した新興貴族ワトアース家の台頭が始まり、1420年のバヌー・ワトアースの宰相就任から1458年まで、宰相の地位はワトアース家によって独占された。
バヌー・ワトアースの子アブー・ザカリヤーはスルターンと婚姻関係を築き、1437年にはエンリケ航海王子からタンジールを防衛することに成功した。しかし、アブド・アル=ハック2世は成長するにつれてワトアース家を疎み始め、1458年にアブー・ザカリヤーの孫ヤフヤーを初めとするワトアース家の人間を殺害、宰相にハールーン、侍従にジャーウィル、警察長官にフサイン・アルヤフーディーらユダヤ人を高官に任命した。彼らはユダヤ人にとって有利な裁定をし、国庫を潤すために増税を実施した際に、本来は税を免除されていたウラマーとシャリーフからも税金を取り立てた。重税と宗教的不平等にフェス市民の憤怒は高まり、1465年にフサインがシャリーフの女性に侮辱を与えたことがきっかけとなってフェス市民は暴動を起こし、アブド・アル=ハック2世は殺害され、フェスではユダヤ人の大量殺戮(ポグロム)が起きた[5]。
こうしてマリーン朝は滅亡を迎え、フェスでは短期間の間イドリース朝の末裔エル・ジューティを頂く同胞団勢力が政権を樹立した。
社会 [編集]
首都 [編集]
行政の中心は1276年に旧フェス(ファース・アル・バリ)の西に建設された新フェス(ファース・アル・ジャディード)であった。アブル・ハサン、アブー・イナーン治下の最盛期のフェスの人口は20万人を超えていた[6]。新フェスにはスルターンの住む王宮のほかにキリスト教徒、ユダヤ人の居住区(メッラーフ(en:Mellah))が設けられた。建国当時ユダヤ人の居住区は旧フェスの北に置かれていたが、15世紀に入って新フェスの南に移された。民衆の暮らす旧地区と政治の中心である新地区から成るフェスはモロッコ文化の中心地として繁栄したが、対照的に古都マラケシュは衰退した[7]。今日、フェス郊外の小高い丘にはマリーン朝の歴代スルターンの墓地が残る。かつては大理石造りの壮麗な墓碑が並んでいたが、今は壁の一部だけが残るのみである[8][9]。
官制、軍制 [編集]
宰相(ワズィール)、高官は基本的にザナータ族で構成される貴族階級出身者から選ばれ、権力闘争を経て力をつけたいくつかの家系が国政を左右した。マリーン朝の滅亡後、モロッコに王朝を建てたワッタース家もこの階級に属する。印璽、会計を管理する書記官はモロッコとアンダルシア出身者が多く、文章の起草係は一部の家系の出身者から選ばれるのが通例だった。宮廷内で強い政治的権力を持っていたのはスルターン、次いで宰相であったが、陰で強い権限を持っていたのは署名ひとつで書類に記された地租や俸禄の採否を決定する、経理担当の官吏だった。
スルターンの身辺を世話する侍従職(ハージブ)には解放奴隷から採用された者が多かった。侍従職は政治と軍事のどちらにも権力を有していなかったが、14世紀初頭に頭角を現したユダヤ人のワッカーサ家出身者のように国政に参与するものも現れた[10]。侍従とともに君主に近侍する近衛兵の統率者(ジャンダール、ミズワール)はスルターン周辺の警備と謁見の取り次ぎを担当し、その長は宮廷式典を司った。軍はザナータ族と傭兵として雇用されたアラブ人、ヨーロッパ人、アンダルシア出身の改宗者で構成された。実際の戦争で作戦の立案と軍隊の指揮を担う総司令官はスルターンとその一族、または宰相が担当した。
政府の統制が完全に及んでいないアトラス地方では特別な制度が設けられた。中央の有力貴族から選ばれた総督(アミール)の監督下で、地元の有力者(カビーラ)が統治した。
彼ら兵士と役人の給与は金で支払われ、さらに高級官僚には金以外に耕作地が与えられた。特定の官職に就くには家柄が必要とされた反面、王朝成立時の宗教的イデオロギーの低さのため[11]、出世において生来の社会的地位が占めるウェイトは低かった。教養、信仰心、あるいは有力者との繋がりによって立身出世の道は開けたのである。
文化 [編集]
数学は東方のイスラム国家とアンダルシア地方の古典的スタイルとムワッヒド朝以降のマグリブで育まれた知識が融合して、高度の発達を遂げた。『算術概論』の著者イブン・アル・バンナー(1256年 - 1321年)などの数学者が活躍した。詩作、散文については大仰な表現と文飾に長けた古風な文が好まれ、彼ら学者や詩人の作品はフェス河畔の製紙工場で生産された紙に書かれた。M・タルビは詩文の風潮に文化の衰退期に現れる特徴を指摘し、技術は完全であるが進歩の兆候が見られないと主張し[12]、またイブン・ハルドゥーンの言葉を引いて学術についても同様の停滞傾向があると述べた。
2人の王 [編集]
歴代のスルターンの中でもアブル・ハサンとアブー・イナーン親子は特に学芸の保護に熱心であり、両王は14世紀のイスラム文化を代表する2人の人物に深く関わっている。アブル・ハサンはチュニス遠征においてフェスの学者を帯同し、チュニスに滞在するフェスの学者達の教えを受けた者の1人が歴史家イブン・ハルドゥーンであり、マリーン朝軍がチュニスから撤退した後にハルドゥーンはフェスに仕官した。アブー・イナーンは書記のイブン・ジュザイー(en:Ibn Juzayy)に命じてイブン・バットゥータの口述する見聞録を筆記させ、1355年に『都市の不思議と旅の驚異を見る者への贈り物』を完成させた。
アブー・ユースフ・ヤアクーブら歴代の王はアンダルシア地方からの亡命者の助力を受けてのモスク、神学校(メデルサ)の建設に積極的であり、即位前のアブル・ハサンが旧フェスに建てたアッタラーン・メデルサ(en:Al-Attarine Madrasa)、その子のアブー・イナーンが旧フェスに建設したブー・イナニア・メデルサ(en:Bou Inania Madrasa)は、マリーン朝で育まれた建築技術の高さを示す。後者のブー・イナニア・メデルサは大理石が敷き詰められた中庭、アーケード、幾何学模様とタイルで彩られた壁面が美しく、現在は礼拝堂となっている。
言語・文字 [編集]
ムワッヒド朝末期からアラブ遊牧民のモロッコへの流入が始まっていたが、マリーン朝建国後により顕著になった。それはマリーン家の支持母体であるザナータ族は数の上で少なく、アラブ遊牧民を支持者として受け入れたためであった[13]。その結果支配層であるザナータ族のアラブ化が進み、ムラービト朝とムワッヒド朝で公用語として用いられたベルベル語と並んでアラビア語が公用語として定着した。
王朝はイベリア半島から亡命した学者、芸術家、商人を歓迎した。マリーン朝支配下のモロッコで流行したアラビア文字の書体がアンダルシア地方で確立した書体を継承した形となったのは、彼らイベリア半島からの移住者が宮廷に雇われたためである。書道は移住者とその子孫が暮らすフェスなどの都市部でのみ流行し、地方では愛好されなかった[14]。彼ら都市文化の担い手である中上階級の増加は文化の発展に寄与したが、それは都市と農村のギャップが広がったことも意味する。
宗教 [編集]
都市と農村のギャップの広がりは宗教面において顕著であり、都市ではマーリク学派を主流とするスンナ派が優勢であったのに対し、農村部では神秘主義(スーフィズム)が広まっていった。マリーン朝下のモロッコにおけるスーフィズムの傾向として、ムワッヒド朝期の聖人アブー・マドヤンの聖者崇拝主義(シャージリー主義)が広く受け入れられたことがある。国側でもスーフィズムを厚く保護し、アブー・マドヤンの墓を有するトレムセンに対して執着を示した。国内が混乱する14世紀末になると愛国主義の高揚とスーフィズムが結びつき、霊力(バラカ)を持つ「聖者」(マラブー)を中心とした同胞団やザーウイヤーが生み出される。スーフィズムの広まりとともにシャリーフ(預言者ムハンマドの血統に属する家系)への崇拝も高まり、王朝末期の聖者アル・ガズーリーの出現に至ってモロッコのスーフィズムにシャリーフ、マラブー崇拝が定着した。このシャリーフ崇拝と同朋団は、マリーン朝崩壊後にモロッコに短期間成立したシャリーフ政権、16世紀にモロッコを統一したサアド朝成立の基となった。
アブル・ハサンとアブー・イナーンの治世、民間信仰に変化が見られた。預言者ムハンマドの誕生を祝う宗教行事(ムールード)の定着[15]、スーフィズムの聖者廟の祭祀の盛り上がりといった現象が起きている。
経済 [編集]
貨幣については、マリ帝国との交易で得た金から鋳造した金貨のほか、ディルハム銀貨も鋳造されていた。モロッコの食料品の物価はエジプト、シリア、イフリーキーヤに比べて安く、エジプトでは高価なバターも気軽に調理に使えた[16]。
対外貿易 [編集]
一連の他国との交易は商法を司る長官(ムフタシブ)によって監督された。
イベリア半島のキリスト教国家(ポルトガル、アラゴン)、ジェノヴァ、ヴェネツィアとの間で活発に地中海貿易が行われ、キリスト教徒の商人は1つの商館(フンドゥク)に集められ、共通の領事の統制下で居住した。ヨーロッパへは羊毛、革製品、蝋、ナツメヤシ、絨毯などの工芸品を輸出し、後には14世紀以降に生産が始まったサトウキビも品目に加わった。主な輸入品は金属、木材、ワイン、染料、エジプト経由で買い付けられた香辛料だった。中でも、サハラ交易で高い価値を持っていたアンダルシア産の織物の需要は高かった。
ムワッヒド朝以前のマグリブ諸王朝に続いて陸路によるサハラ交易も行われ、マリ帝国を相手とした。15世紀に入ってワッタース家が政権を掌握できた一因に、サハラ交易のルートを押さえていたことが挙げられる。初期のサハラ交易での輸出品は生活必需品である岩塩が主であったが、時代が進むと馬のほかに装飾品、マグリブやアンダルシアで織られた衣服、アルメリア産の大理石などが輸出された。特に14世紀以降の交易の主力品となったのは、衣類と織物である。モロッコの商人はヨーロッパから輸入された衣類と織物をマリに転売し、ヨーロッパとの交易に用いる金を購入した。対してサハラの南からは金以外に黒人奴隷、象牙、インディゴ、ゴムなどが輸出された。14世紀以降になると、コーラの実、ギニアの生姜、ココヤシの実が輸出品目に加わる。
14世紀に入ってマムルーク朝の政情が安定してエジプトを拠点とするカーリミー商人が台頭すると、サハラ交易のメインルートは徐々に東方に移っていった。また、マリ帝国で塩の自給が可能になると、モロッコの商人とマリの関係はかつてのモロッコにとって有利なものから対等なものに変化していき、モロッコの経済は痛手を受けた。
対外政策 [編集]
イベリア半島 [編集]
宗教運動の結果成立したムワッヒド朝と異なり、マリーン朝には宗教的イデオロギーが欠けていた。アブー・ユースフ・ヤアクーブは4度軍を率いてイベリア半島への遠征を行ったが、その裏には宗教的意義の補完と国内統制の強化の意図があった[17]。アブー・ユースフ・ヤアクーブの死後はザイヤーン朝との戦争、王位をめぐる内乱によってイベリア半島への遠征は40年以上行われなかったが、イベリア半島のナスル朝支配下の都市がキリスト教勢力の手に落ち、カスティーリャ王国から内政干渉を受けるとアブル・ハサンの治世にイベリア遠征が再開された。1333年にジブラルタルを奪還するが、1340年のサラードの戦いで自軍の4分の1の兵数しか有していなかったカスティーリャ・ポルトガル連合軍に大敗するとイベリア半島への軍事的介入を断念した[18]。14世紀半ばからはマリーン朝とキリスト教勢力双方で王位をめぐる内戦が起こり、互いに干渉する余裕はなかった。15世紀に入って先んじて内乱を克服したポルトガルのアヴィシュ王朝によるモロッコへの攻撃が始まり、マリーン朝は守勢の時代に入る。ポルトガル王は下級貴族の次男、三男に与える封土を欲し、新興のポルトガル商人は新たな市場をアフリカに求めたのである。1415年に商業都市として栄えていたセウタを占領されて以降、地中海沿岸の交易拠点の防衛戦を繰り広げた。
同じイスラム教国のナスル朝とは同盟関係にあり、カスティーリャの攻撃に対抗できるよう援軍を派遣した。モロッコから送られた指揮官の1人であるウスマーン・イブン・アビー・アル・ウラーはバレンシア・デ・カンポスの領主フアンを戦死させ、ムハンマド4世(在位1325年 - 1333年)の成人前は国政を支配する、有能な指揮官だった。
キリスト教国と同盟したナスル朝の攻撃を受けることもあり、マリーン朝の側もナスル朝の王位継承問題に介入して自国にとって都合の良い君主を立てようとするなど、友好的な関係が永続的に続いたわけではなかった。アブド・アル=アズィーズ1世の治世には、ナスル朝の支援を受けて反乱を起こした王族もいた。
北アフリカ [編集]
エジプトのマムルーク朝とは友好関係を保っており、一時的に険悪な関係となっても軍事的衝突は起こらなかった。
対してザイヤーン朝、ハフス朝へは積極的に攻撃をかけた。アブー・ヤアクーブ・ユースフは治世のほとんどをザイヤーン朝との戦争に費やしたが王都トレムセンを占領するには至らず、1337年アブル・ハサンの時代にトレムセンの占領に成功した。ウトマーン2世はアブル・ハサンとハフス家の王女とを婚姻させることで平和的な関係を築いたが、アブル・ハサンがトレムセンを占領したためにハフス朝との友好関係は崩れ、1347年にチュニスを占領した。しかし、反乱と独立が繰り返し起こったため支配の維持に難儀し、アブー・アル=アッバース・アフマドの治世に両国の再遠征に失敗したのを最後にマリーン朝の東進は終了した。
歴代君主 [編集]
- アブド・アル=ハック1世(在位:1196年 - 1217年)
- ウトマーン1世(在位:1217年 - 1240年)
- ムハンマド1世(在位:1240年 - 1244年)
- アブー・バクル(在位:1244年 - 1258年)
- ウマル(在位:1258年 - 1259年)
- アブー・ユースフ・ヤアクーブ(在位:1259年 - 1286年)
- アブー・ヤアクーブ・ユースフ(在位:1286年 - 1307年)
- アーミル(在位:1307年 - 1308年)
- スライマーン(在位:1308年 - 1310年)
- アブー・サイード・ウトマーン2世(在位:1310年 - 1331年)
- アブー・アルハサン・アリー(在位:1331年 - 1348年)
- アブー・イナーン・ファーリス(在位:1348年 - 1358年)
- ムハンマド2世(在位:1358年 - 1359年)
- アブー・サーリム(在位:1359年 - 1361年)
- ターシュフィーン(在位:1361年)
- アブド・アル=ハリーム(在位:1361年 - 1362年)
- ムハンマド3世(在位:1362年 - 1366年)
- アブド・アル=アズィーズ1世(在位:1366年 - 1372年)
- ムハンマド4世(在位:1372年 - 1374年)
- アブー・アル=アッバース・アフマド(在位:1374年 - 1384年)
- ムハンマド4世(在位:1384年 - 1386年)
- ムハンマド5世(在位:1386年)
- ムハンマド6世(在位:1386年 - 1387年)
- アブー・アル=アッバース・アフマド(復位)(在位:1387年 - 1393年)
- アブド・アル=アズィーズ2世(在位:1393年 - 1396年)
- アブド・アッラーフ(在位:1396年 - 1398年)
- ウトマーン3世(在位:1398年 - 1420年)
- アブド・アル=ハック2世(在位:1420年 - 1465年)
脚注 [編集]
- ^ 那谷敏郎『紀行 モロッコ史』、182-183頁
- ^ 佐藤次高『西アジア史 I アラブ』、251頁
- ^ D・W・ローマックス『レコンキスタ―中世スペインの国土回復運動』、222頁
- ^ 私市正年『アルジェリアを知るための62章』(エリア・スタディーズ、明石書店、2009年4月)、70-71頁
- ^ 1276年にもフェスで大規模なポグロムが起きた。私市正年「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」、110頁
- ^ 野田裕『アルジェリア・モロッコ紀行―生きている歴史都市』、183-184頁
- ^ ハルドゥーン『歴史序説』2巻、490頁
- ^ 那谷敏郎『紀行 モロッコ史』、179-181頁・「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2011‐2012年版)』(地球の歩き方、ダイヤモンド社、2011年2月)
- ^ ラバト郊外のシェラには、ウトマーン2世とアブル・ハサンが建設した墓城が現存する。ここには王家の人間以外に、聖者(マラブー)の墓も建てられている。
- ^ ワッカーサ家については、私市正年「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」、110-112頁に詳しい
- ^ 私市正年「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」、106-107頁
- ^ M・タルビ「マグレブにおける文明の普及とその西洋文明への影響」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻収録、102-104頁
- ^ 建国当初はフェスの市民、特にアラブ系指導者層にマリーン家を蔑視する傾向が強かった。 佐藤次高『西アジア史 I アラブ』、251頁
- ^ イブン・ハルドゥーンは当時のモロッコで流行した書体について批判的な意見を述べている。『歴史序説』3巻(森本公誠 訳,岩波文庫)、103-104頁
- ^ ムールード自体は1292年にモロッコに導入されていた。 D.T.ニアヌ・編『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、192頁
- ^ イブン・バットゥータ『大旅行記』7巻、172-174頁および172頁の注釈209
- ^ 佐藤次高『西アジア史 I アラブ』、251頁
- ^ サラードの戦いの概略については、D・W・ローマックス『レコンキスタ―中世スペインの国土回復運動』、226-227頁を参照
主要参考文献 [編集]
- 那谷敏郎『紀行 モロッコ史』新潮選書、1984年 ISBN 4106002604
- ジョン・E・モービー『世界歴代王朝王名総覧』東洋書林、1993年 ISBN 4887210396
- 野田裕『アルジェリア・モロッコ紀行―生きている歴史都市』(三省堂新書、三省堂、1971年1月)
- 大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社、1976年10月)
- M・タルビ「マグレブにおける文明の普及とその西洋文明への影響」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻収録(D・T・ニアヌ編、同朋舎出版、1992年3月)
- I・フルベク「マグレブにおける政治的統一の崩壊」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻収録(D・T・ニアヌ編、同朋舎出版、1992年3月)
- R・イドリース「ムワッヒド朝滅亡後のマグレブ社会」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻収録(D・T・ニアヌ編、同朋舎出版、1992年3月)
- D・W・ローマックス『レコンキスタ―中世スペインの国土回復運動』(刀水書房、1996年4月)
- 私市正年「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」(『岩波講座 世界歴史10―イスラーム世界の発展』収録、岩波書店、1999年10月)
- イブン・ハルドゥーン『歴史序説』1-4(森本公誠訳、岩波文庫、岩波書店、2001年6月-2001年12月)
- 佐藤次高編『西アジア史 I アラブ』(新版世界各国史、山川出版社、2002年3月)
- イブン・バットゥータ『大旅行記』7巻(家島彦一訳注、東洋文庫、平凡社、2002年7月)
- 金七紀男『ポルトガル史(増補版)』(彩流社、2003年4月)
- 私市正年『サハラが結ぶ南北交流』(世界史リブレット、山川出版社、2004年6月)
- ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』(「知の再発見」双書、創元社、2006年12月)