出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1934年度の将棋界(1934ねんどのしょうぎかい)では、1934年(昭和9年)4月から1935年(昭和10年)3月の将棋界に関する出来事について記述する。
できごと[編集]
1934年7月[編集]
1934年9月[編集]
- 13日 - 神田辰之助七段と七段棋士7名の全対局が終了。神田の3勝4敗で負け越しとなった。
1935年1月[編集]
- 14日 - これまで名人は推挙制であったが、関根金次郎名人は抜本的な改革が必要と判断し、日本将棋連盟顧問の中島富治に改革案の起草を一任した。
1935年2月[編集]
- 2日 - 中島富治が名人戦の創設案をまとめ、関根金次郎名人により快諾された。
1935年3月[編集]
- 14日 - 大山康晴が木見金治郎八段に入門。内弟子となる。
- 20・24日 - 東京日日新聞が名人制度の改革案について報道。八段6名の「八段会」の討議によって、改革案が全員一致で可決された。
- 26日 - 日本将棋連盟評議員会の総会が開かれ、名人制度の改革案を決議。名人戦に関する規約を決め、金易二郎会長(八段)と関根金次郎名人が声明を発表した[4]。
昇段・引退[編集]
参考文献[編集]
|
---|
用具 |
|
---|
ルール | |
---|
用語 | |
---|
書籍 | |
---|
プロ将棋界 |
|
---|
一覧 | |
---|
将棋類 |
将棋類 |
---|
古将棋 | |
---|
本将棋亜種 | |
---|
その他将棋類 | |
---|
異種遊戯 | |
---|
遊び方 | |
---|
書籍 | |
---|
関連項目 | |
---|
|
|
---|
戦法・囲い |
|
---|
関連項目 | |
---|
カテゴリ |