西条祭り

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伊曽乃例大祭の御神輿(ごしんよ)
西条型のだんじり
西条の御輿屋台(みこし)
伊曽乃神社祭礼の宮入り風景
提灯で飾られただんじり
白木の西条だんじり
黒塗りの西条だんじり
朱塗りの西条だんじり
西条だんじりの鳴り物
西条型だんじりの内部構造

西条祭り(さいじょうまつり)とは、愛媛県西条市で行われる秋祭りのうち、2004年平成16年)の市町村合併以前の市域(旧西条市)にある4つの神社の祭礼の総称である。ポスターなどには「西条まつり」と表記される。

  尚、西条祭りそのものが『西条まつりの屋台行事』として西条市の指定無形民俗文化財第85号に認定されている。

概要と歴史[編集]

概要[編集]

もともとは石岡神社(氷見・橘地区)、伊曽乃神社(神戸・大町・神拝・玉津・西条地区)、飯積神社(玉津・飯岡地区と新居浜市大生院地区)の三神社の祭礼を指していたが、近年、嘉母神社(禎瑞地区)の祭礼もこれに含めるようになった。特にことわらずに「西条祭り」という場合、祭礼の規模が一番大きい伊曽乃神社の祭礼を指す事が多い。

それぞれの神社によって、祭礼に奉納される山車は異なっており、石岡神社、伊曽乃神社では楽車[1](地元では「だんじり」と称する)と御輿屋台[2](地元では「みこし」と称する)が、嘉母神社と飯積神社では太鼓台が奉納される。ただし石岡神社では御輿屋台のことをさして「太鼓台」と呼んでいるが、本来の御輿屋台の分類は太鼓台に属している。

なお、市町村合併により新しく西条市となった旧東予市・旧小松町・旧丹原町などの諸地域でおこなわれている祭礼でも旧西条市域と同様のだんじりや御輿、太鼓台が奉納され、年々規模も大きく盛んになっている。後記の関連項目にリンク有。

歴史[編集]

各神社の祭礼は神社創建時より催行なされていた。それが現在のように氏子が祭り屋台を奉納する大掛かりな祭礼行事になったのは江戸時代初期から中期と考えられる。

伝承を省くと現在文献で確認できる最も古いものは、紀州徳川分家2代松平頼致が藩主を継承した1711年(正徳元年)の記録で「新居郡一宮神社祭礼に「台車1、御船1、祭具、宰領の配置を定める」との記録がある。

また1751年(宝暦元年)の記録によれば 西条藩主は屋台の宰領(総代)について、祭礼の期間に限ることとして 平素の身分にかかわらずの着用、小脇差の帯行を出願によって許可しており、これについては 氷見の祭礼(石岡神社祭礼)の記述における「供奉その他役付の者屋台宰領の者は従来の仕来りの通り裃着用苦しからず。但し衣服は面服を着用すること」という触書が当時の代表的な記録として確認されている。

一方、冒頭の一宮神社は現在の新居浜市域にあるが、現在の新居浜市の祭礼においては 新居大島を除き だんじり形式の山車は奉納されていない。また、後述の石岡神社祭礼における「吉祥寺の住職が…」とされる伝承についても それを裏付ける文献は現時点では発見されていない。ただし口伝といえども これら一連の内容は現地において古来から連綿と受け継がれてきた 当時の生きた歴史的証言の継承でもあり、またこれらを否定する文献もいまだ存在していない。

現在までに発見、解読された文献のかぎりでは 新居郡の中心であり藩庁もあった伊曾乃神社祭礼と、伝承の残る氷見の石岡神社祭礼、また最古の記述が残る新居郡(新居浜市域)の祭礼のあいだに残る歴史的な空白を埋めることができていない。海路から伝わったとされるだんじりと、陸路より伝わったとされる太鼓台の双方を祭礼に残してある西条祭りを更に調査していけば、当地方の屋台形式の祭りの発祥が解明されると考えられている。

各地区(神社)ごとの祭礼[編集]

嘉母神社祭礼[編集]

西条祭りのスタートとなる嘉母神社の祭礼は体育の日の前々日と前日に行われ、禎瑞地区の氏子により子供太鼓台が奉納される。

禎瑞地区は1782年(天明2年)、西条藩の干拓事業によってできた田園地帯で、この時、地元の氏神として嘉母神社も同時に創建された。神幸祭が行われるようになったのは1933年(昭和8年)のことである。

1975年(昭和50年)頃、父兄による手作りの子供太鼓台が神幸行列に参加するようになった。当初は発泡スチロールなどを使ったものであったが、順次、金糸刺繍による本格的なものが作られた。現在では地域の祭として定着し、賑わいを見せている。

2011年(平成23年)奉納の子供太鼓台(6台)[編集]

  • 上組、中組、下組、高丸、八幡(奉納当初は子供だんじりだった)、難波

石岡神社祭礼[編集]

石岡神社の祭礼は氷見・橘地域の氏子により、10月14,15日に行われる。

伊曽乃神社よりも早く祭礼にだんじりが登場し奉納されたという伝承があり、曰く「(約250-300年前に)石岡八幡宮(石岡神社)の別当寺である吉祥寺の住職が、河内国誉田八幡宮にて 当時奉納されていた祭礼山車藤花車または地車の類と思われる)を見て、当時地元の祭礼には奉納する山車の類がなかったため住職が記憶をたよりにこれを模した屋台を竹でこしらえて奉納した。そしてこの屋台こそが石岡神社祭礼での最初の奉納屋台、寺の下だんじりであった」とあり、これが「だんじり祭り」としての西条祭りの発祥になったとされている(これには諸説存在するが現在はこれが最も有力な説として支持されている)。このため西条祭り発祥の地として各氏子のプライドも非常に高く、激しく荒々しい練りや複数の数の屋台での見事な差し上げなどを得意とし伊曽乃の祭礼とくらべ規模こそ小さいが、それを補って余りある魅力と勇ましさを誇る。

またこの地方は近年の都市化の開発の影響を受けることがほとんどないことが幸いして、おもに西条市の中心市街で繰り広げられる伊曽乃神社の祭礼でほとんど見ることができなくなってしまった古風でおもむき深い素朴な時代の西条祭りの姿が現在も守りつづけられている。また複数のだんじりと御輿が御神輿とともに一斉同時にかきくらべをする光景は、現在この石岡神社の祭礼だけでしか見ることができない独特の光景であり石岡神社祭礼の最大の見せ場となっている。

田園地域ゆえの素朴な土地柄と西条だんじり特有の華麗さが非常に高い融合を果たしており、伊曽乃祭礼の豪華な華やかさとはまた違った見ごたえと味わいに満ちて非常に美しく、現代にありながら古き時代の人間味あふれたあたたかさを感じることができる「郷土の祭り」である。

2000年には石岡神社内より昭和初期の祭りの様子を知ることのできる「氷見石岡神社祭礼渡御行列之図」が発見された。

見所[編集]

10月14日[編集]
  • 14日は午前9時から神社で本殿祭とよばれる神事が執り行われる。各だんじり・御輿は、未明から早朝にかけて桜の馬場とよばれる神社境内の広場に集まり ここで一斉にかきくらべを奉納する。この神事のあと、各屋台の総代が本殿祭に参列して番号札や御神札などを受け取った後は自由行動となり、各屋台はお花集めのため各自治区町内とその周辺を練り廻す。
10月15日[編集]
  • 15日は本祭である。深夜、宮出しのため百個以上の提灯で飾られただんじり・御輿が各町内を出発して まだ夜も明けぬ石岡神社の境内・桜馬場に集まり、境内を埋めつくした屋台で一斉に威勢のいいかきくらべが奉納される。
  • 午前4時30分、御神輿が神社を出発し、先導するだんじり・御輿を伴って御旅所へと向かう。各屋台はお旅所でかきくらべを披露したのち提灯を外し、さらに各地域の神楽所で御神楽を奉納しながら御神輿とともに氏子地域を巡幸する。
  • 午後3時30分頃、各地域での御神楽奉納をすべて終えた御神輿とだんじりの行列がつぎつぎに神社に到着し、境内の桜の馬場でだんじり・太鼓台が御神輿とともに最後のかきくらべを奉納して終わりゆく祭礼の名残を惜しむ。午後5時頃、御神輿が社殿に宮入りし、祭礼が終了する。

2011年(平成23年)奉納のだんじり(27台)[編集]

  • 土居、古町、寺の下(西条市指定有形民俗文化財第79号)、西町、裏組、下町、上町、上之川、上之浦、新町、末長、宮之下、新御堂、新出、久保、新兵衛、山道、尾土居、西之原、大久保、蛭子、朝日町 (以上、氷見地区)
  • 西泉、坂元、北山、楢之木、西田 (以上、橘地区)
  • 奉納休止中のだんじり  山口

2011年(平成23年)奉納の御輿屋台(2台)[編集]

  • 竹内 (氷見地区)、野々市 (橘地区)

伊曽乃神社祭礼[編集]

伊曽乃神社の祭礼は江戸時代の昔より260年以上の伝統をもつ歴史の長いものであり、歴代の西条藩主も保護奨励したと伝えられている。これについては地元に伝わる逸話があり、「江戸時代に仙台藩伊達公江戸城内にて領地の祭り自慢をしている折、それを聞いていた西条藩の松平公いわく「そのような祭りより当地の祭りは更に素晴らしいものであるぞ」と語り 後日、絵師に描かせた祭り絵巻を伊達公に贈らせた」というもの。そのとき伊達家に贈られた「伊曽乃大社祭礼略図」(西条市指定歴史資料第74号)は1950年(昭和25年)、伊達家の好意により伊曾乃神社へと寄贈され 現在は社宝として所蔵されている。 また別の資料として 「伊曽乃大社祭礼略図」より更に古い時代の「伊曽乃祭礼細見図」が近年 東京国立博物館で発見されており 当時の祭礼の様子が 楽車の彫刻の細部にいたるまで緻密かつ克明な描写で描かれている。これらの資料により 狂言屋台やからくり人形の屋台など、現在では伝えられていない屋台の存在も窺い知ることができた。

現在では一社の祭礼で奉納される台数としては全国でも最多の80台を超える美しい屋台が勢ぞろいし、10月15,16日の昼夜に渡って[1]、勇ましくも優美な元禄時代絵巻さながらの美しい祭礼模様を繰り広げる。

見所[編集]

10月14日[編集]
  • まだ祭り神事は始まっていないが、午後から夜にかけて大部分の屋台が自町内やその周辺を運行する。特にJR伊予西条駅前には多くの屋台が集結し、さながらもう祭り本番の如き状態となる。ちょうどその時間帯には勉学や仕事で離れていた西条出身の人間や観光客が列車や長距離バスで駅に到着するので前夜祭として活況を呈している。
10月15日[編集]
  • 15日深夜、午前0時前から各々100個以上の電球ではない本物の蝋燭提灯で照らされた各地区町会のだんじりが、宮出しのため伊曽乃神社の境内にむけてご神体をお迎えにいく。西条祭りは毎年いつもこの神事が始まった時点で、すでに熱狂の最高潮のただなかにある。古くからの西条の祭り好きの多くに「西条祭りのなかでもこの宮出しこそが祭りの本番」と言わしめるほど、この神事に意気込みをかける者が少なくないからだ。明け方になりすべての屋台が出揃うと、屋台に続き御神輿が社叢をあとにしてこの熱気のピークはいったん収束される。
  • この後日中から夕方にかけてそれぞれのだんじりと御輿(御神輿ではない)はお花集めのため、自地区の町内とその周辺を廻る。また御神輿は神事のため市内の神楽所の約半分を巡幸し、大町常心上組のお旅所にてお休みになられる。
  • 15日昼間は各屋台は自由行動であるが、近年では「ハルク前通り」(くすのき通り西側)での御輿屋台の豪壮な練り比べや、「泰山会」「川人会」「石水会」「植村会」など彫り師が同じ屋台による氏子の自主的な催しが新たな見所として注目されている。
10月16日[編集]
  • 16日深夜、午前0時頃より、だんじり[3]が大町校区常心上組にあるお旅所に向かい、それぞれがご神体の鎮座する神輿の前で練りを奉納する。
  • だんじりがすべて揃うと、最後に4台の「みこし(御輿屋台)」[4]と呼ばれるひときわ大型の太鼓台型の屋台が、たわわに灯らせた提灯を一面にまとって勢いよく踊り込んでくる。この「みこし(御輿屋台)」と呼ばれる全国でも西条祭りだけに登場する独特の屋台には、人の背丈ほどもある木製の車が左右に付いており、これを30名程の舁き夫連中が2本の太い梃子(てぎ・かき棒とよぶ)に体ごととりつき、巧みに操作して振り廻しては屋台ひしめく境内を暴れるように走り回る。優雅で華麗なだんじりとは対照的に、御輿独特の激しい太鼓の囃子とあいまって非常に猛々しく豪快な迫力にあふれた屋台となっている。
  • お旅所を払暁に出発しただんじりは統一運行となり(御供だんじり以外)、早朝に「御殿前」と呼ばれる旧西条藩主邸跡、現在の西条高校をぐるりと囲むお堀端に集合する。西条藩主に祭礼を奉納していた伝統に則り、大手門前で屋台の練りと神楽を奉納する。
  • 一方で御神輿は氏子区域内の残り半分の御神楽を挙げに市内を巡幸する。この16日は本町御供だんじりがその名の通り御神輿に付いて巡行する。
  • 昼前には巡行順路 神拝地区にある「新町泉」を通過するが、ここを地元とする神拝地区のだんじりは整備されたうちぬき水の川辺前にて差し上げを行い、詰め掛けた観客の拍手や歓声に応える。これら「御殿前」「新町泉」は共に「水の都」西条を象徴する見所・撮影場所として白眉の一つとされる。
  • 昼食は市街中心部を横切る古玉線に屋台が南向きに整列し、ここで束の間の休憩と食事を取る。伊曾乃例大祭は屋台台数が確認される中で日本一多いが、この昼食時は時間差もあるがほぼ全屋台が同じ道路で同じ向きにずらりと並ぶため屋台鑑賞や彫り物についてよく解る。(屋台総数が多いがため、他の場所での並びはL字型・御殿前や二列正対・玉津橋となる。また川入りも整列するが、神戸校区屋台が川原で川入りに備える)
  • 御殿前での奉納を終えただんじりは 伊曾乃氏子地区内の最東北部玉津地区の神楽所へ全てのだんじりが向かい、この玉津地区で束の間の休憩と昼食を取る。また毎年この地域に流れる渦井川上にかかる玉津橋において、地元玉津地区3屋台での「差し上げ」が行われており、地元人が挙げる見所のひとつとして人気が高い。近年までは、隣接する飯積神社例大祭の太鼓台もこの時間に合わせて来て、だんじりと太鼓台の統一運行中では唯一の対面する場所として名高い見所のひとつであったが、近年の屋台台数の増加により過密化した運行スケジュールの都合で、現在では太鼓台は早い時間に玉津橋に来るようになり、以前のような両祭礼の屋台が練り合う事は出来なくなっている。
  • 同日夕刻、宮入り。対外的には「川入り」として西条祭りを象徴する最大の見所として最も有名な場面でもある。市内の神楽所を巡幸する御神輿の露払いの役目を終えた各だんじりは、行列をなして市内と伊曽乃神社の間を流れる加茂川河川敷に集合。土手上で対岸にむけてずらりと整列し(写真参照)、夕闇迫るなか、神様の御神輿の渡御を見送る。[5]「ご神体の渡御」をもって祭礼の終わりとされることから、渡御する御神輿を中野地区のだんじりがとり囲んで御神輿と最後の練りあいをし、土手上で見送るだんじりとともに終わりゆく祭りの名残りを惜しむ。なお、意外と知られていないが 近代以前の宮入りでは 神輿が一銭橋を、宮司がただ馬に乗って川を渡るのみであったが、戦後、祭りの興奮冷めやらぬ名残惜しさより現在のような「川入り」の風習が始まり、今では祭り最大の見せ場として定着している。
  • 祭礼公式行事そのものは川入り後の御神輿の伊曾乃神社宮入で完了となるが、その後もJR伊予西条駅前や「ハルク前通り」などで提灯に灯りを付けて祭りの最後を愉しむ。特に夜7時半頃から御殿前にて行われる西条校区のだんじり・みこしが全て集まる「夜の御殿前」は幻想的で人気が高い。

2012年(平成24年)奉納のだんじり(77台)[編集]

  • 中野、山道、楠、日明、薮之内、船形、中之段、東原、安知生、洲之内、奥之内 (以上、神戸地区)
  • 澤、西之川原、新田、天皇、常心上組、常心下組、北之町上組、川原町、西町、仲町小川、下小川、明神木、登道、北之町下組、加茂町、新玉通、駅前本通、上小川、地蔵原、北之町中組、清水町、岸陰、駅西、朝日町、南町、若葉町、錦町(以上、大町地区)
  • 上喜多川、上神拝、古川、古屋敷(西条市指定有形民俗文化財第81号)、原之前、吉原三本松、新町、栄町上組、栄町中組、栄町下組、下町中組、砂盛町、下町南、川沿町、喜多川中、御所通、若草町、花園町、上川原、都町、西新町、富士見町、八丁、辯財天(西条市指定有形民俗文化財第83号)(以上、神拝地区)
  • 玉津、横黒、市塚 (以上、玉津地区)
  • 喜多町、魚屋町、松之巷、大師町、常盤巷、百軒巷、新地、紺屋町(西条市指定有形民俗文化財第80号)、東町、船元町、四軒町、本町 (以上、西条地区)
  • 奉納休止中のだんじり  東光、中之町(本町二丁目)

2011年(平成23年)奉納の御輿屋台(4台)[編集]

  • 中西 (神戸地区)、下喜多川 (神拝地区)、喜多濱、朔日市 (以上、西条地区)

飯積神社祭礼[編集]

西条市東部と新居浜市 大生院地区を氏子とする飯積神社の祭礼では、新居浜市と同様の太鼓台が奉納される。

奉納台数あわせて11台と、近隣の祭りと比べてけっして派手なものではないが、氏子の気合は非常に高く、ともすれば新居浜祭りを圧倒しかねないほどの激しく勇ましいかきくらべが奉納期間中、地域の随所で行われる。近年太鼓台をつかった危険な喧嘩の絶えない新居浜太鼓祭りとくらべて、純粋な太鼓台のかきくらべを間近で見られることから、飯積神社祭礼のファンも多い。 また、近年新居浜市の山根統一寄せなどでみられる、太鼓台同士を合わせて差し上げたり練る「寄せがき」は、この飯積神社祭礼が発祥である。

10月15日[編集]

各太鼓台自由運行。

この日は大生院地区では、夜太鼓が行われていた。2010年は大生院中学校、2011年は株式会社ララで行われていた。しかし、2012年は行われていない。 西条東部の飯岡地区と玉津地区数台は西条市飯岡のコメリで夜太鼓が行われている。

10月16日[編集]

各太鼓台自由運行。

新居浜市大生院地区では、M2大生院店で中萩地区との計10台で夜太鼓が 行われている。西条市玉津地区では夕刻、飯積神社前に数台集まる。

10月17日[編集]

統一行動。

日も昇っていない朝2:30~3:00ごろ、飯積神社前に氏子太鼓台11台が集まる。その後1つ目のかき比べ会場である「船屋グランド」へ向かう。地元である船屋太鼓台が先頭で徐々に集まり、午前4時すぎからかきくらべが始まる。暗闇にライトアップされた太鼓台はとても美しく、11台の太鼓台が一気に差し上げる様はとても風情がある。 その後いったん各自治会に戻り朝食をとる。この後は東回りと西回りで毎年交互の運行で遇数年は東回りで大生院から、奇数年は西回りで飯岡方面から始まる。その後飯岡八幡神社でいったん昼食をとり、その後大生院または飯岡に向かう。そして午後3:30、飯積神社前の河川敷で最後のかき比べが行われる。日が沈みだし、河川敷の両岸にはたくさんの見物者がいるなか最後の力を振り絞り差し上げる。そして午後6時過ぎ帰路につく。

10月18日[編集]
  • 祭礼公式行事は終わっているが、花集めのために玉津校区の太鼓台が市内中央の伊曾乃氏子区域に運行される。

2013年(平成25年)奉納の太鼓台(11台)[編集]

  • 船屋、下島山上組、下島山下組、大谷 (以上、玉津地区)
  • 飯岡八幡、飯岡本郷、野口 (以上、飯岡地区)
  • 岸影、下本郷、上本郷、喜来 (以上、新居浜市 大生院地区)

西条祭り以外での屋台奉納や屋台運行[編集]

特に伊曾乃氏子地区についてはその範囲が広く町内も多い。それもあって二重氏子三重氏子となっている地区もあり、そういった所では本祭りの一週間ほど前からその地区の祭りが行われ屋台が奉納される。 秋ではなく春に二重氏子地区の祭りを行い、だんじり奉納する地区もある。

また祭り奉納とは別に毎年敬老の日には福武地区にある愛寿会病院に入院中のお年寄りのために当地区の地蔵原と新田のだんじりが慰問運行されている。

毎年行われる祭り以外にも、その神社の起源から計算して式年単位で屋台を奉納する地区もある。代表例としては石岡神社で行われている。

一方で旧西条市であった昭和56年には市制40周年を記念して石岡、伊曾乃、飯積、嘉母の全屋台が10月16日午後より集結する統一行事が開催された。以後5年ごとに行われていたが、伊曾乃例大祭の川入り神事と市制のイベントとを同一時刻の同一場所で行うことには無理も多々あり、現在では中断している。

かたや市民や町内の祭り好きが高じて市外県外への祭りや行事に屋台を奉納あるいは運行することも昭和後期から始まった。1976年に四国の祭りにそして1978年には東京銀座祭りに、更には1982年1984年には東京神宮外苑での日本の祭りに参加した。以降海外ではハワイホノルル香港、国内では関東、北陸、東海(特に伊勢市)、関西、四国の他県、九州まで数年に一度の割合でどこかの屋台が遠征し、近年では地元出身者の秋川雅史氏がこれらの催しにほぼ毎回参加している。

二重氏子での祭り[編集]

・伊曾乃例大祭地区内

  • 古茂理神社祭り 中野の一部地区
  • 御所神社祭り  古川地区とその周辺地区
  • 橘新宮祭り    神戸地区の一部
  • 弁天祭り      朝日町、駅前本通、下町中、下町南、新地
  • 神拝荒神祭    神拝地区の一部
  • 加茂神社祭り  福武地区
  • 楢本神社祭り  大町地区(福武及び明神木を除く)
  • 吉原稲荷大明神大祭 吉原三本松 (春祭り)
  • 風伯今磯野神社神幸祭 上神拝から横黒まで(春祭り)

・石岡例大祭地区内

  • 氷見山王神社祭   新町、裏組、西町、上町
  • 天王社高尾神社祭

西条祭りと西条市民[編集]

毎年、夏休みの後半辺りから子供等の練習する鐘や太鼓の音があちこちで聞かれるようになり、根っからの祭り好きな地元っ子はこの時期になると鐘・太鼓の耳鳴りがするとすら言われている。また故郷を離れ遠方に移り住んだ者に至っては、冠婚葬祭・盆や正月にすら帰郷しない者でも、年一度の祭りにだけは万難を排してかならず帰郷する。この土地柄ゆえ「一年は祭りに始まり、祭りに終わる」という古くからの気質が地元人の中に定着しており、これを最も象徴するものに 暦が10月から始まる「西条祭りカレンダー」があり 主に市内で毎年販売されている。

当然、祭り当日は学校、会社、商店、工場、一部官公庁までもが地方祭休日となる所がほとんどで、開いているのはコンビニと救急消防医療関係程度で飲食店の多くも閉まってしまう。そのため観光客用に「祭り当日でも営業している商店マップ」が配布されるほどである。

西条市民には「祭りがやりたいから西条に残った」、と公言する者も多く、冗談のような話だが地方祭休日があるかどうかで就職を決めたり、他所に出ていても祭りがやりたいがために仕事を捨てて(辞めて)西条に帰ってくる者すら多く存在する。

また、地元人の間では古くから現在に至るまで 祭りを神事として捉える意識が特に強く、近年の新居浜太鼓祭りにみられるようなイベント化・観光化・祭りの土日開催への移行に対する嫌悪感・抵抗感が根強い。

昭和50年代以降 全国各地の祭りや行事にも西条のだんじりが参加する機会が多くなったが、特に伊勢神宮への奉納には格別な意識を持っているところに「神事としての祭り」を尊ぶ祭り人としての気質が如実に現れている(伊勢奉納のきっかけは、伊予のお伊勢さんと称される伊曾乃神社と西条祭りで唄われる伊勢音頭である。)

伊勢神宮や伊勢市へは現在までに遷宮や御鎮座二千年の奉賛、宇治橋の架け替えなどで、小規模納なものではだんじり1台から、大規模になるとだんじり、御輿屋台、太鼓台合わせて30台以上で、回数にして10度以上に渡って遠路奉納しているが、2014年(平成26年)4月12日には式年遷宮を記念して過去最大となる36台のだんじりと1台の太鼓台とで2100人の舁き夫三重県伊勢を訪れ奉納した。

このような伊勢神宮への奉納はもちろん、例年の祭礼においても、祭礼の運営費・屋台の維持管理費用などに行政の援助は一切受けず、すべてお花や自治会費をはじめとする市民の寄付で賄っているのも、西条祭りを愛する市民の誇りとなっている。

こういった各種事柄や祭り装束もあって西条市では「蝋燭の一人当たり使用量」が群を抜いて高かったり(80台あるだんじりに1台あたりほぼ100本使用、1度の祭りで10回近く交換がある)、「地下足袋のコハゼを入れるのが早く上手」であったり、小さい子供からご老人までが伊勢音頭を始めとする祭り唄を諳んじたり、和太鼓が得意であったりする。

組織[編集]

日本を代表する多くの祭りが、街の空洞化・住民の都会への流出・少子高齢化・過疎化などにより形骸化、あるいは行政とタイアップされ観光イベント化していく中、西条祭りは現在でも古来からの伝統に則り あくまで地元の氏神と氏子の神聖な神事として催行され存続してきた。 町内会長が各町のだんじり運営の「総責任者」となることも多い。自治会、町内会は、祭礼になると世代別に「中老」「青年団」「小若」などに分かれて奉納に参加する。

 また女性は「婦人会」等で食事や飲み物の準備に係わり、裏方として大切な存在である。

 昭和の終わり頃から女性も舁き夫として奉納に参加することも増えてきた。この事についてはそもそも舁き夫は男であるべきという考えと、女性は以前には振袖などの晴れ着で祭りを見るか、裏方として食事などの手配をしていたこともあり少々苦々しく思う氏子も存在する。ただ西条祭り自体がだんじりの台車や法被の着用、その他諸々の進化をしての現在の隆盛であるため、女性の参加は軽々に論ずるよりこれからの歴史の判断に任せたい。

 そして平成に入ってからはきちんと法被を着用した女性の笛お囃し隊を取り入れる町内も出てきて、こちらは事前の長期に渡る練習にも余念が無く、好感を持って迎えられている。

役職、役割[編集]

(伊曾乃神社祭礼での例)

  • 鬼頭 - 祭礼全体における氏子の奉納全般の方針決定と現場指揮を行う。独特の房付き黒装束と鬼の面を付ける。帽子の金線で役職を表し、4本が大総取締、3本は総取締、2本で総取締格並びに副取締、1本は副取締格並びに班員、線なしが鬼頭から選任された2年間かぎりの奉仕者となる。また襷(たすき)の色は係を表し、神輿係が赤地に白線2本、屋台係が赤地に緑線2本となる。
  • 本肩 - 御神輿を担ぐ「年番」として各町持ち回りで自町内に5年に一度巡ってくる役職。「神さん舁き」とも呼ばれ、氏子にとって最も名誉ある役職とされている。
  • 総々代 - 自治会を代表して祭礼奉納にかかわるすべての活動を統括する代表総責任者。江戸期には武士でなくとも届出により、小脇差が許された。
  • 総代 - 総々代に準じ、祭礼期間中の屋台運行の直接責任者として奉納運行に携わる。総代も江戸期には裃、小脇差が許された。
  • 団長 - 青年団長。祭礼期間中の舁き夫、若衆の指揮と屋台運行の管理者。
  • 警護 - 移動中の屋台の運行指揮や周辺見物客の安全確保を担当する。
  • 太鼓 - おもに小若衆が担当。登り太鼓、降り太鼓、チャンギリなど何種類もある囃子を演奏する鳴り物方。屋台運行中はこの囃子によって舁き夫の息を合わせる事が要求される重要な役目。
  • 会計、花係 - 青年団の若衆が担当。奉納中のお花の受け取り、管理を行う。また屋台に付けない裏方的業務として軽トラを使用し集められたお花の自町への運搬を行う。
  • 電線係 - 電線や電話線が屋台の上部に接触しそうな際に、伸縮性のアルミポールで電線を持ち上げ屋台の通過を助ける。
  • 交通係 - 奉納、巡行のほとんどが公道であるため車やバイク等の交通整理をコイコイ棒(誘導棒)を利用して円滑な交通への手助けを行う。
  • 舁き夫 - 青年団の若衆のおもな役目。彼らがいないと屋台が動かない。
  • 婦人会 - 祭礼期間中の青年団の食事や水分補給、休息の手配を担当する。彼女らがいなければ舁き夫が動かない。
  • 小若衆 - 幼子から小学生の氏子。鳴り物の囃子や祭り唄はこの時期に憶える。屋台の運行に直接のかかわりをもつことはないが、この時期に祭りに参加することが のちの氏子に祭り人としての気概を芽生えさせる直接の原動力となっている。

祭り装束[編集]

戦前までは舁き夫に特に決まった服装はなかったようだ。ただ屋台総代においては江戸期より紋付着用と小脇差帯刀が特に許されていた。

戦後少しして法被の着用、ネル腰巻、ソフト帽子、地下足袋、三つ揃えと称されるそれぞれ毛糸の股引腹巻襦袢が取り入れられるようになった。法被も当初は市販のものに町内名を入れたありきたりのものであったが、福武天皇が泰山屋台を購入した際に刺繍入りの法被を着用し、鮮やかな黒塗りとなった泰山屋台と相まってその後から刺繍入り法被が流行した。毛糸の三つ揃えも五色のラメが入ったきらびやかなスタイルになってきた。

更に法被のデザイン自体も粋を意識した洗練かつ芸術的されたものが出現し、各町内が屋台のみならず法被も競うようになった。地下足袋も刺繍入りのものが値段が高くても大半となった。

そんな中で温暖化もあって従来の三つ揃いでは暑いという事もあり、昭和晩期からダボシャツを使用する町内が出てきた。中には法被を着用せずダボのみという町内も一部に存在するようになった。更にはTシャツとダボズボンという所もある。一方で刺繍入りの法被は暑くてしかも重たいこともあり、減ってきている。それに合わせてなのか刺繍入りの地下足袋もずいぶん少なくなった。また他の地方の祭礼での地下足袋は白が多いが、西条ではほぼ黒である。

逆にそういった流行り廃りに背を向け、当初からの法被を頑なに伝統として守ってきている町内がまた多いのも西条市民の祭り気質といえよう。

祭り唄[編集]

新居浜太鼓祭りとの比較[編集]

この地方では昔よりそれぞれの祭りの特徴をあらわす表現として 西条祭りは「豪華絢爛」、新居浜太鼓祭りは「勇壮華麗」という呼び方が定着しており、特に観光ガイドなどでの紹介ではそのように記述されることが多い。

香川県西部から愛媛県東部の西条市にかけての瀬戸内海沿岸地域は 古来より極めて祭りの盛んな地域であり、それらの中でも特に際立つ異彩を放つのが西条祭りと隣市の新居浜太鼓祭りである。この二つの祭りは、互いにその規模もさることながら地元人の祭りにかける情熱において、地方にもかかわらず全国の有名な祭礼と比肩して譲らぬ非常に激しい祭りとして知られている。また 西条祭りにおける屋台の奉納台数はいまや全国随一とまで言われており、他県に類を見ない非常に大規模な祭りとしても年々その知名度を広めている。

天保期の西条藩の記録である「西条誌」には、新居浜の一宮神社の祭礼について「台尻(だんじり)、並びに御輿太鼓(これは現在の御輿屋台と思われる)数、合十七」という記述があり、元は西条・新居浜ともに同様の祭りであったとされている。

以後、新居浜では次第にだんじりが廃れ、太鼓台中心の祭りになったのに対し、西条では旧来の形をほぼ残した形で現在に至っている。これによって現代では 西条市が四国の瀬戸内沿岸地域における祭礼文化圏の境界となっており、この地域での祭礼屋台の奉納は西条市以西の地域では現在「西条型だんじり」[6]が主流であり、太鼓台の奉納はは少数派になりつつある。

また新居浜市新居大島での祭礼(ここにも吉祥寺という寺が存在する)をはじめとする瀬戸内海海域の離島諸地域の祭礼には西条型だんじりの原初の形態の屋台がいまも奉納されており(※大三島大山祇神社での祭礼(産須奈大祭・旧暦8月22日)には西条型の御輿屋台も存在)、これは「山車(だんじり)」という祭礼神具の形態が太鼓台のように陸上からではなく海から伝播してきたものであることを裏付けており非常に興味深いものがある。

なお、西条祭りにも新居浜市に近い地域に神社が位置する飯積神社の祭礼においては、現在 新居浜型の太鼓台が新居浜市 大生院地区より4台(新居浜太鼓祭りとの2重奉納)+西条市 飯岡~玉津地区7台の計11台奉納されている。この祭礼でのかきくらべは隣市の新居浜太鼓祭りと並んでもしてけっして譲らず、むしろより血気盛んな独特の味わいを持つため 飯積祭礼のファンも多い。また練りの技術もとても高く、近年では「寄せ太鼓」の「11台同時差し上げ」の元祖としても知られている。

屋台の構造・様式の特異性[編集]

近畿地方から淡路島をつたい 香川県を中心に瀬戸内海沿いを陸続きに伝播して広まった太鼓台が主役の文化は、現在ではちょうど新居浜市と西条市の境界でぷっつりと寸断されている。そこから以西では突如として西条型だんじりが祭礼様式の主役となっているが、これは西条における山車(だんじり)の様式が 太鼓台の伝播した陸上の経路ではなく 直接海をわたって伝えられたことの名残りでもあり、西条地方はこれゆえ四国の瀬戸内海沿岸におけるもうひとつの祭礼文化の起点にもなっている。

また同時に、この地に山車(だんじり)という様式が伝わったことにより最も注目するべき点は、屋台の運行様式の違いであろう。山車とは元来、車をつけて曳くのが全国で最も普及した様式であるが 西条型だんじりのそれは始めから担いで運行するいわゆる舁き山車の方式をとっている。

同じことは御輿屋台にも言うことができ、構造自体は太鼓台そのものであるにもかかわらず、太鼓台の担いで運行する様式がこの地方になると突如として大型の車輪にて曳く「曳き山」として独自の進化をとげている。

このような限定された狭い一地方で、祭礼屋台の形態や様式が急激な変化をもたらした例は全国でも非常に特異であり稀であるが、これらの起源や歴史を記録した文献も現在では非常に少なく、それ故にこれは西条祭りの歴史的背景のなかで最も謎が深く興味深いものとなっている。[7][8]

年間を通して屋台(だんじり)を展示する施設[編集]


尚、西条市鷹丸の市民公園内に(仮称)西条祭り会館を建設する計画がある。[2]

西条祭りモニュメント[編集]

西条市内各所に点在する祭り屋台をかたどったレリーフや彫刻、看板などの一覧。 近年では特に行政側の理解もあって このようなモニュメントの設置が増加している。

関連項目[編集]

  • 小松祭り - 平成の大合併で新しく西条市になった旧小松町の祭り。隣接している石岡祭りだんじりの一部と10月15日の夜に境界周辺で練り合う。
  • 東予祭り - 平成の大合併で新しく西条市になった旧東予市の祭り。江戸時代西条藩だった地域が多くあり、近年だんじり数も増えている。
  • 丹原祭り - 平成の大合併で新しく西条市になった旧丹原町の祭り。江戸時代西条藩だった地域もあり、みこしとだんじりとの双方が奉納するのは伊曾乃祭りと石岡祭りとこの丹原祭りだけである。
  • 新居大島祭り - 新居大島は江戸時代西条藩であると共に村上水軍に始まる瀬戸内地方各地との交易が盛んであった。現在行政区は新居浜市ではあるものの、新居浜から東で主流の太鼓台形式の屋台ではなく、西条のだんじりと酷似した屋台が奉納されており、島内では「西条だんじりの源流はこの新居大島である」と信じられている。


  • 秋川雅史 - 2006年、「千の風にのって」でヒットした西条市出身のテノール歌手。現在も年一度の祭礼には必ず帰省している。
  • 長友佑都 - 日本代表プロサッカー選手。西条市出身。明治大学体育会サッカー部在籍時代、長友が叩く応援太鼓は当時の関係者の間で有名だった。
  • 眞鍋かをり - 西条市出身のマルチタレント。過去に朝日新聞社刊行:「日本の祭り/西条祭り」にコラムを寄稿。[3]また過去のブログ「眞鍋かをりのココだけの話(※閉鎖済)」でも祭りについて触れる。
  • 福原敏男 - 武蔵大学教授国立博物館より従来のものより更に古く、しかも詳細に描かれている伊曾乃祭礼図を見つけ書籍として纏め上げる。文書名は『伊曾乃祭礼細見図』考 -瀬戸内祭礼文化圏の一事例-

脚注[編集]

  1. ^ 西角井正慶「年中行事事典」東京堂出版、1958年(昭和33年)5月23日初版 48p
  2. ^ 西条市中心市街地活性化基本計画 58ページ
  3. ^ 朝日新聞出版「週刊日本の祭り:15号 西条まつり」2004年8月31日(絶版)

外部リンク[編集]