西条祭り

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西条型のだんじり
西条の御輿屋台
伊曽乃神社祭礼の宮入り風景
提灯で飾られただんじり
白木の西条だんじり
塗りの西条だんじり
西条だんじりの鳴り物
西条型だんじりの内部構造

西条祭り(さいじょうまつり)とは、愛媛県西条市で行われる秋祭りのうち、2004年(平成16年)の市町村合併以前の市域(旧西条市)にある4つの神社の祭礼の総称である。ポスターなどには「西条まつり」と表記される。

目次

[編集] 概要と歴史

[編集] 概要

もともとは石岡神社(氷見・橘地区)、伊曽乃神社(神戸・大町・神拝・玉津・西条地区)、飯積神社(玉津・飯岡地区と新居浜市大生院地区)の三神社の祭礼を指していたが、近年、嘉母神社(禎瑞地区)の祭礼もこれに含めるようになった。特にことわらずに「西条祭り」という場合、祭礼の規模が一番大きい伊曽乃神社の祭礼を指す事が多い。

それぞれの神社によって、祭礼に奉納される山車は異なっており、石岡神社、伊曽乃神社では楽車[1](地元ではだんじりと称する)と御輿屋台[2](地元ではみこしと称する)が、嘉母神社と飯積神社では太鼓台が奉納される。ただし石岡神社では御輿屋台のことをさして「太鼓台」と呼んでいるが、本来の御輿屋台の分類は太鼓台に属している。

なお、市町村合併により統合された旧東予市・旧小松町・旧丹原町などの諸地域でおこなわれている祭礼でも旧西条市域と同様のだんじりや御輿、太鼓台が奉納され、年々規模も大きく盛んになっているが、これらは「西条祭り」としてではなく、あくまでそれぞれの地域の祭礼とされ、現在でもいわゆる「西条祭り」とは別の祭りであると解釈されている。

[編集] 歴史

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各神社の祭礼は神社創建時より催行なされていた。それがだんじり・みこし・太鼓台などの山車形式としての祭礼行事になったのは江戸時代初期から中期と考えられる。 伝承を省くと、現在文献で確認できる最も古いものは、1711年正徳元年)に新居郡一宮神社祭礼に「台車(だんじり)1、御船1、祭具、宰領の配置を定める」、とあるものがそれである。

1751年宝暦元年)には「伊曾乃神社祭礼の時、屋台宰領の者に対しては、その時限り平素の身分にかかわらず、小脇差着用を出願によって許可。氷見の祭礼の時、供奉その他役付の者屋台宰領の者は従来の仕来りの通り裃着用苦しからず。但し衣服は面服を着用すること」、という触書も確認できている。

上記一宮神社は現在の新居浜市にあたり、今は新居浜市の祭礼において新居大島を除きだんじり形式の山車は奉納されていない。また、下の石岡神社祭礼に書かれてある「伝承として吉祥寺の住職が~」については現状ではそれを裏付ける文献はない。もちろん連綿と受け継がれてきた伝承であれば、一定の考え方とはなると考えられる。

そうなると新居郡の中心で藩庁もあった伊曾乃神社地区が空白で、一宮神社や石岡神社の後から山車形式の祭りが始ることとなり、それもまた不自然となる。

海路から伝わったとされるだんじりと、陸路より伝わったとされる太鼓台の双方を祭礼に残してある西条祭りを更に調査していけば、当地方の屋台形式の祭りの発祥が解明されると考えられている。

[編集] 各地区(神社)ごとの祭礼

[編集] 嘉母神社祭礼

西条祭りのスタートとなる嘉母神社の祭礼は体育の日の前々日と前日に行われ、禎瑞地区の氏子により子供太鼓台が奉納される。

禎瑞地区は1782年天明2年)、西条藩干拓事業によってできた田園地帯で、この時、地元の氏神として嘉母神社も同時に創建された。神幸祭が行われるようになったのは1933年(昭和8年)のことである。

1975年(昭和50年)頃、父兄による手作りの子供太鼓台が神幸行列に参加するようになった。当初は発泡スチロールなどを使ったものであったが、順次、金糸刺繍による本格的なものが作られた。現在では地域の祭として定着し、賑わいを見せている。

[編集] 2006年(平成18年)奉納の子供太鼓台(6台)

上組、中組、下組、難波、高丸、八幡

[編集] 石岡神社祭礼

石岡神社の祭礼は氷見・橘地域の氏子により、10月14,15日に行われる。

伊曽乃神社よりも早く祭礼にだんじりが登場し奉納されたという伝承があり、曰く「約250-300年前に石岡八幡宮(石岡神社)の別当寺である吉祥寺の住職が、河内国誉田八幡宮にて 当時奉納されていた祭礼山車(藤花車または地車の類と思われる)を見て、当時地元の祭礼には奉納する山車の類がなかったため住職が記憶をたよりにこれを模した屋台を竹でこしらえて奉納した。そしてこの屋台こそが石岡神社祭礼での最初の奉納屋台、寺の下だんじりであった」とあり、これが「だんじり祭り」としての西条祭りの発祥になったとされている(これには諸説存在するが現在はこれが最も有力な説として支持されている)。このため西条祭り発祥の地として各氏子のプライドも非常に高く、激しく荒々しい練りや複数の数の屋台での見事な差し上げなどを得意とし伊曽乃の祭礼とくらべ規模こそ小さいが、それを補って余りある魅力と勇ましさを誇る。

またこの地方は近年の都市化の開発の影響を受けることがほとんどないことが幸いして、おもに西条市の中心市街で繰り広げられる伊曽乃神社の祭礼でほとんど見ることができなくなってしまった古風でおもむき深い素朴な時代の西条祭りの姿が現在も守りつづけられている。また複数のだんじりと御輿が御神輿とともに一斉同時にかきくらべをする光景は、現在この石岡神社の祭礼だけでしか見ることができない独特の光景であり石岡神社祭礼の最大の見せ場となっている。

田園地域ゆえの素朴な土地柄と西条だんじり特有の華麗さが非常に高い融合を果たしており、伊曽乃祭礼の豪華な華やかさとはまた違った見ごたえと味わいに満ちて非常に美しく、現代にありながら古き時代の人間味あふれたあたたかさを感じることができる「郷土の祭り」である。

2000年には石岡神社内より「氷見石岡神社祭礼渡御行列之図」が発見された。

[編集] 見所

14日は午前9時から神社で本殿祭とよばれる神事が執り行われる。各だんじり・御輿は、未明から早朝にかけて桜の馬場とよばれる神社境内の広場に集まり ここで一斉にかきくらべを奉納する。この神事のあと、各屋台の総代が本殿祭に参列して番号札や御神札などを受け取った後は自由行動となり、各屋台はお花集めのため各自治区町内とその周辺を練り廻す。

15日は本祭である。深夜、宮出しのため百個以上の提灯で飾られただんじり・御輿が各町内を出発して まだ夜も明けぬ石岡神社の境内・桜馬場に集まり、境内を埋めつくした屋台で一斉に威勢のいいかきくらべが奉納される。

同日午前4時30分、御神輿が神社を出発し、先導するだんじり・御輿を伴って御旅所へと向かう。各屋台はお旅所でかきくらべを披露したのち提灯を外し、さらに各地域の神楽所で御神楽を奉納しながら御神輿とともに氏子地域を巡幸する。

同日午後3時30分頃、各地域での御神楽奉納をすべて終えた御神輿とだんじりの行列がつぎつぎに神社に到着し、境内の桜の馬場でだんじり・太鼓台が御神輿とともに最後のかきくらべを奉納して終わりゆく祭礼の名残を惜しむ。

午後5時頃、御神輿が社殿に宮入りし、祭礼が終了する。

[編集] 2006年(平成18年)奉納のだんじり(27台)

  • 土居、古町、寺の下、西町、裏、下町、上町、上之川、上之浦、新町、末長、宮之下、新御堂、新出、久保、新兵衛、山道、尾土居、西之原、大久保、蛭子、朝日町 (以上、氷見地区)
  • 西泉、坂元、北山、楢之木、西田 (以上、橘地区)
  • 奉納休止中のだんじり  山口

[編集] 2006年(平成18年)奉納の御輿(2台)

  • 竹内 (氷見地区)、野々市 (橘地区)

[編集] 伊曽乃神社祭礼

伊曽乃神社のだんじり・みこしが奉納される祭礼は、江戸時代の昔より260年以上の伝統をもつ歴史の長いものであり、歴代の西条藩主も保護奨励したと伝えられている。

その一例としては、江戸時代に仙台藩伊達公江戸城内にて領地の祭り自慢をしていた。それを聞いた西条藩の松平公は「当地の祭りは更に素晴らしいものである」と語り、後日絵師に描かせた祭り絵巻を伊達公に贈らせた。 保存されていたその「伊曽乃大社祭礼略図」は1950年(昭和25年)に伊達家の好意により伊曾乃神社へ寄贈され、現在は社宝となりウェブ等で検索すれば簡単に見ることができる。

また資料としては上記「伊曽乃大社祭礼略図」より更に古い時代の「伊曽乃祭礼細見図」が東京国立博物館で発見された。 その中では屋台彫刻が詳しく描かれており、また当時はからくり人形があったと推察できるだんじりも散見される。

現在では一社の祭礼で奉納される台数としては全国でも最多ともいわれる80台を超える美しいだんじり・みこしが勢ぞろいし、10月15,16日の昼夜に渡って[1]、勇ましくも優美な元禄時代絵巻さながらの美しい祭礼模様を繰り広げる。

[編集] 見所

[編集] 10月15日

15日深夜、午前0時頃から各地区ごとのだんじりが宮出しのため伊曽乃神社の境内にむけてご神体を迎えにいく。西条祭りは毎年いつもこの神事が始まった時点で、すでに熱狂の最高潮のただなかにある。古くからの西条の祭り好きの多くに「西条祭りのなかでもこの宮出しこそが祭りの本番」と言わしめるほど、この神事に意気込みをかける者が少なくないからだ。明け方になりすべての屋台が出揃うと、屋台に続き御神輿が社叢をあとにしてこの熱気のピークはいったん収束される。

この後日中から夕方にかけてそれぞれのだんじりはお花集めのため、自地区の町内とその周辺を廻り、この日別行動の御神輿は神事のため御供のだんじりとともに市内の神楽所を巡幸する。

15日昼間は各屋台は自由行動であるが、近年はハルク前道路でのみこしの練り比べが行われたり、彫り師が同じ屋台が集合などが見所して注目されている。 御殿前の泰山会、建設業会館前の川人会など。

[編集] 10月16日

16日深夜、午前0時過ぎ、各々100か以上の提灯で飾られただんじり[3]が大町校区常心上組にあるお旅所に向かい、それぞれがご神体の鎮座する神輿の前で練りを奉納する。だんじりがすべて揃うと、最後に4台の「みこし[4]と呼ばれるひときわ大型の太鼓台型の屋台が、たわわに灯らせた提灯を一面にまとって勢いよく踊り込んでくる。

この「みこし(御輿屋台)」と呼ばれる全国でも西条祭りだけに登場する独特の屋台には、人の背丈ほどもある木製の車が左右に付いており、これを30名程の舁き夫連中が2本の太い梃子(てぎ・かき棒とよぶ)に体ごととりつき、巧みに操作して振り廻しては屋台ひしめく境内を暴れるように走り回る。優雅で華麗なだんじりとは対照的に、御輿独特の激しい太鼓の囃子とあいまって非常に猛々しく豪快な迫力にあふれた屋台となっている。

お旅所を払暁に出発しただんじりは統一運行となり、早朝に「御殿前」と呼ばれる旧西条藩主邸跡、現在の西条高校をぐるりと囲むお堀端に集合する。西条藩主に祭礼を奉納していた伝統に則り、大手門前で屋台の練り神楽を奉納する。

昼前には巡幸順路にある「新町泉」を通過するが、ここを地元とする神拝校区のだんじりは整備されたうちぬき水の川辺前にて差し上げを行い、詰め掛けた観客の拍手や歓声に応える。 「御殿前」「新町泉」共に水の都西条を象徴する清流の水面に屋台が映えて、見所・撮影場所として白眉の一つとされる。

昼食は古玉線と呼ばれる大屋前を中心に屋台が南向きに整列して、舁き夫達は束の間の休憩と食事を取る。伊曾乃例大祭は屋台台数が確認される中で日本一多いが、この昼食時は時間差もあるがほぼ全屋台が同じ道路で同じ向きにずらりと並ぶため屋台鑑賞や彫り物についてよく解る。(屋台総数が多いがため、他の場所での並びはL字型・御殿前や二列正対・玉津橋となる。また川入りも整列するが、神戸校区屋台が川原で川入りに備える)

昼過ぎになると伊曾乃氏子地区内の最東北部玉津地区の神楽所へ全てのだんじりが向かう。また毎年この地域に流れる渦井川上にかかる玉津橋において、地元玉津地区3屋台での差し上げが行われており、地元人が挙げる見所のひとつとして人気が高い。近年までは、隣接する飯積神社例大祭の太鼓台もこの時間に合わせて来て、だんじりと太鼓台の統一運行中では唯一の対面する場所として名高い見所のひとつであったが、近年の屋台台数の増加により過密化した運行スケジュールの都合で、現在では太鼓台が来られなくなっている。

同日夕刻、宮入り。対外的には「川入り」として西条祭りを象徴する最大の見所として最も有名な場面でもある。市内の神楽所を巡幸する御神輿の露払いの役目を終えた各だんじりは、行列をなして市内と伊曽乃神社の間を流れる加茂川河川敷に集合。土手上で対岸にむけてずらりと整列し(写真参照)、夕闇迫るなか、神様の御神輿の渡御を見送る。[5]

ご神体の渡御をもって祭礼の終わりとされることから、渡御する御神輿がすぐに渡ってしまわないよう対岸の伊曽乃周辺地区のだんじりがとり囲んで、土手上で見送るだんじりとともに終わりゆく祭りの名残りを惜しむ。(御神輿の阻止をするという解説がなされることも多いが、ご神体にそのようなことをするはずもなく、「神さま、今しばらく一緒にお楽しみ下さい」という意味とされる)

例大祭行事としては川入り後の御神輿の宮入で完了となるが、その後も伊予西条駅前やハルク前などで提灯に灯りを付けて祭りの最後を愉しむ。特に夜7時半頃から御殿前にて行われる西条校区のだんじり・みこしが全て集まる「夜の御殿前」は幻想的で人気が高い。

[編集] 2006年(平成18年)奉納のだんじり(77台)

  • 中野、山道、楠、日明、薮之内、船形、中之段、東原、安知生、洲之内、奥之内 (以上、神戸地区)
  • 沢、西之川原、新田、天皇、常心上組、常心下組、北之町上組、川原町、西町、仲町小川、下小川、明神木、登道、北之町下組、加茂町、新玉通、駅前本通、上小川、地蔵原、北之町中組、清水町、岸陰、駅西、朝日町、南町、若葉町、錦町(以上、大町地区)
  • 上喜多川、上神拝、古川、古屋敷、原之前、吉原三本松、新町、栄町上組、栄町中組、栄町下組、下町中組、砂盛町、下町南、川沿町、喜多川中、御所通、若草町、花園町、上川原、都町、西新町、富士見町、八丁、辯財天 (以上、神拝地区)
  • 玉津、横黒、市塚 (以上、玉津地区)
  • 喜多町、魚屋町、松之巷、大師町、常盤巷、百軒巷、新地、紺屋町、東町、船元町、四軒町、本町 (以上、西条地区)
  • 奉納休止中のだんじり  東光、中之町(本町二丁目)

[編集] 2006年(平成18年)奉納の御輿(4台)

  • 中西 (神戸地区)、下喜多川 (神拝地区)、喜多濱、朔日市([6]) (以上、西条地区)

[編集] 飯積神社祭礼

西条市東部と新居浜市大生院地区を氏子とする飯積神社の祭礼では、新居浜市と同様の太鼓台が奉納される。

奉納台数あわせて11台と、近隣のまつりと比べてけっして派手なものではないが、氏子の気合は非常に高く、ともすれば新居浜祭りを圧倒しかねないほどの激しく勇ましいかきくらべが奉納期間中、地域の随所で行われる。近年太鼓台をつかった危険な喧嘩の絶えない新居浜祭りとくらべて、純粋な太鼓台のかきくらべを間近で見られることから、飯積神社祭礼のファンも多い。

[編集] 2008年(平成20年)奉納の太鼓台(11台)

  • 船屋、下島山上組、下島山下組、大谷 (以上、玉津地区)
  • 八幡、本郷、野口 (以上、飯岡地区)
  • 岸影、下本郷、上本郷、喜来 (以上、新居浜市 大生院地区)

[編集] 祭礼時でなくとも見学可能な展示されているだんじり、みこし

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[編集] 西条祭りと西条市民

毎年、秋の訪れと共に祭りが近づくと 子供等の練習する鐘や太鼓の音があちこちで聞かれるようになり、根っからの祭り好きな地元っ子はこの時期になると鐘・太鼓の耳鳴りがするとすら言われている。また故郷を離れ遠方に移り住んだ者に至っては、冠婚葬祭・盆や正月にすら帰郷しない者でも、年一度の祭りにだけは万難を排してかならず帰郷する。この土地柄ゆえ「一年は祭りに始まり、祭りに終わる」という古くからの気質が地元人の中に定着しており、これを最も象徴するものに 暦が10月から始まる「西条祭りカレンダー」があり 主に市内で毎年販売されている。

また、地元人の間では古くから現在に至るまで 祭りを神事として捉える意識が特に強く、近年の新居浜太鼓祭りにみられるようなイベント化・観光化に対する嫌悪感・抵抗感が根強い。昭和50年代以降 全国各地の祭りやイベントにも西条のだんじりが参加する機会が多くなったが、唯一伊勢神宮への奉納にだけは特別な意識を持っているところに「神事としての祭り」を尊ぶ祭り人としての気質が特に現れている(ただし、交流のきっかけは、西条祭りで唄われる伊勢音頭である)。

伊勢神宮へは現在までに遷宮や御鎮座二千年の奉賛として6度奉納しているが、2006年(平成16年)11月4日には62回遷宮御木曳を記念して過去最大となる32台ものだんじりと1600人の舁き夫三重県伊勢を訪れた。

このような伊勢神宮への奉納はもちろん、例年の祭礼においても、祭礼の運営費・屋台の維持管理費用などに行政の援助は一切受けず、すべてお花や自治会費をはじめとする市民の寄付で賄っているのも、西条祭りを愛する市民の誇りとなっている。

[編集] 組織

日本を代表する祭りが、街の空洞化・住民の都会への流出・少子高齢化・過疎化などにより形骸化、あるいは行政とタイアップされた観光化していく中、西条祭りは、江戸時代より氏神さんと屋台を保有する各地区の氏子により承継されてきた。  就学や仕事で西条市に住んでない者も出氏子として盆、正月には帰省せずとも例大祭には戻り、奉納に参加する者がとても多い。  現在もその奉納は氏神さんと自治会・町内会により行われ、イベント化には拒絶感が多く、行政や観光協会が直接かかわることはない。(警察による警備や駐車場整備など間接的なものを除く)

 例大祭になると、町内会長が各町のだんじり運営の「総責任者」となることも多い。自治会、町内会は、祭礼になると世代別に「中老」「青年団」「小若」などに分かれて奉納に参加する。  また女性は「婦人会」等で食事や飲み物の準備に係わり、裏方として大切な存在である。昭和の終わり頃から小若を別として若い女性も奉納に参加することも増えてきた。

[編集] 役職、役割

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 (主に伊曾乃例大祭での例)

鬼頭
例大祭の運営を行う。独特の装束と鬼の面を付ける。

 帽子の金線で役職を表し、4本が大総取締、3本は総取締、2本で総取締格並びに副取締、1本は副取締格並びに班員、そして0本が鬼頭選任2ヵ年間の奉仕者となる。  また襷(たすき)の色は係を表し、神輿係が赤地に白線2本、屋台係が赤地に緑線2本となる。

総取締  (上記の鬼頭の総取締とは別で各屋台のもの)
一般的には総総代と呼ばれ、各屋台の総責任者となる。江戸期には武士で有らずとも、小脇差が許されていた。
総代
総総代に準じ、各屋台の責任者として奉納運行に携わる。やはり江戸期には武士で有らずとも裃、小脇差が許されていた。
団長
青年団長で実際の奉納での管理者。
警護
例大祭運行中で屋台や舁き夫、見物客の安全を担当する。
太鼓
登り太鼓、降り太鼓、チャンギリと何種類もある奉納中の太鼓を敲く。
太鼓に合わせて鐘を擦る。
会計
集められたお花の管理を行う。
花係り
個人や商店、会社などからお花を集める。
電線係り
電線や電話線が屋台の上部に接触しそうな際に、伸縮性のアルミポールで電線を持ち上げ屋台の通過を助ける。
本肩
一般的には神さん舁きと呼ばれ、5年に一度廻ってくる御神輿を舁ぐ誇り高い役務。
舁き夫
屋台を担いだり、綱で引く。花係りと兼用することも多い。

[編集] 西条祭りモニュメント

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西条市内には上記市民気質と行政の協力もあってだんじり、みこしのモニュメントが多く存在する。

[編集] 新居浜太鼓祭りとの比較

この地方では昔よりそれぞれの祭りの特徴をあらわす表現として 西条祭りは「豪華絢爛」、新居浜太鼓祭りは「勇壮華麗」という呼び方が定着しており、特に観光ガイドなどでの紹介でもそのように記述されることが多い。

香川県西部から愛媛県東部の西条市にかけての瀬戸内海沿岸地域は 古来より極めて祭りの盛んな地域であり、それらの中でも特に際立つ異彩を放つのが西条祭りと隣市の新居浜太鼓祭りである。この二つの祭りは、互いにその規模もさることながら地元人の祭りにかける情熱において、地方にもかかわらず全国の有名な祭礼と比肩して譲らぬ非常に激しい祭りとして知られている。また 西条祭りにおける屋台の奉納台数はいまや全国随一とまで言われており、他県に類を見ない非常に大規模な祭りとしても年々その知名度を広めている。

天保期の西条藩の記録である「西条誌」には、新居浜の一宮神社の祭礼について「台尻(だんじり)、並びに御輿太鼓(これは現在の御輿屋台と思われる)数、合十七」という記述があり、元は西条・新居浜ともに同様の祭りであったとされている。

以後、新居浜では次第にだんじりが廃れ、太鼓台中心の祭りになったのに対し、西条では旧来の形をほぼ残した形で現在に至っている。これによって現代では 西条市が四国の瀬戸内沿岸地域における祭礼文化圏の境界となっており、この地域での祭礼屋台の奉納は西条市以西の地域では現在「西条型だんじり[7]が主流であり、太鼓台の奉納はは少数派になりつつある。

また新居浜市新居大島での祭礼(ここにも「吉祥寺[8]という寺が存在する)と大三島大山祇神社での祭礼(産須奈大祭・旧暦8月22日)に西条型だんじりの原初の形態の屋台がいまも奉納(大三島には西条型の御輿屋台も存在)されており、これは「山車(だんじり)」という祭礼神具の形態が太鼓台のように陸上からではなく海から伝播してきたものであることを裏付けており非常に興味深いものがある。

なお、西条祭りにも新居浜市に近い地域に神社が位置する飯積神社の祭礼においては、新居浜型の太鼓台が奉納されており、この祭礼でのかきくらべは隣市の新居浜太鼓祭りと並んでもしてけっして譲らない勇壮さをもっている。また近年では太鼓台による「10台同時差し上げ」の元祖として練りの技術がとても高い。

[編集] 岸和田だんじり祭との比較

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  • 類似点
    • 市民、関係者の祭りにかける意気込み
    • 他の多くの祭りにあるような行政からの金銭援助が共に全く無く、氏子や商店・会社などからの寄付・お花にて創建・修理・運行・奉納がなされる。
    • 破風の形
  • 異なる点
    • 大きさや高さなどの形は、岸和田を始めとする大阪府兵庫県奈良県に多く存在するだんじり・地車は西条市のだんじり・楽車に比べ小ぶりである。
    • 岸和田だんじり限らず、山車型の祭り屋台は引くものがほとんどであるが、西条のだんじりは山車型であっても神輿のように担ぐ。
    • 西条市のだんじりでは黒塗りや朱塗りといった彩色されただんじりが幾つもあるが、岸和田だんじりにはない。
    • 形而上的な考え方になるが、岸和田だんじりでは造られた際や売却などにより所属町内が変わった際には入魂式という神事を行う。一方で西条市のだんじりはすでに神様はすでにいらっしゃるという思想で、お払いは行っても特に入魂式といったものは行われない。これは神仏混交と古くからの神道の違いとも推察される。
    • 提灯の灯りは岸和田に限らずほとんどの祭りにおいて電照式になってしまったが、西条祭りのだんじりとみこしにおいては氏子達は蝋燭の灯りにこだわる。(石岡神社祭礼の竹内御輿(LED)と飯積神社祭礼、嘉母神社祭礼を除く)

[編集] 屋台の構造・様式の特異性

近畿地方から淡路島をつたい香川県を中心に瀬戸内海沿いを陸続きに伝播して広まった、太鼓台が主役の祭礼様式の文化は、ちょうど新居浜市と西条市の境界でぷっつりと寸断される。そこから以西では突如として西条型だんじりが祭礼様式の主役となっているが、これは西条における山車(だんじり)の様式が 太鼓台の伝播した陸上の経路ではなく 直接海をわたって伝えられたことの名残りでもあり、西条地方はこれゆえ四国の瀬戸内海沿岸における もうひとつの祭礼文化の起点にもなっている。

また同時に、この地に「山車(だんじり)」という様式が伝わったことにより最も注目するべき点は、屋台の運行様式の違いであろう。山車とは元来、車をつけて曳くのが全国で最も普及した様式であるが 西条型だんじりのそれは始めから担いで運行するいわゆる「舁き山車」の方式をとっている。

また同じことは御輿屋台にも言うことができ、構造自体は太鼓台そのものであるにもかかわらず、太鼓台の担いで運行する様式がこの地方になると突如として大型の車輪にて曳く「曳き山」として独自の進化をとげている。

このような一地方の限定された狭い地域で急激な様式の変化や特異性をもつことは全国でも稀であるが、これらの起源や歴史を記録した文献が現在では非常に少なく、それ故にこれは西条祭りの歴史的背景のなかで最も興味深いものともなっている。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 「年中行事事典」p48 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版

[編集] 外部リンク

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