琉球国王の一覧
琉球国王の一覧(りゅうきゅうこくおうのいちらん)。琉球王朝における諸王統の歴代国王を挙げる。
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[編集] 天孫氏王統
『中山世鑑』によれば、琉球最初の王統は天孫氏王統(天孫王統)であったと伝えられる。天帝の使として下界に降った女神アマミキヨは三男二女をなし、長子及びその子孫が歴代の国王になったという。天帝の子孫にあたることから天孫氏と呼ばれる。
天孫氏は25代17802年にわたって続いたが、最後の王(思次良金あるいは思金松兼王という。『椿説弓張月』には尚寧王)が重臣の利勇に殺されて断絶し、その利勇もやがて舜天に誅殺された。実在したかどうかについては神話・伝説の域を出ない。
[編集] 舜天王統
源為朝の落胤とも伝えられる舜天の立てた王統が舜天王統である。 琉球王国の正史『中山世鑑』や、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる[1]。この王統も伝説的な意味合いの強い王統だと考えられる。
義本王が摂政の英祖に王位を禅譲し、舜天王統は三代72年の歴史を終えた。
[編集] 英祖王統
先述の義本王の摂政であった英祖が王位を禅譲されて誕生したのが英祖王統である。5代89年続いた。
- 恵祖 伊祖城主・英祖の父
この王統の5人の王はそれぞれ、名前の由来は出身地か王子の時の城と言われている。
[編集] 三山時代
英祖王統第4代玉城王の頃より王権が衰え、琉球各地に覇を唱える按司が出現し、やがて今帰仁村を中心とする北山、浦添→首里を中心とする中山、旧高嶺間切(現在糸満市の一部)の大里を中心とする南山の三つの地域にそれぞれ王が現れた。三国志さながらのこの時代を三山時代と称する。
尚、これら三山はそれぞれ独立して明に朝貢し貿易を行っていたことが明の歴史書に残っている。
[編集] 中山・察度王統
察度王統は、西威王の没後、群臣の推挙によって王となった察度が立てた王統。2代55年続いた。
[編集] 北山・怕尼芝王統
怕尼芝王統は北山をまとめた羽地按司の怕尼芝が立てた王統。
[編集] 南山・大里王統
大里王統は南山をまとめた大里按司の承察度が立てた王統。
[編集] 第一尚氏王統
中山王武寧を倒した尚巴志が、父・思紹を王位に就け、立てた王統。巴志はその後三山統一を成し遂げた。
尚円(金丸)の立てた王統と区別するために第一尚氏王統と呼ばれ、また尚巴志王統とも呼ばれる。七代63年続いた。
三山統一から琉球王国が正式に始まったとすると統一王統を成し遂げた尚巴志王が正式な初代琉球国王となる。
[編集] 第二尚氏王統
第一尚氏6代王尚泰久王に仕えていた金丸(のちの尚円)が、尚徳王の没後立てた王統。
先の王統と同名のためこちらを第二尚氏王統と称する。また、尚円王統とも呼ばれる。琉球処分まで19代409年続いた。
| 国王 | 画像 | 在位期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 尚稷 (追尊) |
--- | 尚円王の父。王の父たるをもって王号を追贈された。 | |
| 尚円王 | 1469年-1476年 | 第7代琉球国王。 | |
| 尚宣威王 | 1477年 | ||
| 尚真王 | 1477年-1527年 | ||
| 尚清王 | 1527年-1555年 | ||
| 尚元王 | 1556年-1572年 | ||
| 尚永王 | 1573年-1588年 | ||
| 尚懿 与那城王子朝賢 |
--- | 尚真王の曾孫、尚寧王の父。王の父たるをもって王号を追贈された。 | |
| 尚寧王 | 1589年-1620年 | ||
| 尚久 大金武王子朝公 |
--- | 尚元王の三男、尚豊王の父。王の父たるをもって王号を追贈された。 | |
| 尚豊王 | 1621年-1640年 | ||
| 尚賢王 | 1641年-1647年 | ||
| 尚質王 | 1648年-1668年 | ||
| 尚貞王 | 1669年-1709年 | ||
| 尚純 中城王子 |
--- | 尚貞王の世子、尚益王の父。即位前に薨じるも、王号を追贈された。 | |
| 尚益王 | 1710年-1712年 | ||
| 尚敬王 | 1713年-1752年 | ||
| 尚穆王 | 1752年-1794年 | ||
| 尚哲 中城王子 |
--- | 尚穆王の世子、尚温王の父。即位前に薨じるも、王号を追贈された。 | |
| 尚温王 | 1795年-1802年 | ||
| 尚成王 | 1803年 | ||
| 尚灝王 | 1804年-1834年 | ||
| 尚育王 | 1835年-1847年 | ||
| 尚泰王 | 1848年-1879年 | ||
| 尚典 中城王子朝弘 |
--- | 尚泰王の世子。尚家20代当主。 | |
| 尚昌 | --- | 尚典の長子。尚家21代当主。 | |
| 尚裕 | --- | 尚昌の長子。尚家22代当主。 | |
| 尚衞 | --- | 尚裕の長子。尚家23代当主。 |
尚泰のときに琉球処分が行われ、尚泰は華族に列せられ、のち侯爵となった。以後22代尚裕まで代々侯爵を襲爵した。
[編集] 脚注
- ^ 真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為レ絶故也」)なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞 2010年4月16日)するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。
[編集] 関連項目
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