吉田兼好

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吉田兼好(菊池容斎・画、明治時代)
文学
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吉田 兼好(よしだ けんこう、弘安6年(1283年) - 観応元年/正平5年4月8日1350年5月14日)?[1])は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人随筆家・歌人治部少輔卜部兼顕の子。本名は卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家平野家などに分かれ、兼好は吉田家の系統であったことから江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。

日本三大随筆の一つ『徒然草』の作者。

目次

[編集] 経歴

卜部氏古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄であり、父兼顕も吉田神社の神職であった。兼好は19歳頃より宮中に出仕し、堀川家家司を務めた。正安3年(1301年)に後二条天皇即位すると、天皇の生母である西華門院堀川具守の娘であったことから六位蔵人に任じられる。その後、後宇多院北面武士となり、従五位下左兵衛佐にまで昇進したが、上皇の死後、出家遁世して兼好(けんこう)を名乗った。

出家した後の兼好の生活については修学院比叡山横川などに籠り仏道修行に励む傍ら和歌に精進した様子などが自著から窺われるがあまり明確ではない。鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られ、鎌倉幕府御家人で後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。その時、現在の神奈川県横浜市金沢区上行寺の境内に庵があったと伝えられる。

主著である『徒然草』は自然の風物などが散文として書かれ日本の三大随筆に数えられほか、当時の社会風潮などを知るための貴重な資料ともなっている。また二条為世和歌を学び、為世門下の和歌四天王の一人にも数えられる。その詠歌は『続千載集』・『続後拾遺集』・『風雅集』にそれぞれ計18首が収められている。

室町幕府九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。また晩年は、当時の足利氏執事高師直に接近したとされ、『太平記』にその恋文を代筆したとの記述がある。

[編集] 脚注

  1. ^ 没年は文和元年/正平7年(1352年)とする説もある。

[編集] 参考文献

  • 川平敏文『兼好法師の虚像 偽伝の近世史』 平凡社 2006年 ISBN 4582842267

[編集] 関連項目

ウィキクォート
ウィキクォート吉田兼好に関する引用句集があります。

[編集] 外部リンク