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「門神」の版間の差分

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歴史: 出典の混乱:"度朔山に大桃木があり.."云々伝説が『山海経』にありでなく→現存の『山海経』テキストに無く王充が引用している部分なので"桃人"と統合。
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
門神の歴史は古く、前身は「[[桃符]]」または「桃板」と呼ばれる木であった。「桃符(とうふ)」とは、桃の板で製作される符で、正月に辟邪のために門に掛ける。
門神の歴史は古く、前身は「[[桃符]]」または「桃板」と呼ばれる木であった。「桃符(とうふ)」とは、桃の板で製作される符で、正月に辟邪のために門に掛ける。古来、桃の木には霊力があり、悪鬼は非常に畏れると考えられ、中国では桃梗ないし桃人と称される桃枝でこしらえた人形を門に立てる習慣があった<ref name=sekaidaihyakka/>


古来、桃の木は霊力があり、悪鬼は非常に畏れると考えらてきた。度朔山に大桃木があり、樹上に神茶・鬱塁の二神が居り、鬼門を監視し、悪鬼を葦の縄で捉えて虎に食わせたという伝説が『山海経』にあり、よく知られている。また桃は五木のであり、邪気を伏し、生じよく百鬼するとい説も行れている。桃符の原型、古の悪鬼払いの巫術用いられた桃の木作られた棍棒・帚・弓どに遡る。
伝説ば、蒼海の度朔山に大桃木("その屈蟠すること三千里の"[[蟠桃会|蟠桃]]<ref name="shimada"/>)があり、樹上に{{仮リンク|神茶・鬱塁|zh|神荼鬱壘}}の二神が居り、鬼門を監視し、悪鬼を葦の縄(葦索)で捉えて虎に食わせたとされており、神茶・鬱塁をかたどった桃人(桃を材とする人形<ref name="shimada"/>)や葦索を門に飾るが風習であった([[後漢]]の[[王充]]『論衡』訂篇。引用元は『山海経』のなっいるが疑問視される){{Refn|group="注"|『山海経』引いているが、現存する『山海経』に無く逸文かどかは疑がとされ{{sfnp|水野|2008|pp=104, 114–115n17}}<ref name="hojo"/>『山海経』戦国時以降秦代ま書き足された文献、逸文とするらば、伝説を戦国時代のものとす解釈<ref name="shimada"/>はできる。}}{{sfnp|水野|2008|pp=104, 114–115n17}}<ref name="hojo"/>


また桃は五木の精であり、邪気を伏し、鬼門に生じてよく百鬼を制するという説も行われている。桃符の原型は、古代の悪鬼払いの巫術で用いられた桃の木で作られた棍棒・帚・弓などに遡る。
戦国から後漢にかけて桃梗ないし桃人と称される桃の木の人形がさかんに用いられ、王充『論衡』訂鬼篇に、県官が役所の門に桃人を飾る制度を述べる。


六朝期には、桃板が出現する。唐宋時代には桃人は姿を消し、専ら桃板が用いられるようになった。
六朝期には、桃板が出現する。唐宋時代には桃人は姿を消し、専ら桃板が用いられるようになった。
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[[漢|漢代]]には、魔除けとして飾ることが始まった。桃木には文字や模様を刻む場合もあり、これが[[対聯]]や[[年画]]の原型となった。
[[漢|漢代]]には、魔除けとして飾ることが始まった。桃木には文字や模様を刻む場合もあり、これが[[対聯]]や[[年画]]の原型となった。


[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]以降、[[紙]]が広く利用されるようになると、桃木は紙の年画や文字に取って替わられた。[[神荼]][[鬱塁]]を描いて貼ることが流行した。[[梁 (南朝)|梁]](南朝)の[[宗懍]]の『[[荊楚歳時記]]』には、[[元日]]に「桃板を造り戸に着け、之を仙木と謂う。二神を絵き戸の左右に貼る。左に神荼、右に鬱塁、俗に門神と謂う。」とある。[[唐]]代には秦瓊と敬徳に変わるなど、時代ごとに歓迎される人物が変化してきた。
[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]以降、[[紙]]が広く利用されるようになると、桃木は紙の年画や文字に取って替わられた。神荼と鬱塁を描いて貼ることが流行した。[[梁 (南朝)|梁]](南朝)の[[宗懍]]の『[[荊楚歳時記]]』には、[[元日]]に「桃板を造り戸に着け、之を仙木と謂う。二神を絵き戸の左右に貼る。左に神荼、右に鬱塁、俗に門神と謂う。」とある。[[唐]]代には秦瓊と敬徳に変わるなど、時代ごとに歓迎される人物が変化してきた。


現在、桃符はほとんど原型を留めておらず、門神は扉に直接描かれ、または紙に印刷され、春詞は紅色の紙に黒字、ないし金字で書かれ、いわゆる紙製の春聯と化した。ただし、文語で春聯を桃符ということがある。<ref>{{Cite book|title=道教事典|date=1994-03-15|year=1994|publisher=平河出版社}}</ref>
現在、桃符はほとんど原型を留めておらず、門神は扉に直接描かれ、または紙に印刷され、春詞は紅色の紙に黒字、ないし金字で書かれ、いわゆる紙製の春聯と化した。ただし、文語で春聯を桃符ということがある。<ref>{{Cite book|title=道教事典|date=1994-03-15|year=1994|publisher=平河出版社}}</ref>
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<ref name=sekaidaihyakka>{{citation|和書|author-link=<!--no byline--> |title=もんしん【門神 mén shén】 |work=世界大百科事典 |edition=第2<!--版--> |publisher=平凡社 |date=<!--sans date--> |url=}} @ [https://kotobank.jp/word/%E9%96%80%E7%A5%9E-1211976 コトバンク]</ref>

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Atomi University faculty of Literature Dept. of Humanities--> |title=中国文化の中に於ける桃李と、跡見花蹊 |trans-title=Symbolic Meaning of 'Peach-and-Plum'  in Chinese Culture and the Attitude as Educationalist of Kakei Atomi (1840-1926) |journal=跡見学園女子大学文学部紀要 |number=36 |publisher=大阪府立大学人文学会 |date=2003年3月 |url=https://atomi.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=461&file_id=21&file_no=1 |page=27<!--17–38-->}}</ref>

}}
;参照文献
* {{citation|和書|last=水野 |first=杏紀 |author-link=<!--水野杏紀 Mizuno, Aki--> |title=新井白石『鬼門説』について : 翻刻と注解 |journal=人文学論集 平木康平教授退職記念号 |volume=26 |publisher=大阪府立大学人文学会 |date=2008 |url=https://opera.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=4467&file_id=19&file_no=1 |pages=97–117 |doi=10.24729/00004460}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2022年2月25日 (金) 20:10時点における版

香港の民家の門神
香港湾仔の民家の門神
門神像
韓国民俗村の門神(左)と対聯(右)

門神(もんしん)は、中国仏教寺院道教道観住宅などの建物の入口に立ち、門番の役目をする。検閲を司り悪鬼から門を守るとの伝えから春節に中国各地の門戸に貼られる。

概要

中国においては寺院、道観にとどまらず、民家の門にも絵画で普及している。邸宅では彩色で直接正門のに描かれるが、簡易なものでは木版画として売られ、これを旧暦の新年に際して扉に張る風習がある。

観音開きの木戸が多いため、左右の扉の外に面した側に一対の門神が貼られる、または描かれるのが普通。中国においては、民間伝説としてよく知られている秦叔宝(秦瓊)と尉遅敬徳(尉遅恭)が対で描かれるか、一枚扉の場合は、魏徴または鍾馗が描かれることが多い。

朝鮮台湾ベトナムなどにも伝播し、塑像絵画として具象化されている。

歴史

門神の歴史は古く、前身は「桃符」または「桃板」と呼ばれる木であった。「桃符(とうふ)」とは、桃の板で製作される符で、正月に辟邪のために門に掛ける。古来、桃の木には霊力があり、悪鬼は非常に畏れると考えられ、中国では桃梗ないし桃人と称される桃枝でこしらえた人形を門に立てる習慣があった[1]

伝説によれば、蒼海の度朔山に大桃木("その屈蟠すること三千里の"蟠桃[2])があり、樹上に神茶・鬱塁中国語版の二神が居り、鬼門を監視し、悪鬼を葦の縄(葦索)で捉えて虎に食わせたとされており、神茶・鬱塁をかたどった桃人(桃を材木とする人形[2])や葦索を門に飾るのが風習であった(後漢王充『論衡』訂鬼篇。引用元は『山海経』のになっているが疑問視される)[注 1][3][4]

また桃は五木の精であり、邪気を伏し、鬼門に生じてよく百鬼を制するという説も行われている。桃符の原型は、古代の悪鬼払いの巫術で用いられた桃の木で作られた棍棒・帚・弓などに遡る。

六朝期には、桃板が出現する。唐宋時代には桃人は姿を消し、専ら桃板が用いられるようになった。

漢代には、魔除けとして飾ることが始まった。桃木には文字や模様を刻む場合もあり、これが対聯年画の原型となった。

南北朝時代以降、が広く利用されるようになると、桃木は紙の年画や文字に取って替わられた。神荼と鬱塁を描いて貼ることが流行した。(南朝)の宗懍の『荊楚歳時記』には、元日に「桃板を造り戸に着け、之を仙木と謂う。二神を絵き戸の左右に貼る。左に神荼、右に鬱塁、俗に門神と謂う。」とある。代には秦瓊と敬徳に変わるなど、時代ごとに歓迎される人物が変化してきた。

現在、桃符はほとんど原型を留めておらず、門神は扉に直接描かれ、または紙に印刷され、春詞は紅色の紙に黒字、ないし金字で書かれ、いわゆる紙製の春聯と化した。ただし、文語で春聯を桃符ということがある。[5]

人物

時代、地域、建物、職業によって門神とされる人物は異なり、種類は多いが、主なものとして次がある。

中国

日本

左門神
右門神

注釈

  1. ^ 『山海経』を引いているが、現存する『山海経』に無く逸文かどうかは疑がわしいとされる[3][4]。『山海経』は戦国時代以降秦代まで書き足された文献で、逸文とするならば、伝説を戦国時代のものとする解釈[2]はできる。

出典

脚注
  1. ^ 「もんしん【門神 mén shén】」『世界大百科事典』、平凡社。  @ コトバンク
  2. ^ a b c 嶋田英誠「中国文化の中に於ける桃李と、跡見花蹊」『跡見学園女子大学文学部紀要』第36号、大阪府立大学人文学会、27頁、2003年3月https://atomi.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=461&file_id=21&file_no=1 
  3. ^ a b 水野 (2008), pp. 104, 114–115n17.
  4. ^ a b 北條勝貴「野生の論理/治病の論理―〈瘧〉治療の一呪符から―」『日本文学 特集 環境としての自然・風土』第62巻、第5号、大阪府立大学人文学会、46–47頁、2013年5月https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/62/5/62_39/_article/-char/ja/ 
  5. ^ 道教事典. 平河出版社. (1994-03-15) 
参照文献

関連項目