聞一多
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聞 一多(ぶん いった、簡体字:闻一多、繁体字:聞一多、ピンイン:Wén Yìduō、1899年11月24日(清光緒25年10月22日) - 1946年(民国35年)7月15日)は、中国の詩人、古典論家。旧名は聞多だが、大学時代の学友である潘光旦の勧めにより「一」の字を加えた。字は友三。
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来歴 [編集]
湖北省浠水県下巴河陳家嶺出身。清華大学で学んだ後1922年からアメリカに留学しシカゴ美術館でファインアートや文学を学びつつ、詩集発表などの創作活動にも取り組んだ。1925年には帰国し清華大学で教鞭を執った。日中戦争中は雲南省昆明で、疎開した大学を統合した西南連合大学で文学部長を務めた。戦後は中国民主同盟の委員となり中国国民党の政治腐敗に抗議活動を行ったが、1946年に暗殺された。
『伏犠考』 [編集]
聞一多が西南連合大学教授職時代の1942年に執筆した論文。三皇五帝の伏犠(伏羲)と女媧が中国少数民族のミャオ族の先祖に当たると論証し、加上説を検証する1つとなっている。また、伏犠と女媧のどちらも「中が空洞のもの」を表す共通の概念が分岐したという同一説をも展開した。