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「古代都市アレッポ」の版間の差分

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'''古代都市アレッポ'''(こだいとしアレッポ)は、[[シリア]]の北部にある都市[[アレッポ]]に残る歴史的構造物が登録された[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)である。
'''古代都市アレッポ'''(こだいとしアレッポ)は、[[シリア]]の北部にある都市[[アレッポ]]に残る歴史的構造物が登録された[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)である<ref name=whaleppo>{{Cite news|url=https://worldheritagesite.xyz/aleppo/ |title=古代都市アレッポ |last= |first= |date= |work=世界遺産オンラインガイド |access-date=2021-08-08|language= |issn=}}</ref>


アレッポは、シリアの首都[[ダマスカス]]の北約300キロメートルにある都市で、[[トルコ]]国境に近くに位置する。象徴的な建物である'''[[アレッポ城]]'''は、紀元前10世紀に最初に建築され、12世紀から14世紀には[[モンゴル帝国]]の侵入や[[十字軍]]の攻撃にも耐えた。世界最の市場の1つといわれる[[スー (市)|ク]]もアレッポの象徴である。スークの北にある'''[[アレッポの大モスク|大モスク]]'''(グレート・モスク)は、建築様式他のモスクの手本になったともいわれる。アレッポは現代でもシリア第2の都市であり、考古学者が発掘を行う機会も限られている。
アレッポは、シリアの首都[[ダマスカス]]の北約300キロメートルにある都市で、[[トルコ]]国境に近くに位置する。古代都市アレッポの象徴として、紀元前10世紀に最初に建築され[[アレッポ城]]世界最の市場の1つといわれる{{仮リンク|アル=マディナ・スーク|en|Al-Madina Souq}}、[[アレッポの大モスク|大モスク]]がる。アレッポはシリア第2の都市であり、考古学者が発掘を行う機会も限られている。

古代都市アレッポが含まれるアレッポ旧市街は、アレッポの人々によって「メディーネ」とも呼ばれる。アラビア語で都市や街を意味するマディーナが訛ったものである{{Sfn|黒田|2016|p=84}}。本記事では歴史的に密接に関連する旧市街についても記述する。

== 地理 ==
アレッポの立地は、西は[[地中海]]から80キロメートル、東は[[ユーフラテス川]]から80キロメートルの位置にあり、[[中継貿易]]に適している。このため歴史的に交易が行われてきた{{Sfn|黒田|2016|pp=41-42}}。

アレッポの歴史的な交通ルートは2つある。[[シリア砂漠]]の周縁を通るルートは紀元前8世紀頃からあり、ラクダが家畜として普及する前から使われていた。シリア砂漠を縦断するルートはラクダのキャラバンが主に使った。ラクダは当初は[[フタコブラクダ]]で、紀元前8世紀頃から[[ヒトコブラクダ]]になった{{Sfn|黒田|2016|pp=43-44}}。アレッポの交易は、西方はイスカンダルーンからの海上ルート、東方はバグダード、モースル、バスラ、そしてイランやインドへつながっていた。南方はダマスカス、パレスティナ、エジプト、アラビア半島へとつながっていた{{Sfn|黒田|2016|p=49}}。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[File:Aleppo alley 0622.jpg|thumb|旧市街の小路。]]
アレッポ一帯は紀元前1800年ごろから居住が始まった。[[ユーフラテス川]]と地中海方面を繋ぐ古くからの交通の要衝の地であり、古くから商業都市として栄えた。紀元前20世紀には[[ヤムハド王国]]の首都として栄え、その繁栄はヤムハドの支配者であったアモリ人の王朝が紀元前1600年ごろ倒れるまで続いた。紀元前800年ごろまで[[ヒッタイト]]の支配下におかれ、その後[[アッシリア]]、[[アケメネス朝]]に支配された後、紀元前333年、[[セレウコス朝]]によって古代ギリシア人の支配するところとなった。[[セレウコス1世]]はこの都市を'''ベロエア'''と改称した。セレウコス朝の支配は紀元前64年に[[共和政ローマ]]の将軍[[グナエウス・ポンペイウス]]に征服されるまで続いた。
アレッポの一帯は、[[ユーフラテス川]]と地中海方面をつなぐ交通の要衝であり、古くから商業都市として栄えた。この地での交易は[[紀元前3000年]]には行われており、[[紀元前2500年]]には[[アッカド人]]の支配が始まった。最初の記録は[[紀元前20世紀]]であり、[[ヤムハド王国]]の首都として栄え、ハラプ(Ḥalab)やハルペと呼ばれていた{{efn|12世紀の旅行家[[イブン・ジュバイル]]は、アレッポを訪れたのちにハラブの語源について逸話を書いている。それによると、[[アブラハム]]が羊の群れを連れてこの地にしばしば来ており、丘の上で羊の乳を絞って皆に分け与えていた。そのためアラビア語で乳を意味するハラブが地名になったとされる{{Sfn|黒田|2016|p=34}}。}}{{Sfn|黒田|2016|pp=33-34}}。


[[紀元前1500年]]頃に[[ヒッタイト人]]がアレッポを併合し、首都としての機能を失う。[[紀元前1000年]]頃にはアラムの支配下に入り、文化的・宗教的な都市として重要となった。[[紀元前1200年]]に[[アッシリア]]、[[紀元前605年]]に[[カルデア]]、[[紀元前538年]]に[[アケメネス朝]]と支配者が移り変わり、[[紀元前333年]]に[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世]]に征服された。アレクサンドロスの死後は将軍のセレウコ・ニカートル([[セレウコス1世]])が統治し、[[セレウコス朝]]の都市となった。セレウコス1世はこの都市をベロエア(Beroia)と改称し、セレウコス朝の支配は紀元前64年に[[共和政ローマ]]の将軍[[グナエウス・ポンペイウス]]に征服されるまで続いた{{Sfn|黒田|2016|p=35}}。
[[395年]]のローマ帝国の分裂で[[東ローマ帝国]]の領土となったが、[[637年]]にアラブ人に征服された。[[944年]]に[[モースル]]の[[ハムダーン朝]]に征服されその後モースルから独立するが、再興した東ローマ帝国が[[ヨハネス1世ツィミスケス]]の遠征によって短期間、974年から987年にかけて支配権を取り戻した。ふたたびハムダーン朝の支配下となったが、1004年王家断絶によりエジプトの[[ファーティマ朝]]に併合された。1094年、[[セルジューク朝]]が街を征服し、そこから分かれた[[シリア・セルジューク朝]]がアレッポを支配した。


[[395年]]の[[ローマ帝国]]の分裂以降は[[ビザンツ帝国]]の領土となったが、[[イスラーム]]を信仰する[[アラブ人]]が[[636年]]にヤムルークでビザンツ軍に勝利し、同年にアレッポを征服した。この占領においては城塞の保存、教会や家屋の所有権の保証を含む和平協定が結ばれた。その後はイスラーム王朝の地方都市となり、[[944年]]に[[モースル]]の[[ハムダーン朝]]に征服され首都となった{{Sfn|黒田|2016|pp=36-38}}。ビザンツ帝国の[[ヨハネス1世ツィミスケス]]は974年から987年にかけてアレッポの支配権を取り戻し、のちに再びハムダーン朝の支配下となった{{Sfn|黒田|2016|pp=36-38}}。1025年から1080年にかけては短期間ながら{{仮リンク|ミルダース朝|en|Mirdasid dynasty}}の首都となった{{Sfn|太田|1992|p=327}}。[[セルジューク朝]]時代の1100年と1103年にはビザンツ帝国の大規模な攻撃を受けたが、[[シリア・セルジューク朝]]のヌールッ=ディーン・ザンギーのもとでアレッポは繁栄した{{Sfn|黒田|2016|pp=36-38}}。
12世紀、[[十字軍]]の侵攻が始まると、アレッポはイスラム側の前線基地となる。もともと神殿だったものをアレッポ城へと要塞化する。アレッポは1098年と1124年に十字軍に包囲されたが、陥落はしなかった。[[テュルク]]系の諸[[アタベク]]政権である[[アルトゥク朝]]、[[ザンギー朝]]の支配を経て1183年、街はエジプトに[[アイユーブ朝]]を開いた[[クルド]]人将軍[[サラディン]]の手により開城され、アイユーブ朝の支配下に入った。[[モンゴル帝国]]の[[フレグ]]が1260年街を征服し破壊したが、フレグの創設した[[イルハン朝]]の後継争いの中、1317年に地元の領主が独立し、エジプトの[[マムルーク朝]]の影響下に入った。その後[[ティムール朝]]の攻撃を受ける。


12世紀に[[十字軍]]の侵攻が始まると、アレッポは前線となった。神殿だった建築物は要塞化されてアレッポ城になった。アレッポは1098年と1124年に十字軍に包囲されたが、陥落はしなかった。[[テュルク]]系の[[アタベク]]政権である[[アルトゥク朝]]、[[ザンギー朝]]の支配を経て、[[アイユーブ朝]]を開いた[[クルド]]人将軍[[サラーフッディーン]]により1183年に開城された。アイユーブ朝は[[ヴェネツィア共和国]]などの諸国との貿易で利益をあげ、アレッポに還元された。アイユーブ朝の時代に運河が整備され、スーク、モスク、マドラサ、病院、司法施設のダール=ル=アドゥルなども充実していった{{Sfn|黒田|2016|pp=36-38}}。
1517年、テュルク系の[[オスマン帝国]]の[[セリム1世]]によりアレッポを含むシリア地方は征服されマムルーク朝も滅亡し、以後オスマン帝国の長い統治が始まった。1517年時点での人口は約5万人だった。16世紀、大航海時代に入り、陸路による物資輸送が下火になるにつれて、アレッポの街も衰退していった。


[[モンゴル帝国]]の[[フレグ]]が1260年にアレッポを征服し、破壊と虐殺を行った。フレグが建国した[[イルハン朝]]は後継争いが起き、[[バイバルス]]が率いる[[マムルーク朝]]がアレッポを支配下に置いたが、アレッポは戦乱で人口が激減しており復旧までに1世紀がかかった{{efn|マムルーク朝時代のアレッポの資料として、イブン・ハティーブ・アンナスィリーヤの『アレッポ史における選り抜きの真珠』や{{仮リンク|スィブト・イブン・アルアジャミー|en|Sibt ibn al-Jawzi}}の『アレッポ史における黄金の蔵』がある{{Sfn|谷口|2005|p=63}}。}}{{Sfn|黒田|2016|p=39}}。1400年には[[ティムール]]による破壊も受けた{{Sfn|谷口|2005|p=67}}。
2011年にシリアで発生した[[シリア騒乱|内戦]]はアレッポにも及び、2012年9月28日に政府軍と反体制派の戦闘によりスークにて火災が発生。700-1,000軒が被害を受け、歴史的な店舗の大半は消失した<ref name=yomiuri20120930>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120930-OYT1T00559.htm |title=世界遺産「古代都市アレッポ」大半焼失…戦闘で |work=YOMIURI ONLINE |newspaper=[[読売新聞]] |date=2012-09-30 |accessdate=2012-09-30 }}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。

15世紀までの東方の交易は、ダマスカスがアレッポに対して優位にあった。その理由は、[[ウマイヤ朝]]以来ダマスカスが政治的に優位にあった点、ダマスカスが[[ハッジ]](メッカ巡礼)の出発点であった点、ダマスカスのルートは周辺が政情不安定な時期も比較的安全だった点などがある。15世紀以降はアレッポの交易が優勢になっていった{{Sfn|黒田|2016|pp=47-48}}。内陸にある点が有利に働く場合もあった。[[十字軍]]によって海岸沿いの都市が被害を受けたときも無事であり、海岸沿いにめぐっていたキャラバンが内陸へとルートを変更してアレッポの繁栄につながった{{Sfn|黒田|2016|pp=49-50}}。

1517年、[[オスマン帝国]]の[[セリム1世]]によってアレッポは無血開城した。それ以降の400年近く、アレッポはオスマン帝国の州都となった。17世紀から18世紀にかけてはヨーロッパとのレヴァント貿易で繁栄したが、1778年の凶作、オスマン帝国の弱体化による交易路での盗賊行為の増加、1787年のペスト流行による17万人ともいわれる人口激減、伝統的な毛織物貿易の終了も影響を与えた{{Sfn|深沢|1989|pp=16-17}}。1822年には大地震が起き、1832年のエジプトの占領による重税などで衰退が続いた{{efn|20世紀までのアレッポの歴史は、アレッポの歴史家タッバーフが『アレッポ史における貴顕達の情報』(1988年)にまとめている{{Sfn|谷口|2005|pp=68-69}}。}}{{Sfn|黒田|2016|p=40}}。

国内の交易で繁栄を保っていたが、2011年にシリアで発生した[[シリア騒乱|内戦]]はアレッポにも及び、2012年9月28日に政府軍と反体制派の戦闘によりスークにて火災が起きた。700軒から1,000軒が被害を受け、歴史的な店舗の大半は消失した<ref name=yomiuri20120930>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120930-OYT1T00559.htm |title=世界遺産「古代都市アレッポ」大半焼失…戦闘で |work=YOMIURI ONLINE |newspaper=[[読売新聞]] |date=2012-09-30 |accessdate=2012-09-30 }}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。


{{main|アレッポの戦い (2012-2016)}}
{{main|アレッポの戦い (2012-2016)}}
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=== アレッポ城 ===
=== アレッポ城 ===
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[[File:Citadel of Aleppo.jpg|thumb|アレッポ城]]
[[紀元前10世紀]]に当地に築造された[[神殿]]を原型とする古城。たび重なる戦争の歴史のなかで、しだいに城砦化していった。十字軍の侵略に際して改築された12世紀の姿のままで今に残っている<ref name=Shogakukan>{{cite book |和書 |editor=世界遺産を旅する会 |title=世界遺産極める55 |year=2013 |publisher=[[小学館]] |series=[[小学館文庫]] |isbn=4-09-417184-3}}</ref>。
[[紀元前10世紀]]に築造された[[神殿]]を原型とする古城。古代から城塞だった東端の丘は10世紀に城壁で囲まれ、宮殿や官庁が建設された{{Sfn|余部|2010|p=110}}。たび重なる戦争の歴史のなかで、しだいに城砦化していった。12世紀には十字軍の侵略に際して改築された<ref name=Shogakukan>{{cite book |和書 |editor=世界遺産を旅する会 |title=世界遺産極める55 |year=2013 |publisher=[[小学館]] |series=[[小学館文庫]] |isbn=4-09-417184-3}}</ref>。


周囲2.5キロメートルで、深さ20メートル、幅30メートルの濠に囲まれ、城門には防衛用の熱油落としなどがあった。城内には地下牢、モスク、アイユーブ朝時代の宮殿などが残っている<ref name=whaleppocastle>{{Cite news|url=https://worldheritagesite.xyz/contents/aleppo-castle/ |title=アレッポ城 |last= |first= |date= |work=世界遺産オンラインガイド |access-date=2021-08-08|language= |issn=}}</ref>。
=== スーク(市場) ===
世界最大規模ともいわれる市場。往時の繁栄の面影を留めてきたが<ref name=Shogakukan/>、2012年に[[シリア騒乱|内戦]]により大半が消失した<ref name=yomiuri20120930 />。


=== その他 ===
=== スーク ===
[[File:Aleppo Khan Shuneh.jpg|thumb|アレッポのスーク]]
* キリスト教地区
世界最古ともいわれる{{仮リンク|アル=マディーナ・スーク|en|Al-Madina Souq}}がある。イスラーム王朝時代に、ローマ時代の東西列柱大通りは平行する細い通りに分割されてスークになった{{Sfn|余部|2010|p=110}}。建物全体が屋根に覆われて天窓があいており、日用品から高級品、専門品や中古品まで取引されている。小売と卸売を兼ねている店や、手工業製品の製造小売なども行われており、アレッポを訪れる多くの観光客向けの店舗もある{{Sfn|寺阪|1990|pp=5-6}}。スークは商業施設だけでなく、その中にモスク、学院、公衆浴場などを含む社交や情報交換、娯楽の場でもあった{{Sfn|黒田|2016|p=102}}。

オスマン帝国時代に交易拠点として特権的な地位を得たアレッポは、商圏を拡大してヴェネツィアの他フランスの、イギリスの{{仮リンク|レヴァント会社|en|Levant Company}}{{efn|レヴァント会社とアレッポの取引は、17世紀後半から18世紀前半に最盛期となり、生糸と毛織物の交換が中心だった{{Sfn|川分|1990|p=560}}。}}、オランダとも取引をした。フランスの海運が衰退する1775年以降は次第に貿易が減少した{{Sfn|黒田|2016|p=40}}。17世紀から18世紀にはスークがアレッポの中心部となり、37のスークがあった。商品は布地、石鹸、靴、スパイス、宝石、陶器、香水、薬、ピンや釘、小銃、時計、卵やチーズなどで、卸売と小売が行われていた。この他にもアレッポ北東には6つの卸売市場や、その他の地区に羊を扱う卸売場など8つのスークがあった{{Sfn|黒田|2016|p=54}}。綿織物産業はイギリス製品のキャラコやブロードとの競争で減少し、絹織物もヨーロッパの生産が増えたためにアレッポは生糸の輸出へと変わっていった{{Sfn|黒田|2016|pp=57-58}}。オスマン帝国がヨーロッパ諸国に与えた特権である[[カピチュレーション]]もアレッポにとって打撃となった{{Sfn|黒田|2016|pp=57-58}}。手工業製品は、織物、金糸や銀糸を刺繍をした絹布、染色した綿布、[[アレッポ石鹸]]などがある{{Sfn|黒田|2016|pp=57-58}}。社会主義体制をとる[[シリア・アラブ共和国]]の成立後は衣料品を中心として卸売が失われた{{Sfn|寺阪|1990|pp=5-6}}。

[[File:05-03-23 InsideTheSoukInAleppo.JPG|thumb|アレッポの衣料品のスーク]]
20世紀以降のアレッポは首都のダマスカスに次ぐシリアの都市として経済活動が活発だった{{efn|1981年のシリアの卸売・小売・飲食店・ホテル事業所数は全国113,820のうちアレッポに25,752、ダマスカスに21,841だった。卸売業は全国4,593のうちアレッポに961、ダマスカスに830。小売業は全国100,615のうちアレッポに23,170、ダマスカスに18,606だった。人口ではダマスカスが1位、商店数においてはアレッポが1位だった{{Sfn|寺阪|1990|pp=1-2}}。}}{{Sfn|寺阪|1990|pp=1-2}}。往時の繁栄の面影を留めてきたが、2012年以降の[[シリア騒乱|内戦]]によってスークの3分の1
が破壊された。復旧が進んでいるが、内戦前の客だった人々の多くが国外に出たり、観光客がいなくなった影響で売り上げは回復していない。スーク全体の再建には数千万ドルが必要ともいわれるが、内戦によるシリアへの経済制裁で欧米からの資金提供が困難なことも作業が遅れる一因となっている<ref name=arabnews20190805>{{Cite news|url=https://apnews.com/article/civil-wars-syria-ap-top-news-international-news-lifestyle-71578382fb274bc88a7e78f9d1f2f7c0 |title=Centuries-old bazaar in Syria's Aleppo making slow recovery |last=MROUE |first=BASSEM |date=2019-08-05 |work=Arab News |access-date=2021-08-08|language= |issn=}}</ref>。

=== ハーン、カイサリーヤ ===
ハーンは商人の宿にあたり、[[キャラバン]]がここで荷物を降ろして取引が行われた。中庭式の2階建てで、1階は取引所、倉庫、ラクダやロバの厩、管理人や使用人の住居だった。2階は商人をはじめ客人の宿泊部屋になっており、定刻で開閉される{{Sfn|黒田|2016|pp=100-101}}。

18世紀には61軒のハーンがあり、そのうち20軒は中央スークにあり、27軒がその付近にあった{{Sfn|黒田|2016|p=54}}。もとのハーンは固有の商品を扱うスークに付設していた。次第に独自の機能を果たすようになっていき、20世紀後半には宿泊所としての機能は失われていった{{Sfn|黒田|2016|pp=100-101}}。

カイサリーヤはアレッポにおいては複数の機能の建物の集合について表現する語だった。中世においては高価な商品を扱う門がついたスークも指したが、時代が進むについて宿泊施設を指すようになった{{Sfn|黒田|2016|p=101}}。

=== マドラサ ===
[[マドラサ]]はイスラームの伝統的な諸学を学ぶための施設を指す。アレッポは学芸を振興した君主が多く、100近くのマドラサが知られている{{Sfn|黒田|2016|p=102}}。現存する最古のものは、1168年に建築された{{仮リンク|マドラサ・ムカッダミーヤ|en|Al-Muqaddamiyah Madrasa}}になる{{Sfn|黒田|2016|pp=90-91}}。

=== モスク、ザーウィヤ ===
[[File:Great mosque court Aleppo.jpg|thumb|アレッポの大モスクの中庭。奥に見えるミナレットは内戦で破壊された。]]
大小百数十のモスクがあり、[[アレッポの大モスク]]やナフラミーヤ・モスク、ジャミーヤ・ザカリーヤと呼ばれる大モスクが知られている{{Sfn|黒田|2016|pp=91-92, 102}}。イスラーム王朝の征服時に、中心部の広場にダマスカスの[[ウマイヤ・モスク]]と同様にアレッポの大モスクが建設された{{Sfn|余部|2010|p=110}}。[[アレッポの大モスク]]の建築様式は他のモスクの手本になったともいわれる。ザーウィヤは[[スーフィー]]的な傾向の人々のための集会所を指し、宗教的知識の交換や儀礼が行われている{{Sfn|黒田|2016|p=102}}。

12世紀から15世紀にかけて、[[ワクフ]]による宗教施設の建設が増加した。設立の中心になったのは、アレッポの支配者に仕えた者や、アレッポに利害関係を持つ者たちだった。アレッポの支配者であるカリフやスルターンらは設立に関わった数が少ないため、これらの支配者が名目的な宗主権だけを持っていたことを表している{{Sfn|谷口|2007|pp=36-37}}。18世紀中頃には、250以上のモスクや、30以上のスーフィーの道場があった{{Sfn|黒田|2016|pp=54-55}}。

大モスクは8世紀に破壊されたのち13世紀に再建された。しかしシリア内戦による2013年4月24日の戦闘で[[ミナレット]]が破壊され、預言者[[ムハンマド]]の髪が入っていたと伝えられる箱を含め遺物が略奪された。[[シリア軍|シリア政府軍]]と反政府側[[アル=ヌスラ戦線]]や反政府活動家は、破壊の原因が相手側にあると互いに主張した<ref name=AFPBB20130425>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2940572?cx_amp=all&act=all |title=ウマイヤド・モスクの塔、戦闘で崩壊 シリア北部アレッポ |last= |first= |date=2013-04-25 |work=AFPBB News |access-date=2021-08-08|language= |issn=}}</ref>。

=== ハンマーム ===
[[File:Hammam Al-Nahhasseen Aleppo.jpg|thumb|ハンマーム]]
公衆浴場である[[ハンマーム]]も建設されている。イスラームでは日に5回の礼拝の前に身体を清めることが義務であるため、アレッポの中では歴史的に約50箇所が知られている{{Sfn|黒田|2016|p=103-104}}。18世紀中頃にはハンマームが49軒あり、そのうち32軒は中央スーク周辺、市壁の外にはバーンクーサーに7軒、北部に7軒、東部に3軒があった{{Sfn|黒田|2016|pp=54-55}}。かつては社交場としても使われていたが、1990年代の時点で使われているのは数カ所となっていた。タイル張りの広間、湯船、石製のベッドなどがあり、女性専用のハンマームもある{{Sfn|黒田|2016|p=103-104}}。

=== 市壁、市門 ===
[[File:Bab Qinnasrin2010.jpg|thumb|キンニスリーン門]]
旧市街の市壁には市門が敷設されている。ローマ時代の正方形の市壁と城門の多くは、イスラーム王朝においても残った。13世紀には新しい市壁によって市街が2倍に拡大し、オスマン帝国時代に市壁の外にも市街が広がり、旧市街との分割が進んでいった{{Sfn|余部|2010|p=110}}。

かつては約19の門があったとされるが、姿をとどめているのは3つか4つとなっている。イスラーム以前の[[ジャーヒリーヤ]]時代に建設されたサラーマ大門はアレッポの水源である{{仮リンク|クワイク川|en|Queiq}}の橋の上にあったが、962年のビザンツ帝国の攻撃で破壊された{{Sfn|黒田|2016|pp=85-86}}。

* {{仮リンク|アンターキーヤ門|en|Bab Antakeya}}:アレッポ城の真西に位置し、大通りの起点になっている。13世紀に[[アイユーブ朝]]が建設し、15世紀に[[マムルーク朝]]が修復した{{Sfn|黒田|2016|p=86}}。
* {{仮リンク|キンニスリーン門|en|Bab Qinnasrin}}:南西に位置し、かつては最も壮麗だといわれた。主邑のキンニスリーンへ行く際に通ったためにこの名で呼ばれた。10世紀にサイフッ=ダウラが建設または再建をしたとされ、1244年に[[サラーフッディーン]]の孫であるアル=マリク・アン=ナースィルが再建している{{Sfn|黒田|2016|pp=86-87}}。
* {{仮リンク|ハディード門|en|Bab al-Hadid}}:「鉄の門」という意味であり、鍛冶職人が多いバーンクーサー地区に通じるためにこの名が付いた。そのためバーンクーサー門とも呼ばれた。門が鉄造りだったという伝承もある{{Sfn|黒田|2016|pp=87-88}}。
* {{仮リンク|アフマル門|en|Bab al-Ahmar}}:「赤の門」という意味。正式な名称はこの門を作ったビザンツの大工の名を冠したバールージュ門だった。アレッポ砂漠の東方に位置するアル=ハムル村にちなんでアフマルと呼ばれるようになった{{Sfn|黒田|2016|p=87}}。
* {{仮リンク|ニイラブ門|en|Bab al-Nairab}}:アレッポに近い町であるニイラブに通じる{{Sfn|黒田|2016|p=87}}。
* {{仮リンク|マカーム門|en|Bab al-Maqam}}:「宿営の門」という意味で、[[アブラハム]]がここに滞在したという伝承にもとづく。ダマスカスへの道の起点にあたるため、ダマスカス門とも呼ばれる{{Sfn|黒田|2016|p=87}}。
* {{仮リンク|ジナーン門|en|Bāb Jnēn}}:「公園の門」の意味で、現地ではジュナイン門と呼ばれる。この門がクワイク川のジナーン・ハラブ(アレッポ公園)に通じていたことからこの名が付いた。詩人のイーサー・イブン・サアダーンはクワイク川とジナーン門を讃えた作品を残している{{Sfn|黒田|2016|p=89}}。
* {{仮リンク|ファラジュ門|en|Bab al-Faraj (Aleppo)}}:北西の端に位置し、「庭園の門」を意味する。アル=マリクッ=ザーヒルが建設したのちに閉鎖され、時計台が建てられた{{Sfn|黒田|2016|p=89}}。
* {{仮リンク|ナスル門|en|Bab al-Nasr (Aleppo)}}:「勝利の門」という意味で、18世紀のヨーロッパ人は聖ヨハネ門と呼んだ。門の内側にユダヤ人が住んでいたためにユダヤ門とも呼ばれた。アル=マリクッ=ザーヒルが豪華に改築したためにこの名が付いた{{Sfn|黒田|2016|pp=88-89}}。

== 都市の特徴 ==
[[File:MapAleppo 1912.jpg|thumb|1912年のアレッポの地図。楕円形のアレッポ城の西にスークが広がっている。]]
アレッポの旧市街は周囲に市壁がある。最古の市壁はアレッポ城を四角に囲むように造られていたが戦乱によって破壊された。市壁は何度か再建されており、ザンギー朝の[[ヌールッディーン]]、アイユーブ朝のアル=マリク・ザーヒル・ガージーらが行った。街が拡張された際には、それに合わせて市壁が造られていった{{Sfn|黒田|2016|p=85}}。18世紀以降に市壁の外に郊外が形成され、これがアレッポの新市街となった{{efn|新市街にもスークがあるが伝統的なスークとは異なり、ショッピングモールなどの大規模小売店舗が建設されている{{Sfn|寺阪|1990|p=3}}。}}。市壁と新市街は10メートルから30メートルの道路で区切られている。1905年に[[バグダード鉄道]]の開通によって駅が建設されると、1929年に駅からの[[路面電車]]が中央道路に敷設され、アフマル門の前まで路線が続いていた{{Sfn|松原|2009|p=890}}。しかし1960年代に廃止され、公共交通機関はバスが中心となった{{Sfn|寺阪|1990|p=3}}。

オスマン帝国から[[フランス委任統治領シリア]]になった際に、オスマニザシオンとも呼ばれる都市計画が始まった。1931年からシリア独立後の1975年にかけて計画が行われたが、都市保全運動の観点との齟齬があり、乱開発を許容するとしてアレッポ市に批判された{{efn|計画を行なった人物は[[ルネ・ダンジェ]]、[[ミッシェル・エコシャール]]、[[アンドレ・ギュトン]]、[[番匠谷尭二]]らだった{{Sfn|松原|2009|p=889}}。}}{{Sfn|松原|2009|p=889}}。

中央スークは市壁の内部にある。アンターキーヤ門から市壁の中に入ってアレッポ城に続く中央道が、中世には最も重要な通りだった。中央道の両側には迷路のような小路が張り巡らされている{{Sfn|黒田|2016|pp=90-91}}。直線的な道路は街を貫通するように通っている。この周囲は公的空間となっており、昼間は街の内外の人の出入りがしやすい。人々は昼間に日々の売買などの活動や礼拝を行い、夜になると門が閉められて内外の交通ができなくなる。留まりたい旅行者らはスークの中のハーンやカイサリーヤで宿泊できるが、夜になると鍵が閉められて街中には出られない。こうして内外の治安を保つようになっている{{Sfn|黒田|2016|pp=93-94}}。

=== 住民 ===
アレッポの人口は、ヨーロッパ人の記録によれば1599年に20万人から25万人、1683年は29万人、1753年は23万人だった。アレッポにおける歴史的な人口の増減は、中継貿易の盛衰とともに起きた{{Sfn|黒田|2016|pp=51-52}}。

アレッポは歴史的・地理的な特徴によって多様な民族や宗教共同体を抱えている。ビザンツ帝国時代にはキリスト教徒の地として主教座の1つだった。その後[[イスラーム]]王朝のもとで統治が続き、13世紀には[[シリア語]]に代わって[[アラビア語]]が日常語になっていった。十字軍の時代にはイスラームの少数派である[[アラウィー派]]や[[ドゥルーズ派]]や、[[クルド人]]、[[トルコ人]]、[[チェルケス人]]も住民に加わった。オスマン帝国の時代には宗教共同体の多様化が進んだ。イスラームでは[[スンニー派]]、[[シーア派]]、[[イスマーイール派]]、アラウィー派、ドゥルーズ派。キリスト教では[[シリア正教]]、{{仮リンク|シリア・カトリック|en|Syriac Catholic Church}}、アッシリア正教([[ネストリウス派]])、[[カルデア典礼カトリック教会]]、[[ギリシア正教]]、[[東方典礼カトリック教会]]、[[マロン派]]、[[アルメニア正教]]、{{仮リンク|アルメニア・カトリック|en|Armenian Catholic Church}}、{{仮リンク|アルメリア・プロテスタント|en|Armenian Evangelical Church}}、そして[[ユダヤ教]]があった。20世紀後半のアレッポでは旧市街と旧市街の東部や南部はイスラーム教徒が中心で、キリスト教徒は旧市街に接する地区に集中し、北部には[[アルメニア人]]が多かった{{efn|オスマン帝国による1915年の[[アルメニア人虐殺]]では、東部諸州からアレッポへの強制移住でも平均50%近い死者が出た。マラティアを出発した18,000人がアレッポに着いた時には150人に減っていた{{Sfn|松村|2002|pp=585, 591-592}}。}}{{Sfn|粟倉|1987|pp=75-76}}。

こうして民族や宗教共同体が分かれて住みつつも、市民が権力者に対して共同で直接行動をとる場合もあった{{Sfn|余部|2010|p=110}}。[[アッバース朝]]が衰退した10世紀頃から、ビザンツ帝国やファーティマ朝などの侵攻に対抗するために住民が活動し、短期間ながら[[自治都市]]となった時期もあった{{efn|ビザンツ帝国はアレッポをめぐってミルダース朝と[[アザーズの戦い (1030年)|アザーズの戦い]]を起こした。}}{{Sfn|余部|2010|p=110}}。18世紀以降のアレッポでは[[イェニチェリ]]が武装を許された集団として自立的な勢力となった{{efn|19世紀のイェニチェリは一般市民と異なる姿として、バーバリーの帽子に白モスリンのターバンを巻き、腰にハンジャルと呼ばれる長ナイフを身につけていた{{Sfn|黒木|1988|p=10}}。}}。他方でムハンマドの子孫とされる[[シャリーフ|アシュラーフ]]はアレッポに多く、有力者の多くがアシュラーフだった{{efn|アシュラーフは一般市民と異なる姿として、赤い帽子に緑色のターバンを巻きつけていた{{Sfn|黒木|1988|p=13}}。}}{{Sfn|黒木|1988|pp=12-13}}。イェニチェリとアシュラーフはしばしば衝突をしたが、権力者であるワーリーがアレッポ市民に重税を課した1819年には協力して反乱を起こした{{Sfn|黒木|1988|p=17}}。

11世紀には、都市の名士や有力な市民を指すライースと、武装した民衆組織を指すアフダースが登場した。名士は学識者、大規模農地所有者、貿易商や金融業者であり、中層の都市住民は職人や商人、下層の都市住民は皮なめし工、行商人、家内労働者、荷担ぎ、ゴミ運びなどだった{{Sfn|余部|2010|p=110}}。18世紀時点では、エリート層、中間層、下層に大きく分かれていた。多数を占める下層民は城壁の外の肉体労働者で、中間層は商人、職人、役人、徴税請負人、下級のウラマーで、エリート層は上級のウラマー、アーヤーン、政府官吏、商人、軍人、預言者の子孫などだった{{Sfn|飯野|2013|p=50}}。庶民層はアーンマ(al-‘āmma)、名士層はハーッサ(al-khāṣṣa)とも呼ばれた。この2つはライフスタイルが異なり、娯楽においては庶民層は公共スペースにある珈琲店ですごし、名士層は自らが所有する中庭式邸宅ですごした{{Sfn|飯野|2013|pp=51-52}}。

=== 中庭式住宅 ===
[[File:Aleppo old town 9822.jpg|thumb|中庭式住宅]]
イスラームの住宅の特徴である中庭式住宅がアレッポにもある。名士層が住む中庭式邸宅にはハウシュ(ḥawsh)と呼ばれる広い中庭があり、夕べの集まりの他に結婚披露宴も行われる重要な社交場となっていた。ハウシュは口語でホシュとも呼ばれ、中庭式住宅そのものをホシュと呼ぶ場合もある{{Sfn|飯野|2013|pp=51-53}}。中庭は外界から遮断されており、各部屋の窓や扉は中庭を囲む形で付けられている。この建築は他者の目から女性を保護し、一族の名誉を守るというイスラーム社会の通念に合致している{{Sfn|飯野|2013|p=54}}。

広い中庭では、夕べに名士の男性が交流するマジュリス(majlis)と呼ばれる集まりがあった。マジュリスは遅くとも10世紀には行われていた記録があり、[[アブル・ファラジュ・イスファハーニー]]の『{{仮リンク|歌の書|en|Kitab al-Aghani}}』に書かれている。マジュリスではコーヒーや水タバコ、菓子のクナーフェが振る舞われ、知識人である[[ウラマー]]による歴史の話や、詩作の発表が行われる文化サロンとしての側面もあった。マジュリスは21世紀のアレッポではサフラ(sahra)と呼ばれている{{Sfn|飯野|2013|pp=51-53}}。中庭式住宅を複数所有する裕福な一族では、男女が別々の中庭で宴を楽しんだ{{Sfn|飯野|2013|p=54}}。

=== 芸術 ===
アレッポは18世紀から19世紀には音楽の街としても知られるようになった。伝統的な歌謡のムワッシャフをはじめとする古典音楽や古典歌唱が盛んで、20世紀半ばまでは伝統的な形式にもとづいて創作が続いていた{{Sfn|飯野|2013|p=39}}。

マジュリスには楽師たちが呼ばれて演奏もした。歌い手と器楽奏者で構成されるアンサンブルで、古典詩のカスィーダを歌詞にした歌が中心だった。名士の中庭には名声のある歌手が集まっていた{{Sfn|飯野|2013|pp=53-54}}。イスラーム社会では男女が隔離されており、女性の集まりには女性の歌手が呼ばれて[[ハレム]]でもパフォーマンスを行った。結婚披露宴などに来る女性歌手はカイナ(qayna)で、口語ではハウジャ(khawja)またはホジャと呼ばれ、ムスリマの他にユダヤ人もいた{{Sfn|飯野|2013|p=54}}。


== 登録基準 ==
== 登録基準 ==
{{世界遺産基準|3|4}}
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=== 危機遺産への登録 ===
2013年の第37回世界遺産委員会では、シリア内戦の影響を受けて、シリア・アラブ共和国の6ヶ所の世界遺産を[[危機にさらされている世界遺産]]に登録することを決定した。「潜在的危機」の「武力衝突の勃発もしくは脅威」の基準に該当する{{Sfn|片瀬|2016|p=25}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{reflist}}
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
{{Notelist|2|}}

=== 出典 ===
{{Reflist|25em|}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Citation| 和書
* [[黒田美代子]] 『商人たちの共和国』 [[藤原書店]]、1995年。 - アレッポを中心にスークを研究した書
| author1= [[モハンマド・アラー・アルジャリール|アラー・アルジャリール]]
| author2= {{仮リンク|ダイアナ・ダーク|en|Diana Darke}}
| translator = 大塚敦子
| year = 2020
| title= シリアで猫を救う
| ref = {{sfnref|アルジャリール, ダーク|2020}}
| publisher= 講談社
| isbn=
}}(原書 {{Citation| 洋書
| last1 = Alaa
| first1 = Al-Jaleel
| last2 = Darke
| first2 = Diana
| year = 2019
| title = The Last Sanctuary in Aleppo: A remarkable true story of courage, hope and survival
| publisher = Headline
| isbn =
}})
* {{Cite journal|和書|author=粟倉宏子 |title=宗教共同体における音楽文化の構成 : アレッポのシリア正教会ウルファグループに関する一考察 |url=http://id.nii.ac.jp/1217/00012553/ |journal=中京大学教養論叢 |publisher=中京大学教養部 |year=1987 |month=jun |volume=28 |issue=1 |pages=73-93 |naid= |issn=02867982 |accessdate=2021-04-03 |ref={{sfnref|安倍|2017}}}}
* {{Cite journal|和書|author=飯野りさ |title=アレッポにおける歌謡の伝統の社会文化的構造:旧市街のムンシドと名士の関係に注目して |url=https://doi.org/10.24498/ajames.29.2_37 |journal=九州産業大学商經論叢 |publisher=日本中東学会 |year=2013 |month= |volume=29 |issue=2 |pages=37-65 |naid= |issn= |accessdate=2021-04-03 |ref={{sfnref|飯野|2013}}}}
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== 関連文献 ==
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* {{Cite journal|和書|author=粟倉宏子 |title=アレッポのマカームにみられる中間音程 : カーヌーンのウルバと関連して |url=http://id.nii.ac.jp/1217/00012539/ |journal=中京大学教養論叢 |publisher=中京大学教養部 |year=1987 |month=mar |volume=27 |issue=4 |pages=839-860 |naid= |issn=02867982 |accessdate=2021-04-03 |ref={{sfnref|安倍|2017}}}}
* {{Cite journal|和書|author=粟倉宏子 |title=アレッポのマカームにみられる中間音程 : カーヌーンのウルバと関連して |url=http://id.nii.ac.jp/1217/00012539/ |journal=中京大学教養論叢 |publisher=中京大学教養部 |year=1987 |month=mar |volume=27 |issue=4 |pages=839-860 |naid= |issn=02867982 |accessdate=2021-04-03 |ref={{sfnref|安倍|2017}}}}
* {{Citation| 和書
| author={{仮リンク|パトリック・キングズレー|en|Patrick Kingsley (journalist)}}
| translator = [[藤原朝子]]
| year = 2016
| title= シリア難民 人類に突きつけられた21世紀最悪の難問
| ref = {{sfnref|キングズレー|2016}}
| publisher= ダイヤモンド社
| isbn=
}}(原書 {{Citation| 洋書
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| first = Patrick
| year = 2016
| title = The New Odyssey: The Story of Europe's Refugee Crisis
| publisher =
| isbn =
}})
* {{Citation| 和書
| last = 末近
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| author-link = 末近浩太
| year = 2020
| title= 中東政治入門
| publisher= 筑摩書房
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| isbn=
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* {{Citation| 和書
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| last = 林
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| title = オスマン帝国 - 500年の平和
| publisher = 講談社
| series = 講談社学術文庫
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* {{Citation| 和書
| last = 東
| first = 大作
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| year = 2020
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== 外部リンク ==
{{Commons category|Ancient City of Aleppo}}
*[https://web.archive.org/web/20120315104152/http://www.udp-aleppo.org/?id=155 3-D Old Aleppo map]
*[http://www.esyria.sy/ealeppo/ Aleppo news and services (eAleppo)]
*[http://www.ovpm.org/en/syrian_arab_rep/aleppo/ Organization of World Heritage Cities]
*[http://collections.si.edu/search/results.jsp?date.slider=&date.slider=&date.slider=&q=ernst+herzfeld+&view=grid&fq=place:%22Aleppo+%28Syria%29%22 Ernst Herzfeld Papers, Series 5: Drawings and Maps, Records of Aleppo] Collections Search Center, S.I.R.I.S., Smithsonian Institution, Washington, D.C.
*[https://web.archive.org/web/20040817102050/http://www.saudiaramcoworld.com/issue/200402/suq.4000.years.behind.the.counter.in.aleppo.htm Louis Werner, ''4000 Years Behind the Counters in Aleppo'', 2004, Saudi Aramco World]


{{シリアの世界遺産}}
{{シリアの世界遺産}}

2021年9月10日 (金) 12:42時点における版

世界遺産 古代都市アレッポ
シリア
古代都市アレッポ
古代都市アレッポ
英名 Ancient City of Aleppo
仏名 Ancienne ville de Aleppo
登録区分 文化遺産
登録基準 (3),(4)
登録年 1986年
備考 危機遺産(2013年 - )
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

古代都市アレッポ(こだいとしアレッポ)は、シリアの北部にある都市アレッポに残る歴史的構造物が登録されたユネスコ世界遺産(文化遺産)である[1]

アレッポは、シリアの首都ダマスカスの北約300キロメートルにある都市で、トルコ国境に近くに位置する。古代都市アレッポの象徴として、紀元前10世紀に最初に建築されたアレッポ城、世界最古の市場の1つといわれるアル=マディーナ・スーク大モスクがある。アレッポはシリア第2の都市であり、考古学者が発掘を行う機会も限られている。

古代都市アレッポが含まれるアレッポ旧市街は、アレッポの人々によって「メディーネ」とも呼ばれる。アラビア語で都市や街を意味するマディーナが訛ったものである[2]。本記事では歴史的に密接に関連する旧市街についても記述する。

地理

アレッポの立地は、西は地中海から80キロメートル、東はユーフラテス川から80キロメートルの位置にあり、中継貿易に適している。このため歴史的に交易が行われてきた[3]

アレッポの歴史的な交通ルートは2つある。シリア砂漠の周縁を通るルートは紀元前8世紀頃からあり、ラクダが家畜として普及する前から使われていた。シリア砂漠を縦断するルートはラクダのキャラバンが主に使った。ラクダは当初はフタコブラクダで、紀元前8世紀頃からヒトコブラクダになった[4]。アレッポの交易は、西方はイスカンダルーンからの海上ルート、東方はバグダード、モースル、バスラ、そしてイランやインドへつながっていた。南方はダマスカス、パレスティナ、エジプト、アラビア半島へとつながっていた[5]

歴史

旧市街の小路。

アレッポの一帯は、ユーフラテス川と地中海方面をつなぐ交通の要衝であり、古くから商業都市として栄えた。この地での交易は紀元前3000年には行われており、紀元前2500年にはアッカド人の支配が始まった。最初の記録は紀元前20世紀であり、ヤムハド王国の首都として栄え、ハラプ(Ḥalab)やハルペと呼ばれていた[注釈 1][7]

紀元前1500年頃にヒッタイト人がアレッポを併合し、首都としての機能を失う。紀元前1000年頃にはアラムの支配下に入り、文化的・宗教的な都市として重要となった。紀元前1200年アッシリア紀元前605年カルデア紀元前538年アケメネス朝と支配者が移り変わり、紀元前333年マケドニア王国アレクサンドロス3世に征服された。アレクサンドロスの死後は将軍のセレウコ・ニカートル(セレウコス1世)が統治し、セレウコス朝の都市となった。セレウコス1世はこの都市をベロエア(Beroia)と改称し、セレウコス朝の支配は紀元前64年に共和政ローマの将軍グナエウス・ポンペイウスに征服されるまで続いた[8]

395年ローマ帝国の分裂以降はビザンツ帝国の領土となったが、イスラームを信仰するアラブ人636年にヤムルークでビザンツ軍に勝利し、同年にアレッポを征服した。この占領においては城塞の保存、教会や家屋の所有権の保証を含む和平協定が結ばれた。その後はイスラーム王朝の地方都市となり、944年モースルハムダーン朝に征服され首都となった[9]。ビザンツ帝国のヨハネス1世ツィミスケスは974年から987年にかけてアレッポの支配権を取り戻し、のちに再びハムダーン朝の支配下となった[9]。1025年から1080年にかけては短期間ながらミルダース朝英語版の首都となった[10]セルジューク朝時代の1100年と1103年にはビザンツ帝国の大規模な攻撃を受けたが、シリア・セルジューク朝のヌールッ=ディーン・ザンギーのもとでアレッポは繁栄した[9]

12世紀に十字軍の侵攻が始まると、アレッポは前線となった。神殿だった建築物は要塞化されてアレッポ城になった。アレッポは1098年と1124年に十字軍に包囲されたが、陥落はしなかった。テュルク系のアタベク政権であるアルトゥク朝ザンギー朝の支配を経て、アイユーブ朝を開いたクルド人将軍サラーフッディーンにより1183年に開城された。アイユーブ朝はヴェネツィア共和国などの諸国との貿易で利益をあげ、アレッポに還元された。アイユーブ朝の時代に運河が整備され、スーク、モスク、マドラサ、病院、司法施設のダール=ル=アドゥルなども充実していった[9]

モンゴル帝国フレグが1260年にアレッポを征服し、破壊と虐殺を行った。フレグが建国したイルハン朝は後継争いが起き、バイバルスが率いるマムルーク朝がアレッポを支配下に置いたが、アレッポは戦乱で人口が激減しており復旧までに1世紀がかかった[注釈 2][12]。1400年にはティムールによる破壊も受けた[13]

15世紀までの東方の交易は、ダマスカスがアレッポに対して優位にあった。その理由は、ウマイヤ朝以来ダマスカスが政治的に優位にあった点、ダマスカスがハッジ(メッカ巡礼)の出発点であった点、ダマスカスのルートは周辺が政情不安定な時期も比較的安全だった点などがある。15世紀以降はアレッポの交易が優勢になっていった[14]。内陸にある点が有利に働く場合もあった。十字軍によって海岸沿いの都市が被害を受けたときも無事であり、海岸沿いにめぐっていたキャラバンが内陸へとルートを変更してアレッポの繁栄につながった[15]

1517年、オスマン帝国セリム1世によってアレッポは無血開城した。それ以降の400年近く、アレッポはオスマン帝国の州都となった。17世紀から18世紀にかけてはヨーロッパとのレヴァント貿易で繁栄したが、1778年の凶作、オスマン帝国の弱体化による交易路での盗賊行為の増加、1787年のペスト流行による17万人ともいわれる人口激減、伝統的な毛織物貿易の終了も影響を与えた[16]。1822年には大地震が起き、1832年のエジプトの占領による重税などで衰退が続いた[注釈 3][18]

国内の交易で繁栄を保っていたが、2011年にシリアで発生した内戦はアレッポにも及び、2012年9月28日に政府軍と反体制派の戦闘によりスークにて火災が起きた。700軒から1,000軒が被害を受け、歴史的な店舗の大半は消失した[19]

主な構造物

アレッポ城

アレッポ城

紀元前10世紀に築造された神殿を原型とする古城。古代から城塞だった東端の丘は10世紀に城壁で囲まれ、宮殿や官庁が建設された[20]。たび重なる戦争の歴史のなかで、しだいに城砦化していった。12世紀には十字軍の侵略に際して改築された[21]

周囲2.5キロメートルで、深さ20メートル、幅30メートルの濠に囲まれ、城門には防衛用の熱油落としなどがあった。城内には地下牢、モスク、アイユーブ朝時代の宮殿などが残っている[22]

スーク

アレッポのスーク

世界最古ともいわれるアル=マディーナ・スークがある。イスラーム王朝時代に、ローマ時代の東西列柱大通りは平行する細い通りに分割されてスークになった[20]。建物全体が屋根に覆われて天窓があいており、日用品から高級品、専門品や中古品まで取引されている。小売と卸売を兼ねている店や、手工業製品の製造小売なども行われており、アレッポを訪れる多くの観光客向けの店舗もある[23]。スークは商業施設だけでなく、その中にモスク、学院、公衆浴場などを含む社交や情報交換、娯楽の場でもあった[24]

オスマン帝国時代に交易拠点として特権的な地位を得たアレッポは、商圏を拡大してヴェネツィアの他フランスの、イギリスのレヴァント会社英語版[注釈 4]、オランダとも取引をした。フランスの海運が衰退する1775年以降は次第に貿易が減少した[18]。17世紀から18世紀にはスークがアレッポの中心部となり、37のスークがあった。商品は布地、石鹸、靴、スパイス、宝石、陶器、香水、薬、ピンや釘、小銃、時計、卵やチーズなどで、卸売と小売が行われていた。この他にもアレッポ北東には6つの卸売市場や、その他の地区に羊を扱う卸売場など8つのスークがあった[26]。綿織物産業はイギリス製品のキャラコやブロードとの競争で減少し、絹織物もヨーロッパの生産が増えたためにアレッポは生糸の輸出へと変わっていった[27]。オスマン帝国がヨーロッパ諸国に与えた特権であるカピチュレーションもアレッポにとって打撃となった[27]。手工業製品は、織物、金糸や銀糸を刺繍をした絹布、染色した綿布、アレッポ石鹸などがある[27]。社会主義体制をとるシリア・アラブ共和国の成立後は衣料品を中心として卸売が失われた[23]

アレッポの衣料品のスーク

20世紀以降のアレッポは首都のダマスカスに次ぐシリアの都市として経済活動が活発だった[注釈 5][28]。往時の繁栄の面影を留めてきたが、2012年以降の内戦によってスークの3分の1 が破壊された。復旧が進んでいるが、内戦前の客だった人々の多くが国外に出たり、観光客がいなくなった影響で売り上げは回復していない。スーク全体の再建には数千万ドルが必要ともいわれるが、内戦によるシリアへの経済制裁で欧米からの資金提供が困難なことも作業が遅れる一因となっている[29]

ハーン、カイサリーヤ

ハーンは商人の宿にあたり、キャラバンがここで荷物を降ろして取引が行われた。中庭式の2階建てで、1階は取引所、倉庫、ラクダやロバの厩、管理人や使用人の住居だった。2階は商人をはじめ客人の宿泊部屋になっており、定刻で開閉される[30]

18世紀には61軒のハーンがあり、そのうち20軒は中央スークにあり、27軒がその付近にあった[26]。もとのハーンは固有の商品を扱うスークに付設していた。次第に独自の機能を果たすようになっていき、20世紀後半には宿泊所としての機能は失われていった[30]

カイサリーヤはアレッポにおいては複数の機能の建物の集合について表現する語だった。中世においては高価な商品を扱う門がついたスークも指したが、時代が進むについて宿泊施設を指すようになった[31]

マドラサ

マドラサはイスラームの伝統的な諸学を学ぶための施設を指す。アレッポは学芸を振興した君主が多く、100近くのマドラサが知られている[24]。現存する最古のものは、1168年に建築されたマドラサ・ムカッダミーヤ英語版になる[32]

モスク、ザーウィヤ

アレッポの大モスクの中庭。奥に見えるミナレットは内戦で破壊された。

大小百数十のモスクがあり、アレッポの大モスクやナフラミーヤ・モスク、ジャミーヤ・ザカリーヤと呼ばれる大モスクが知られている[33]。イスラーム王朝の征服時に、中心部の広場にダマスカスのウマイヤ・モスクと同様にアレッポの大モスクが建設された[20]アレッポの大モスクの建築様式は他のモスクの手本になったともいわれる。ザーウィヤはスーフィー的な傾向の人々のための集会所を指し、宗教的知識の交換や儀礼が行われている[24]

12世紀から15世紀にかけて、ワクフによる宗教施設の建設が増加した。設立の中心になったのは、アレッポの支配者に仕えた者や、アレッポに利害関係を持つ者たちだった。アレッポの支配者であるカリフやスルターンらは設立に関わった数が少ないため、これらの支配者が名目的な宗主権だけを持っていたことを表している[34]。18世紀中頃には、250以上のモスクや、30以上のスーフィーの道場があった[35]

大モスクは8世紀に破壊されたのち13世紀に再建された。しかしシリア内戦による2013年4月24日の戦闘でミナレットが破壊され、預言者ムハンマドの髪が入っていたと伝えられる箱を含め遺物が略奪された。シリア政府軍と反政府側アル=ヌスラ戦線や反政府活動家は、破壊の原因が相手側にあると互いに主張した[36]

ハンマーム

ハンマーム

公衆浴場であるハンマームも建設されている。イスラームでは日に5回の礼拝の前に身体を清めることが義務であるため、アレッポの中では歴史的に約50箇所が知られている[37]。18世紀中頃にはハンマームが49軒あり、そのうち32軒は中央スーク周辺、市壁の外にはバーンクーサーに7軒、北部に7軒、東部に3軒があった[35]。かつては社交場としても使われていたが、1990年代の時点で使われているのは数カ所となっていた。タイル張りの広間、湯船、石製のベッドなどがあり、女性専用のハンマームもある[37]

市壁、市門

キンニスリーン門

旧市街の市壁には市門が敷設されている。ローマ時代の正方形の市壁と城門の多くは、イスラーム王朝においても残った。13世紀には新しい市壁によって市街が2倍に拡大し、オスマン帝国時代に市壁の外にも市街が広がり、旧市街との分割が進んでいった[20]

かつては約19の門があったとされるが、姿をとどめているのは3つか4つとなっている。イスラーム以前のジャーヒリーヤ時代に建設されたサラーマ大門はアレッポの水源であるクワイク川英語版の橋の上にあったが、962年のビザンツ帝国の攻撃で破壊された[38]

  • アンターキーヤ門英語版:アレッポ城の真西に位置し、大通りの起点になっている。13世紀にアイユーブ朝が建設し、15世紀にマムルーク朝が修復した[39]
  • キンニスリーン門英語版:南西に位置し、かつては最も壮麗だといわれた。主邑のキンニスリーンへ行く際に通ったためにこの名で呼ばれた。10世紀にサイフッ=ダウラが建設または再建をしたとされ、1244年にサラーフッディーンの孫であるアル=マリク・アン=ナースィルが再建している[40]
  • ハディード門英語版:「鉄の門」という意味であり、鍛冶職人が多いバーンクーサー地区に通じるためにこの名が付いた。そのためバーンクーサー門とも呼ばれた。門が鉄造りだったという伝承もある[41]
  • アフマル門英語版:「赤の門」という意味。正式な名称はこの門を作ったビザンツの大工の名を冠したバールージュ門だった。アレッポ砂漠の東方に位置するアル=ハムル村にちなんでアフマルと呼ばれるようになった[42]
  • ニイラブ門英語版:アレッポに近い町であるニイラブに通じる[42]
  • マカーム門英語版:「宿営の門」という意味で、アブラハムがここに滞在したという伝承にもとづく。ダマスカスへの道の起点にあたるため、ダマスカス門とも呼ばれる[42]
  • ジナーン門英語版:「公園の門」の意味で、現地ではジュナイン門と呼ばれる。この門がクワイク川のジナーン・ハラブ(アレッポ公園)に通じていたことからこの名が付いた。詩人のイーサー・イブン・サアダーンはクワイク川とジナーン門を讃えた作品を残している[43]
  • ファラジュ門英語版:北西の端に位置し、「庭園の門」を意味する。アル=マリクッ=ザーヒルが建設したのちに閉鎖され、時計台が建てられた[43]
  • ナスル門英語版:「勝利の門」という意味で、18世紀のヨーロッパ人は聖ヨハネ門と呼んだ。門の内側にユダヤ人が住んでいたためにユダヤ門とも呼ばれた。アル=マリクッ=ザーヒルが豪華に改築したためにこの名が付いた[44]

都市の特徴

1912年のアレッポの地図。楕円形のアレッポ城の西にスークが広がっている。

アレッポの旧市街は周囲に市壁がある。最古の市壁はアレッポ城を四角に囲むように造られていたが戦乱によって破壊された。市壁は何度か再建されており、ザンギー朝のヌールッディーン、アイユーブ朝のアル=マリク・ザーヒル・ガージーらが行った。街が拡張された際には、それに合わせて市壁が造られていった[45]。18世紀以降に市壁の外に郊外が形成され、これがアレッポの新市街となった[注釈 6]。市壁と新市街は10メートルから30メートルの道路で区切られている。1905年にバグダード鉄道の開通によって駅が建設されると、1929年に駅からの路面電車が中央道路に敷設され、アフマル門の前まで路線が続いていた[47]。しかし1960年代に廃止され、公共交通機関はバスが中心となった[46]

オスマン帝国からフランス委任統治領シリアになった際に、オスマニザシオンとも呼ばれる都市計画が始まった。1931年からシリア独立後の1975年にかけて計画が行われたが、都市保全運動の観点との齟齬があり、乱開発を許容するとしてアレッポ市に批判された[注釈 7][48]

中央スークは市壁の内部にある。アンターキーヤ門から市壁の中に入ってアレッポ城に続く中央道が、中世には最も重要な通りだった。中央道の両側には迷路のような小路が張り巡らされている[32]。直線的な道路は街を貫通するように通っている。この周囲は公的空間となっており、昼間は街の内外の人の出入りがしやすい。人々は昼間に日々の売買などの活動や礼拝を行い、夜になると門が閉められて内外の交通ができなくなる。留まりたい旅行者らはスークの中のハーンやカイサリーヤで宿泊できるが、夜になると鍵が閉められて街中には出られない。こうして内外の治安を保つようになっている[49]

住民

アレッポの人口は、ヨーロッパ人の記録によれば1599年に20万人から25万人、1683年は29万人、1753年は23万人だった。アレッポにおける歴史的な人口の増減は、中継貿易の盛衰とともに起きた[50]

アレッポは歴史的・地理的な特徴によって多様な民族や宗教共同体を抱えている。ビザンツ帝国時代にはキリスト教徒の地として主教座の1つだった。その後イスラーム王朝のもとで統治が続き、13世紀にはシリア語に代わってアラビア語が日常語になっていった。十字軍の時代にはイスラームの少数派であるアラウィー派ドゥルーズ派や、クルド人トルコ人チェルケス人も住民に加わった。オスマン帝国の時代には宗教共同体の多様化が進んだ。イスラームではスンニー派シーア派イスマーイール派、アラウィー派、ドゥルーズ派。キリスト教ではシリア正教シリア・カトリック英語版、アッシリア正教(ネストリウス派)、カルデア典礼カトリック教会ギリシア正教東方典礼カトリック教会マロン派アルメニア正教アルメニア・カトリック英語版アルメリア・プロテスタント英語版、そしてユダヤ教があった。20世紀後半のアレッポでは旧市街と旧市街の東部や南部はイスラーム教徒が中心で、キリスト教徒は旧市街に接する地区に集中し、北部にはアルメニア人が多かった[注釈 8][52]

こうして民族や宗教共同体が分かれて住みつつも、市民が権力者に対して共同で直接行動をとる場合もあった[20]アッバース朝が衰退した10世紀頃から、ビザンツ帝国やファーティマ朝などの侵攻に対抗するために住民が活動し、短期間ながら自治都市となった時期もあった[注釈 9][20]。18世紀以降のアレッポではイェニチェリが武装を許された集団として自立的な勢力となった[注釈 10]。他方でムハンマドの子孫とされるアシュラーフはアレッポに多く、有力者の多くがアシュラーフだった[注釈 11][55]。イェニチェリとアシュラーフはしばしば衝突をしたが、権力者であるワーリーがアレッポ市民に重税を課した1819年には協力して反乱を起こした[56]

11世紀には、都市の名士や有力な市民を指すライースと、武装した民衆組織を指すアフダースが登場した。名士は学識者、大規模農地所有者、貿易商や金融業者であり、中層の都市住民は職人や商人、下層の都市住民は皮なめし工、行商人、家内労働者、荷担ぎ、ゴミ運びなどだった[20]。18世紀時点では、エリート層、中間層、下層に大きく分かれていた。多数を占める下層民は城壁の外の肉体労働者で、中間層は商人、職人、役人、徴税請負人、下級のウラマーで、エリート層は上級のウラマー、アーヤーン、政府官吏、商人、軍人、預言者の子孫などだった[57]。庶民層はアーンマ(al-‘āmma)、名士層はハーッサ(al-khāṣṣa)とも呼ばれた。この2つはライフスタイルが異なり、娯楽においては庶民層は公共スペースにある珈琲店ですごし、名士層は自らが所有する中庭式邸宅ですごした[58]

中庭式住宅

中庭式住宅

イスラームの住宅の特徴である中庭式住宅がアレッポにもある。名士層が住む中庭式邸宅にはハウシュ(ḥawsh)と呼ばれる広い中庭があり、夕べの集まりの他に結婚披露宴も行われる重要な社交場となっていた。ハウシュは口語でホシュとも呼ばれ、中庭式住宅そのものをホシュと呼ぶ場合もある[59]。中庭は外界から遮断されており、各部屋の窓や扉は中庭を囲む形で付けられている。この建築は他者の目から女性を保護し、一族の名誉を守るというイスラーム社会の通念に合致している[60]

広い中庭では、夕べに名士の男性が交流するマジュリス(majlis)と呼ばれる集まりがあった。マジュリスは遅くとも10世紀には行われていた記録があり、アブル・ファラジュ・イスファハーニーの『歌の書英語版』に書かれている。マジュリスではコーヒーや水タバコ、菓子のクナーフェが振る舞われ、知識人であるウラマーによる歴史の話や、詩作の発表が行われる文化サロンとしての側面もあった。マジュリスは21世紀のアレッポではサフラ(sahra)と呼ばれている[59]。中庭式住宅を複数所有する裕福な一族では、男女が別々の中庭で宴を楽しんだ[60]

芸術

アレッポは18世紀から19世紀には音楽の街としても知られるようになった。伝統的な歌謡のムワッシャフをはじめとする古典音楽や古典歌唱が盛んで、20世紀半ばまでは伝統的な形式にもとづいて創作が続いていた[61]

マジュリスには楽師たちが呼ばれて演奏もした。歌い手と器楽奏者で構成されるアンサンブルで、古典詩のカスィーダを歌詞にした歌が中心だった。名士の中庭には名声のある歌手が集まっていた[62]。イスラーム社会では男女が隔離されており、女性の集まりには女性の歌手が呼ばれてハレムでもパフォーマンスを行った。結婚披露宴などに来る女性歌手はカイナ(qayna)で、口語ではハウジャ(khawja)またはホジャと呼ばれ、ムスリマの他にユダヤ人もいた[60]

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

危機遺産への登録

2013年の第37回世界遺産委員会では、シリア内戦の影響を受けて、シリア・アラブ共和国の6ヶ所の世界遺産を危機にさらされている世界遺産に登録することを決定した。「潜在的危機」の「武力衝突の勃発もしくは脅威」の基準に該当する[63]

脚注

注釈

  1. ^ 12世紀の旅行家イブン・ジュバイルは、アレッポを訪れたのちにハラブの語源について逸話を書いている。それによると、アブラハムが羊の群れを連れてこの地にしばしば来ており、丘の上で羊の乳を絞って皆に分け与えていた。そのためアラビア語で乳を意味するハラブが地名になったとされる[6]
  2. ^ マムルーク朝時代のアレッポの資料として、イブン・ハティーブ・アンナスィリーヤの『アレッポ史における選り抜きの真珠』やスィブト・イブン・アルアジャミー英語版の『アレッポ史における黄金の蔵』がある[11]
  3. ^ 20世紀までのアレッポの歴史は、アレッポの歴史家タッバーフが『アレッポ史における貴顕達の情報』(1988年)にまとめている[17]
  4. ^ レヴァント会社とアレッポの取引は、17世紀後半から18世紀前半に最盛期となり、生糸と毛織物の交換が中心だった[25]
  5. ^ 1981年のシリアの卸売・小売・飲食店・ホテル事業所数は全国113,820のうちアレッポに25,752、ダマスカスに21,841だった。卸売業は全国4,593のうちアレッポに961、ダマスカスに830。小売業は全国100,615のうちアレッポに23,170、ダマスカスに18,606だった。人口ではダマスカスが1位、商店数においてはアレッポが1位だった[28]
  6. ^ 新市街にもスークがあるが伝統的なスークとは異なり、ショッピングモールなどの大規模小売店舗が建設されている[46]
  7. ^ 計画を行なった人物はルネ・ダンジェミッシェル・エコシャールアンドレ・ギュトン番匠谷尭二らだった[48]
  8. ^ オスマン帝国による1915年のアルメニア人虐殺では、東部諸州からアレッポへの強制移住でも平均50%近い死者が出た。マラティアを出発した18,000人がアレッポに着いた時には150人に減っていた[51]
  9. ^ ビザンツ帝国はアレッポをめぐってミルダース朝とアザーズの戦いを起こした。
  10. ^ 19世紀のイェニチェリは一般市民と異なる姿として、バーバリーの帽子に白モスリンのターバンを巻き、腰にハンジャルと呼ばれる長ナイフを身につけていた[53]
  11. ^ アシュラーフは一般市民と異なる姿として、赤い帽子に緑色のターバンを巻きつけていた[54]

出典

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  61. ^ 飯野 2013, p. 39.
  62. ^ 飯野 2013, pp. 53–54.
  63. ^ 片瀬 2016, p. 25.

参考文献

関連文献

外部リンク