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* 東北楽天ゴールデンイーグルス (2015 - )
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'''ケネス・アラン・レイ'''('''Kenneth Alan Ray''', [[1974年]][[11月27日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[ジョージア州]][[アトランタ]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]])。現在は、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]に所属している。
'''ケネス・アラン・レイ'''('''Kenneth "Kenny" Alan Ray''', [[1974年]][[11月27日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[ジョージア州]][[アトランタ]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]])。現在は、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]に所属している。


[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]時代は「'''ケン・レイ'''」('''Ken Ray''')、[[中華職業棒球大聯盟]]時代は「'''銳'''」という登録名でプレーしていた。
[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]時代は「'''ケン・レイ'''」('''Ken Ray''')、[[中華職業棒球大聯盟]]時代は「'''銳'''」という登録名でプレーしていた。

2015年4月24日 (金) 12:10時点における版

ケニー・レイ
Kenny Ray
東北楽天ゴールデンイーグルス #12
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ジョージア州アトランタ
生年月日 (1974-11-27) 1974年11月27日(49歳)
身長
体重
188 cm
92 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1993年 MLBドラフト18巡目
初出場 MLB / 1999年7月10日
KBO / 2008年6月14日
CPBL / 2010年3月23日
NPB / 2013年7月17日
最終出場 MLB / 2006年9月30日
KBO / 2008年7月10日
CPBL / 2014年8月28日
年俸 1200万円(2015年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ケネス・アラン・レイKenneth "Kenny" Alan Ray, 1974年11月27日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ出身のプロ野球選手投手)。現在は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属している。

メジャー時代は「ケン・レイ」(Ken Ray)、中華職業棒球大聯盟時代は「」という登録名でプレーしていた。

来歴・人物

ロズウェル高校出身。

プロ入りとマイナー時代とロイヤルズ時代

1993年のMLBドラフトカンザスシティ・ロイヤルズに18巡目で指名され[1]契約を結んだ。この年は、傘下ルーキーリーグのガルフ・コースト・リーグ・ロイヤルズで13試合(7試合で先発)登板し、2勝3負、防御率2.28、45奪三振を記録した[1]

1994年は開幕を、傘下Aのロックフォード・ロイヤルズで迎えた。この年は、27試合(18試合で先発)登板し、10勝4負3セーブ、防御率1.82、128奪三振を記録している[1]

1995年は開幕を、傘下アドバンスAのウィルミントン・ブルーロックスで迎えた。ここでは、13試合に先発登板し、6勝4負、防御率2.69、63奪三振を記録している[1]。その後、傘下AAのウィチタ・ランングラーズへ昇格した。ここでは、14試合に先発登板し、4勝5負、防御率5.97、53奪三振を記録した[1]

1996年は開幕を前年同様に、傘下アドバンスAで迎えた。この年は、22試合に先発登板し、4勝12負、防御率6.12、79奪三振を記録した[1]

1997年は開幕を、傘下AAAのオマハ・ストームチェイサーズで迎えた。この年は、25試合(21試合で先発)登板し、5勝12負、防御率6.37、96奪三振を記録した[1]

1998年は開幕を、傘下AAで迎えた。この年は、24試合(21試合で先発)登板し、10勝5負、防御率5.20、71奪三振を記録した[1]

1999年7月10日の対ヒューストン・アストロズ戦(カウフマン・スタジアム)で、9回表から2番手として登板しメジャーデビューを果たした。結果は1イニングを投げて無失点だった。この年は、メジャーで13試合に登板し、1勝0負、防御率8.74、を記録した。マイナーでは、傘下AAと傘下AAAで、計41試合に登板し、1勝0負15セーブ、防御率5.15、54奪三振を記録した[1]

ジャイアンツ傘下時代

2000年は、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結んだ。この年は開幕を、傘下AAAのフレズノ・グリズリーズで迎えた。ここでは、7試合に登板した[1]

2001年は、どこの球団でもプレーしていない。

ゴールドソックス時代

2002年は、独立リーグのユバ・シューター・ゴールドソックスで12試合に登板し、2勝0負3セーブ、防御率2.38、11奪三振を記録した[1]

ダックス時代

2002年シーズン途中に、独立リーグであるアトランティックリーグロングアイランド・ダックスへ移籍した。ここでは、4試合に登板した[1]

ブルワーズ傘下時代

2003年は、ミルウォーキー・ブルワーズとマイナー契約を結んだ。開幕を、傘下アドバンスAのハイデザート・マーベリックスで迎えた。ここでは、7試合に登板し、1勝1負、防御率7.71、18奪三振を記録した[1]。その後、傘下AAのハンツビル・スターズ(現:ビロクシ・シャッカーズ)へ昇格した。ここでは、31試合に登板し、2勝1負4セーブ、防御率2.93、4セーブを記録した[1]

ホワイトソックス傘下時代

2004年は、シカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約を結んだ。開幕を、傘下アドバンスAのウィンストン・セイラム・ダッシュで迎えた。この年は、29試合(18試合で先発)登板し、12勝8負1セーブ、防御率4.08、99奪三振を記録した[1]

スピリット時代

2005年は、独立リーグであるカナディアン・アメリカン・リーグノースショア・スピリットと契約を結んだ。ここでは、3試合に登板した[1]

ブレーブス時代

2005年シーズン途中に、アトランタ・ブレーブスとマイナー契約を結んだ。この年は、傘下AAAのリッチモンド・ブレーブス(現:グウィネット・ブレーブス)で、17試合(10試合で先発)登板し、2勝4負、防御率3.90、40奪三振を記録した[1]

2006年は開幕を、傘下AAAで迎えた。4月6日に、ホラシオ・ラミレス怪我にともない、7年ぶりにメジャー復帰を果たした。同年は、69試合に登板した。しかし、オフにウェーバーにかけられた。

ロイヤルズ復帰

2006年オフに、古巣のカンザスシティ・ロイヤルズに復帰する。

2007年は開幕を、傘下AAAのオマハ・ストームチェイサーズで迎えた。ここでは、35試合に登板し、3勝4負2セーブ、防御率4.15、58奪三振を記録した[1]。8月18日に、解雇される。

ブルワーズ復帰

2007年8月30日に、古巣のミルウォーキー・ブルワーズと契約を結んだ。ここでは、傘下AAAのナッシュビル・サンズで、2試合に登板した[1]

メキシカンリーグ時代

2008年は、メキシカンリーグティファナ・コルツ(現:ティファナ・ブルズ)と契約を結んだ。ここでは、13試合に先発登板し、6勝3負、防御率3.65、61奪三振を記録した[1]

ワイバーンズ時代

2008年シーズン途中に、KBOSKワイバーンズへ移籍した。ここでは、5試合(4試合で先発)登板し、1勝2負、防御率6.64、11奪三振を記録した[1]

ダックス復帰

2009年は、アトランティックリーグの古巣ロングアイランド・ダックスと契約を結んだ。ここでは、6試合に先発登板し、4勝0負、防御率3.00、28奪三振を記録した[1]

インディアンズ傘下時代

2009年5月27日に、クリーブランド・インディアンズとマイナー契約を結んだ。傘下AAAのコロンバス・クリッパーズで20試合(15試合で先発)登板し、2勝10負、防御率6.90、68奪三振を記録した[1]

ベアーズ時代

2010年CPBLLa Newベアーズと契約。先発投手として起用され、同年は7勝8敗ながら防御率2.32を記録した。

2011年には13勝10敗、防御率2.85と活躍した。

2012年は7勝7敗、防御率3.90と低迷し、同年限りで退団。

ライオンズ時代

2013年は、メキシカンリーグのユカタン・ライオンズと契約を結んだ。ここでは、12試合に先発登板し、7勝3敗、防御率2.74、80奪三振を記録した[1]

楽天時代

2013年6月14日、東北楽天ゴールデンイーグルスとの契約が発表された[2]

9月10日、対千葉ロッテマリーンズ戦にて登板、2回裏に鈴木大地の打球を顔面に受け負傷退場、診断の結果は右頬骨骨折[3]。ポストシーズンに入り、復帰してからはバットマンのようなフェイスガードを装着しながら登板した。日本シリーズ第3戦では負傷降板した美馬学の後を受け好救援、勝利に貢献した[4]。オフの12月2日に自由契約となった[5]

モンキーズ復帰

2014年2月16日、古巣・Lamigoモンキーズと契約し、2年ぶりに台湾球界復帰となった[6]

2014年に、東北楽天ゴールデンイーグルスの秋季キャンプにテスト生として元同僚ジム・ハウザーと共に参加した[7]

楽天復帰

2015年1月26日に、ハウザーと共に契約合意が発表された。背番号は2013年シーズンと同じ42となった[8]。しかし、3月9日に楽天へ入団したウィリー・モー・ペーニャが背番号42を希望したため、レイの背番号は12に変更された[9]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1999 KC 13 0 0 0 0 1 0 0 0 1.000 57 11.1 23 2 6 0 1 0 0 0 12 11 8.74 2.56
2006 ATL 69 0 0 0 0 1 1 5 7 .500 299 67.2 66 9 38 4 0 50 0 0 36 34 4.52 1.54
2008 SK 5 5 0 0 0 1 2 0 0 .333 98 20.1 26 1 15 0 0 11 1 0 15 15 6.64 2.02
2010 La New
Lamigo
25 24 1 0 0 7 8 0 1 .467 670 162.2 151 4 51 0 6 128 9 0 60 42 2.32 1.24
2011 29 27 3 1 1 13 10 0 0 .565 753 183.0 167 3 36 0 6 150 5 1 80 58 2.85 1.11
2012 18 18 1 0 0 7 7 0 0 .500 468 108.1 122 1 28 0 7 78 3 1 56 47 3.90 1.38
2013 楽天 5 3 0 0 0 0 1 0 0 .000 81 19.1 13 2 10 0 0 10 0 0 10 7 3.26 1.19
2014 Lamigo 17 17 0 0 0 9 5 0 0 .643 420 103.2 95 3 29 0 2 72 5 0 33 25 2.17 1.20
MLB:2年 82 0 0 0 0 2 1 5 7 .667 356 79.0 89 11 44 4 1 50 0 0 48 45 5.13 1.68
KBO:1年 5 5 0 0 0 1 2 0 0 .333 98 20.1 26 1 15 0 0 11 1 0 15 15 6.64 2.02
CPBL:4年 89 86 5 1 1 36 30 0 1 .545 2311 557.2 535 11 144 0 21 428 22 2 229 172 2.78 1.22
NPB:1年 5 3 0 0 0 0 1 0 0 .000 81 19.1 13 2 10 0 0 10 0 0 10 7 3.26 1.19
  • 2014年度シーズン終了時
  • La New(La Newベアーズ)は、2011年にLamigo(Lamigoモンキーズ)に球団名を変更
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

NPB

背番号

  • 57 (1999年)
  • 38 (2006年)
  • 68 (2008年)
  • 40 (2010年 - 2012年、2014年)
  • 42 (2013年、2015年楽天入団時 - 3月9日)
  • 12 (2015年3月9日 - )

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x Baseball Reference (Minors)
  2. ^ ケニー・レイ選手との契約合意に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2013年6月14日). 2013年6月14日閲覧。
  3. ^ 【楽天】レイ、ライナー直撃で病院送り”. nikkansports.com  (2013年9月10日). 2013年9月10日閲覧。
  4. ^ 【楽天】窮地救った「バットマン」緊急登板に動じぬ楽天・レイ”. asahi.com  (2013年10月29日). 2013年10月29日閲覧。
  5. ^ 2013年度 自由契約選手”. 日本野球機構 (2013年12月2日). 2014年1月16日閲覧。
  6. ^ 超級2霸 銳與Lamigo再續球緣”. Lamigoモンキーズ  (2014年2月16日). 2014年2月17日閲覧。
  7. ^ 【楽天】“日本一助っ人”レイ&ハウザーをテスト”. スポーツ報知 (2014年11月12日). 2015年3月9日閲覧。
  8. ^ 【ケニー・レイ&ジム・ハウザー】契約合意に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2015年1月26日). 2015年1月26日閲覧。
  9. ^ 楽天ペーニャ、オリと同じ背番号「42」”. 日刊スポーツ (2015年3月4日). 2015年3月8日閲覧。

関連項目

外部リンク