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{{レーシングカー
予選初日、午前の第1セッションで1分13秒88で4番手タイムを記録。無名地元チームの快走はにわかに注目され、セッション終了後に急遽開かれた記者会見では、外国人記者から「ホンダかトヨタが支援しているのか?」と質問された。午後の第2セッションでは[[ポールポジション]]を目指してコースインし、[[スリップストリーム]]を利用して1分12秒代前半のタイムを狙った。しかし、最終コーナーで左前輪のアッパーアームが折れ(予選時に折れたアッパーアームが決勝時に折れなかったのは、ヘビーレインのコンディションだった事、並びに、ステアリングラックが歪んで、直進さえ難しい状態で有った為、最終コーナーで予選時の様なGが掛からなかった為ではないかと推測される)タイヤバリアに激突し大破。以後の予選は不出走となり、最終的に予選順位は10番手に終わる。
|マシン名 = コジマ・KE007
|画像 =
|画像説明 =
|カテゴリー = [[フォーミュラ1|F1]]
|コンストラクター=[[コジマエンジニアリング|コジマ]]
| 先代 =
| 後継 = [[コジマ・KE009]]
|チーム = コジマエンジニアリング
|シャシー = アルミ[[モノコック]]
|エンジン = [[フォード・モーター|フォード]] [[フォード・コスワース・DFVエンジン|コスワース DFV]]
|排気量 =
|エンジン形式 =
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|ギアボックス = [[ヒューランド]] FGA400
|タイヤ =[[住友ゴム工業|日本ダンロップ]]
|デザイナー =[[小野昌朗]]
|ドライバー ={{flagicon|JPN}} [[長谷見昌弘]]
|年 = [[1976年のF1世界選手権|1976年]]
|出走回数 = 1
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|ファステストラップ=1([[#レースとその後|※]])
|初戦 =[[1976年F1世界選手権イン・ジャパン]]
|初勝利 =
|最終戦 =1976年F1世界選手権イン・ジャパン
|備考 =ファステストラップについては本文参照
}}
'''コジマ・KE007''' (Kojima KE007) は、[[コジマエンジニアリング]]が設計・製造した[[フォーミュラ1カー]]。[[1976年]]に[[富士スピードウェイ]]で開催された[[1976年F1世界選手権イン・ジャパン|F1世界選手権イン・ジャパン]]に参戦した。


== 概要 ==
スペアカーなど存在しなかったため、モノコックまで潰れるという大ダメージにより決勝への出走が危ぶまれたが、小嶋と関係の深い[[近藤レーシングガレージ]]において、富士スピードウェイのある御殿場周辺に本拠を置くレーシングチームのメカニックが総出で協力し(この点に関して、当時、各種モータースポーツ誌にその記載は見られるが、当時のコジマエンジニアリングのメカニックであった人物は、修復の場の提供を受けたが、修復作業自体はコジマの関係者だけであったと話している)、わずか40時間という驚異的なスピードで修復し決勝に出走。とはいえ直線も真っ直ぐに走れない状態でしかなく、11位完走に終わる。しかし、当該レースの公式記録に因れば、ファステストラップを記録した事になっている。この点、雨中の混乱した状況での計測の誤りであるとの説もあるが、今日に至る迄、公式記録上に記載されている。
=== コンセプト ===
日本国内でFL500やFJ1300、[[全日本F2000選手権|F2000]]などのコンストラクターとして活動していたコジマが、日本初開催のF1レースにスポット参戦するため開発した国産F1マシン。名称は「コジマエンジニアリング ('''K'''ojima '''E'''ngineering) が開発した'''7'''作目のマシン」からKE007と命名された<ref name="CMp118">高安「コジマKE007ディティール・ファイル」、p118。</ref>。


設計担当は日本初のプライベーターF1マシン、[[マキ・F101]]をデザインした[[小野昌朗]]([[東京R&D]]代表)。製作担当(チーフメカニック)は初の国産F2000マシン、[[ノバエンジニアリング|ノバ]]・02を設計した[[解良喜久雄]]([[トミーカイラ]]元代表)。[[空気力学|空力]]設計は[[富士グランチャンピオンレース|GC]]マシンなどのボディカウルをデザインしていた[[由良拓也]]([[ムーンクラフト]]代表)。3名のほかチームオーナーの小嶋松久やドライバーの[[長谷見昌弘]]の意見も交えてコンセプトをまとめた。ベースとなったのは、小野が[[マキエンジニアリング|マキ]]で学んだ教訓や、次回作用に温めていたアイデアだった<ref name="modelp74">『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p74。</ref>。
=== KE007 ===
富士スピードウェイで行われた1976年のF1選手権イン・ジャパンにスポット参戦し、勝利するという壮大な夢を実現するために開発した「富士スペシャルマシン」。日本初のプライベーターF1マシン、[[マキエンジニアリング|マキ]]F101の車体設計を担当した[[小野昌朗]](現[[東京R&D]]代表)が設計し、[[由良拓也]]デザインによる[[カウル]]をまとい、チーフ[[メカニック]]として[[解良喜久雄]]([[トミーカイラ]]元代表)等も関わった純国産シャシーである。


コジマはF1初挑戦となるこのレースで優勝かそれに順ずる成績を収め、それをステップに海外進出を目指すという構想を持っていた<ref name="Ftokup56">黒沼「純日本コンストラクター コジマ、孤高の挑戦。」、p56。</ref>。そのためオールラウンドなマシンではなく、高速コースに特化したトップスピード重視の「富士スペシャル」を造ることにした(由良は「このクルマは[[モナコグランプリ|モナコ]]なんかに持っていったら、予選落ちしていたはずです」と語っている<ref name="Modelp75">『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p75。</ref>)。コクピットの寸法は長谷見の体格に合わせてあり、[[ワンオフ]]の「長谷見スペシャル」的なマシンでもあった<ref>『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p84。</ref>。
ナロー[[トレッド]]、調整可能な分離型スポーツカーノーズ等を持つのが特徴。国産での参戦にこだわり、[[住友ゴム工業|日本ダンロップ]]のタイヤ、[[カヤバ工業]](現[[KYB]])のガス・[[ショックアブソーバー]]等を採用し、当時はまだF1では珍しい[[チタン]]等の新素材を使用したパーツや[[炭素繊維強化プラスチック|カーボンファイバー]]を世界で初めてカウルに使用(モノコックではない)した意欲作だった。反面、当時主流であった[[コスワース]]DFVエンジンや[[ヒューランド]]の[[ギアボックス]]、[[APロッキード|ロッキード]]の[[ブレーキ]]を使用した、基本に忠実な設計でもあった。ドライバーの長谷見は小野に「奇抜なマシンじゃなく、富士スピードウェイにあった無難なクルマにしてくれ」と頼んだという<ref>{{Cite journal |和書 |author= |year=2006 |title='76 F1イン・ジャパン |journal=日本の名レース100選 |issue=001 |pages=80頁 |publisher=イデア}}</ref>。[[スポンサー]]には当初[[日立マクセル]]を予定していたため、全体がマクセルのシンボルカラーである漆黒に塗られていた(結局実現せず)。


基本設計はメンテナンスやモディファイなどの実用性を見越してオーソドックスにまとめられた。長谷見は小野に「奇抜なマシンじゃなく、富士スピードウェイにあった無難なクルマにしてくれ」と頼んだという<ref>『日本の名レース100選 '76 F1イン・ジャパン』、80頁。</ref>。エンジンやギアボックス、ブレーキなどは海外から購入したが、それ以外は2輪レース時代から付き合いのある国内メーカーの部品を使用し、特殊素材の使用など海外のF1チームよりも先進的な技術も導入した<ref>大串「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」、p19。</ref>。レース前には外国人メカニックたちが視察に訪れ、マシンの細部の出来に感心していたという<ref name="MGp18">大串「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」、p18。</ref>。
秘密兵器として用意したのが日本ダンロップの予選用スーパーソフトタイヤだった。テスト走行の結果からグリップの良いスペックを投入したが、高速の最終コーナーで左フロントサスアームに計算以上の負荷がかかり、強度が足りず折れたのではないかと見られている<ref>{{Cite journal |和書 |year=2008 |journal=F1 MODELING-1976富士F1グランプリ(All about Formula One Grand Prix in) |publisher=東邦出版 }}</ref>。


=== シャーシ ===
その後、マシンは[[ヒーローズレーシング]]を経て展示用として転売を重ね、長く行方が分からなかったが、[[1997年]]に[[レストア]]界でも有名な広島で[[BanFan]]を経営していた[[栃林昭二]]により[[愛媛県]][[松山市]]のタイヤ店の店先で発見された。栃林らの手により、約7年がかりで復元され、[[2004年]]に[[イギリス]]で行われた[[グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード]]にて、長谷見、栃林のドライブにより初披露された。
[[シャーシ]]は一般的なアルミ製のバスタブ式[[モノコック]]であるが、一部に軽量化のため[[チタン]]や[[マグネシウム]]を併用しており、車重は最低重量規定の575kgに近い578kgに抑えられた<ref name="Modelp68">『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p68。</ref>。角パイプの溶接式が一般的なフロントバルクヘッドを、アルミの削り出しとしたのが特徴<ref name="MGp18"/>。


サスペンションもフロントがロッキングアーム式の[[ダブルウィッシュボーン式サスペンション|ダブルウィッシュボーン]]、リアが4リンクとコンベンショナルな構成だが、カヤバ工業(現[[カヤバ工業|KYB]])が開発したガス室分離式[[ショックアブソーバー|ダンパー]]を採用した。2輪のワークスレーサー用をベースにしたもので、シリンダーに伸び側、分離タンクに縮み側のバルブがあり、各個に減衰力を調節可能だった<ref>阪「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 V」、p208。</ref>。また、フロントの[[ばね|コイル]]・ダンパーユニットをアッパーアームの付け根からロワアームの中間へと斜めに寝かせて配置するフルフローティング式としたのも特徴である。この手法によりアッパーアームの位置を下げ、フロントノーズを薄くして空気抵抗を減らそうとした<ref>『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p81。</ref>。アッパーアームを[[アップライト]]の車軸近くにボールジョイントで取り付ける形は、小野が設計したマキ・F102Cでも用いていた<ref>高安「コジマKE007ディティール・ファイル」、p122。</ref>。
しかし、この車体はコジマエンジニアリングがスーパーカーショー用としてF2用モノコックをベースに作り、[[スーパーカーブーム]]が終わった後に行方不明になった車体がベースと言われる。小嶋は、当時走った本物のモノコックは自ら保管しており、今後再生計画があると語っている。(この点に関し、当時のコジマのエンジニアは、小嶋本人が、KE009の1台が、KE008の改造で作られた物であると語っているが、ホイールベースも、全く異なる為、008を009に改造する事自体不可能で有ると語っている。同様に、グッドウッドを走ったKE007も、モノコックに改造の跡は無く、小嶋の勘違いで有る可能性が高い。ちなみに、クラッシュしたモノコックは、現在も近藤レーシングに保管されている)

同じく空気抵抗を減らすため、[[トレッド]]はフロントが1,400mm、リアが1,450mmというナロートレッドに設定された(当時のF1マシンのフロントトレッドは1,420mm~1,500mm<ref>『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p78。</ref>)。[[ホイールベース]]はシェイクダウン時は2,500mmだったが、コーナー出口の[[オーバーステア]]傾向を抑えるため、エンジンとギアボックスの間に[[ローラ・カーズ|ローラ]]・T280のベルハウジングを挟んで2,690mmに延長した<ref>『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p86。</ref>。

=== エンジン ===
駆動系は[[フォード・コスワース・DFVエンジン]]に[[ヒューランド]]製5速[[トランスミッション|ギアボックス]]を組み合わせるという、1970年代の標準的なパッケージ。当時のDFVエンジンは馬力が465ps/10,500rpm程度<ref>『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p85。</ref>、価格は本体が650万円(周辺機器込みで850万円)だった<ref name="AS1128p30">黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第3回」『オートスポーツ』2002年11月28日号、p30。</ref>。

サイド[[ラジエーター]]はマキF101と同じく、後輪手前のボディ側面にタイヤと平行に配置した。シェイクダウン時よりクーリングに問題があり、夏場のテスト時にはリアウィング支柱の左右に[[オイルクーラー]]を設置していたが、10月末の富士ではラジエーターの内側へ移設した。

=== ボディ ===
ボディカウルは[[炭素繊維強化プラスチック|カーボンファイバー]] (CFRP) 製。当時はウィングなど部分的にカーボンパーツの導入が進んでいたが、カウル全面に採用したのはコジマが初めてである<ref name="MGp21">大串「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」、p21。</ref>。ただし、現在主流のドライカーボンではなくウェットカーボン製法だった<ref name="MGp21"/>。

フロントはタイヤの空気抵抗を減らすスポーツカーノーズを採用。シャーシ側のインナーノーズの上に分離式のノーズカウルを被せる二重構造になっており、カウルの位置や角度をずらして[[ダウンフォース]]を調節することができた<ref>『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p79。</ref>。本戦ではノーズ先端に[[エアロパーツ|リップスポイラー]]を追加した。

コクピットを囲むセンターカウルの両脇には、[[フェラーリ・312T|フェラーリ・312T2]]を意識した<ref name="Modelp75"/>エンジン吸気用の[[ラムエアインテーク|エアインテーク]]が開口された。ただし、[[水平対向12気筒|フラット12]]エンジンのフェラーリと異なり、V8エンジンの場合は吸気ポートが上にあるため、インテークも上側が出っ張った形となり、空力的には好ましくなかった<ref name="Modelp75"/>(後継モデルのKE009ではインテークが小さくなった)。テストでは[[ロールケージ|ロールバー]]のサイドにインテークを設けたカウルも試してみたが、リアウィングへの気流を乱すため採用されなかった<ref name="Modelp68"/>。カウルのエッジが高いため周辺視界が悪くなったが、空力面でドライバーを深く潜り込ませるようなデザインにしたかった、と由良は述べている<ref name="MGp21"/>。

ボディカラーは当初[[日立マクセル]]がメインスポンサーにつく予定だったため、全体がマクセルのシンボルカラーである漆黒に塗られた<ref name="CMp118"/>。この話は結局実現せず、サプライヤー以外スポンサーロゴのない黒一色の状態でレースに臨んだ。

=== タイヤ ===
タイヤメーカーは同じくF1初参戦となる[[住友ゴム工業|日本ダンロップ]]。コジマから供給を打診された当初はサイズも分からず、写真から大きさを割り出したという<ref name="AS1128p30"/>。[[ヒーローズレーシング]]が購入した[[ティレル・007]](本戦では[[星野一義]]がドライブ)に付いていたタイヤで実寸を測ったり、イギリスやドイツのダンロップから情報を送ってもらった<ref name="AS1128p30"/>。

当初は予選用1種、決勝用2種(ソフト、ハード)を用意する予定だったが、テストの結果予選用タイヤの耐久性が良かったことからこれを決勝用ソフトに置き換え、さらにグリップ力の高い予選用スーパーソフトを投入することになった<ref name="Modelp66">『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p66。</ref>。

== スペック ==
* シャーシ構造 [[アルミニウム]][[モノコック]]
* [[サスペンション]]
**前[[ダブルウィッシュボーン式サスペンション|ダブルウィッシュボーン]](上ロッキングアーム、下Aアーム)
**後4リンク(上Iアーム、下パラレルIアーム、ダブルラジアスロッド)
* [[ショックアブソーバー|ダンパー]] [[カヤバ工業]]
* [[エンジン]] [[フォード・コスワース・DFVエンジン|フォード・コスワース・DFV]] [[自然吸気]] 2,993cc [[V型8気筒|V8]] [[DOHC]]4バルブ
* [[点火プラグ|プラグ]] [[日本特殊陶業|NGK]]
* [[ラジエーター]] [[カルソニックカンセイ|日本ラヂヱーター]]
* [[ギアボックス]] [[ヒューランド]] FGA400 縦置き5速+リバース1速
* [[クラッチ]] [[ボルグワーナー|ボーグ&ベック]]
* ブレーキディスク [[APレーシング|APロッキード]]
* [[ホイール]] [[ダイマグ]]13インチ
* [[タイヤ]] [[住友ゴム工業|日本ダンロップ]] 前輪220-515/13 後輪400-685/13
* 全長 4,150~4,600mm
* 全幅 1,935mm
* [[ホイールベース]] 2,500~2,590mm
* トレッド 前1,400mm/後1,450mm
* 重量 578kg

== 活動経歴 ==
=== 開発 ===
コジマは1975年12月に独自のマシンでのF1参戦を決定。1976年1月初旬にイギリスから帰国した小野が合流し、本格的な設計・製作作業に取りかかった。7月19日に[[鈴鹿サーキット]]で[[シェイクダウン (モータースポーツ)|シェイクダウン]]を行いバランスなどを確認。ラップタイムは[[フォーミュラ2|F2]]マシンの5秒落ちだった<ref name="Modelp68"/>。長谷見は「正直言ってとても素性のいいマシンができあがった」「実際に走ってみて、100%想像通りだった。まったく違和感のないマシンでしたね」と印象を述べている<ref name="Ftokup56"/>。

8月、9月には本番の舞台となる[[富士スピードウェイ]]を借りて計3度のテストセッションを行い、各部のモディファイやタイヤの仕様決定を行った。1974年秋に[[ロニー・ピーターソン]]が[[ロータス・72]]でデモンストレーション走行をした時の非公式レコード1分15秒4をラップタイムの目安としていたが、3回目のテストでそれを超える1分14秒8をマークした。

=== 幻のポールポジション ===
F1世界選手権イン・ジャパンは10月22日に開幕し、金曜日に2回(午前・午後)、土曜日に1回の予選が行われた。金曜午前の第1セッションで長谷見は徐々にペースを上げ、全体の4番手タイムとなる1分13秒88を記録。セッティングが確認できたので、走行を途中で切り上げる余裕もみせた。無名地元チームの快走はにわかに注目され、セッション終了後には急遽記者会見が行われた。この席では外国人記者が小嶋や長谷見に向かい「どこのメーカーがバックについているのか?ホンダか、トヨタか、日産か?」と尋ねる場面もあった<ref name="AS1205p27">黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第4回」『オートスポーツ』2002年12月5日号、p27。</ref>。[[グッドイヤー]]タイヤのマネージャーは「ワンラップスペシャルタイヤを使うのは卑怯だ」と憤慨したが<ref name="AS1205p27"/>、長谷見のタイムはレース用のソフトタイヤで残したものだった<ref name="Modelp66"/>。

午後の第2セッションでは予選用スーパーソフトタイヤを装着。[[マリオ・アンドレッティ]]([[チーム・ロータス|ロータス]])、[[ジェームス・ハント]]([[マクラーレン]])、[[ニキ・ラウダ]]([[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]])の3名をマークし、彼らの[[スリップストリーム]]を利用して[[ポールポジション]]を目指す作戦を採った。長谷見はタイミングを見計らってコースインし、ホームストレートでアンドレッティ、ヘアピン立ち上がりでハントのスリップストリームに入るという理想的なアタックラップをものにする。長谷見はのちに「もう、後にも先にもない完璧なスリップだった」と語っている<ref>『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p67。</ref>。

チームの手動計測では、コース中間部のヘアピン通過時点のタイムは午前よりも1秒以上速く<ref>黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第4回」『オートスポーツ』2002年12月5日号、p29。</ref>、1分12秒台突入は確実視された。しかし、ホームストレートへ向かう最終コーナーを高速旋回中、突然左フロントがガクッと落ちるような衝撃を受け、操縦不能となってアウト側のタイヤバリアに激突した。長谷見は当時の記憶からクラッシュ時の速度を250km/hと見積もっている<ref>黒沼「純日本コンストラクター コジマ、孤高の挑戦。」、p55。</ref>。奇跡的にドライバーは無傷で済んだが、マシンは左フロント周囲を大破した。

コジマはスペアカーを持っていなかったため、第2セッションの残りと翌日の第3セッションは不出走となった。それでも第1セッションで残したタイムにより、日本勢最高の10番グリッドを獲得した。ポールポジションタイムはアンドレッティが第3セッションで記録した1分12秒77だった。

=== 修復作業 ===
コジマの挑戦はクラッシュの時点で終わったかと思われたが、小嶋は2日後の決勝までにマシンを修復することを決断。前線基地として間借りしていた[[近藤レーシングガレージ]]に運び込み、京都の本部から設計図面を取り寄せ、チーフメカニックの解良を中心に懸命の修復作業に取り掛かった。

クラッシュのダメージはモノコックに及んでおり、後ろ半分と右側部を残して新たに造り直さなければならなかった。近隣の「大御神レース村」と呼ばれるレーシングガレージ群から見物に訪れていたメカニックたちもその作業に協力した。<!--出典不明により掲載不可能→(この点に関して、当時、各種モータースポーツ誌にその記載は見られるが、当時のコジマエンジニアリングのメカニックであった人物は、修復の場の提供を受けたが、修復作業自体はコジマの関係者だけであったと話している)-->長谷見は「みんな頼まれたわけでもないのに無給で働いてくれるんです。もう感謝の気持ちで一杯でした」と語っている<ref name="AS1212p30">黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第5回」『オートスポーツ』2002年12月12日号、p30。</ref>。翌11月23日深夜にモノコックの組み立てが始まり、昼夜を問わず作業を続け、開始から40時間後、決勝当日24日の午前7時に修復作業は完了した<ref name="AS1212p30"/>。

=== レースとその後 ===
午前8時30分からのフリー走行にKE007が出走すると、観客席からは拍手が起こった。しかし、修復過程でモノコックのリベット打ちのずれを修正する余裕がなく、正しい[[ボデー・アライメント|アライメント]]をとることができなかった<ref name="MGp18"/>。モノコックがねじれていたため直線でも右に曲がってスピンしそうになるような状態で、ステアリング・ギアボックスもロックして操縦が困難だった<ref name="AS1212p31">黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第5回」『オートスポーツ』2002年12月12日号、p31。</ref>。決勝は大雨の中でのスタートとなったが、仮にドライコンディションであれば走行スピードも上がるため、出走をキャンセルすることも考えていたという<ref>大串「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」、p20。</ref>。

長谷見は10番グリッドからスタートし、オープニングラップを14位で通過。日本ダンロップの深溝[[レインタイヤ]]の性能もあり、6周目には再び10位に浮上した。しかし、雨が止むとタイヤのトレッドが剥離し始め、25周目にピットインして新品のレインタイヤに交換。33周目にはドライ用の[[スリックタイヤ]]に履き替え、最終的には優勝者のアンドレッティから7周遅れ、完走車の最後尾となる11位でチェッカーを受けた。長谷見はリタイアせず走り続けた理由を「無報酬にもかかわらず徹夜でクルマを修理してくれたみんなのためにも、完走だけはしたかった」と語っている<ref name="AS1212p31"/>。

なお、F1公式サイト"Formula1.com"では長谷見がこのレースの[[ファステストラップ]](1分18秒23)を記録した<ref>[http://www.formula1.com/results/season/1976/457/ 1976 Japanese Grand Prix] - Formula1.com(2012年9月5日閲覧)</ref>とされているが、国内レースを統括する[[日本自動車連盟]] (JAF) の記録では[[ジャック・ラフィー]](1分19秒97)<ref>[http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=2939 大会結果] - 日本自動車連盟(2012年9月5日閲覧)</ref>とされている(詳細は[[1976年F1世界選手権イン・ジャパン#エピソード]]を参照)。

コジマは予選のクラッシュの原因を確かめるため半年後に富士でテスト走行を行い、カヤバ工業の協力により無線でデータを収集した結果、フロントサスのアッパーアームの強度が不足していることが判明した<ref name="Ftokup5657">黒沼「純日本コンストラクター コジマ、孤高の挑戦。」、pp56-57。</ref><ref>ロッキングアーム式サスペンションでは[[てこ|てこの原理]]を利用するアッパーアームに強い荷重が懸かる。</ref>(テスト中にはヘアピン出口でアームが折れた)。チームは予選タイムを良くても1分13秒台と見積もっていたが、予選用タイヤの投入で想定よりもスピードが上昇した結果、そのストレスに耐えられなかったものとみられる<ref name="Ftokup5657"/>。後継マシンのKE009ではアームの素材を[[ステンレス]]に置き換えて補強した。

== 保存状況 ==
[[ファイル:Andretti Lotus 77.jpg|thumb|right|260px|[[2007年日本グランプリ (4輪)|2007年日本GP]]で展示されたKE007(画像奥の車両、#51)。手前は[[ロータス・77]] (#5) ]]
その後、マシンは[[ヒーローズレーシング]]を経て転売を繰り返し、長く行方不明となっていた。

[[1997年]]9月、[[広島県]]で[[レストア]]ショップ「BanFan」を経営していた栃林昭二が、[[愛媛県]][[松山市]]のタイヤ店の駐車場に放置されているKE007を発見<ref>栃林「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 IV」、p213。</ref>。栃林らの手により約6年がかりで修復されることになった。劣化が激しかったため多くの部分を新造したほか、中古のDFVエンジンなどを海外から購入し、コジマにストックされていたパーツの提供を受けた。また、カヤバ工業の無償協力によりガス室分離式ダンパーが再現された<ref>阪「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 V」、p209。</ref>。

[[2004年]]に[[イギリス]]で行われた[[グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード]]で一般公開され、長谷見、栃林のドライブにより[[ヒルクライム]]走行を行った。その後はイベントや企画展に展示されている。栃林はその後[[マキ・F101]]のレストアも行っている。

このマシンに関して、修復者と製作者の間では説明が異なる。栃林は発見時に各部を撮影した写真を小嶋や小野に見てもらった結果、本物のKE007であると確認が取れたと述べている<ref>栃林「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 IV」、p214。</ref>。一方、小嶋は[[スーパーカー]]ショーの展示用に余っていたF2のモノコックやパーツを組み合わせてF1のボディを乗せたもので、KE007や[[1977年日本グランプリ (4輪)|1977年日本GP]]で[[星野一義]]がドライブしたKE009は行方不明と述べている<ref>大串「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」、p22。</ref>。<!-- どちらの主張が正しいか判断することは「独自研究」となるので差し控えます -->なお、クラッシュしたモノコックは現在も近藤レーシングに保管されている。

== 脚注 ==
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* 黒沼克史 「純日本コンストラクター コジマ、孤高の挑戦。」『[[GRAND PRIX SPECIAL|F1グランプリ特集]] 11月号増刊 速報! 日本GPスペシャル』 ソニーマガジンズ、1993年
* 栃林昭二 「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 IV」『[[カーグラフィック]]』2000年1月号、二玄社
* 阪和明 「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 V」『[[カーグラフィック]]』2000年5月号、二玄社
* 黒井尚志 「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 1~6回」『[[オートスポーツ]]』2002年11月14日号~2002年12月19日号(通号892~897)、ニューズ出版
* 高安丈太郎 「コジマKE007ディティール・ファイル」『カーマガジン』2006年11月号、ネコパブリッシング
* 『日本の名レース100選 Vol.001 '76 F1イン・ジャパン』 2006年、イデア
* 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ(All about Formula One Grand Prix in) 』 東邦出版、2008年
* 大串信 「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」『[[モデルグラフィックス]]』2009年12月号、大日本絵画
* 「日本レース史の断章 解良喜久雄(中編)」『ノスタルジックヒーロー』2011年6月号、芸文社

== 外部リンク ==
* [http://www.vehicle.city.hiroshima.jp/VEHICLE_HP/Contents/02_tennji_annai/0203_kako/2009/1/kojima%20KE007.htm コジマ KE007] - [[広島市交通科学館]]で展示された時の画像

{{1976年のF1マシン}}

{{DEFAULTSORT:こしま けいせろせろなな}}
[[Category:1976年のF1マシン]]

[[it:Kojima KE007]]
[[pt:Kojima KE007]]

2012年9月7日 (金) 17:56時点における版

コジマ・KE007
カテゴリー F1
コンストラクター コジマ
デザイナー 小野昌朗
後継 コジマ・KE009
主要諸元
シャシー アルミモノコック
エンジン フォード コスワース DFV
トランスミッション ヒューランド FGA400
タイヤ 日本ダンロップ
主要成績
チーム コジマエンジニアリング
ドライバー 日本の旗 長谷見昌弘
出走時期 1976年
コンストラクターズタイトル 0
ドライバーズタイトル 0
通算獲得ポイント 0
初戦 1976年F1世界選手権イン・ジャパン
最終戦 1976年F1世界選手権イン・ジャパン
備考 ファステストラップについては本文参照
出走優勝表彰台ポールFラップ
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コジマ・KE007 (Kojima KE007) は、コジマエンジニアリングが設計・製造したフォーミュラ1カー1976年富士スピードウェイで開催されたF1世界選手権イン・ジャパンに参戦した。

概要

コンセプト

日本国内でFL500やFJ1300、F2000などのコンストラクターとして活動していたコジマが、日本初開催のF1レースにスポット参戦するため開発した国産F1マシン。名称は「コジマエンジニアリング (Kojima Engineering) が開発した7作目のマシン」からKE007と命名された[1]

設計担当は日本初のプライベーターF1マシン、マキ・F101をデザインした小野昌朗東京R&D代表)。製作担当(チーフメカニック)は初の国産F2000マシン、ノバ・02を設計した解良喜久雄トミーカイラ元代表)。空力設計はGCマシンなどのボディカウルをデザインしていた由良拓也ムーンクラフト代表)。3名のほかチームオーナーの小嶋松久やドライバーの長谷見昌弘の意見も交えてコンセプトをまとめた。ベースとなったのは、小野がマキで学んだ教訓や、次回作用に温めていたアイデアだった[2]

コジマはF1初挑戦となるこのレースで優勝かそれに順ずる成績を収め、それをステップに海外進出を目指すという構想を持っていた[3]。そのためオールラウンドなマシンではなく、高速コースに特化したトップスピード重視の「富士スペシャル」を造ることにした(由良は「このクルマはモナコなんかに持っていったら、予選落ちしていたはずです」と語っている[4])。コクピットの寸法は長谷見の体格に合わせてあり、ワンオフの「長谷見スペシャル」的なマシンでもあった[5]

基本設計はメンテナンスやモディファイなどの実用性を見越してオーソドックスにまとめられた。長谷見は小野に「奇抜なマシンじゃなく、富士スピードウェイにあった無難なクルマにしてくれ」と頼んだという[6]。エンジンやギアボックス、ブレーキなどは海外から購入したが、それ以外は2輪レース時代から付き合いのある国内メーカーの部品を使用し、特殊素材の使用など海外のF1チームよりも先進的な技術も導入した[7]。レース前には外国人メカニックたちが視察に訪れ、マシンの細部の出来に感心していたという[8]

シャーシ

シャーシは一般的なアルミ製のバスタブ式モノコックであるが、一部に軽量化のためチタンマグネシウムを併用しており、車重は最低重量規定の575kgに近い578kgに抑えられた[9]。角パイプの溶接式が一般的なフロントバルクヘッドを、アルミの削り出しとしたのが特徴[8]

サスペンションもフロントがロッキングアーム式のダブルウィッシュボーン、リアが4リンクとコンベンショナルな構成だが、カヤバ工業(現KYB)が開発したガス室分離式ダンパーを採用した。2輪のワークスレーサー用をベースにしたもので、シリンダーに伸び側、分離タンクに縮み側のバルブがあり、各個に減衰力を調節可能だった[10]。また、フロントのコイル・ダンパーユニットをアッパーアームの付け根からロワアームの中間へと斜めに寝かせて配置するフルフローティング式としたのも特徴である。この手法によりアッパーアームの位置を下げ、フロントノーズを薄くして空気抵抗を減らそうとした[11]。アッパーアームをアップライトの車軸近くにボールジョイントで取り付ける形は、小野が設計したマキ・F102Cでも用いていた[12]

同じく空気抵抗を減らすため、トレッドはフロントが1,400mm、リアが1,450mmというナロートレッドに設定された(当時のF1マシンのフロントトレッドは1,420mm~1,500mm[13])。ホイールベースはシェイクダウン時は2,500mmだったが、コーナー出口のオーバーステア傾向を抑えるため、エンジンとギアボックスの間にローラ・T280のベルハウジングを挟んで2,690mmに延長した[14]

エンジン

駆動系はフォード・コスワース・DFVエンジンヒューランド製5速ギアボックスを組み合わせるという、1970年代の標準的なパッケージ。当時のDFVエンジンは馬力が465ps/10,500rpm程度[15]、価格は本体が650万円(周辺機器込みで850万円)だった[16]

サイドラジエーターはマキF101と同じく、後輪手前のボディ側面にタイヤと平行に配置した。シェイクダウン時よりクーリングに問題があり、夏場のテスト時にはリアウィング支柱の左右にオイルクーラーを設置していたが、10月末の富士ではラジエーターの内側へ移設した。

ボディ

ボディカウルはカーボンファイバー (CFRP) 製。当時はウィングなど部分的にカーボンパーツの導入が進んでいたが、カウル全面に採用したのはコジマが初めてである[17]。ただし、現在主流のドライカーボンではなくウェットカーボン製法だった[17]

フロントはタイヤの空気抵抗を減らすスポーツカーノーズを採用。シャーシ側のインナーノーズの上に分離式のノーズカウルを被せる二重構造になっており、カウルの位置や角度をずらしてダウンフォースを調節することができた[18]。本戦ではノーズ先端にリップスポイラーを追加した。

コクピットを囲むセンターカウルの両脇には、フェラーリ・312T2を意識した[4]エンジン吸気用のエアインテークが開口された。ただし、フラット12エンジンのフェラーリと異なり、V8エンジンの場合は吸気ポートが上にあるため、インテークも上側が出っ張った形となり、空力的には好ましくなかった[4](後継モデルのKE009ではインテークが小さくなった)。テストではロールバーのサイドにインテークを設けたカウルも試してみたが、リアウィングへの気流を乱すため採用されなかった[9]。カウルのエッジが高いため周辺視界が悪くなったが、空力面でドライバーを深く潜り込ませるようなデザインにしたかった、と由良は述べている[17]

ボディカラーは当初日立マクセルがメインスポンサーにつく予定だったため、全体がマクセルのシンボルカラーである漆黒に塗られた[1]。この話は結局実現せず、サプライヤー以外スポンサーロゴのない黒一色の状態でレースに臨んだ。

タイヤ

タイヤメーカーは同じくF1初参戦となる日本ダンロップ。コジマから供給を打診された当初はサイズも分からず、写真から大きさを割り出したという[16]ヒーローズレーシングが購入したティレル・007(本戦では星野一義がドライブ)に付いていたタイヤで実寸を測ったり、イギリスやドイツのダンロップから情報を送ってもらった[16]

当初は予選用1種、決勝用2種(ソフト、ハード)を用意する予定だったが、テストの結果予選用タイヤの耐久性が良かったことからこれを決勝用ソフトに置き換え、さらにグリップ力の高い予選用スーパーソフトを投入することになった[19]

スペック

活動経歴

開発

コジマは1975年12月に独自のマシンでのF1参戦を決定。1976年1月初旬にイギリスから帰国した小野が合流し、本格的な設計・製作作業に取りかかった。7月19日に鈴鹿サーキットシェイクダウンを行いバランスなどを確認。ラップタイムはF2マシンの5秒落ちだった[9]。長谷見は「正直言ってとても素性のいいマシンができあがった」「実際に走ってみて、100%想像通りだった。まったく違和感のないマシンでしたね」と印象を述べている[3]

8月、9月には本番の舞台となる富士スピードウェイを借りて計3度のテストセッションを行い、各部のモディファイやタイヤの仕様決定を行った。1974年秋にロニー・ピーターソンロータス・72でデモンストレーション走行をした時の非公式レコード1分15秒4をラップタイムの目安としていたが、3回目のテストでそれを超える1分14秒8をマークした。

幻のポールポジション

F1世界選手権イン・ジャパンは10月22日に開幕し、金曜日に2回(午前・午後)、土曜日に1回の予選が行われた。金曜午前の第1セッションで長谷見は徐々にペースを上げ、全体の4番手タイムとなる1分13秒88を記録。セッティングが確認できたので、走行を途中で切り上げる余裕もみせた。無名地元チームの快走はにわかに注目され、セッション終了後には急遽記者会見が行われた。この席では外国人記者が小嶋や長谷見に向かい「どこのメーカーがバックについているのか?ホンダか、トヨタか、日産か?」と尋ねる場面もあった[20]グッドイヤータイヤのマネージャーは「ワンラップスペシャルタイヤを使うのは卑怯だ」と憤慨したが[20]、長谷見のタイムはレース用のソフトタイヤで残したものだった[19]

午後の第2セッションでは予選用スーパーソフトタイヤを装着。マリオ・アンドレッティロータス)、ジェームス・ハントマクラーレン)、ニキ・ラウダフェラーリ)の3名をマークし、彼らのスリップストリームを利用してポールポジションを目指す作戦を採った。長谷見はタイミングを見計らってコースインし、ホームストレートでアンドレッティ、ヘアピン立ち上がりでハントのスリップストリームに入るという理想的なアタックラップをものにする。長谷見はのちに「もう、後にも先にもない完璧なスリップだった」と語っている[21]

チームの手動計測では、コース中間部のヘアピン通過時点のタイムは午前よりも1秒以上速く[22]、1分12秒台突入は確実視された。しかし、ホームストレートへ向かう最終コーナーを高速旋回中、突然左フロントがガクッと落ちるような衝撃を受け、操縦不能となってアウト側のタイヤバリアに激突した。長谷見は当時の記憶からクラッシュ時の速度を250km/hと見積もっている[23]。奇跡的にドライバーは無傷で済んだが、マシンは左フロント周囲を大破した。

コジマはスペアカーを持っていなかったため、第2セッションの残りと翌日の第3セッションは不出走となった。それでも第1セッションで残したタイムにより、日本勢最高の10番グリッドを獲得した。ポールポジションタイムはアンドレッティが第3セッションで記録した1分12秒77だった。

修復作業

コジマの挑戦はクラッシュの時点で終わったかと思われたが、小嶋は2日後の決勝までにマシンを修復することを決断。前線基地として間借りしていた近藤レーシングガレージに運び込み、京都の本部から設計図面を取り寄せ、チーフメカニックの解良を中心に懸命の修復作業に取り掛かった。

クラッシュのダメージはモノコックに及んでおり、後ろ半分と右側部を残して新たに造り直さなければならなかった。近隣の「大御神レース村」と呼ばれるレーシングガレージ群から見物に訪れていたメカニックたちもその作業に協力した。長谷見は「みんな頼まれたわけでもないのに無給で働いてくれるんです。もう感謝の気持ちで一杯でした」と語っている[24]。翌11月23日深夜にモノコックの組み立てが始まり、昼夜を問わず作業を続け、開始から40時間後、決勝当日24日の午前7時に修復作業は完了した[24]

レースとその後

午前8時30分からのフリー走行にKE007が出走すると、観客席からは拍手が起こった。しかし、修復過程でモノコックのリベット打ちのずれを修正する余裕がなく、正しいアライメントをとることができなかった[8]。モノコックがねじれていたため直線でも右に曲がってスピンしそうになるような状態で、ステアリング・ギアボックスもロックして操縦が困難だった[25]。決勝は大雨の中でのスタートとなったが、仮にドライコンディションであれば走行スピードも上がるため、出走をキャンセルすることも考えていたという[26]

長谷見は10番グリッドからスタートし、オープニングラップを14位で通過。日本ダンロップの深溝レインタイヤの性能もあり、6周目には再び10位に浮上した。しかし、雨が止むとタイヤのトレッドが剥離し始め、25周目にピットインして新品のレインタイヤに交換。33周目にはドライ用のスリックタイヤに履き替え、最終的には優勝者のアンドレッティから7周遅れ、完走車の最後尾となる11位でチェッカーを受けた。長谷見はリタイアせず走り続けた理由を「無報酬にもかかわらず徹夜でクルマを修理してくれたみんなのためにも、完走だけはしたかった」と語っている[25]

なお、F1公式サイト"Formula1.com"では長谷見がこのレースのファステストラップ(1分18秒23)を記録した[27]とされているが、国内レースを統括する日本自動車連盟 (JAF) の記録ではジャック・ラフィー(1分19秒97)[28]とされている(詳細は1976年F1世界選手権イン・ジャパン#エピソードを参照)。

コジマは予選のクラッシュの原因を確かめるため半年後に富士でテスト走行を行い、カヤバ工業の協力により無線でデータを収集した結果、フロントサスのアッパーアームの強度が不足していることが判明した[29][30](テスト中にはヘアピン出口でアームが折れた)。チームは予選タイムを良くても1分13秒台と見積もっていたが、予選用タイヤの投入で想定よりもスピードが上昇した結果、そのストレスに耐えられなかったものとみられる[29]。後継マシンのKE009ではアームの素材をステンレスに置き換えて補強した。

保存状況

2007年日本GPで展示されたKE007(画像奥の車両、#51)。手前はロータス・77 (#5)

その後、マシンはヒーローズレーシングを経て転売を繰り返し、長く行方不明となっていた。

1997年9月、広島県レストアショップ「BanFan」を経営していた栃林昭二が、愛媛県松山市のタイヤ店の駐車場に放置されているKE007を発見[31]。栃林らの手により約6年がかりで修復されることになった。劣化が激しかったため多くの部分を新造したほか、中古のDFVエンジンなどを海外から購入し、コジマにストックされていたパーツの提供を受けた。また、カヤバ工業の無償協力によりガス室分離式ダンパーが再現された[32]

2004年イギリスで行われたグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードで一般公開され、長谷見、栃林のドライブによりヒルクライム走行を行った。その後はイベントや企画展に展示されている。栃林はその後マキ・F101のレストアも行っている。

このマシンに関して、修復者と製作者の間では説明が異なる。栃林は発見時に各部を撮影した写真を小嶋や小野に見てもらった結果、本物のKE007であると確認が取れたと述べている[33]。一方、小嶋はスーパーカーショーの展示用に余っていたF2のモノコックやパーツを組み合わせてF1のボディを乗せたもので、KE007や1977年日本GP星野一義がドライブしたKE009は行方不明と述べている[34]。なお、クラッシュしたモノコックは現在も近藤レーシングに保管されている。

脚注

  1. ^ a b 高安「コジマKE007ディティール・ファイル」、p118。
  2. ^ 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p74。
  3. ^ a b 黒沼「純日本コンストラクター コジマ、孤高の挑戦。」、p56。
  4. ^ a b c 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p75。
  5. ^ 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p84。
  6. ^ 『日本の名レース100選 '76 F1イン・ジャパン』、80頁。
  7. ^ 大串「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」、p19。
  8. ^ a b c 大串「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」、p18。
  9. ^ a b c 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p68。
  10. ^ 阪「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 V」、p208。
  11. ^ 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p81。
  12. ^ 高安「コジマKE007ディティール・ファイル」、p122。
  13. ^ 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p78。
  14. ^ 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p86。
  15. ^ 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p85。
  16. ^ a b c 黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第3回」『オートスポーツ』2002年11月28日号、p30。
  17. ^ a b c 大串「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」、p21。
  18. ^ 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p79。
  19. ^ a b 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p66。
  20. ^ a b 黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第4回」『オートスポーツ』2002年12月5日号、p27。
  21. ^ 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ 』、p67。
  22. ^ 黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第4回」『オートスポーツ』2002年12月5日号、p29。
  23. ^ 黒沼「純日本コンストラクター コジマ、孤高の挑戦。」、p55。
  24. ^ a b 黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第5回」『オートスポーツ』2002年12月12日号、p30。
  25. ^ a b 黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第5回」『オートスポーツ』2002年12月12日号、p31。
  26. ^ 大串「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」、p20。
  27. ^ 1976 Japanese Grand Prix - Formula1.com(2012年9月5日閲覧)
  28. ^ 大会結果 - 日本自動車連盟(2012年9月5日閲覧)
  29. ^ a b 黒沼「純日本コンストラクター コジマ、孤高の挑戦。」、pp56-57。
  30. ^ ロッキングアーム式サスペンションではてこの原理を利用するアッパーアームに強い荷重が懸かる。
  31. ^ 栃林「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 IV」、p213。
  32. ^ 阪「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 V」、p209。
  33. ^ 栃林「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 IV」、p214。
  34. ^ 大串「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」、p22。

参考文献

  • 黒沼克史 「純日本コンストラクター コジマ、孤高の挑戦。」『F1グランプリ特集 11月号増刊 速報! 日本GPスペシャル』 ソニーマガジンズ、1993年
  • 栃林昭二 「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 IV」『カーグラフィック』2000年1月号、二玄社
  • 阪和明 「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 V」『カーグラフィック』2000年5月号、二玄社
  • 黒井尚志 「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 1~6回」『オートスポーツ』2002年11月14日号~2002年12月19日号(通号892~897)、ニューズ出版
  • 高安丈太郎 「コジマKE007ディティール・ファイル」『カーマガジン』2006年11月号、ネコパブリッシング
  • 『日本の名レース100選 Vol.001 '76 F1イン・ジャパン』 2006年、イデア
  • 『F1 MODELING-1976富士F1グランプリ(All about Formula One Grand Prix in) 』 東邦出版、2008年
  • 大串信 「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」『モデルグラフィックス』2009年12月号、大日本絵画
  • 「日本レース史の断章 解良喜久雄(中編)」『ノスタルジックヒーロー』2011年6月号、芸文社

外部リンク